饭饭TXT > 海外名作 > 《红指(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 红指.txt

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作者:日-东野圭吾 当前章节:15374 字 更新时间:2026-6-16 06:24

「そうはいっても──」

 ちょうどその時看護師がやってきて、処置が済んだことを告げた。薬剤だけで胸の痛みはなくなり、かなり症状も回復したという。

 隆正に会えるということなので、松宮は克子と共に病室に向かった。ところが加賀はついて来ない。医師の説明を聞いておきたいから、と彼はいった。

 病室に行ってみると、たしかに隆正は元気そうだった。顔色はよくなかったが、辛そうな表情はしていなかった。

「前々から、たまに胸が痛むことはあったんだ。もっと早くに診《み》てもらっておけばよかったよ」そういって笑った。

 加賀が来ていることを克子がいわないので、松宮も黙っていた。どうせすぐに現れるだろうから、いう必要がないのだろうと思っていた。

 ところが結局、加賀は病室には来なかった。後で看護師に尋ねてみると、担当医師から説明を受けた後は、そのまま帰ったようだという。

 さすがに松宮は| 憤 《いきどお》った。克子相手に当たり散らした。

「いくらなんでもひどいじゃないか。どうして伯父さんの顔も見ないで帰っちゃうんだ」

「恭さんは仕事の合間に来たのよ。だからすぐに戻らなきゃいけなかったんでしょ」克子はとりなすようにいった。

「それにしたって、声もかけないなんてどういうことだよ。実の息子なのにさ」

「だからいろいろあるんだって」

「何だよ、いろいろって」

 怒りのおさまらない松宮に克子は重い口を開いた。それは隆正の妻に関することだった。

 息子がいるのだから、当然隆正は結婚していたことになる。その相手とは死別したのだろうと松宮は解釈していたが、克子によれば、彼の妻は二十年以上も前に家出したのだという。

「書き置きがあったから、事故に遭ったとか誘拐されたとかでないことはたしかだったの。ほかに男を作って逃げたんだろうっていう噂が流れたけど、本当のところはわからない。伯父さんが仕事でずっと家を留守にしている間だったし、小学生だった恭さんは、通っていた道場の夏稽古とかで信州のほうに行ってた」

「伯父さんは探さなかったのか」

「探したと思うけど、詳しいことは私も聞いてない。それからよ、あそこの父子の仲が何となくぎくしゃくし始めたのは。恭さんは何もいわないけど、おかあさんが家出した理由は伯父さんにあると考えているみたいね。家庭のことを全然|顧《かえり》みない人だったから」

「伯父さんが? でも俺たちにはあんなによくしてくれたのに」

「あの頃にはもう警察をやめていたからね。それに伯父さんとしては、自分が夫や父親として満足なことを出来なかったから、その懺悔《ざんげ 》の気持ちもあったのかもしれない」

 思いもかけない話だった。それを聞いてはじめて、加賀父子の不自然な態度について合点がいった。しかし松宮としては、やはり隆正の肩をもたずにはいられない、母親が家出をしたぐらいのことがなんだ、という気持ちになる。

「奥さんは結局見つからなかったのか」松宮は訊いた。

 克子は少し逡巡を見せた後、重そうに口を開いた。

「五、六年前に、知らせがあったわ。奥さん、亡くなってたの。仙台で独り募らしをしていたんだって。恭さんが遣骨を取りにいったそうよ」

「恭さんが? 伯父さんは?」

「よく知らないけど、恭さんが自分一人で行くといい張ったみたいよ。あれ以来、ますます父子仲が悪くなったように感じる」

「奥さんはどうして亡くなったんだ」

「病気だと聞いたけど、詳しいことは知らない。恭さんが話してくれないし、こっちから訊きにくいし」

「でも、伯父さんのせいじゃないだろ」

「それはそうだろうけど、恭さんも割り切りにくいところがあるんじゃないかしら。でも父子なんだから、いつかきっとわかりあえる時が来るわよ」

 克子の言葉は、松宮にはずいぶんと楽観的に聞こえた。

 隆正の容態はその後順調に快方に向かい、それから間もなく退院した。定期的に病院に行く必要はあったが、元の生活に戻るのに不都合はなかった。

 松宮は大学に通いながらも、こまめに会いに行った。学業や進路について相談することも多かった。隆正は彼にとって父親も同然だった。警察官への道を決めた時も、真っ先に報告しに行った。

 隆正は日当たりのいい窓際に座り、将棋を指していた。いわゆる詰め将棋というやつなのだろう。松宮は将棋のルールさえ知らない。

 彼は伯父の酒の相手をしながら、将来の夢を語った。隆正は甥《おい》が自分と同じ道を選んでくれたことが嬉しいらしく、目を細め、頷きながら聞いていた。

 隆正の部屋はきちんと片付けられていたが、悪くいえば殺風景で地味だった。松宮がいる間、一度も電話は鳴らなかった。訪ねてくる人もいなかった。

「最近は近所の人と将棋を指さないのかい」部屋の隅に置かれた将棋盤を見ながら松宮は訊いた。

「そうだな、最近は指してないな。みんな、何かと忙しいようだ」

「俺、将棋を覚えようかな。そうしたら、伯父さんの相手が出来るしさ」

 松宮がいうと隆正は顔の前で手を振った。

「やめておけ。そんなものを覚える暇があればパソコンでもいじったほうがいい。そのほうがよっぽどためになる。今は警察官もコンピュータに強くないと話にならんそうだからな。わしは別に相手がほしいわけではない」

 そういわれると、教えてくれ、ともいえないのだった。また、どこかで習ってきたとしても、隆正はいい顔をしないだろう。

 だが年々皺が増え、鍛《きた》え上げたはずの身体がやせ細っていく姿を見るたびに、松宮は何ともいえない焦りを覚えた。この恩人を孤独な老人にしてはならないと思った。

 加賀があてにならないのなら、自分が面倒を見よう──松宮がそう心に決めた時だった。隆正が再び倒れた。たまたま様子を見に行った克子が、高熱を出して寝込んでいる彼を見つけたのだ。風邪だろうと本人はいったが、克子にはとてもそうは見えなかった。彼女は救急車を呼んだ。

 後からあわてて駆けつけた松宮は、その場で医師から癌のことを知らされた。元は胆嚢癌が拡大し、肝臓や十二指腸にまで達しているということだった。高熱が出た直接の原因は胆管が炎症を起こしたためだろう、と説明された。癌の進行具合は四段階中の四番目で手術はもはや不可能だと、同時に宣告された。心臓病の影響で、身体が弱っていたことも災いした。

 このことは当然、克子によって加賀にも伝えられた。だが驚いたことに、それでも彼は見舞いにこようとはしなかった。そのくせ入院費は自分が負担するとか、世話をしてくれる人を雇ってもいい、という意味のことは克子にいったらしい。

 加賀の考えていることが、松宮にはどうしてもわからなかった。過去にどんな確執があったにせよ、親の最期ぐらいは看取りたいというのが子供の本能ではないのか。

 そんなことをぼんやりと考えていると、不意に隆正が息を荒くした。それが間もなく咳に変わったので、松宮はあわてた。看護師を呼ぼうかと、枕元のスイッチに手を伸ばしかけた時、隆正がうっすらと目を開けた。それと同時に咳もおさまった。

 ああ、と隆正は弱々しく声を漏らした。

「大丈夫か」

「……修平か。どうした?」

「ちょっと顔を見に寄っただけだよ」

「仕事は?」

「今日の分は終わった。もう十二時だよ」

「だったら、早く帰れ。休める時に休んでおかんと、刑事は身体が保たんぞ」

「もうすぐ帰るよ」

 今度の事件で加賀と組むことになったことを話そうかと松宮は思った。だがそれを聞くことで、隆正が動揺するのではないかという不安もあった。彼が息子のことを気にしていないはずがないのだ。

 だが松宮が迷っているうちに、隆正は再び規則正しく寝息をかき始めた。咳をする気配もなさそうだった。

 松宮は静かに腰を上げた。いつか必ず恭さんを連れてくるよ──眠っている隆正に、心の中で約束した。

     20

 昭夫が目覚まし時計を見ると、午前八時を少し過ぎていた。ということは、三時間程度は眠ったことになる。どうしても寝付けず、午前五時頃までウィスキーの薄い水割りを飲んでいたのだ。今日のことを考えると酩酊《めいてい》するわけにはいかない。かといって、アルコールの力なしでは夜を過ごせそうになかった。

 頭がぼんやりしている。眠ったとはいえ、熟睡には程遠いものだった。何度も寝返りをうった覚えがある。

 隣の布団では八重子が背中を向けて寝ていた。最近の彼女は寝息が荒い。鼾《いびき》と表現したほうがいいような音をたてることもある。しかし今朝は静かだ。肩も背中も動いていない。

「おい」昭夫は呼びかけてみた。

 八重子の身体がゆっくりと昭夫のほうに回転した。彼女の陰鬱な表情が、遮光《しゃこう》カーテンのせいで余計に暗く見えた。目だけが鈍く光っていた。

「眠れたか」彼は訊いた。

 八重子は枕に頬をおしつけるように首を動かした。かぶりを振ったらしい。

「眠れるわけないか」昭夫は上半身を起こし、首を前後左右に動かした。関節がぼきぼきと音を立てた。自分が壊れかけの古い機械のような気がした。

 腕を伸ばし、カーテンを開けた。運命の日の朝は、分厚い雲に包まれていた。

「ねえ」八重子がいった。「いつ、やるの?」

 昭夫は答えなかった。彼自身がそれを考えている真っ最中だったからだ。やるからには後戻りはできない。あらゆる段取りを整えておく必要があったし、家族全員の口裏を合わせておく必要があった。一人を除いて、だが。

「あなた」

「聞こえてるよ」昭夫はぶっきらぼうにいった。今回、彼は妻に対してかなり厳しい口調を貫いている。こんなことは結婚してから初めてのことだったかもしれない。妻がすべてを彼に委《ゆだ》ねているという確信があるからにほかならなかった。もっと別のことで、ここまで頼りにされる夫であるべきだった、と今さらながら悔やんだ。

 彼はカーテンをさらに開き、何気なく通りを見下ろした。二十メートルほど離れた路上に一台のセダンが止まっていた。中に誰か乗っているようだ。

 はっとして昭夫はカーテンを閉めた。

「どうしたの?」八重子が訊いてきた。

「刑事だ」彼はいった。

「刑事? 歩いてきてるの?」

「そうじゃない。車を止めて、中にいる。たぶんうちを見張ってるんだ」

 八重子は顔を歪め、起きあがった。カーテンに手を伸ばそうとした。

「開けるなっ」昭夫はいった。「見張りに気づいたことは、向こうに知られないほうがいい」

「どうしたらいい?」

「どうもこうもないだろう。向こうから来る前に手を打ったほうがいい。──直巳は起きてるのかな」

「見てくるわ」八重子は立ち上がり、乱れた髪を直した。

「例の人形を持って来させろ。あいつの部屋には絶対に残すなよ。ほかの物は、全部処分したんだろうな」

「それは大丈夫。あたしが遠くまで行って捨ててきたから」

「もう一度念入りに調べるんだ。一つでも見つかったらアウトだと思え」

「わかってる」

 八重子が出ていってから、昭夫も立ち上がった。すると立ちくらみがし、一旦片膝をついた。すぐにおさまったが、次には吐き気が訪れた。彼は大きなげっぷをした。臭《くさ》い息が吐き出された。

 最低最悪の一日の始まりだ、と思った。

     21

 春日井一家が住んでいるマンションは、バス通りから百メートルほど歩いたところにあった。六階建ての、まだ新しい建物だった。そこの五階に彼等の部屋はあった。

 午前中の訪問にも拘《かか》わらず、春日井忠彦はすぐに二人を招き入れてくれた。捜査に役立てるなら、積極的に協力しようということなのだろう。昨日会った時よりも、かなり落ち着いて見えた。

「奥さんのお加減はどうですか」松宮は訊いた。集会所で襖越しに聞いた隙間風のような泣き声が、まだ耳に残っていた。

「寝室で休んでいます。呼んできたほうがいいですか。本人も、もう話が出来るといってましたけど」春日井はいった。

 あまり無理はさせたくないと松宮は思ったが、すぐに加賀が、「お願いします」と隣でいった。

「じゃあ、ちょっと呼んできます」春日井はリビングを出ていった。

「なんか、気の毒だな」松宮は呟いた。

「同感だが、仕方がない。被害者の日常を一番よく知っているのは母親だ。ふだん会社に行っている父親からじゃ、ろくな話は聞き出せない」そういいながら加賀は室内を見回している。

 松宮もつられて周囲を眺めた。ダイニングセットとリビングセットがコンパクトに配置された洋室だ。大きな画面の液晶テレビの横には、アニメのDVDをずらりと並べた棚が置いてある。被害者が好きだったのだろう。

 ダイニングテーブルの上には、コンビニで買ってきたと思われる弁当が二つ載っていた。一方は食べかけで、もう一つは全く手つかずのようだ。昨夜の夫妻の夕食だろうと松宮は推測した。

 春日井が戻ってきた。彼の後ろから痩せた女性も入ってきた。長い髪を後ろで束ね、眼鏡《めがね》をかけていた。化粧気は殆どなかったが、口紅だけはつけていた。たった今、塗ったのかもしれない。顔色はよくなかった。

 妻の奈津子です、と春日井が紹介した。

 彼女は会釈した後、刑事たちの前を見た。

「あなた、お茶ぐらい出さないと」

「いえ、結構です」即座に加賀がいった。「どうぞ、おかけになってください。申し訳ありません。お疲れのところを」

「何かわかったんでしょうか」か細い声で奈津子は訊いてきた。

「わかったこともありますが、わからないこともたくさんあります。その一つが、なぜ優菜ちゃんが一人で外出したのかということです。そういうことはしばしばあったんでしょうか」

 奈津子はゆっくりと瞬《まばた》きをしてから口を開いた。

「出かける時にはちゃんと声をかけなさいといつもいってたんですけど、勝手に出ていくことは多かったです。小学校に通うようになってから、特にそうなりました。友達と外で遊ぶ約束をしていたみたいです」

「金曜日もそうだったんでしょうか」

「あの日は違うと思います。そういう友達のところへは全部当たってみたんですけど、優菜と会う約束をしていた子はいませんでした」

「優菜ちゃんはアイスクリームを買ったようです。そのために出かけたということは考えられますか」

 奈津子は首を傾げた。

「アイスクリームなら冷蔵庫にあるんです。だから、それだけのために出ていったとは思えません」

 加賀は頷いた。

「優菜ちゃんは携帯電話を持っていましたか」

 奈津子はかぶりを振った。

「いくら何でもまだ早すぎると思って……。でも、こんなことになるんなら、持たせておけばよかった」眼鏡の奥の目が潤《うる》み始めた。

「携帯電話を持っていれば安全というわけでもないです。かえって危険という声もあります」加賀が慰めるようにいった。「お友達で待っている子はいるんですか」

「何人かいるようです」

 いずれも防犯が目的だろう、と松宮は横で聞いていて推察した。最近では居場所を確認できるGPS機能のついているものもある。ただし加賀がいったように、そのせいで逆に犯罪に巻き込まれるケースもないわけではない。

「優菜ちゃんの部屋というのはあるんですか」加賀が訊いた。

「ありますけど」

「見せていただいてもいいですか」

奈津子は夫のほうを向き、「いいわよね」と確認した。

「見ていただこう」そういって春日井は立ち上がった。

 優菜の部屋は四畳半ほどの洋室だった。窓際に勉強机があり、壁に寄せてベッドを置いてある。机もベッドも真新しかった。

 目をひくのは、ずらりと棚に並べられたフィギュアだった。それらは、ある人気アニメのキャラクターだった。様々な衣装をつけたフィギュアが売り出されているということは松宮も知っていた。

「スパプリのファンだったんですね」松宮はいった。

「そうなんです。以前から大好きで……」奈津子は涙声になっていた。

「スパプリ?」加賀が不思議そうな顔をした。

「このキャラクターだよ。『スーパープリンセス』というんだ」フィギュアの一つを松宮は指差した。

「テレビの横に並んでいたDVDもそうかな」

「そうです。以前は毎日のように見ていました」奈津子が答えた。「フィギュアを集めるのも好きで、よくねだられました」

 加賀は勉強机に近づいた。奇麗に整頓されている。小学校の名札が載っていた。登校時、服につけるのだろう。外出する時に外したらしい。

 名札を見ていた加賀が、「これは?」といって振り返った。

「小学校の名札です」奈津子が答えた。

「そうではなく、裏にかいてるものです。電話番号やアドレスのようですが」

 加賀は名札を裏返して差し出した。松宮は横から覗き込んだ。たしかにサインペンのようなもので携帯電話の番号やメールアドレスらしきものが書き込まれている。

「これは私たちのケータイの番号とアドレスです」春日井が答えた。

「御夫婦とも、携帯電話をお持ちなんですね」

「そうです。優菜がいつでも連絡を取れるよう、名札の裏に書き込んでおいたんです」

「アドレスが三つありますね」

「二つはケータイのアドレスで、ひとつはパソコンのメールアドレスです」

 加賀は納得したように頷き、名札の裏を見つめていたが、不意に何か思いついたように顔を上げた。

「パソコンはどちらに?」

「私たちの寝室にありますが」

「優菜ちゃんが使うことはありますか」

「一緒にインターネットをすることはあります」

「一人で使うことは?」

「それはないと思います。──ないよなあ?」春日井は妻に確認をとった。

「見たことありません」奈津子も同意した。

「御主人が最後にパソコンを使ったのはいつですか」

「昨日の夜です。メールを確認しただけですけど」

「何か不審な点はありませんでしたか」

「不審というと?」

「見慣れないメールを受信していたとかです」

「なかったと思います。あのう、パソコンのメールがどうかしたんですか」

「いえ」加賀は手を振った。「まだ何ともいえません。ただ、もしかしたらパソコンを調べる必要があるかもしれません。その場合、お預かりしてもかまいませんか」

「事件解決に役立つなら、もちろんかまいませんが……」春日井は釈然としない様子だ。

「理由については、その時に御説明します」加賀は腕時計を見た。「長々と失礼いたしました。大変参考になりました」

 春日井夫妻も会釈を返してきた。しかし二人の顔には、悲しみとは別に戸惑いの色も滲んでいた。

「小林さんに連絡してくれ」マンションを出てから加賀はいった。「鑑識に春日井さんのパソコンを調べてもらうんだ」

「被害者がパソコンを使って犯人と連絡を取り合ったというのかい?」

「その可能性はある」

「だけど両親の話では、被害者が一人でパソコンを使うことはないということだった」

 すると加賀は肩をすくめ、ゆらゆらと頭を振った。

「親の話なんかは当てにならない。子供というのは、親が考えているよりもはるかに成長しているものなんだ。密かな楽しみを見つけた時は、特にそうだ。見よう見まねでメールを操《あやつ》るようになったり、その痕跡が残らないように消去するなんてことは、ゲーム世代の子供にとってはどうってことない」

 加賀の言葉には松宮も首肯《しゅこう》せざるをえない。昨今の少年を取り巻く犯罪を見れば、明らかだった。

 松宮は携帯電話を取り出した。小林にかけようとしたが、その前に着信音が鳴った。

「松宮です」

「小林だ」

「今、かけようと思っていたところです」

 松宮は加賀から聞いた話を主任に伝えた。

「わかった。そういうことなら、今すぐに鑑識を向かわせよう」

「自分たちはここに残っていたほうがいいですか」松宮は訊いた。

「いや、おまえたちにはこれから行ってもらいたいところがある」

「どこですか」

「前原昭夫のところだ」

「何かわかったんですか」

「そうじゃない。向こうから連絡してきたんだ」

「前原が?」携帯電話を握りしめたまま、松宮は加賀の顔を見た。

「銀杏公園の事件について話したいことがあるので、今すぐ来てほしい──前原昭夫はそういってきたんだ」

     22

 午前十時を少し過ぎていた。インターホンのチャイムが鳴った。

 ダイニングテーブルを挟んで向き合っていた夫妻は、互いの顔を見つめた。

 八重子は無言で立ち上がると、インターホンの受話器を上げた。はい、と低く返事する。

「……あ、どうも御苦労様です」彼女はそういって受話器を戻し、硬い顔つきで昭夫を見た。「来たわよ」

 うん、と答えて彼は椅子から腰を上げた。

「どこで話をすればいいかな」

「客間でいいんじゃない」

「ああ、そうだな」

 昭夫は玄関に出てドアを開けた。体裕のいい男が二人、立っていた。もはやどちらもよく知っている顔だった。加賀と松宮だ。話があるといっただけだから、顔なじみの刑事を寄越したのかもしれない。

「どうも、わざわざすみません」昭夫は頭を下げた。

「何か重要なお話があるとか」松宮が訊いてきた。

「ええ、まあ……ここでは何ですから」

 どうぞ、と招くようにドアをさらに開けた。失礼します、といって刑事たちは足を踏み入れてきた。

 六畳の和室に二人を案内した。身体の大きい刑事たちは、窮屈そうに正座した。

 八重子が茶を運んできた。どうも、と男たちは頭を下げる。しかし湯飲み茶碗に手を出そうとはしない。なぜこの夫婦は自分たちを呼んだのか──それを一刻も早く知りたいのだろう。

「あのう、銀杏公園の事件ですけど、捜査のほうは進んでいるんでしょうか」八重子が遠慮がちに訊いた。

「まだ始まったばかりですが、いろいろと情報は集まっています」松宮が答えた。

「手がかりとか、あるんですか」昭夫は訊いてみた。

「ええ、それはまあ」松宮は怪訝そうに昭夫と八重子の顔を見比べた。

 加賀が湯飲み茶碗に手を伸ばした。一口|啜《すす》ってから顔を上げて昭夫を見た。心の奥底を見抜こうとしている目で、その鋭さに昭夫はひるみそうになった。

「芝生を調べておられましたよね。うちの芝生を」昭夫はいった。「何かわかったんでしょうか」

 松宮は迷ったように隣の加賀を見た。加賀が口を開いた。

「遺体に芝生が付着していたんです。それとの照合を行いました」

「なるほど……。それで、うちの芝生はどうだったんでしょうか。一致していましたか」

「なぜそれをお知りになりたいんですか」

「一致していたんですね」

 だが加賀はすぐには答えようとしない。肯定していいかどうか考えている顔だった。

「一致していたとしたら、どうなんですか」

 それを聞いて昭夫は深い吐息をついた。

「やっぱり、こうしてお呼びしてよかった。どの道、ばれることだったんだから」

「前原さん、あなたは一体──」松宮が焦《じ》れたように身を乗り出してきた。

「加賀さん、松宮さん」昭夫は背筋を伸ばすと、両手を畳につき、頭を下げた。「申し訳ございません。女の子の死体を公園のトイレに置いたのは……この私です」

 崖《がけ》から飛び降りるような感覚を昭夫は味わっていた。もはや後戻りはきかない。しかし一方で、もうどうにでもなれという捨て鉢な気分になってもいた。

 重い沈黙が狭い部屋を支配した。昭夫は頭を下げたままなので、二人の刑事がどんな表情をしているのかわからなかった。

 隣から八重子のすすり泣く声が聞こえてきた。泣きながら、すみません、と呟いた。そして昭夫の横で同じように頭を下げる気配があった。

「あなたが女の子を殺したと?」松宮が訊いてきた。だが驚いたような響きはない。事件に関する何らかの告白は予想していたのだろう。

 いえ、と昭夫は顔を上げた。二人の刑事の顔は、さっきよりも険しいものになっていた。

「私が殺したわけじゃありません。でも……犯人はうちの者なんです」

「ご家族ということですか」

 ええ、と昭夫は頷いた。

 松宮は、まだ頭を下げたままの八重子のほうにゆっくりと顔を巡らせた。

「いえ、妻でもありません」昭夫はいった。

「すると……」

「じつは」昭夫は息を吸い込んだ。逡巡する思いが体内に残っていた。それを振り切り、彼はいった。「母なんです」

「おかあさんが?」松宮は戸惑ったように眉根を寄せ、横の加賀を見た。

 加賀が尋ねてきた。「あなたのおかあさんですか?」

「そうです」

「先日お見かけした、あのご婦人のことですね」加賀はしつこく念を押してくる。

 ええ、と昭夫は顎を引いた。心臓の鼓動が激しさを増していた。

 これでいいのだろうか──迷いの気持ちが彼の中で渦巻いていた。

 こうするしかないんだ──その迷いをふっきろうと自分にいいきかせていた。

「あの女の子の写真を持って、刑事さんが最初にうちに来られた時、妻も私も見たことがないと答えましたよね」

 ええ、と加賀は頷いた。「違うんですか」

「じつは、妻は何度か見たことがあるそうです。うちの裏庭に来ていたそうです」

「裏庭ですか」加賀は八重子を見た。

 彼女は俯いたまま話し始めた。

「裏の縁側で、義母の人形で遊んでいるのを何度か見ました。うちの裏には木戸があって、女の子はそこから入ったようです。垣根の隙間から人形が見えたので、お婆さんに見せてもらっているんっだっていってました。でも、どこの子なのかは知りませんでした」

 二人の刑事は顔を見合わせた。

「おかあさんは今どちらに?」松宮がいった。

「自分の部屋にいます。奥の部屋です」

「会わせていただけますね」

「ええ、それはもちろん。ただ……」昭夫は二人の刑事の顔を交互に見た。「以前にもお話ししましたように、うちの母はああいう状態でして、まともに話をできるかどうか、ちょっとわからないんです。自分のしたこともよく覚えていないという有様で……。だから、あの、質問とかそういうのは無理じゃないかと思うんですけど」

「ははあ」松宮は加賀を見た。

「でも、とりあえず案内していただけますか」加賀がいった。

「あ、はい、わかりました。本当にどうも……」

 昭夫が立ち上がると刑事たちも腰を上げた。八重子は頭を下げたままだった。

 廊下を出て、奥に進んだ。突き当たりに襖の引き戸がある。それをそっと開いた。古い箪笥が一つと小さな仏壇があるだけの殺風景な部屋だ。以前は鏡台をはじめ、もっといろいろとあったが、政恵が認知症になってから、八重子が少しずつ処分しているのだ。政恵がいなくなったら、ここを自分たちの部屋にしたい、と彼女は前からいっている。

 政恵は裏庭に面した縁側で、うずくまるような格好で座っていた。襖を開けられたことも気づかぬ様子で、前に置いた人形に向かってぶつぶつとしゃべっていた。薄汚れた、古いフランス人形だった。

「母です」昭夫はいった。

 刑事たちは黙っていた。どう対応すべきか考えているようだった。

「話しかけてもいいですか」松宮が尋ねてきた。

「それは構いませんが……」

 松宮は政恵に近づいていき、人形を覗き込むように中腰になった。

「こんにちは」

 しかし政恵は答えない。刑事のほうを見ようともしない。人形を手に取り、その髪を撫《な》でている。

「あんな感じです」昭夫は加賀にいった。

 加賀は腕組みをしてそんな様子を眺めていたが、やがて松宮に声をかけた。

「先に前原さんたちの話を聞いたほうがいいんじゃないかな」

 松宮は腰を伸ばし、頷いた。「そうですね」

 加賀と松宮がさっきの部屋に戻るのを見送ってから昭夫は襖を閉めた。政恵は人形の頭を撫で続けていた。

「あたしが家に帰ってきたのは六時頃だったと思います。バートの仕事が五時半までなんです。で、義母の様子を見ようと思い、部屋に行ってみてびっくりしました。小さな女の子が部屋の真ん中で倒れていたからです。ぐったりとしていて。全然動きません。義母は縁側で壊れた人形をいじっていました」

 八重子が話すことを刑事たちはメモにとっていく。松宮は細かく記しているようだが、加賀はポイントを書くだけなのか、ペンの動いている時間が短い。

「女の子の身体を揺すってみましたけど、息もしていない様子でした。死んでいる、とすぐに思いました」

 八重子の話を聞きながら、昭夫は腋《わき》の下を冷や汗が流れていくのを感じていた。

 二人で話し合い、作り上げた嘘だ。矛盾はないか、警察に怪しまれるような不自然な部分はないか、何度も検証した。しかし所詮は素人の考えたストーリーだ。プロの刑事たちから見れば、齟齬《そ ご 》だらけなのかもしれない。そうだとしても、これで押し通さねばならない。それしか自分たちに進むべき道はない。

「義母に、この子は一体どうしたのと尋ねました。でも義母はああいう調子で、まともに答えてくれません。あたしの質問の意味さえ、よくわからない様子でした。それでもしつこく問い詰めたら、ようやく、その子は大事な人形を壊したからお仕置きをした、と答えたんです」

「お仕置き?」松宮が首を傾げた。

「だからそれは」昭夫が口を挟んだ。「たぶん子供同士でじゃれあうような気持ちだったんだと思います。女の子が何をしたのかはわかりませんが、何かが母の癇《かん》に障《さわ》ったんでしょう。女の子が騒ぎすぎたのかもしれません。とにかく母はちょっとお仕置きをする気持ちで殺してしまったのだと思います。母は歳のわりに力が強かったから、あんなに小さい女の子では抵抗できなかったんじゃないでしょうか」

 自分で話しながら、彼はその内容の信憑性《しんぴょうせい》に自信を持てないでいた。こんな話を果たして刑事が信じてくれるだろうか。

 松宮が八重子を見た。

「それで、その後奥さんは……」

「主人に電話をかけました」彼女は答えた。「六時半頃だったと思います」

「電話で詳しい内容を話されたのですか」

「いえ……とてもうまく説明できそうになかったので、とにかく早く帰ってきてほしいとだけいいました。あとそれから、主人の妹が義母の世話のために来てくれるんですけど、断ってほしいと頼みました」

 このあたりは本当のことだ。そのせいか八重子の口調も幾分滑らかだった。

「奥さんは」松宮は八重子を見た。「その時点ではどうしようと考えておられたのですか。警察に知らせるという発想はなかったのですか」

「それはもちろん考えましたけど、とにかく主人と相談してからと思いました」

「で、御主人が帰宅されて、死体を見たわけですね」

 昭夫は頷いた。

「驚きました。事情を聞き、目の前が真っ暗になりました」

 それもまた本当のことだった。

「それで、死体を捨てることはどちらが提案されたのですか」松宮が核心に迫る質問を放ってきた。

 八重子がちらりと昭夫に目を向けた。それを感じ、彼は息を吸った。

「どちらが、ということはなかったです。何となく、といったらいいんでしょうか。警察に知らせたらもうこの土地には住めなくなる、何とか隠せるものなら隠したい、そんなことを二人で話したのは事実です。そのうちに、死体をどこかに運べば何とかなるんじゃないか、というようなことを考え始めまして……。でも、浅はかでした。じつに申し訳ないことをしたと思っています」

 しゃべりながら、この家は処分するしかないだろうと昭夫は思った。しかし殺人のあった家など、果たして誰が買ってくれるだろう。

「銀杏公園に捨てたのはなぜですか」松宮が訊いた。

「特に深い理由はありません。ほかに思いつかなかっただけです。うちは車がないので、そんなに遠くには行けないし」

「捨てに行ったのはいつですか」

「夜遅くになってからです。日付は変わっていました。午前二時か三時か、そんなところです」

「では」松宮はペンを構えた。「その時の模様を出来るかぎり詳しく話してください」

     23

 前原昭夫が訥々《とつとつ》と語っている姿に、演技めいたものは感じられなかった。その顔は苦しげに歪み、声はかすれていた。彼の妻は横で項垂れ、時折鼻を啜る。ひっきりなしに目元を押さえるハンカチは、びっしょりと濡れていた。

 死体遺棄に関する彼の供述は、説得力に満ちていた。トイレの水を流そうとしたところ流れず、手で何度も運んだというくだりなどは特にそうだ。死体が見つかったトイレの水洗が故障していることは、マスコミなどでは報道されていない。

 またその行為中に彼が感じた恐怖や焦りなども、十分に理解できるものだった。少女の衣類に芝生が付着している可能性に気づきながらも、一刻も早くその場から立ち去りたいという思いから、除去を徹底できなかったというのも頷ける。その芝は、死体を段ボール箱に入れる際、一旦庭に置いた時に付着したらしい。

「うちに何度も刑事さんが来られて、家族のアリバイを確認された時、もう隠し通すのは無理だなと思いました。それで妻と相談し、すべてを告白する決心をしたというわけです。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。女の子の御両親にも、謝罪せねばと思っています」

 話し終えると前原はがっくりと肩を落とした。松宮は加賀のほうを見た。

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