「手袋?」
「初動捜査の段階で、俺は一度あの家に行っている。春日井優菜の写真を見せて、目撃情報を集めていた時だ。その時、あそこの認知症の婆さんと会った。婆さんは庭にふらふらと出てきて、そこに落ちていた手袋を拾ってはめていた」
「どうしてそんなことを?」
加賀は肩をすくめた。
「詔知症の患者の行動に論理的な説明をつけようとしても無駄だ。それより問題はその手袋だ、婆さんはその手袋を俺に見せてくれた。こんなふうにしてな」彼は松宮の顔の前で手を広げた。「その時、臭ったんだよ」
「えっ……」
「かすかに異臭がしたんだ。尿の臭いだった」
「被害者は尿を漏らしていた……その臭いだっていうのか」
「犬じゃないから、そんなことまではわからない。だけどその時俺は思ったんだよ。犯人が手袋をはめていたなら……いや、おそらくはめていただろう。素手で死体に触れると指紋が残ってしまうおそれがあるからな。だとすれば、その手袋は被害者の尿で汚れていたはずだってな。その後、発泡スチロールのことが判明したりして、今話したようなことを考えた。するとますますあの家のことが気になり始めたというわけだ」
松宮は前原という家のことを思い出した。どこにでもありそうな平凡な家だった。前原昭夫という世帯主からも、犯罪の気配は感じなかった。強《し》いていえば認知症の母親が暴れるので困っているという話が印象に残っている程度だ。
松宮はファイルを開け、前原家に関する資科を調べた。
「四十七歳の会杜員、その妻、中学生の息子、それから認知症の婆さん……。この中の誰かが犯人だというのかい。するとほかの家族は、そのことを知らないわけか。家族に知られずに、今度の犯行は可能かな」
「いや、不可能だろう」加賀は即座に答えた。「だからもしあの家の誰かが犯人なら、ほかの者は犯行隠蔽の手伝いをしたと考えられる。そもそも今回の事件は、少なくとも二人以上の人間が犯行に関わっていると俺は見ている」
断定する口調に松宮は、加賀の目を見返した。それに応じるように加賀は懐から何かを出してきた。一枚の写真だった。
松宮はそれを受け取った。それは被害者の足を撮影した写真だった。両足とも運動靴が履かされた状態だ。
「これが何か?」松宮が訊いた。
「靴紐の結び方だ」加賀はいった。「よく見ると両足の結び方が微妙に違っている。どちらも蝶結びだが、紐の位置関係が逆になっているんだ。しかも一方がきっちりと縛ってあるのに比べて、もう一方はずいぶんと緩めだ。ふつう、同じ人間が靴紐を結んだ場合、左右で結び方が異なるということはあまりない」
「そういわれれば……」松宮は顔を近づけ、写真を凝視した。たしかに加賀のいうとおりだった。
「鑑職の報告では、靴は一度両方とも脱がされた形跡があるということだったな。どういう理由でかは不明だが、右と左で別の人間が紐を縛ったと考えるべきじゃないかな」
松宮は思わず唸《うな》った。
「家族ぐるみの犯行、というわけか」
「殺人は単独犯でも、隠蔽に家族が協力したことは十分にありうる」
松宮は写真を返しながら加賀の顔を改めてしげしげと眺めた。
「なんだ?」加賀が怪訝そうに訊いた。
「いや、何でもない」
「というわけで、これから前原家について少し聞き込みをしておこうと思ったわけだ」
「付き合うよ、俺も」
「捜査一課さんの賛同を得られて、俺もほっとした」
歩きだした加賀の後を追いながら、さすがだな、と松宮は思った。
17
前原家の向かい側に、太田《おおた 》という家があった。白くて新しい家だった。庭に芝生はなかった。インターホンのチャイムを鳴らし、松宮が名乗った。玄関に出てきたのは三十代半ばぐらいの主婦だった。
「向かいの前原さんについて、ちょっとお尋ねしたいことがあるんです」松宮はそうきりだした。
「何ですか」
主婦は怪訝そうな顔をしながらも、その目に好奇の色を滲《にじ》ませていた。話を引き出しやすそうだ、と松宮は思った。
「最近、何か変わったことはありませんでしたか。ここ二、三日のことで結構なんですが」
松宮の質問に主婦は首を傾げた。
「そういえば、最近はあまりお見かけしてませんね。以前は奥さんとお話しすることもあったんですけど。あのう、例の女の子の死体が見つかった事件のことですか?」早速、逆に質問してきた。
松宮は苦笑して手を振った。
「詳しいことは申し上げられないんです。すみません。ええと、前原さんの御主人のことは御存じですか」
「ええ、何度か御挨拶を交わしましたけど」
「どういった方ですか」
「そうですねえ……おとなしい人ですよ。奥さんが積極的で勝ち気な方だから、そう見えてしまうのかもしれませんけど」
「息子さんがいますよね、中学生の」
「直巳君ですよね。ええ、知っています」
「どんなお子さんですか」
「まあ、ふつうの男の子ですよ。あまり活発ってことはないみたいですね。小学生の時から知ってますけど、外で遊んでいるところは見たことがないんじゃないかしら。このあたりの子供は、うちの前でボール遊びなんかをして、一度はうちの庭にボールを入れたりするんですけど、直巳君はそんなことはなかったと思います」
どうやら彼女は前原直巳について、最近の情報は持っていないようだ。
あまり参考になる話は聞けそうにないので、そろそろきりあげようかなと松宮が考えていると、「あそこのお宅も大変ですよね」と彼女のほうからいった。
「何がですか」
「だってほら、お婆さんがあんなふうでしょ」
「ああ……」
「以前も奥さんがこぼしておられたことがあるんですよ。本人のためにも、どこか施設に入れたほうがいいんだけど、そういうところはなかなか空きがないし、あったとしても御主人や御主人の親戚筋がいい顔をしないだろうって。ほんとにねえ、急にですもんねえ。痴呆、じゃなくて認知症でしたっけ。以前はあそこのお婆さんも、しっかりした人だったんですけどねえ。息子さんたちと一緒に暮らすようになってからなんですよ。あんなふうになったのは」
周囲の環境が変わったことがきっかけで認知症が進んだケースについては、松宮も聞いたことがあった。変化に気持ちが対応できなくなるのかもしれない。
「でもねえ」ここで主婦はかすかに意味ありげな笑みを浮かべた。「そりゃあ奥さんはお困りだと思うんですけど、認知症のお年寄りを抱えているお宅はたくさんあるわけでしょう? そういうほかのお宅に比べたら、前原さんのところはまだましだと思うんですよ」
「といいますと?」
「だって、毎晩のように御主人の妹さんが来てくださるんですもの。お婆さんのお世話をするためだけにですよ。妹さんこそ大変だろうなあって思います」
「前原さんの妹さんが? 近くにおられるんですか」
「ええ、駅前で洋品店をやっておられます。店の名は、『タジマ』とかいったと思いますけど」
「金曜の夜はどうでしたか」今まで黙っていた加賀が、急に横から尋ねた。「その夜もやはり妹さんは来ておられたようでしたか」
「金曜ですか。さあ、それは……」主婦は考え込んでから首を振った。「そこまではわかりません」
「そうですか」加賀は笑顔で頷いた。
「あっ、でも、そういえば」主婦がいった。「ここ二日ほどは来ておられないかもしれません。あそこの妹さんは、いつも車でいらっしゃるんです。といっても小さい車ですけどね。家の前に止めてあるのをしょっちゅう見ます。でも昨日とか今日とかは、止まってなかったような気がします」
「車がねえ。そうですか……」加賀はやはり笑みを浮かべていたが、明らかに考えを巡《めぐ》らせている様子だった。
この主婦から聞き出せそうなことはほかにはなさそうだった。それで松宮は、「お忙しいところ、どうも──」ありがとうございました、と続けようとした。
ところがその前に加賀がいった。「田中さんについてはいかがですか」
「えっ、田中さん?」
主婦は虚をつかれたようだが、松宮も当惑していた。田中とは誰のことだ。
「はす向かいの田中さんです」加賀は前原家の左隣の家を指差した。「あちらのお宅について、最近何かお気づきになったことはありませんか。どんな些細なことでも結構です。たしかあちらの御主人は、以前町内会長をされていたようですが」
「ええ、私たちが引っ越してきた時も、御挨拶に伺いました。ずいぶん昔のことですけど」
加賀は田中という家について二、三の質問した後、周辺のいくつかの家についても同様のことを尋ねた。主婦は徐々にうんざりとした表情になっていった。
「どうしてほかの家のことも訊いたんだ?」主婦の家を辞去した後、松宮は訊いた。「大して意味があるようには思えなかったんだけど」
「そのとおりだ。意味はない」加賀はあっさりと答えた。
「えっ、じゃあ、何のために……」
すると加賀は立ち止まり、松宮を見た。
「前原家が事件に関わっているという確証は今のところ何もない。空想に近い推理の上での話だ。もしかしたら俺たちは、何の罪もない人々について聞き込みをしているのかもしれない。そのことを考えれば、彼等が不利益を披《こうむ》らないよう最大限の努力をするのは当然のことじゃないのか」
「不利益って?」
「俺たちが聞き込みをしたことで、さっきの主婦の前原家に対する印象は確実に変わった。あの好奇心に満ちた目を見ただろ。聞き込みについて彼女が想像を交えて他人にいいふらさないとは誰にもいいきれない。噂は噂を呼び、前原家を取り囲んでいく。仮に犯人が別にいて、そいつが掴まったとしても、一度広まった噂はなかなか消えないものだ。いくら捜査のためとはいえ、そういう被害者を出してはいけないと俺は考えている」
「それで無間係な家のことも……」
「ああいうふうに質問したことで、あの主婦にとって前原家だけが特別な存在ではなくなったはずだ。自分の家のことも、よそで聞き込みされているのかもしれない、とまで考えるんじゃないか」
松宮は目を伏せた。
「そんなことまで考えたことがなかったな」
「俺のやり方だ。真似をしろということじゃない。それはともかく」加賀は首を巡らせ、視線を前原家に向けた。「妹が来ていない、というのが気になるな」
「婆さんの世話をしているという妹だね」
「さっき俺たちが行った時、婆さんが暴れていると前原昭夫はいっていた。もし世話係がいるのなら、呼ぶのがふつうじゃないか。なぜ呼ばなかったのか」
「妹が留守だったとか」
「たしかめてみよう」
タクシーを拾い、駅前で降りた。洋品店の「タジマ」は、バス通りから折れてすぐのところにあった。主婦を対象にしていると思われる婦人服やアクセサリー、化粧品などが売られている。店の奥で四十歳ぐらいの女性が、立ったまま電卓を叩いていた。松宮たちが入っていくと、「いらっしゃいませ」と振り返りながらも戸惑った表情を見せた。男性が二人で入ってくることは殆どないからだろう。
松宮が警察手帳を見せると、彼女の顔はさらに強張った。
「こちらに前原昭夫さんの妹さんがいらっしゃると聞いたのですが」
「あたしですけど」
「あ、どうも。失礼ですけど、お名前は?」
田島春美です、と彼女は名乗った。
「前原さんの家に、おかあさんがいらっしゃいますよね。前原政恵さん」
「母が何か?」田島春美の目が不安そうに揺れた。
松宮は、最近も母親の世話をしに行っているかどうかを確認してみた。するとやはり、ここ二日間は行っていないという答えが返ってきた。
「さっきも行ったんですけど、ここのところ母の体調がよさそうだし、おとなしくしているようだから、今日も必要ないといわれたんです」
「体調がいい? えっ、でも──」
暴れて困っている、と前原昭夫が話していたことをいおうとした。だがそんな松宮の脇腹を加賀が小突いてきた、松宮は驚いて彼を見た。
加賀は素知らぬ顔で田島春美に質問した。「そういうことはよくあるんですか」
彼女は首を捻った。
「いいえ、今まで一度もありません。……あのう、これは何についての調査なんでしょうか。兄の家で何かあったんですか」
「銀杏公園で女の子の死体が見つかった事件について御存じでしょうか」加賀はいった。
「あの事件について?」田島春美は目を見張った。
加賀は頷いた。
「犯人が車を使った可能性もあるということで、付近の不審車両について調べているんです。それで前原さんのお宅の前に、いつも駐車している車があるという話を聞きまして、少しお話を伺いたいと思ったわけです」
「あたしの車です。すみません。ほかに止めるところがないものですから」
「いえ、今日のところはそれはいいです。それにしても大変でしょうね。おかあさんの世話をするために毎日通うというのは」
「それほどでもないんですよ。あたしもいい気分転換になりますし」田島春美は笑った。瞼が分厚いので、目が糸のように細くなる。
「でも、ああいう病気の方の扱いは、いろいろと難しいというじゃないですか。機嫌を損ねて暴れたりするような人もいると聞きますが」世間話の調子で加賀はいう。
「そういう人もいるんでしょうけど、うちの母は大丈夫です。それに、年寄りの世話はやっぱり肉親がするのが一番ですから」
「なるほど」
加賀は頷き、松宮に目配せした。どうもありがとうございました、と松宮は田島春美に頭を下げた。
「小林主任に報告したほうがいい」店を出てすぐに加賀がいった。
「いわれなくても、そのつもりだ」松宮はそういって携帯電話を取り出した。
18
インターホンのチャイムが鳴った。今日はこれで四度目だ。そのうち二回が刑事の訪問だった。
そして今回も彼等だった。インターホンに出た昭夫は、暗い気持ちで応対し、受話器を置いた。
「また刑事?」八重子が緊張を露わにした顔で訊いた。
そうだ、と彼は答えた。
「じゃあ、さっきの打ち合わせ通りにやるの?」
「まあ待て、まだ連中の目的がわからんからな。どうにもならないと思った時には俺がきりだす。そうしたら、後は決めた通りに、な」
八重子は頷かない。祈るように胸の前で両手を組んでいる。
「なんだ、どうした」
「いえ……うまくいくかしらと思って」
「今さら何をいってるんだ。やるしかないだろう」
八重子は震えるように首を縦に動かし、そうね、と小声で答えた。
昭夫は玄関に回った。ドアを開けると、そこに立っていたのは例の二人だった。加賀と松宮だ。
「申し訳ありません。何度も何度も」松宮が恐縮したようにいった。
「今度は一体何ですか」
「じつは被害者となった女の子の足取りを調べていまして、この付近にやってきたのではないかという説が出ているんです」
松宮の話に昭夫の体温は上昇した。そのくせ背筋はぞくりとした。
それで、と彼は訊いた。
「御家族の皆さんに確認していただきたいんです。この女の子を見かけなかったかどうかをです」松宮は写真を出してきた。あの少女の写真だった。
「そのことなら、今朝、そちらの刑事さんにお答えしたはずですけど」昭夫は加賀のほうを見ていった。
「あの時は、御主人から伺っただけですよね」加賀がいった。「御家族の方にも確認したいんです」
「女房には確認したはずですが」
「ええ。でも、中学三年になる息子さんがいらっしゃいますよね」
いきなり直巳のことをいわれ、昭夫の心はぐらついた。警察というものは各家庭の家族構成まで把握しているのだ、ということを知った。
「息子は何も知らないと思います」
「そうかもしれませんが、一応念のために」
お願いします、と横で松宮もいった。
「じゃあ、写真を貸していただけますか。ちょっと訊いてきます」
「そのついでにですね」松宮が写真を差し出しながらいった。「昨日、御家族の方々がいつ家にいらっしゃったか、出来るだけ詳しく訊いていただきたいのですが」
「何のためにですか」
「じつは殺された女の子が、芝生の上を歩いた可能性があるんです。昼間、芝生を採取させていただいたのも、どこの芝生かを特定するためでした」
「うちの芝生だというんですか」
「いえ、それはまだわかりません。ただ、もし女の子が勝手にこちらの庭に入ったのだとしたら、お宅が留守の時ということになります。ですから、そういう時間帯があったかどうかを確認させていただきたいんです」
「すみません。前原さんだけでなく、ほかのお宅にも伺っていることなんです」加賀が愛想笑いを送ってきた。
本当にそうなのか、うちにだけ訊きにきたのではないのか──昭夫は疑ったが、それをしつこく詰問するとかえって怪しまれそうだった。写真を受け取り、いったん家の中に戻った。
「何よ、それ。どういうこと?」話を聞いた八重子は顔を青ざめさせた。
「わからん。とにかく誰がいつ家にいたかを教えてくれってことだ」
「それって、アリバイ確認じゃないの?」
「そうかもしれないと俺も思ったよ。だけど、家にいた時間なんて関係ないんじゃないか」
「刑事、うちを疑ってる様子なの?」
「そんなふうにも思えるし、考えすぎのようにも思える」
「で、どうするの? 何と答えるの?」
「それを考えているところだ」
「直巳には疑いがかからないようにしてよ。あの子は学校から帰って、そのままずっと家にいたってことにすれば?」
昭夫はしばらく考えた後、八重子を見て顔を横に振った。
「それはまずいかもしれない」
「どうしてよ」
「後々のことを考えてるんだ。例のことをやらなきゃいけないかもしれないだろ」
「だったらどうなの?」
「もうこの段階から布石を打っておかなきゃいけないってことだ」
昭夫は写真を手に玄関に戻った。ドアの外では二人の刑事が、さっきと同じ姿勢で待っていた。
いかがでしたか、と加賀が訊いてきた。
「息子も、この女の子には見覚えがないといっています」
「そうですか。では、昨日の皆さんの帰宅時間等について教えていただけますか」
「私が帰ったのは七時半頃です」
「失礼ですが、会社はどちらでしょうか」加賀はメモを取る格好をした。
昭夫は会社が茅場町にあること、定時が五時半で、昨日は六時半頃まで会社にいたことなどを話した。
「お一人で?」
「仕事は一人でしていましたが、まだ残っている社員はほかにもいました」
「同じ職場の方ですか」
「うちの課の人間もいましたが、よその部署の者もいました。ひとつのフロアを共有しているものですから」
「なるほど。すみませんが、その人たちのお名前と職場を教えていただけませんか」加賀はあくまでも低姿勢を装っている。
「私は嘘なんかついていません」
「いやいや」加賀はあわてた様子で手を振った。「そういう意味ではないんです。これは警察の手続き上のことです。ご本人の話を聞いて、それを別の方向から確認する。それでようやく我々も仕事をしたことになるんです。いやもう、お役所仕事と馬鹿にしてくださって結構です」
昭夫は吐息をついた。
「たしかめてくださって結構です。隣の職場の山本という者が残っていました。あとそれからうちの者が二人ほど」それらの名前と職場を昭夫は刑事に教えた。
彼は確信した。刑事たちは間違いなく前原家の人間のアリバイを調べている。やはり芝生が決め手になっているのかもしれない。
昭夫のアリバイは証明されるだろう。しかしそれは前原家にとっては何のプラスにもならない。単に容疑者が絞られるだけのことだ。
彼等の捜査は今後、熾烈《し れつ》をきわめるものになるだろう。その場しのぎの嘘など通用しない。彼等が本気になって取り調べをすれば、直巳などは簡単に真実を吐露しそうだ。
「奥さんは?」加賀の質問は続く。
「パートに出ていて、帰ったのは六時頃だそうです。パート先は──」
昭夫の言葉をメモしてから、加賀はさもついでにといった様子で、「息子さんは?」と訊いてきた。
いよいよ来た、と昭夫は腹に力を込めた。
「学校を出た後、あちこちほっつき歩いていたそうです。家に帰ってきたのは八時過ぎだったと思います」
「八時過ぎ? 中学生にしてはずいぶんと遅いですね」
「いやあ、全くそのとおりです。叱っておきます」
「息子さんはお一人だったんでしょうか」
「そのようです。はっきりしたことをいわんのですが、どうせゲームセンターか何かでしょう」
加賀は釈然としない様子で手元のメモを見ていたが、顔を上げると再び笑みを浮かべた。
「あの例のお婆さんは?」
「婆さんは」昭夫はいった。「昨日は風邪気味で、ずっと寝ていました。それにあの調子ですからね、勝手に庭に入る人間がいたとしても、どうにもならんでしょう」
「風邪……ですか。今日はそんなふうには見えませんでしたが」
「一昨日《おととい》の夜、かなり高い熱がでたんです」
「そうですか」
「ほかには何か?」
「いえ、これで結構です。どうも夜分に申し訳ありませんでした」
二人の刑事の姿が見えなくなるのを確認し、昭夫は門扉を閉めた。
ダイニングルームに戻ると、八重子が電話に出ているところだった。彼女は受話器を押さえて昭夫を見た。「春美さんからよ」
「何の用だ」
「訊きたいことがあるって……」
いやな予感を抱きつつ、彼は電話に出た。「俺だ」
「ああ、春美だけど」
「なんだ」
「さっき、うちに警察の人が来たのよ。それで、おかあさんのことを訊かれたんだけど」
どきりとした。ついに春美のところにまで警察の手は及んでいる。
「お袋のことって……」
「ていうか、昨日と今日、あたしが兄さんの家に行ってないことについてよ。どうしてですかと訊かれたから、兄から来なくていいといわれたからですって答えたんだけど、それでよかったのよねえ」
「うん、それはそれでいい」
「なんか、あたしがいつも路上駐車しているものだから、不審車両のように思われたみたい」
「うちにも何回か刑事が来た。どうやら町内中を当たっているそうだ」
「そうなの。なんだかいやあねえ。ところで、おかあさんの具合はどうなの? さっきのサンドウィッチ、おかあさんにちゃんとあげたでしょうね」
「大丈夫だ。心配するな」
「じゃあ、何かあったら連絡して」
「わかった」
電話を切った後、昭夫はがっくりと首を折った。
「あなた……」八重子が呼びかけてきた。
「もうほかに方法はない」彼はいった。「覚悟を決めよう」
19
松宮が加賀と共に警察署を出たのは、間もなく午後十一時になろうかという頃だった。彼は泊まり込む気でいたが、今日はそこまでしなくていいと小林にいわれた。最初から飛ばしすぎると続かないぞ、というのが主任のアドバイスだった。
「恭さんはこれからどうするんだ」松宮は訊いた。
「真っ直ぐ帰る。明日に備えておきたいからな。どうして?」
「いや、あの……三十分ほど付き合ってくれないかと思ってさ」
「どこへ行く気だ」
松宮はためらった後で答えた。「上野だ」
加賀の目元が険しく曇った。
「そういうことなら、俺は遠慮しておこう」
「遠慮って……」
「明日、遅れるなよ。大事な一日になる」
背を向けて歩きだす加賀を見送り、松宮は首を振った。
前原家のことは、署に戻って小林や石垣に話した。石垣の最初の感想は、「相変わらず大胆な推理だな、加賀君」というものだった。報告をしたのは松宮だったが、誰が前原家に注目したのか、上司にはわかっていたようだ。
その上で石垣は、「しかし弱いな」といった。
「一つ一つの話は面白いし、説得力もある。段ボール箱に直接死体を入れたのは犯人が車を使わなかったからだろう、という点なんかも興味深い。だが全体として考えるとどうかな。それでは家宅捜索も難しい」
特に、と係長は続けた。
「犯人に車という手段がないとすれば、大きな疑問が一つ発生することになる」
わかっています、と答えたのは加賀だった。
「犯人が被害者をどうやって家に連れ込んだか、ですね」
「そうだ。この手の犯罪では、車に乗った犯人が強引に被害者を拉致するというケースが圧倒的に多い。甘言を用いて、最初の短時間は一緒に歩くなりしたとしても、最終的には必ずといっていいほど車を使う。被害者に逃げられたくないわけだから、当然そうなる。もちろん車を使わない例もあるが、その場合は死体遺棄現場がそのまま殺害現場となっている。元々人気のないところに誘い出して犯行に及んでいるわけだから、改めて死体を捨てに行く必要がないわけだ。君たちの推理では、犯人は車を使わずに自分の自宅なりアジトに被害者を誘導し、そこで殺害したことになる。なぜ犯人はそんなことをしたんだ。殺害すれば死体の処置に困る。当初は殺す気はなくても、何らかの悪戯はする気だったわけだろう? そのことを披害者が親にいえば、たちまち逮捕されることになるんだぞ」
さすがに石垣の分析は冷静で論理的なものだった。だがそれに対しても加賀は自分の考えを、持っていた。
犯人と被害者は以前から顔見知りだったのではないか、というのだった。
「自分は、被害者が一旦帰宅していながら、母親に無断で外出した点が気になります。これまでの調べで、その外出の目的は明らかになっていませんが、犯人と接触するつもりだったと考えたらどうでしょうか。それならば被害者が犯人の元へ行くことにもさほど抵抗は覚えなかったはずです。また犯人側に、少々悪戯めいたことをしても被害者にはさほど騒がれないだろう、という甘い見通しがあったことも考えられます」
加賀の説明に、石垣は首を捻りながらもこういった。
「わかった。では君たちはもう一度被害者の両親のところへ行ってくれ、そういう人間がいなかったかどうか、徹底的に調べるんだ。そこで前原家に繋がるものが出てきたなら、こっちはすぐに動こう」
係長の指示を受け、はい、と松宮は力強く答えたのだった。
加賀|恭一郎《きょういちろう》という刑事はやはりすごい、と彼は改めて思い知った気分だった。たった一日一緒に行動しただけだが、その洞察力には舌を巻かされた。小林が、必ずいい経験になる、といった意味もわかった。
それだけに、加賀と組んで捜査に当たっていることを隆正に話せば、どれほど喜ぶだろうと思った。彼のすごさを一刻も早く伝えたかった。無論、彼が一緒に来てくれれば理想的だったが。
上野には隆正が入院している病院があるのだ。
病院に着いた時には午後十一時半を過ぎていた。松宮は夜間用出入り口から中に入った。何度も顔を合わせたことのある警備員が、入ってすぐのところにある詰め所にいた。彼が会釈してみせると、中年の警備員は黙って頷いてきた。
照明の絞られた廊下を歩き、エレベータに乗った。五階で降り、まずはナースステーションに向かった。金森登紀子が、何か書き物をしているところだった。彼女は制服の上から紺のカーディガンを羽織っていた。
「あのう、見舞ってもいいですか」窓越しに訊いてみた。
金森登紀子は笑顔を見せた後、少し迷った表情になった。
「おやすみ中だと思いますけど」
「いいんです。顔を見たら、すぐに帰ります」
彼女は頷いた。
「じゃあ、どうぞ」
松宮は頭を下げ、その場を離れた。隆正の病室に向かった。廊下に人気はない。彼の足音だけがやけに響いた。
隆正はやはり眠っていた。耳をすませると、かすかに寝息が聞こえてくる。それを確認し、松宮はほっとした。ベッドの横までパイプ椅子を移動させ、腰掛けた。鳥のように痩せた隆正の首が、規則正しく徴動しているのを見つめた。
傍らの小さなテーブルには、相変わらず将棋盤が載っていた。薄暗いので、戦況がどう変わったのか、よくわからなかった。もっとも明るかったところで同じことかもしれない。松宮は将棋が出来なかった。
当分来られないかもしれない、と思った。明日から捜査はますます本格的なものとなるだろう。練馬署で寝泊まりすることも覚悟しなければならない。
今度の事件が終わるまでは保《も》ってほしい、と松宮は願った。彼でさえ来られるかどうかわからないのだ。見舞いに消極的な加賀が、事件終了までにここへ来るとはとても思えなかった。
隆正の穏やかな寝顔を眺めながら、松宮は十年以上も前のことを思い出していた。七月の、暑い日だった。被は高校一年だった。その日、彼にとっては従兄にあたる人物──加賀恭一郎と初めて会った。
彼のことは克子から聞かされてはいた。しかしそれまで会う機会がなかった。三鷹で独り暮らしをしていた隆正の家へ克子と一緒に遊びに行った時、たまたま彼が現れたのだ。当時彼は荻窪のアパートにいるという話だった。
「よろしく」
紹介された時に加賀が発したのは、その一言だけだった。用を済ませると、さっさと出ていってしまった。すでに警察官になっていたから、きっと忙しいのだろうと松宮は解釈した。しかし加賀父子が殆ど言葉を交わそうとしないことや、お互いの顔を見ようとさえしないことは気になった。
それ以後、松宮はこの歳の離れた従兄と会うことはめったになかった。久しぶりに会ったのは、隆正が引っ越しをした時だった。それまで住んでいた借家が老朽化したため、同じ家主が経営するアパートに移ることになったのだ。
引っ越しには松宮も克子と共に手伝いに行った。その時に見つけたトロフィーの数に松宮は驚いた。いずれも加賀が剣道で獲得したものだった。全日本選手権の優勝トロフィーまであった。
「恭さんはとにかくすごいの。勉強だってよく出来たし、警察官になってからも、いろいろと手柄を立てているし」
克子は加賀のことになると饒舌《じょうぜつ》になった。隆正の機嫌をとる意味もあったのだろうが、彼女自身が誇りに思っていることは、その熱い口調から窺えた。
手分けして荷物を段ボール箱に詰めていると、加賀がやってきた。ちょうど隆正が外出している時だった。もしかしたらわざと父親のいない時に来たのかもしれなかった。彼は松宮たちのところに来て、頭を下げた。
「すみません、叔母さん。御面倒をおかけして。修平君も、どうも申し訳ない」
「そんな、いいのよ。いつもこっちがお世話になってるんだし」
加賀は舌打ちした。
「こんなこと、業者に頼めばいいのにな。叔母さんや修平君に甘えてどうするんだ」
この言葉は隆正に向けられたもののようだった。
「それより恭さん、これはどうしたらいいのかしら。恭さんの部屋に送ったほうがいいのかしらねえ」話題をそらすように克子が訊いたのは、たくさんのトロフィーのことだった。
加賀は首を振った。
「それはもう不要です。処分してくれって、引っ越し屋にいえばいいです」
「捨てるの? えっ、だって、お父さんは大切に保管してたみたいよ。じゃあ、やっぱりお父さんのアパートに持っていくわね」
「いいんです。邪魔になるだけだし」
加賀はトロフィーの入った段ボール箱を引き寄せると、そばにあったマジックを取り、箱の表に大きく、『処分』と書いた。
その後も彼は次々と荷物を箱に詰めては、すべてを『処分』扱いにしていった。どうやら彼がやってきた目的は、自分の荷物をその家から、つまりは隆正のもとからすべてなくしてしまうことにあったようだ。
彼が帰った後。隆正が戻ってきた。これもまたお互いが承知しているように松宮には感じられた。
隆正は『処分』と大書された箱に気づいたようだが、それについては何もいわなかった。加賀が来たことを克子が教えても、そうか、と短く答えただけだった。
自分たちのアパートに戻ってから、松宮は克子に加賀父子のことを尋ねた。二人は喧嘩でもしているのか、という意味のことだった。
「どの家でも、いろいろとあるのよ」その時の克子はそういっただけだ。何か事情を知っているらしいと察したが、松宮はあまり問い詰めなかった。尊敬する隆正に秘密めいたものがあるのだとしても、それを知るのが何となく怖かったのだ。
それ以後またしばらく、松宮は加賀と会う機会をなくした。その次に会ったのは、大学生の時だった。場所は病院だった。隆正が倒れたという知らせを受け、克子と共に駆けつけたのだ。知らせてくれたのは、隆正が懇意にしている近所の将棋仲間だった。その日も将棋を指す約束をしていたが、いつまで経っても隆正が現れないので部屋まで見に行ったところ、台所でうずくまっていたというのだ。
狭心症だった。病院で治療を待つ間、松宮はじっとしていられなかった。処置室に入っていき、隆正に声をかけたかった。
そこへ加賀もやってきた。狭心症らしいと克子がいうと、彼は大きく頷いた。
「それならよかった。心筋梗塞だと危ないかなと思っていたんです。たぶん問題ないから、叔母さんも修平君も、どうか気をつけて帰ってください」
あまりに落ち着いているので、松宮はたまらずにいった。
「恭さん、心配じゃないの?」
すると加賀は真っ直ぐに彼を見た。
「心筋梗塞ならいろいろと考えなきゃいけないと思ってたよ。でも狭心症なら大丈夫だ。薬だけでかなり改善されると思う」