饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.9

その人にとっては、実に愉快だろうと思うわ。心をそういうふうに動かされたほうでは、

自分たちがその人の傀儡だということを少しも気づいていないんだから、これほど完全な

犯罪はないわ。これこそ正真正銘の完全犯罪じゃないかしら」

男「君は何を言おうとしているの?」

女「あなたがそういう人形使いの魔術師だってことを、言おうとしているの。でも、あな

たを摘発しようなんて言うんじゃないわ。悪魔が二人、額をよせてニヤニヤ笑いながら、

お互いの悪だくみの深さを|嘉《よみ》し合う、あれね。そういう意味で、もっとお互い

の心の中をさらけ出したいのよ。あなたの言う露出狂だわね」

男「オイ、よさないか。僕は露出狂なんかには興味がない」

女「やっぱり、あなたは怖がっているのね。でも、話しかけたのを、このままよしてしま

っては、もっとあと味がわるいでしょう。話すわ……亡くなった斎藤に探偵趣味を吹きこ

んだのは、あなただったわね。斎藤にはもともとその素質があった。ですから、あなたに

とっては絶好の傀儡だったのよ。そして、あなたは、あの人を犯罪手段の研究に熱中させ、

架空犯人のトリックに心酔させてしまった。むろん斎藤のほうで夢中になったんだけれど、

あなたは実に微妙な技巧で、斎藤の物の考え方をその方向に導いて行ったのよ。話術でし

ょうか。いや、話術よりももっと奥のものね。あなたはそれで斎藤を自由に扱いこなした

……女ができたのは、あなたのせいじゃない。斎藤が勝手に作ったんだけれど、それは道

楽者の斎藤のことだから、いつだって起こりうることだったわ。あなたはそれをうまく利

用したのよ」

男「…………」

女「架空犯人のトリックとあの女とを結びつけて、あたしたち夫婦のあいだのスリル遊戯

を思いつくことだって、むろんあなたの力が働いていた。斎藤はそういう突飛なことを実

行して喜ぶような性格なんだから、あなたが一とこと二たこと、それとない暗示を与えさ

えすればよかったのよ。斎藤には少しも気づかれない言葉で、しかし暗示としては恐ろし

い力を持つような言葉で」

男「想像はどうにでもできる。そんな想像をするのは、君自身が途方もない悪人だという

ことを証拠だてるばかりだ」

女「そうよ。悪人だから、悪人の気持がわかるのよ。あなたは、斎藤が思うつぼにはまっ

て、紺オーバーの男に化けて、うちのまわりをうろつき出した時、まっ先にそれを見つけ

たでしょう。そして、あたしに知らせてくれたわね。あたし、その時はまだ気づかなかっ

たけれど、あとになって思い出してみると、あなたの眼は喜びの色を隠すことができなか

ったのね。あの眼の意味は、ただ怪しい男を見つけたというだけのものじゃなかった。し

てやった、うまく行ったという歓喜が、今から考えると、あなたの眼の中に、まるではだ

かみたいに、さらけ出されていたわ。あたしには斎藤の涙を分析したり、架空犯人のトリ

ックを思い出したりしなければ、判断できなかったことが、計画者のあなたには、最初か

らちゃんとわかっていたのだわ」

男「もうよそう。ね、もうよそう」

女「もう少しよ。もう少し言うことがあるのよ……お芝居がいつのまにか本気になって、

斎藤はあたしを殺すのじゃないかと思った。それから、ピストルを手に入れて、あなたに

その事を相談した。すると、あなたは芯からのように、そんなばかなことがあるものかと

打ち消しながら、眼の奥に不安の色を漂わせて見せた。その上、万一ピストルで相手を殺

しても、正当防衛で罪にならないということをはっきりあたしにのみこませた……これで

もう、あなたは成り行きを眺めていさえすればよかったのだわ。殺人は起こるかもしれな

い。起こらないかもしれない。でも、起こらなかったとしても、あなたは別に損をするわ

けではない。もしあたしがピストルをうち、斎藤が死ねば、すっかりあなたの思う壺。な

んてうまい考えでしょう。あたしたちがよく犯罪トリックのことを話し合ったころ、プロ

バビリティの犯罪というのが問題になったわね。可能性は充分あるけれども、必らず目的

を達するかどうかはわからない。それは運命にまかせるという、あの一等ずるい、一等安

全な方法よ。失敗しても、犯人はこれっぽちも疑われる心配はないんだから、何度だって、

ちがった企らみをくり返すことができる。そうしているうちには、いつか目的を達する時

がくる。そして、目的を達しても、犯人は絶対に疑われることがない……あなたのプロバ

ビリティの犯罪は、斎藤の架空犯人の思いつきなんかより、一枚も二枚もうわ手だったわ」

男「僕は怒るよ。君は妄想にとりつかれているんだ。頭が変になっているんだ……僕は一

人で先に帰るよ」

女「あなたの額、汗でビッショリよ。気分わるいの?……あの時、ピストルの引き金をひ

いた時、あたし斎藤が短刀を持っていることは知らなかった。とっさに、首をしめにくる

のじゃないかとも思ったし、そうでなくて、ただ、あたしを抱くばかりかとも思った。ほ

んとうのことは、わからなかったのよ。それでも、あたし引き金をひいてしまった……ほ

んとうは、ずっと前から、心の底のほうであなたを愛していたからよ。あなたにもそれは

わかっていたはずだわ……そして、引き金をひいたまま気を失ってしまった。短刀は意識

をとりもどした時に、はじめて見たのよ。ですから、あの短刀は斎藤がオーバーのポケッ

トに入れていたとも考えられるし、また、あなたが、あらかじめ用意しておいた斎藤の短

刀を持ちこんで、死んだ斎藤の指紋をつけてあすこへ放り出しておいたとも考えられるわ

ね。なぜって、ピストルの音をきいてまっ先にかけつけたのは、あなただったし、それか

ら斎藤が短刀を持っていたとすれば、正当防衛の口実が一そう完全になるからだわ。あな

たは斎藤が殺されることは望んでいたけれど、あたしが罪におちては困る。あたしを助け

るためには、どんなことでもしなければならなかったのだわ」

男「おどろいた。よくもそこまで妄想をめぐらすもんだね。ハハハハハ」

女「だめよ、笑って見せようとしたって。まるでいつもの声とちがうじゃありませんか。

泣いているみたいだわ……何をそんなに怖がっているの、これはここだけの話よ。たとえ

まったく危険のないプロバビリティの犯罪にもせよ、そういう恐ろしい企らみまでして、

あたしを手に入れようとしたあなたを、あたしは決して裏切りゃしないわ。しんそこから

愛しているわ。このことは二人のあいだの永久の秘密にしておきましょうね。あたしはた

だ、一度だけはほんとうのことを話し合っておきたいと思ったばかりよ」

[#ここで字下げ終わり]

男は無言のまま、妄想狂のお相手はごめんだと言わぬばかりに、自然石のベンチから立

ちあがった。それにつれて、女も立ち、帰りみちとは反対の、崖ばなの方へ、ゆっくり歩

いて行った。男は何かおずおずしながら、二、三歩あとから、女について行く。

女は崖っぷち二尺ほどの所まで進んで、そこに立ちどまった。遙か下方に幽かに溪流の

音がしている。しかし溪流そのものは見えない。谷の底には薄黒いモヤがたてこめ、その

深さは何十丈ともしれなかった。

女は谷の方を向いたまま、うしろの男に話しかけた。

[#折り返して1字下げ]

女「あたしたち、きょうはほんとうのことばかり話したわね。こんなほんとうのことって、

めったに話せるものじゃないわ。あたし、なんだかせいせいした……でも、一つだけ、ま

だ話さなかったことが残っているわ。その最後のほんとうのことを言ってみましょうか…

…あなたの顔を見ないで言うわね……あたしははだかのあなたを愛していたのに、あなた

はあたしとお金とを愛していたのでしょう。そして、今ではあたしを愛しないで、あたし

の持っているお金だけを愛しているのでしょう。それがあたしにはよくわかるのよ。あな

たの眼の中が読めるのよ。そして、あたしがそれにかんづいたということを、あなたの方

でも知っているんだわ。ですから、きょうこんな淋しい崖の上へ、あたしを誘い出したん

だわ……あなたはあたしを愛さなくなっても、あたしと離れることができない。斎藤と同

じように、あなたも生活能力のない男だから。すると、あなたにできることは、たった一

つしか残っていないわね……斎藤の|故《こ》|智《ち》にならって、あたしを無きもの

にする。そうすれば、あたしの全部の財産が|夫《おっと》であるあなたのものになる…

…あたし、あなたに別の愛人ができていることを、そして、今ではあなたはあたしを憎ん

でいることを、とうから知っていたのよ」

[#ここで字下げ終わり]

うしろから、ハッハッという男のはげしい息づかいが聞こえてきた。男のからだがソー

ッとこちらへ迫まってくるのが感じられた。女はいよいよその時がきたのだと思った。

背中に男の両手がさわった。その手は小きざみに烈しくふるえていた。そして、ググッ

と恐ろしい力で女の背中を押してきた。

女はその力にさからわず、柔かくからだを二つに折るようにして、パッと傍らに身を引

いた。

男は力あまって、タタッと前に泳いだ。死にものぐるいに踏みとどまろうとした最後の

一歩の下には、もう地面がなかった。男のからだ全体が、棒のように横倒しになったまま、

スーッと下へおちて行った。

今まで少しも気づかなかった小鳥の声が、やかましく女の耳にはいってきた。溪流のし

もての広くひらけた空を、そこにむらがる雲を、入り陽がまっ赤に染めていた。ハッとす

るほど雄大な、美しい夕焼けであった。

女は茫然と岩頭に立ちつくしていたが、やがて、何かつぶやきはじめた。

[#折り返して1字下げ]

女「また正当防衛だった。でも、これはどういうことなのかしら。一年前に、あたしを殺

そうとしたのは斎藤だった。そのくせ、殺されたのはあたくしでなくて、斎藤の方だった。

今度も、あたしを突き落とそうとしたのは、彼だった。そのくせ、崖から落ちて行ったの

は、あたしでなくて、彼の方だった……正当防衛って妙なものだわ。両方とも、ほんとう

の犯人はこのあたしだったのに、法律はあたしを罰しない。世間もあたしを疑わない。こ

んなずるいやり方を考えつくなんて、あたしはよくよくの毒婦なんだわね……あたしはこ

の|先《さき》まだ、幾度正当防衛をやるかわからない。絶対罪にならない方法で、幾人

ひとを殺すかもわからない……」

[#ここで字下げ終わり]

夕陽は大空を焼き、断崖の岩肌を血の色に染め、そのうしろの鬱蒼たる森林を焔と燃え

立たせていた。岩頭にポッツリと立つ女の姿は、小さく小さく、人形のように可愛らしく、

その美しい顔は桃色に上気し、つぶらな眼は、大空を映して異様に輝いて見えた。

女はそのままの姿勢で、大自然の微妙な、精巧な装飾物のように、いつまでも、身動き

さえしなかった。

兇器

「アッ、助けてえ!」という金切り声がしたかと思うと、ガチャンと大きな音がきこえ、

カリカリとガラスのわれるのがわかったって言います。主人がいきなり飛んで行って、細

君の部屋の襖をあけてみると、細君の美弥子があけに染まって倒れていたのです。

傷は左腕の肩に近いところで、傷口がパックリわれて、血がドクドク流れていたそうで

す。さいわい動脈をはずれたので、吹き出すほどでありませんが、ともかく非常な出血で

すから、主人はすぐ近所の医者を呼んで手当てをした上、署へ電話をかけたというのです。

捜査の木下君と私が出向いて、事情を聴きました。

何者かが、窓をまたいで、部屋にはいり、うしろ向きになっていた美弥子を、短刀で刺

して逃げ出したのですね。逃げるとき、窓のガラス戸にぶつかったので、その一枚がはず

れてそとに落ち、ガラスがわれたのです。

窓のそとには一間幅ぐらいの狭い空き地があって、すぐコンクリートの万年塀なのです。

コントリートの板を横に並べた組み立て式の塀ですね。そのそとは住田町の淋しい通りで

す。私たちは万年塀のうちとそとを、懐中電灯で調べてみたのですが、ハッキリした足跡

もなく、これという発見はありませんでした。

それから、主人の佐藤寅雄……三十五歳のアプレ成金です。少し英語がしゃべれるので、

アメリカ軍に親しくなって、いろいろな品を納入して儲けたらしいのですね。今はこれと

いう商売もしないで遊んでいるのです。しかし、なかなか利口な男で、看板を出さない金

融業のようなことをやって、財産をふやしているらしいのですがね……その佐藤寅雄とさ

し向かいで、聞いてみたのですが、細君の美弥子は二十七歳です。新潟生れの美しい女で、

キャバレーなんかにも勤めたことがあり、まあ多情者なんですね。いろいろ男関係があっ

て、佐藤と結婚するすぐ前の男が執念ぶかく美弥子につきまとっているし、もう一人あや

しいのがある。犯人はそのどちらかにちがいないと、佐藤が言うのです。

私は警察にはいってから五年ですが、仕事の上では、あんな魅力のある女に出会ったこ

とがありませんね。佐藤はひどく惚れこんで、それまで同棲していた男から奪うようにし

て結婚したらしいのです。その前の男というのは、関根五郎というコック……コックと言

っても相当年季を入れた腕のあるフランス料理のコックですが、これと同棲していたのを、

佐藤が金に物を言わせて手に入れたのですね。

もう一人の容疑者は青木茂という不良青年です。美弥子はこの青年とも以前に関係があ

って、青木の方が惚れているのですね。佐藤と結婚してからは、美弥子は逃げているのに、

青木がつきまとって離れないのだそうです。不良のことですから、あつかましく佐藤のう

ちへ押しかけてきたり、脅迫がましいことを口走ったりして、うるさくて仕方がないとい

うのです。

この青木は見かけは貴族の坊ちゃんのような美青年ですが、相当なやつで、中川一家と

いうグレン隊の仲間で、警察の厄介になったこともあるのです。これが、美弥子に愛想づ

かしをされたものだから、近頃では凄いおどし文句などを送ってよこすらしく、美弥子は

「殺されるかもしれない」といって怖がっていたと言います。

主人の佐藤は、この二人のほかには心当たりはない。やつらのどちらかにきまっている。

美弥子はうしろからやられて、相手の顔を見なかったし、ふりむいたときには、もう窓か

ら飛び出して、暗やみに姿を消していたので、服装さえもハッキリわからなかったが、や

っぱり、その二人のうちのどちらかだと言っている。それにちがいないと断言するのです。

そこで、私はこの二人に当たってみました……いや、その前にちょっとお耳に入れておく

ことがあります。いつも先生は「その場にふさわしくないような変てこなことがあったら、

たとえ事件に無関係に見えても、よく記憶しておくのだ」とおっしゃる、まあそういった

ことですがね。

医者が来て美弥子の手当てがすみ、別室に寝させてから、主人の佐藤は事件のあった部

屋を念入りに調べたのだそうです。刃物を探したのですよ。美弥子の刺された刃物は普通

の短刀ではなくて、どうも両刃の風変わりな兇器らしいのですが、ずいぶん探したけれど

も、どこにもなかったというのです。

私が、その辺にころがっていなければ、むろん犯人が持って逃げたにきまっているじゃ

ないか、何もそんなに探さなくてもと言いますと、いやそうじゃない。これは、ひょっと

したら美弥子のお芝居かもしれない。あいつは恐ろしく変わり者のヒステリー女だから、

何をやるか知れたものじゃない。だから念のために、刃物がどこかに隠してないか調べて

みたのだというのです。

しかし、美弥子のいた部屋の押入れやタンスを調べても、鋏一梃、針一本見つからなか

った。庭には何も落ちていなかった。そこではじめて、これは何者かがそとから忍びこん

だものだと確信したというのです。

相手の話がおわると、アームチェアに埋まるようにして聞いていた明智小五郎が、モジ

ャモジャ頭に指を突っ込んで、合槌を打った。

「面白いね。それには何か意味がありそうだね」

この名探偵はもう五十を越していたけれど、昔といっこう変わらなかった。顔が少し長

くなり、長くて痩せた手足と一そうよく調和してきたほかには、これという変化もなく、

頭の毛もまだフサフサとしていた。

明智小五郎はお|洒《しゃ》|落《れ》と見えないお洒落だった。顔はいつもきれいに

あたっていたし、服も彼一流の好みで、凝った仕立てのものを、いかにも無造作に着こな

していた。頭の毛を昔に変わらずモジャモジャさせているのも、いわば彼のお洒落の一つ

であった。

ここは明智が借りているフラットの客間である。麹町采女町に東京唯一の西洋風な「麹

町アパート」が建ったとき、明智はその二階の一区劃を借りて、事務所兼住宅にした。ア

パートは帝国ホテルに似た外観の建築で、三階建てであった。明智の借りた一区劃には広

い客間と、書斎と、寝室とのほかに、浴槽のある化粧室と、小さな台所がついていた。食

堂を書斎に変えてしまったので、客と食事するときは近くのレストランを使うことにして

いた。

明智夫人は胸を患らって、長いあいだ高原療養所にはいっているので、彼は独身同然で

あった。身のまわりのことや食事の世話は、少年助手の小林芳雄一人で取りしきっていた。

手広いフラットに二人きりの暮らしであった。食事といっても、近くのレストランから運

んできたのを並べたり、パンを焼いたり、お茶をいれたりするだけで、少年の手におえぬ

ことではない。

その客間で明智と対座しているのは、港区のS署の鑑識係りの巡査部長、庄司専太郎で

あった。一年ほど前から、署長の紹介で明智のところへ出入りするようになり、何か事件

が起こると智恵を借りにきた。

「ところで佐藤がこの二人のうちどちらかにちがいないというコックの関根と、不良の青

木に当たってみたのですが、どうも思わしくありません。両方ともアリバイははっきりし

ないのです。家にいなかったことは確かですが、といって、現場付近をうろついたような

聞き込みも、まだないのです。ちょっとおどかしてみましたが、二人とも、どうしてなか

なかのしたたかもので、うかつなことは言いません」

「君の勘では、どちらなんだね」

「どうも青木がくさいですね。コックの関根は五十に近い年配で、細君はないけれども、

婆さんを抱えていますからね。なかなか親孝行だって評判です。そこへ行くと青木ときた

らまったく天下の風来坊です。それに仲間がいけない。人殺しなんか朝めし前の連中です

からね。それとなく口裏を引いてみますとね、青木は確かに美弥子を恨んでいる。惚れこ

んでいただけに、こんな扱いを受けちゃあ、我慢ができないというのでしょうね。ほんと

うに殺すつもりだったのですよ。それが手先が狂って、叫び声を立てられたので、つい怖

くなって逃げ出したのでしょう。関根ならあんなヘマはやりませんよ」

「二人の住まいは?」

「ごく近いのです。両方ともアパート住まいですが、関根は坂下町、青木は菊井町です。

関根の方は佐藤のところへ三丁ぐらい。青木の方は五丁ぐらいです」

「兇器を探し出すこと、関根と青木のその夜の行動を、もう一歩突っ込んで調べること、

これが常識的な線だね。しかし、そのほかに一つ、君にやってもらいたいことがある」

明智の眼が笑っていた。いたずらっ子のように笑っていた。庄司巡査部長はこの眼色に

は馴染みがあった。明智は彼だけが気づいている何か奇妙な着眼点に興じているのだ。

「犯人が逃げるとき、窓のガラス戸が庭に落ちて、ガラスが割れたんだね。そのガラスの

かけらはどうしたの?」

「佐藤のうちの婆やが拾い集めていたようです」

「もう捨ててしまったかもしれないが、もしそのガラスのかけらを全部集めることができ

たら、何かの資料になる。一つやってみたまえ。ガラス戸の枠に残っているかけらと合わ

せて、復原してみるんだね」

明智の眼はやっぱり笑っていた。庄司も明智の顔を見てニヤリと笑い返した。明智のい

う意味がわかっているつもりであった。しかし、ほんとうはわかっていなかったのである。

それから十日目の午後、庄司巡査部長はまた明智を訪問していた。

「もう御承知でしょう。大変なことになりました。佐藤寅雄が殺されたのです。犯人はコ

ックの関根でした。たしかな証拠があるので、すぐ引っ張りました。警視庁で調べていま

す。私もそれに立ち会って、いま帰ったところです」

「ちょっとラジオで聴いたが、詳しいことは何も知らない。要点を話してください」

「私はゆうべ、その殺人現場に居合わせたのです。もう夜の九時をすぎていましたが、署

から私の自宅に連絡があって、佐藤が、ぜひ話したいことがあるから、すぐ来てくれとい

う電話をかけてきたことがわかったのです。私は何か耳よりな話でも聞けるかと、急いで

佐藤の家に駈けつけました。

主人の佐藤と美弥子とが、奥の座敷に待っていました。美弥子は二、三日前に、傷口を

縫った糸を抜いてもらったと言って、もう外出もしている様子でした。ふたりとも浴衣姿

でした。佐藤は気色ばんだ顔で、『夕方配達された郵便物の中に、こんな手紙があったのを、

つい今しがたまで気づかないでいたのです』といって、安物の封筒から、ザラ紙に書いた

妙な手紙を出して見せました。

それには、六月二十五日の夜(つまりゆうべですね)どえらいことがおこるから、気を

つけるがいいという文句が、実に下手な鉛筆の字で書いてありました。どうも左手で書い

たらしいのですね。封筒もやはり鉛筆で同じ筆蹟でした。差出人の名はないのです。

心当たりはないのかと聞くと、主人の佐藤は、筆蹟は変えているけれども、差出人は関

根か青木のどちらかにきまっていると断言しました。それからね、実にずうずうしいじゃ

ありませんか、やつらは二人とも、美弥子のお見舞いにやってきたそうですよ。もしどち

らかが犯人だとすれば、大した度胸です。一と筋繩で行くやつじゃありません」

「そんなことを話しているうちに三十分ほどもたって、十時を少しすぎた頃でした。美弥

子が『書斎にウィスキーがありましたわね、あれ御馳走したら』と言い、佐藤が縁側の突

き当たりにある洋室へ、それを取りに行きましたが、しばらく待っても帰ってこないので、

美弥子は『きっと、どっかへしまい忘れたのですわ。ちょっと失礼』といって、主人のあ

とを追って、洋室へはいっていきました。

私は部屋のはしの方に坐っていましたので、ちょっとからだを動かせば、縁側の突き当

たりの洋室のドアが見えるのです。あいだに座敷が一つあって、その前を縁側が通ってい

るので、私の坐っていたところから洋室のドアまでは五間も隔っていました。まさかあん

なことになろうとは思いもよらないので、私はぼんやりと、そのドアの方を眺めていたの

です。

突然『アッ、だれか来て……』という悲鳴が、洋室の方から聞こえてきました。ドアが

しまっているので、なんだかずっと遠方で叫んでいるような感じでした。私はそれを聞く

と、ハッとして、いきなり洋室へ飛んで行ってドアをひらきましたが、中はまっ暗です。

『スイッチはどこです』とどなっても、だれも答えません。私は壁のそれらしい場所を手

さぐりして、やっとスイッチを探しあてて、それを押しました。

電灯がつくと、すぐ眼にはいったのは、正面の窓際に倒れている佐藤の姿でした。浴衣

の胸がまっ赤に染まっています。美弥子も血だらけになって、夫のからだにすがりついて

いましたが、私を見ると、片手で窓を指さして、何かしきりと口を動かすのですが、恐ろ

しく昂奮しているので、何を言っているのかさっぱりわかりません。

見ると、窓の押し上げ戸がひらいています。曲者はそこから逃げたにちがいありません。

私はいきなり窓から飛び出して行きました。庭は大して広くありません。人の隠れるよう

な大きな茂みもないのです。五、六間向こうに例のコンクリートの万年塀が白く見えてい

ました。曲者はそれを乗り越して、いち早く逃げ去ったのでしょう。いくら探しても、そ

の辺に人の姿はありませんでした。

元の窓から洋室に戻りますと、私が飛び出すとき、入れちがいに駈けつけた婆やと女中

が、美弥子を介抱していました。美弥子には別状ありません。ただ佐藤のからだにすがり

ついたので、浴衣が血まみれになっていたばかりです。佐藤のからだを調べてみると、胸

を深く刺されていて、もう脈がありません、私は電話室へ飛んで行って、署の宿直員に急

報しました。

しばらくすると、署長さんはじめ五、六人の署員が駈けつけてきました。それから、懐

中電灯で庭を調べてみると、窓から塀にかけて、犯人の足跡が幾つも、はっきりと残って

いたのです。実に明瞭な靴跡でした。

けさ、署のものが関根、青木のアパートへ行って、二人の靴を借り出してきましたが、

比べてみると、関根の靴とピッタリ一致したのです。関根はちょうど犯行の時間に外出し

ていて、アリバイがありません。それで、すぐに引っぱって、警視庁へつれて行ったので

す」

「だが、関根は白状しないんだね」

「頑強に否定しています。佐藤や美弥子に恨みはある。幾晩も佐藤の屋敷のまわりを、う

ろついたこともある。しかしおれは何もしなかった。塀を乗りこえた覚えは決してない。

犯人はほかにある。そいつがおれの靴を盗み出して、にせの足跡をつけたんだと言いはる

のです」

「フン、にせの足跡ということも、むろん考えてみなければいけないね」

「しかし、関根には強い動機があります。そして、アリバイがないのです」

「青木の方のアリバイは?」

「それも一応当たってみました。青木もその時分外出していて、やっぱりアリバイはあり

ません」

「すると、青木が関根の靴をはいて、万年塀をのり越したという仮定もなり立つわけかね」

「それは調べました。関根は靴を一足しか持っていません。その靴をはいて犯行の時間に

は外出していたのですから、その同じ時間に青木が関根の靴をはくことはできません」

「それじゃあ、真犯人が関根の靴を盗んで、にせの足跡をつけたという関根の主張は、な

り立たないわけだね」

明智の眼に例の異様な微笑が浮かんだ。そして、しばらく天井を見つめてタバコをふか

していたが、ふと別の事を言い出した。

「君は、美弥子が傷つけられた時に割れた窓ガラスのかけらを集めてみなかった?」

「すっかり集めました。婆やが残りなく拾いとって、新聞紙にくるんで、ゴミ箱のそばへ

置いておいたのです。それで、私はガラス戸に残っているガラスを抜き取って、そのかけ

らと一緒に復原してみました。すると、妙なことがわかったのです。割れたガラスは三枚

ですが、かけらをつぎ合わせてみると、三枚は完全に復原できたのに、まだ余分のかけら

が残っているのです。婆やに、前から庭にガラスのかけらが落ちていて、それがまじった

のではないかと聞いてみましたが、婆やは決してそんなことはない。庭は毎日掃いている

というのです」

「その余分のガラスは、どんな形だったね」

「たくさんのかけらに割れていましたが、つぎ合わせてみると、長細い不規則な三角形に

なりました」

「ガラスの質は?」

「眼で見たところでは、ガラス戸のものと同じようです」

明智はそこで又、しばらくだまっていた。しきりにタバコを吸う、その煙を強く吐き出

さないので、モヤモヤと顔の前に、煙幕のような白い煙がゆらいでいる。

明智小五郎と庄司巡査部長の会話がつづく。

「佐藤の傷口は美弥子のと似ていたんだね」

「そうです。やはり鋭い両刃の短刀らしいのです」

「その短刀はまだ発見されないのだろうね」

「見つかりません。関根はどこへ隠したのか、あいつのアパートには、いくら探しても無

いのです」

「君は殺人のあった洋室の中を調べてみたんだろうね」

「調べました。しかし洋室にも兇器は残っていなかったのです」

「その洋室の家具なんかは、どんな風だったの?一つ一つ思い出してごらん」

「大きな机、革張りの椅子が一つ、肘掛け椅子が二つ、西洋の土製の人形を飾った隅棚、

大きな本箱、それから窓のそばに台があって、その上にでっかいガラスの金魚鉢がのって

いました。佐藤は金魚が好きで、いつも書斎にそのガラス鉢を置いていたのです」

「金魚鉢の形は?」

「さし渡し一尺五寸ぐらいの四角なガラス鉢です。蓋はなくて、上はあけっぱなしです。

よく見かける普通の金魚鉢のでっかいやつですね」

「その中を、君はよく見ただろうね」

「いいえ、べつに……すき通ったガラス鉢ですから、兇器を隠せるような場所ではありま

せん」

その時、明智は頭に右手をあげて、指を櫛のようにして、、モジャモジャの髪の毛をかき

まわしはじめた。庄司は明智のこの奇妙な癖が、どういう時に出るかを、よく知っていた

ので、びっくりして、彼の顔を見つめた。

「あの金魚鉢に何か意味があったのでしょうか」

「僕はときどき空想家になるんでね。いま妙なことを考えているのだよ……しかし、まっ

たく根拠がないわけでもない」

明智はそこでグッと上半身を前に乗り出して、内証話でもするような恰好になった。

「実はね、庄司君、このあいだ君の話を聞いたあとで、うちの小林に、少しばかり聞きこ

みと尾行をやらせたんだがね、佐藤寅雄には美弥子の前に細君があったが、これは病気で

なくなっている。子供はない。そして、佐藤は非常な財産家だ。それから、君は今、青木

が美弥子を見舞いにきたといったね。ちょうどそのとき、小林が青木を尾行していたんだ

よ。物蔭からのぞいていると、美弥子は青木を玄関に送り出して、そこで二人が何かヒソ

ヒソ話をしていたというのだ。まるで恋人同士のようにね」

庄司は話のつづきを待っていたが、明智がそのままだまってしまったので、いよいよい

ぶかしげな顔になった。

「それと、金魚鉢とどういう関係があるのでしょうか」

「庄司君、もし僕の想像が当たっているとすると、これは実にふしぎな犯罪だよ。西洋の

小説家がそういうことを空想したことはある。しかし、実際にはほとんど前例のない殺人

事件だよ」

「わかりません。もう少し具体的におっしゃってください」

「それじゃあ問題の足跡のことを考えてみたまえ。あれがもしにせの靴跡だとすれば、必

ずしも事件の起こったときにつけなくても、前もってつけておくこともできたわけだね。

それならば青木にだってやれたはずだ。すきを見て関根のアパートから靴を盗み出し、佐

藤の庭に忍びこんで靴跡をつけ、また関根のところへ返しておくという手だよ。関根のア

パートと佐藤の家とは三丁しか隔たっていないのだから、ごくわずかの時間でやれる。そ

れに、たとえ見つかったとしても、靴泥棒だけなれば大した罪じゃないからね。もう一つ

突っ込んでいえば、にせの足跡をつけたのは、青木に限らない。もっとほかの人にもやれ

たわけだよ」

庄司巡査部長は、まだ明智の真意を悟ることができなかった。困惑した表情で明智の顔

を見つめている。

「君は盲点に引っかかっているんだよ」

明智はニコニコ笑っていた。例の意味ありげな眼だけの微笑が、顔じゅうにひろがった

のだ。そして、右手に持っていた吸いさしのタバコを灰皿に入れると、そこにころがって

いた鉛筆をとってメモの紙に何か書き出した。

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