すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.8
か一円足らずの金しかはいっていなかったのです。そうかといって、あまりに不思議なこ
とで、警察へ届けるという決断もつかず、またそんなことをしているうちに、逃げられる
という心配もあったものですから、ご苦労さまにも、私は料理屋の前にじっと張り番をし
ていました。
そうしていろいろと考えてみますと、どうもこれは、あの時あとから来た警官もにせ物
だったと見るほかはありません。実にうまく考えたものですね。前の半分はよくあるやつ
で、さして珍らしくもないでしょうが、あとの半分、つまりにせ物の次に又同じにせ物を
出すという手は、いかにもよくできてますよ。同じからくりが二つも重なっていようとは、
ちょっと考えられませんし、それに相手がおまわりさんですから、今度こそ本物だろうと、
たれしも油断しまさあね。こうしておけば、ほんとうの警察に知れるのはずっとあとにな
り、充分遠くまで逃げることができますからね。
ところが、そう考えてふと気がついたのは、もしやつらが同類だとすると、ちょっと辻
つまの合わない点があることです。ええ、そうですよ。その点ですよ。教会の主任はあれ
から警察へたびたび出頭したのですから、あとの警官もにせ物だったらすぐわかるはずで
す。さあ、私は何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまいました。
一時間も待ったでしょうかね。やがて二人は赤い顔をして料理屋から出てきました。私
はむろん彼らのあとをつけました。彼らは盛り場を離れてだんだんさびしい方へ歩いて行
きましたが、ある町角へくると、ちょっと立ち止まってうなずきあったまま、そこで二人
は別かれてしまったのです。私はどちらの跡をつけたものかと、ちょっと迷いましたが、
結局金を持って行った方の、つまり最初に発見した男を尾行することにしました。彼は酔
っているので、いくらかヒョロヒョロしながら、町はずれの方へと歩いて行きます。あた
りはますます淋しくなって、尾行するのがよほどむずかしくなってきました。私は半丁も
うしろから、なるべく軒下の蔭になったところを選んで、ビクビクものでついて行きまし
た。そうして歩いているうちに、いつの間にか、もう人家のないような町はずれへ出てし
まったのです。見ると行く手にちょっとした森があって、中に何かの社が祭ってある、鎮
守の森とでもいうのでしょうね、そこへ男はドンドンはいって行くではありませんか。私
はどうやら薄気味がわるくなってきました。まさかやつの住居がその森の奥にあるわけで
もありますまい。いっそ断念して帰ろうかと思いましたが、折角ここまで尾行してきたの
を、今さら中止するのも残念ですから、私は勇気を出して、なおも男のあとをつけました。
ところが、そうして森の中へ一歩足を踏み入れた時です。私はギョッとして思わず立ちす
くんでしまいました。すっと向こうの方へ行っているとばかり思っていた男が、意外にも、
大きな樹の幹のうしろからひょいと飛び出して、私の眼の前に立ちふさがったじゃありま
せんか。彼はずるそうな笑いを浮かべて私の方をじっと見ているのです。
そこで、私は今にも飛びかかってきやしないかと、思わず身構えをしたのですが、ど胆
をぬかれたことには、相手は、
「やあ、しばらくだったね」
と、まるで友だちにでも逢ったような調子で話しかけるのです。いや、世の中にはずう
ずうしいやつもあったもんだと、これにはあきれましたね。
「一度お礼に行こうと思っていたんだよ」
と、そいつがいうのです。
「あの時は実に痛快にやられたからね。さすがのおれも、君んとこの大将には、まんまと
一杯食わされたよ。君、帰ったらよろしくいっといてくれたまえな」
むろん、なんのことだかわけがわかりません。私はよっぽど変な顔をしていたとみえま
す。そいつは笑い出しながらいうのです。
「さては君までだまされていたのかい。驚いたね。あれはみんなにせ札だったのだよ。ほ
んものなら、五千円もあったから、ちょっとうまい仕事なんだが、だめだめ、みんなよく
できたにせ物だったよ」
「え、にせ札だって、そんなばかなことがあるもんか」
私は思わずどなりました。
「ハハハハハ、びっくりしているね。なんなら証拠を見せて上げようか。ほら、ここに一
枚二枚三枚と、三百円〔註、今の十万円以上〕あるよ。みんな人にくれてしまって、もう
これだけしか残っていないんだ。よく見てごらん、上手にできているけれど、まるきりに
せ物だから」
そいつは財布から百円札を出して、それを私に渡しながらいうのです。
「君はなんにも知らないもんだから、おれの住居をつき止めようとして、ついてきたのだ
ろうが、そんなことをしちゃ大変だぜ。君んとこの大将の身の上だぜ。信者をだましてま
き上げた寄付金をにせ札とすり替えたやつと、それを盗んだやつと、どちらが罪が重いか、
言わなくてもわかるだろう。君、もう帰った方がいいぜ、帰ったら大将によろしく伝えて
くれたまえ、おれが一度お礼に行きますといっていたとな」
そう言ったまま男はさっさと向こうへ行ってしまいました。私は三枚の百円札を手にし
て、長いあいだぼんやりとつっ立っていました。
なるほど、そうだったのか。それですっかり話しの辻つまがあうわけです。今の二人が
同類だったとしても不思議はありません。主任がたびたび警察へ様子を聞きに行ったなん
て、皆でたら目だったのです。そうしておかないと、ほんとうに警察沙汰になって、泥棒
が捕まっては、にせ札のことがばれてしまいますからね。予告の手紙がきた時にも驚かな
かったはずです。にせ物ならこわくはありませんや。それにしても、山師だったとは思い
ましたが、こんな悪事を働いていたとは意外です。先生、ひょっとしたら例の相場に手を
出してしくじったのかもしれません。それで、どこかからにせ札を仕入れてきて――シナ
人なんかに頼むと精巧なものが手にはいると言いますから――私や信者の前を取りつくろ
っていたのかもしれません。そういえばいろいろ思いあたる節もあるのです。よく今まで、
信者の方から警察へ漏れなかったものですよ。私は泥棒から教えられるまで、そこへ気が
つかなかった自分の愚かさが腹立たしく、その日は家に帰っても終日不愉快でした。
それからというもの、なんだか変なぐあいになってしまいましてね。まさか古い知り合
いの主任の悪事を表ざたにするわけにもいきませんから、だまっていましたけれど、なん
となく居心地がよくないのです。今まではただ身持がわるいというくらいのことでしたが、
こんなことがわかってみると、もう一日も教会にいる気がしないのです。その後間もなく、
ほかに仕事が見つかったものですから、すぐ暇をとって出てしまいました。泥棒の下働き
はいやですからね。私が教会を離れたのはこういうわけからですよ。
ところがね。お話しはまだあるのです。作り話しみたいだというのはここのことなんで
す。例のにせ札だという三百円はね、思い出のために、それからずっと財布の底にしまっ
ていたのですが、ある時私の女房が――こちらへきてからもらったのです――その中の一
枚をにせ札と知らずに月末の支払いに使ったのです。もっともそれはボーナス月で、私の
ような貧乏人の財布にもいくらかまとまった金がはいっているはずでしたから、女房の間
違えたのも無理はありません。そして、なんとそれが無事に通用したではありませんか。
ハハハハハ。どうです。ちょっと面白い話しでしょう。え、どういうわけだとおっしゃる
のですか。いや、そいつはその|後《ご》別に調べてもみませんから、今もってわかりま
せんがね。私の持っていた三百円がにせ物でなかったことだけは事実ですよ。あとの二枚
も引つづいて女房の春着代になってしまったくらいですからね。
泥棒のやつ、あの時、実は本物の札を盗んでおきながら、私の尾行を逃れるためににせ
札でもないものをにせ札だといって、私をだましたのかもしれません。ああして、惜しげ
もなくほうり出して見せれば、それも十円や二十円のはした金ではないのですから、誰れ
しもちょっとごまかされますよ。現に私も泥棒の言葉をそのまま信用してしまって、別段
深く調べてもみなかったのです。しかし、そうだとすると、主任を疑ぐったのは実にすま
ないわけです。それからもう一人の、泥棒を捕まえてやると言った警官ですね。あれはい
ったい本物なのでしょうか、にせ物なのでしょうか。私が主任を疑ぐった動機は、あの警
官が泥棒と一緒に料理屋へ上がったりしたことですが。今になって考えてみると、あの男
は本物の警官でありながら、後になって泥棒に買収されていたのかもしれません。又、ひ
ょっとしたら、職務上ああして目星をつけた男とつきあって、つまり探偵をしていたのか
もしれません。主任の日頃の行状が行状だったものですから、私はついあんなふうに断定
してしまったのですけれど。
そのほかにも、まだいろいろの考え方がありますよ。たとえば泥棒のやつ、にせ札のつ
もりで、うっかりほかの本物を私に渡したと考えられないこともありませんからね。いや、
結末が甚だぼんやりしていて、話のまとまりがつかないようですが、なあに、もし探偵小
説になさるのだったら、このうち、どれかにきめてしまえばいいわけですよ。いずれにし
ても面白いじゃありませんか。とにかく、私は泥棒からもらった金で女房の春着を買った
わけですからね。ハハハハハ。
Ⅲ
断崖
春、K温泉から山路をのぼること一マイル、はるか目の下に溪流をのぞむ断崖の上、自
然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七、八歳、女はそれより二
つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。
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女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからも
うずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆ
っくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」
男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が
思い出すようにしてね」
女「じゃあ、はじめるわ……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱
きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつ
け合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたしの口に塩っぱい液体が、ドクドク流
れこんでくるのよ」
男「いやだなあ、その話は。僕はそういうことは、くわしく聞きたくない。君の露出狂の
お相手はごめんだよ。しかも、君のハズだった人との閨房秘事なんか」
女「だって、ここがかんじんなのよ。これがいわば第一ヒントなんですもの。でも、あな
たおいやなら、はしょって話すわ……そうして斎藤があたしを抱いて、頬をくっつけ合っ
て泣いていた時に、ふと、あたし、あら、変だなと思ったのよ。泣き方がいつもよりはげ
しくて、なんだか別の意味がこもっているように感じられたのよ。あたし、びっくりして、
思わず顔をはなして、あの人の涙でふくれあがった眼の中をのぞきこんだ」
男「スリルだね、閨房の蜜語がたちまちにして恐怖となる。君はその時、あの男の眼の中
に、深い憐愍の情を読みとったのだったね」
女「そうよ。おお、可哀そうに、可哀そうにと、あたしを心からあわれんで泣いていたの
よ……人間の眼の中には、その人の一生涯のことが書いてあるわね。まして、たった今の
心持なんか、初号活字で書いてあるわ。あたし、それを読むのが得意でしょう。ですから、
一ぺんにわかってしまった」
男「君を殺そうとしていることがかい」
女「ええ、でも、むろんスリルの遊戯としてよ。こんな世の中でも、あたしたち、やっぱ
り退屈していたのね。子供はお|仕《し》|置《おき》されて、押入れの中にとじこめら
れていても、その闇の中で、何かを見つけて遊んでいるわ。おとなだってそうよ。どんな
苦しみにあえいでいる時でも、その中で遊戯している。遊戯しないではいられない。どう
することもできない本能なのね」
男「むだごとをいっていると、日が暮れてしまうよ。話のさきはまだ長いんだから」
女「あの人、ちょっと残酷家のほうでしょう。あたしはその逆なのね。そして、お互いに
夫婦生活の倦怠を感じていたでしょう。むろん愛してはいたのよ。愛していても、倦怠が
くる。わかるでしょう」
男「わかりすぎるよ。ごちそうさま」
女「だから、あたしたち、何かゾッとするような刺戟がほしかったの。あたしはいつもそ
れを求めていた。斎藤の方でも、そういうあたしの気持を充分知っていた。そして、何か
たくらんでいるらしいということは、うすうす感じていたんだけれど、あの晩、あの人の
眼の中をのぞくまでは、それがなんだかわからなかった……でも、ずいぶんたくらんだも
のねえ。あたしギョッとしたわ。まさかあれほど手数のかかるたくらみをしようとは思っ
ていなかったのよ。でも、ゾクゾクするほど楽しくもあったわ」
男「君があの男の眼の中に深い憐愍を読みとった。それもあの男のお芝居だったんだね。
そのお芝居で、君に第一ヒントをあたえたんだね。それで、次の第二ヒントは?」
女「紺色のオーバーの男」
男「同じ紺色のソフトをかむって、黒目がねをかけて、濃い口ひげをはやした」
女「その男を、あなたが最初にみつけたのね」
男「うん、なにしろ僕は君のうちの居候で、君たち夫婦のお抱え道化師で、それから第三
に、売れない絵かきだったんだからね。ひまがあるから町をぶらつくことも多い。紺オー
バーの男が君のうちのまわりをウロウロしているのを、第一に気づいたのも僕だし、角の
喫茶店で、その紺オーバーが、君のうちの家族のことや間取りなんかまで、根ほり葉ほり
たずねていたということを、喫茶店のマダムから聞き出して、君に教えてやったのも僕だ
からね」
女「あたしもその男に出会った。勝手口のくぐり門のそとで一度、表門のわきで二度。紺
のダブダブのオーバーのポケットに両手を突っ込んで、影のように立っていた。何かまが
まがしい影のように突っ立っていた」
男「最初はどろぼうかもしれないと思ったんだね。近所の女中さんなんかも、そいつの姿
を見かけて、注意してくれた」
女「ところが、それはどろぼうよりも、もっと恐ろしいものだったわね。斎藤の憐愍の涙
を見た時、あたしのまぶたに、パッとその紺オーバーの男がうかんできたのよ。これが第
二ヒント」
男「そして、第三ヒントは探偵小説とくるんだろう」
女「そうよ。あなたが、あたしたちのあいだに、はやらせた探偵趣味よ。斎藤もあたしも、
もともとそういう趣味がなかったわけではないわ。でも、あんなに理窟っぽくクネクネと、
トリックなんかを考えるようになったのは、あなたのせいよ。あの頃は少し下火になって
いたけれど、半年ほど前は絶頂だったわね。あたしたち毎晩、犯罪のトリックの話ばかり
していた。中でも斎藤は夢中だったわ」
男「その頃、あの男の考え出した最上のトリックというのが……」
女「そう、一人二役よ。あの時の研究では、一人二役のトリックにはずいぶんいろんな種
類があったわね。あなた表を作ったでしょう。今でも持っているんじゃない?」
男「そんなもの残ってやしない。しかし覚えているよ。一人二役の類別は三十三種さ。三
十三のちがった型があるんだ」
女「斎藤はその三十三種のうち、架空の人物を作り出すトリックが第一だという説だった
わね」
男「たとえば一つの殺人をもくろむとする。できるならば実行の一年以上も前から、犯人
はもう一人の自分を作っておく。つけひげ、目がね、服装などによる、ごく簡単な、しか
し巧妙な変装をして、遠くはなれた別の家に別の人物となって住み、その架空の人物を充
分世間に見せびらかしておく。つまり二重生活だね。ほんものの方が仕事と称して外出し
ている時間には、架空の方が自宅にいる。架空の方は何か夜間の勤めをしていると見せか
け、その出勤時間にはほんものが自宅にいる。ときどきどちらかに旅行でもさせれば、こ
のごまかしはずっと楽になるわけだね。そして、最好の時期を見て、架空の方が殺人をや
るんだが、その直前直後に自分の姿を二、三人の人に見せて、犯人は架空の人物にちがい
ないと思いこませる。いよいよ目的をはたしたら、そのまま架空の方を消してしまう。変
装の品々は焼き捨てるか、おもりをつけて川の底にでも沈める。架空のほうの住宅へはい
つまでたっても主人が帰ってこない。|杳《よう》として行方を知らずというわけだね。
そして、ほんものの方は何くわぬ顔で今まで通りの生活をつづける。そうすれば、この事
件は、もともと架空の人間の犯罪だから、犯人の探しようがない。いわゆる完全犯罪とい
うやつだね」
女「あの人はこれがあらゆる犯罪トリックのうちで最上のものだと、恐ろしいほど熱中し
て話したわね。あたしたち、すっかり説きふせられてしまったでしょう。ですから、あた
し、あの架空犯人のトリックのことは、ずうっと忘れないでいたのよ。それに、もう一つ
日記帳ってものがあったの。あの人はあたしが探し出すことを、ちゃんと予想して、自分
の日記帳をかくしていた。ひどくむずかしい場所にかくしたものよ。でも、もともとあた
しに見せるための日記だから、心の底の秘密は書いていない。あとでわかったあの女のこ
とだって、一行も書いてないのよ」
男「見せ消しというやつだね。見せ消しというのは校訂家の使う言葉なんだが、昔の文書
などに元の字が読めるように、線だけで消したのがある。読めば読めるんだね。われわれ
の手紙にだってよくあるよ。わざと見えるように消しておいて、そこに実はいちばん相手
に読ませたいことが書いてある。あの男の日記帳はその見せ消しだよ。見せかくしかね」
女「で、あたしその日記帳を読んだのよ。すると、長い論文が書いてあった。架空犯人ト
リックの論文なのよ。うまく書いてあったわ。この世にまったく存在しない人間を作り出
す興味。あの人、文章がうまかったわね」
男「わかったよ。懐古調はよして、先をつづけろ」
女「ウフ、そこで三つのヒントがそろったわけね。憐れみの涙、紺オーバーの怪人物、架
空殺人トリックの讃美。でも、もう一つ第四のヒントがなくては完成しない。それは動機
だわ。動機はあの女だった。それをあの人は日記にさえ書かなかった。そこまで書いてし
まっては、まったくお芝居になって、スリルがうすらぐからよ。なんて憎らしい用心深さ
でしょう……女のことはあなたが教えてくれたわね。でも、あたし、うすうすは感づいて
いた。あの人の眼の奥に若い女がチラチラしていた。それから、ベッドの中で抱き合って
いると、あたしでない女のにおいが、あの人のからだから、ほのかに漂ってきた……」
男「そこまで……それでつまり、その四つのヒントを結び合わせると、あの男のお芝居の
筋はこういうことになるんだね。いわゆる見せ消しで、君にその女の存在をさとらせ、同
時に憐愍の涙を流し、可哀そうだが、あの女といっしょになるためには、君がじゃまにな
る。しかし、君と別かれることは、生活能力のない斎藤にしてみれば、たちまち食えなく
なることだから、それはできない……あの男は友だちの事業を手伝うのだといって、毎日
出勤していたが、たいして俸給がはいるわけでもなかった。いわば退屈しのぎだった……
君は斎藤と正式に結婚したけれども、財産は手放さなかった。戦後成金だった君の亡くな
ったおとうさんに譲られた財産は、君自身のものとして頑固に守っていた。夫婦の共有財
産にはしなかった。あの男は君から莫大なお小遣いをせしめていたが、財産の元金には一
指も触れることを許されなかった。そこで、この財産を君の意志に反して、別の女との享
楽に使おうとすれば、君を殺すよりない。そうすれば正式に結婚しているのだし、君には
身よりもないのだから、全財産があの男にころがりこむ。これが動機だ」
女「むろん、スリル遊戯の動機という意味ね」
男「そうだよ。しかし、真実の犯罪としても、申し分のない動機だ。そして、殺人手段は
彼の讃美する架空犯人の製造……まず紺オーバーの男を充分見せつけておいて、その姿で
君の寝室にしのびこみ、君を殺した上、架空の犯人を永遠にこの世から消してしまう。そ
して、入れちがいにもとの斎藤にもどって帰ってくる。君の死体を見て大騒ぎをやる。と
いう順序なんだね」
女「ええ、そういうふうにあたしに思いこませ、こわがらせ、お互いにスリルを味わって
楽しもうとしたわけね。子供の探偵ごっこの少し手のこんだぐらいのものだわ。でも、も
しあたしがあの人の遊戯心を信じなかったとしたら、そして、ほんとうに殺意があると感
じたら、これは恐ろしいスリルだわ。あの人はそこを狙ったのよ。子供の探偵ごっこより
は、ずっとこわいものを狙ったのよ」
男「子供の探偵ごっこだって、ばかにならないぜ。僕は十二、三の時、探偵ごっこをやっ
ていて、年上の女の子といっしょに、暗い納屋の中にかくれていて、その女の子からいど
まれたことがある。可愛らしい女の子が、ここでいえないような変な恰好をしたんだよ、
あんな恐ろしいことはなかった。生きるか死ぬかの恐ろしさだった」
女「枝道へはいっちゃいけないわ。で、今まであたしたちが話し合った全部のことを、そ
の晩、斎藤の涙にふくれ上がった眼をのぞきこんだ瞬間、一秒ぐらいのあいだに、ちゃん
と考えてしまったのよ。あれだけの出来事を思い出して、論理的に組み合わせる。それが
一秒間でできるんだわ。人間の頭の働きって、ほんとうに不思議なものね。どういう仕掛
けなのかしら。口で話せば三十分もかかることが、一秒間に考えられるなんて」
男「だがね、それでどういうことになるんだい。ほんとうに君を殺す気なら、ちゃんと幕
切れがあるわけだが、まったくお芝居だとすると、いつまでもケリがつかないじゃないか。
ただ紺オーバーの男でおどかすだけで、おしまいなのかい」
女「そうじゃないわ。これはあたしの想像にすぎないけれど、ケリはつくのよ。紺オーバ
ーの男は窓かなんかから忍びこんであたしの寝室にはいってくるのよ。そして、あたしに
悲鳴をあげさせ、あたしがどんなはげしいスリルを感じるか、ながめてやろうというわけ
よ。そのあとで、まだ架空の人物のまま、あたしのベッドにはいる。他人に化けて自分の
妻のベッドにはいる……」
男「悪趣味だね」
女「そうよ。あの人はそういう悪趣味の人よ。でなければこんな変てこなスリル遊戯なん
か思いつきやしないわ」
男「ところが、結果はまるでちがったことになったね」
女「そう……もうこのあとは冗談ではないわ……こわかった。あたし今でもこわい」
男「僕だって、これからあとの話は、あまりいい気持がしないね。しかし、話してしまお
う。この無人境の崖の上で、一度だけおさらいをしよう。そうすれば、君だって、いくら
か気分が軽くなるかもしれないぜ」
女「ええ、あたしもそう思うの……その晩から日を置いて三度、同じようなことがあった
のよ。そして、頬をくっつけて涙を流すあの人の泣き方が、だんだんはげしくなるばかり
なの……おやっ変だなと思うことが、幾度もあった。あたし、そのたびに、急いで顔をは
なして、あの人の眼の奥をのぞいたけれども、もうわからなかった。ただ邪推よ。あたし
は恐ろしい邪推をしたのよ」
男「あの男がほんとうに君を殺すと思ったんだね」
女「ふと、あの人の眼が、こう言ってるように見えたのよ……おれは架空の人物を作って、
お前にスリルを味わわせようとたくらんでいる。はじめはそのつもりだった。しかし、今
ではもう、これがお芝居で終るかどうか、おれにも判断がつかなくなった。おれはほんと
うにお前を殺しても、まったく安全なんだ。そして、お前の財産がおれのものになるのだ。
おれはその魅力に負けてしまうかもしれない。実をいうと、おれはお前よりもあの女の方
を何倍も愛している。可哀そうだ。お前が可哀そうでたまらない……あの人がそんなふう
に、声をふりしぼって、泣き叫んでいるようにさえ感じられた。あの人の眼から涙がとめ
どもなくあふれた。それがゴクゴクとあたしの喉へ流れこんできた。あの人とあたしの、
てんでの妄想が、まっ暗な空間でもつれあって、ごっちゃになって、あたしはもう、どう
していいのかわけがわからなくなってしまった」
男「僕に相談をかけたのは、その頃なんだね」
女「そうよ。今いった不安を、あなたにうちあけたわね。すると、あなたは、君の思いす
ごしだ、そんなばかなことがあるものかと、あたしを笑ったわ。でも、笑っているあなた
の眼の奥に、チラッと疑いの影があった。あなたも、もしかしたらと、一抹の不安を感じ
ていることが、あたしにはよくわかったのよ」
男「しかし、僕はあの時、そういう不安を意識してはいなかったね。君のような千里眼に
かかっちゃかなわない。相手の無意識の中までさぐり出すんだからね」
女「あたし、あの人の眼を見るのがこわくなった。また、こちらがこわがっていることを、
あの人に悟られるのが恐ろしかった。そして、とうとう、ピストルのことまで気を廻すよ
うになった……ある夕方、門のそとで、また紺オーバーの男に出会ったのよ。あの男はい
つも夕方か夜しか姿をあらわさなかった。変装を見破られることをおそれたのだわ。その
時も、うすぐらくて、はっきり見えなかったけれど、あの男があたしを見て、ニヤッと笑
ったような気がしたのよ。斎藤の変装ということがわかっていても、あたしゾーッとしな
いではいられなかった。そして、その刹那、なぜかハッとピストルのことを思い出したの
よ。あの人の書斎の机の引出しにかくしてあるピストルのことを」
男「ピストルのことは僕も知っていた。あの男は禁令を破って、こっそりとピストルを手
に入れていたね。いつも実弾をこめて、引出しの底の方にしまってあった。別に何に使お
うというのじゃない。ただ手にはいったから持っているんだと言っていた」
女「あたし、そのピストルを、紺オーバーの男が、いつも身につけているんじゃないかと
思って、ギョッとしたのよ。それで、あわてて書斎にとびこんで、引出しをあけてみると、
ピストルはちゃんと元の場所にあった。あたし一時はホッとしたけれど、すぐに、あの人
が架空の犯人に斎藤の持ち物であるこのピストルを持たせるような、間抜けなことをする
はずがないと気づいた。紺オーバーの男は別のピストルを手に入れたかもしれない。もっ
とほかの兇器を用意しているかもしれない。ピストルが元の場所にあったからといって、
決して油断はできない。そう考えると、あたしはいよいよ不安になった」
男「そこで、君はあのピストルを、自分で持っていようと決心したんだね」
女「ええ、その方がいくらか安心だと思ったの。それで、あたし、ピストルを自分の部屋
にうつして、夜はベッドの中へ持ってはいることにしたのよ」
男「悪いものがあったねえ。あれさえなければ……」
女「あたし、あなたにたずねたわね。紺オーバーの男が、あたしの寝室へはいってきたと
して、その時あたしがピストルであの男をうったら、どんな罪になるでしょうかって」
男「そうだったね。僕はあの時、見知らぬ男が暴力で屋内に侵入して、寝室にまで踏みこ
んできたら、男の方に危害を加える意味がなかったとしても、正当防衛は成り立つ。たと
え相手をうち殺しても、罪にはならないと答えた。事実それにちがいないんだが、今から
考えると悪いことを言った」
女「そして、とうとうあの男がやってきた。もうくるかもうくるかと、斎藤の不在の夜は、
そればっかり待っていたほどよ。十二時すぎ、あの男は塀をのりこえ、廊下の窓からしの
びこんで、足音も立てないで、あたしの寝室のドアをひらいた。紺オーバーを着たまま、
ソフトをかぶったまま、黒目がねと濃い口ひげが、たびたび出会ったあの男にちがいなか
った。あたしは眼をつむって寝たふりをしながら、まつげのすきまから、じっと男を見て
いた。ピストルはいつでもうてるように、ふとんの中でにぎりしめていた」
男「…………」
女「あたし、心臓が破れそうだった。早くピストルがうちたかった。でも、じっと我慢し
て、まつげのすきまから見ていた……あの男は両手をオーバーのポケットに突っ込んだま
ま、ヌーッと立っていた。あたしが寝たふりをしているのを、ちゃんと見抜いているよう
だった。そのにらみ合いが、まる一時間もつづいたような気がした。あたしは、いきなり
ベッドから飛びおりて、ギャーッと叫びながら、逃げ出したいのを、歯をくいしばって、
こらえていた」
男「…………」
女「とうとう、あの男は、大またにベッドに近づいてきた。電気スタンドの笠の蔭になっ
ていたけれど、あの男の顔が大きく、はっきり見えた。器用に変装していても、あたしに
は、斎藤だということが、はっきりわかった……あの男は黒目がねの中で笑っているよう
に見えた。そして、いきなりベッドの上に上半身をまげて、おそいかかってきた。その時、
あの短刀は、ふとんの襟が邪魔になって見えなかったけれど、あたしはもう無我夢中だっ
た。あたしはふとんの中からソッとピストルの先を出して、男の胸にむけていきなり引き
金をひいた……あたし、ピストルを突きつけながら、問答するなんて、そんな余裕はとて
もなかったわ。もう、うちたくって、うちたくって、気が狂いそうだった……ピストルの
音をきいて、あなたと女中がかけつけた時には、あの男は胸をうたれて息がたえていたし、
あたしはベッドの上に気を失っていたのね」
男「僕は最初、何がなんだかわからなかった。しかし、ちょっとのまに、やっぱりそうだ
ったのかと悟った。あの男の死骸のそばに、抜きはなった短刀がおちていた」
女「警察の人たちが来た。それから、あたしは検察庁へ呼ばれた。あなたも呼ばれたわね。
あたしは少しも隠さないでほんとのことを言った。検事はあたしたちの遊戯三昧の生活を
非難して、長いお説教をした。そして、あたしは不起訴になった。短刀があったので、あ
の男の殺意を疑うことができなかったのだわ。それから、あたしは病気になるようなこと
もなく、あの人の葬式も無事にすませ、一と月ほど家にとじこもっていた。あなたが毎日
慰めてくれたわね。身よりもないし、親友もないし、あたし、あなた一人がたよりだった
わ……それから、斎藤の女のことも、あなたがちゃんとケリをつけてくれた」
男「あれからやがて一年になる。君と正式に結婚の手続きをしてからでも五カ月だ……さ
あ、ポツポツ帰ろうか」
女「まだお話があるのよ」
男「まだ? もうすっかり、おさらいをすませたじゃないか」
女「でも、今まで話したことは、ほんのうわっつらだわ」
男「え、うわっつらだって?あれほど心の底をさぐるような分析をしてもかい?」
女「いつでも、真にほんとうのことってのは、一ばん奥の方にあるわよ。その奥の方のこ
とは、まだあたしたち話さなかった」
男「なにを考えてるのか知らないが、君は少し神経衰弱じゃないのかい」
女「あなた、怖いの?」
[#ここで字下げ終わり]
男の眼がスーッと澄んだように見えた。しかし、表情はほとんど変わらなかった。身動
きさえしなかった。女はおしゃべりの昂奮で、ほの赤く上気していた。眼がギラギラ光り、
唇のすみがキュッとあがって、意地わるな微笑が浮かんでいた。
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女「他人の心を自分の思うままに動かして、一つの重罪を犯させるということができたら、