饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.2

君は多分服部時雄という男を知っているだろう。キリスト教信者だという理由で、富美

子さんに対する結婚の申し込みを拒絶されたばかりでなく、伯父さんのところへのお出入

りまで止められてしまった、あの気の毒な服部君をね。親というものは馬鹿なもので、さ

すがの伯父さんも、富美子さんと服部君とがとうから恋仲だったことに気づかなかったの

だよ。また富美子さんも富美子さんだ。何も家出までしないでも、可愛い娘のことだ、い

かに宗教上の偏見があったって、できてしまったものを今さら無理に引き離す伯父さんで

もあるまいに、そこは娘心の浅はかというやつだ。それとも案外家出をして脅かしたら頑

固な伯父さんも折れるだろうという横着な考えだったかもしれないが、いずれにしても二

人は手に手をとって、服部君の田舎の友人の所へ駈落ちとしゃれたのさ。むろんそこから

たびたび手紙を出したそうだ。それを牧田のやつ一つもらさずにぎりつぶしていたんだね。

僕は千葉へ出張して、家では『黒手組』騒動が持ち上がっているのも知らないで、ひたす

ら甘い恋に酔っている二人を、一と晩かかってくどいたものだよ。あんまり感心した役目

じゃなかったがね。で、結局きっと二人が一緒になれるように取り計ろうという約束で、

やっと引き離して連れてきたのさ。だが、その約束もどうやら果たせそうだよ。きょうの

伯父さんの口ぶりではね。

ところで、今度は牧田の方の問題だが、これもやっぱり女出入りなのだ。可哀そうに先

生涙をぽろぽろこぼしていたっけ。あんな男にも恋はあるんだね。相手が何者かは知らな

いが、おそらく商売人か何かにうまく持ちかけられたとでもいうのだろう。ともかく、そ

の女を手に入れるために、まとまった金が入用だったのだ。そして、聞けば富美子さんが

帰ってこないうちに出奔するつもりでいたんだそうだ。僕はつくづく恋の偉力を感じた。

あの愚かしい男に、こんな巧妙なトリックを考えださせたのも、全く恋なればこそだよ」

私は聞き終って、ほっと溜息を吐いたことです。なんとなく考えさせられる事件ではあ

りませんか。明智もしゃべり疲れたのか、ぐったりとしています。二人は長いあいだだま

って顔を見合わせていました。

「すっかりコーヒーが冷えてしまった。じゃあ、もう帰ろうか」

やがて明智は立ち上がりました。そして、私たちはそれぞれ帰途についたのですが、別

れる前に明智は何かおもい出したふうで、先刻伯父から貰った二千円〔今の七、八十万円

に当る〕の金包みを私の方へ差し出しながら言うのです。

「これをね、ついでの時に牧田君にやってくれたまえ。婚資にといってね。君、あれは可

哀そうな男だよ」

私は快よく承諾しました。

「人生は面白いね。このおれがきょうは二た組の恋人の|仲《なこ》|人《うど》をつと

めたわけだからね」

明智はそう言って、心から愉快そうに笑うのでした。

夢遊病者の死

彦太郎が勤め先の木綿問屋をしくじって、父親のところへ帰ってきてから、もう三カ月

にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送ってい

る、五十を越した父親の厄介になっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。

どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み自分でも奔走しているのだけれど、折から

の不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれ

る店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、

それは彼の方から断わった。というのは、彼にはどうしても再び住み込みの勤めができな

いわけがあったからである。

彦太郎には、幼ない時分から寝とぼける癖があった。ハッキリした声で寝言を言って、

そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けて又しゃべる。そうしていつ

まででも問答をくり返すのだが、さて、朝になって眼が覚めてみると、少しもそれを記憶

していないのだ。余り言うことがハッキリしているので、気味がわるいようだと、近所の

評判になっていたくらいである。それが、小学校を出て奉公をするようになった当時は、

一時やんでいたのだけれど、どうしたものか二十歳を越してから、また再発して、困った

ことには、みるみる病勢がつのって行くのであった。

夜中にムクムクと起き上がって、その辺を歩き廻る。そんなことはまだお手軽な方だっ

た。ひどい時には、夢中で表の締まりを――それが住み込みで勤めていた木綿問屋のであ

る――その締まりをあけて、一町内をぐるっと廻ってきて、また戸締まりをして寝てしま

ったことさえあるのだ。

だが、そんなふうのことだけなら、気味のわるいやつだぐらいですみもしようけれど、

最後には、その夢中でさ迷い歩いているあいだに、他人の品物を持ってくるようなことが

起こった。つまり知らず知らずの泥棒なのである。しかも、それが二度、三度とくり返さ

れたものだから、いくら夢中の仕草だとはいえ、泥棒を雇っておくわけにはゆかぬという

ので、もうあと三年で、年期を勤め上げ、暖簾を分けてもらうという惜しいところで、と

うとうその木綿問屋をお払い箱になってしまったのである。

最初、自分が夢遊病者だとわかった時、彼はどれほど驚いたことであろう。乏しい小遣

銭をはたいて、医者にもみてもらった。いろいろの医学の書物を買い込んで、自己療法も

やってみた。或いは神仏を念じて、大好物の餅を断って、病気平癒の祈願をさえした。だ

が、彼のいまわしい悪癖はどうしても治らぬどころではない、日にまし重くなって行くの

だ。そして、ついには、あの思い出してもゾッとする夢中の犯罪。ああ、おれはなんとい

う因果な男だろう。彼はただもう、身の不幸を歎くほかはなかったのである。

今までのところでは、幸いに法律上の罪人となることだけは免がれてきた。だが、この

先どんなことで、もっとひどい罪を犯すまいものでもない。いや、ひょっとしたら、夢中

で人を殺すようなことさえ、起こらないとは限らぬのだ。

本を見ても、人に聞いても、夢遊病者の殺人というのは、ままある事らしい。まだ木綿

問屋にいたころ、飯炊きの爺さんが、若いころ在所にあった事実談だといって、気味のわ

るい話をしたのを、彼はよく覚えている。それは、村でも評判の貞女だったある女が、寝

とぼけて、野らで使う草刈鎌をふるって、その亭主を殺してしまったというのである。

それを考えると、彼はもう夜というものが怖くてしようがないのだ。そして、普通の人

には一日の疲れを休める安息の床が、彼だけには、まるで地獄のようにも思われるのだ。

もっとも、家へ帰ってからは、ちょっと発作がやんでいるようだけれど、そんなことで決

して安心はできないのだ。そこで、彼は、住み込みの勤めなど、どうして、どうして、二

度とやる気はしないのである。

ところが、彼の父親にしてみると、折角勤め口が見つかったのを、なんの理由もなく断

わってしまう彼のやり方を、甚だ心得がたく思うのである。というのは、父親はまだ、大

きくなってから再発した彼の病気について、何も知らないからで、息子がどういう過失で

木綿問屋をやめさせられたか、それさえ実はハッキリしないくらいなのだ。

ある日、一台の車がM伯爵の門長屋へはいってきて、三畳と四畳半二た間きりの狭苦し

い父親の住居の前に梶棒をおろした。その車の上から息子の彦太郎が妙にニヤニヤ笑いな

がら行李を下げて降りてきたのである。父親は驚いて、どうしたのだと聞くと、彼はただ

フフンと鼻の先で笑って見せて、少し面白くないことがあったものだからと答えたばかり

だった。

その翌日、木綿問屋の主人から一片の書状が届いた。そこには、今度都合により一時御

子息を引き取ってもらうことにした。が、決して御子息に落度があったわけではないから

というような、こうした場合の極りきった文句がしるされていた。

そこで、父親は、これはてっきり、彼が茶屋酒でも飲み覚えて、店の金を使い込みでも

したのだろうと早合点をしてしまったのである。そして、暇さえあれば彼を前に坐らせて、

この柔弱者めがというような、昔形気な調子で意見を加えるのだった。

彦太郎が、最初帰ってきた時に、実はこうこうだと言ってしまえば、わけもなくすんだ

のであろうが、それを言いそびれてしまったところへ、父親に変な誤解をされて、お談義

まで聞かされては、彼の癖として、もうどんなことがあっても真実を打ち明ける気がしな

いのであった。

彼の母親は三年あとになくなり、ほかに兄弟とてもない。ほんとうに親一人子一人の間

柄であったが、そういう間柄であればあるほど、あの妙な肉親憎悪とでもいうような感情

のために、お互いになんとなく隔意を感じ合っていた。彼が依怙地に病気のことを隠して

いたのも、一つはこういう感情に妨げられたからであった。もっとも一方では、二十三歳

の彼には、それを打ち明けるのが此の上もなく気恥かしかったからでもあるけれど。そこ

へ持ってきて彼が折角の勤め口を断わってしまったものだから、父親の方ではますます立

腹する。それが彦太郎にも反映して、彼の方でも妙にいらいらしてくる。というわけで、

近頃ではお互いに口を利けば、すぐもう喧嘩腰になり、そうでなければ何時間でもだまっ

て睨み合っているという有様であった。きょうもまたそれである。

二、三日雨が降りつづいたので、彦太郎は、日課のようにしていた散歩にも出られず、

近所の貸本屋から借りてきた講談本も読み尽してしまい、どうにも身の置きどころもない

ような気持になって、ボンヤリと父親の小さな机の前に坐っていた。

四畳半と三畳の狭いうちが、畳から壁から天井から、どこからどこまでジメジメと湿っ

て、すぐに父親を連想するような一種の臭気がむっと鼻を突く。それに、八月のさ中のこ

とで、雨が降ってはいても、耐らなく蒸し暑いのである。

「えっ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ……」

彼はそこにあった、鉛の屑を叩き固めたような重い不恰好な文鎮で、机の上を滅多無性

に叩きつけながら、やけくそのようにそんなことをどなったりした。そうかと思うとまた、

長いあいだ、だまりこくって考え込んでいることもあった。そんな時、彼はきっと十万円

〔註、今の四千万円ほど〕の夢を見ていたのである。

「あああ、十万円ほしいな。そうすれば働かなくってもいいのだ。利子で充分生活ができ

るのだ。おれの病気だって、いい医者にかかって、金をうんとかけたら、治らないもので

もないのだ。親父にしてもそうだ。あの年になって、みじめな労働をすることはいらない

のだ。それもこれも、みんな金だ、金だ。十万円ありさえすればいいのだ。こうっと、十

万円だから、銀行の利子が六分として、年に六千円、月に五百円か……」〔註、五百円は今

の二十万円ほど〕

すると彼の頭に、いつか木綿問屋の番頭さんに連れられて行った、お茶屋の光景が浮か

ぶのである。そして、そのとき彼のそばに坐った眉の濃い一人の芸妓の姿や、その|声《こ

わ》|音《ね》や、いろいろのなまめかしい仕草が、浮かぶのである。

「ところで、なんだっけ、ああ、そうそう十万円だな。だが一体全体そんな金がどこにあ

るのだ。えっ、くそ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ……」

そして、またしてもゴツンゴツンと、文鎮で机の上をなぐるのである。

彼がそんなことをくり返しているところへ、いつの間にか電燈がついて、父親が帰って

きた。

「今帰ったよ。やれやれよく降ることだ」

近頃では、その声を聞くと彼はゾーッと寒気を感じるのだ。

父親は雨で汚れた靴の始末をしてしまうと、やれやれという恰好で、四畳半の貧弱な長

火鉢の前に坐って、濡れた紺の詰襟の上衣を脱いで、クレップシャツ一枚になり、ズボン

のポケットから取り出した、真鍮のなたまめ|煙管《き せ る》で、まず一服するのであ

った。

「彦太郎、何か煮ておいたかい」

彼は父親から炊事係りを命ぜられていたのだけれど、ほとんどそれを実行しないのだっ

た。朝などでも、父親がブツブツと言いながら、自分で釜の下を焚きつける日が多かった。

きょうとても、むろんなんの用意もしていないのである。

「おい、なぜだまっとるんだ。おやおや、湯も沸いていないじゃないか。からだを拭くこ

ともできやしない」

なんといってみても、彦太郎はだまっていて答えないので、父親は仕方なく、よっこら

しょと立ち上がって、勝手もとへ下りて、ゴソゴソと夕餉の支度にとりかかるのであった。

そのけはいを感じながら、じっと机の前の壁を見つめている彦太郎の胸の中は、憎しみ

とも悲しみとも、なんとも形容のできない感情のために、煮え返るのである。天気のよい

日なれば、こういう時には、何も言わずにプイとそとへ出て、その辺を足にまかせて歩き

廻るのだけれど、きょうはそれもできないので、いつまでもいつまでも、雨もりで汚れた

壁と睨めっくらをしているほかはない。

やがて、鮭の焼いたので貧しい膳立てをした父親が、それだけが楽しみの晩酌に取りか

かるのである。そして、一本の徳利を半分もあけたころになると、ボツボツと元気が出て、

さて、おきまりのお談義がはじまるのだ。

「彦太郎、ちょっとここへおいで……どういうわけで、お前はおれのいうことに返辞がで

きないのだ。ここへこいといったらくるがいいじゃないか」

そこで、彼は仕方なく机の前に坐ったまま、向きだけをかえて、はじめて父親の方を見

るのだが、そこには、頭の禿と、顔の皺とを除くと、彼自身とそっくりの顔が、酒のため

に赤くなって、ドロンとした眼を見はっている。

「お前は毎日そうしてゴロゴロしていて、一体恥かしくないのか……」と、それから長々

とよその息子の例話などがあって、さて「おれはな、お前に養ってくれとはいわない。た

だ、このおいぼれの脛噛りをして、ゴロゴロしていることだけは、頼むから止めてくれ。

どうだわかったか。わかったのかわからないのか」

「わかってますよ」すると彦太郎がひどい剣幕で答えるのだ。「だから、一所懸命就職口を

探しているのです。探してもなければ仕方がないじゃありませんか」

「ないことはあるまい。此のあいだ××さんが話してくだすった口を、お前はなぜ断わっ

てしまったのだい。おれにはどうもお前のやることはさっぱりわからない」

「あれは住み込みだから、厭だと言ったじゃありませんか」

「住み込みがなぜいけないのだ。通勤だって住み込みだって、別に変りはないはずだ」

「…………」

「そんな贅沢がいえた義理だと思うか。|先《せん》のお|店《たな》をしくじったのは

何がためだ。みんなその我儘からだぞ。お前は自分ではなかなか一人前のつもりかも知れ

ないが、どうして、まだまだ何もわかりゃしないのだ。人様が勧めてくださるところへハ

イハイと言って行けばいいのだ」

「そんなことをいったって、もう断わってしまったものを、今さらしようがないじゃあり

ませんか」

「だから、だからお前は生意気だというのだ。一体あれを、おれに一言の相談もしないで、

断わったのは誰だ。自分で断わっておいて、今さらしようがないとは、なんということだ」

「じゃあ、どうすればいいのです………そんなに僕がお邪魔になるのだったら、出て行け

ばいいのでしょう。ええ、あすからでも出て行きますよ」

「ば、馬鹿。それが親に対する言い草か」

やにわに父親の手が前の徳利にかかると、彦太郎の眉間めがけて飛んでくる。

「何をするんです」

そう叫ぶが早いか、今度は彼の方から父親に武者ぶりついて行く。狂気の沙汰である。

そこで世にもあさましい親と子のとっ組み合いがはじまるのだ。だが、これは何も今夜に

限ったことではない。もうこの頃では毎晩のようにくり返される日課の一つなのである。

そうして、とっ組み合っているうちに、いつも彦太郎の方が耐りかねたように、ワッと

ばかりに泣き出す………何が悲しいのだ。なんということもなく、すべてが悲しいのだ。

詰襟の洋服を着て働いている五十歳の父親も、その父親の家でゴロゴロしている自分自身

も、三畳と四畳半の乞食小屋のような家も、何もかも悲しいのだ。

そして、それからどんなことがあったか。

父親が火鉢の引出しから湯札を出して、銭湯へ出掛けた様子だった。しばらくたって帰

ってくると、彼の御機嫌をとるように、

「すっかり晴れたよ。おい、もう寝たのか。いい月だ、庭へ出てみないか」

などといっていた。そして自分は縁側から庭へ下りて行った。そのあいだじゅう、彦太

郎は四畳半の壁のそばに俯伏して、泣き出した時のままの姿勢で、身動きもしないでいた。

蚊帳もつらないで全身を蚊の食うに任せ、ふてくされた女房のように、棄鉢に、口癖の「死

んじまえ、死んじまえ」を念仏みたいに頭の中でくり返していた。そして、いつの間にか

寝入ってしまったのである。

それからどんなことがあったか。

その翌朝、開けはなした縁側からさし込む、まばゆい日光のために、早くから眼を覚ま

した彦太郎は、部屋の中がいやにガランとして、ゆうべのまま蚊帳も吊ってなければ床も

敷いてないのを発見した。

さてはもう父親は出勤したのかと、柱時計を見ると、まだやっと六時を廻ったばかりだ。

なんとなく変な感じである。そこで、睡い眼をこすりながら、ふと庭の方を見ると、これ

はどうしたというのであろう。父親が庭のむこうの籐椅子にもたれこんで、ぐったりとし

ているではないか。

まさか睡っているのではあるまい。彦太郎は妙に胸騒ぎを覚えながら、縁側にあった下

駄をつっかけると、急いで籐椅子のそばへ行ってみた。――読者諸君、人間の不幸なんて、

どんなところにあるかわからないものだ。そのとき縁側には二足の下駄があって、彼のは

いたのはその内の朴歯の日和下駄であったが、もしそうでなく、もう一つの桐の駒下駄の

方をはいていたなら、或いはあんなことにならなくてすんだのかもしれないのだ。

近づいてみると、彦太郎の仰天したことには、父親はそこで死んでいたのである。両手

を籐椅子の肘かけからダラリと垂らして、腰のところで二つに折れでもしたようにからだ

を曲げて、頭と膝とがほとんどくっ着かんばかりである。それゆえ、見まいとしても見え

るのだが、その後頭部がひどい傷になっている。出血こそしていないけれど、いうまでも

なくそれが致命傷に違いない。

まるで作りつけの人形ででもあるように、じっとしている父親の奇妙な姿を、夏の朝の

輝かしい日光が、はれがましく照らしていた。一匹の虻がにぶい羽音を立てて、死人の頭

の上を飛び廻っていた。

彦太郎は、余り突然のことなので、悪夢でも見ているのではないかと、しばらくぼんや

りそこにたたずんでいたが、でも、夢であろうはずもないので、そこで、彼は庭つづきの

伯爵邸の玄関へ駈けつけて、折から居合わせた一人の書生に、事の次第を告げたのである。

伯爵家からの電話によって間もなく警察官の一行がやってきたが、中に警察医もまじっ

ていて、先ず取りあえず死体の検診が行なわれた。その結果、彦太郎の父親は「鈍器によ

る打撃のために脳震盪」を起こしたもので、絶命したのはゆうべ十時前後らしいというこ

とがわかった。一方彦太郎は警察署長の前に呼び出されて、いろいろと取り調べを受けた。

伯爵家の執事も同様に訊問された。しかし両人とも、なんら警察の参考になるような事柄

は知っていなかったのである。

それから現場の取り調べが開始された。署長のほかに背広姿の二人の刑事が、いろいろ

と議論を戦わせながら、しかしいかにも専門家らしくテキパキと調査を進めて行った。彦

太郎は伯爵家の召使いたちと一緒に、ぼんやりとその有様を眺めていた。彼は余りのこと

に思考力を失ってしまって、その時まで、まだ何事も気づかないでいたのだ。一種の名状

しがたい不安におそわれてはいたけれど、しかしそれが何ゆえの不安であるか、彼は少し

も知らなかったのである。

そこは庭とはいっても、彦太郎の家の裏木戸のそとにある二十坪ほどの殺風景な空地な

ので、彦太郎の家と向かい合って、伯爵家の三階建ての西洋館があり、右手の方は高いコ

ンクリート塀を隔てて往来に面し、左手は伯爵家の玄関に通ずる広い道になっている。そ

のほとんど中央に、主家の使いふるしの毀れかかった籐椅子が置いてあるのだ。

むろん他殺の見込みで取り調べが進められた。しかし、死体の周囲からは加害者の遺留

品らしいものは何も発見されなかった。空地が隅から隅まで捜索せられたけれど、西洋館

に沿って植えられた五、六本の杉の木を除いては、植木一本、植木鉢一つないガランとし

た砂地で、石ころ、棒切れ、その他兇器に使いうるような品物はむろん、疑うべき何物を

も見出すことはできなかった。

たった一つ、籐椅子から一間ばかりの杉の木の根元の草のあいだに、一と束の夏菊の花

が落ちていたほかには。だが、誰もそんな草花などには見向きもしなかった。或いは、た

とえ気がついていても特別の注意を払わなかった。彼らはもっとほかのもの、例えば一と

筋の手拭とか、一個の財布とか、いわゆる遺留品らしいものを探していたのである。

結局、唯一の手掛りは足跡だった。幸いなことには降りつづいた雨のために、地面が滑

らかになっていて、前夜、雨が上がってからの足跡だけが、ハッキリと残っているのだ。

とはいえ、けさからもうたくさんの人が歩いているので、それを一々調べ上げるのはずい

ぶん骨の折れる仕事ではあったが、これは誰の足跡、あれは誰の足跡と、丹念にあてはめ

て行くと、あとに一つだけ主のない足跡が残ったのである。

それは幅の広い駒下駄らしいもので、その辺をやたらに歩き廻ったとみえて、縦横無尽

の跡がついている。そこで、刑事の一人がそれを追ってみると、不思議なことには、足跡

は彦太郎の家の縁側から発して、またそこへ帰っていることがわかった。そして、縁側の

型ばかりの沓脱石の上に、その足跡にピッタリ一致する古い桐の駒下駄がチャンと脱いで

あったのである。

最初刑事が足跡を調べはじめたころに、彦太郎はもうその桐の古下駄に気がついていた。

彼は父親の死体を発見してから一度も家の中へはいったことはないのだから、その足跡は

ゆうべついたものに違いないが、とすると、一体なにびとがその下駄をはいたのであろう

か……

そこで、彼はやっと或る事を思い当たったのである。彼はハッと昏倒しそうになるのを

やっとこらえることができた。頭の中でドロドロした液体が渦巻きのように回転しはじめ

た。レンズの焦点が狂ったように、周囲の景色がスーッと眼の前からぼやけて行った。そ

して、そのあとへ、あの机の上の重い文鎮をふり上げて、父親の脳天を叩きつけようとし

ている、自分自身の恐ろしい姿が幻のように浮かんできた。

「逃げろ、逃げろ、さあ早く逃げるんだ」

何者とも知れず、彼の耳のそばであわただしく叫びつづけた。

彼は一所懸命に、なにげないふうを装いながら、伯爵家の召使いたちの群れから少しず

つ、少しずつ離れて行った。それが彼にとってどれほどの努力であったか。今にも「待て

っ」と呼び止められそうな気がして、もう生きた心地もないのである。

だが、仕合わせなことには、誰もこの彼の不思議な挙動に気づくものもなく、無事に家

の蔭までたどりつくことができた。そこから彼は一と息に門の前まで駈けつけた。見ると

門前に一台の警察用の自転車が立てかけてある。彼はいきなりそれに飛び乗って、行手も

定めず、無我夢中でペダルを踏んだ。

両側の家並がスーッ、スーッと背後へ飛んで行った。幾度となく往来の人に突きあたっ

て顛覆しそうになった。それを危うく避けて走った。今なんという町を走っているのか、

むろんそんなことは知らなかった。賑やかな電車道などへ出そうになると、それをよけて

淋しい方へ、淋しい方へとハンドルを向けた。

それからどれほど炎天の下を走りつづけたことか。彦太郎の気持では充分十里以上も逃

げのびたつもりだったけれど、東京の町はなかなか尽きなかった。ひょっとすると、彼は

同じところをグルグル廻っていたのかもしれないのだ。そうしているうちに、突然パンと

いうひどい音がしたかと思うと、彼の自転車は役に立たなくなってしまった。

彼は自転車を捨てて走り出した。白絣の着物が、汗のために、水にでも漬けたようにビ

ッショリ濡れていた。足は棒のように無感覚になって、ちょっとした障碍物にでもつまず

いては倒れた。

心臓が胸の中で狂気のように躍り廻っていた。喉はカラカラに渇いて、ヒューヒューと

喘息病みみたいな音を立てた。彼はもう、なんのために走らねばならぬのか、最初の目的

を忘れてしまっていた。ただ眼の前に浮かんでくる世にも恐ろしい親殺しの幻影が彼を走

らせた。

そして、一丁、二丁、三丁、彼は酔っぱらいのような恰好で、倒れては起き上がり、倒

れてはまた起き上がって走った。が、その痛ましい努力も長くはつづかなかった。やがて

彼は倒れたまま動かなくなった。汗と埃にまみれた彼のからだを、真夏の日光がジリジリ

と照りつけていた。

しばらくして、通行人の知らせで駈けつけた警官が、彼の肩をつかんで引き起こそうと

した時に、彼はちょっとふり放して逃げ出す恰好をしたが、それが最後だった。彼はそう

して警官の腕に抱かれたまま息を引きとったのである。

そのあいだに、伯爵邸の父親の死骸のそばでは何事が起こっていたか。

警官たちが彦太郎の逃亡に気づいたのは、彼が半里も逃げ延びている時分であった。署

長は、もう追っかけてもだめだと悟ると、猶予なく伯爵家の電話を借りて、その旨を本署

に伝え、彦太郎逮捕の手配を命じた。そうしておいて、彼らは猶も現場の調査をつづけ、

かたがた検事の来着を待つことにしたのである。

むろん彼らは彦太郎が下手人だと信じた。現場に残された唯一の手掛りである桐の下駄

が、彦太郎の家の縁側から発見されたこと、その下駄の主と見なすべき彦太郎が逃亡した

こと、この二つの動かし難い事実が彼の有罪を証拠立てていた。

ただ、彦太郎が何ゆえに真実の父親を殺害したか、そして又、下手人である彼が、なぜ

警官が出張するまで逃亡を躊躇していたかという二点が、疑問として残されていたけれど、

それもいずれ彼を逮捕してみればわかることなのである。ところが、そうして事件が一段

落をつげたかとみえた時に、実に意外なことが起こった。

「その人を殺したのは、私です。私です」

伯爵邸の方から一人のまっ青な顔をした男が、署長のそばへ走ってきて、いきなりこん

なことを言い出したのである。その男はまるで熱病患者のように「私です、私です」とそ

ればかりをくり返すのだ。

署長をはじめ刑事たちは、あっけにとられて、不思議な闖入者の姿を眺めた。そんなこ

とがありうるだろうか。まさか、この男が彦太郎の家にあった桐の下駄をはいたとも思わ

れぬ。そうだとすると、少しも足跡を残さないで、どうして殺人罪を犯すことができたの

であろうか。そこで、彼らはともかく男の陳述を聞いてみることにした。

それは実に意外な事実であった。警察はじまって以来の記録といってもさしつかえない

ほど、不思議千万な事実であった。さて、その男(それは伯爵家の書生の一人であった)

の告白したところはこうである。

きのう、伯爵邸に数人の来客があって、西洋館三階の大広間で晩餐が供せられた。それ

が終って客の帰ったのがちょうど九時ごろであった。彼はそこのあと片付けを命ぜられて、

部屋の中をあちこちしながら働いていたが、ふとジュウタンの端につまずいて倒れた。そ

のはずみに部屋の隅に置いてあった花瓶を置くための高い台を倒し、台の上の品物が、開

けはなしてあった窓から飛びだしたのである。

この品物がもし花瓶であったら、こんな間違いは起こらなかったのであろうが、それは、

花瓶の台にはのっていたけれど、花瓶ではなく、五、六時間もたてば跡形もなく融けてな

くなってしまう氷の|塊《かたま》りだったのである。冷房用の花氷だったのである。水

を受けるための装置は台に取りつけてあったので、上の氷だけが落ちたのだ。むろんそれ

は昼間からその部屋に飾ってあったのだから、大部分融けてしまって、ほとんど心だけが

残っていたのだけど、でも老人に脳震盪を起こさせるには充分だったとみえる。

彼は驚いて窓から下を覗いて見た。そして、月あかりでそこに小使いの老人が死んでい

るのを知った時、どんなに仰天したか。たとえあやまちからとはいえ、おれは人殺しをや

ってしまったのだ。そう思うともうじっとしていられない。皆に知らせようか、どうしよ

うか、とつおいつ思案をしているうちに時間がたつ、もしこのままあすの朝まで知れずに

いたら、どうなるだろう。ふと彼はそんなことを考えてみた。

いうまでもなく、氷は解けてしまうのだ。中の夏菊の花だけは残っているだろうけれど、

ひょっとしたら気づかれずにすむかもしれない。それとも今から氷のかけらを拾いに行こ

うか。いやいや、そんなことをして、もし見つかったら、それこそ罪人にされてしまう。

彼は寝床へはいっても、一と晩中まんじりともしなかった。

ところが朝になってみると、事件は意外な方向に進んで行った。朋輩から詳しく様子を

聞いて、一時はこいつはうまく行ったと喜んだものの、さすがに善人の彼は、そうしてじ

っとしていることはできなかった。自分の代りに、一人の男が恐ろしい罪名を着せられて

いるかと思うと、あまりに空恐ろしかった。それに又、そうして一時は免がれることがで

きても、いずれ真実が暴露する時がくるに違いなかった。そこで彼は、今は意を決して署

長のところへやってきた。というわけであった。

これを聞いた人々は、あまりに意外な、そしてまたあまりにあっけない事実に、しばら

くは、ただ顔を見合わせているばかりであった。

それにしても彦太郎は早まったことをしたものである。その時は、彼が逃亡してからま

だ三十分もたっていないのだった。それとも又、彼が、いや彼でなくとも、刑事なり伯爵

家の人たちなりが、あの杉の根元に落ちていた一と束の夏菊の花に、もっとよく注意した

ならば、そしてその意味を悟ることができたならば、彦太郎は決して死ななくともすんだ

のである。

「しかしおかしいね」しばらくしてから警察署長が妙な顔をして言った。「この足跡はどう

したというのだろう。それから、死人の息子はなぜ逃亡したのだろう」

「わかりましたよ、わかりましたよ」ちょうどこのとき問題の桐の下駄をはき試みていた

一人の刑事がそれに答えて叫んだ。「足跡はなんでもないのです。この下駄をはいてみると

わかりますがね。割れているのですよ。見たところ別状ないようですけれど、はいてみる

と、まん中からひび割れていることがわかるのです。もうちょっとで離れてしまいそうで

す。誰だってこんな下駄をはいているのは気持がよくありませんからな。きっと被害者が

庭を歩いているうちに、それに気づいて、縁側まではき換えに帰ったのですよ」

もしこの刑事の想像が当たっているとすると、彼らは今まで被害者自身の足跡を見て騒

いでいたわけである。なんという皮肉な間違いであろう。多分それは、殺人が行なわれた

からには、犯人の足跡がなければならぬというもっともな理窟が、彼らの判断力を迷わせ

てしまったのであろう。

その翌々日、M伯爵家の門を二つの棺が出た。いうまでもなく、不幸なる夢遊病者彦太

郎とその父親を納めたものである。噂を聞いた世間の人たちは、だれもかれも、彼ら親子

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