「署に連絡してくるよ」
だが加賀は頷かない。何かを含んだような顔で、小さく首を捻った
「何か?」
すると加賀は前原にいった。
「もう一度おかあさんに会わせていただけますか」
「それはかまいませんが、御覧になったとおり、とてもまともな会話は──」
だが前原がいい終えるのを待たず、加賀は腰を上げた。
先刻と同じように廊下を進んだ。前原が政恵の部屋の襖を開けた。政恵はやはり縁側にいた。庭のほうを向いているが、何を見ているのかはわからない。
加賀は彼女に近づいていき、隣に座った。
「何してるの?」子供に声をかけるような優しい口調で加賀は訊いた。
しかし政恵は無反応だ。誰かがそばに来ても警戒しないのは、その人物の存在を認識していないからかもしれなかった。
「だめですよ、刑事さん」前原がいった。「人のいうことなんか、何も耳に入ってないんだから」
加賀は振り返り、黙っていろというように| 掌 《てのひら》を広げた。それから政恵に向かって笑いかけた。
「女の子、見なかったかな」
政恵が少し顔を上げた。しかし加賀を見ているわけではなさそうだ。
「ふってきた」彼女が突然いった。
えっ、と加賀は訊いた。
「雨、ふってきた。今日はもう、お山には行けそうにないね」
松宮は外を見た。だが雨などは一滴も落ちていない。風が木の葉を揺らしているだけだ。
「家の中で遊ぶしかないね。そうだ、お化粧しないと」
「無駄ですよ。わけのわからんことをしゃべっているだけです。幼児退行というやつです」前原はいった。
それでも加賀は腰を上げない。じっと政恵の顔を見つめている。
彼の視線が少し下を向いた。政恵の傍《かたわ》らに転がっているものを拾い上げた。丸めた布のように松宮には見えた。
「手袋ですね」加賀はいった。「あの時に拾ったものかな」
「そうだと思います」
「あの時って?」松宮は訊いた。
「俺が昨日こちらに来た時、庭でこのおかあさんが手袋を拾っているのを見たんだ。例の手袋だよ」加賀が説明した。
「何が気に入ったのか、ずっと付けてました。ようやく外したということは、飽きたんでし、よう。小さな子供と一緒ですから、何を考えているのか理解するのは無理なんです」前原が諦め口調でいった。
加賀は手袋を見つめた後、奇麗に畳んで政恵の横に置いた。それから室内を見回した。
「おかあさんは、いつもこの部屋に?」
「ええ、トイレの時以外は大抵」
「事件の後、おかあさんはどちらかにお出かけになりましたか」加賀は訊いた。
前原は首を振った。
「どこにも出ていません。というか、ぼけてからは外に出なくなりました」
「なるほど。失礼ですが、ご夫婦のお部屋はどちらですか」
「二階です」
「おかあさんが二階に上がられることは?」
「ありません。何年も前に膝を悪くしましてね、ぼける前から階段を上がれなかったんです」
二人のやりとりを聞きながら、松宮は加賀の質問の意味を考えていた。なぜすぐに捜査本部に報告しないのかもわからなかった。しかし前原のいるところで、それを尋ねるわけにはいかない。
加賀は立ち上がり、部屋の中を歩きまわった。何かを点検するように、部屋の隅々を眺めている。
「あのう、何か……」たまりかねたように前原が訊いた。彼も加賀の考えが理解できないのだろう。
「女の子が壊した人形というのは処分されたのですか」加賀が訊いた。
「いえ、それはここに」前原は押入を開け、下の段に入っている箱を引き出した。
松宮は中を覗き込み、目を見張った。箱ごと持ち上げ、加賀のところへ持っていった。
「恭さん、これ……」
そこに入っていたのは、春日井優菜が集めているフィギュアと同種のものだった。腕が外れている。
加賀は箱の中をちらりと見た後、「この人形はどうされたのですか」と前原に訊いた。
「去年……だったかな。私が買ったんです」
「あなたが?」
「この通り、母は小さな子供のようになってしまいました。で、人形をほしがるものですから、デパートで買ってきたんです。人気のキャラクターだそうですが、そんなことは知りませんでした。でも母は気に入らなかったのか、ずっとどこかにしまいこんだままだったんです。何かのきっかけで引っ張り出してきたんでしょうが、それがとんだことになってしまいました」
松宮は春日井優菜の部屋にあったフィギュアを思い出した。コレクションに夢中になっている女の子が、たまたまそれを目にした場合、知らない家でも入っていくかもしれないと思った。
「妹さんには事情を話しておられないのですか」加賀が前原に質問した。
「ええ、この状況を説明するのが難しくて……。いつかは話さねばならないのですが」
「金曜以後、妹さんは来ておられないそうですね。するとおかあさんの世話はどなたが?」
「一応私と妻がみていますが、世話というほどのことは何も。トイレは自分で出来ますし」
「食事は?」
「ここに運びました」
「おかあさんは一人で食事されるのですか」
「そうです。といっても、サンドウィッチですから」
「サンドウィッチ?」松宮は思わず訊いた。
「妹を玄関先で追い返した時に、受け取ったんです。今はサンドウィッチがお気に入りだからとかいって」
松宮は部屋の隅に置いてあるゴミ箱の中を覗いた。サンドウィッチの空き袋と牛乳の四角い空き容器が捨てられていた。
加賀は腕組みをし、政恵の後ろ姿を眺めていたが、やがて松宮のほうを振り返った。
「庭を見せてもらおうか」
「庭?」
「前原さんの話では、庭で被害者の死体を段ボール箱に入れたらしい。そこを見ておこうと思ってね」
松宮は頷いたが、加賀の狙いはよくわからなかった。庭を見ることにどんな意味があるのか。
「あなた方はここにいてください」前原夫妻にそういうと、加賀は部屋を出ていった。松宮もあわてて後を追った。
庭に出た加賀は、しゃがんで芝生を触った。
「芝について確認することがあるのかい?」松宮は訊いた。
「あれは口実だ。君と話し合いたいと思ってね」加賀がしゃがんだままでいった。
「話し含うって、何を?」
「本部に連絡するのは、もう少し待ってくれないか」
「えっ?」
「彼等の話、どう思った?」
「そりゃあ、驚いたよ。まさかあの婆さんが殺したとはね」
加賀は庭の芝を指先で摘《つま》み、そのままむしり取った。それを見つめてから、ふっと吹き飛ばした。
「あれを鵜呑《う の 》みにするのか」
「嘘をついてるっていうのか」
加賀は立ち上がり、ちらりと前原家の玄関を見てから、声をひそめていった。
「連中が本当のことをいっているとは思えない」
「そうかな。でも筋は通っている」
「それはそうだろう。連中は昨日丸一日をかけて、筋の通った話を作り上げたんだろうからな」
「嘘だと決めつけるのは早すぎないか。仮に嘘だとしても、現段階でとりあえず本部に報告するべきだと思う。連中が何かを隠しているのなら、これからの取り調べで必ず明らかになるだろうし」
松宮の言葉の途中から、そんなことはわかっているとでもいうように、加賀は首を縦に振り始めていた。
「主導権は君にある。どうしてもこの時点で報告するというのなら、俺は止められない。ただし、石垣係長か小林主任と話をさせてほしい。俺から頼みたいことがあるんだ」
「何だよ、それ」
「すまない。詳しく話している余裕はない」
松宮は苛立ちを覚えた。新米扱いされたと感じた。するとそれを察知したように加賀がいった。
「もし君が正面から彼等と向き合えば、必ず真相に気づくはずだ」
そういわれると松宮としては反諭しにくかった。釈然としないまま携帯電話を取り出した。
電話には小林が出た。松宮は前原昭夫から聞いた話を報告した上で、加賀の意向を伝えた。加賀君に代わってくれ、と主任はいった。
電話を受け取った加賀は、松宮から少し離れ、ぼそぼそと何やら話し始めた。その後、加賀は戻ってきて、携帯電話を差し出した。「君に代わってくれということだ」
松宮は電話に出た。
「事情はよくわかった」小林がいった。
「どうすればいいですか」
「君たちに時間を与える。加賀君に考えがあるようだから、それにしたがってくれ」
「前原たちを署に連れていかなくていいんですか」
「だから、それは急ぐ必要はないといってるんだ。係長には俺から説明しておく」
わかりました、といって松宮は電話を切ろうとした。すると、「松宮」と小林が呼びかけてきた。
「しっかり、加賀君のやり方を見ておくんだぞ。おまえはこれから、すごい状況に立ち会うことになるからな」
言葉の真意を考えて松宮が黙っていると、がんばれよ、といって電話は切れた。
松宮は加賀に訊いた。「どういうことなんだ」
「いずれ君にもわかる。だけどこれだけはいっておこう。刑事というのは、真相を解明すればいいというものではない。いつ解明するか、どのようにして解明するか、ということも大切なんだ」
意味がわからず松宮が眉をひそめると、加賀は彼の目をじっと見つめて続けた。
「この家には、隠されている真実がある。それは警察の取調室で強引に引き出されるべきことじゃない。この家の中で、彼等自身によって明かされなければならない」
24
刑事たちが庭で何を話しているのか、昭夫にはまるで見当がつかなかった。今さら庭で何を調べようというのか。自分たちの話した内容を改めて振り返り、刑事たちに疑念を抱かせる材料がなかったかどうかを確かめてみたが、特に矛盾があるとは思えなかった。殺したのがじつは政恵ではなく直巳なのだということ以外は、殆どすべて真実を話したつもりなのだ。
「あの人たち、何をしてるんだと思う?」八重子も同じ思いらしく不安そうに訊いてきた。
「わからん」昭夫は短く答えてから母親のほうを見た。
政恵は背を向け、うずくまるように座っている。まるで石のように動かない。
これでいい、こうするしかない──昭夫は再び自分にいい聞かせた。
ひどいことをしているというのは、もちろん彼自身が一番よくわかっていた。息子の罪を隠蔽するためとはいえ、実の母親を身代わりにするなどというのは、人間のすることではない。仮に地獄というものが存在するなら、死後自分は必ずそこに落ちるだろうと彼は思った。
だがこれ以外に今の窮地を脱する方法が思いつかなかった。認知症の老婆が殺してしまったということになれば、世間の風当たりは幾分弱くなるだろう。高齢化社会が招いた悲劇だと解釈され、うまくすれば前原一家はかわいそうな家族だと受け取られるかもしれない。直巳の将来への悪影響も、最小限にとどめられそうな気がした。
逆に真実をばらしてしまったらどうなるだろう。直巳は生涯、殺人者としてみられるに違いない。そして彼の両親は、息子の暴走を止められなかった馬鹿な人間と軽蔑され、非難され続けることになる。どこへ移り住もうと、誰かが必ずそのことを嗅《か》ぎつけ、前原一家を孤立させ、排除しようとするだろう。
政恵には申し訳ないと思う。しかし彼女自身は、自分が| 陥 《おとしい》れられたことなどわからないはずだ。認知症の老人が罪を犯した場合に司法がどう機能するのか昭夫は知らなかったが、ふつうの人間と同じように刑罰が下されるとは思えなかった。責任能力、という言葉を昭夫は思い出していた。それのない人間は、罪に問われにくいという話を聞いたことがある。今の政恵に責任能力があるとは誰もいわないだろう。
それに政恵も、自分が身代わりになることで孫が救われるなら本望に違いない。それを理解することが出来ればの話だが──。
玄関のドアが開閉される音が聞こえた。廊下を歩く足音が近づいてくる。
お待たせしました、といって松宮が部屋に入ってきた。加賀の姿はなかった。
「もう一人の刑事さんは?」昭夫は訊いた。
「別の場所に行っています。すぐに戻ってきます。ええと、ところで改めて伺いますが、事件のことを知っている方はほかにいますか」
予想された質問だった。昭夫は用意しておいた答えを口に出すことにした。
「私たち二人だけです。誰にも話していません」
「でも息子さんがいらっしゃるでしょう。その方は?」
「息子は」昭夫は声がうわずりそうになるのを堪えながらいった。「何も知りません。あの子には気づかれないようにやりましたから」
「でも、全く知らないということはありえないんじゃないですか。自分の家に死体があって、両親が夜中にそれを始末しようとしていることに、まるっきり気づかないなんてことは、ちょっと考えられないんですけど」
松宮は昭夫たちにとって最も痛いところをついてきた。ここは正念場だ、と昭夫は思った。
「それが本当に知らないんです。いえ、じつをいいますと、今はある程度知っています。さっき私が警察に電話する前に、大体のことを話しましたから。でもそれまでは何も知らなかったはずです。金曜日は、どこをほっつき歩いていたのか、帰ってくるのが遅かったんです。昨日も、そうお話ししたでしょう? 息子が帰ってきた時には、すでに死体を庭に移してありました。死体には黒いビニール袋をかぶせてあったので、あいつは気づかなかったはずです」
それに、と八重子が隣からいった。
「ふだんあの子は家では自分の部屋に閉じこもって、食事とトイレの時以外は出てきませんから、夜中に親が何をしていようと、関心なんて全然ないんです。だから今はすごいショックを受けて、何も考えられない状態だと思います。何しろまだ子洪ですから。話を聞いた後は、いつものように部屋に閉じこもってしまいました。お願いですから、そっとしておいていただけないでしょうか」
まだ子供、というところを彼女は強調していた。昭夫はそれを後押しすることにした。
「人見知りするたちでしてね。初対面の人とはまともに話もできないんです。幼いというか何というか。ですから、刑事さんのお役に立てるようなことは何もないと思うんですが」
刑事たちの注意を直巳に向けさせてはならない、と昭夫は思った。夫婦で話し合った時も、それが最重要だという点で二人の意見は一致していた。
そんな夫妻の顔を交互に眺めた後、松宮はいった。
「念のためです。もしかしたら薄々は何かに気づいておられたかもしれない。それに、もしおっしゃるとおりだったとしても、関係者全員から話を聞くというのが我々のルールなんです」
「関係者……でしょうか」八重子は訊く。
「同じ家に住んでおられる以上、息子さんも関係者ということになります」松宮はあっさりといい放った。
彼のいっていることはもっともだった。昭夫たちにしても、直巳を警察から完全に遠ざけることなどは無理だと思っていた。ただ、事件には無関係だし、まだ子供だということをできるかぎり強調しておきたかった。
「息子さんの部屋は二階ですか。何でしたら、自分が部屋に行ってもいいのですが」
松宮の言葉に昭夫は焦った。それだけは避けねばならなかった。直巳一人を刑事に会わせるのは危険だ。それもまた夫婦で一致した意見のひとつだ。
「呼んできます」同じ思いなのだろう、八重子がそういって部屋を出ていった。
「あのう」昭夫はいった。「場所を変えませんか。ここでは落ち着いて話せないし」ちらりと政恵のほうを見た。
松宮は少し考える顔をしてから頷いた。「そうですね」
ダイニングルームに移動することになった。昭夫はほっとした。政恵の姿が見える場所では、直巳が狼狽するような気がしたからだ。無論直巳は、認知症の祖母が罪を被《かぶ》ってくれることを知っている。
「ええとですね」ダイニングチェアに腰を下ろしてから、松宮が訊いてきた。「今までにもこういうことはあったんですか。つまり、おかあさんが誰かを傷つけたり、何かを壊したりということですが」
「そうですね……ないことはなかったです。何しろあの調子ですから、本人に悪いことをしているという意識はなくても、結果的にこっちが迷惑するということは多々ありました。物を投げて壊したりとか」
「でも田島春美さんによれば、おかあさんが暴れるなんてことはなかったそうですよ」
「それは、だから、相手が妹だからです。妹の前でだけおとなしいんです」
昭夫の答えに、若い刑事は釈然としない表情だった。
階段を下りる足音が聞こえた。軽やかとはいえないリズムだ。
八重子の後ろから、直巳がのっそりと現れた。Tシャツの上にパーカーを羽織り、スウェットを穿いていた。両手はそのスウェットのポケットに突っ込まれている。姿勢が悪く、猫背になっているのはいつものことだ。
「息子の直巳です」八重子がいった。「直巳、こちらが刑事さんよ」
紹介されても直巳は俯いたままで、相手の顔を見ようとしない。痩せた身体を隠すように母親の後ろに立っている。
「ちょっとこっちに来てくれるかな。話を聞きたいんだ」松宮がそういって向かいの椅子を指した。
直巳は下を向いたままダイニングテーブルに近づき、椅子に腰を下ろした。だが刑事と正対するのを避けるように身体を斜めにしている。
「事件のことは知っているのかな」松宮が質問を始めた。
直巳は小さく顎を前に出した。それが彼なりの頷きなのだろう。
「いつ知った?」
「さっき」ぼそりと答える。
「もう少し正確にいってもらえないかな」
直巳はちらりと母親を見た。その後、壁の時計に視線を移した。
「八時ぐらい」
「どんなふうに知ったんだい?」
直巳は黙っている。質問の意味がわからないのだろうかと昭夫が思った時、彼は上目遣いに父親を見た。
「なんで俺がこんなこと訊かれんの?」口を尖らせた。
おそらく自分は何もしなくていいと思い込んでいたのだろう。八重子から、そのように説明されているのかもしれない。女の子を殺しておいて、どういう神経をしているのかと昭夫は情けなくなるが、今ここで叱るわけにはいかない。
「一応、家族全員から話を聞きたいとおっしゃってるんだ。訊かれたことにだけ答えていればいい」
直巳はふて腐れたような表情で目をそらす。状況がわかっているのか、と昭夫は怒鳴りたくなった。
「事件のことは誰かから聞いたのかい」松宮が質問をやり直した。
「さっき、おとうさんとおかあさんから……」語尾が消えた。
「聞いた内容を話してもらえるかな」
直巳の表情に緊張と怯えの混ざったような色が出た。ここでしくじってはいけないということは、さすがにわかっているようだ。
「ばあちゃんが女の子を殺したって……」
「それで?」松宮は直巳の顔を覗き込む。
「その女の子は、おとうさんが公園に捨てたって。銀杏公園に……」
「それから?」
「隠しててもしょうがないから、警察に届けるって」
「ほかには?」
直巳の顔が不機嫌そうに歪んだ。あらぬ方向を睨み、口を半開きにした。喉が渇いた犬のように舌先を覗かせている。
いつもの顔だ、と昭夫は思った。何か悪いことをして問い詰められた時、最後には決まってこういう顔になる。原因が自分にあるにもかかわらず、それによって不快なことが生じると、自分以外の何かに責任を押しつけ、その何かに怒りをぶつけるのだ。今はきっと、刑事の詰問から守ってくれない両親に腹を立てているに違いないと昭夫は想像した。
「ほかには?」松宮が重ねて訊いた。
「知らない」直巳はぶっきらぼうにいった。「俺、なんも知らないから」
松宮は頷き、腕組みをした。その口元に笑みが浮かんでいるように見えた。それの意味がわからず昭夫は不安になった。
「話を聞いて、どう思った?」
「……びっくりした」
「そうだろうね。君から見て、どうなのかな。お婆さんはそういうことをしそうだった?」
直巳は下を向いたまま口を開いた。
「ぼけてたから、何をするかはわかんなかった」
「暴れることは?」
「あったと思う。でも俺、いつも帰るのが遅いから、ばあちゃんのことなんかよく知らない」
「そういえば金曜日も帰りが遅かったそうだね」松宮はいった。
直巳は無言だ。今度は何を訊かれるのだろうとびくついているのが昭夫にもわかった。彼自身も同じ思いだった。
「どこで何をしていたか、いってもらえるかな」
「あの、刑事さん」たまりかねて昭夫は口を挟んだ。「息子がどこにいたのかは、この件には関係がないと思うのですが」
「いや、そういうわけにはいかないんですよ。帰宅が遅かった、というだけではね。これこれこういう理由で遅くなった、と明らかにしておかないと、後でいろいろと面倒なんですよ」
松宮の口調は穏やかだが、妥協を許さない響きがあった。昭夫も、そうなんですか、と引き下がるしかなかった。
「で、どうかな」松宮は直巳に視線を戻した。
直巳は唇を半閉きにした。そこから息の漏れる音が聞こえた。呼吸が乱れているのだ。
「ゲーセンとかコンビニとか」弱々しい声でようやく答えた。
「誰かと一緒に?」
直巳は小さくかぶりを振った。
「ずっと一人だったわけ?」
「うん」
「どこのゲームセンター? それとコンビニの場所も教えてもらえるかな」
松宮は手帳を出し、メモを取る格好を始めた。全部記録するから、いい加減なことはいえないぞ、と威嚇《い かく》しているように昭夫には感じられた。
直巳はたどたどしい口調で、ゲームセンターとコンビニの場所を述べた。それらは万一のことを考えて、事前に決めておいたものだった。ゲームセンターは直巳がふだんからよく行く店だ。比較的広い店で、知り合いに会ったことはないという。コンビニは、これまでにあまり行ったことのない店を選んだ。よく行く店だと、店員が直巳の顔を覚えていて、金曜日の夜には行かなかったことを証言されてしまうかもしれないからだ。
「コンビニでは何を買ったのかな」
「何も買ってない。立ち読みしてただけ」
「じゃあ、ゲームセンターではどう? どんなゲームをしたの?」
昭夫は、はっとした。そんなことまでは決めていなかった。そこまで訊かれると思わなかったからだ。祈るような思いで俯いている息子を見つめた。
「ドラムマニアとかバーチャファイターとか、あとスリルドライブとか……」ぼそぼそと直巳は答え始めた。「あと……スロットとか」
スロットとはスロットマシンのことだろう。それ以外の名称については、昭夫は聞いたこともなかった。実際に直巳がふだんやっているゲーム機に違いない。
「家に帰ったのは何時頃?」松宮の質問はまだ終わらなかった。
「八時とか九時とか、大体そんな感じ」
「学校を出たのは?」
「四時ぐらい……かな」
「誰かと一緒だった?」
「一人」
「いつも一人で帰るわけ?」
うん、と直巳は短く答える。幾分、苛立ちがこもっていた。なかなか解放してくれないことに対する腹立たしさもあるだろうが、この質問自体に傷ついている可能性もあった。
直巳には友達らしい友達がいない。小学生の時からずっとそうだった。ゲームセンターに行く時も、コンビニで立ち読みする時も、いつも一人だ。逆に、もし気の許せる友達が一人でもいれば、今度のようなことにはならなかっただろう。
「四時に学校を出て、帰宅が八時だとして、ゲームセンターとコンビニで四時間も費《つい》やしていたわけか」松宮が独り言のように呟いた。
「大体、いつもそんなもんなんですよ」八重子がいった。「早く帰ってきなさいといってるんですけど、ちっともいうことをきかなくて」
「近頃の中学生は大抵そんなものですよ」そういってから松宮は直巳を見た。「学校を出てから家に帰るまで、知り合いに会ったとか、誰かを見かけたとか、そういうことはなかったかな」
「なかった」直巳は即答した。
「じゃあ、ゲームセンターやコンビニで、何か印象に残るような出来事はなかったかな。たとえば誰かが万引きで捕まってたとか、ゲーム機が故障したとか」
直巳は首を振る。
「よく覚えてない。なかったと思う」
「そう」
「あのう」昭夫は再び刑事にいった。「息子がゲームセンターやコンビニに行ってたこと、証明できないとまずいんですか」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、証明できたほうが今後何かと都合がいいというだけのことです」
「といいますと」
「証明できれば、息子さんは事件とは無関係ということで、改めて事情聴取を行うこともないでしょう。しかし証明できないとなれば、やはり何度か話を聞かせていただくことになると思います」
「いや、息子は無関係です。そのことは私たちが保証します」
だが松宮は首を振った。
「残念ながら親御さんの証言に証拠能力はありません。第三者の証言でないと」
「あたしたち、嘘なんかついてません」八重子の声が裏返った。「本当にこの子、関係ないんです。だから、もういいじゃないですか」
「それが事実なら、何らかの形で証明されますよ。心配されることはありません。ゲームセンターやコンビニには、大抵防犯カメラがついています。四時間も遊んでいたのなら、そこに映っている可能性も高いでしよう」
その言葉に、昭夫はぎくりとした。防犯カメラ──そんなことは考えもしなかった。
松宮は直巳のほうを向いた。
「ゲームが好きなんだね」
直巳は小さく首を動かした。
「パソコンは? やらないのかい」
直巳は黙っている。あまりの反応の悪さに、昭夫までがいらいらした。事件に関係のないこの程度の質問には、はきはきと答えてほしいものだと思う。
「やるわよね、パソコン」八重子が焦《じ》れたようにいった。
「自分專用のパソコンがあるんですか」松宮が彼女に訊いた。
「ええ。去年、知り合いから古いのをもらったんです」
「なるほど。最近の中学生はすごいですね」松宮は直巳に目を戻した。「質問に答えてくれてありがとう。部屋に戻ってていいよ」
直巳はのっそりと立ち上がり、無言で出ていった。階段を上がっていく音が聞こえ、最後にドアをばたんと閉める音がした。
この刑事は直巳を疑っている、と昭夫は確信した。何がそのような疑念を抱かせるきっかけになったのかは不明だが、そのことは間違いない。だからこそ、しつこくアリバイを確認したのだ。
八重子を見た。彼女はすがるような目を夫に向けていた。同様の不安を抱えている表情だった。何とかしてくれ、と訴えかけている。
昭夫は小さく頷いた。自信などなかったが、何とかしなければ、という思いだけが強かった。
刑事は直巳を疑っているのかもしれない。しかし証拠は何もないはずだ。自分たちが黙っていれば、どうすることもできない。老いた認知症の母親がやったことだと実の息子が主張しているのだから、それを信用するしかないはずだった。防犯カメラに直巳の姿が映っていないからといって、そのアリバイが嘘だと決められるわけではない。仮にアリバイが嘘だと判明したとしても、だからといって直巳が犯人だと決めつける根拠にはならない。
揺らいではいけない、この道を進むしかない──自らの決心を昭夫は確認した。
その時、インターホンのチャイムが鳴った。昭夫は思わず舌打ちをした。
「誰だろう、こんな時に」
「宅配便かしら」八重子がインターホンに近づく。
「ほうっておけばいい。のんびりとそんなものを受け取っている場合じゃない」
インターホンに出た八重子が、相手と言葉を交わした後で、昭夫を振り返った。困惑した顔になっていた。
「あなた、春美さんが……」
「春美が?」
なぜこんな時に、と昭夫は思った。
すると松宮が静かにいった。
「加賀刑事が一緒のはずです。入ってもらってください」
25
平静を装《よそお》いつつ、じつは松宮は興奮していた。ペンを持つ手の内側は、滲んだ汗で濡れていた。
小林との電話の後、前原直巳のアリバイを確認してほしいと加賀に頼まれた。
「両親は拒むだろうが、そんなものは無視していい。あまり頑《かたく》なな態度をとったら、君が直接部屋に乗り込むといえばいいんだ。直巳が出てきたら、徹底的に細かく追及してほしい。昨日の話ではゲームセンターに行っていたということだったが、どこのゲームセンターか、どんなゲームをして遊んだか、何か印象的な出来事はなかったか、ということまで訊くんだ。相手が怒り出すくらいしつこくやっていい。たぶんそんなことはないと思うがね。それから、パソコンを持っているかどうかもさりげなく確認してくれ」
どうやら加賀は前原直巳を疑っているようだ。しかしなぜそう思ったのかは松宮に話してくれなかった。
それだけのことを松宮に指示すると、白分は田島春美に会いに行く、と加賀はいったのだった。
何のために、と松宮は訊いた。
「事件を彼等自身の手で解決させるためだ」それが加賀の返答だった。
その彼が戻ってきた。しかも春美と一緒らしい。一体これから何が始まるのか、松宮にも予想がつかなかった。
玄関に出て行ったはずの八重子が暗い顔で戻ってきた。
「あなた、春美さんよ」
うん、と前原昭夫は頷く。やがて八重子の後ろから、悲愴な表情の田島春美が現れた。その後ろには加賀がいた。
「あの……どうして妹を?」前原が加賀に訊いた。
「おかあさんのことを一番よく御存じなのは妹さんでしょう」加賀はいった。「だから来ていただいたのです。事情はすべてお話ししました」
「……そうでしたか」前原は気まずそうな顔で妹を見上げた。「驚いたと思うが、そういうことなんだ」
「おかあさんは?」春美は訊いた。
「奥の部屋にいる」
そう、と呟いてから春美は深呼吸をひとつした。
「母に会ってきてもいいですか」
「いいですよ。行ってあげてください」
加賀にいわれ、春美は部屋を出ていった。前原夫妻がそれを見送った。
「松宮刑事」加賀が松宮のほうに首を捻った。「息子さんから話は?」
「聞きました」
「金曜の行動は?」
「ゲーセンとかに行って、夜八時頃まで帰らなかったそうです」そういってから松宮は加賀の耳元で囁《ささや》いた。「パソコンは持っているそうだ」
加賀は満足そうに頷くと、前原夫妻を交互に見た。
「間もなく応援の捜査員がやってきます。支度をしてください」
この言葉に松宮も驚いた。
「本部に連絡を?」小声で訊いた。
「ここへ来る途中、電話をかけた。ただ、こっちから連絡するまでは近くで待機してくれるよういっておいた」
彼の狙いがわからず、松宮は困惑した。すると加賀はその心中を察したように、意味ありげな目線を送ってきた。すべて任せてくれ──そう語っているようだった。
「あのう、母は逮捕されるわけですか」前原が尋ねてきた。
「もちろんです」加賀は答えた。「殺人は最悪の犯罪ですから」
「でもああいう状態なんですよ。自分では何をやったかわかってないんです。そういうのは責任能力がないとみなされるんじゃないんですか」
「もちろん、精神鑑定のようなことは行われるでしょうね。しかしその結果を検察がどう判断するかは我々にはわかりません。警察の仕事は、犯人を逮捕することです。その人物に責任能力があるかどうかは関係がありません」
「すると裁判では無罪になるかもしれないわけですね」
「無罪という表現がいいのかどうかはわかりません。それ以前に不起訴になる可能性もあります。ただ、我々には何ともいえません。検察の決めることです。起訴になった場合でも、裁判官の判断に委ねるしかありません」
「何とか」前原はいった。「あまり辛い思いをしなくて済むようにならないものでしょうか。留置所とか、そういうところはちょっと無理だと思うんです。あのとおりの状態ですし、元々高齢ですし……」
「そういうことは上が判断するでしょう。ただ、私の経験からいえば、余程のことがないかぎり例外は認められません。あの方は自分でトイレも出来るようだし、食事も問題がなさそうだ。留置所だけでなく拘置所も、ほかの被疑者と同様に扱われるんじゃないかと思います」
「拘置所にも……入らなきゃいけないんですか」
「起訴された場合です。あなた方お二人は、間違いなく入ることになるでしょう」
「いや、私たちは覚悟していますが……」
「そう、高齢のあの方には少し辛いでしょうね。かなり、といったほうがいいかな」加賀は続けた。「部屋は決して奇麗とはいえない。トイレはむき出し。夏は暑く、冬は寒い。食べ物は粗末で、うまくない。私物の持ち込みは許可を得ないかぎり不可能。おかあさんの好きな人形もおそらく認められない。狭くて、孤独で、退屈な日々が延々と続く」そこまでいってから彼は肩をすくめた。「まあ、それらの苦痛をどこまで自覚されるかは我々にはわからないわけですが」
前原昭夫は苦しげに顔を歪め、唇をかんだ。そういった生活を自分がしなければならないと思ったからか、老いた母親のことを案じたからかは松宮にはわからなかった。