八重子が本当に死ぬ気なのかどうか、昭夫は見極められなかった。仮に現時点では本気でなくても、それを見破られたことで逆上し、衝動的に喉を突いてしまうことは避けねばならない。
「わかった。俺は電話を置くから、おまえも鋏を離せ」
「いや。あたしがこれを離したら、電話する気でしょう」
「しないといってるだろ」昭夫は子機を元の場所に戻した。
だが信用できないのか、八重子は鋏を置こうとしない。疑念のこもった目を夫に向けてくる。昭夫は吐息をつき、畳の上に胡座をかいた。
「どうする気なんだ。このままじゃ済まないぞ」
しかし八重子は答えない。このままではどうしようもないことは彼女にもわかっているはずだった。少女の家も騒ぎ出しているだろう。
そう思った時、駅前にいた男性のことが蘇《よみがえ》った。
「女の子の服、見たか?」昭夫は訊いた。
「服?」
「ピンクのトレーナーを着てなかったか」
ああ、と声を漏らしてから、八重子は小さく首を振った。
「トレーナーかどうかはわからないけど、ピンク色だった。それがどうかしたの?」
昭夫は髪に手を突っ込み、頭をがりがりと掻いた。そして駅前で見たことを八重子に話した。
「あれはたぶん父親だろう。あの様子からすると、早々に警察にだって届けてるかもしれない。おまわりがこのあたりを見回りに来たら、すぐに見つかっちまう。どの道、逃げられないんだ」それにしても、と彼は続けた。「あの人が探してた女の子が、うちにいるとはな。しかもあんな姿で……」
顔はよく見ていないが、くず餅の売り子に尋ねていた男性の背中には、必死の思いが漂っていた。今日まで娘を大事に育ててきたに違いない。そんなことを思うと、あまりの申し訳なさに胸がつぶされそうだった。
八重子は鋏を両手で握りしめたままだった。その格好で何か呟いた。声が小さくて聞こえなかった。
「えっ、何だって?」昭夫は訊いた。
彼女は顔を上げていった。「捨ててきて」
「えっ……」
「あれを」唾を飲み込み、続けた。「どこかに捨ててきて。あたしも手伝うから」
お願いします、と最後に頭を下げた。
昭夫は大きく息を吐き出した。
「おまえ、それ、本気でいってるのか」
八重子は頭を下げたまま動かない。彼が同意するまでは、石になっているつもりのようだった。
昭夫は呻《うめ》いた。呻き声の後に、「無茶だよ、それは」と続けた。
八重子の背中が小刻みに震えていた。しかし顔を上げようとはしない。
無茶だ──昭夫は口の中で繰り返した。だがそう呟きながら、彼女のこの提案をじつは自分も待っていたことを自覚していた。そのことはずっと頭の隅にこびりついていたが、敢《あ》えて目をそらし、考えまいとしてきたのだ。考え始めれば、たやすくその誘惑に負けてしまいそうで怖かった。
そんなことはできるわけがない、うまくいくはずがない、かえって自分たちを追い込むだけだ──理性的な反論が頭の中を駆け巡っていた。
「どうせ」八重子が俯《うつむ》いたままでいった。「どうせ、あたしたちはおしまいよ。あの子を自首させたところで、もうまともに生きていくことなんてできやしない。あたしたちはあの子をあんなふうに育てた罪を償わされる。自首させたって、誰もあたしたちを許してなんかくれない。あたしたちは何もかも失うのよ」
読経《どきょう》のように抑揚のない口調だった。混乱が極限に達しているから、感情を込めることさえできないのだろう。
しかし彼女のいうことは事実かもしれなかった。いやおそらくそのとおりだろうと昭夫も思った。たとえ直巳に自首させたところで、自分たちが人から少しでも同情される余地など全くない。殺された女の子には何の罪もないのだ。
「捨てるといったって、そんなこと、無理だろ」昭夫はいった。この台詞が重大な一歩だということはわかっていた。無理という一言は、拒絶とは違うのだ。
「どうして?」彼女は訊いてきた。
「どうやって運ぶんだ。遠くになんて行けないぞ」
昭夫は運転免許証を持っていたが、車を所持していなかった。古いこの家に駐車スペースがなかったからというのが主な理由だ。また、八重子はともかく昭夫は、マイカーの必要性をさほど感じたことがなかった。
「だったら、どこかに隠すとか……」
「隠す? この家のどこかに隠せっていうのか」
「一時的によ。その後、じっくりと処分すれば……」
八重子の言葉の途中から昭夫は首を振り始めていた。
「だめだ。やっぱりだめだ。あの女の子と直巳が一緒にいるところを、誰かに見られてるかもしれないじゃないか。もしそうだったら、警察はすぐにうちに来る。家の中だって調べられるだろう。死体が見つかったら、どうにも言い訳できない」
昭夫は再び茶箪笥の上の電話機に目を向けた。無意味な議論をしているような気がしていた。警察がここへ来るからには、死体がどこで見つかろうと同じだと思った。彼等の疑念を払拭《ふっしょく》させられる自信などまるでなかった。
「今夜中に移せば、何とかなるかもしれない」八重子が口を開いた。
「えっ……」
彼女が顔を上げた。
「遠くじゃなくてもいいから、どこか別のところに移せば……別のところで殺されたように見せかけて」
「別のところって?」
「それは……」八重子は答えを出せぬまま項垂《うなだ 》れた。
その時、昭夫の背後でかすかに衣擦《きぬず 》れの音がした。彼はぎくりとして振り返った。
廊下に落ちた影が動いていた。政恵が起きてきたらしい。調子の狂った鼻歌が聞こえる。昔の童謡らしいが、昭夫は題名を知らない。トイレのドアが開き、中に入っていく気配がした。
「こんな時に」顔を歪め、八重子が呟いた。
昭夫たちが沈黙する中、間もなくトイレの水が流された。ドアの開閉する音。そして素足で廊下を歩く、ひたひたという音が、遠ざかっていく。
水の流れる音は続いていた。奥の間の襖が閉じられると同時に八重子は立ち上がった。廊下に出て、トイレのドアを開ける。水の音は止まった。手洗い用の蛇口が開けっ放しになっていたのだろう。いつものことだ。
ばんと大きな音をたて、八重子はトイレのドアを閉めた。昭夫はぎくりとした。
彼女は壁にもたれ、そのまま崩れるように廊下にしゃがみこんだ。両手で顔を覆い、吐息をついた。
「もう最悪。死んじゃいたい」
俺のせいなのか──喉元まで出かかったその言葉を昭夫は呑み込んだ。
彼は赤茶色に変色した畳に目を落とした。その畳が青かった頃のことを覚えていた。彼はまだ高校を出たばかりだった。親父はあんなに一生懸命に働いて、この程度の家しか建てられないのか。そんなふうに父親を内心で罵《ののし》っていた。
しかし、と昭夫は思う。自分は果たして何をしてきただろう。馬鹿にした小さな家に戻ってきて、まともな家庭さえも築けないでいる。それだけならまだしも、他人の家庭まで不幸にしてしまった。その要因を作り出してしまった。
「公園はどうかな」彼はいった。
「公園?」
「そこの銀杏《いちょう》公園だ」
「あそこに死体を?」
「うん」
「放り出しておくの?」
「いや」彼は首を一度振った。「公衆トイレがあっただろう。あそこの個室に隠しておこうかと思う」
「トイレに……」
「それなら、うまくすれば発見が遅れるかもしれない」
「そうね。いいかもしれない」八重子が四つん這《ば》いで部屋に入ってきた。彼の顔を覗き込んできた。「いつ、運ぶ?」
「夜中だ。二時頃……かな」
昭夫は茶箪笥の上の時計を見た。まだ八時半を少し過ぎたところだった。
押入から畳んだ段ボール箱を引っ張りだした。三ヵ月前に乾燥機を買った時のものだ。電器屋が取り付けに来た時、箱は置いていってくれと頼んだ。余った座布団を入れておくのにちょうどいいと八重子がいったからだ。結局、箱は使わなかったのだが、こんなことに役立つとは、その時の昭夫は夢にも思わなかった。
彼はそれを持って、庭に降り立った。箱を組み立ててから、黒いビニール袋をかぶせたままの、少女の死体の横に置いた。見たところでは、うまく入りそうに思えた。
昭夫は段ボール箱を再び畳み、部屋に戻った。八重子はダイニングチェアに腰掛け、両手で顔を抱えている。乱れた髪が落ちて、顔はよく見えない。
「どうだった?」その姿勢のまま、彼女が訊いてきた。
「うん……入りそうだ」
「入れてないの?」
「だって、まだ時間が早いだろう。庭でごそごそしていて、誰かに見られたりしたらまずいじゃないか」
八重子の首が少し動いた。時計を見たらしい。そうね、とかすれた声で答えた。
昭夫は喉が渇いていた。ビールを飲みたいと思った。いや、もっと強い酒でもいい。少し酔って、今の重苦しさから解放されたかった。だが無論、今酔うわけにはいかない。これから重大な仕事をしなければならないのだ。
彼は煙草に火をつけた。たて続けに煙を吸い込んだ。
「直巳は何をしてるんだ」
八重子は小さく頭を振った。わからない、という意味だろう。
「部屋へ行って、様子を見てきたらどうだ」
八重子はふうーっと長いため息をつき、ようやく顔を上げた。目の周囲が真っ赤だった。
「今はそっとしておきましょうよ」
「だけど、もっといろいろと話を聞かないと。詳しいことを」
「何を訊くのよ」妻は顔を歪めた。
「だから、女の子と一緒のところを誰かに見られなかったかとか、そういうことだ」
「そんなこと、今さら訊いたってしょうがないじゃない」
「なんでだ。さっきもいっただろう。誰かに見られてたら、そんなことはすぐに警察に伝わるぞ。刑事が来て、直巳に問い質すことになる。それからあわてても遅いだろうが」
「刑事が来ても」八重子は黒目だけを斜め下に向けた。「あの子には会わせない」
「そんなことが通ると思ってるのか。余計怪しまれるだけだ」
「じゃあ、何も知らないっていわせる。女の子のことなんか知らないといい張れば、刑事だってそれ以上は何もできないでしょ」
「そんな簡単にいくもんか。もし目撃者が、直巳に間違いなかったと主張したらどうなる。警察は簡単に引き下がったりしないぞ。それどころか、直巳が女の子といる時に、誰かに声をかけられてたらどうする。声をかけられて、返事でもしてたらどうだ。言い逃れできないぞ」
「そんなふうに、もし、なんていう架空の話ばっかりしてたって意味ないじゃない」
「だからあいつにきちんと話をさせろといってるんだ。誰かに会わなかったかどうかだけでもはっきりさせないと」
昭夫の話がもっともだと思ったのか、八重子は口をつぐんだ。無表情になり、ゆっくりと立ち上がった。
「どこへ行くんだ」
「二階よ。直巳に訊いてくる。誰かに会わなかったかって」
「本人にここでしゃべらせろ」
「そんなことしなくたっていいでしょ。あの子だってショックを受けてるんだから」
「それなら余計に──」
昭夫が話すのを無視し、八重子はダイニングルームから出ていった。スリッパをひきずる音をたてながら廊下を歩く。だが階段を上がり始めると、音は急に小さくなった。直巳を刺激しないように配慮しているらしい。どこまで息子の顔色を窺ったら気が済むんだ、と昭夫は忌々《いまいま》しく思った。
煙草の火をひねり潰すように消し、乱暴に立ち上がると、冷蔵庫の扉を開けた。缶ビールを取り出すと、立ったまま飲み始めた。
足元にスーパーの袋が置いてあった。八重子はスーパーから帰ってきて、少女の死体を見つけたのだろう。動転して、買ってきたものを冷蔵庫に入れるのも忘れたようだ。
袋には野菜と挽肉が入っていた。またハンバーグを作るつもりだったらしい。直巳の好物だ。そのほかにパック入りの惣菜が人っていた。野菜の煮物だ。八重子はここ何ヵ月も、夫のためには料理をしていない。
足音が聞こえてきた。ドアを開け、八重子が入ってきた。
「どうだった」昭夫は訊いた。
「誰にも会ってないって」彼女は椅子に座った。「だから、もし刑事が来て何か訊かれても、僕は何も知りませんって答えるようにいっておいたわ」
昭夫はビールをぐびりと飲んだ。
「刑事が来るってことは、何か根拠があるからだ。それなのに、何も知りませんで通用するわけがないだろ」
「通用しなくても、とにかく何も知らないといい張らせるしかないじゃない」
昭夫は、ふんと鼻を鳴らした。
「あいつにそんなことができると思うか」
「そんなことって?」
「刑事相手に嘘をつき続けることだよ。刑事ってのは、ふつうの人間じゃないんだぞ。人殺しを何人も見てきて、そんな連中を取り調べてきた人間だ。そんな奴らに睨まれたら、直巳なんか、一発でびびっちまうよ。俺たち相手には強がるが、あいつは本当はいくじのない弱虫なんだ。おまえだってわかってるだろ」
八重子は答えない。夫のいうとおりだと思っているのだろう。
「あんなふうになったのは、おまえが甘やかすからだ」
「あたしのせいだっていうの?」八重子は目を剥いた。
「おまえが何でもいいなりになるから、堪《こら》え性《しょう》ってものがまるでなくなったんじゃないか」
「よくいうわね。あなたなんか何もしないで、面倒なことからはいつだって逃げるくせに」
「俺がいつ逃げた」
「逃げたじゃないの。六年生の時のこと、覚えてる?」
「六年生?」
「ほら、もう忘れてる。いじめに遭ってた時よ。あなた、直巳を叱ったわよね。男の子なら黙ってないでやり返せとかいって。学校に行きたくないという直巳を、無理やり引っ張っていったでしょ。あたしはやめてっていったのに」
「あいつのためだと思ったからだ」
「違う。あなたは逃げただけよ。あんなことしたって、何の解決にもならなかった。直巳はね、あの後もずっといじめられてたのよ。先生がいじめグループに注意したから、それまでみたいに暴力は受けなかったけど、卒業までずっとクラスでは仲間はずれ、誰も口をきいてくれないし、無視され続けてたの」
初めて聞く話だった。直巳が学校に通うようになっていたから、いじめは解消されたのだと思っていた。
「どうして俺にいわなかった」
「直巳がいわないでくれっていったからよ。あたしも話さないほうがいいと思った。だってあなた、どうせあの子を叱るだけだもの。あなたにとっては、家族なんて面倒くさいだけなんでしょ」
「何いってるんだ」
「そうじゃないの。特にあの頃は、どっかの女に夢中で、家のことなんかほったらかしだったくせに」八重子は昭夫を恨めしそうに睨んだ。
「まだそんなこといってるのか」昭夫は舌打ちをした。
「いいわよ。女のことはもういいわよ。あたしがいいたいのは、外で何をやってようと、家のことぐらいはきちんとしてってこと。あなたはあの子のこと、何もわかっちゃいない。この際だからいうけど、今だってあの子は学校ではひとりぼっちなのよ。小学校時代のいじめグループが昔のことをいいふらすから、誰も友達になろうとしない。そんなあの子の気持ちを考えたことがある?」
八重子の目に、再び涙が溜まってきた。悲しみのほかに、悔しさも混じっているのかもしれない。
昭夫は目をそらした。
「もういいよ。やめよう」
自分からいいだしたくせに、と八重子は呟いた。
昭夫はビールを飲み干し、空き缶を握りつぶした。
「警察が来ないことを祈るしかないな。万一警察が来たら……おしまいかもしれないな。その時には、諦めよう」
「いやよ」八重子はかぶりを振った。「絶対にいや」
「だけど、どうしようもないだろ。俺たちに何ができるっていうんだ」
すると八重子は背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を向いていった。
「あたしが自首する」
「えっ?」
「あたしが殺したっていうわよ。そうすれば、直巳は捕まらなくても済む」
「馬鹿なこというなよ」
「じゃあ、あなたが自首してくれるっていうの?」大きく目を見開き、八重子は夫の顔を見つめた。「嫌でしょ? だったら、あたしが自首するしかないじゃない」
昭夫は舌打ちをし、激しく頭を掻いた。頭痛がし始めていた。
「俺やおまえが、どうして小さい女の子を殺すんだ。理由がないじゃないか」
「そんなの、これから考えるわよ」
「じゃあ、いつ殺したっていうんだ。おまえはパートに出てたんだろ。俺にしたってそうだ。いわゆるアリバイってものが、俺やおまえにはあるんだよ」
「パートから帰って、すぐに殺したっていう」
「無駄だ。解剖とかで、殺された時間なんてものはかなり正確にわかるんだぞ」
「そんなの知らない。とにかくあたしが身代わりになる」
馬鹿なこというな、と昭夫はもう一度いった。そしてつぶした空き缶をそばのゴミ箱に放り込んだ。
その時ふと、ある考えが彼の脳裏を横切った。それは彼の心をひきつけるものだった。数秒間、その考えを頭の中で転がした。
「何よ、今度は何がいいたいの?」八重子が訊いてきた。
「いや、何でもない」昭夫は首を振った。同時に、たった今生じたアイデアを振り払おうとした。それについては今後一切考えまいとした。考えること自体がおぞましく、思いついた自分自身を嫌悪しなければならないほど、そのアイデアは邪悪なものだったからだ。
6
午前一時を過ぎると、昭夫はテレビを消した。テレビをつけていたのは、少女が行方不明になったことについて、ニユースで流れる可能性があると思ったからだ。いくつかのニュース番組をはしごしたが、そのことは伝えられなかった。
八重子は向かいの和室にいる。重苦しい空気に耐えかねたようにダイニングルームを出ていってから二時間以上が経っていた。二人の間に、もはや会話はなかった。何か言葉を発するたびに、自分たちが絶体絶命の窮地《きゅうち》にいるということを思い知らされるだけだからだ。
昭夫は煙草を一本吸ってから立ち上がった。ダイニングルームの明かりを消し、庭に面したガラス戸のそばに立った。カーテンをそっと開け、外の様子を窺った。
街灯は点っている。しかしその光は前原家の庭にまでは届いていない。庭は真っ暗だ。
闇に目が慣れるまで、しばらくそうしていた。やがて庭に広げられた黒いビニール袋がぼんやりと見えるようになってきた。昭夫は手袋をはめると、ガラス戸のクレセント錠を外した。
畳んだ段ボール箱どガムテープ、さらに懐中電灯を持って、改めて庭に出た。暗闇の中で箱を組み立て、まず底の部分をガムテープで固定した。それから黒いビニール袋に目を向けた。
緊張感と怯《おび》えが彼の身体を包んでいた。見えているのは少女の足先だけだ。まだ一度も死体の全身を正視していない。
口の中がからからに乾いていた。逃げ出したいというのが本音だった。
これまでに人間の死体を見たことがないわけではない。一番最近目にしたのは父親の遺体だ。その遺体を怖いとか気味悪いというふうには全く思わなかった。医師によって死亡が確認された後も、その顔に触れることができた。
ところが今は、その時の気持ちとはまるで違っていた。黒いビニール袋の盛り上がりを見ただけで足が震えた。それをめくる勇気が出なかった。
死体がどんな様相を呈しているのかわからず、それを確かめるのが怖い──それはたしかにある。病死の場合は、息を引き取る前と後で、さほど大きな変化があるわけではない。死んでいるのかどうかさえ、ちょっと見ただけではわからないほどだ。だがここにある死体はそういうものではない。元気に遊んでいたに違いない少女が、突然殺されたのだ。首を絞められて殺されたのだ。そんな場合に死体がどうなるのか、昭夫は知らない。
だが怖い理由はそれだけではない。
もし警察に通報するのであれば、これほどの恐怖は感じないはずだった。正当な理由のもとでなら、死体を段ボール箱に入れることも、さほど苦痛ではないと思えた。
自分のやろうとしていることのあまりの非道徳さに怯えているのだ、と昭夫は気づいた。死体を見るということは、それをさらに露《あら》わにすることなのだ。
遠くで車の走る音がした。それで我に返った。ぼんやりしている場合ではなかった。こんなところを近所の人間に見られたら、それこそ元も子もない。
いっそのこと、黒いビニール袋に包んだまま運ぼうか、と考えた。公園のトイレに置いたら、目をつぶってビニール袋をはがし、死体を見ないで戻ってくる。それならできそうだった。
だがすぐに昭夫は小さく頭を振った。死体を確認しないわけにはいかなかった。死体にどんな痕跡《こんせき》が残っているかわからないからだ。直巳が手にかけたという証拠がどこかに残っている可能性も皆無ではない。
やるしかないのだ、と彼は自分にいい聞かせた。どんなに非人道的であろうとも、家族を守るためにはほかに道はない。
昭夫は深呼吸し、その場で屈んだ。黒いビニール袋の端を持ち、ゆっくりとめくっていった。
少女の白く細い脚が闇の中でぼんやりと浮かび上がった。身体は驚くほど小さかった。七歳と男性がいっていたのを思い出した。どうしてこんな小さな子を、と、息子の行為のあまりの不可解さに彼は顔を歪めた。
暗くて細かい状況はよくわからない。彼は意を決して、懐中電灯に手を伸ばした。まず地面に向けた状態でスイッチを入れ、光の輪を少しずつ死体に近づけていった。
少女はチェック柄のスカートを穿いていた。上はピンクのトレーナーだ。猫のイラストが入っている。彼女がより可愛らしく見えるように、母親が着せたものだろう。その母親は、今頃どんな思いでいるのか。
さらに光を移動させる。少女の白い顔が昭夫の目の端に入った。その瞬間、彼は懐中電灯のスイッチを切っていた。
そのまましばらく動けなかった。はあはあと荒い息を吐いた。
少女は仰向けに寝かされていた。顔は真っ直ぐに上を向いていた。昭夫は少女の顔を直視したわけではない。それでも彼女の顔は網膜に焼き付いた。弱い光を受けて、大きな目が光ったことさえも、昭夫はしっかりと視認した。
これ以上は無理だ、と思った。
特に直巳と繋《つな》がるような痕跡はなかったようだし、このまま段ボール箱に入れようと思った。下手にいじったら、かえって証拠を残してしまうおそれもあると考え直した。それが自分に対する言い訳であることに気づいていたが、これ以上は精神が持ちそうになかった。
顔を見ないようにして、少女の身体の下に両手を入れた。持ち上げてみると、驚くほど軽かった。まるで人形のようだった。小便を漏らしていて、スカートがぐっしょりと濡れていた。異臭が鼻についた。
段ボール箱に入れるには、少女の手足を少し動かさねばならなかった。死体はしばらくすると硬直するという話を聞いたことがあったが、さほど困難な作業ではなかった。箱に収めた後、昭夫は合掌した。
手を戻した後、足下に何か白いものが落ちていることに気づいた。明かりをあててみると小さな運動靴だった。白い靴下を見ていながら、片方が脱げていることをこの時まで失念していた。危ないところだった。
段ボール箱に手を入れ、少女の片足を引っ張った。運動靴は足首まで紐《ひも》を結ぶタイプのもので、結んだままでは脱ぎ履きがやりにくいらしく、紐はほどけていた。昭夫は足に履かせてから、紐をしっかりと結んだ。
次なる問題は、この段ボール箱をどうやって公園まで運ぶか、だった。少女の身体は軽かったが、箱に入れると持ちにくいし重心も安定しない。また公園までは徒歩で十分近くかかる。昭夫としては、途中で箱を下ろして休憩するというようなことは避けたかった。
少し考え、自転車を使うことを思いついた。玄関から一旦室内に戻り、自転車の鍵を手にして、もう一度外に出た。自転車は家の横に止めてある。八重子が買い物などに使うのだ。
昭夫はそっと門扉を開いた。通りに人気がないことを確認してから足を踏み出した。
自転車の鍵を外し、門のすぐ前に止め直した。それから改めて庭に戻ろうと門をくぐり、ぎくりとした。
段ボールのそばに誰かが立っていたからだ。あまりの衝撃に、昭夫はもう少しで声をあげるところだった。
「何してんだよ」彼は顔をしかめ、小声でいった。人影の正体はすぐにわかった。
政恵だった。寝間着姿でぽつんと立っている。段ボール箱に興味を示すわけでもなく、斜め上のほうを見ている。
昭夫は母親の腕を掴んだ。
「何だって、こんな夜中に……」
だが政恵は答えない。彼の声など耳に入っていないようだ。何かを探すように夜空を見上げている。どんな表情をしているのかは暗くてよくわからない。
「いい天気だねえ」彼女がようやく声を発した。「これなら遠足、大丈夫だね」
昭夫はその場でしゃがみこみたくなった。母親の呑気な声は、彼の神経を逆撫《さかな 》でし、疲労感を倍加させた。何の罪もない彼女に憎しみを抱いた。
彼は母親の腕を引き、もう一方の手で背中を押した。彼女は杖をついていた。子供になった気分でいるくせに、外に出る時には時々杖を出してくる。不思議なものだと思うが、ぼけた老人の考えを理解するのは不可能だと経験者たちはいう。
杖には鈴がぶらさがっていた。動かすたびに、それがちりんちりんと音をたてた。昭夫たちがこの家に来た時、その鈴は楽しそうに彼等を迎えてくれた。だが今はその音さえも昭夫には耳障《みみざわ》りだった。
「もう家に入りなさい。寒いだろ」
「明日、晴れるかなあ」彼女は首を傾げた。
「晴れるよ。大丈夫だ」
たぶん小学生の頃に戻っているのだ、と昭夫は解釈した。彼女の頭の中では、明日は楽しい遠足なのだ。だから晴れるかどうかが心配で、堪《たま》らず外に出てきたのだ。
玄関から入らせると、政恵は杖を靴箱に入れ、素直に上がった。彼女は裸足《はだし》のままで庭に出ていた。黒い足で、片足をひきずるように廊下を進んでいく。
細長く、薄暗い廊下の一番奥に彼女の部屋はある。おかげで政恵と八重子との接触は最小限に抑えられているのだった。
昭夫は顔をこすった。こっちまで頭がおかしくなりそうだと思った。
そばの襖が開き、八重子が顔を出した。眉をひそめている。
「どうしたの?」
「何でもない。お袋だ」
「え? ……また何かしたの?」嫌悪感が露わになった。
「どうってことない。それより、これから行ってくる」
八重子は頷いた。さすがに顔が強張《こわば 》っていた。
「気をつけてね」
「わかってる」昭夫は妻に背を向け、玄関ドアを開けた。
庭に戻り、段ボール箱を見つめてため息をついた。その中に死体が入っていて、これから自分が運ぶのだということを、どうしても現実として受けとめられなかった。間違いなく、自分にとって人生最悪の夜だと思った。
蓋を閉じてから箱を持ち上げた。持ちにくい分、やはり死体だけの時よりも重く感じられた。箱を抱えたまま外に出て、自転車の荷台に載せた。荷台は小さく、箱を固定するのは困難だった。もちろん、自転車に乗ることなど不可能だ。昭夫は片手で自転車のハンドルを持ち、もう一方の手で箱を押さえ、ゆっくりと前に進んだ。背中から受ける街灯の光が、道路に長い影を描いていた。
夜中の二時近くにはなっているはずだった。薄暗い通りには誰も歩いていない。ただし、窓から明かりの漏れる家はまだ何軒かある。不用意に物音をたてぬよう、昭夫は慎重に進んだ。
バスが走っている時間ではない。だからバス通りから人が歩いてくる気遣いはあまりなかった。気をつけねばならないのは車だ。電車もバスも動いていないからこそ、タクシーがこの狭い住宅地に入ってくる可能性は高かった。
そんなことを考えていると、早速前方からヘッドライトが近づいてきた。昭夫は脇の私道にそれ、身を隠した。一方通行だから、車がそこまで入ってくる心配はなかった。やがて黒塗《くろぬ 》りのタクシーが通過していった。
昭夫は再び歩きだした。たった十分の距離が、おそろしく長く感じられた。
銀杏公園は住宅地の真ん中にある。広場の周囲に銀杏の木が植えてあるだけの簡素な公園だ。ベンチはあるが、雨露をしのげるようなスペースはどこにもない。だからここを根城にしているホームレスもいない。
昭夫は自転車を押しながら、公園の隅に設置されている公衆トイレの裏側に回った。今朝まで雨が降っていたせいか、地面は少し柔らかかった。見たところ、トイレの明かりはついていない。
彼は段ボール箱を抱え、周囲に気を配りながらトイレに近づいた。男子用か女子用にするか少し迷った後、男子用に入った。変質者の仕業に見せかけねばならないのだから、そちらのほうがいいと思ったのだ。
男子用トイレの中は、顔をしかめたくなるような臭気がこもっていた。昭夫はなるべく息をしないように気をつけながら段ボール箱を運び込んだ。持参してきた懐中電灯のスイッチを入れ、一つだけある個室のドアを開けた。中は恐ろしく汚れていて、たとえ死体とはいえ、こんなところに少女を放置するのはかわいそうに思えた。しかし無論、今さら引き返せる話ではなかった。
昭夫は懐中電灯を口にくわえた。段ボール箱を開け、少女の死体を個室に運び込んだ。なるべく便器から遠い位置で、壁にもたれかかるように座らせた。だが手を離した瞬間、少女の身体は、ごろりと横になった。
それを見て昭夫はくわえていた懐中電灯を落としそうになった。少女の背中に芝生がびっしりとついていたからだ。いうまでもなく、前原家の庭の芝生だ。
この芝が証拠になってしまうのではないか──。
科学捜査について彼はよく知らない。だが芝生を分析すれば、それがどんな種類でどんな環境で育てられていたのかぐらいはわかりそうに思えた。そうなれば警察は、近所の家の芝生を徹底的に調べるだろう。
昭夫は必死になって手で芝生を払い落とした。スカートや髪にも芝生はついていた。だが払い落とすうちに気がついた。彼女の身体から落としても意味はないのだ。この現場から回収しなければならない。
絶望感に襲われながら、彼は払った芝を拾い始めた。拾ったものは便器に捨てていった。少女の髪の中も探った。もはや怖がってなどいられなかった。
最後に、芝だらけになった便器に水を流そうとした。ところがレバーを下げても水が出ない。彼は必死になってレバーを動かし続けた。しかしやはり出ない。
個室から出て、手洗い場の水道を捻ってみた。細い水が出てきた。彼は手袋を外し、両手でそれを受けた。ある程度貯まると、そっと個室に移動し、便器に流した。だがそんな少量では、芝は流れてくれなかった。
両手を器代わりにして、何度も往復した。俺は一体何をしているんだろうと思った。誰かが見ていたら、間違いなく警察に通報するに違いなかった。しかしそれを怯える余裕さえも昭夫はなくしていた。もうどうとでもなれという捨て鉢な気分が、彼の行動を大胆なものにしていた。
何とか芝を流し終えると、昭夫は空の段ボール箱を持って外に出た。自転車のところまで戻り、段ボール箱を畳んだ。そのまま捨てていきたかったが、この箱もまた重大な証拠になってしまうおそれがあった。片手で抱えられるほどに小さく折り曲げると、自転車にまたがった。
だがペダルをこごうと足に力をこめた時、ふと思いついて地面に目を落とした。ぬかるんだ地面に、うっすらとタイヤの跡がついていた。
危ないところだった──彼は自転車から降り、靴底でタイヤの跡を消した。無論、足跡が残らないように用心もした。それから自転車を持ち上げ、跡が残りそうもない場所まで運んでから再びまたがった。
ペダルをこぎ始めた時には全身が汗びっしょりになっていた。背中などは濡れたシャツがはりついて冷たいほどだ。額から流れる汗が目に入り、昭夫はあまりの痛さに顔をしかめた。
7
家に戻ると、まず段ボール箱の処置に困った。少女の排泄物の臭いがしみついている。しかし外に出しておくわけにもいかない。燃やせばいいのだろうが、こんな時間に火を使っていたら、それこそ誰かに通報されかねない。
庭にはまださっきの黒いビニール袋が落ちたままになっていた。これぐらいは始末しておいてくれてもいいじゃないかと思いながら拾いあげた。結局、その袋に折り畳んだ段ボール箱を突っ込み、家に入った。
奥に進み、政恵の部屋の襖をそっと開けた。真っ暗だった。政恵は布団《ふとん》をかぶって寝ているようだ。
押入の上の天袋を開けた。政恵が勝手に開ける心配のない場所だ。そこにビニール袋を押し込み、そっと閉めた。政恵はぴくりとも動かなかった。
部屋を出たところで、自分の身体が臭っていることに昭夫は気づいた。少女を運んだせいで臭いが移ったのだ。洗面所に行って服を脱ぎ、すべて洗濯機にほうりこんだ。ついでにシャワーを浴びた。どんなに石鹸でこすっても、いつまでも異臭が鼻に残っている感じがした。
寝室で着替えた後、ダイニングルームに戻った。八重子がテーブルの上にグラスと缶ビールを並べていた。スーパーで買ってきた煮物も皿に移して置いてある。電子レンジで温めたようだ。
「何だ、これ」昭夫は訊いた。
「疲れただろうと思って。それに、何も食べてないでしょ」
八重子なりに労をねぎらっているつもりらしい。
「食欲なんかないよ」そういいながらも彼は缶ビールを開けた。せめて酔いたいと思った。どんなに酔ったところで、今夜は眠れないだろうが──。
キッチンから包丁で何かを刻む音が聞こえてきた。
「何をやってるんだ」
だが八重子からの返事はない。昭夫は立ち上がり、キッチンを覗いた。調理台の上にボウルが置かれ、その中に挽肉が入れられていた。