饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.6

出合った男が、昔の恋人の弟であって、しかも、その男からまるで予期しなかったその人

の心持を知るなんて、それも、私たちが以前に会っているのだったら、さして不思議でも

ないのですが、まるで見ず知らずのあいだがらで、双方相手の顔を覚えていたのですから

ね。

そのことがあってから、当分というものは、私はすみ子のことばかり考えておりました。

あのとき私に、なぜもっと勇気がなかったかと、それもむろん残念に思わぬではありませ

んが、何をいうにも年数のたったことではあり、こちらの年が年ですから、そんな現実的

な事柄よりは、単になんとなく嬉しくて、また悲しくて、家内の目を盗んでは、形見の懐

中鏡と写真とを眺め暮らし、夢のように淡い思い出にふけるばかりでした。

しかし、人間の心持は、なんと妙なものではありませんか。そんなふうに、私の思いは、

決して現実的なものではなかったのに、ヒステリー患者とはいいながら、これまでさして

厭にも思わなかった家内のお園が、きわ立っていとわしくなり、すみ子が睡っている三重

県の田舎町が、そこへ一度も行ったことがないだけに、不思議にもなつかしく思えるので

すね。そして、しまいには、巡礼のようなつつましやかな旅をして、すみ子のお墓参りが

してみたいとまで願うようになったものです。こんなふうの言い方をしますと、今になっ

てはからだがねじれるほどいやみな気がしますけれど、当時は、子供のような純粋な心持

で、ほんとうにそれまで思いつめたものなんです。

田中から聞いた、彼女のやさしい戒名を刻んだ石碑の前に、花を手向け香をたいて、そ

こで一とこと彼女に物が言ってみたい。そんな感傷的な空想さえ描くのでした。むろんこ

れは空想にすぎないのです。たとえ実行しようとしたところで、当時の生活状態では、旅

費を工面する余裕さえなかったのですから。

で、お話がこれでおしまいですと、いわば四十男のおとぎ話として、たとえおのろけと

はいえ、ちょっと面白い思い出に違いないのですが、ところが、実はこのつづきがあるの

ですよ。それを言うと非常な幻滅で、まるきり他愛のない落とし話になってしまうので、

私も先を話したくないのですけれど、でも、事実は事実ですから、どうもいたし方があり

ません。なに、あんなことでうぬぼれてしまった私にとっては、いい見せしめかもしれな

いのですがね。

私がそんなふうにして、死んだすみ子の幻影を懐かしんでいたある日のことでした。ち

ょっとした手抜かりで、例の懐中鏡とすみ子の写真とを、私のヒステリーの家内に見つか

ってしまったわけなんです。それを知ったときは、困ったことになった、これでまた四、

五日のあいだは、烈しい発作のお|守《も》りをしなければなるまいと、私はいっそ覚悟

をきめてしまったほどでした。ところが、意外なことには、その二た品を前にして、私の

破れ机の前に坐った家内は、いっこうヒステリーを起こす様子がないのです。そればかり

か、ニコニコしながらこんなことを言うではありませんか。

「まあ、北川さんの写真じゃありませんか、どうしてこんなものがあったの。それに、ま

あ珍らしい懐中鏡、ずいぶん古いものですわね。私の行李から出てきたのですか、もうず

っと前になくしてしまったとばかり思っていましたのに」

それを聞きますと、私はなんだか変だなと思いましたが、まだよくわからないで、ぼん

やりして、そこにつっ立っておりました。家内はさも懐かしそうに懐中鏡をもてあそびな

がら、

「あたしが、この組み合わせ文字の刺繍を置いたのは、学校に通よっている頃ですわ、あ

なた、これがわかって」そういって、三十歳の家内が妙に色っぽくなるのですよ。「一造の

Iでしょう。園のSでしょう。まだあなたと一緒にならない前、お互の心が変わらないお

まじないに、これを縫ったのですわ。わかって。どうしたのでしょうね。学校の修学旅行

で日光に行った時、途中で盗まれてしまったつもりでいたのに」

というわけです。おわかりでしょう。つまりその懐中鏡は、私が甘くも信じきっていた

すみ子のではなくて、私のヒステリー女房のお園のものだったのです。園もすみ子も頭字

は同じSで、飛んだ思い違いをしたわけです。それにしてもお園の持ち物がどうしてすみ

子の所にあったか、そこがどうも、よくわかりません。で、いろいろと家内に問いただし

てみましたところ、結局こういうことが判明したのです。

家内が言いますには、その修学旅行の折り、懐中鏡は財布などといっしょに、手提げの

中へ入れて持っていたのを、途中の宿屋で、誰かに盗まれてしまった。それがどうも、同

じ生徒仲間らしかったというのです。私も仕方なく、すみ子の弟との出合いのことを打ち

明けたのですが、すると家内は、それじゃあ、これはすみ子さんが盗んだのに違いない。

あなたなんか知るまいけれど、すみ子さんの手くせの悪いことは級中でも誰知らぬ者もな

いほどだったから。じゃあ、きっとあの人だわと言うのです。

この家内の言葉が、でたらめや勘違いでなかった証拠には、その時にはもう抜き出して

なくなっていた、鏡の裏の私の写真のことを覚えていました。それも家内が入れておいた

ものなんです。多分すみ子は、死ぬまで、この写真については知らずに過ぎたものに違い

ありません。それを彼女の弟が、気まぐれにもてあそんでいて、偶然見つけ出し、飛んだ

勘違いをしたわけでしょう。

つまり、私は二重の失望を味わわねばならなかったのです。第一にすみ子が決して私な

どを思ってはいなかったこと、それから、もし家内の想像を真実とすれば、あれほど私が

恋いしたっていた彼女が、見かけによらぬ泥棒娘であったこと。

ハハハハハハ、どうも御退屈さま。私のばかばかしい思い出話は、これでおしまいです。

落ちを言ってしまえば、此の上もなくつまらないことですけれど、それがわかるまでは、

私もちょっと緊張したものですがね。

算盤が恋を語る話

〇〇造船株式会社会計係りのTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務

所へやってきました。そして、会計部の事務室へはいると、外套と帽子をかたえの壁にか

けながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。

出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさ

んならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出され

ているばかりです。

Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、彼の助手を勤めて

いる若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして何かこう、盗み

でもするような恰好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一

梃の|算《そろ》|盤《ばん》を取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つ

きでその玉をパチパチはじきました。

「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭なりか。フフ」

彼はそこにおかれた非常に大きな金額を読みあげて、妙な笑い方をしました。そして、

その算盤をそのままS子のデスクのなるべく目につきやすい場所へおいて、自分の席に帰

ると、なにげなくその日の仕事に取りかかるのでした。

間もなく、ひとりの事務員がドアをあけてはいってきました。

「やあ、ばかに早いですね」

彼は驚いたようにTにあいさつしました。

「お早う」

Tは内気者らしく、のどへつまったような声で答えました。普通の事務員同士であった

ら、ここで何か景気のいい冗談の一つも取りかわすのでしょうが、Tのまじめな性質を知

っている相手は、気づまりのようにそのままだまって自分の席に着くと、バタンバタン音

をさせて帳簿などを取り出すのでした。

やがて次から次へと、事務員たちがはいってきました。そして、その中にはもちろんT

の助手のS子もまじっていたのです。彼女は隣席のTの方へ丁寧にあいさつをしておいて、

自分のデスクに着きました。

Tは一所懸命に仕事をしているような顔をして、そっと彼女の動作に注意していました。

「彼女は机の上の算盤に気がつくだろうか」

彼はヒヤヒヤしながら横目でそれを見ていたのです。ところが、Tの失望したことは、

彼女はそこに算盤が出ていることを少しもあやしまないで、さっさとそれを脇へのけると、

背皮に金文字で、「原価計算簿」としるした大きな帳簿を取り出して、机の上にひろげるの

でした。それを見たTはがっかりしてしまいました。彼の計画はまんまと失敗に帰したの

です。

「だが、いちどぐらい失敗したって失望することはない。S子が気づくまでなんどだって

繰り返せばいいのだ」

Tは心の中でそう思って、やっと気をとりなおしました。そしていつものように、まじ

めくさって、あたえられた仕事にいそしむのでした。

ほかの事務員たちは、てんでに冗談を言いあったり、不平をこぼしあったり、一日ざわ

ざわ騒いでいるのに、Tだけはその仲間に加わらないで、退出時間がくるまでは、むっつ

りとして、こつこつ仕事をしていました。

「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭」

Tはその翌日も、S子の|算《そろ》|盤《ばん》に同じ金額をはじいて、机の上の目

につく場所へおきました。そしてきのうと同じように、S子が出勤して席につく時の様子

を熱心に見まもっていました。すると、彼女はやっぱりなんの気もつかないで、その算盤

を脇へのけてしまうのです。

その次の日もまた次の日も、五日のあいだ同じことが繰り返されました。そして、六日

目の朝のことです。その日はどうかしてS子がいつもより早く出勤してきました。それは

ちょうど例の金額を、S子の算盤において、やっと自分の席へもどったばかりのところだ

ったものですから、Tは少なからずうろたえました。もしや今、算盤をおいているところ

を見られはしなかったか。彼はビクビクしながらS子の顔を見ました。しかし、仕合わせ

にも、彼女は何も知らぬようにいつもの丁寧なあいさつをして自席に着きました。

事務室にはTとS子ただふたりきりでした。

「こんどの××丸はもうやがてボイラーを取りつける時分ですが、製造原価の方もだいぶ

かさみましたろうね」

Tはてれかくしのようにこんなことを問いかけました。臆病者の彼は、こうした絶好の

機会にも、とても仕事以外のことは口がきけないのです。

「ええ、工賃をまぜると、もう八十万円〔註、今の数億円に当たる〕を越しましたわ」

S子はちらっとTの顔を見て答えました。

「そうですか。こんどのはだいぶ大仕事ですね。でも、うまいもんですよ。そいつを倍に

も売りつけるんですからね」

ああ、おれはとんでもない下品なことをいってしまった。Tはそれに気づくと思わず顔

を赤くしました。この普通の人々にはなんでもないようなことがTには非常に気になるの

です。そして、その赤面したところを相手に見られたという意識が、彼の頬をいっそうほ

てらせます。彼は変な|空《から》|咳《せき》をしながら、あらぬかたを向いてそれを

ごまかそうとしました。しかし、S子は、この立派な口ひげをはやした上役のTが、まさ

かそんなことで狼狽していようとは気づきませんから、なにげなく彼の言葉に合いづちを

打つのでした。

そうして二たこと三こと話しあっているうちに、ふとS子は机の上の例の算盤に目をつ

けました。Tは思わずハッとして、彼女の眼つきに注意しましたが、彼女は、ただちょっ

とのあいだ、そのばかばかしく大きな金額を不審そうに見たばかりで、すぐ眼を上げて会

話をつづけるのです。Tはまたしても失望を繰り返さねばなりませんでした。

それからまた数日のあいだ、同じことが執拗につづけられました。Tは毎朝S子の席に

着く時をおそろしいような楽しいような気持で待ちました。でも二日三日とたつうちには、

S子も帰る時には本立てへかたづけておく算盤が、朝来てみると必ず机のまんなかにキチ

ンとおいてあるのを、どうやら不審がっている様子でした。そこにいつも同じ数字が示さ

れているのにも気がついた様子です。ある時なぞは声を出してその十二億四千何百という

金額を読んでいたくらいです。

そして或る日とうとうTの計画が成功しました。それは、最初から二週間もたった時分

でしたが、その朝はS子がいつもより長いあいだ例の算盤を見つめていました。小首をか

たむけてなにか考え込んでいるのです。Tはもう胸をドキドキさせながら、彼女の表情を、

どんな些細な変化をも見のがすまいと、異常な熱心さでじっと見まもっていました。息づ

まるような数分間でした。が、しばらくすると、突然、何かハッとした様子で、S子が彼

の方をふり向きました。そして、ふたりの眼がパッタリ出あってしまったのです。

Tは、その瞬間、彼女が何もかも悟ったに違いないと感じました。というのは、彼女は

Tの意味あり気な凝視に気づくと、いきなりまっ|赤《か》になってあちらを向いてしま

ったからです。もっとも、とりようによっては、彼女はただ、男から見つめられていたの

に気づいて、その恥ずかしさで赤面したのかもしれないのですが、のぼせ上がったそのと

きのTには、そこまで考える余裕はありません。彼は自分も赤くなりながら、しかし非常

な満足をもって、紅のように染まった彼女の美しい耳たぶを、気もそぞろにながめたこと

です。

ここでちょっと、Tのこの不思議な行為について説明しておかねばなりません。

読む人はすでに推察されたことと思いますが、Tは世にも内気な男でした。そして、そ

れが女に対しては一層ひどいのです。彼は学校を出てまだ間もないのではありますけれど、

それにしても三十近い|今《こん》|日《にち》まで、なんと、いちども恋をしたことが

ない、いや、ろくろく若い女と口をきいたことすらないのです。むろん機会がなかったわ

けではありません。ちょっと想像もできないほど臆病な彼の性質|が禍《わざわい》した

のです。それは一つは彼が自分の容貌に自信を持ち得ないからでもありました。うっかり

恋をうちあけて、もしはねつけられたら。それがこわいのでした。臆病でいながら人一倍

自尊心の強い彼は、そうして恋を拒絶せられた場合の、気まずさ恥ずかしさが、何よりも

恐ろしく感じられたのです。「あんないけすかない人っちゃないわ」そういったゾッとする

ような言葉が、容貌に自信のない彼の耳許でたえず聞こえていました。

ところが、さしもの彼もこんどばかりは辛抱しきれなかったとみえます。S子はそれほ

ど彼の心を捉えたのです。しかし、彼にはそれを正面から堂々と訴えるだけの勇気はもち

ろんありませんでした。なんとかして拒絶された場合にも、少しも恥ずかしくないような

方法はないものかしら。卑怯にも彼はそんなことを考えるようになりました。そして、こ

うした男に特有の異常な執拗さをもっていろいろな方法を考えては打ち消し、考えては打

ち消しするのでした。

彼は会社で|当《とう》のS子と席をならべて事務をとりながらも、そして彼女とさり

げなく仕事の上の会話を取りかわしながらも、たえずそのことばかり考えていました。帳

簿をつける時も、算盤をはじく時も、少しも忘れる暇はないのです。すると或る日のこと

でした。彼は算盤をはじきながら、ふと妙なことを考えつきました。

「少しわかりにくいかもしれぬが、これなら申し分がないな」

彼はニヤリと会心の|笑《え》みを浮かべたことです。彼の会社では、数十人の職工た

ちに毎月二回にわけて賃銀を支払うことになっていて、会計部は、その都度、工場から廻

されるタイムカードによって、各職工の賃銀を計算し、ひとりひとりの賃銀袋にそれを入

れて、各部の職長に手渡すまでの仕事をやるのでした。そのためには、数名の賃銀計算係

りというものがいるのですけれど、非常にいそがしい仕事だものですから、多くの場合に

は、会計部の手すきのものが総出で、読み合わせからなにから手伝うことになっていまし

た。

その際に、記帳の都合上、いつも何千というカードを、職工の姓名の頭字で「いろは」

順に仕訳けをする必要があるのです。はじめのうちは机をとりのけて広くした場所へそれ

をただ「いろは」順にならべていくことにしていましたが、それでは手間取るというので、

一度アカサタナハマヤラワと分類して、そのおのおのをさらにアイウエオなりカキクケコ

なりに仕訳ける方法をとることにしました。それを始終やっているものですから、会計部

のものはアイウエオ五十音の位置を、もう諳んじているのです。たとえば「野崎」といえ

ば五行目(ナ行)の第五番というふうにすぐ頭に浮かぶのです。

Tはこれを逆に適用して、算盤にあらわした数字によって簡単な暗号通信をやろうとし

たのです。つまり、ノの字を現わすためには五十五と算盤をおけばよいのです。それがの

べつにつづいていてはちょっとわかりにくいかもしれませんけれど、よく見ているうちに

は、日頃おなじみの数ですから、いつか気づく時があるに違いありません。

では、彼はS子にどういう言葉を通信したか、こころみにそれを解いてみましょうか。

十二億は一行目(ア行)の第二字という意味ですからイです。四千五百は四行目(タ行)

の第五字ですからトです。同様にして三十二万はシ、二千二百はキ、二十二円もキ、七十

二銭はミです。すなわち「いとしききみ」となります。

「愛しき君」もしこれを口にしたり、文章に書くのでしたら、Tには恥ずかしくてとても

できなかったでしょうが、こういうふうに算盤におくのならば平気です。ほかのものに悟

られた場合には、なに偶然算盤の玉がそんなふうにならんでいたんだと言い抜けることが

できます。だいいち手紙などと違って証拠の残る憂いがないのです。実に万全の策といわ

ねばなりません。幸いにして、S子がこれを解読して受け入れてくれればよし、万一そう

でなかったとしても、彼女には、言葉や手紙で訴えたのと違って、あらわに拒絶すること

もできなければ、それを人に吹聴するわけにもいかないのです。さてこの方法はどうやら

成功したらしく思われます。

「あのS子のそぶりでは、まず十中八九は大丈夫だ」

これならいよいよ大丈夫だと思ったTは、こんど少し金額をかえて、

「六十二万五千五百八十一円七十一銭」

とおきました。それをまた数日のあいだつづけたのです。これも前と同じ方法であては

めてみればすぐわかるのですが、「ヒノヤマ」となります。|樋《ひ》の山というのは、会

社からあまり遠くない小山の上にある、その町の小さな遊園地でした。Tはこうしてあい

びきの場所まで通信しはじめたのです。

その或る日のことでした。もう充分暗黙の了解が成り立っていると確信していたにかか

わらず、Tはまだ仕事以外の言葉を話しかける勇気がなく、あいかわらず帳簿のことなぞ

を話題にしてS子と話していました。すると、ちょっと会話の途切れたあとで、S子はT

の顔をジロジロ見ながら、その可愛い口許にちょっと|笑《え》みを浮かべてこんなこと

をいうのです。

「ここへ算盤をお出しになるの、あなたでしょ。もう先からね。あたしどういうわけだろ

うと思っていましたわ」

Tはギックリしましたが、ここでそれを否定しては折角の苦心が水のあわだと思ったも

のですから、満身の勇気をふるい起こしてこう答えました。

「ええ、僕ですよ」

だがなさけないことに、その声はおびただしくふるえていました。

「あら、やっぱりそうでしたの。ホホホホ」

そうして彼女はすぐほかの話題に話をそらしてしまったことですが、Tにはその時のS

子の言葉がいつまでも忘れられないのでした。彼女はどういうわけであんなことをいった

のでしょう。肯定のようにもとれます。そうかと思えばまた、まるで無邪気になにごとも

気づいていないようでもあります。

「女の心持なんて、おれにはとてもわからない」

彼はいまさらのように嘆息するのでした。

「だが、ともあれ最後までやってみよう。たとえすっかり感づいていても、彼女もやっぱ

り恥ずかしいのだ」

彼にはそれがまんざらうぬぼれのためばかりだとも考えられぬのでした。そこで、その

翌日、こんどは思いきって、

「二二八五一三二一一四九二五二」

とおきました。「キョウカエリニ」すなわち「きょう帰りに」という意味です。これで一

か|八《ばち》か、かたがつこうというものです。きょう社の帰りに彼女が樋の山遊園地

へくればよし、もしこなければ、こんどの計画は全然失敗なのです。「きょう帰りに」。そ

の意味を悟った時、うぶな少女は一方ならず胸騒ぎを覚えたに違いありません。だが、あ

のとりすました平気らしい様子はどうしたことでしょう。ああ、吉か凶か、なんというも

どかしさだ。Tはその日に限って退社時間が待ち遠しくて仕方がありませんでした。仕事

なんかほとんど手につかないのです。

でも、やがて待ちに待った退社時間の四時がきました。事務室のそこここにバタンバタ

ンと帳簿などをかたづける音がして、気の早い連中はもう外套を着ています。Tはじっと

はやる心をおさえてS子の様子を注意していました。もし彼女が彼の指図にしたがって指

定の場所にくるつもりなら、いかに平気をよそおっていても、帰りのあいさつをする時に

は、どこか態度にそれが現われぬはずはないと考えたのです。

しかし、ああ、やっぱりだめなのかな。彼女がTにいつもとおなじ丁寧なあいさつを残

して、そこの壁にかけてあった襟巻をとり、ドアをあけて事務室を出ていってしまうまで、

彼女の表情や態度からは、常にかわったなにものをも見出すことができないのでした。

思いまよったTは、ぼんやりと彼女のあとを見送ったまま、席を立とうともしませんで

した。

「ざまを見ろ。お前のような男は、年がら年中、こつこつと仕事さえしていればいいのだ。

恋なんかがらにないのだ」

彼はわれとわが身を呪わないではいられませんでした。そして、光を失った悲しげな眼

で、じっと一つところを見つめたまま、いつまでもいつまでもかいなきもの思いにふける

のでした。

ところが、しばらくそうしているうちに、彼はふと或るものを発見しました。今まで少

しも気づかないでいた、S子のきれいにかたづけられた机の上に、これはどうしたという

のでしょう。彼が毎朝やる通りにあの算盤がチャンとおいてあるではありませんか。

思いがけぬ喜びが、ハッと彼の胸をおどらせました。彼はいきなりそのそばへ寄って、

そこに示された数字を読んでみました。

「八三二二七一三三」

スーッと熱いものが、彼の頭の中にひろがりました。そして、にわかに早まった動悸が

耳許で早鐘のように鳴り響きました。その算盤には彼のとおなじ暗号で「ゆきます」とお

かれてあったのです。S子が彼に残していった返事でなくてなんでしょう。

彼はやにわに外套と帽子をとると、机の上をかたづけることさえ忘れてしまって、いき

なり事務室を飛び出しました。そして、そこにじっとたたずんで、彼のくるのを待ちわび

ているS子の姿を想像しながら、息せききって樋の山遊園地へと駈けつけました。

そこは遊園地といっても、小山の頂きにちょっとした広場があって、一、二軒の茶店が

出ているかぎりの、見はらしがよいというほかには取柄のない場所なのですが、見れば、

もうその茶店も店をとじてしまって、ガランとした広場には、暮れるに間のない赤茶けた

日光が、樹立ちの影を長々と地上にしるしているばかりで、人っ子ひとりいないではあり

ませんか。

「じゃあ、きっと彼女は着物でも着かえるために、いちど家に帰ったのだろう。なるほど、

考えてみればあの古い海老茶の袴をはいた事務員姿では、まさかこられまいからな」

算盤の返事に安心しきった彼は、そこに抛り出してあった茶店の床几に腰かけて、タバ

コをふかしながら、この生れてはじめての待つ身のつらさを、どうして、つらいどころか、

はなはだ甘い気持で味わうのでした。

しかし、S子はなかなかやってこないのです。あたりはだんだん薄暗くなってきます。

悲しげな鳥どもの鳴き声や、間近の駅から聞こえてくる汽笛の音などが、広場のまん中に

ひとりぽつねんと腰をかけているTの心にさびしく響いてきます。

やがて夜がきました。広場のところどころに立てられた電灯が寒く光りはじめます。こ

うなると、さすがのTも不安を感じないではいられませんでした。

「ひょっとしたら、うちの首尾がわるくて出られないのかもしれない」

今では、それが唯一の望みでした。

「それともまた、おれの思い違いではないかしら。あれは暗号でもなんでもなかったのか

もしれない」

彼はいらいらしながら、その辺をあちらこちらと歩き廻るのでした。心の中がまるでか

らっぽになってしまって、ただ頭だけがカッカとほてるのです。S子のいろいろの姿態が、

表情が、言葉が、それからそれへと目先に浮かんできます。

「きっと、彼女もうちでくよくよおれのことを心配しているのだ」

そう思う時には、彼の心臓は熱病のようにはげしく鳴るのです。しかし、また或る時は

身も世もあらぬ焦躁がおそってきます。そして、この寒空にこぬ人を待って、いつまでも

こんなところにうろついているわが身が、腹立たしいほどおろかに思われてくるのです。

二時間以上もむなしく待ったでしょうか。もう辛抱しきれなくなった彼は、やがてとぼ

とぼと力ない足どりで山を下りはじめました。

そして山のなかばほどおりた時です。彼はハッとしたようにそこへ立ちすくみました。

ふと、とんでもない考えが彼の頭に浮かんだのです。

「だが、はたしてそんなことがありうるだろうか」

彼はそのばかばかしい考えを一笑に付してしまおうとしました。しかし、いちど浮かん

だ疑いは容易に消し去るべくもありません。彼はもう、それを確かめてみないではじっと

していられないのでした。

彼は大急ぎで会社へ引き返しました。そして、小使いに会計部の事務室のドアをひらか

せると、やにわにS子の机の前へ行って、そこの本立てに立ててあった原価計算簿を取り

出し、××丸の製造原価を記入した部分をひらきました。

「八十三万二千二百七十一円三十三銭」

これはまあなんという奇蹟でしょう。その帳尻の締め高は、偶然にも「ゆきます」とい

うあの暗号に一致していたではありませんか。きょうS子はその締め高を計算したまま、

算盤をかたづけるのを忘れて帰ったというにすぎないのです。そして、それは決して恋の

通信などではなくて、ただ魂のない数字の羅列だったのです。

あまりのことにあっけにとられた彼は、一種異様な顔つきで、ボンヤリとその呪わしい

数字をながめていました。すべての思考力を失った彼の頭の中には、彼の十数日にわたる

惨憺たる焦慮などには少しも気づかないで、あの快活な笑い声をたてながら、暖かい家庭

で無邪気に談笑しているS子の姿がまざまざと浮かんでくるのでした。

妻に失恋した男

わたしはそのころ世田谷警察署の刑事でした。自殺したのは管内のS町に住む南田収一

という三十八歳の男です。妙な話ですが、この南田という男は自分の妻に失恋して自殺し

たのです。

「おれは死にたい。それとも、あいつを殺してしまいたい。おい、笑ってくれ。おれは女

房のみや子にほれているのだ。ほれてほれてほれぬいているのだ。だが、あいつはおれを

少しも愛してくれない。なんでもいうことはきく、ちっとも反抗はしない。だが、これっ

ぽっちもおれを愛してはいないのだ。

よくいうだろう、天井のフシアナをかぞえるって。あいつがそれなんだよ。『おいっ』と、

怒ると、はっとしたように、愛想よくするが、そんなの作りものにすぎない。おれは真か

らきらわれているんだ。

じゃあ、ほかに男があるのかというと、その形跡は少しもない。おれは疑い深くなって、

ずいぶん注意しているが、そんな様子はみじんもない。生れつき氷のように冷たい女なの

か。いや、そうじゃない。おれのほかの愛しうる男を見つけたら、烈しい情熱を出せる女

だ。あいつは相手をまちがえたのだ。仲人結婚がお互の不幸のもとになったのだ。

結婚して一年ほどは何も感じなかった。こういうものだと思っていた。二年三年とたつ

につれて、だんだんわかってきた。あいつがおれを少しも愛していないことがだよ。不幸

なことに、おれの方では逆に、年がたつほど、いよいよ深く、あいつにほれて行ったのだ。

そして、半年ほど前から、その不満が我慢できないほど烈しくなってきた。こうもきらわ

れるものだろうか。だが、いくらきらわれても、おれはあいつを手ばなすことはできない。

ほれた相手に代用品なんかあるもんか。ああ、おれはどうすればいいのだ。

おれは、あいつを殺してやろうと思ったことが、何度あるかしれない。だが、殺してど

うなるのだ。相手がいなくなったからって、忘れられるもんじゃない。おれは失恋で死ん

でしまうだろう。

しかし、もう一日もこのままじゃ、いられない。あいつが殺せないなら、おれが死ぬほ

かないじゃないか。おれは死にたい、死にたい、死にたい」

こんなよまいごとを、直接聞いたわけじゃありません。南田収一が酔ったまぎれに、涙

をこぼしながら、わめきちらしたことが、たびたびあったと、南田の親しい友だちから、

あとになって聞きこんだのです。その友だちは、こわいろ入りで話してくれましたが、ま

あこんなふうだったろうと、わたしが想像してお話しするわけですよ。

ある晩、南田収一は自分の書斎のドアに中からカギをかけて、小型のピストルで自殺し

てしまいました。わたしはその知らせをうけて、すぐに同僚といっしょに、S町の南田家

へかけつけました。

そのときはまだ、自分の妻に失恋して自殺したなんて少しも知らないので、自殺の動機

をさぐり出すのに、たいへん骨がおれました。

南田の父親は戦後のドサクサまぎれに財産を作った男で、南田収一はその財産を利殖し

て暮らしていればよいのでした。父母は死んでしまい、兄弟もなく、うるさい親戚もない

という羨ましい身の上でした。つき合いも広くはなく、夫婦で旅行をしたり、いっしょに

映画や芝居を見るぐらいが楽しみで、近所では実に仲のよい仕合わせな夫婦だと思いこん

でいました。

変事の知らせがあったのは夜の九時半でしたが、かけつけて奥さんのみや子さんに聞い

てみると、そのとき、女中は母親が病気で午後から千住の自宅へ出かけてまだ帰らず、主

人は虫歯が痛むといって、琴浦という近所の歯科医へ行って、帰ったかとおもうと、その

まま洋室の書斎へとじこもってしまって、なにか考えごとにふけっている。奥さんは手持

ぶさたに、茶の間で編みものをしていたというのです。

すると、書斎の方で、なにかへんな音がした。表の大通りからオートバイなどの爆音が

よくきこえてくるので、へんな音にはなれていたけれど、今のはなんだか感じがちがう。

それに主人が毎日ひどくふさいでいたことも気にかかるので、書斎へ行ってドアをあけよ

うとしたが、中からカギがかかっている。いくら叩いても返事がない。合鍵というものが

作ってないので、そとへまわって、ガラス窓からのぞいてみると、主人があおむけに倒れ

て、口から血が流れていたというのです。

わたしたちも、その窓のガラスを破って書斎にはいり、机の上にあった鍵でドアをひら

きました。

南田収一は黒い背広を着て、あおむけに倒れていました。口と後頭部が血だらけで、息

が絶えていることは、一見してわかりました。あとから警視庁鑑識課の医者がしらべまし

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