饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.10

「君に面白い謎の問題を出すよ。さあ、これだ」

「いいね。Oは円の中心だ。OAはこの円の半径だね。OA上のB点から垂直線を下して

円周にまじわった点がCだ。また、Oから垂直線を下してOBCDという直角四辺形を作

る。この図形の中で長さのわかっているのはABが三インチ、BDの斜線が七インチとい

う二つだけだ。そこで、この円の直径は何インチかという問題だ。三十秒で答えてくれた

まえ」

庄司巡査部長は面くらった。昔、中学校で幾何を習ったことはあるが、もうすっかり忘

れている。直径は半径の二倍だから、まずOAという半径の長さを見出せばよい。OAの

うちでABが三インチなんだから、残るOBは何インチかという問題になる。もう一つわ

かっているのはBDの七インチだ。このBDを底辺とする三角形が目につく、エート、底

辺七インチのOBDという直角三角形の一辺は……

「だめだね。もう三十秒はとっくにすぎてしまったよ。君はむずかしくして考えるからい

けない。多分ABの三インチに引っかかったんだろう。それに引っかかったら、もうおし

まいだ。いくら考えてもだめだよ。

この問題を解くのはわけない。いいかね、この図のOからCに直線を引いてみるんだ。

ほうらね、わかっただろう。直角四辺形の対角線は相等し……ハハハハハ。半径は七イン

チなんだよ。だから直径は十四インチさ」

「なるほど、こいつは面白い謎々ですね」

庄司は感心して図形を眺めている。

「庄司君、君は今度の事件でも、このAB線にこだわっているんだよ。ずるい犯人はいつ

もAB線を用意している。そして、捜査官をそれに引っかけようとしている。さあ、今度

の事件のAB線はなんだろうね。よく考えてみたまえ」

庄司巡査部長が三度目に明智のフラットを訪ねたのは、それからまた三日の後であった。

「先生、ご明察の通りでした。美弥子は自白しました。佐藤の財産が目的だったのです。

そして、財産を相続したら、青木と一緒になるつもりだったというのです。美弥子の方が

青木に惚れていたのですよ。それを青木に脅迫されているように見せかけて、佐藤を安心

させておいたのです」

明智は沈んだ顔をしていた。いつもの笑顔も消えて、眼は憂鬱な色にとざされていた。

「先生のおっしゃったAB線は、美弥子が自分で自分の腕を傷つけ、さも被害者であるよ

うに見せかけたことです。まさか被害者が犯人だとは誰も考えなかったのです。

兇器は先生のお考えの通りガラスでした。長っ細い三角形のガラスの破片でした。美弥

子はそれで自分の腕を切って、よく血のりをふきとってから庭に投げすてたのです。そし

て、窓のガラスを割って庭へ落とし、そのガラスのかけらで、兇器のガラスをカムフラー

ジュしてしまったのです。そのガラスのかけらをすっかり集めて、丹念に復原してみる警

官があろうとは、さすがの彼女も思い及ばなかったのですね。

佐藤もなかなか抜け目のない男ですから、美弥子がほんとうに自分を愛してはいないこ

とを見抜いていたのかもしれません。それで、あんなに兇器を探したのでしょうね。自分

が殺されるとまでは考えなかったにしても、なんとなく疑わしく思っていたのですね。

佐藤を殺した兇器もガラスでした。傷口へ折れ込まない用心でしょう。それは少し厚手

のガラスで、やはり短刀のような長い三角形のものでした。佐藤に油断をさせておいて、

それで胸を突き、血のりをよくふきとってから、例の金魚鉢の底へ沈めたのです。その時

間は充分ありました。『だれか来て……』と叫んだのは、すべての手順を終ってからです。

佐藤が殺されたとき、唸り声ぐらいは立てたのでしょうが、私の坐っていた座敷からは遠

いし、それに、厚いドアがしまっていたので私は気づかなかったのです。

金魚鉢にガラスの兇器とは、なんとうまい思いつきでしょう。底に一枚ガラスが沈んで

いたって、ちょっと見たのではわかりません。物を探す場合、透明な金魚鉢なんか最初か

ら問題にしませんし、それにガラスが短刀の代りに使われたなんて、誰も考えっこありま

せんからね。先生がすぐにそこへお気づきになったのは、驚くほかありません。

庭のにせの足跡も美弥子がつけたのです。傷口の糸を抜いた翌日、あまりとじこもって

いても、からだに悪いから、ちょっと散歩してくるといって、家を出たのだそうです。そ

して近くの関根のアパートへ行って、関根の靴を風呂敷に包んで持ち帰り、庭にあとをつ

けると、又アパートへ返しに行ったのです。美弥子は関根が朝寝坊なことを知っていて、

寝ているひまに、これだけのことをやってのけたのです。前にも関根と同棲していたので

すから、関根の生活はこまかいところまで知りぬいていたわけです。

それから例の脅迫状も、美弥子が左手で書いて、自分でポストへ入れたのだと白状しま

した。この脅迫状は、一つは私を呼びよせて犯行の現場に立ち会わせるためだったのです

ね。ずいぶん舐められたものです。ガラスの兇器のトリックは、目撃者がなくては、その

威力を発揮しないのですからね。

それから青木もむろん呼び出して調べましたが、共犯関係はないことがわかりました。

美弥子は恋人の青木には何も知らせないで、自分一人で計画し、実行したのです。実に勝

気な女です。美弥子は貧乏を呪っていました。自分は貧乏のためにどんなつらい思いをし

てきたかわからない。いろいろな男をわたり歩かなければならなかったのも貧のためだ。

どんなことをしても貧乏とは縁を切りたいと思っていた。そこへ佐藤という大金持ちが現

われたので、金のために結婚を承諾した。関根には借金をしていたので、いやいやながら

同棲したが、ずいぶんひどい目にあった。逃げ出したくても隙がなく、すぐ腕力をふるう

ので、どうすることもできなかった。佐藤がその借金を返してくれたので、やっと助かっ

たが、関根にいじめられた復讐はいつかしてやろうと思っていたというのです。

青木には佐藤と結婚する前から好意を持っていたが、結婚後、佐藤の目をかすめてだん

だん深くなって行ったのだそうです。そうなると佐藤とはもう一日も一緒にいたくない。

といって、離婚したのではお金に困る。貧乏はもうこりこりだ、というわけで、佐藤の財

産をそのまま自分のものにして、好きな青木と一緒になるという、虫のいいことを思いつ

いたのですね。そして、ガラスの殺人という、実に奇抜な方法を考え出したのです。女と

いうものは怖いですね」

「僕の想像が当たった。実に突飛な想像だったが、世間にはそういう突飛なことを考え出

して、実行までするやつがあるんだね」

明智は腕を組んで、陰気な顔をしていた。あれほど好きなタバコも手にとるのを忘れて

いるように見えた。

「ですから、先生も不思議な人ですよ。不思議な犯罪は、不思議な探偵でなければ見破る

ことができないのですね」

「君はそう思っているだろうね。しかし、いくら僕が不思議な探偵でも、君の話を聞いた

だけでは、あんな結論は出なかっただろうよ。種あかしをするとね、僕は小林に美弥子の

前歴をさぐらせたのだ。そして、美弥子と親しかったが今は仲たがいになっている二人の

女に、別々にここへ来てもらって、よく話を聞いたのだ。それで美弥子という女の性格が

わかったのだよ。僕が金魚鉢に気がついたのは、そういう手続きを経ていたからだ。だが、

その時はもうおそかった。僕の力では事前にそこまで考えられなかった。あとになって、

不思議な殺人手段に気づくだけがやっとだった」

明智はそういって、プツンとだまりこんでしまった。庄司巡査部長は明智のこんなにう

ち沈んだ姿を見るのは、はじめてであった。

疑惑

一、その翌日

「おとうさんが、なくなられたというじゃないか」

「ウン」

「やっぱりほんとうなんだね」

「だが、君は、けさの××新聞の記事を読んだかい。いったいあれは事実なのかい」

「…………」

「おい、しっかりしろよ。心配して聞いているのだ。なんとか言えよ」

「ウン、ありがとう……別に言うことはないんだよ。あの新聞記事が正しいのだ、きのう

の朝、眼をさましたら、うちの庭で、おやじが頭を|破《わ》られて倒れていたのだ。そ

れだけのことなんだ」

「それで、きのう、学校へこなかったのだね……そして、犯人はつかまったのかい」

「ウン、嫌疑者は二、三人あげられたようだ。しかしまだ、どれがほんとうの犯人だかわ

からない」

「おとうさんは、そんな、恨みを受けるような事をしていたのかい。新聞には遺恨の殺人

らしいと出ていたが」

「それは、していたかもしれない」

「商売上の……」

「そんな気のきいたんじゃないよ。おやじのことなら、どうせ酒の上の喧嘩が元だろうよ」

「酒の上って、おとうさんは酒くせでもわるかったのかい」

「…………」

「おい、君は、どうかしたんじゃないかい……ああ、泣いているね」

「…………」

「運がわるかったのだよ。運がわるかったのだよ」

「……おれはくやしいのだ。生きているあいだは、さんざんおふくろやおれたちを苦しめ

ておいて、それだけでは足らないで、あんな恥さらしな死に方をするなんて……おれは悲

しくなんぞ、ちっともないんだよ。くやしくてしようがないのだ」

「ほんとうに、君は、きょうは、どうかしている」

「君にわからないのはもっともだよ。いくらなんでも、自分の親の悪口をいうのはいやだ

ったから、おれはきょうまで、君にさえ、これっぱかりも、そのことを話さなかったのだ」

「…………」

「おれは、きのうから、なんとも言えない変てこな気持なんだ。親身のおやじが死んだの

を悲しむことができない……いくらあんなおやじでも、死んだとなれば、定めし悲しかろ

う。おれはそう思っていた。ところが、おれは今、少しも悲しくないんだよ。もしも、あ

んな不名誉な死にかたでさえなかったなら、死んでくれて助かったくらいのものだよ」

「ほんとうの息子から、そんなふうに思われるおとうさんは、しかし、不幸な人だね」

「そうだ、あれがどうすることもできないおやじの運命だったとしたら、考えてみれば、

気の毒な人だ。だが、今、おれにはそんなふうに考える余裕なんかない。ただ、いまいま

しいばかりだ」

「そんなに……」

「おやじは、じいさんが残して行った僅かばかりの財産を、酒と女に使い果たすために生

れてきたような男なんだ。みじめなのは母親だった。母が、どんなに堪えがたい辛抱をし

通してきたか、それを見て、子供のおれたちが、どんなにおやじをにくんだか……こんな

ことをいうのはおかしいが、おれの母は実際驚くべき女だ。二十何年のあいだ、あの暴虐

を堪え忍んできたかと思うと、おれは涙がこぼれる。今おれがこうして学校へ通よってい

られるのも、一家の者が路頭に迷わないで、ちゃんと先祖からの屋敷に住んでいられるの

も、みんな母親の力なんだ」

「そんなに、ひどかったのかい」

「そりゃ、君たちにはとても想像もできやしないよ。この頃では、殊にそれがひどくなっ

て、毎日毎日あさましい親子喧嘩だ。年がいもなく、だらしなく酔っぱらったおやじが、

どこからか、ひょっこり帰ってくる……おやじはもう酒の中毒で、朝から晩まで、酒なし

には生きていられないのだ……そして、母親が出迎えなかったとか、変な顔つきをしたと

か、実にくだらない理由で、すぐに手を上げるんだ。この|半《はん》|年《とし》ばか

りというもの、母親はからだに生傷が絶えないのだ。それを見ると、兄貴が癇癪もちだか

らね――歯ぎしりをして、おやじに飛びかかって行くのだ……」

「おとうさんは、いくつなんだい」

「五十だ。君はきっと、その年でといぶかしく思うだろうね。実際おやじはもう、半分く

らい気が違っていたのかもしれない。若い時分からの女と酒の毒でね……夜など、なんの

気なしにうちへ帰って、玄関の格子をあけると、その障子に、箒を振り上げて、仁王立ち

になっている兄貴の影がうつっていたりするのだ。ハッとして立ちすくんでいると、ガラ

ガラというひどい音がして、提灯の箱が、障子をつき抜けて飛んでくる。おやじが投げつ

けたんだ。こんなあさましい親子が、どこの世界にある……」

「…………」

「兄貴は、君も知っていた通り、毎日横浜へ通よって、××会社の通訳係りをやっている

んだが、気の毒だよ、縁談があっても、おやじのためにまとまらないのだ。そうかといっ

て、別居する勇気もない、みじめな母親を見捨てて行く気には、どうしてもなれないとい

うのだ。三十近い兄貴が、おやじととっ組みあったりするといったら、君にはおかしく聞

こえるかもしれないが、兄貴の心持ちになってみると、実際無理もないんだよ」

「ひどいんだねえ」

「おとといの晩だってそうだ。おやじは珍らしくどこへも出ないで、その代りに朝起きる

とから、もう酒だ。一日じゅうぐずぐず管をまいていたらしいのだが、夜十時ごろになっ

て、母親があまりのことに、少しお燗をおくらす、それからあばれ出してね。とうとう、

母親の顔へ茶碗をぶっつけたんだよ。それが、ちょうど鼻柱へ当たって、母親はしばらく

気を失ったほどだ。すると兄貴がいきなりおやじに飛びついて胸ぐらをとる、妹が泣きわ

めいて、それを止める。君、こんな景色が想像できるかい。地獄だよ、地獄だよ」

「…………」

「もしこの先、何年もああいう状態がつづくのだったら、おれたちは到底堪えきれなかっ

たかもしれない。母親なんか、そのために死んでしまったかもしれない。あるいはそうな

るまでに、おれたち兄弟の誰かがおやじを殺してしまったかもしれない。だから、ほんと

うのことをいえば、おれの一家は、今度の事件で救われたようなもんだよ」

「おとうさんがなくなったのは、きのうの朝なんだね」

「発見したのが五時ごろだったよ、妹が一ばん早く眼を覚ましたんだ。そして、気がつく

と、縁側の戸が一枚あいている。おやじの寝床がからっぽだったので、てっきりおやじが

起きて庭へ出ているのだろうと思ったそうだ」

「じゃあ、そこからおとうさんを殺した男が、はいったんだね」

「そうじゃないよ。おやじは庭でやられたんだよ。その前の晩に、母親が気絶するような

騒ぎがあったので、さすがのおやじも眠れなかったとみえて、夜中に起きて、庭へ涼みに

出たらしいのだ。次の部屋に寝ていた母親や妹は、ちっとも気がつかなかったそうだけれ

ど、そういうふうに、夜中に庭へ出て、そこにおいてある、大きな切石の上に腰かけて涼

むのがおやじのくせだったから、そうしているところを、うしろからやられたに違いない」

「突いたのかい」

「後頭部を、あまり鋭くない刃物で、なぐりつけたんだ。斧とかナタとかいう種類のもの

らしいのだ。そういう警察の鑑定なんだ」

「それじゃ兇器が、まだ見つからないのだね」

「妹が母親を起こして、二人が声をそろえて、二階に寝ていた兄貴とおれを呼んだよ。う

わずったその声の調子で、おれは、おやじの死骸を見ない先に、すっかり事件がわかった

ような気がした。妙な予感というようなものが、ずっと以前からあった。それで、とうと

うきたなと思った。兄貴と二人で、大急ぎで降りて行ってみると、一枚あいた雨戸の隙間

から、活人画のように、明かるい庭の一部が見え、そこに、おやじが非常に不自然な恰好

をしてうずくまっていた。妙なものだね、ああいうときは。おれはしばらく、お芝居を見

ているような、まるで傍観的な気持になっていたよ」

「……それで、何時ごろだろう、実際兇行の演じられたのは」

「一時ごろっていうんだよ」

「真夜中だね。で、嫌疑者というのは」

「おやじを憎んでいたものはたくさんある。だが、殺すほども憎んでいたかどうか。しい

て疑えば今あげられているうちに一人、これではないかと思うのがある。ある小料理屋で、

おやじになぐられて、大怪我をした男なんだがね。療治代を出せとかなんとかいって、た

びたびやってきたのを、おやじはその都度どなりつけて追い返したばかりか、最後には、

母親なんかの留めるのも聞かないで、警官を呼んで引き渡しさえしたんだよ。こっちは零

落はしていても、町での古顔だし、先方はみすぼらしい労働者みたいな男だから、そうな

ると、もう喧嘩にならないんだ……おれは、どうもそいつではないかと思うのだ」

「しかし、おかしいね。夜中に、多勢家族のいるところへ忍び込むなんて、可なりむつか

しい仕事だからね。ただ、なぐられたくらいの事でそれほどの危険を冒してまで、相手を

殺す気持になるものかしら。それに、殺そうと思えば、家のそとでいくらも機会がありそ

うなものじゃないか……いったい、曲者がそとから忍び込んだという、確かな証拠でもあ

ったのかい」

「表の戸締まりがあいていたのだ、かんぬきがかかっていなかったのだ。そして、そこか

ら、庭へ通じる枝折戸には錠前がないのだ」

「足跡は」

「それはだめだよ。このお天気で、地面がすっかりかわいているんだから」

「……君のところには、雇い人はいなかったようだね」

「いないよ……あ、では、君は犯人は外部からはいったのではないと……そんな、そんな

ことが、いくらなんでも、そんな恐ろしいことが。きっとあいつだよ。そのおやじになぐ

られた男だよ。労働者の命知らずなら、危険なんか考えてやしないよ」

「それはわからないね。でも……」

「ああ君、もうこんな話は止そう。なんといってみたところで、すんでしまったことだ、

今更らどうなるものじゃない。それに、もう時間だよ。ぼつぼつ教室へはいろうじゃない

か」

二、五日目

「それじゃあ、君は、おとうさんを殺した者が、君の家族のうちにあるとでもいうのかい」

「君は、このあいだ、犯人はそとからはいったのではないというような口吻を漏らしてい

たね。あの時は、そんなことを聞くのがいやだったので……というのが、いくらかおれも

それを感じていて、痛いところへさわられたような気がしたんだね……君の話を中途で止

めさせてしまったが、今おれはその同じ疑いに悩まされているのだ……こんなことはむろ

ん他人に話す事柄じゃない。できるなら、だれにもいわないでおこうと思っていた。だが、

おれはもう苦しくってたまらないのだ。せめて、君だけには相談に乗ってもらいたくなっ

た」

「で、つまり、誰を疑っているのだ」

「兄貴だよ、おれにとっては血を分けた兄弟で、死んだおやじにとっては、真実の息子で

ある兄貴を疑っているのだ」

「例の嫌疑者は白状しないのか」

「白状しないのみか、次から次へと、反証が現われてくるのだ。裁判所でも手こずってい

るというのだ。よく刑事がたずねてきては、そんな話をして帰る。それがやはり、考えよ

うによっては、その筋でも、おれのうちのものを疑っていて、様子をさぐりにくるのかも

しれないのだ」

「だが、君は少し神経過敏になり過ぎてやしないのかい」

「神経だけの問題なら、おれはこんなに悩まされやしない。事実があるんだ……このあい

だは、そんなものが事件に関係を持っていようとは思わず、ほとんど忘れていたくらいで、

君にも話さなかったが、おれはあの朝、おやじの死骸のそばで、クチャクチャに丸めた麻

のハンカチを拾ったのだよ。ずいぶんよごれていたけれど、ちょうど|印《しるし》を縫

いつけたところが、外側に出ていたので、一と目でわかった。それは兄貴とおれのほかに

は、だれも持っているはずのない品物だった。おやじは古風にハンカチを嫌って、手拭い

をたたんで懐に入れているくせだったし、母親や妹は、ハンカチは持つけれど、むろん女

持ちの小さいやつで、まるで違っていた。だから、そのハンカチを落としたのは、兄貴か

おれかどちらかに違いないのだ。ところが、おれはおやじの殺される日まで、ずっと四、

五日のあいだも、その庭へ出たことはないし、最近にハンカチをなくした覚えもない。す

ると、そのおやじの死骸のそばに落ちていたハンカチは、兄貴の持ち物だったと考えるほ

かはないのだ」

「だが、おとうさんが、どうかしてそれを持っていられたというような……」

「そんなことはない。おやじは、ほかのことではずぼらだけど、そういう持ち物なんかに

は、なかなか几帳面な男だった。これまで、一度だって、他人のハンカチを持っていたり

したのを見たことがない」

「……しかし、もしそれが兄さんのハンカチだったとしても、必らずしもおとうさんの殺

された時に落としたものとは限るまい。前日に落としたのかもしれない。もっと前から落

ちていたのかもしれない」

「ところが、その庭は、一日おきぐらいに、妹が綺麗に掃除することになっていて、ちょ

うど、事件の前日の夕方も、その掃除をしたのだ。それから、皆が寝るまで、兄貴が一度

も庭へ下りなかったこともわかっている」

「じゃあ、そのハンカチをこまかに調べてみたら、何かわかるかもしれないね。たとえば

……」

「それはだめだ。おれはそのとき誰にも見せないで、すぐ便所へほうりこんでしまった。

なんだかけがらわしいような気がしたものだから……だが、兄貴を疑う理由はそれだけじ

ゃないんだよ。まだまだいろいろな事実があるんだ。兄貴とおれとは、部屋が違うけれど、

同じ二階に寝ていたのだが、あの晩一時ごろには、どういうわけだったか、おれは寝床の

中で眼をさましていて、ちょうどそのとき、兄貴が階段を下りて行く音を聞いたのだ。そ

のときは便所へ行ったのだろうぐらいに思って別段気にとめなかったが、それから階段を

上がる足音を聞くまでにはだいぶ時間があったから、疑えば疑えないことはない。それと、

もう一つ、こんなこともあるんだ。おやじの変死が発見されたとき、兄貴もおれもまだ寝

ていたのを、母親と妹のあわただしい呼び声に、驚いて飛び起きて、大急ぎで下におりた

んだが、兄貴は、寝間着をぬいで、着物をはおったまま、帯もしめないで、それを片手に

つかんで縁側の方へ走って行った。ところがね、縁側の靴ぬぎ石の上へ、はだしでおりた

かと思うと、どういうわけだか、そこへピッタリ立ち止まってしまったんだ。考えように

よっては、おやじの死骸を見て驚きのあまり、ためらったのかとも思われるが、しかし、

それにしては、なぜ手に持っていた兵児帯を、靴ぬぎ石の上へ落としたのだ。兄貴はそれ

ほど驚いたのだろうか。これは兄の日頃の気性から考えて、どうも受けとれないことだ。

落としたばかりならいい。落としたかと思うと、大急ぎで拾い上げた。それがね、おれの

気のせいかもしれないけれど、拾い上げたのは、どうやら帯だけではなかったらしいのだ。

なんだか黒い小さな物が(それは一と目で持ち主のわかる、たとえば財布というようなも

のだったかもしれない)石の上に落ちていたのを、とっさの場合、先ず帯を落としておい

て、拾うときには帯の上から、その品物も一緒につかみとったように思われるのだ。それ

は、おれの方でも気が転倒している際だし、ほんとうに一瞬間の出来事だったから、ひょ

っとすると、おれの思い違いかもしれない。しかしハンカチのことや、ちょうどその時分

に下へおりたことや、何よりも、このごろの兄貴のそぶりを考え合わせると、もう疑わな

いわけには行かぬ。おやじが死んでからというもの、家じゅうの者が、なんだか変なんだ。

それは単に家長の死を悲しむというようなものではない。それ以上に、なんだかえたいの

しれぬ、不愉快な、薄気味のわるい、一種の空気がただよっている。食事の時なんか、四

人の者が顔を合わせても、だれも物をいわない。変にじろじろ顔を見合わせている。その

様子が、どうやら、母親にしろ、妹にしろ、おれと同じように兄貴を疑っているらしいの

だ。兄貴は兄貰で、妙に青い顔をしてだまりこんでいる。実になんとも形容のできない、

いやあないやあな感じだ。おれはもう、あんなうちの中にいるのはたまらない。学校から

帰って、一歩うちの敷居をまたぐと、ゾーッと陰気な風が身にしみる。家長を失ってただ

さえさびしいうちの中に、母親と三人の子供が、だまりこんで、てんでに何かを考えて、

顔を見合わせているばかりだ……ああ、たまらない、たまらない」

「君の話を聞いていると怖くなる。だが、そんなことはないだろう。まさか兄さんが……

君は実際鋭敏すぎるよ。とりこし苦労だよ」

「いや、決してそうじゃない。おれの気のせいばかりではない。もし理由がなければだが、

兄貴には、おやじを殺すだけの、ちゃんと理由がある。兄貴がおやじのためにどれほど苦

しめられていたか。したがって、おやじをどんなに憎んでいたか……殊にあの晩は、母親

が怪我までさせられているのだ。母親思いの兄貴が激昂のあまり、ふと飛んでもない事を

考えつかなかったとはいえない」

「…………」

「…………」

「恐ろしいことだ、だが、まだ断定はできないね」

「だからね、おれは一そうたまらないのだ。どちらかに、たとえ悪い方にでも、きまって

くれれば、まだいい。こんな、あやふやな、恐ろしい疑惑にとじこめられているのは、ほ

んとうにたまらないことだ」

「…………」

三、十日目

「おい、Sじゃないか。どこへ行くの」

「ああ……別に……」

「ばかに憔悴しているじゃないか。例のこと、まだ解決しないの?」

「ウン……」

「あんまり学校へこないものだから、きょうはこれから、君のところをたずねようと思っ

ていたのさ。どっかへ行くところかい」

「いや……そうでもない」

「じゃあ、散歩っていうわけかい。それにしても、妙にフラフラしているじゃないか」

「…………」

「ちょうどいい。そのへんまでつきあわないか。歩きながら話そう……で、君はまだ何か

煩悶しているんだね。学校へも出ないで」

「おれはもう、どうしたらいいのか、考える力も何もなくなってしまった。まるで地獄だ。

うちにいるのが恐ろしい……」

「まだ犯人がきまらないのだね。そして、やっぱり兄さんを疑っているの?」

「もう、その話はよしてくれたまえ、なんだか息が詰まるような気がする」

「だって、一人でくよくよしたってつまらないよ。話してみたまえ、僕にだってまたいい

智恵がないとも限らない」

「話せといっても、話せるような事柄じゃない。うちじゅうの者が、お互いに疑いあって

いるのだ。四人の者が一つうちにいて、口もきかないで、にらみあっているのだ。そして、

たまに口をきけば、刑事か裁判官のように相手の秘密をさぐり出そうとしているのだ。そ

れが、みんな血を分けた肉親同士なんだ。そして、そのうちのだれか一人が、人殺し……

親殺しか、夫殺しなんだ」

「それはひどい。そんなばかなことがあるものじゃない。きっと君はどうかしているんだ。

神経衰弱の妄想かもしれない」

「いいや、決して妄想じゃない、そうであってくれると助かるのだが」

「…………」

「君が信じないのも無理はない。こんな地獄が、この世にあろうとは、誰にしたって想像

もできないことだからな。おれ自身も、なんだか悪夢にうなされているような気がする。

このおれが、親殺しの嫌疑で、刑事に尾行されるなんて……シッ、うしろを向いちゃいけ

ない。すぐそこにいるんだ。この二、三日、おれがそとに出れば、きっとあとをつけてい

る」

「……どうしたというのだ。君が嫌疑を受けているのだって?」

「おればかりじゃない。兄貴でも妹でも、みんな尾行がつくのだ。うちじゅうが疑われて

いるのだ。そしてうちの中でもお互いが疑いあっているのだ」

「そいつは……だが、そんな疑いあうような新らしい事情でもできたのかい」

「確証というものは一つもない。ただ疑いなんだ。嫌疑者がみんな放免になってしまった

のだ。あとには、家内の者でも疑うほかに方法がないのだ。警察からは毎日のようにやっ

てくる。そして、うちじゅうの隅から隅まで調べまわる。このあいだも、タンスの中から

血のついた母親の浴衣が出たときなんか、警察の騒ぎようったらなかった。なあに、なん

でもないのだ。事件の前の晩に、おやじから茶碗を投げつけられた時の血が、洗ってなか

ったのだ。おれがそれを説明してやると、その場は一時おさまったが、それ以来、警察の

考えが一変してしまった。おやじがそんな乱暴者だったとすると、なおさら家内の者が疑

わしいという論法らしいのだ」

「このあいだは、君はひどく兄さんを疑っていたようだが……」

「もっと低い声でいってくれたまえ、うしろのやつに聞こえるといけない……ところが、

その兄貴は兄貴で誰かを疑っている。それがどうも、母親らしいのだ。兄貴がさもなにげ

ないふうで、母親に聞いていたことがある。おかあさんクシをなくしやしないかって。す

ると母親はびっくりしたように息を呑んで、お前どうしてそんなことを聞くのだと反問し

た。それっきりのことだ。取りようによっては、なんでもない会話だ。だが、おれにはギ

ックリときた。さては、このあいだ兄貴が帯で隠したのは、母親のクシだったのかと……

それ以来、おれは母親の一挙一動に注意するようになった。なんという浅ましいことだ

ろう。息子が母親を探偵するなんて。おれはまる二日のあいだというもの、蛇のように眼

を光らせて、隅の方から母親を監視していた。恐ろしいことだ。母親のそぶりは、どう考

えてみてもおかしいのだ。なんとなくソワソワと落ちつかないのだ。君、この気持が想像

できるか。自分の母親が自分のおやじを殺したかもしれないという疑い。それがどんなに

恐ろしいものだか……おれはよっぽど兄貴に聞いてみようかと思った。兄貴はもっとほか

のことを知っているかもしれないのだから。だが、どうにも、そんなことを聞く気にはな

れない。それに兄貴の方でも、なんだかおれの質問を恐れでもするように、近頃はおれか

ら逃げているのだ」

「なんだか耳にふたしたいような話だ。聞いている僕がそうなんだから、話している君の

方は、どんなにか不愉快だろう」

「不愉快というような感じは、もう通り越してしまった。近頃では、世の中が、何かこう、

まるで違った物に見える。ああして、往来を歩いている人たちの暢気そうな、楽天的な顔

を見ると、いつも不思議な気がする。あいつらだって、あんな平気な顔をしているけれど、

きっとおやじかおふくろを殺しているのだ。なんて考えることがある……だいぶ離れた。

尾行のやつ、人通りが少なくなったものだから、一丁もあとからやってくる」

「だが君、たしかおとうさんの殺された場所には、兄さんのハンカチが落ちていたのでは

ないか」

「そうだ。だから、まるきり兄貴に対する疑いがはれたわけではないのだ。それに、母親

にしたって、疑っていいのかどうか、はっきりはわからない。妙なことには、母親は母親

でまた、誰かを疑っているのだ。まるで、いたちごっこだ……きのうの夕方のことだ。も

うだいぶ暗くなっていた。なんの気なしに、二階から降りてくると、そこの縁側に母親が

立っているのだ。何かをソッとうかがっているという様子だ。いやに眼を光らせているの

だ。そして、おれが降りてきたのを見ると、ハッとしたように、さりげなく部屋の中へは

いってしまった。その様子がいかにも変だったので、おれは母親の立っていた場所へ行っ

て、母親の見つめていた方角を見た」

「…………」

「君、そこに何があったと思う。その方角には、若い杉の木立ちが茂っていて、葉と葉の

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