と組の数字を用いる方法だ。たとえば……」
松村は机の隅に紙片をのべて、左のようなものを書いた。
[#ここから2字下げ]
A B C D…………
1111 1112 1121 1211………
[#ここで字下げ終わり]
「つまりAの代りには一千百十一を置き、Bの代りには一千百十二を置くといったふうの
やり方だ。おれは、この暗号も、それらの例と同じように、いろは四十八字を南無阿弥陀
仏をいろいろに組み合わせて置き換えたものだろうと想像した。さて、こいつを解く方法
だが、これが英語かフランス語なら、ポーの Gold bug にあるようにeを探しさえすれば
訳はないんだが、困ったことに、こいつは日本語にちがいないんだ。念のためにちょっと
ポー式のディシファリングをやってみたが、少しも解けない。おれはここでハタと行き詰
まってしまった。六字の組み合わせ、六字の組み合わせ、おれはそればかり考えて、また
部屋を歩きまわった。おれは六字という点に、何か暗示がないかと考えた。そして六つの
数でできているものを思い出してみた。
めったやたらに六という字のつくものを並べているうちに、ふと、講談本で覚えたとこ
ろの真田幸村の旗印の六連銭を思い浮かべた。そんなものが暗号になんの関係もあるはず
はないのだが、どういうわけか『六連銭』と、口の中でつぶやいた。すると、するとだ。
インスピレーションのように、おれの記憶から飛び出したものがある。それは、六連銭を
そのまま縮小したような形をしている盲人の使う点字であった。おれは思わず『うまい』
と叫んだよ。だって、なにしろ五万円の問題だからなあ。おれは点字について詳しくは知
らなかったが、六つの点の組み合わせということだけは記憶していた。そこで、さっそく
按摩を呼んできて伝授にあずかったというわけだ。これが按摩の教えてくれた点字のいろ
はだ」
そういって松村は、机の引出しから一枚の紙片を取り出した。それには、点字の五十音、
濁音符、半濁音符、拗音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった。
「今、南無阿弥陀仏を、左からはじめて三字ずつ二行に並べれば、この点字と同じ配列に
なる。南無阿弥陀仏の一字ずつが、点字のおのおのの一点に符合するわけだ。そうすれば、
点字のアは南、イは南無と、いうぐあいに当てはめることができる。この調子で解けばい
いのだ。そこで、これは、おれがゆうべこの暗号を解いた結果だがね。いちばん上の行が
原文の南無阿弥陀仏を点字と同じ配列にしたもの、まん中の行がそれに符合する点字、そ
していちばん下の行が、それを飜訳したものだ」
こういって、松村はまたもや図に示したような紙片を取り出したのである。
<img src="ranpo01img/nisen.jpg>
「ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコ
クヤシヨーテン。つまり、五軒町の正直堂からおもちゃの紙幣を受け取れ、受取人の名は
大黒屋商店というのだ。意味はよくわかる。だが、なんのためにおもちゃの紙幣なんかを
受け取るのだろう。そこでおれはまた考えさせられた。しかし、この謎は割合い簡単に解
くことができた。そして、おれはつくづくあの紳士泥棒の、頭がよくって敏捷で、なおそ
の上に小説家のようなウイットを持っていることに感心してしまった。え、君、おもちゃ
の紙幣とはすてきじゃないか。
おれはこう想像したんだ。そして、それが幸いにもことごとく的中したわけだがね。紳
士泥棒は、万一の場合をおもんぱかって、盗んだ金の最も安全な隠し場所を、あらかじめ
用意しておいたにちがいないんだ。さて世の中にいちばん安全な隠し方は、隠さないこと
だ。衆人の目の前に曝しておいて、しかも誰もがそれに気づかないというような隠し方が
最も安全なんだ。恐るべきあいつは、この点に気づいたんだ。と想像するんだがね。で、
おもちゃの紙幣という巧妙なトリックを考え出した。おれは、この正直堂というのは、た
ぶんおもちゃの紙幣なんかを印刷する店だと想像した。――これも当っていたがね。――
そこへ、あいつは大黒屋商店という名で、あらかじめおもちゃの紙幣を注文しておいたん
だ。
近頃、本物と寸分違わないようなおもちゃの紙幣が、花柳界などで流行しているそうだ。
それは誰かから聞いたっけ。ああ、そうだ。君がいつか話したんだ。ビックリ函だとか、
本物とちっとも違わない泥で作った菓子や果物だとか、蛇のおもちゃだとか、ああしたも
のと同じように、女の子をびっくりさせて喜ぶ粋人のおもちゃだといってね。だから、あ
いつが本物と同じ大きさの紙幣を注文したところで、ちっとも疑いを受けるはずはないん
だ。そうしておいて、あいつは、本物の紙幣をうまく盗み出すと、たぶんその印刷屋へ忍
び込んで、自分の注文したおもちゃの紙幣と擦り換えておいたんだ。そうすれば、注文主
が受け取りに行くまでは、五万円という天下通用の紙幣が、おもちゃとして、安全に印刷
屋の物置に残っているわけだからね。
これは単におれの想像かもしれない。だが、ずいぶん可能性のある想像だ。おれはとに
かく当ってみようと決心した。地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることがわ
かった。そこでいよいよおもちゃの紙幣を受け取りに行くのだが、こいつがちょっとむず
かしい。というのは、このおれが受け取りに行ったという痕跡を、少しだって残してはな
らないんだ。もしそれがわかろうものなら、あの恐ろしい悪人がどんな復讐をするか、思
っただけでも、気の弱いおれはゾッとするからね。とにかく、できるだけおれでないよう
に見せなければいけない。そういうわけで、あんな変装をしたんだ。おれはあの十円で、
頭の先から足の先まで身なりを変えた。これを見たまえ、これなんかちょっといい思いつ
きだろう」
そういって、松村はそのよく揃った前歯を出して見せた。そこには、私がさきほどから
気づいていたところの、一本の金歯が光っていた。彼は得意そうに、指の先でそれをはず
して、私の目の前へつき出した。
「これは夜店で売っている、ブリキにメッキしたやつだ。ただ歯の上に冠せておくだけの
代物さ。わずか二十銭のブリキのかけらが大した役に立つからね。金歯というやつはひど
く人の注意を惹くものだ。だから、後日おれを探すやつがあるとしたら、先ずこの金歯を
目印にするだろうじゃないか。
これだけの用意ができると、おれはけさ早く五軒町へ出掛けた。ひとつ心配だったのは
おもちゃの紙幣の代金のことだった。泥棒のやつ、きっと、転売なんかされることを恐れ
て、前金で支払っておいただろうとは思ったが、若しまだだったら、少なくとも二、三十
円は入用だからね。あいにくわれわれにはそんな金の持ち合わせがない。なあに、なんと
かごまかせばいいと高をくくって出掛けた。うまいぐわいに、印刷屋は金のことなんか一
こともいわないで、品物を渡してくれたよ。かようにして、まんまと首尾よく五万円を横
取りしたわけさ。……さてそのつかいみちだ。どうだ何か考えはないかね」
松村が、これほど興奮して、これほど雄弁にしゃべったことは珍らしい。私はつくづく
五万円という金の偉力に驚嘆した。私はその都度、形容する煩を避けたが、松村がこの苦
心談をしているあいだの嬉しそうな顔というものは、まったく見ものであった。彼ははし
たなく喜ぶ顔を見せまいとして、大いに努力しておったようであるが、努めても、努めて
も、腹の底から込み上げてくる、なんともいえぬ嬉しそうな笑顔は隠すことができなかっ
た。話のあいだあいだにニヤリと洩らす、その形容のしようもない、気ちがいのような笑
いを見ていると、なんだか恐ろしくなってきた。昔千両の富くじに当たって発狂した貧乏
人があったという話もあるのだから、松村が五万円に狂喜するのは決して無理ではなかっ
た。
私はこの喜びがいつまでも続けかしと願った。松村のためにそれを願った。だが、私に
は、どうすることもできぬひとつの事実があった。止めようにも止めることのできない笑
いが爆発した。私は笑うんじゃないと自分自身を叱りつけたけれども、私の中の小さない
たずら好きの悪魔が、そんなことにはへこたれないで私をくすぐった。私は一段と高い声
で、最もおかしい笑劇を見ている人のように笑った。松村はあっけにとられて、笑いころ
げる私を見ていた。そしてちょっと変なものにぶっつかったような顔をして言った。
「君、どうしたんだ」
私はやっと笑いを噛み殺してそれに答えた。
「君の想像力は実にすばらしい。よくそれだけの大仕事をやった。おれはきっと今までの
数倍も君の頭を尊敬するようになるだろう。なるほど君のいうように、頭のよさでは敵わ
ない。だが、君は、現実というものがそれほどロマンチックだと信じているのかい」
松村は返事もしないで、一種異様の表情をもって私を見つめた。
「言いかえれば、君は、あの紳士泥棒にそれほどのウイットがあると思うのかい。君の想
像は、小説としては実に申し分がないことを認める。けれども世の中は小説よりはもっと
現実的だからね。そして、若し小説について論じるのなら、おれは少し君の注意を惹きた
い点がある。それは、この暗号文には、もっとほかの解き方はないかということだ。君の
飜訳したものを、もう一度飜訳する可能性はないかということだ。たとえばだ、この文句
を八字ずつ飛ばして読むというようなことはできないことだろうか」
私はそういって、松村の書いた暗号の飜訳文に左のような印をつけた。
|ゴ《○》ケンチヨーシヨー|ジ《○》キドーカラオモチ|ヤ《○》ノサツヲウケトレ|
ウ《○》ケトリニンノナハ|ダ《○》イコクヤシヨーテ|ン《○》
「ゴジヤウダン。君、この『御冗談』というのはなんだろう。エ、これが偶然だろうか。
誰かのいたずらだという意味ではないだろうか」〔註〕
松村は物をもいわず立ち上がった。そして五万円の札束だと信じきっているところの、
かの風呂敷包みを私の前へ持ってきた。
「だが、この事実をどうする。五万円という金は、小説の中からは生れないぞ」
彼の声には、果たし合いをするときのような真剣さがこもっていた。私は恐ろしくなっ
た。そして、私のちょっとしたいたずらの、予想外に大きな効果を、後悔しないではいら
れなかった。
「おれは、君に対して実に済まぬことをした。どうか許してくれ。君がそんなに大切にし
て持ってきたのは、やはりおもちゃの紙幣なんだ。まあそれをひらいてよく調べてみたま
え」
松村は、ちょうど闇の中で物を探るような、一種異様の手つきで――それを見て、私は
ますます気の毒になった――長いあいだかかって風呂敷包みを解いた。そこには、新聞紙
で丁寧に包んだ二つの四角な包みがあった。そのうちのひとつは新聞紙が破れて中味が現
われていた。
「おれは途中でこれをひらいて、この目で見たんだ」
松村は喉につかえたような声でいって、なおも新聞紙をすっかり取り去った。
それは、いかにも真にせまったにせ物であった。ちょっと見たのでは、すべての点が本
物であった。けれども、よく見ると、それらの紙幣の表面には、圓という字の代りに團と
いう字が、大きく印刷されてあった。十圓、二十圓ではなくて、十團、二十團であった。
松村はそれを信ぜぬように、幾度も幾度も見直していた。そうしているうちに、彼の顔か
らは、あの笑いの影がすっかり消え去ってしまった。そして、あとには深い深い沈黙が残
った。私は済まぬという気持で一杯であった。私は、私のやり過ぎたいたずらについて説
明した。けれども、松村はそれを聞こうともしなかった。その日一日、おしのようにだま
り込んでいた。
これで、このお話はおしまいである。けれども読者諸君の好奇心を充たすためには、私
のいたずらについて一こと説明しておかねばならぬ。正直堂という印刷屋は実は私の遠い
親戚であった。私は或る日、せっぱ詰まった苦しまぎれに、そのふだんは不義理を重ねて
いるところの親戚のことを思い出した。そして「いくらでも金の都合がつけば」と思って、
進まぬながら久し振りでそこを訪問した。――むろんこのことについては松村は少しも知
らなかった。――借金の方は予想通り失敗であったが、その時はからずも、あの本物と少
しも違わないような、その時は印刷中であったところのおもちゃの紙幣を見たのである。
そしてそれが大黒屋という長年の御得意先の注文品だということを聞いたのである。
私はこの発見を、われわれの毎日の|話《わ》|柄《へい》となっていた、あの紳士泥
棒の一件と結びつけて、ひと芝居打ってみようと、くだらぬいたずらを思いついたのであ
った。それは、私も松村と同様に、頭のよさについて、私の優越を示すような材料が掴み
たいと、日頃から熱望していたからでもあった。
あのぎこちない暗号文は、もちろん私の作ったものであった。しかし、私は松村のよう
に外国の暗号史に通じていたわけではない。ただちょっとした思いつきにすぎなかったの
だ。煙草屋の娘が差入屋へ嫁いでいるというようなことも、やはりでたらめであった。第
一、その煙草屋に娘があるかどうかさえ怪しかった。ただ、このお芝居で、私の最も危ぶ
んだのは、それらのドラマチックな方面ではなくて、最も現実的な、しかし全体から見て
は極めて些細な、少し滑稽味を帯びた、ひとつの点であった。それは私が見たところのあ
の紙幣が、松村が受け取りに行くまで、配達されないで、印刷屋に残っているかどうかと
いうことであった。
おもちゃの代金については、私は少しも心配しなかった。私の親戚と大黒屋とは延べ取
り引であったし、その上もっといいことは、正直堂が極めて原始的な、ルーズな商売のや
り方をしていたことで、松村は別段、大黒屋の主人の受取証を持参しないでも、失敗する
はずはなかったからである。
最後にあのトリックの出発点となった二銭銅貨については、私はここに詳しい説明を避
けねばならぬことを残念に思う。若し、私がへまなことを書いては、後日、あの品を私に
くれた或る人が、とんだ迷惑をこうむるかもしれないからである。読者は、私が偶然それ
を所持していたと思ってくださればよいのである。
[#ここから2字下げ]
〔註〕ゴジヤウダンは旧仮名遣い。全文新仮名遣いに改めたが、これは直せなかった。
[#ここで字下げ終わり]
心理試験
1
|蕗《ふき》|屋《や》|清《せい》|一《いち》|郎《ろう》が、なぜこれからしる
すような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機については詳しいことはわからぬ。また
たとえわかったとしても、このお話には大して関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいな
ことをして、ある大学に通よっていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考
えられる。彼は稀に見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つ
まらぬ内職に時を取られて、好きな読書や思索が充分できないのを残念に思っていたのは
確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく彼
は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲
望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半
年になる。そのあいだ、彼は迷いに迷い、考えに考えた挙句、結局やっつけることに決心
したのだ。
ある時、彼はふとしたことから、同級生の斎藤勇と親しくなった。それが事の起こりだ
った。はじめはむろんなんの成心があったわけではなかった。しかし中途から、彼はある
おぼろげな目的を抱いて斎藤に接近して行った。そして、接近して行くにしたがって、そ
のおぼろげな目的がだんだんはっきりしてきた。
斎藤は一年ばかり前から、山の手の或る淋しい屋敷町の素人屋に部屋を借りていた。そ
の家のあるじは、官吏の未亡人で、といっても、もう六十に近い老婆だったが、亡夫の残
して行った数軒の借家から上がる利益で、充分生活ができるにもかかわらず、子供を恵ま
れなかった彼女は、「ただもうお金がたよりだ」といって、確実な知り合いに小金を貸した
りして、少しずつ貯金をふやして行くのをこの上もない楽しみにしていた。斎藤に部屋を
貸したのも、一つは女ばかりの暮らしでは不用心だからという理由もあっただろうが、一
方では、部屋代だけでも、毎月の貯金額がふえることを勘定に入れていたに違いない。そ
して、彼女は、今どきあまり聞かぬ話だけれど、守銭奴の心理は、古今東西を通じて同じ
ものと見えて、表面的な銀行預金のほかに、莫大な現金を、自宅のある秘密な場所へ隠し
ているという噂だった。
蕗屋はこの金に誘惑を感じたのだ。あのおいぼれが、そんな大金を持っているというこ
とになんの価値がある。それをおれのような未来のある青年の学資に使用するのは、きわ
めて合理的なことではないか。簡単に言えば、これが彼の理論だった。そこで彼は、斎藤
を通じてできるだけ老婆についての知識を得ようとした。その大金の秘密な隠し場所を探
ろうとした。しかし彼は、ある時、斎藤が偶然その隠し場所を発見したという話を聞くま
では、別に確定的な考えを持っていたわけでもなかった。「君、あの婆さんにしては感心な
思いつきだよ、たいてい縁の下とか、天井裏とか、金の隠し場所なんてきまっているもの
だが、婆さんのはちょっと意外な場所なのだよ。あの奥座敷の床の間に、大きな松の植木
鉢が置いてあるだろう。あの植木鉢の底なんだよ、その隠し場所がさ。どんな泥棒だって
まさか植木鉢に金が隠してあろうとは気づくまいからね。婆さんは、まあ言ってみれば、
守銭奴の天才なんだね」
その時、斎藤はこう言って面白そうに笑った。
それ以来、蕗屋の考えは少しずつ具体的になって行った。老婆の金を自分の学資に振り
替える径路の一つ一つについて、あらゆる可能性を勘定に入れた上、最も安全な方法を考
え出そうとした。それは予想以上に困難な仕事だった。これに比べれば、どんな複雑な数
学の問題だって、なんでもなかった。彼は|先《さき》にもいったように、その考えを纏
めるだけのために半年をついやしたのだ。
難点は、言うまでもなく、いかにして刑罰をまぬがれるかということにあった。倫理上
の障礙、即ち良心の苛責というようなことは、彼にはさして問題ではなかった。彼はナポ
レオンの大掛りな殺人を罪悪とは考えないで、むしろ讃美すると同じように、才能のある
青年が、その才能を育てるために、棺桶に片足ふみ込んだおいぼれを犠牲に供するのを、
当然のことだと思った。
老婆はめったに外出しなかった。終日黙々として奥の座敷に丸くなっていた。たまに外
出することがあっても、留守中は、田舎者の女中が彼女の命を受けて正直に見張り番を勤
めた。蕗屋のあらゆる苦心にもかかわらず、老婆の用心には少しの隙もなかった。老婆と
斎藤のいない時を見はからって、この女中をだまして使いに出すか何かして、その隙に例
の金を植木鉢から盗み出したらと、蕗屋は最初そんなふうに考えてみた。しかしそれは甚
だ無分別な考えだった。たとえ少しのあいだでも、あの家にただ一人でいたことがわかっ
ては、もうそれだけで充分嫌疑をかけられるではないか。彼はこの種のさまざまな愚かな
方法を、考えては打ち消し、考えては打ち消すのに、たっぷり一カ月をついやした。それ
はたとえば、斎藤か、女中か、または普通の泥棒が盗んだと見せかけるトリックだとか、
女中一人の時に、少しも音を立てないで忍び込んで、彼女の眼にふれないように盗み出す
方法だとか、夜中、老婆の眠っているあいだに仕事をする方法だとか、その他考え得るあ
らゆる場合を彼は考えた。しかし、どれにもこれにも、発覚の可能性が多分に含まれてい
た。
どうしても老婆をやっつけるほかはない。彼はついにこの恐ろしい結論に達した。老婆
の金がどれほどあるかよく分らないけれど、いろいろの点から考えて、殺人の危険を冒し
てまで執着するほど大した金額だとは思われぬ。たかの知れた金のために、なんの罪もな
い一人の人間を殺してしまうというのは、あまりに残酷過ぎはしないか。しかし、たとえ
それが世間の標準から見ては、大した金額でなくとも、貧乏な蕗屋には充分満足できるの
だ。のみならず、彼の考えによれば、問題は金額の多少ではなくて、ただ犯罪の発覚を絶
対に不可能ならしめることだった。そのためにはどんな大きな犠牲を払っても少しも差支
えないのだ。
殺人は、一見、単なる窃盗よりは幾層倍も危険な仕事のように見える。だが、それは一
種の錯覚にすぎないのだ。なるほど、発覚することを予想してやる仕事なれば、殺人はあ
らゆる犯罪のうちで最も危険に違いない。しかし、若し犯罪の軽重よりも、発覚の難易を
目安にして考えたならば、場合によっては(たとえば蕗屋の場合の如きは)むしろ窃盗の
方があぶない仕事なのだ。これに反して、悪事の発見者をバラしてしまう方法は、残酷な
かわりに心配がない。昔からえらい悪人は、平気でズバリズバリと人殺しをやっている。
彼らがなかなかつかまらなかったのは、かえってこの大胆な殺人のお蔭なのではなかろう
か。
では、老婆をやっつけるとして、それに果たして危険がないか。この問題にぶっつかっ
てから、蕗屋は数カ月のあいだ考え通した。その長いあいだに、彼がどんなふうに考えを
育てて行ったか。それは物語が進むにしたがって、読者にわかることだから、ここには省
くが、ともかく、彼は、到底普通人の考え及ぶこともできないほど、微に入り細をうがっ
た分析並びに総合の結果、塵ひと筋の手抜かりもない、絶対に安全な方法を考え出したの
だ。
今はただ、時機のくるのを待つばかりだった。が、それは案外早くきた。ある日、斎藤
は学校関係のことで、女中は使いに出されて、二人とも夕方まで決して帰宅しないことが
確かめられた。それはちょうど蕗屋が最後の準備行為を終った日から二日目だった。その
最後の準備行為というのは(これだけは前もって説明しておく必要がある)、かつて斎藤に
例の隠し場所を聞いてから、もう半年も経過した今日、それがまだ当時のままであるかど
うかを確かめるための或る行為だった。彼はその日(即ち老婆殺しの二日前)斎藤を訪ね
たついでに、はじめて老婆の部屋である奥座敷にはいって、彼女といろいろ世間話を取り
かわした。彼はその世間話を徐々にひとつの方向へ落として行った。そして、しばしば老
婆の財産のこと、それを彼女がどこかへ隠しているという噂のあることなぞを口にした。
彼は「隠す」という言葉の出るごとに、それとなく老婆の眼を注意した。すると、彼女の
眼は、彼の予期した通り、その都度、床の間の植木鉢にそっと注がれているのだ。蕗屋は
それを数回繰り返して、もはや少しも疑う余地のないことを確かめることができた。
2
さて、いよいよ当日である。彼は大学の制服正帽の上に学生マントを着用し、ありふれ
た手袋をはめて目的の場所に向かった。彼は考えに考えた上、結局変装しないことにきめ
たのだ。もし変装をするとすれば、材料の買入れ、着換えの場所、その他さまざまの点で、
犯罪発覚の手掛りを残すことになる。それはただ物事を複雑にするばかりで、少しも効果
がないのだ。犯罪の方法は、発覚のおそれのない範囲においては、できる限り単純に、且
つあからさまにすべきだと言うのが、彼の一種の哲学だった。要は、目的の家にはいると
ころを見られさえしなければいいのだ。たとえその家の前を通ったことがわかっても、そ
れは少しもさしつかえない。彼はよくその辺を散歩することがあるのだから、当日も散歩
をしたばかりだと言い抜けることができる。と同時に、一方において、彼が目的の家に行
く途中で知合いの人に見られた場合(これはどうしても勘定に入れておかねばならぬ)、妙
な変装をしている方がいいか、ふだんの通り制服正帽でいる方がいいか、考えてみるまで
もないことだ。犯罪の時間についても、待ちさえすれば都合のよい夜が――斎藤も女中も
不在の夜が――あることはわかっているのに、なぜ彼は危険な昼間を選んだか。これも服
装の場合と同じく、犯罪から不必要な秘密性を除くためだった。
しかし、目的の家の前に立った時だけは、さすがの彼も、普通の泥棒の通りに、いやお
そらく彼ら以上に、ビクビクして前後左右を見廻した。老婆の家は、両隣とは生垣で境し
た一軒建ちで、向こう側には、ある富豪の邸宅の高いコンクリート塀が、ずっと一丁もつ
づいていた。淋しい屋敷町だから、昼間でも時々はまるで人通りのないことがある。蕗屋
がそこへたどりついた時も、いいあんばいに、通りには犬の子一匹見当らなかった。彼は、
普通にひらけば、ばかにひどい金属性の音のする格子戸を、ソロリソロリと少しも音を立
てないように開閉した。そして、玄関の土間から、ごく低い声で(これは隣家への用心だ)
案内を乞うた。老婆が出てくると、彼は、斎藤のことについて少し内密に話したいことが
あるという口実で、奥の間に通った。
座が定まると間もなく「あいにく女中がおりませんので」と断わりながら、老婆はお茶
を汲みに立った。蕗屋はそれを、今か今かと待ち構えていたのだ。彼は老婆が襖をあける
ために少し身をかがめた時、やにわにうしろから抱きついて、両腕を使って(手袋ははめ
ていたけれど、なるべく指の痕をつけまいとしてだ)力まかせに首を絞めた。老婆は喉の
ところでグッというような音を出したばかりで、大してもがきもしなかった。ただ苦しま
ぎれに空をつかんだ指先が、そこに立ててあった屏風に触れて、少しばかり傷をこしらえ
た。それは二枚折りの時代のついた金屏風で、極彩色の六歌仙が描かれていたが、そのち
ょうど小野の小町の顔のところが、無残にも、ちょっとばかり破れたのだ。
老婆の息が絶えたのを見定めると、彼は死骸をそこへ横にして、ちょっと気になる様子
で、その屏風の破れを眺めた。しかしよく考えてみれば、少しも心配することはない。こ
んなものがなんの証拠になるはずもないのだ。そこで、彼は目的の床の間へ行って、例の
松の木の根元を持って、土もろともスッポリと植木鉢から引き抜いた。予期した通り、そ
の底には油紙で包んだものが入れてあった。彼は落ちつきはらって、その包みを解いて、
右のポケットから一つの新らしい大型の|札《さつ》|入《い》れを取り出し、紙幣を半
分ばかり(充分五千円〔註、今の二百万円ぐらい〕はあった)その中に入れると、財布を
元のポケットに納め、残った紙幣は油紙に包んで前の通りに植木鉢の底へ隠した。むろん、
これは金を盗んだという証跡をくらますためだ。老婆の貯金の高は、老婆自身が知ってい
たばかりだから、それが半分になったとて誰も疑うはずはないのだ。
それから、彼はそこにあった座蒲団を丸めて老婆の胸にあてがい(これは血潮の飛ばぬ
用心だ)、右のポケットから一梃のジャックナイフを取り出して刃をひらくと、心臓めがけ
てグサッと突き刺し、グイと一つえぐっておいて引き抜いた。そして、同じ座蒲団の布で
ナイフの血のりを綺麗に拭き取り、元のポケットへ納めた。彼は、絞め殺しただけでは、
蘇生のおそれがあると思ったのだ。つまり昔のとどめを刺すというやつだ。では、なぜ最
初から刃物を利用しなかったかというと、そうしては、ひょっとして自分の着物に血潮が
かかるかもしれないことをおそれたのだ。
ここでちょっと、彼が紙幣を入れた札入れと、今のジャックナイフについて説明してお
かなければならない。彼は、それらを、この目的だけに使うために、ある縁日の露店で買
い求めたのだ。彼はその縁日の最も賑わう時分を見計らって、最も客のこんでいる店を選
び、正札通りの小銭を投げ出して、品物を取ると、商人はもちろん、たくさんの客たちも、
彼の顔を記憶する暇がなかったほど、非常に素早く姿をくらました。そして、この品物は
両方とも、ごくありふれた、なんの目印もあり得ないようなものだった。
さて、蕗屋は、充分注意して少しも手掛りが残っていないのを確かめた後、襖のしまり
も忘れないで、ゆっくりと玄関へ出てきた。彼はそこで靴の紐を締めながら、足跡のこと
を考えてみた。だが、その点はさらに心配がなかった。玄関の土間は堅いシックイだし、
表の通りは天気つづきでカラカラに乾いていた。あとにはもう、格子戸をあけてそとへ出
ることが残っているばかりだ。だが、ここでしくじるようなことがあっては、すべての苦
心が水の泡だ。彼はじっと耳を澄まして、辛抱強く表通りの足音を聞こうとした……しん
としてなんの気はいもない。どこかの家で琴を|弾《だん》じる音がコロリンシャンと至
極のどかに聞こえているばかりだ。彼は思い切って、静かに格子戸をあけた。そして、な
にげなく、今いとまをつげたお客様だというような顔をして、往来に出た。思った通り、
そこには人影もなかった。
その一劃は、どの通りも淋しい屋敷町だった。老婆の家から四、五丁隔たったところに、
何かの神社の古い石垣が往来に面してずっと続いていた。蕗屋は、誰も見ていないのを確
かめた上、そこの石垣の隙間から、兇器のジャックナイフと血のついた手袋とを落とし込
んだ。そして、いつも散歩の時には立ち寄ることにしていた、付近の小さい公園を目ざし
てブラブラと歩いて行った。彼は公園のベンチに腰をかけ、子供たちがブランコに乗って
遊んでいるのを、いかにものどかな顔をして眺めながら、長い時間をすごした。
帰りがけに、彼は警察署へ立ち寄った。そして、
「今しがた、この札入れを拾ったのです。百円札がいっぱいはいっているようですから、
お届けします」
と言いながら、例の札入れをさし出した。彼は警官の質問に答えて、拾った場所と時間
と(もちろんそれは可能性のあるでたらめなのだ)、自分の住所姓名と(これはほんとうの)
を答えた。そして、印刷した紙に彼の姓名や金額などを書き入れた受取証みたいなものを
貰った。なるほど、これは非常に迂遠な方法には違いない。しかし安全という点では最上
だ。老婆の金は(半分になったことは誰も知らない)ちゃんと元の場所にあるのだから、
この札入れの遺失主は絶対に出るはずがない。一年の後には間違いなく蕗屋の手に落ちる
のだ。そして、誰憚らず大っぴらに使えるのだ。彼は考え抜いた挙句この手段を採った。
もしこれをどこかへ隠しておくとする。どうした偶然から他人に横取りされないものでも
ない。自分で持っているか。それはもう考えるまでもなく危険なことだ。のみならず、こ
の方法によれば万一老婆が紙幣の番号を控えていたとしても、少しも心配がないのだ(も
っともこの点はできるだけ探って、だいたい安心はしていたけれど)。
「まさか、自分の盗んだ品物を警察へ届けるやつがあろうとは、ほんとうにお釈迦さまで
もご存じあるまいて」
彼は笑いをかみ殺しながら、心の中でつぶやいた。
翌日、蕗屋は、下宿の一室で、常と変らぬ安眠から眼覚めると、あくびをしながら、枕
元に配達されていた新聞をひろげて、社会面を見渡した。彼はそこに意外な事実を発見し
てちょっと驚いた。だが、それは決して心配するような事柄ではなく、かえって彼のため
には予期しない仕合わせだった。というのは、友人の斎藤が嫌疑者として挙げられたのだ。
嫌疑を受けた理由は、彼が身分不相応の大金を所持していたからだと書いてある。
「おれは斎藤の最も親しい友だちなのだから、ここで警察へ出頭して、いろいろ問い糺す
のが自然だな」
蕗屋はさっそく着物を着更えると、あわてて警察署へ出掛けた。それは彼がきのう札入