すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.11
あいだから、稲荷を祀った小さな|祠《ほこら》がすいて見えるのだが、その祠のうしろ
に、なんだかチラチラと赤いものが見えたり隠れたりしているのだ。よく見ると、それは
妹の帯なんだ。何をしているのか、こちらからは、帯の|端《はし》しか見えないから、
少しもわからないけど、そんな祠のうしろなんかに、用事のあろうはずはない。おれはも
うちょっとで、声を出して、妹の名前を呼ぶところだった。が、ふと思い出したのは、さ
っきの母親の妙なそぶりだ。それと、おれが祠の方を見ているあいだじゅう、背中に感じ
た母親の凝視だ。これはただごとでないと思った。もしかしたら、すべての秘密があの祠
のうしろに隠されているのではないか。そして、その秘密を妹が握っているのではないか、
直覚的にそんなことを感じた」
「…………」
「おれは、自分でその祠のうしろをさぐってみようと思った。そして、きのうの夕方から
今しがたまで一所懸命にそのおりを待っていた。だが、どうしても機会がないのだ。第一、
母親の眼が油断なくおれのあとを追っている。ちょっと便所へはいっても、用をすませて
出てくると、ちゃんと母親が縁側へ出て、それとなく監視している。これはおれの邪推か
もしれない。できるならそう思いたい。だが、あれが偶然だろうか。きのうからけさにか
けて、おれの行くところには必ず母親の眼が光っているのだ。それから、不思議なのは妹
のそぶりだ……
君も知っている通り、おれはよく学校を怠ける。だから、近頃ずっと休んでいるのを、
誰も別に怪しまない。ところが、妹のやつ、兄さんはなぜ学校へ出ないのだと聞くのだ。
今まで一度だってそんなことを聞いたことはないのに、事件があってから、二度も同じこ
とを聞くのだ。そして、その時の眼つきが実に妙なんだ、まるで泥棒同士が合点々々をす
るような調子で、何もかも呑み込んでいるから安心しろという、どう考えても、そうとし
かとれないような合図をするのだ。妹はてっきりこのおれを疑っているのだ。その妹の眼
も光っている。やっとのことで、母親と妹の眼をのがれて庭へ出てみると、あいにく、二
階の窓から兄貴がのぞいている。そんなふうで、どうしても機会がないのだ……
それに、たとえ機会が与えられたとしても、祠のうしろを見ることは、非常な勇気のい
る仕事だ。いざとなったら、おれにはこわくてできないかもしれぬ。誰が犯人だかきまら
ないのも、むろんたまらないことだ。といって、肉親のうちのだれかに違いない犯人を、
確かめるというのは、これも恐ろしい。ああ、おれはいったいどうしたらいいのだ」
「…………」
「つまらないことをいっている間に、妙なところへ来てしまったね。ここはいったいなん
という町だろう。ボツボツあと戻りをしようじゃないか」
「…………」
四、十一日目
「おれはとうとう見た。例の|祠《ほこら》のうしろを見た……」
「何があった?」
「恐ろしいものが隠してあった。ゆうべ、みんなの寝しずまるのを待って、おれは思い切
って庭へ出た。下の縁側からは、母親と妹がすぐそばで寝ているので、とても出られない。
そうかといって表口から廻るにも、彼らの枕もとを通らなければならぬ。そこで、おれは
二階の自分の部屋が、ちょうど庭に面しているのを幸い、そこの窓から屋根を伝って地面
へ降りた。月の光が昼のようにその辺を照らしていた。おれが屋根を伝う怪しげな影が、
クッキリと地面にうつるのだ。なんだか自分が恐ろしい犯罪者になったような気がした。
おやじを殺したのも実はこのおれだったのではないか。ふっとそんなことを考えた。おれ
は夢遊病の話を思い出した。いつかの晩も、やっぱりこんなふうにして、屋根を伝って、
おやじを殺しに行ったのではないか……おれはゾーッと身ぶるいがした。だが、よく考え
てみれば、そんなばかばかしいことがあろう道理はないのだ。あの晩、おやじの殺された
刻限には、おれはちゃんと自分の部屋で眼をさましていたはずだ。
おれは足音に注意して、例の祠のうしろへ行った。月の光でよく見ると、祠のうしろの
地面に掘り返したあとがあった。さてはこれだなと思って、手で土をかき分けてみた。一
寸二寸と掘って行った。すると存外浅いところに手ごたえがあった。取り出してみると、
それは見覚えのある、自分のうちの斧だった。赤くさびた刃先のところに、月の光でも見
分けられるほど、こってりと黒い血のかたまりがねばりついていた……」
「斧が?」
「うん、斧が」
「それを、君の妹さんが、そこへ隠しておいたというのか」
「そうとしか考えられない」
「でも、まさか妹さんが下手人だとは思えないね」
「それはわからない。誰だって疑えば疑えるのだ。母親でも、兄でも、妹でも、またおれ
自身でも、みんながおやじには恨みを抱いていたのだ。そして、おそらくみんながおやじ
の死を願っていたのだ」
「君のいい方はあんまりひどい。君や兄さんはともかく、お母さんまでが、長年つれ添っ
た|夫《おっと》の死を願っているなんて、どんなにひどい人だったか知らないが、肉親
の情というものはそうしたものじゃないと思う。君にしたって、おとうさんがなくなった
今では、やっぱり悲しいはずだ……」
「それが、おれの場合は例外なんだ。ちっとも悲しくないんだ。母にしろ、兄にしろ、妹
にしろ、だれ一人悲しんでやしないんだ。非常に恥かしいことだが、実際だ。悲しむより
も恐れているのだ。自分たちの肉親から.夫殺しなり親殺しなりの、重罪人を出さねばなら
ぬことを恐れているのだ。ほかのことを考える余裕なんかないのだ」
「その点は、ほんとうに同情するけれど……」
「だが、兇器は見つかったが、下手人がだれであるかは少しもわからない。やっぱりまっ
暗だ。おれは斧を元の通り土に埋めておいて、屋根伝いに自分の部屋へ帰った。それから
一と晩じゅう、まんじりともしなかった。さまざまな幻がモヤモヤと目先に現われるのだ。
おふくろが般若のような恐ろしい形相をして、両手で斧をふり上げているところや、兄貴
が額に石狩川のような癇癪筋を立てて、なんともしれぬおめき声を上げながら、兇器をふ
りおろしているところや、妹が何かを後手に隠しながら、ソロリソロリとおやじの背後へ
迫まって行く光景や」
「じゃあ君はゆうべ寝なかったのだね。道理で恐ろしく興奮していると思った。君は平常
から少し神経過敏の方だ。それがそう興奮しちゃあからだにさわるね。ちっと落ちついた
らどうだ。君の話を聞いていると、あんまりなまなましいので、気持がわるくなる」
「おれは平気な顔をしている方がいいのかもしれない。妹が兇器を土に埋めたように、こ
の発見を、心の底へ埋めてしまった方がいいのかもしれない。だが、どうしてもそんな気
になれないのだ。むろん世間に対しては絶対に秘密にしておかねばならぬけれど、少なく
ともおれだけは、事の真相を知りたいのだ。知らねばどうしても安心ができないのだ。毎
日々々家じゅうの者が、お互いがお互いをさぐりあっているような生活はたまらないのだ」
「今更ら言ってもむだだけれど、君はいったい、そんな恐ろしい事柄を、他人のおれに打
ち明けてもいいのかい。最初はおれの方から聞き出したのだが、このごろでは、君の話を
聞いていると恐ろしくなる」
「君は構わない。君がおれを裏切ろうとは思わない。それに、だれかに打ち明けでもしな
いと、おれはとてもたまらないのだ。不愉快かもしれないけれど、相談相手になってくれ」
「そうか、それならいいけれど。で、君はこれから、どうしようというのだい」
「わからない。何もかもわからない。妹自身が下手人かもしれない。それとも、母親か、
兄貴か、どっちかをかばうために兇器を隠したのかもしれない。それから、わからないの
は妹がおれを疑っているようなそぶりだ。どういうわけで、やつはおれを疑うのだろう。
あいつの目つきを思い出すと、おれはゾーッとする。若いだけに敏感な妹は、何かの空気
を感じているのかもしれない」
「…………」
「どうも、そうらしい。だが、それがなんだか少しもわからないのだ。おれの心の奥の奥
で、ブツブツ、ブツブツ、つぶやいているやつがある。その声を聞くと不安でたまらない。
おれ自身にはわからないけれど、妹だけには何かがわかっているのかもしれない」
「いよいよ君は変だ。謎みたいなことをいっている。さっき君もいった通り、おとうさん
の殺されなすった時刻に、君自身がチャンと眼をさましていたとすれば、そして、君の部
屋に寝ていたとすれば、君が疑われる理由は少しだってないはずではないか」
「理窟ではそういうことになるね。だが、どうしたわけか、おれは、兄や妹を疑う一方で
は、自分自身までが、妙に不安になり出した。全然父の死に関係がないとは言いきれない
ような気がする。そんな気がどっかでする」
五、約一カ月後
「どうした。何度見舞いに行っても、あわないというものだから、ずいぶん心配した。気
でも変になったのじゃないかと思ってね。ハハハハハ。だが、痩せたもんだな。君のうち
の人も妙で、くわしいことを教えてくれなかったが、いったいどこがわるかったのだい」
「フフフフフ、まるで幽霊みたいだろう。きょうも鏡を見ていて恐ろしくなったよ。精神
的の苦痛というものが、こうも人間をいたいたしくするものかと思ってね、おれはもう長
くないよ。こうして君のうちへ歩いてくるのがやっとだ。妙にからだに力がなくて、まる
で雲にでも乗っているような気持だ」
「そして病名は?」
「なんだかしらない。医者はいい加減のことをいっている。神経衰弱のひどいのだって。
妙なせきが出るのだよ。ひょっとしたら肺病かもしれない。いやひょっとしたらじゃない、
九分九厘そうだと思っている」
「お株をはじめた。君のように神経をやんではたまらないね。きっとまた例のおとうさん
の問題で考え過ぎたんだろう。あんなこと、もういい加減に忘れてしまったらどうだ」
「いや、あれはもういい。すっかり解決した。それについて、実は君のところへ報告にき
たわけなんだが……」
「ああ、そうか。それはよかった。うっかり新聞も注意していなかったが、つまり犯人が
わかったのだね」
「そうだよ。ところが、その犯人というのが、驚いちゃいけない、このおれだったのだよ」
「えっ、君がおとうさんを殺したのだって……君、もうその話は止そう。それよりも、ど
うだい、その辺をブラブラ散歩でもしようじゃないか。そして、もっと陽気な話をしよう
じゃないか」
「いや、いや、君、まあ坐ってくれたまえ。とにかく筋道だけ話してしまおう。おれはそ
のためにわざわざ出かけてきたんだから。君はなんだかおれの精神状態を危ぶんでいる様
子だが、その点は心配しなくてもいい。決して気が変になったわけでも、なんでもない」
「だって、君自身が親殺しの犯人だなんて、あんまりばかばかしいことをいうからさ。そ
んなことは、いろいろな事情を考え合わせて、全然不可能じゃないか」
「不可能? 君はそう思うかい」
「そうだろう、おとうさんの死なれた時間には、君は自分の部屋の蒲団の中で眼をさまし
ていたというじゃないか。一人の人間が、同時に二カ所にいるということは、どうしたっ
て不可能じゃないか」
「それは不可能だね」
「じゃあ、それでいいだろう。君が犯人であるはずはない」
「だが、部屋の中の蒲団の上に寝ていたって、戸外の人が殺せないとはきまらない。これ
は、ちょっとだれでも気づかないことだ。おれも最近まで、まるでそんなことは考えてい
なかった。ところが、つい二、三日前の晩のことだ。ふっとそこへ気がついた。というの
は、やっぱりおやじの殺された時刻の一時ごろだったがね、二階の窓のそとで、いやに猫
が騒ぐのだ。二匹の猫が長いあいだ、まるで天地のひっくり返るようなひどい騒ぎをやっ
ているんだ。あんまりやかましいので、窓をあけて追っ払うつもりで、起き上がったのだ
が、そのとたんハッと気づいた。人間の心理作用なんて、実に妙なものだね。非常に重大
なことを、すっかり忘れて平気でいる。それがどうかした偶然の機会に、ふっとよみがえ
ってくる。墓場の中から幽霊が現われるように、恐ろしく大きな物すごい形になってうか
び上がってくる。考えてみると、人間が|日《にち》|々《にち》の生活をいとなんで行
くということは、なんとまあ危っかしい軽業だろう。ちょっと足をふみはずしたら、もう
命がけの大怪我だ。よく世の中の人たちはあんなのんきそうな顔をして、生きていられた
ものだね」
「それで、結局、どうしたというのだ」
「まあ聞きたまえ。その時おれは、おやじの殺された晩、一時ごろに、なぜおれが眼をさ
ましていたかという理由を思い出したのだ。今度の事件で、これが最も重大な点だ。いっ
たいおれは、一度寝ついたら朝まで眼をさまさないたちだ。それが夜中の一時ごろ、ハッ
キリ眼をさましていたというは、何か理由がなくてはならない。おれは、その時まで、少
しもそこへ気がつかなかったが、猫の鳴き声で、すっかり思い出した。あの晩にもやっぱ
り、同じように猫が鳴いていたのだ。それで眼をさまされたのだった」
「猫に何か関係でもあったのかい」
「まあ、あったんだ。ところで、君はフロイトのアンコンシャスというものを知っている
かしら。簡単に説明するとね、われわれの心に絶えず起こってくる慾望というものは、そ
の大部分は遂行されないでほうむられてしまう。あるものは不可能な妄想であったり、あ
るものは、可能ではあっても社会上禁ぜられた慾望であったりしてね。これらの数知れぬ
慾望はどうなるかというと、われわれみずから無意識界へ幽囚してしまうのだ。つまり、
忘れてしまうのだが。忘れるということは、その慾望を全然無くしてしまうのではなくて、
われわれの心の奥底へとじ込めて、出られなくしたというにすぎない。だから、僕たちの
心の底の暗闇には、浮かばれぬ慾望の亡霊が、ウヨウヨしているわけだ。そして少しでも
隙があれば飛び出そう、飛び出そうと待ち構えている。われわれが寝ている隙をうかがっ
ては、夢の中へいろいろな変装をしてのさばり出す。それが嵩じては、ヒステリーになり、
気ちがいにもなる。うまく行って昇華作用を経れば、芸術ともなり、事業ともなる。精神
分析学の書物を一冊でも読めば、幽囚された慾望というものが、どんなに恐ろしい力を持
っているかに一驚を喫するだろう。おれは、以前そんなことに興味を持って少しばかり読
んだことがある。その一派の学説に『物忘れ説』というものがあるのだ。わかりきったこ
とをふと忘れて、どうしても思い出せない、俗に胴忘れということがあるね。あれが決し
て偶然でないというのだ。忘れるという以上は、必ずそこに理由がある。何か思い出して
は都合の悪いわけがあって、知らず知らずその記憶を無意識界へ幽囚しているのだという。
いろいろ実例もあるが、たとえばこんな話がある。
かつて或る人が、スイッツルの神経学者ヘラグースという名を忘れて、どうしても思い
出せなかったが、数時間の後に偶然心にうかんできた。日頃熟知している名前を、どうし
て忘れたのかと不思議に思って連想の順序をたどってみたところ、ヘラグース――ヘラバ
ット.バット(浴場)――沐浴――鉱泉――というふうにうかんできた。そしてやっと謎
が解けた。その人は以前スイッツルで鉱泉浴をしなければならないような病気にかかった
ことがある。その不愉快な連想が記憶を妨げていたのだとわかった。
また精神分析学者ジョオンズの実験談にこういうのがある。その人は煙草ずきだったが、
こんなに煙草をのんではいけないと思うと、その瞬間パイプの行方がわからなくなる。い
くらさがしても見つからない。そして忘れた時分にヒョイと意外な場所から出てきた。そ
れは無意識がパイプを隠したのだ……なんだかお談義みたいになったが、この忘却の心理
学が、今度の事件を解決するカギなんだ。
おれ自身も、実はとんだことを胴忘れしていたんだ。おやじを殺した下手人が、このお
れであったということをね……」
「どうも、学問のあるやつの妄想にはこまるね。世にもばかばかしい事柄を、さも仔細ら
しく、やかましい学説入りで説明するんだからな。そんな君、人殺しを胴忘れするなんて、
間抜けた話がどこの世界にあるものか。ハハハハハ、しっかりしろ。君は実際、少しどう
かしているぜ」
「まあ待て、話をしまいまで聞いてからなんとでもいうがいい。おれは決して君のところ
へ冗談を言いにきたのではない。ところで、猫の鳴き声を聞いておれが思い出したという
のは、あの晩に、同じように猫が騒いだとき、猫の一匹が屋根のすぐ向こうにある松の木
に飛びつかなかったか、きっと飛びついたに違いない。そういえば、なんだかバサッとい
う音を聞いたようにも思う、ということだった……」
「いよいよ変だなあ。猫が松の木に飛びついたのが、殺人の本筋とどんな関係があるんだ
い。どうも僕は心配だよ。君の正気がさ……」
「松の木というのは、君も知っているだろう。おれの家の目印になるような、あのばかに
背の高い大樹なんだ。そして、その根元のところにおやじの腰かけていた、切石がおいて
あるのだ……こういえば、たいがい君にも話の筋がわかっただろう……つまり、その松の
木に猫が飛びついた拍子に、偶然枝の上にのっかっていた或るものにふれて、それがおや
じの頭の上へ落ちたのではないかということだ」
「じゃあ、そこに斧がのっかっていたとでもいうのか」
「そうだ。正にのっかっていたのだ。非常な偶然だ。が、あり得ないことではない」
「だって、それじゃ偶然の変事というだけで、別に君の罪でもないではないか」
「ところが、その斧をのせておいたのがこのおれなんだ。そいつを、つい二、三日前まで、
すっかり忘れてしまっていたのだ。その点がいわゆる忘却の心理なんだよ。考えてみると、
斧をのせた、というよりも、木の股へおき忘れたのは、もう半年も前のことだ。それ以来、
一度も思い出したことがない。その後斧の入用が起こらないので、自然思い出す機会もな
かったわけだけれど、それにしても、何かの拍子に思い出しそうなものだ。また思い出し
てもいいほどの或る深い印象が残っているはずだ。それをすっかり忘れていたというのは、
何か理由がなければならない。
ことしの春、松の枯れ枝を切るために斧やのこぎりを持って、その上へ登った。枝にま
たがったあぶない仕事なので、不用な時には、斧を木の股へおいては仕事をした。その木
の股というのが、ちょうど例の切石のま上に当たるのだ。高さは二階の屋根よりも少し上
のところだ。おれは仕事をしながら考えた。もしここから斧が落ちれば、どうなるだろう。
きっとあの石にぶつかるに違いない。石の上に人が腰かけていれば、その人を殺すかもし
れない。そこで、中学校の物理で習った『落体の仕事』の公式を思い出した。この距離で
加速度がつけば、むろん人間の頭蓋骨を砕くくらいの力は出るだろう。
そして、その石に腰をかけて休むのがおやじの癖なのだ。おれは思わず知らず、おやじ
を殺害することを考えていたんだ。ただ心の中で思ったばかりだけれど、おれは思わずハ
ッと青くなったね。どんな悪い人間にしろ、仮りにも親を殺そうと考えるなんて、なんと
いう人外だ!早くそんな不吉な妄想を振い落としてしまおうと思った。そこでこの極悪
非道の慾望が、意識下に幽囚されてしまったわけだ。そして、その斧はおれの悪念をうけ
ついで、チャンと元の木の股に時期のくるのをまっていた。この斧を忘れてきたというこ
とが、フロイトの学説に従えば、いうまでもなく、おれの無意識の命じたわざなんだ。無
意識といっても普通の偶然の錯誤を意味するものではなくて、チャンとおれ自身の意志か
ら発しているのだ。あすこへ斧をおき忘れておけば、どうかした機会に落ちることがある
だろう。そして、もしその時、おやじが下の石に腰かけていたら、彼を殺すことができる
だろう。そういう複雑な計画が、|暗《あん》|々《あん》のうちに含まれていた。しか
もその悪企みを、おれ自身さえ知らずにいたのだ。つまり、おれはおやじを殺す装置を用
意しておきながら、故意にそれを忘れて、さも善人らしく見せかけていた。くわしくいえ
ば、おれと無意識界の悪人が、意識界の善人をたばかっていたのだ」
「どうもむずかしくってよくわからないが、なんだか故意に悪人になりたがっているよう
な気がするな」
「いや、そうじゃない。もし君がフロイトの説を知っていたら決してそんなことは言わな
いだろう。第一斧のことを|半《はん》|年《とし》のあいだも、どうして忘れきってい
たか。現に血のついた同じ斧を目撃さえしているじゃないか。これは普通の人間としてあ
り得ないことだ。第二に、なぜそんな場所へ、しかも危ないことを知りながら、斧を忘れ
たか。第三に、なぜ、ことさらにその危ない場所をえらんで斧をおいたか。三つの不自然
なことがそろっている。これでも悪意がなかったといえるだろうか。ただ忘却していたと
いうだけで、その悪意が帳消しになるだろうか」
「それで、君はこれからどうしようというのだ」
「むろん自首して出るつもりだ」
「それもよかろう。だが、どんな裁判官だって、君を有罪にするはずはあるまい。その点
はまあ安心だけれど。で、このあいだから君のいっていた、いろいろな証拠物件はどうな
ったのだい。ハンカチだとか、お母さんのクシだとか」
「ハンカチはおれ自身のものだった。松の枝を切る時に、斧の柄にまきつけたのを、その
ままおき忘れた。それがあの晩、斧と一緒に落ちたのだ。クシは、はっきりしたことはわ
からないけれど、多分母親が最初おやじの死体を見つけた時に落としたのだろう。それを
兄貴がかばいだてに隠してやったものに違いない」
「それから妹さんが斧を隠したのは」
「妹が最初の発見者だったから、充分隠すひまがあったのだ。一と目で自分のうちの斧だ
とわかったので、きっと家内の誰かが下手人だと思い込み、ともかく、第一の証拠物件を
隠す気になったのだろう。ちょっと気転の利く娘だからね。それから、刑事の家宅捜査な
どがはじまったので、並の隠し場所では安心ができなくなり、例の|祠《ほこら》の裏を
選んで隠しかえたものに違いない」
「家内じゅうの者を疑った末、結局、犯人は自分だということがわかったわけだ。盗人を
とらえて見ればなんとかだね。なんだか喜劇じみているじゃないか。こんな際だけれど、
僕は妙に同情というような気持が起こらないよ。つまり、君が罪人だということがまだよ
く呑み込めないんだね」
「そのばかばかしい胴忘れだ。それが恐ろしいのだ。ほんとうに喜劇だ。だが、喜劇と見
えるほど間が抜けているところが、単純な物忘れなどでない証拠なんだ」
「いってみれば、そんなものかもしれない。しかし、おれは、君の告白を悲しむというよ
りも、数日の疑雲がはれたことを祝いたいような気がしているよ」
「その点は、おれもせいせいした。皆が疑い合ったのは、実はかばい合っていたので、誰
もあんなおやじさえ殺すほどの悪人はいなかったのだ。そろいもそろって無類の善人ばか
りだった。その中で、たった一人の悪人は、皆を疑っていたこのおれだ。その疑惑の心の
強い点だけでも、おれは正に悪党だった」
一枚の切符
上
「いや、僕も多少は知っているさ。あれは先ず、近来の椿事だったからな。世間はあの噂
で持ち切っているが、多分君ほど詳しくはないんだ。話してくれないか」
一人の青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れを口へ持って行った。
「じゃあ、一つ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代りだ」
身なりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、
次のように語り出した。
「時は大正××年十月十日午前四時、所は××町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、
これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い暁の静寂を破って、上り第×号列車が驀進してきたと
思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常
制動機の力で、列車は出し抜けに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、一人の婦
人が轢き殺されてしまったんだ。僕は、その現場を見たんだがね。
それが問題の博士夫人だったのさ。車掌の急報でその筋の連中がやってくる。野次馬が
集まる。そのうちに誰かが博士に知らせる。驚いた主人の博士や召使いたちが飛び出して
くる。ちょうどその騒ぎの最中へ、君も知っているように、当時××町へ遊びに出掛けて
いた僕が、僕の習慣であるところの、早朝の散歩の|途《みち》で、通り合わせたという
わけさ。で、検死がはじまる。警察医らしい男が傷口を検査する。一と通りすむと、すぐ
に死体は博士邸へ担ぎ込まれてしまう。傍観者の眼には、きわめて簡単に、事は落着した
ようであった。
僕の見たのはこれだけだ。あとは新聞記事を総合して、それに僕の想像を加えての話だ
から、そのつもりで聞いてくれたまえ。さて警察医の観察によると、死因はむろん轢死で
あって、右の太腿を根もとから切断されたのによるというのだ。そして、事ここに至った
理由はというと、それを説明してくれるところの、実に有力な手懸りが、死人の懐中から
出てきた。それは夫人が夫博士に宛てた一通の書置であって、中の文句は、永年の肺病で、
自分も苦しみ、周囲にも迷惑を掛けていることが、もはや耐えられなくなったから、ここ
に覚悟の自殺をとげるという意味だった。実にありふれた事件だ。もし、ここに一人の名
探偵が現われなかったなら、お話はそれでおしまいで、博士夫人の厭世自殺とかなんとか、
三面記事の隅っこに小さい記事をとどめるにすぎなかったであろうが、その名探偵のお蔭
で、われわれもすばらしい話題ができたというものだ。
それは黒田清太郎という、新聞にも盛んに書きたてられたところの刑事探偵だが、これ
が奇特な男で、日頃探偵小説の一冊も読んでいようというやつさ。とまあ素人考えに想像
するんだがね。その男が翻訳物の探偵小説にでもあるように、犬のように四つん這いにな
って、その辺の地面を嗅ぎ廻ったものだ。それから博士邸内にはいって、主人や召使いに
いろいろの質問をしたり、各部屋のどんな隅々をも残さないで、拡大鏡をもって覗き廻っ
たり、まあ、よろしく新らしき探偵術を行なったと思いたまえ。そして、その刑事が、長
官の前に出て言うことには、「これは、も少し検べてみなければなりますまい」というわけ
だ。そこで、一同俄かに色めき立って、とりあえず死体の解剖ということになる。大学病
院において、何々博士執刀のもとに、解剖してみると、黒田名探偵の推断誤まらずという
わけだ。轢死前すでに一種の毒薬を服用したらしい形跡がある。つまり、何者かが夫人を
毒殺しておいて、その死骸を鉄道線路まで運び、自殺と見せかけて、実は恐るべき殺人罪
を犯したということになる。その当時の新聞は「犯人は何者?」という見出しで、盛んに
われわれの好奇心を煽ったものだ。そこで、予審判事が黒田刑事を呼び出して、証拠調べ
の一段となる。
さて、刑事がもったいぶって持ち出したところの証拠物件なるものは、第一に一|足《そ
く》の短靴、第二に石膏で取ったところの足跡の型、第三に数枚の皺になった反故紙。こ
の三つの証拠品をもって、この男が主張するには、博士夫人は自殺したのではなくて、殺
されたんだ。そしてその殺人者は、なんと、夫富田博士その人である、とこういうんだ。
どうだい、なかなか面白いだろう」
話し手の青年は、ちょっとずるそうな微笑を浮かべて相手の顔を見た。そして、内ポケ
ットから銀色のシガレット.ケースを取り出し、如何にも手際よく一本のオックスフォー
ドをつまみ上げて、パチンと音をさせて蓋を閉じた。
「そうだ」聞き手の青年は、話し手のためマッチを擦ってやりながら「そこまでは、僕も
大体知っているんだ。だが、その黒田という男が、どういう方法で殺人者を発見したのか、
そいつが聞きものだね」
「好個の探偵小説だね。で、黒田氏が説明して言うことには、他殺ではないかという疑い
を起こしたのは、死人の傷口の出血が案外少ないといって警察医が小首を傾けた、そのき
わめて些細な点からであった。去る大正何年何月幾日の××町の老母殺しに、その例があ
るというんだ。疑いうるだけ疑え、そして、その疑いの一つ一つをできるだけ綿密に探索
せよ、というのが探偵術のモットーだそうだが、この刑事もそのコツを呑み込んでおった
とみえて、まず一つの仮定を組み立てたのだ。誰だかわからない男又は女が、この夫人に
毒薬をのませた。そして、夫人の死体を線路まで持ってきて、汽車の|轍《わだち》が万
事を滅茶苦茶に押しつぶしてくれるのを待った、と仮定するならば、線路の付近に死体運
搬によってつけられた、何かの痕跡が残っているはずだ、とこう推定したんだ。そして、
なんとまあ刑事にとって幸運であったことには、轢死のあった前夜まで雨降りつづきで、
地面にいろいろの足跡がクッキリと印せられていた。それも、前夜の真夜中ごろ雨が上が
ってから、轢死事件のあった午前四時何十分までに、その付近を通った足跡だけが、お誂
え向きに残っていたというわけだ。で、刑事は先にいった犬のまねをはじめたんだが、こ
こでちょっと現場の見取図を書いてみよう」
左右田は――これが話し手の青年の名前であるが――そういって、ポケットから小形の
手帳を取り出し、鉛筆でザッとした図面を書いた。
「鉄道線路は地面よりは小高くなっていて、その両側の傾斜面には一面に芝草が生えてい
る。線路と富田博士邸の裏口とのあいだには相当広い、そうだ。テニスコートの一つぐら
い置かれるような空き地、草も何も生えていない小砂利まじりの空き地がある。足跡の印
せられてあったのはそのがわであって、線路のも一つのがわ、すなわち博士邸とは反対の
がわは、一面の水田で、遙かに何かの工場の煙突が見えようという、場末によくある景色
だ。東西に伸びた××町の西のはずれが、博士邸その他数軒の文化村式の住宅で終ってい
るのだから、博士邸の並びには線路とほぼ並行して、ズッと人家がつづいていると思いた
まえ。で、四つん這いになったところの黒田刑事が、この博士邸と線路のあいだの空き地
において、何を嗅ぎ出したかというと、そこには十以上の足跡が入りまじっていて、それ
が轢死の地点に集中しているといった形で、一見しては何がなんだかわからなかったに違
いないが、これを一々分類して調べ上げた結果、地下ばきの跡が幾種類、足駄の跡が幾種
類、靴の跡が幾種類と、まあわかったんだ。そこで、現場にいる連中の頭数と、足跡の数
とを比べてみると、一つだけ足跡の方が余計だとわかった。すなわち所属不明の足跡が一
つ発見されたんだ。しかもそれが靴の跡なんだ。その早朝、靴をはいているものは、先ず
その筋の連中のほかにないわけだが、その連中のうちにはまだ一人も帰ったものはなかっ
たのだから、少しおかしいわけだ。なおよくよく調べてみると、その疑問の靴跡が、なん
と博士邸から出発していることがわかった」
「ばかに詳しいもんだね」
と、聞き手の青年、すなわち松村が、こう口を入れた。
「いや、この辺は赤新聞に負うところが多い。あれはこうした事件になると、興味中心に、
長々と報道するからね。時にとって役に立つというものだ。で、今度は博士邸と轢死の地