饭饭TXT > 海外名作 > 《红指(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 红指.txt

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作者:日-东野圭吾 当前章节:15393 字 更新时间:2026-6-16 06:24

「どういうふうに死を迎えるかは、どう生きてきたかによって決まる。あの人がそういう死に方をするとしたら、それはすべてあの人の生き様がそうだったから、としかいえない」

「あの人って……」

「暖かい家庭を作った人間は、死ぬ時もそのように送り出してもらえる。家庭らしきものを作らなかった人間が、最後だけそういうものを望むのは身勝手だと思わないか」

「俺は……俺たちは作ってもらったよ。伯父さんに暖かい家庭というものを。母子家庭だけど、それを苦にせず生きてこられたのは伯父さんのおかげだ。俺は伯父さんに孤独な死なんか迎えさせる気はない」松宮は加賀の冷めた目を見返しながら続けた。「恭さんが伯父さんを見捨てるというなら、それはそれでいい。俺が伯父さんの面倒をみる。伯父さんの死は、俺が看取《み と 》るよ」

 何か反論があるかと期待したが、加賀は静かに頷いただけだった。

「好きにすればいい。君の生き方に口出しする気はない」そういって彼は歩きだしたが、すぐに立ち止まった。前原家の横に止めてある、一台の自転車を見つめている。

「その自転車がどうかしたのか?」松宮は訊いた。

「何でもない。急ごう。まだ回らなきゃいけない家は何軒もある」加賀はくるりと背中を向けた。

     14

 カーテンの隙間から、ガラス戸越しに通りの様子を窺った。小学生と思われる少年が二人、自転車で通り過ぎていった。

 二人の刑事が立ち去ってから十分以上が経つ。彼等が戻ってくる気配はない。

 昭夫はため息をつき、カーテンから離れた。ソファに腰を下ろした。

「どう?」ダイニングチェアに座っていた八重子が訊いてきた。

「刑事はいない。たぶん見張ってもいないと思う」

「じゃあ、うちにだけ来たわけではないのね」

「おそらくな。断言はできないけど」

 八重子は両手でこめかみを押さえるしぐさをした。頭が痛い、と先程から漏らしている。寝不足のせいだろう。

「でも、芝生を持っていったってことは、もうどうしようもないわけよね」

「そうだな。科学捜査ってのはすごいというからな。うちの芝だってばれるかもしれない」

「いつ頃かしら」

「何が?」

「今度、警察がうちに来るのがよ。ああいうのって、すぐにわかるものなの?」

「さあな。だけど、二日も三日もかかるってことはないと思う」

「早ければ、今日の夜とか?」

「そうかもしれない」

 八重子は目を閉じ、ああ、と声を漏らした。絶望感の漂う声だった。

「うまくいくのかしら……」

 煙草に手を伸ばしかけていた昭夫は、小さく舌打ちした。

「今さら何をいってるんだ」

「だって」

「直巳が捕まらずに済むんなら、どんなことだってするといったのはおまえじゃないか。だかちこういう方法を考えてやったんだ。それとも何か? やっぱり直巳を警察に連れていくか」

 昭夫は苛立ちを口調に込めていた。彼としては十二分に苦悩した末に実行を決断したことだけに、この期《ご》に及んで弱気な台詞を吐かれると腹が立った。

 八重子はあわてた様子で首を振った。

「そうじゃないの。考えを変えたわけじゃないのよ。絶対にうまくいかせたいと思ってるから、何かミスがないかを確認したいだけなの」

 彼女の声には取《と》り繕《つくろ》うような響きがあった。昭夫の機嫌を損ねてはいけないと思っているようだ。

 彼はせわしなく煙草を吸い、早々に一本を灰にした。

「二人で何度も計画を見直したじゃないか。その上で、これならうまくいくはずだという結論を出した。後はもう運を天に任せるしかない。俺はもう腹はくくったんだ。おまえも今さらじたばたするな」

「だから、じたばたしてるわけじゃないんだって。何か見落としがないか、確かめたいだけ。あたしだって覚悟は決めてるわよ。さっきだって、うまく演技したでしょ。刑事、どんな顔をしてた?」

 昭夫は首を傾げた。

「どうかな。おまえの声を演技だとは気づかなかったと思うけど、どこまで印象に残ったかはわからんな」

「そうなの?」八重子はやや失望したようだ。

「実際に婆さんが暴れているところでも目にすれば、かなりインパクトが強かったと思うんだけど、そんなわけにいかないもんな。──ところで、婆さんは?」

「さあ……部屋で寝てるんだと思うけど」

「そうか。──直巳は何をしている?」

 昭夫の問いに八重子は即答しない。眉根を寄せ、考え込んでいる。

「なんだ、またゲームか」

「違うわよ。あの子にも計画を話したから、それについていろいろと考えているんだと思う。あの子だって、すごく傷ついてるんだから」

「多少の反省が何になるというんだ。とにかく、ちょっと呼んできなさい」

「何する気? 今ここで叱ったって──」

「そんなことしないよ。今度の計画をうまくいかせるためには、俺たち全員が完璧に嘘をつきとおさないといけないんだ。少しでも辻褄《つじつま》の合わないことがあれば、警察は徹底的にそこをついてくるぞ。だから予行演習をしておきたい」

「予行演習?」

「警察は直巳からも話を聞こうとするだろう。その時に話がしどろもどろになったり、矛盾が出てきたりしたらまずい。しっかりと打ち合わせておかなきゃ、尋問は乗り切れない。だから俺が事情聴取の予行演習をしてやるといってるんだ」

「そういうことなの……」八重子は目を伏せた。何やら考え込んでいる様子だ。

「どうした。早く呼んできなさい」

「あなたのいってることはわかるけど、今はまだ無理じゃないかしら。もう少し後にしたほうがいいと思うんだけど」

「無理って何だ。どういうことだ」

「女の子を死なせたっていうショックで、ずっと落ち込んでいるのよ。計画のことは話したけど、とても刑事の前で演技なんかできないと思うの。ねえ、あの子はここにはいなかったってことにできない?」

「いなかった?」

「だから事件が起きた時、あの子は家にいなかったことにするの。そうすれば刑事だって、あの子から話を聞こうとしないでしょ」

 八重子の提案を聞き、昭夫は天井を見上げた。全身から力が抜けそうだった。

「それ、あいつがいったんだな」

「えっ?」

「直巳がいったんだろ。自分はいなかったことにしてくれって」

「それはあの子がいったわけじゃなくて、あたしがそのほうがいいかなって思ったのよ」

「刑事と話したくないって、あいつがいったからだろ。そうだろ」

 八重子は唇を舐め、俯いた。

「無理ないわよ。あの子はまだ中学生なんだから、刑事のことは怖いと思ってるし、それに、あの子にそんなことは無理だと思わない?」

 昭夫は頭を振った。

 彼女のいっていることはわかる。堪え性がなく、気紛《き まぐ》れでわがままな直巳では、執拗に質問を繰り返すに違いない刑事の相手は無理なように思えた。面倒になり、途中で白状してしまいそうな気がした。しかし、そもそも誰が悪いのか。誰のせいでこんな苦労をしなければならなくなったのか。こんな事態になった今でも、直巳がすべてを両親に押しつけて逃げようとしていることが、昭夫には情けなかった。

「嘘に嘘を重ねることになるぞ」彼はいった。「直巳がここにいなかったのだとしたら、じゃあどこにいたんだってことになる。適当な嘘をいっても、警察は絶対に裏づけ捜査をするからばれてしまう。どっちにしても、あいつが刑事と会わなくて済むってことはない。だとしたら、嘘は少ないほうがいいんじゃないのか」

「そんなこといっても……」

 八重子が口ごもった時だった。インターホンのチャイムが鳴った。

 昭夫は妻と顔を見合わせた。

「また刑事かしら」八重子は怯えたように顔を曇らせた。「芝生のことで何かわかったのかな」

「まさか、そんなに早くはないと思うが」昭夫は乾いた唇を舐め、インターホンを取り上げた。はい、と低くいってみた。

「こんにちは。あたしだけど」

 昭夫はふうーっと太い吐息をついた。聞こえてきたのは春美の声だった。だが警察ではなかったことに安堵しつつ、昭夫は狼狽《ろうばい》していた。妹の対処については、まだ何も考えていなかったのだ。

「なんだ、今日はやけに早いじゃないか。店、休みなのか」のんびりとした声を出した。

「そうじゃないんだけど、近くまで来たから」

「ふうん」昭夫はインターホンを切り、八重子を見た。

「まずい。春美が来ちまった」

「どうするのよ」

「何とかして、うまく追い返してみる」

 昭夫は玄関に回ってドアを開けた。春美はすでに門の内側に入っていた。彼女にとっても実家なわけだから、遠慮する気はないのだろう。

「すまん、春美。今日もいいよ」昭夫はいった。

「いいって、どういうこと?」

「お袋のことは、こっちで何とかする。じつは今、取り込み中なんだ」昭夫は気まずそうな顔を作った。

「どうしたの?」春美は眉根を寄せた。「おかあさんのことで何かあったの?」

「いや、そうじゃない。お袋は関係ない。……直巳のことだ」

「直巳君?」

「進学のことで、八重子と揉《も》めちゃってさ」

 へえ、と春美は怪訝そうな顔をした。

「お袋は部屋でおとなしくしてるよ。体調もいいみたいだしさ。食事の世話ぐらいなら、俺にだって出来る。だから、今日のところは帰ってくれ」

「ふうん。大丈夫だっていうなら、あたしはそれでいいけど」

「わざわざ来てくれたのに悪いな」

「まあいいよ。じゃあ、これを食べさせて」そういって春美は提《さ》げていたスーパーの袋を差し出した。

 中を覗くとサンドウィッチと紙パック入りの牛乳がいくつか入っていた。

「こんなものでいいのか」昭夫は訊いた。

「最近のおかあさん、サンドウィッチを一番喜ぶの。ピクニックとかに行った気分になるみたい」

「へえ」昭夫が初めて聞く話だった。

「床の間に置いておけばいいわ。そうすると勝手に食べるから」

「どうして床の間なんだ」

「知らない。おかあさんにはおかあさんのルールがあるんじゃないの。子供と同じよ」

 理解しにくい話だったが、昭夫としては受け入れるしかなかった。

「明日はどうすればいい?」

「そうだな。もし必要になれば電話するけど、しなかったら、来てくれなくていい」

「えっ、そうなの?」春美は目を丸くした。

「ここ二、三日、お袋は体調がよさそうで落ち着いているし、土日は俺がいるから何とかやれると思うんだ。いつも春美たちに甘えてばかりなのも気が引けるしな」

「お義姉さんはそれでいいといってるの? でも揉めてるんじゃないの」

「揉めてるのは直巳の進路についてだといってるだろ。とにかく問題は何もないから、お袋については心配してくれなくていい」

「そうなの? それならよかった。でも油断しないでね、突然おかしなことを始めたりするから。お義姉さんの化粧品なんか、隠しておいたほうがいいわよ」

「化粧品?」

「なんか最近、化粧に興味があるみたいなのよ。といっても、大人の女としてって意味じゃないわよ。ほら、小さな女の子が母親の真似をして口紅を悪戯したりするでしょ。あれと同じょ」

「そんな悪戯をしたりするのか」

 昭夫は父親のことを思い山した。そういえば、父の章一郎もそんなことをしていた。それを教えてくれたのは政恵だ。その彼女が今は同じことをしている。

「だから、目に見えるところに迂闊《う かつ》に化粧品なんかを置いちゃだめよ」

「わかった。八重子にもいっておくよ」

「よろしく。もし何かあったら電話ちょうだい」

「わかった」

 春美が門を出ていくのを、昭夫は玄関先で見送った。これから自分たちのやろうとしていることを思うと、彼女に対して申し訳ないという気持ちで胸が痛んだ。

 昭夫がダイニングルームに戻ると、早速八重子が尋ねてきた。

「春美さん、何だって?」

「二日続けて、介護の必要がないといったものだから、変に思ったようだ。でも、何とかごまかした」

「化粧品がどうとかって聞こえたけど」

「ああ、婆さんのことだ」昭夫は春美から聞いた話を八重子に伝えた。

「そんな悪さをすることがあるの? 全然知らなかったわ」

 悪さ、という言葉に昭夫は引っかかった。しかしそれについて文句をいっている場合ではない。

「直巳を呼んできてくれ」彼はいった。

「あなた、だからそれは」

「甘いことなんかいってられない。俺たちがやろうとしていることがどういうことか、わかってるのか。死ぬ気になれなきゃやり通せない。あいつにも、そういうことをわからせる。ごねれば親は何でもいうことをきくと思ったら大間違いだ。全く、あいつは親を何だと思ってるんだ。とにかく呼んできなさい。おまえが嫌だというなら、俺が呼んでくる」

 彼が腰を浮かせると、八重子は先に立ち上がった。

「待ってちょうだい。わかった。あの子を呼んできます。でもお願いだから、厳しくいわないでね。それでなくたって、ひどく怯えているんだから」

「怯えて当然だ。早く呼んでくるんだ」

 はい、と答えて八重子は出ていった。

 昭夫は酒を飲みたかった。意識がなくなるまで酔い潰れたかった。

 気づくと春美から受け取ったスーパーの袋を提げたままだった。彼は吐息をつき、ダイニングを出た。奥の部屋の襖を開けると、薄暗い中で政恵が背中を向けて座っていた。

 お袋、とつい声をかけたくなる。だがそう呼びかけても彼女が反応しないことを昭夫は知っている。自分が何者なのか、今の政恵にはよくわかっていないのだ。「まーちゃん」と呼べば返事をすることが多いと春美は教えてくれたが、昭夫はそんなふうに呼ぶ気になれない。

「サンドウィッチだよ」

 彼がそういうと、政恵はくるりと振り向いた。そしてにっこりと笑った。童女のような笑顔と表現できるのかもしれなかったが、それを見て彼は寒気を覚えた。

 政恵は四つん這いで昭夫のところに来ると、スーパーの袋を掴み、また四つん這いで床の間に移動した。そして袋からサンドウィッチを取り出すと、ひとつずつ横に並べ始めた。

 彼女がまだ例の手袋をはめていることに昭夫は気づいた。何が気に入ったのか、彼にはまるでわからなかった、わかっているのは、無理矢理外させようとすれば、狂ったように怒るだろうということだけだ。

 部屋を出て、襖を閉めた。暗い廊下を歩きながら、ついさっき彼自身が八重子にいった言葉を思い出していた。

 親を何だと思ってるんだ──。

 それは自分自身に対して発すべき台詞だと気づき、彼はがっくりと項垂れた。

     15

 母親との同居は正解だった、と昭夫はこの家に住み始めてしばらくは信じていた。八重子も直巳も新しい生活に慣れたように見えたし、政恵も自分のペースで暮らしているように思えたからだ。だがそれは表面上のことにすぎなかった。重苦しい空気は、確実にこの家を包み込んでいった。

 目に見える最初の異変は、夕食時に起きた。いつものように食卓についた昭夫は、政恵の姿がないことに疑問を持った。

「お義母さんは自分の部屋で食べたいそうよ」彼の問いかけに、八重子はさらりと答えた。

 どうして、とさらに訊いたが、さあ、と彼女は首を捻るだけだった。

 その日以来、政恵が皆と食卓につくことはなくなった。それだけでなく、献立《こんだて》も別になった。八重子はすでにパートに出るようになっていたが、彼女が留守の間に政恵は自分の夕食を作っているようだった。

「あなた、お義母さんにフライパンを洗わないでっていってちょうだい。洗剤でごしごし洗われると、せっかく油に馴染んだ表面が台無しになっちゃうんだから」こんなふうに八重子から責められることも次第に増えていった。

 なぜ別々に料理を作るのか、一緒に食べないのか、そうした疑問を抱きつつ、昭夫は口には出さなかった。答えは大体想像がついたからだ。八重子と政恵では料理の好みも味付けも全く違う。それに関して二人の間でちょっとした諍《いさか》いがあり、そのことが尾を引いているに違いなかった。

 嫁と姑の確執《かくしつ》など世間ではよくあることだと割り切り、昭夫は見て見ぬふりを決め込んだ。家に帰るのが気重になり、酒場に寄ることが多くなった。そんな時、一人の女と知り合い、深い仲になった。新橋のバーで働いている女だった。

 ちょうどその頃、直巳がいじめに遭っているということで八重子から相談を受けた。憂鬱で面倒な話だと思った。大したことではないと思ったから、直巳を叱った。厄介事を増やしたことが苛立たしかったのだ。

 家庭に関心を持てない時期だったから、昭夫は女にのめりこんだ。二週間に一度が毎週になり、やがては三日にあけず店に通うようになった。その女の部屋に寄り、朝帰りすることもしばしばあった。

 さすがに八重子も感づいた。

「どこの女?」ある夜、彼女は詰問してきた。

「何の話だ」

「とぼけないでよ。毎晩毎晩、一体どこに通ってるの? 正直に白状しなさいよ」

「付き合いで飲みに行ってるだけだ。変な誤解するな」

「そんなんで誤魔化《ご ま か 》せると思ってるの? 馬鹿にしないでっ」

 毎晩のように口論となった。もちろん昭夫は女の存在など最後まで認めなかったし、八重子も証拠は掴めなかったようだ。しかし彼女の疑念が晴れたわけではなかった。むしろ確信していた。昭夫がその女と別れて何年も経つというのに、彼女が時折彼の携帯電話を盗み見していることを彼は知っていた。

 息苦しい生活が続いていたある日のことだった。政恵が丸一日以上、部屋から出てこないことがあった。どうしたのかと思って昭夫が様子を見に行くと、彼女は縁側に座って外を眺めていた。

 何をしているんだ、と彼は訊いた。返ってきた答えは予想外のものだった。

「お客さんが来てるみたいだから、部屋から出ないようにしているのよ」

「客? そんなもの来てないぜ」

「来てるじゃない。ほら、聞こえるでしょ」

 聞こえてくるのは八重子と直巳の話し声だった。

 昭夫はげんなりした。政恵が嫌味をいっていると思ったからだ。

「何があったのか知らないけど、いい加減うまくやってくれよ。俺だって疲れてるんだからさ」

 しかし政恵はきょとんとしている。

「私の知らないお客さんでしょう?」

「もういいよ。好きなだけやってくれ」そういうと昭夫は部屋を出た。

 この時にはまだ何も疑っていなかった。何か気にくわないことがあって、政恵が八重子を他人扱いしているだけだろうと思っていた。実際、その直後には、彼女はいつもと変わらぬ様子で八重子や直巳たちと接していた。もちろん仲むつまじいわけではなく、いつも通りにぎくしゃくしているということだ。

 だが事態はそれほど甘いものではなかった。

 ある夜、昭夫が布団に入ってうとうとしていたら、八重子に揺すり起こされた。階下で物音がする、というのだった。寝ぼけ眼《まなこ》をこすりながら見に行ってみると、政恵が和室に置いてあった卓袱台《ちゃぶだい》を、ダイニングルームのほうに引きずっているところだった。

「何やってるんだよ」

「だって、これはそっちの部屋でしょ」

「なんでだよ。和室に置くってことにしたじゃないか」

「でも、御飯食べるところに置かないと」

「何いってるんだ。テーブルがあるだろ」

「テーブル?」

 ほら、といって昭夫はドアを開けた。ダイニングテーブルが見えた。同居する時、台所と接していた和室をダイニングルームに改装した。その際に買ったものだ。

 あっ、というように政恵は口を開き、そのまま立ち尽くした。

「もういいから、早く寝ろよ。これは俺が戻しておくからさ」

 政恵は無言で自分の部屋に戻っていった。

 寝ぼけたのだろう、と昭夫は解釈した。だがそう思って八重子に話したところ、彼女の考えは違っていた。

「お義母さん、ぼけてきてるよ」冷めた口調でいった。

 まさか、と昭夫はいった。

「あなたは会社に行ってるから気づかないのかもしれないけど、確実にぼけてきてるから。料理を作って、そのままになってることがよくあるのよ。食べるのを忘れてるみたい。あたしが、お義母さん、お鍋のお粥は食べないんですかって訊いたら、自分はそんなもの作ってないっていうのよ。まあ、いつもいつもってわけじゃないけど」

 昭夫は絶句した。父親に続き、母親までもがそんなことになるとは想像もしていなかった。目の前が暗くなった。

「どうするの? いっておくけど、あたし、介護するためにこの家に来たんじゃないわよ」

 わかっている、と答えるのが精一杯だった。しかし、解決策など何ひとつ思い浮かばなかった。

 政恵の痴呆は、それから急速に進んだ。様々なタイプがあるようだが、彼女の症状の特徴は、とにかく記憶力の低下だった。たった今話したことを忘れ、自分の行動を忘れ、家族の顔を忘れ、それどころか、自分が誰であるかも曖昧《あいまい》になるというひどさだった。春美が病院に連れていってくれたが、治療できる見込みはないということだった。

 八重子は、施設に入れたらどうか、と提案した。姑を追い出せる千載一遇のチャンスだと思っていたかもしれない。しかし春美が断固反対した。

「おかあさんは、この家にいるのが一番安心なの。しかも改築される前の家にこだわっている。あの古い家で、おとうさんと慕らしているつもりなのよ。そう信じることで、ようやく落ち着いていられるの。ほかの場所に移したりしたら、きっと苦しむ。そんなこと、あたしは絶対に許せない」

 そうはいっても、世話をしなければいけないのは自分たちなのだ、と八重子は反論した。すると春美は、自分が何とかする、といった。「兄さんやお義姉《ね え 》さんの手は煩わせない。あたしが世話をします。だから、おかあさんはこの家に置いてください。いいでしょう?」

 妹にそこまでいわれれば、昭夫としては何もいい返せない。とりあえず、そのセンでやってみようということになった。

 最初の頃、春美は昼間にやってきた。政恵の相手をし、食事をさせ、昭夫が帰宅する頃に帰るのだ。だがすぐに、夜に来たほうがいいということになった。昼間、政恵は殆ど眠っており、夕方に起き出すことが多いからだ。毎夜、決められた時間に春美は来るようになった。いつも手料理を持参してくる。政恵が八重子の作ったものは食べないからだ。

 ある時、春美がいったことがある。

「おかあさんは、あたしのことを母親だと思っているのよ。自分はどこか知らない家に預けられていて、夜になれば母親が会いに来てくれると思っているみたい」

 昭夫には俄《にわか》に信じられない話だった。だが政恵の様子を見ていると、たしかに幼児退行の症状を示しているようだった。彼は関連本を何冊か読んでみた。どの本にも同じ意味のアドバイスが書かれていた。

 痴呆老人には本人が作り上げた世界がある。その世界を決して壊そうとしてはならない。それを維持しつつ、接しなければならない──。

 政恵の頭の中では、この家はもはや知らない家なのだった。そしてそこに住んでいる昭夫たちも、彼女にとっては知らない人なのだ。

     16

 松宮たちが受け持ち分の地域の家を全部回った時には、すでに夜になっていた。鞄の中は採取した芝を入れたビニール袋でいっぱいだ。

 収穫があったのかどうか、松宮自身にもよくわからなかった。当たってみた家のどこにも、少女を殺しそうな人間は住んでいなかった。誰もが平凡で、豊かさに多少の差はあれど、皆、懸命にその日その日を生きているように見えた。

「この町内にはいないよ」バス通りに向かって歩きながら松宮はいった。「あんなことをするのは、やっぱり変質者だ。独り暮らしをしている男で、歪んだ性癖を持った奴だ。考えてみろよ。歩いている女の子を、突然車につれ込んで、そのまま拉致したわけだぜ。どんな悪戯をする気だったか知らないけど、とにかくその場から遠ざかろうとするのがふつうじゃないか。で、どこかで殺しちまったもんだから、この町に戻ってきて死体を捨てることにしたわけだ。犯人がこの町の人間だと思わせるためにね。ということはつまり、犯人はこの町の住人ではないということになる。俺のいってること、何かおかしいかな」

 隣を歩いている加賀は無言だ。俯き、何事かを考えている顔だった。

「恭さん」松宮は呼びかけた。

 加賀はようやく顔を上げた。

「聞いてなかったのかよ」

「いや、聞いている。君の考えはよくわかった。妥当性もあるように思える」

 回りくどい言い方に、松宮は少し苛立った。

「いいたいことがあるならいえよ」

 加賀は苦笑した。

「そんなものはない。いっただろ。所轄の人間は一課の指示にしたがうだけだ」

「なんかそういうの、むかつくな」

「嫌味をいったつもりはない。気を悪くしたのなら謝る」

 二人はバス通りに出た。松宮はタクシーを捕まえようとしたが、その前に加賀がいった。

「俺はちょっと寄っていきたいところがある」

 空車を見つけたので手を上げかけていた松宮は、あわててその手を下ろした。

「どこだよ、寄っていきたいところって」

 加賀はためらいを見せた後、松宮をごまかすのは無理と思ったか、吐息をついてから答えた。

「一軒、気になる家があるんだ。少し調べていきたい」

「どこの家?」

「前原という家だ」

「前原……」松宮は鞄からファイルを出し、家のリストを眺めた。「あの家か。痴呆の婆さんがいる家だな。どうしてあの家が気になるんだ」

「話せば長くなる。それにまだ思いつきの段階だ」

 松宮はファイルを振り下ろし、加賀を睨んだ。

「所轄は一課の指示にしたがうんだろ? だったら、一課の人間に隠し事をするなよ」

「別に隠す気はないんだが」加賀は困惑したように無精髭《ぶしょうひげ》の伸びた顎を指先で掻き、肩をすくめた。「わかった。だけど、無駄足の可能性が高いぞ」

「大いに結構。無駄足をどれだけ踏んだかで捜査の結果が変わってくるって、ある人が教えてくれた」

 隆正の言葉だ。加賀がどんな顔をするかと思い、松宮は表情を窺ったが、彼は何もいわずに歩きだした。

 松宮が加賀の後をついていくと、銀杏公園に着いた。すでに立ち入り禁止は解除されていたが、公衆トイレの周辺にはまだロープが張られている。人気が全くないのは、夜だということもあるだろうが、事件のことがすでに知れ渡っているせいかもしれない。

 加賀はロープをまたぎ、トイレに近づいていった。入り口の前で足を止めた。

「なぜ犯人は死体をこんな場所に捨てたんだろう」加賀が立ったまま訊いてきた。

「そりゃあ、夜の公園なら人目につきにくいし、朝まで死体が発見される心配もない。まあそんなところじゃないのかな」

「しかし人目につきにくい場所なら、ほかにいくらでもある。山中でなくても、たとえば隣接している新座市のほうへ行けば、しばらくは誰も足を踏み入れなさそうな草むらが、あちこちにある。そういうところへ捨てたほうが、死体の発見だって遅れるはずだ。なぜ犯人はそういうことを考えなかったのか」

「だからさっきもいったように、この町の人間の仕業だと思わせるためじゃないのか」

 だが加賀は首を傾げた。「そうかな」

「違うというのか」

「犯人としては、そういうカムフラージュをするより、死体が見つかりにくくするほうがメリットが大きいはずだ。誘拐の可能性があるから、警察もすぐには表だって動けない」

「じゃあ恭さんは、なぜだと思うんだ。どうして犯人はこの場所を選んだのか?」

 加賀はゆっくりと松宮のほうに顔を巡らせた。

「俺はね、犯人はやむをえずこの場所に捨てたんじゃないかと思うんだ」

「やむをえず?」

「そう。犯人にはほかに選択肢がなかった。もっと遠くに捨てに行きたかったが、その手段がなかったというわけだ」

「手段……車か」

「そういうことだ。犯人は車の運転ができない。もしくは車を持っていない」

「そうかな。それはないと思うけどな」

「どうして?」

「だって、車がなかったら今回の犯行は不可能だ。第一、どうやって死体を運んだんだ。抱えてここまで歩いてきたっていうのか。いくら子供だといっても、二十キロ以上あるんだぜ。それに死体は段ボール箱に入れられていた。かなりでかい箱だ。抱えて歩くのはかなり大変だ」

「その段ボール箱のことだが、死体には発泡スチロールの粒がついていたという話だったな」

「ああ、だから家電製品の空き箱を使ったんだろうとみられている」

「発泡スチロールの粒がついていたということは」加賀は人差し指を立てた。「犯人は段ボール箱に、直に死体を入れたということになる」

 一瞬松宮は、加賀のいっている意味が理解できなかった。頭の中で光景を思い浮かべ、ようやく合点がいった。「そうだな」

「君は車を持っていたかな」

「持ってるよ。中古で買ったんだけどね」

「中古だろうが、大事なマイカーだ。さて君ならどうする。車で運ぼうとする時、段ボール箱に死体を直に入れたりするかな」

「別に問題はないと思うけどね」

「死体が濡れててもかい?」

「濡れて……?」

「被害者は首を絞められた時、排尿している。発見された時もスカートがぐっしょりと濡れていた。俺は鑑識よりも先に現場を見たから、よく覚えている。トイレの中だったから、臭いには気づかなかったけどね」

「そういえば、捜査資料に書いてあった気がする」

「もう一度訊く。そういう死体でも直に段ボール箱に入れるかい?」

 松宮は唇を舐めた。

「死体の尿が段ボール箱に浸みて車が汚れるのは、あまり歓迎できないな」

「汚れて臭くなる。おまけに死体の痕跡が残ってしまうことになる」

「死体をいったんビニールシートか何かで包んで、それから箱に入れる……だろうな」

「今回の犯人はそうしなかった。なぜか」

「車で運んだのではないから……か」

 加賀は肩をすくめた。

「もちろん、必ずしも断言できるわけじゃない。犯人が雑な性格で、車が汚れることを気にしなかったのかもしれないからな。だけど俺は、その可能性は低いと思う」

「だけど車を使わないのなら、どうやって大きな段ボール箱を運んだんだ」

「問題はそこだ。君ならどうする?」

「さっきもいったように、抱えて運ぶのは大変だ。台車があれば便利だけど、夜中にそんなものを押していたら、それこそ目立ってしまう」

「同感だ。目立たず、台車と同様の働きを期待できるものといったら何だろう?」

「ベビーカー……いや、昔の乳母車ならともかく、最近のやつじゃ無理だな」

 加賀はにやりと笑い、携帯電話を取り出した。それを操作して、松宮のほうに向けた。

「これを見てくれ」

 松宮は携帯電話を受け取った。液晶画面には、カメラで撮影された地面らしきものが写っている。

「これは?」

「今、君が立っている地面を撮影したものだ。鑑識も撮ってると思うけど、一応俺も押さえておいた」

「これがどうしたんだ」

「よく見ると、何かを消したようにこすられているのがわかるだろ」

 たしかに地面に何本かの太い筋が入っている。

「子供が地面に落書きしただけじゃないのか」

「だとすると今度は、犯人の痕跡がないことのほうが気になる。台車にせよ、台車に代わる何かにせよ、犯人はそれを使ってここまで運んできたはずなんだ。昨日は午前中まで雨が残っていたから、このあたりの地面は結構|緩《ゆる》かったはずだ」

「じゃあもしかしたら、これがそうなのかもしれないな。でも消されてるんじゃ仕方がない」そういって松宮は携帯電話を加賀に返そうとした。

「よく見ろよ。消されている幅はどの程度だと思う?」

「幅?」もう一度画面を見た。「三十センチぐらいかな」

「俺もそう思う。三十センチだと、台車にしては小さすぎる」

「たしかに。するとこれは……」松宮は画面から顔を上げた。「自転車の跡か」

「おそらくね」加賀はいった。「しかも後ろに荷台がついているやつだ。最近の自転車はついていないタイプが多いからな。さらにいえば、あまり大きくない」

「どうして?」

「やってみればわかる。でかい段ボール箱を載せ、それを支えながらもう一方の手でハンドルを握ろうとしたら、あまり大きな自転車だと手が届かない」

 その状況を松宮は思い浮かべた。加賀のいっていることは妥当性があるように感じられた。

「犯人の周辺に芝生を生やしたところがある。犯人は車の運転ができない、あるいは車を持っていない、そのかわりに荷台付きの自転車を持っている……か」そういいながら松宮は、その条件に合致する家に思い当たった。「それで前原か。たしかにあの家にはガレージも駐車スペースもなかった。自転車は……そういえば恭さん、あの家の自転車を見ていたな」

「荷台がついていた。あの自転車なら、大きな段ボール箱も運べる」

「なるほどね。でも……」

「なんだ」

「それだけで一軒の家に絞るっていうのは乱暴すぎやしないか。たとえば、家に車はあるけれど、犯人自身には運転ができなかったという可能性もあるわけだし」

 松宮の言葉に加賀は頷いた。

「俺も、それだけであの家に目をつけたわけじゃない。もう一つ、引っかかることがある。手袋だ」

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