施設に入れることを昭夫は提案した。金は自分が負担する、ともいった。だが同席していた春美は、呆《あき》れたように失笑した。
「兄さん、何にもわかってないのね。そんなこと、とっくの昔に考えたわよ。ケアマネージャーに相談して、探してもらった。でもね、断られたの。どこの施設も引き受けてくれなかったの。だからこんな状態になっても、おかあさんが看《み》るしかないんじゃない」
「どうして断られるんだ」
「お父さんは元気すぎるの。元気な子供と同じ。大きな声を出して、ところかまわず走ったり暴れたりする。それでも子供みたいによく眠るんならいいけど、夜中に起きて動き回ることもしょっちゅう。そういう人を入れると、一人がつきっきりにならなきゃいけないでしょ。ほかのお年寄りに迷惑もかかる。ホームとしては断るのが当然なの」
「だけどそれじゃあ施設の意味がないじゃないか」
「あたしにいわないでよ。とにかく今も施設は探している最中だってこと。何しろ、デイサービスだって断られたんだから」
「デイサービス?」
そんなことも知らないのか、という目で春美は昭夫を見た。
「日中だけ面倒をみてくれる施設よ。係の人がおとうさんをお風呂に入れようとしたら、突然暴れてほかのお年寄りの椅子を倒しちゃったんだって。幸い、その人に怪我はなかったんだけど」
そんなにひどいのか、と昭夫は暗澹《あんたん》たる気分になった。
「とりあえず見つかったところはあるんだけど病院なの。それも精神科」
「精神科?」
「兄さんは知らないだろうけど、今、週に二度通ってるのよ。処方してもらった薬がよかったらしくて、突然暴れたりするのは少なくなった。そこの病院なら受け入れてくれるみたい」
何もかも初めて聞く話だった。自分は当てにされていないのだな、と昭夫は改めて思った。
「じゃあ、その病院に入院させたらどうだ。金は俺が払うし……」
だが春美は即座に首を振った。
「短期入院ならいいけど、長期はだめなの」
「どうして?」
「そこの病院で長期入院が認められるのは、在宅介護が不可能と判断されたケースにかぎられるんだって。おとうさん程度だと、在宅介護が可能だろうってこと。まあ実際、おかあさんがやっているわけだしね。ほかの病院も当たってみようと思ってるけど」
「いいわよ、もう」政恵がいった。「あちこち回って断られて、もう疲れちゃった。おとうさんは長い間家族のためにがんばってくれたんだから、やっぱり家でみてやりたいし」
「だけどそのままだと、お袋、身体を壊すぜ」
「そう思うんなら何とかしてやってよ」春美が睨《にら》んできた。「まあ、兄さんにはどうしようもないんだろうけど」
「……俺も施設とか探してみるよ。知り合いに当たったりして」
そんなこととっくの昔にやったわよ、と春美は吐き捨てるようにいった。
何とかしてやりたいと思いつつ、何も出来ない日々が続いた。諦めているのか、春美や政恵が泣きついてこないので、それをいいことに彼女らの苦労から目をそらしていた。良心の呵責《かしゃく》は、仕事に没頭し、自分にはほかにやるべきことがあると思い込むことでごまかした。実家へ様子を見に行くこともなくなった。
そんなふうにして数ヵ月が経った。章一郎が寝たきりになったということを春美が知らせてきた。意識が混濁しているし、言葉もろくに発せられなくなったという。
「もう長くないと思うから、最後に一度ぐらい顔だけでも見ておいたら?」春美は冷めた口調でいった。
昭夫が行ってみると、章一郎は奥の部屋で寝かされていた。殆ど眠ったままだった。目を開けたのは、政恵が紙おむつを交換する時だった。それでも意識があるのかどうかはわからなかった。その目は何も見ていないようだった。
昭夫は紙おむつの交換を手伝った。自分で動く意思のない人間の下半身はこんなに重いのか、と痛感した。
「お袋、こんなことを毎日やってるのか」思わずいった。
「ずっとやってるわよ。でもね、寝たきりになってくれたおかげで楽になった。前は暴れたりしたから」そう答えた政恵は、前にもまして痩《や》せていた。
虚《うつ》ろな目をしている父親を見て、昭夫は初めて思った。早く逝ってくれないか、と。
口に出すわけにはいかないその希望が叶ったのは、それから半年後のことだった。例によって春美が知らせてきた。
八重子と直巳を連れ、実家に向かった。直巳は物珍しそうにしていた。考えてみれば、赤ん坊の時以来、この家には来ていないのだった。祖父が死んだと聞かされても悲しそうな顔をしなかった。ろくに会ったこともないのだから当然といえた。
章一郎は、夜のうちに息を引き取ったということだった。だから最期の様子を政恵は見ていないわけで、それが心残りだと彼女はいった。もっとも、仮にずっと一緒にいたところで、眠っているのだろうと思い、気づかなかったかもしれないけれど、と笑った。
春美は八重子が詫《わ》びないことに腹を立てていた。何の手伝いもしなかったことについて、形だけでも政恵に謝ってほしいのにと昭夫にいった。
「おとうさんが死んでから来るなんて、ちょっとおかしいんじゃないの。うちの家が嫌なら、ずっと来なきゃいいのよ」
すまん、と昭夫は謝った。
「俺からよくいっておくよ」
「いいわよ、いわなくて。というか、どうせ、いわないんでしょ」
図星だったので、昭夫は黙り込んだ。
ともあれ章一郎の死は、昭夫が長年抱えていた悩みを解決してくれた。法事をすべて終えた時、彼は久しぶりに心の底から解放感を味わった。
しかし気持ちが安らいでいる時間はそれほど長くなかった。章一郎が死んで三年ほどが経った頃、今度は政恵が怪我をした。年末の掃除をしていて、転んで膝の骨を折ったのだ。
高齢なことに加えて、複雑骨折だった。手術をしたが、元のようには歩けなくなった。外出するには杖が必需品で、家の階段の上り下りは不可能だった。
そんな状態では、とても独り暮らしなどさせていられない。ついに昭夫は同居を決心した。
だがもちろん八重子は難色を示した。
「あたしには面倒をかけないといったじゃないの」
「一緒に暮らすだけだ。面倒はかけない」
「そんなことありえないわよ」
「足が悪いだけで、大抵のことは全部自分で出来るんだ。八重子が嫌だというなら、食事だって別でいい。足の悪い母親を一人でほうっておいたら、周りから何といわれるかわからないだろ」
散々話し合った結果、ようやく八重子は折れた。しかし昭夫に説得されたというより、一戸建てのマイホームを手に入れるにはこれしかない、という計算が働いたといったほうがいいかもしれない。不況が長引いたせいで昭夫の給料は長年据え置かれたままになっている。かつては夢見たマイホーム購入は、もはや絶望的な状況だった。
「あたし、同居しても自分のスタイルを変える気はないから」八重子はこういって引っ越しを承諾したのだった。
約三年前、前原一家は昭夫の実家に移った。同居を前に、いくつか改装工事も行ってあった。内装の新しい部屋に入り、「やっぱり広い部屋はいいわね」と八重子は満足そうにいった。さらには驚いたことに、「これからよろしくお願いします」と政恵に頭さえ下げたのだ。
こちらこそよろしく、と玄関の前で答えた政恵も嬉しそうだった。彼女は杖をついていた。彼女が身振り手振りで家のことを話すたびに、杖についている鈴が楽しそうに鳴った。
これなら大丈夫、何とかなりそうだ──昭夫も安堵《あんど 》した。
すべてが解決した、と思っていた。もう悩むことはない、と。
だがそうではなかった。その日は新たな苦悩が始まる日だったのだ。
4
暗い回想をしている間に電車は駅に到着した。昭夫は乗客の波に押されるようにしてホームに出た。
駅の階段を下りると、バスの停留所には長い列がいくつも出来ていた。彼はその中の一つに並ぼうとして足を止めた。すぐ横のスーパーマーケットの前で、くず餅《もち》の特売を行っていたからだ。政恵の好物だった。
「いかがですか」売り子の若い女性がにこやかに声をかけてきた。
昭夫は上着の内ポケットに手を入れ、財布を掴んだ。しかし同時に八重子の不機嫌そうな顔も浮かんだ。家でどんなトラブルが起きたのかは不明だ。そんな時に政恵の好物を持ち帰って、火に油を注ぐようなことにでもなったら目も当てられない。
「いや、今日はやめておくよ」詫びるようにいい、その場を離れた。
すると彼と入れ替わるように、三十歳ぐらいの男がくず餅の売り子に近づいた。
「すみません、ピンク色のトレーナーを着た女の子を見ませんでしたか。七歳なんですけど」
奇妙な質問に、昭夫は立ち止まって振り返った。男性は写真を売り子に見せている。
「これぐらいの身長で、髪は肩ぐらいまでです」
売り子の女性は首を捻った。
「女の子が一人なんですよね」
「そのはずです」
「じゃあ、見なかったと思います。すみません」
男性は失望した様子で礼を述べると、そこから離れた。そしてスーパーマーケットのほうへ歩いていった。同様の質問を繰り返すつもりなのだろう。
迷子らしいな、と昭夫は察した。七歳の女の子が、この時間になっても家に帰らないのなら、心配して駅まで探しにくるのも当然だろう。あの男性はこの近くに住んでいるに違いない。
ようやくバスが来た。列に従って昭夫も乗り込んだ。バスも混み合っていた。どうにか吊革を確保した時には、先程の男性のことは忘れていた。
バス停まで約十分間バスに揺られ、昭夫はそこからさらに五分ほど歩いた。一方通行の道が碁盤の目のように走っている住宅地だ。バブル景気の頃は、三十坪程度の家が一億円の値をつけた。あの時に何とか両親を説得して家を売っておけば、と今でもまだ悔いている。一億円あれば、介護サービス付きの老人用マンションに二人を入れることができた。残った金を頭金にすれば、昭夫たちも念願のマイホームを手に入れられたかもしれない。そうしていれば、今のような状況にはならなかっただろう。もはやどうしようもないとわかりつつ、考えずにはいられなかった。
昭夫が売りそびれた家の門灯は消えていた。錆《さび》の浮いた門扉《もんぴ 》を押し開き、玄関のドアノブを捻った。だが鍵がかかっている。珍しいこともあるものだと思いながら、自分の鍵を取り出した。戸締まりにはいつもうるさくいうのだが、八重子がきちんと施錠していることはめったにない。
家の中はやけに暗かった。廊下の明かりが消えているからだ。一体何をしてるんだ、と昭夫は思った。人の気配がまるでなかった。
靴を脱いでいると、すぐそばの襖《ふすま》がすっと開いた。ぎくりとして彼は顔を上げた。
八重子が緩慢な動作で出てきた。黒のニットを着て、デニムのパンツを穿《は》いている。家にいる時、彼女はめったにスカートを穿かない。
「遅かったのね」けだるいような口調で彼女はいった。
「電話の後、すぐに会社を出たんだけど──」そこまでいったところで声を途切れさせた。八重子の顔を見たからだ。顔色が悪く、目が充血している。その目の下には隈《くま》が出来ており、急に老け込んだように見えた。
「何があったんだ」
だが八重子はすぐには答えず、ため息を一つついた。乱れた髪をかきあげ、頭痛を抑えるように額に手をあててから、向かいのダイニングルームを指差した。「あっちよ」
「あっちって……」
八重子がダイニングルームのドアを開けた。そこも真っ暗だった。
かすかに異臭が漂っている。キッチンの換気扇が回っているのはそのせいだろう。臭いの原因を尋ねる前に、昭夫は手探りで明かりのスイッチを入れようとした。
「点《つ》けないでっ」小声だが厳しい口調で八重子がいった。昭夫はあわてて手を引っこめた。
「どうしたんだ」
「庭を……庭を見て」
「庭?」
昭夫は鞄をそばの椅子に置き、庭に面したガラス戸に近づいていった。カーテンがぴったりと閉じられている。彼はおそるおそるカーテンを開けた。
庭は形だけのものだった。一応芝生を敷いてあり、植え込みなどもあるが、二坪ちょっとというところだ。むしろ裏庭のほうに面積を取ってある。そちらが南になるからだ。
昭夫は目を凝《こ》らした。ブロック塀《べい》の手前に黒いビニール袋が見える。変だなと思った。今では黒いビニール袋をゴミ捨てに使うことはない。
「なんだ、あの袋は」
彼が訊くと、八重子はテーブルの上から何か取り上げ、無言で彼のほうに差し出した。
それは懐中電灯だった。
昭夫は八重子の顔を見た。彼女は目をそらした。
彼は首を傾げ、ガラス戸のクレセント錠を外した。戸を開け、懐中電灯のスイッチを入れる。
照らしてみると、何かの上に黒いビニール袋をかぶせてあるだけのようだった。彼は腰を屈《かが》め、その下にあるものを覗《のぞ》き込んだ。
白い靴下を履《は》いた、小さな片足が見えた。もう一方の足は、同じように小さな運動靴を履いていた。
何秒間か、昭夫の頭は空白になっていた。いや、それほど長い時間ではなかったかもしれない。とにかく彼は、そこにそんなものがあることの意味を咄嵯《とっさ 》には理解できなかった。小さな足に見えるそれが、実際に人間の足なのかどうかということも、確信が持てないでいた。
昭夫はゆっくりと振り返った。八重子と目が合った。
「あれは……何だ」声がかすれた。
八重子は唇を舐《な》めた。口紅はすっかり剥《は》げ落ちている。
「どこかの……女の子」
「知らない子か」
「そう」
「どうしてあんなところに?」
答えず、八重子は目を伏せた。
昭夫は決定的なことを訊かねばならなかった。
「生きてるのか」
八重子が頷《うなず》くことを願った。だが彼女は無表情のまま、ぴくりとも動かない。
全身が一瞬にして熱くなるのを昭夫は感じた。そのくせ手足は氷のように冷たい。
「どういうことだ」
「わからない。あたしが帰ってきたら、庭に倒れてたのよ。それで、人目についちゃいけないと思って……」
「ビニール袋をかけたのか」
「そうよ」
「警察には?」
「知らせるわけないでしょ」
反抗的ともいえる目で見返してきた。
「だけど、死んでるんだろ」
「だから……」彼女は唇を噛《か》んで横を向いた。苦痛そうに顔を歪めている。
突然、昭夫は事態を理解した。妻の憔悴《しょうすい》の理由も、「人目についちゃいけないと思って」の意味も判明した。
「直巳は?」昭夫は訊いた。「直巳はどこにいる」
「部屋にいるわ」
「呼んでこい」
「それが、出てこないのよ」
目の前が絶望的に暗くなった。少女の死体と息子は、やはり無関係ではないのだ。
「何か訊いたのか」
「部屋の外から少し……」
「どうして部屋に入っていかない?」
だって、といって八重子は上目遺いに昭夫を見た。恨めしそうな色がある。
「まあいい。何といって訊いたんだ」
「あの女の子は何って……」
「あいつ、何といってる?」
「うるさいって。どうでもいいだろって」
直巳がいいそうなことではある。その時の声の感じまで昭夫には想像できた。しかし、こんな状況でもそんな物言いしかできないのかと思うと、あれが自分の息子とは信じたくない気分だった。
「寒い……閉めてもいい?」八重子はガラス戸に手をかけた。庭のほうを見ないようにしているようだ。
「本当に死んでるのか」
八重子は黙ったまま頷いた。
「たしかか? 気を失ってるだけじゃないのか」
「もう何時間も経ってるのよ」
「だけど」
「あたしだって、そう思いたかったわよ」絞り出すような声で彼女はいった。「でも、一目見て、わかったんだもの。あなただって、すぐにわかったわよ」
「どんなふうだった」
「どんなふうって……」八重子は額に手を当て、その場にしゃがみこんだ。「この床が、おしっこで汚れてた。あの女の子が漏らしたみたい。女の子は目を開けたままで……」それ以上は続けられないらしい。嗚咽《お えつ》が漏れた。
異臭の理由を昭夫は悟った。たぶん女の子は、この部屋で死んだのだ。
「血は出てなかったか」
八重子は首を振った。「出てなかったと思う」
「本当か。血は出ていなくても、どこかに傷とかはなかったか。転んで頭を打ったような形跡とか」
事故であってほしいと彼は願っていた。だが八重子は再びかぶりを振った。
「そういうのは気がつかなかった。でも、たぶん……首を絞めたんじゃないかしら」
胸に鈍痛が走るほど、心臓が大きく跳《は》ねた。昭夫は唾《つば》を飲み込もうとしたが、口の中は乾いていた。首を絞めた? 誰が? ──。
「どうしてわかる?」
「何となく……よ。首を絞められた死体は、おしっことかを漏らしてることがあるって聞いたことがあるし」
それは昭夫も知っていた。テレビドラマで見たか、小説で読んだかしたのだろう。
懐中電灯が点けっ放しになっていた。彼はスイッチを切り、テーブルに置いた。そのままドアに向かった。
「どこへ行くの?」
「二階だ」
決まってるだろう、という言葉は飲み込んだ。
一旦廊下に出て、古い階段を上がっていった。階段の明かりも点いていない。しかし昭夫はスイッチを入れる気にはなれなかった。暗闇の中で、息をひそめていたかった。先程、明かりを点けるなと叫んだ八重子の気持ちが、よくわかる。
階段を上がって左側が直巳の部屋だった。ドアの隙間《すきま 》から明かりが漏れている。近づくと、何やら賑《にぎ》やかな音が聞こえてきた。昭夫はドアをノックした。返事はなかった。彼は一瞬ためらった後、ドアを開いた。
直巳は部屋の中央で胡座《あぐら》をかいていた。まだ大人になりきらない身体は、手足が異様に細長い。両手で持っているのはゲーム機のコントローラだ。彼の目は一メートルほど前にあるテレビ画面に向いたままだった。父親が入ってきたことにさえ気づいていないように見えた。
「おい」昭夫は中学三年の息子を見下ろして呼びかけた。
だが直已は反応しなかった。指先だけが細かく動いている。画面ではコンピュータによって作られたリアルな登場人物たちが殺戮《さつりく》を繰り返していた。
「なおみっ」
昭夫が強い口調で呼ぶと、ようやく彼は首をほんの少し捻った。舌打ちをする気配がある。うるせえな、と呟いたようだ。
「あの子供は一体何だ」
直巳は答えない。苛立ったように指だけを動かしている。
「おまえがやったのか」
直巳の唇の端が、引きつるように動いた。
「わざとやったんじゃねえよ」
「当たり前だ。どうしてあんなことになったんだ」
「うるせえなあ、知らねえよ」
「知らないなんてことがあるか。おい、ちゃんと答えろ。あの子はどこの子だ。どこから連れてきた」
直巳の息が荒くなった。だがやはり何も答えようとはしなかった。目を見開き、必死でゲームにのめり込もうとしている。厄介な現実から逃げたがっているようだ。
昭夫は立ち尽くしたまま、一人息子の茶色い頭を見下ろしていた。テレビモニターからは派手な効果音や音楽が流れてくる。キャラクターたちの悲鳴や怒声も混じっている。
息子の手からコントローラを奪いたかった。テレビの電源を切ってしまいたかった。だがこんな時でも昭夫にはそれができなかった。前に一度、そういうことをしたら、直巳が半狂乱になって家中のものを壊したことを覚えているからだ。力ずくで組み伏せようとしたら、逆にビール瓶で殴りかかってきた。ビール瓶は昭夫の左肩に振り下ろされた。おかげで約二週間、彼は左腕を使えなかった。
昭夫は息子のベッドの横を見た。DVDやマンガ雑誌が山積みされている。あどけない顔の少女が淫《みだ》らな格好をしている表紙が見えた。
背後で物音がした。振り返ると八重子が廊下から顔を出していた。
「直君、おかあさんたちに話をしてちょうだい。お願いだから」
媚《こ》びたような調子。何が「直君」だ、と昭夫は苛立った。
直巳が何もいわないので、八重子は部屋に入ってきて、彼の後ろに座った。右肩に手を置く。
「ね、お願いだから、わけを聞かせて。ゲームはそれぐらいにして」
彼女は息子の肩を軽く揺すった。その途端、モニターに何かが破裂するような画面が出た。ああ、と直巳は声をあげた。ゲームオーバーのようだ。
「何すんだよっ」
「直巳っ、いい加減にしろ。何が起きたかわかってるのか」
思わず昭夫が怒鳴ると、直巳は手にしていたコントローラを床に放り出した。口元を曲げ、父親を睨みつけてくる。
「あっ、やめなさい。あなたも、そんな、大きな声を出さないで」八重子は直巳をなだめるように両肩に手を置き、昭夫のほうを見上げた。
「説明しろといってるんだ。あのままにしておいて済むと思ってるのか」
「うるせえよ、関係ねえだろ」
ほかに言葉を知らないのか、と昭夫は興奮した頭の片隅で考えていた。とんでもないばかだ。
「わかった。じゃあ、何もいわなくていい。警察に行こう」
彼の言葉に母と息子は同時に固まった。
八重子が目を剥いた。「あなた……」
「だって仕方がないだろう」
「ふざけんなよ」直巳が暴れ出した。「なんで俺がそんなとこ行かなきゃいけねえんだよ。行かねえぞ、俺は」そばにあったテレビのリモコンを掴み、昭夫に向かって投げつけた。昭夫がよけると、リモコンは壁に当たって落ちた。その拍子に中の電池が飛び出し、散らばった。
「あっ、あっ、直君、落ち着いて、お願い、おとなしくして」八重子は抱きつくようにして直巳の手を押さえた。「行かなくていいから。警察なんか、行かなくていいから」
「何をいってる。そんなわけにいかんだろう。適当なことをいって、今だけこいつをなだめても無意味だぞ。どうせいずれは──」
「あなたは黙っててっ」八重子は叫んだ。「とにかく出ていって。あたしが訊くから。ちゃんと訊くから」
「俺は未成年なんだからな。未成年のやったことは親に責任があるんだからな。俺は知らねえからな」
母親の身体に守られた状態で、直巳は喚《わめ》き、昭夫を睨んでいた。その顔に反省や後悔の色など微塵もない。どんな時でも自分は悪くなく、すべての責任は周りの人間にあるのだと甘え続けてきた顔だ。
これ以上何かいっても、直巳が心を開くとは思えなかった。
「しっかり聞き出すんだぞ」それだけいって昭夫は部屋を出た。
5
階段を下りると、ダイニングルームではなく、廊下を挟んだ向かい側の和室に入った。昭夫が帰宅した時、八重子が出てきた部屋だ。テレビと座卓と小さな茶箪笥《ちゃだんす 》があるだけの殺風景で狭い部屋だが、彼が唯一落ち着ける場所だった。八重子もここで気持ちを静めようとしていたのだろう。
畳に両膝をつき、座卓に片手を載せた。あの死体をもう少しよく見ておかねばと思うが、鉛《なまり》の鎧《よろい》を着たように全身が重かった。ため息も出ない。
直巳の喚き声は聞こえてこなかった。八重子がうまく話を引き出しているのだろうか。
いつもの調子で、まるで幼児の機嫌をとるように話かけているに違いなかった。直巳は小さい頃から癇癪《かんしゃく》持ちだったので、いつの間にかそれが八重子のスタイルになってしまったのだ。昭夫は気に食わなかったが、子育ての大半を彼女に任せてきた以上、うるさいことはいえなかった。
それにしても一体何があったのか。
だが全く想像がつかないわけではなかった。直巳がしたことを、昭夫は漠然と思い描くことができた。二ヵ月ほど前に、八重子からある詰を聞かされていたからだ。
その日の夕方、彼女が買い物から帰ると、庭からダイニングルームへの上がり口で、直巳が近所の女の子と並んで座っていたという。彼はコップを持っていて、女の子に何かを飲ませようとしているところだった。だが八重子を見ると直巳はコップの中身を庭に捨て、女の子を帰した。それだけならば問題はない。だが後で八重子が調べてみると、日本酒の瓶を触った形跡があった。
女の子を酔わせて、悪戯《いたずら》しようとしていたのではないか、と彼女はいうのだった。
まさか、と昭夫は笑ってみせた。冗談として聞き流したかった。しかしそんな彼に八重子は真剣な目をして訴えたのだった。直巳には幼女趣味があるのではないか、と。
「家の前の道を小さな子が通りかかったりすると、じっと見てたりするのよ。それに、この前のお葬式の時、直巳はやたら絵理香《え り か 》ちゃんのそばに行きたがってたでしょう? 相手は小学校に上がったばかりの女の子よ。変だと思わない?」
たしかにそれらの話には、直巳の異常性を感じさせるものがあった。だが昭夫には何ら対策が思いつかなかった。というより、思考が空回りしていたというべきかもしれない。思いもかけなかったことを知らされて、彼自身が混乱していたのだ。何とかしなければという思いより、そんなことは勘違いであってほしいと願う気持ちのほうが強かった。
「とりあえず、様子を見るしかないかな」考えた末に出した答えがそれだった。
八重子がこの答えに満足しているはずはなかった。それでもしばらく沈黙した後、そうねと呟いた。
その日以後、昭夫は、なるべく息子の様子を窺《うかが》ってみることにした。しかし彼が見るかぎり、直巳に幼女趣味のようなものがあるとは思えなかった。もっとも、彼は息子のすべてを見ているとはとてもいえなかった。そもそも顔を合わせることが極《きわ》めて少ないのだ。昭夫が家を出る時には直巳はまだ布団の中だし、会社から帰った時にはすでに部屋に籠《こ》もっている。土曜か日曜の食事時だけが、空間を共有する数少ない時間だった。その時にしても直巳は極力父親の顔を見ないようにし、やむをえず話をしなければならない時でも、最小限以下の言葉で済ませようとした。
直巳がいつからあんなふうになったのか、昭夫は正確には把握していない。多少感情の起伏が激しくはあったが、小学生の時は親のいうこともきいたし、叱れば改める素直さもあった。ところがいつからか、昭夫には手に負えない存在になってしまった。何か注意してもまるで無反応であり、それに苛立ってさらに叱りつけたりすると、今度は逆上して暴れだすという有様だった。
昭夫は息子と接触する機会を減らそうとした。いずれは反抗期も過ぎるに違いないと、自分に都合よく期待していた。
あの時にしても、一人息子に異変が生じているならば何とか早めに芽を摘み取ろう、などという積極性はなかった。むしろ、仮に何らかの問題が発生していたとしても、自分の目の前でだけはその気配を感じさせないでくれと願っていた。
あそこで何か手を打っておけば、と昭夫は空《むな》しい後悔をする。しかし、どんな対策を講じればよかったのだろう。
みしり、と木の軋《きし》む音がした。八重子が階段を下りてくるところだった。口を半開きにし、じっと昭夫を凝視《ぎょうし》しながら部屋に入ってきた。
彼女は座り込むと、ふうーっと息を吐いた。その顔には幾分赤みがさしていた。
「聞いたのか」昭夫はいった。
八重子は夫に横顔を見せたまま頷いた。
「何といってる」
唇を開く前に、八重子は唾を飲んだ。
「首を、絞めたって」
昭夫は思わず目をつぶった。わかっていたことではあるが、万に一つ、何かの間違いであることを夢想していたのだ。
「どこの子だ」
彼女は首を振った。
「知らないといってるわ」
「じゃあ、どこから連れてきたんだ」
「道で会っただけで、自分が連れてきたんじゃなく、勝手についてきたんだって」
「馬鹿な。そんな話を信じたのか」
「信じられないけど……」彼女は後の言葉を呑み込んだ。
昭夫は拳《こぶし》を固め、座卓を叩いた。
直巳は街をぶらつきながら、適当な獲物を探していたのかもしれない。あるいは、彼の好みの少女を見つけた途端、胸の中に巣くっていた魔性の何かが目覚めたのかもしれない。いずれにしても、彼のほうから近づいたに違いなかった。少女の親は、知らない人間には絶対についていくなと日頃から厳しくいっていたと思われるからだ。幼い子供が襲われることの多い昨今、どの親も神経を尖《とが》らせている。
だがまさか自分の息子が襲う側の人間になろうとは──。
直巳が言葉巧みに少女の心を掴もうとしている様子を昭夫は想像した。自分の好きな相手に対する時や、自分の我《わ》が儘《まま》をきいてもらおうとする時、彼が驚くほど優しい物言いをすることを昭夫は知っていた。
「なぜ首を絞めたんだ」
「一緒に遊ぼうと思ったのに女の子がいうことをきかないから、脅かすつもりで絞めたっていってるわ。死なせる気なんかなかったって」
「遊ぶって……中学生が小さい女の子と一体どんな遊びをするつもりだったんだ」
「知らないわよ、そんなこと」
「訊かなかったのか」
八重子は黙っている。訊けるわけがないとその横顔は語っていた。
昭夫は妻を睨みつけながら、訊く必要もないのかもしれないと思った。テレビのニュース番組でしばしば耳にする、「幼い少女に悪戯しようとして」というフレーズを思い出していた。その「悪戯」の内容について詳しく考えたことはなかった。今、こういう局面になっても、考えたくはなかった。
しかし、「脅すつもりで」というのが、たぶん事実と違うことは想像がついた。本性を剥き出しにした直巳の前で、女の子は抵抗し、騒いだのだ。それを防ぐため、彼は少女の首に手をかけた。手加減などしなかったから、少女は動かなくなったのだ。
「どこで殺したんだ」
「ダイニング……」
「あんなところで?」
「一緒にジュースを飲もうとしたって」
そのジュースに酒か何かを仕込むつもりだったのだろう、と昭夫は推測した。
「殺した後、どうしたっていってる」
「女の子がおしっこを漏らしてたから、床が汚れると思って、庭に転がしたって」
それでダイニングルームに異臭が漂っていたらしい。
「……それから?」
「それだけよ」
「それだけ?」
「どうしていいかわからず、部屋に戻ったといってるわ」
昭夫は目眩《めまい》を覚えた。このまま気を失えればどれほど楽かと思った。小さな子供を殺しておいて、気にしたことは床が汚れることだけだったとは──。
だが直巳の頭の中が全くわからないわけではなかった。むしろその時の彼の心境は、昭夫には手に取るように推測できた。直巳は面倒なことになったと思い、その面倒から逃れるために部屋に籠もったのだ。先々のことなど考えているはずがない。とにかく女の子の死体をああしておけば、父や母が何とかするだろうと思ったのだ。
茶箪笥の上に電話の子機が置いてある。昭夫はそれに手を伸ばした。
「何するのっ」八重子が声を上げた。
「警察に電話する」
「あなた……」
電話を持つ昭夫の腕に彼女はしがみついてきた。その手を彼はふりほどいた。
「仕方がないだろう。もう取り返しがつかないんだよ。あれじゃあどう見たって、女の子は生き返らない」
「でも、だって、直巳が」八重子は諦めずに取りすがってきた。「あの子の将来はどうなるの? 人殺しってことで、一生生きてかなきゃならないのよ」
「しょうがないじゃないか。やってしまったんだから」
「あなたはそれでいいの?」
「よくはない。だけどほかにどういう方法があるっていうんだ。自首させれば、まだ未成年だし、更生するチャンスだって与えられる。名前も公表されない」
「そんなこと嘘よっ」彼女は険しい目をした。「新聞とかには名前は出ないかもしれないけど、このことは一生ついてまわるのよ。あの子がまともな人生を送れるとは思えない。きっと、ひどいことになるわ。めちゃくちゃになっちゃうわ」
もうすでに俺の人生はひどいし、めちゃくちゃだよと昭夫はいいたかった。だがそれを口にする気力もなく、彼は子機のボタンを押そうとした。
「あっ、やめて」
「諦めろ」
むしゃぶりついてくる八重子の胸を、昭夫はどんとひと突きした。彼女は後ろに倒れ、茶箪笥に肩をぶつけた。
「もう、おしまいなんだよ」昭夫はいった。
八重子は放心した顔で夫を見返すと、茶箪笥の引き出しを開けた。そのまま手探りで何かを取り出してきた。それが先の尖った鋏《はさみ》であることに気づき、昭夫は息を呑んだ。
「何をする気だ」
彼女は鋏を握りしめ、その先端を自分の喉元に当てた。
「お願い。電話しないで」
「馬鹿なことをするな。気でも狂ったのか」
鋏を構えたまま、彼女は激しくかぶりを振った。
「脅かしでやってるんじゃないわよ。本当に死ぬ気なんだから。あの子を警察に渡すくらいなら、このまま死んだほうがまし。後のことはあなたに全部任せる」
「やめろ、鋏をはなせ」
しかし八重子は歯を食いしばったままで、姿勢を変えなかった。
まるで安手のドラマじゃないか、と昭夫はふと思った。人殺しなどという深刻な事態が絡《から》んでいなければ、あまりに芝居がかった態度に失笑を漏らしていたかもしれない。まさかこの局面で彼女が自分に陶酔しているとは思えなかったが、これまでに目にしてきたテレビドラマや小説が、彼女にこうした行動を思いつかせたことは間違いなさそうだった。