「こんな時間に何を始めてるんだ」彼はもう一度訊いた。
「おなかがすいたっていうのよ」
「おなか?」
「さっき直巳が降りてきて、それで……」後の言葉を濁した。
昭夫は自分の頬が引きつるのを感じた。
「腹が減ったといってるのか? あんなことをしでかしといて、親にこんな思いをさせておいて……」
大きく呼吸し、首を振った。彼はドアに向かった。
「待って、いかないで」八重子の声が飛んできた。「仕方がないじゃない。若いんだから、お昼から何も食べてなきゃ、おなかぐらいすくわよ」
「こっちは食欲なんて、これっぽっちもないぞ」
「あたしだってそうだけど、あの子はまだ子供だから、事の重大さがわかってないのよ」
「だからそれを教えてやる」
「今じゃなくてもいいじゃない」八重子は昭夫の腕を掴んできた。「一段落してからでもいいでしょう? あの子だってショックを受けてるわよ。何も感じてないわけじゃない。だから今まで、おなかがすいてることもいいだせないでいたのよ」
「あいつがいいださなかったのは、俺に文句をいわれるのが嫌だったからだ。だから俺が出ていくのを見て、今ならいいと思っておまえにいったんだ。もし本当に反省しているなら、どうして降りてこない? 部屋に閉じこもってる?」
「父親から叱られるのを避けたいってのは、子供ならふつうのことでしょう? とにかく今夜だけは我慢してやって。後であたしからよくいっておく」
「おまえからいったってきくものか」
「そうかもしれないけど、今あなたが叱ったって仕方がないでしょう? あの子を責めたって、何も解決しないのよ。今考えなきゃいけないのは、どうやってあの子を守るかってことでしょう?」
「おまえはあいつを守ることしか考えてないのか」
「それがいけないっていうの? あたしはね、どんな時でも自分だけはあの子の味方になろうって決めてるの。あの子が何をしたとしても、あたしが守ってやる。たとえ人殺しをしたとしてもね。お願いだから今夜はそっとしておいてやって。お願いです。お願いします」
八重子の目からあふれ出た涙は、彼女の頬から顎《あご》にかけてをびしょ濡れにしていた。大きく見開かれた目は真っ赤に充血している。
妻の歪んだ顔を見て、昭夫の胸から怒りが消えていった。代わりに虚無感が彼の内面に広がった。
「手を離せ」
「いやよ、だってあなた……」
「離せといってるんだ。二階には行かない」
八重子が虚をつかれたように口を半開きにした。
「ほんとう?」
「本当だ。もういい。ハンバーグでも何でも作ってやれ」
昭夫は八重子の手を振り払い、ダイニングチェアに戻った。グラスに残ったビールを一気に飲み干した。
八重子は放心したような顔でキッチンに入ると、再び野莱を刻み始めた。一心に包丁を動かす妻を見て、何かをして手を動かしていないと正気を保てないのかもしれない、と昭夫は思った。
「おまえの分も作っておけよ」彼はいった。「どうせだから、おまえも食べろ」
「あたしはいいわよ」
「いいからおまえも食べるんだ。今度、いつゆっくり食事ができるかわからないんだ。俺も食べる。無理矢理にでも」
八重子がキッチンから出てきた。
「あなた……」
「明日は大変な一日になる。体力をつけておこう」
彼の言葉に八重子は真剣な眼差しで頷いた。
8
午前五時十分、窓の外がついに明るくなり始めた。
昭夫はダイニングルームにいた。カーテンは閉じてあるが、その隙間から漏れてくる光は、刻一刻と強さを増していくようだった。
テーブルの上には食べ残したハンバーグの皿が載っている。グラスにもビールが半分ほど残っている。だが彼はもうそれらに口をつける気になれなかった。八重子も結局、ハンバーグを三分の一ほど胃におさめるのが精一杯だったようだ。途中で気分が悪くなったといい、今は和室で横になっている。直巳だけが平らげたらしく、つい先程、空になった食器を八重子が下げてきた。しかしそれについて文句をいう気持ちは、もう昭夫にもわいてこなかった。今日という日をどう過ごせばいいか、そのことで頭がいっぱいだった。
玄関先で物音がした。郵便受けに何かを入れる音だ。新聞の配達だろう。
腰を浮かせたが、昭夫はまた座り直した。こんなに早い時間に外に出て、万一誰かに見られたりしたら厄介だと思った。今日は土曜日だ。土曜日の早朝に昭夫が外に出ることなど、これまで殆どない。いつもと違うことをやって、怪しまれたくなかった。それに今日の朝刊など、今は何の役にも立たない。彼等にとって重要な記事が載るのは、早くても今日の夕刊なのだ。
ぎっと音をたててドアが開いた。昭夫はぎくりとして振り返った。八重子が入ってくるところだった。
「どうしたの?」彼女が怪訝《け げん》そうな顔をした。
「いや……そのドア、そんな音がするのか」
「ドア?」彼女はドアを細かく動かした。そのたびに小さな軋み音が鳴った。「ああ、これ? 前からよ」
「そうだったのか。気がつかなかったな」
「一年以上も前からよ」そういってから八重子はテーブルの上の食器を見下ろした。「もう、食べないの?」
「ああ、片づけてくれ」
彼女が食器をキッチンに運ぶのを見送ってから、昭夫は再びドアに目を向けた。家の建具のことなど気に留めたことがなかった。家の中がどうなっているかなど、まるで把握してこなかった。
昭夫は室内を見回した。子供の頃から住み慣れた家であるはずなのに、何もかもが初めて見るような気がした。
庭に面したガラス戸の手前で視線を止めた。床に雑巾《ぞうきん》が放置されていたからだ。
「ここで殺したんだったな」昭夫はいった。
「えっ、何?」八重子がキッチンから顔を覗かせた。まだ洗い物の途中らしく、服の袖をまくっている。
「この部屋で殺したといってるんだろ?」
「……そうよ」
「あの雑巾で床を拭いたのか」昭夫はガラス戸の下に向けて顎を突き出した。
「いけない。片づけておかなきゃ」
八重子はスーパーの袋を手にすると、雑巾をつまみ上げ、その中に入れた。
「ほかのゴミと混ぜて、わからないように捨てるんだぞ」
「わかってる」
八重子はキッチンに入っていった。生ゴミ用のゴミ箱を開ける音が聞こえた。
昭夫は雑巾のあった床を見つめた。そこに少女の死体が横たわっている光景を想像した。
「おい」再び八重子を呼んだ。
「今度は何?」不機嫌そうなしかめっ面が現れた。
「女の子は家に上がり込んでいたってことだよな」
「そうよ。だから、直巳が無理矢理に連れ込んだわけじゃないの。女の子にだって、多少は責任が──」
「家に上がってたのに、どうして靴を履いてたんだ」
「靴?」
「あの女の子、片方だけ靴を履いてた。というより、一方だけが脱げてたといったほうがいいかな。家に上がってたのなら、靴を履いてるのはおかしいだろ」
質問の意味がわからないのか、八重子は不安そうに視線を揺らせた。それからようやく合点したという顔で頷いた。
「あの運動靴ね。あれはあたしが履かせたのよ」
「おまえが?」
「靴は玄関にあったの。で、そのままじゃいけないと思って、履かせたのよ」
「なんで片方だけなんだ」
「片方だけで意外に手間取ったからよ。ぐずぐずしていて、誰かに見られたらまずいでしょ。それでもう片方はビニールの下に隠しておいた。あなた、もしかして気づかなかった?」八重子が目を見張った。
「気づいたよ。だから、俺が履かせた」
「よかった」
「それ、本当だろうな」昭夫は上目遣いに八重子を見た。
「何が」
「本当は、最初から片方は履いてたんじゃないだろうな。直巳が無理矢理家に引っ張り込もうとして、その拍子に片方の靴だけ脱げたんじゃないのか」
すると八重子は心外そうに眉をつり上げた。
「どうしてそんな嘘をつく必要があるの? 本当にあたしが履かせたのよ」
「……それならいい」昭夫は目をそらした。考えてみれば、どちらでもいいことだった。
「ねえ」八重子が声をかけてきた。「春美さんのこと、どうする?」
「春美?」
「昨日、来てもらわなかったでしょ。今日はどうするの?」
昭夫は顔をしかめた。それがあったか。
「今日も必要ないといっておく。土曜日だから、たまには俺が面倒見るといって」
「怪しまないかしら」
「何を怪しむんだ。春美は何も知らないんだぞ」
「……そうね」
八重子はキッチンに立ち、コーヒーを滝れ始めた。じっとしているのが辛いのだろう。こういう時、自分のような人間はすることが何もない、と昭夫は思った。家の中のことはすべて八重子に任せてきたから、すべきことが思いつかないのだ。彼は料理など作ったことがなかった。部屋の片づけもしない。だからどこに何があるのか、全く知らない。以前、八重子の留守中に、通夜に出なければならなくなったことがある。彼は黒いネクタイを探し出すことさえできなかった。
やはり新聞を取ってこようと立ち上がった時、遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。昭夫は身体を固まらせたまま妻を見た。八重子もコーヒーカップを手にした状態で硬直していた。
来た、と彼は呟いた。
「早いわね……」八重子の声はかすれていた。
「直巳は何をしてるんだ」
「さあ」
「寝ているのか」
「だから、あたしだって知らないわよ。様子を見てくればいいの?」
「いや、今はいい」
昭夫はコーヒーをブラックで飲んだ。どうせ眠れないのなら、頭を少しでも冴えさせたほうがいいと思った。だが一体、いつまでこの状況に耐えねばならないのかと考えると目の前が真っ暗になった。仮に死体から何の手がかりも得られなかったにせよ、警察は簡単には捜査を断念しないだろう。凶悪事件の検挙率が下がっているというが、警察の能力自体が衰えたわけではない。
「おまえ、少し眠っておいたほうがいいぞ」
「あなたは寝ないの? 公園に行ってみるの?」
「そんなことをしてやぶへびになったらどうするんだ」
「じゃあ……」
「俺はまだもう少しここにいる。眠くなったら寝る」
「そう。あたしも、とても眠れそうにないけど」そういって八重子は立ち上がり、ドアを開けた。だが部屋を出る前に夫のほうを振り返った。「あなた、変なことを考えてないわよね」
「変なこと?」
「やっぱり警察に知らせようとか……」
ああ、と昭夫は頷いた。
「そんなことは考えてない」
「ほんとね。信じていいのね」
「今さら警察に何といえばいいんだ」
「それもそうね」
八重子は吐息をついた後、おやすみなさい、といって部屋を出た。
9
現場に向かうタクシーの中で、松宮は少し緊張していた。捜査一課に配嘱されてから、本格的な殺人事件に関わるのはこれがまだ二度目だった。しかも前回の主婦殺害事件では、先輩刑事の後について回っただけで、捜査に携わったという実感も満足感も得られなかった。今回こそは少しは実のある仕事をしたい、と意気込んでいた。
「子供ってのが参るよな」横に座っている坂上《さかがみ》がうんざりしたような声を出した。
「辛いですよね。親もショックだろうし」
「そういうのはもちろんあるよ。だけど俺がいってるのは仕事のことだ。こういうのは案外捜査が難しかったりするんだ。大人が殺された場合だと、被害者の人間関係を洗っていくうちに、動機とか容疑者とかが浮かんでくるってこともあるだろ。だけど子供の場合、そういうことはまず期待できねえからな。噂になるような変質者が近所に住んでて、そいつが犯人だっていうんなら話は早いけどさ」
「じゃあ、流しの犯行ってことですか」
「そうはいいきれねえよ。前々から狙ってたってこともありうる。とにかく頭のいかれた野郎だってことはたしかだ。ただ問題なのは、どこのどいつの頭がいかれてるかは、表からじゃあなかなかわからないってことだ。それでも大人なら、そんなやつが近づいてきたら何となくわかるけど、子供の場合はそうはいかねえ。優しい素振りをして近寄ってきたら、ころっとだまされちまうからなあ」
坂上は三十代半ばだが、捜査一課に配属されてから十年以上になる。これまでにも似たような事件を担当したことがあるのだろう。
「所轄は練馬署か……」坂上がぽつりといった。「最近、署長が代わったばっかりだ。張り切ってるぜ、きっと」ふんと鼻を鳴らした。
練馬署と聞き、松宮は密《ひそ》かに深呼吸した。彼を緊張させているのは、事件を前にしてのプレッシャーだけではなかった。それが練馬署管内で起きたことも、じつは気にかかっていた。練馬署の刑事課には、彼と関わりの深いある人物がいる。
隆正の黄色い顔が頭に浮かんだ。彼を見舞ったのはほんの数日前だ。それなのにこんな事態になるというのは、何か見えない力が働いているように思えてならなかった。
タクシーは住宅地の中へと入っていった。きちんと区画整理がなされていて、定規で引いたように真っ直ぐな道路に沿って、雰囲気の似た住居が並んでいる。生活水準は中の上といったところかなと松宮は想像した。
前方に人だかりが出来ていた。パトカーが何台か止まっている。その先では制服警官が、通行しようとする車を迂回させていた。
ここでいい、と坂上は運転手にいった。
タクシーを降り、松宮は坂上と共に野次馬をかきわけるように前に進んだ。見張りの警官に挨拶し、立ち入り禁止区域内に足を踏み入れた。
現場は銀杏公園という施設内にある公衆トイレだと松宮は聞いていた。ただし殺人現場かどうかはさだかではない。死体がそこで見つかったというだけのことだ。つまり最初は死体遺棄事件だった。だが死体に明らかな他殺の痕跡があるということで、殺人事件の可能性が高いと判断されたのだ。
銀杏公園に接する道路から内側が立ち入り禁止区域に設定されていた。公園に近づいていくと、その入り口付近に知っている顔があった。小林《こばやし》というベテラン主任だった。しかし係長である石垣《いしがき》の姿は見えない。
「早いですね」坂上が小林にいった。
「俺もさっき着いたところだ。まだ中を見てない。所轄から大体の話を聞いたところだ」小林は煙草を右手に挟んだままいった。左手には携帯用の灰皿が握られている。松宮の所属する捜査五係では、最近になって何人かが煙草をやめた。しかし小林は禁煙の話題すら嫌うほどのヘビースモーカーだ。
「死体を見つけたのは?」坂上が訊く。
「近所の爺さんらしい。早起きして、公園で煙草を吸うのが楽しみなんだってさ。健康的なんだか不健康なんだかわからんな。で、老人だから小便が近い。公衆便所に入ったところ、個室のドアが妙な具合に半開きになっていたので覗いたら、女の子の死体が捨てられていたというわけだ。爺さんも、朝っぱらからどえらいものを見つけちまったもんだ。寿命が縮まらなきゃいいがな」話をしながら毒舌を吐くのは小林の癖だ。
「遺体の身元はわかっているんですか?」さらに坂上が訊いた。
「今、所轄のほうで遺族と思われる人に確認しているはずだ。鑑識の話だと、死後十時間ぐらいは経っているらしい。機捜と所轄が動いてくれているが、犯人がまだ近くに潜《ひそ》んでいるとは思えないな」
小林の話を聞きながら、松宮は公園内に目を向けた。ブランコや滑り台といった一般的な遊戯施設は端のほうにあり、中央部はドッジボール程度ならできそうなスペースにしてある。鑑識課員たちが隅の植え込みの中で何か探しているのが見えた。
「公園にはまだ入るな」松宮の視線に気づいたらしく、小林がいった。「探し物があるそうだから」
「凶器ですか」松宮は訊いてみた。
「いや、凶器はたぶん使われていない。これだよ」小林は指に煙草を挟んだ手で、自分の首を絞めるしぐさをした。
「じゃあ、何を探しているんですか」
「ビニール袋とか段ボール箱とか、まあそういったものだ。死体を入れていたものだよ」
「現場はここではなくて、どこかから運ばれてきたっていうわけですか」
松宮の質問に、小林は表情を変えずに小さく頷く。
「たぶんそうだろう」
「悪戯が目的で女の子をトイレに連れ込んで、騒がれたから殺した……っていう可能性はないんですか」
すると隣で坂上がふっと吐息をついた。
「誰が入ってくるかわからない公衆トイレで悪戯しようなんていうことは、変質者だってあんまり考えないと思うぜ」
「でも夜中なら……」
「夜中に子供が一人でうろうろしていると思うか。それまでに拉致していたのだとしたら、もっと別の場所に連れていくだろ、ふつうは」
それもそうかと思い、松宮は黙り込んだ。小林や坂上は、事件の概要を聞いた時点で、ここが殺害現場ではないことに気づいていたようだ。
「おっ、所轄さんだ」小林が煙を吐きながら松宮たちの後方を顎でしゃくった。
松宮が振り返ると、グレーの背広を着た男が近づいてくるところだった。髪を奇麗《き れい》に分けているせいか、刑事というよりも生真面目な会社員といった雰囲気がある。
所轄の刑事は牧村《まきむら》と名乗った。
「被害者の身元確認、どうなりました?」小林が牧村に訊く。
牧村は眉間に皺を寄せた。
「どうやら間違いないようです。母親のほうは話を聞ける状態ではありませんが、父親は、一刻も早く話をすることが捜査に役立つなら、といってくれています」
「昨日の夜から捜索願いが出ていたと聞きましたが」
「夜八時過ぎに両親が練馬署に来ています。バス通りの向こうに住んでいて、父親は会社員です」牧村は手帳を開いた。「女の子の名前はカスガイユウナ。季節の春に、日曜の日、井戸の井、優しいに、菜の花の菜です」
松宮も自分の手帳を取り出し、春日井優菜、と記した。
牧村は両親の名前もいった。父親は春日井|忠彦《ただひこ》、母親は奈津子《な つ こ 》というらしい。
「被害者は小学校の二年生です。学校は、ここから徒歩約十分のところにあります。昨日の午後四時頃、一旦自宅に帰ったそうです。その後、母親の知らないうちに外出し、消息を絶ったというわけです。届けが出された後、手の空いていた警官が中心になって、自宅や学校周辺から駅付近までを探したそうですが、見つからなかったそうです。ただ、午後五時頃、バス通り沿いのアイスクリーム屋で、被害者と年格好の似た女の子がアイスクリームを買ったという情報があります。残念ながら店員は、優菜ちゃんの写真を見ても、同一人物とは断言できなかったようですが」
「アイスクリームねえ」小林が呟いた。
「その女の子はアイスクリーム一個を買ったということです、女の子に連れはいなかったそうです」
「アイスクリームを食べたくて、家を出たのかな」小林が誰にともなくいう。
「その可能性はあります。行動的な女の子らしく、勝手にどこへでも行ってしまうことがしばしばあったそうです」
小林は頷いてから、「父親の話は聞けるんだね」と牧村に確認した。
「現在、ここの町内の集会所を借りて、そこで待機していただいています。いまお話ししたことなども、そこで聞きました。お会いになりますか」
「係長がまだ来ないけど、先に話を聞いておきたいですな。──おまえたちも一緒に来てくれ」小林は松宮たちにいった。
殺人事件が起きると、所轄の刑事や機動捜査隊の捜査員が初動捜査にあたる。遺族から話を聞くのもその一環だ。だが捜査一課が捜査を引き継ぐ以上、改めて話を聞き直すことになる。遺族としては何度も同じ話をさせられるわけで、前回の事件でも松宮はそのことをひどく気の毒に感じた。またあの憂鬱な手順を踏むのかと思うと気持ちが暗くなった。
牧村が案内してくれた集会所は、二階建てアパートの一階にあった。近くに住んでいる大家が、格安で提供しているという話だった。築年数は二十年以上ありそうで、外壁にはひび割れが入っていた。借り手がつかないまま放置しておくより、町内に貸したほうが得だと考えたのかもしれない。
ドアを開けるとかすかにカビの臭いがした。入ってすぐに和室があり、薄いブルーのセーターを着た男性があぐらをかいて座っていた。片手で顔を覆い、深く首を項垂れていた。人が入ってきたことに気づいていないはずはなかったが、石のように動かない。動けないのだ、と松宮は察した。
「春日井さん」
牧村に声をかけられ、春日井忠彦はようやく顔を上げた。頬は青白く、目は落ち窪んでいる。やや薄くなりかけた前頭部が脂で光っていた。
「こちら、警視庁捜査一課の方々です。申し訳ないんですが、もう一度詳しい話をしていただけますか」
春日井は虚ろな目を松宮たちに向けた。目の周囲には涙の跡があった。
「そりゃあ、何度でも話しますけど……」
「申し訳ありません」小林が頭を下げた。「一刻も早く犯人を捕まえるためには、やはり我々も御両親から直《じか》にお話を伺っておいたほうがいいと思いますから」
「どういったことから話せばいいですか」懸命に悲しみを堪えているのだろう、呻くような声になった。
「捜索願いを昨夜の八時頃に出されたそうですが、お嬢さんがいなくなっていることに気づいたのはいつですか」
「妻の話では六時頃だということです。食事の支度をしていて、いつ優菜が出ていったのかは全くわからないということでした。私が会社から帰る途中、ケータイに電諸がかかってきました。優菜がいないんだけど、もしかしたら駅のほうに行ってるかもしれないから、気をつけておいてくれって。去年、一度だけそういうことがありました。優菜が一人で私を迎えに来てくれたんです。その時、危ないから一人でそういうことをしてはいけないといって聞かせ、それ以後はそういうことはなかったんですが……」
ここからだと駅まで徒歩で三十分近くかかる。幼い娘が父親を喜ばせようとして小さな冒険をしたのだろう。ありそうなことだと松宮は思った。
「その時点では、奥さんはそれほど心配しておられなかったのですか」
小林の質問に春日井は首を振った。
「いえ、もちろん心配そうでした。私も落ち着きませんでした。ただ妻としては、自分が駅に探しに行ったのでは、万一優菜が帰ってきた時に家に入れなくなると思い、動くに動けなかったようです」
この言葉から、どうやら彼等は三人家族らしいと松宮は理解した。
「私が家に着いたのが六時半頃です。まだ優菜が帰っていないと知り、さすがに不安になりました。それで近所の人に家の鍵を預けて、妻と二人で思いつくかぎりのところを探し回りました。駅前なんかも写真を持って訊いて回りました。そのほか近くの公園とか、小学校とか……。こっちの公園も見に来たんですけど、まさか、その、トイレなんて……」春日井は苦しげに顔を歪め、声を詰まらせた。
松宮は彼のことを見ていられず、ただひたすらメモを取ることに没頭しようとした。だが手帳に書き込む内容は、無惨な状況を改めて噛みしめるようなものだった。
松宮が手帳の頁をめくった時だった。かすかに物音が聞こえた。彼は顔を上げた。
ひゅう、ひゅう、という隙間風のような音だった。それはぴったりと閉じられた襖の向こうから聞こえてくるようだった。
ほかの刑事たちも気づいたらしく、松宮と同じところを見ている。
すると春日井がぼそりといった。「妻です」
えっ、と松宮は声を漏らしていた。
「奥の部屋で横になってもらっているんです」牧村が静かな口調でいった。
また、ひゅう、と聞こえた。それはたしかに人間の声だった。泣いているのだ、と松宮はようやく悟った。だが、もはや声になっては出ないのだ。喉が嗄《か》れ、泣き叫ぼうにも、隙間風のような息が吐き出されるだけなのだ。
ひゅう、ひゅう──。
刑事たちは一時沈黙した。松宮は逃げださずにいるのが精一杯だった。
10
午前十時を少し過ぎた頃だった。前原家の玄関のチャイムが鳴らされた。その時昭夫はトイレに入っていた。あわてて手を洗っていると、八重子がインターホンで応対する声が聞こえてきた。インターホンの受話器はダイニングルームの壁に取り付けてある。
「……はい、あの、でも、うちは何も知らないんですけど」相手が何かいっているらしく、少し間を置いてから再び彼女はいった。「……あ、わかりました」
昭夫が入っていくと、八重子が受話器を戻しているところだった。
「来たわよ」
「何が?」
「警察よ」八重子は目元を曇らせた。「決まってるじゃないの」
昭夫の心臓の鼓動は、それまでも落ち着くことはなかったが、彼女の言葉で一層騒ぎ始めた。体温が上昇したような気がした。そのくせ、ぞくり、と背中に悪寒《お かん》が走った。
「どうしてうちに来たんだ」
「知らないわよ。とにかく早く出てちょうだい。怪しまれちゃうわ」
昭夫は頷き、玄関に向かった。途中、何度か深呼吸を繰り返した。それでも速まった鼓動は一向におさまらない。
警察が来ることは予想していなくもなかった。直巳が少女を殺すまでにどんな行動をとったのか、昭夫はまるで知らない。もしかすると誰かに目撃されていたかもしれないのだ。その場合でも何としてでもごまかさねばならない、と昭夫は心を決めていた。もう後戻りはきかないのだ。
それでもこうして実際に警察がやってきたとなると、やはり不安と恐ろしさで足が震えそうになった。捜査のプロたちに対して、素人のごまかしがどこまで通用するのか全く見当がつかなかったし、正直なところごまかしきれる自信もなかった。
ドアを開ける前に、昭夫は瞼を閉じ、懸命に息を整えた。胸の鼓動が激しいのは、外から見ただけではわからないだろうが、明らかに息が乱れているとなれば、警察官たちも怪しむに違いなかった。
大丈夫だ、と彼は白分にいい聞かせた。警察官が来たからといって、何かがばれたと決まったわけではないのだ。事件現場の周辺を、単に虱潰《しらみつぶ》しに当たっているだけなのかもしれない。
昭夫は唇を舐め空咳《からせき》をひとつしてからドアを押し開いた。
小さな門の外に、黒っぽいスーツを着た男が立っていた。背の高い、三十代半ばと思われる男だった。日に焼けているので、彫りの深い顔の陰影がいっそう濃く見えた。男は昭夫を見て、軽く会釈を寄越してきた。
「お休みのところ、申し訳ありません」男が快活な調子でいった。「あの、ちょっとよろしいですか」門扉を指さした。
門をくぐってもいいかという意味らしい。どうぞ、と昭夫は答えた。
男は門扉を開け、短いアプローチに入ってきた。ドアのぞばまで来てから警察手帳を出した。
男は練馬署の刑事で加賀といった。言葉遣いは柔らかく、いかにも刑事といった威圧感はない。しかし、何となく近寄りがたい雰囲気を持った人物だった。
すぐ向かいの家の玄関先にも、スーツを着た男が立っていた。その家の主婦を相手に何か話し込んでいる。彼も刑事なのだろう。つまり大勢の捜査員が、現在この付近一帯で聞き込みをしているということだ。
「何かあったんですか」昭夫は聞いた。事件のことは知らないふうを装ったほうがいいと判断した。なぜ知っているのかと問われた時、答えられないからだ。
「銀杏公園を御存じですか」加賀は訊いた。
「知ってますけど」
「じつは、あそこで今朝、女の子の遺体が見つかりましてね」
へえ、と昭夫は発した。少しは驚いた芝居をしたほうがいいのかもしれなかったが、そんな余裕はなかった。無表情なのが自分でもわかった。
「そういえば、朝からパトカーのサイレンが聞こえてましたね」
「そうでしたか。早朝から申し訳ありませんでした」刑事は頭を下げた。
「いえ……あの、どこのお子さんなんですか」
「四丁目の、あるお宅のお嬢さんです」加賀は懐《ふところ》から一枚の写真を出してきた。被害者の名前は明かせないきまりなのかもしれない。「こういう女の子なんですがね」
その写真を見せられ、昭夫は一瞬呼吸が出来なくなった。全身が総毛立つのがわかった。
写っているのは目の大きい、かわいい女の子だった。冬場に写されたらしく、首にマフラーを巻き、頭の上で束ねた髪には毛糸の飾りがついていた。その笑顔は幸福感に満ちあふれていた。
この少女が、昨夜自分が段ボール箱で運び、汚く暗い公衆トイレに捨てた死体だとは、昭夫にはとても思えなかった。考えてみれば、じつは死体の顔をしっかりと見たわけではなかったのだ。
こんなにかわいい子供を──そう思うと、昭夫は立っていられなくなった。しゃがみこみ、思いきり叫びたかった。さらには今すぐに二階に駆け上がり、現実に背を向け、自分の作り上げた貧相な世界に閉じこもっている息子を、この刑事たちの前に突き出したかった。もちろん自らも罪を償いたかった。
だが彼はそうはしなかった。足の力が抜けそうになるのを堪え、表情が強張りそうになるのを必死で耐えた。
「見かけたことはないですか」加賀は尋ねてきた。口元に笑みを浮かべていたが、じっと昭夫を見つめる目が不気味だった。
さあ、と昭夫は首を捻った。
「このぐらいの年格好の女の子なら、このあたりでもよく見かけますけど、いちいち顔を見てないし、それにそもそも、そういう時間帯は家にいないし……」
「会社にお勤めなんですね」
「ええ」
「では一応、ご家族の方にもお尋ねしたいのですが」
「家族って……」
「今はどなたもいらっしゃらないのですか」
「いや、そうじゃないですけど」
「すみませんが、どなたが?」
「妻がいます」政恵と直巳のことは伏せておくことにした。
「では、奥様にも声をかけていただけますか。お時間はとらせません」
「それはいいですけど……じゃあ、ちょっと待っていてください」
昭夫は一旦ドアを閉めた。長く、太いため息が出た。
八重子はダイニングチェアに座っていた。不安と怯えの混じった目で夫を見た。
刑事たちの用件を伝えると彼女は嫌悪感を示す顔でかぶりを振った。
「いやよ、刑事と会うなんて。あなた、何とかしてよ」
「だけど刑事はおまえに訊きたいといってるんだから」
「そんなの、何とでもいいようがあるでしょ。今はちょつと手が離せないとか。とにかく、あたしは嫌だから」そういうと八重子は立ち上がり、部屋を出ていった。
おい、と昭夫が声をかけたが返事をせず、階段を上がっていく。寝室にこもる気なのだろう。
昭夫は頭を振り、顔をこすりながら再び玄関に向かった。
ドアを開けると刑事が愛想笑いをしていた。それを見ながら昭夫はいった。
「なんか、手が離せないらしいんですけど」
「ははあ、そうですか」刑事は当てが外れたような顔をした。「それではですね、誠に申し訳ないのですが、これを奥さんに見せてきていただけませんか」さっきの少女の写真を出してきた。
「あ……それは構いませんけど」昭夫は写真を受け取った。「見かけたことがないかどうかだけ訊けばいいわけですよね」
「そうです。お手数をおかけします」恐縮するように加賀はいい、頭を下げた。
ドアを閉めると、昭夫は家の階段を上がっていった。
直巳の部屋から物音は聞こえない。さすがにテレビゲームはしていないようだ。
向かい側のドアを開けた。そこが夫婦の寝室になっている。八重子は鏡台の前に座っていた。だがさすがに、化粧を始めているわけではない。
「刑事、帰ったの?」
「いや、おまえにこれを見せてくれってさ」昭夫は写真を差し出した。
八重子は写真から目をそむけた。
「なんで、うちに来たのよ」
「知らないよ。どうやら、付近の家を片っ端から当たっているらしい。目撃情報を集めてるんだろ」
「見たことないらしいって、刑事にいっておいてよ」
「もちろん、そういうしかないさ。でも、おまえも一度見ておけ」
「なんでよ」
「自分たちがどんなひどいことをしたか、自覚するためだ」
「何いってるのよ、今さら」八重子は横を向いたままでいった。
「いいから、見ておけ」
「いやよ。見たくない」
昭夫は吐息をついた。少女の天使のような笑顔を見れば、自分の気持ちが切れてしまうことを八重子も知っているのだ。
彼は踵《きびす》を返し、部屋を出た。向かい側のドアを開けようとした。しかし、鍵がかかっている。元々ついていたわけではなく、直巳が勝手に取り付けた掛け金式の錠だ。
「ちょっとあなた、何してるのよ」八重子が彼の肩に手をかけてきた。
「あいつに見せるんだ」
「そんなことして、何になるのよ」
「反省させる。自分のやったことを思い知らせるんだ」
「今そんなことしなくたって、直巳は十分に反省してるわよ。だから部屋に閉じこもってるんでしょ」
「いいや、あいつは逃げてるだけだ。現実から目をそらしている」
「だとしても……」八重子は顔を歪め、昭夫の身体を揺すった。「今はそっとしておいてやってよ。全部終わってから……うまく隠し終えてから、ゆっくりと話し合えばいいじゃない。何もこんな時に、わざわざあの子を苦しめるようなことをしなくてもいいでしょ。あなたそれでも父親なの?」
妻の目から涙が流れるのを見て、昭夫はドアノブから手を離した。ゆらゆらと首を振っていた。
たしかにそうだと思った。今は目の前の危機を乗り切ることが先決なのだ。