饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.12

点とのあいだを往復した足跡を調べてみると、四種ある。第一は今いった所属不明の靴跡、

第二は現場にきている博士の地下ばきの跡、第三と第四は博士の召使いの足跡、これだけ

で、轢死者が線路まで歩いてきた痕跡というものが見当たらない。多分それは小形の足袋

はだしの跡でなければならないのに、それがどこにも見当たらなかったのだ。そこで轢死

者が男の靴をはいて線路まできたか。そうでなければ、何者かこの靴跡に符号するものが

夫人を線路まで抱いて運んできたかの二つである。もちろん前者は問題にならない。まず

後の推定が確かだと考えてさしつかえない。というのは、その靴跡には一つの妙な特徴が

あったのだ。それはその靴跡の踵の方が非常に深く食い入っている。どの一つをとってみ

ても同様の特徴がある。これは何か重いものを持って歩いた証拠だ。荷物の重味で踵が余

計に食い入ったのだ、と刑事が判断した。この点について、黒田氏は赤新聞で大いに味噌

を上げているが、その曰くさ。人間の足跡というものは、いろいろな事をわれわれに教え

てくれるものである。こういう足跡は|跛足《ち んば》で、こういう足跡は|盲目《め く

ら》で、こういう足跡は妊婦でと、大いに足跡探偵法を説いている。興味があったらきの

うの赤新聞を読んでみたまえ。

話が長くなるから、こまかい点は略するとして、その足跡から黒田刑事が苦心して探偵

した結果、博士邸の奥座敷の縁の下から、一|足《そく》の、問題の靴跡に符号する|短

《たん》|靴《ぐつ》を発見したんだ。それが、不幸にも、あの有名な学者の常に用いて

いたものだと、召使いによって判明した。そのほかこまかい証拠はいろいろある。召使い

の部屋と、博士夫妻の部屋とは可なり隔っていることや、当夜は召使いたちは、それは二

人の女中であったが、熟睡していて、朝の騒ぎではじめて眼をさまし、夜中の出来事は少

しも知らなかったということや、|当《とう》の博士が、その夜めずらしく在宅しておっ

たということや、その上、靴跡の証拠を裏書きするような、博士の家庭の事情なるものが

あるんだ。その事情というのは、富田博士は、君も知っているだろうが、故富田老博士の

女婿なのだ。つまり、夫人は家つきの我儘娘で、|痼《こ》|疾《しつ》の肺結核はあり、

ご面相は余り振るわず、おまけに強度のヒステリーときているんだ。こういう夫婦関係が

どういうものであるかは、容易に想像しうるじゃないか。事実、博士はひそかに妾宅を構

えて、なんとかいう芸妓上がりの女を溺愛しているんだ。が、僕はこういうことが博士の

値うちを少しだって増減するものとは思わないがね。さて、ヒステリーというやつはたい

ていの亭主を気ちがいにしてしまうものだ。博士の場合も、これらの面白からぬ関係が募

り募って、あの惨事をひき起こしたのだろう、という推論がなりたつわけだ。

ところが、ここに一つ残された難問題がある。というのは、最初話した死人のふところ

から出たという書置だ。いろいろ調べてみた結果、それは正しく博士夫人の手蹟だと判明

したんだが、どうして夫人が、心にもない書置などを書き得たか。それが黒田刑事にとっ

て一つの難関だった。刑事もこれにはだいぶてこずったと言っているがね。それから、い

ろいろ苦心をして発見したのが、皺になった数枚の反故紙。これがなんだというと手習草

紙でね、博士が、夫人の手蹟を、何かの反故に手習いしたものなんだ。そのうち一枚は、

夫人が旅行中の博士に宛てて送った手紙で、これを手本にして、犯人が自分の妻の|筆《ふ

で》|癖《くせ》を稽古したというわけだ。なかなかたくらんだものさ。それを刑事は、

博士の書斎の屑籠から発見したというんだ。

で、結論はこういうことになる。眼の上の瘤であり、恋愛の邪魔者であり、手におえぬ

|気《き》|違《ちが》いであるところの夫人をなきものにしよう。しかも博士である自

分の名誉を少しも傷つけぬ方法によってそれを遂行しようと深くもたくらんだ博士は、薬

と称して一種の毒薬を夫人に飲ませ、うまく参ったところを、肩に担いで、例の|短《た

ん》|靴《ぐつ》をつッかけ、裏口から、幸いにも近くにある鉄道線路へと運んだ。そし

て犠牲者のふところへ用意の尤もらしい書置を入れておいた。やがて轢死が発見されると、

大胆な犯人は、さも驚いた表情を作って、現場へ駈けつけた、とこういう次第だ。なぜ博

士が夫人を離別する挙に出ないでこの危険なる道を採ったかという点は、多分新聞記者自

身の考えなのだろうが、ある新聞にこう説明が下してあった。それは第一に故老博士に対

する情誼の上から、世間の非難を恐れたこと、第二にあの残虐を敢てする博士には、或い

はこの方が主たる理由であったかもしれないが、博士夫人には親譲りのちょっとした財産

があったということ、この二つを上げている。

そこで、博士の引致となり、黒田清太郎氏の名誉となり、新聞記者にとっては不時の収

穫となり、学界にとってはこの上ない不祥事となって、君もいうように、世間は今この噂

で湧いているというわけさ」

左右田はこう語り終って、前のコップをグイと乾した。

「現場を見た興味があったとはいえ、よくそれだけ詳しく調べたね。だがその黒田という

刑事は、なかなか頭のいい男だね」

「まあ、一種の小説家だね」

「え、ああ、そうだ。小説家だ。いや、小説以上の興味を創作したといってもいい」

「だが、僕は、彼は小説家以上の何者でもないと思うね」

片手をチョッキのポケットに入れて、何か探りながら、左右田が皮肉な微笑を浮かべた。

「それはどういう意味だ」

松村は煙草の煙の中から、眼をしばたたいて反問した。

「黒田氏は小説家であるかもしれないが、探偵ではないということさ」

「どうして?」

松村はドキッとしたようであった。何かすばらしい、ありうべからざることを予期する

ように、彼は相手の眼を見た。左右田はチョッキのポケットから、小さい紙片を取り出し

てテーブルの上に置いた。そして、

「これはなんだか知ってるかい」

と言った。

「それがどうしたと言うのだ。PL商会の受取り切符じゃないか」

松村は妙な顔をして聞き返した。

「そうさ。三等急行列車の貸し枕の代金四十銭也の受取り切符だ。これは僕が轢死事件の

現場で、計らずも拾ったものだがね、僕はこれによって博士の無罪を主張するのだ」

「ばか言いたまえ。冗談だろう」

松村は、まんざら否定するでもないような、半信半疑の調子で言った。

「一体、証拠なんかにかかわらず、博士は無罪であるべきなんだ。富田博士ともあろう学

者を、高が一人のヒステリー女の命のために、この世界――そうだ、博士は世界の人なん

だ。世界の幾人をもって数えられる人なんだ――この世界から葬ってしまうなんて、どこ

のばか者がそんなことを考えるんだ。松村君、僕はきょう一時半の汽車で、博士の留守宅

を訪問するつもりでいるんだ。そして、少し留守居の人に聞いてみたいことがあるんだ」

こういって、腕時計をちょっと眺めた左右田は、ナプキンを取ると、立ち上がった。

「おそらく博士は自分自身で弁明されるだろう。博士に同情する法律家たちも博士のため

に弁護するだろう。が、僕が此処に握っている証拠物件は誰も知らないものだ。わけを話

せってのか。まあ待ちたまえ。も少し調べてみないと完結しない。僕の推理にはまだちょ

っと隙があるんだ。その隙を満たすために、ちょっと失敬して、これから出掛けてくる。

ボーイさん。自動車をそういってくれたまえ。じゃあ、またあす会うことにしよう」

その翌日、××市でもっとも発行部数の多いといわれる、××新聞の夕刊に、左のよう

な五段に亘る長文の寄書が掲載せられた。見出しは「富田博士の無罪を証明す」というの

で、左右田五郎と署名してある。

私はこの寄書と同様の内容を有する書面を、富田博士審問の任に当たられる予審判事××氏迄呈出した。多分それだけで充分だとは思うが、万一、同氏の誤解或いはその他の理

由によって、一介の書生にすぎない私のこの陳述が、暗中に葬り去られる場合をおもんぱ

かって、かつ又、有力なるその筋の刑事によって証明せられた事実を裏切る私の陳述が、

たとえ採用せられたとしても、事後に於てわが尊敬する富田博士の冤罪を、世間に周知せ

しめるほど明瞭に、当局の手によって発表せられるかどうかをおもんぱかって、ここに輿

論を喚起する目的のために、この一文を寄せる次第である。

私は博士に対してなんらの恩怨を有するものではない、ただ、その著書を通じて博士の

頭脳を尊敬している一人にすぎない。が、このたびの事件については、みすみす間違った

推断によって罪せられんとするわが学界の長者を救うものは、偶然にもその現場に居合わ

せて、ちょっとした証拠物件を手に入れた、この私のほかにないと信ずるが故に、当然の

義務として、この挙にい出たまでである。この点について誤解のなからんことを望む。

さて、なんの理由によって、私は博士の無罪を信ずるか、一言をもって尽せば、司法当

局が、刑事黒田清太郎氏の調査を通して、推理したところの博士の犯罪なるものが、余り

におとなげないことである。余りに幼稚なるお芝居気に充ちていることである。かの寸毫

の微といえども逃すことのない透徹その比を見ざる大学者の頭脳と、このたびのいわゆる

犯罪事実なるものとを比較する時、吾人はいかに感ずるであろうか。その思想の余りに隔

絶せることに、むしろ苦笑を禁じ得ないではないか。その筋の人々は、博士の頭脳がつた

なき靴跡を残し、偽筆の手習い反故を残し、毒薬のコップをさえ残して、黒田某氏に名を

成さしめるほど耄碌したというのか。さては又、あの博学なる嫌疑者が、毒薬の死体に痕

跡を留むべきことを予知し得なかったとでもいうのか。私はなんら証拠を提出するまでも

なく、博士は当然無罪と信ずる。だからといって、私は以上の単なる推測をもって、この

陳述を思い立つほど、無謀ではないのである。

刑事、黒田清太郎氏は、いま赫々の武勲に光り輝いている。世人は同氏を和製のシャー

ロック.ホームズとまで讃嘆している。その得意の絶頂にあるところの同氏を、失望のど

ん底におとしいれなければならないことを遺憾に思う。実際、私は黒田氏が、わが国の警

察の仲間では、もっとも優れたる手腕家であることを信ずる。このたびの失敗は、他の人々

よりも頭がよかったためのわざわいである。同氏の推理法に誤りはなかった。ただその材

料となるところの観察に欠くるところがあった。すなわち綿密周到の点において、私とい

う一介の書生に劣っておったことを、氏のために深く惜しむものである。それはさておき、

私が提供しようとするところの証拠物件なるものは、左の二点の、ごくつまらぬ品物であ

る。

[#ここから1字下げ]

一、私が現場で収得したところの一枚のPL商会の受取り切符〔註、三等列車備えつけ

の貸し枕の代金の受取り。大正期には実際PL商会という民間会社がこれを請負っていた〕

二、証拠品として当局に保管されているところの博士の|短《たん》|靴《ぐつ》の紐。

[#ここで字下げ終わり]

ただこれだけである。読者諸君にとっては、これが余りに無価値に見えるであろうこと

をおそれる。が、その道の人々は、一本の髪の毛さえもが、重大なる犯罪の証拠となるこ

とを知っておられるであろう。

実を申せば、私は偶然の発見から出発したのである。事件の当日現場に居合わせた私は、

検死官たちの活動を眺めているあいだに、ふと、ちょうど私が腰をおろしていた一つの|

石《いし》|塊《ころ》の下から、何か白い紙片の端が覗いているのを発見した。もしそ

の紙片に捺してある日付印を見なかったら、なんの疑いも起こらなかったのであろうが、

博士のためには幸いにも、その日付印が、私の眼に何かの啓示のように焼き付いたのであ

る。大正××年十月九日、即ち事件の直ぐ前の日の日付印が。

私は五、六貫目は大丈夫あったところの、その石塊を取りのけて、雨のために破れそう

になっていた紙片を拾い上げた。それがPL商会の受取り切符であったのだ。そして、そ

れが私の好奇心を刺戟したのである。

さて、黒田氏が現場において見落とした点が三つある。

そのうち一つは、偶然私に恵まれたところのPL商会の受取り切符であるから、これを

除くとしても、少なくも二つの点において粗漏があったことは確かである。が右の受取り

切符とても、もし黒田氏が非常に綿密な注意力を持っておったならば、私のように偶然で

はなく発見することができたかもしれないのである。というのは、その切符が下敷になっ

ていた石というのは、博士邸の裏に半ば出来上がった下水の溝のわきに、たくさんころが

っている石塊の一つであることが、一見してわかるのであるが、その石塊がただ一つだけ、

遠く離れた線路のそばに置かれてあったということは、黒田氏以上の注意力の所有者には、

なんらかの意味を語ったかもしれないからである。それのみならず、私は当時その切符を

臨検の警官の一人に見せたのである。私の親切に一顧をも与えず、邪魔だからどいておれ

と叱ったところのその人を、私は今でも数人の臨検者の中から見つけ出すことができる。

第二の点は、いわゆる犯人の足跡なるものが、博士邸の裏口から発して線路まではきて

いたが、再び線路から博士邸へ立ち帰った跡がなかったことである。この点を黒田氏がい

かに解釈せられたかは――この重大な点について、心なき新聞記者は何事も報道していな

い故に――私にはわからないが、多分、犯人が犠牲者のからだを線路へ置いた後、何かの

都合で、線路づたいに廻り路をして立ち帰ったとでも判断せられたのであろう。事実、少

し廻り路をすれば足跡を残さないで、博士邸まで立ち帰りうるような場所が無くもなかっ

たのである。そして足跡に符号する短靴そのものが、博士邸内から発見せられたことによ

って、たとえ立ち帰った跡はなくとも、立ち帰ったという証拠は充分備わっているとでも

考えられたのであろう。一応もっともな考えであるが、そこに何か不自然な点がありはし

ないだろうか。

第三の点はこれは大抵の人の注意からそれるような、実際それを目撃した人でも、いっ

こう気に留めないような種類のものであるが、それは一匹の犬の足跡がその辺一面に、特

にいわゆる犯人の足跡に並行して、印せられていたことである。私がなにゆえこれに注意

したかというに、轢死人があるような場合に、その付近におった犬が、しかも足跡が博士

邸の裏口に消えているのをみると、多分轢死者の愛犬であるところの犬が、この人だかり

のそばへ出てこないというのはおかしいと考えたからであった。

以上私は、私のいわゆる証拠なるものを残らず列挙した。鋭敏なる読者は、私のこれか

ら述べようとするところを、おおかたは推察せられたであろう。それらの人々には、蛇足

であるかもしれないが、私はとにかく結論まで陳述せねばならぬ。

その日帰宅した時には、私はまだなんの意見も持っていなかった。右に述べた三つの点

についても、別段深く考えておったわけではない。ここには読者の注意を喚起するために、

わざと明瞭に記述したまでであって、私が当日その場で、これだけのことを考えたのでは

ないが、翌日、翌々日と毎朝の新聞によって、私が尊敬する博士その人が嫌疑者として引

致されたことを知り、黒田刑事の探偵苦心談なるものを読むに至って、私は、この陳述の

冒頭に述べたような常識判断から、黒田氏の探偵にどこか間違った点があるに違いないと

信じ、当日目撃したところの種々の点を考え合わせ、なお残った疑点については、本日博

士邸を訪問して、種々留守居の人々に聞き合わせた結果、ついに事件の真相を掴み得た次

第である。

そこで、左に順序を追って、私の推理の跡をしるしてみることにする。

前に申したように、出発点は、PL商会の受取り切符であった。事件の前日、おそらく

前夜深更に、急行列車の窓から落とされたのであろうところの切符が、なぜ五、六貫目も

ある重い石塊の下敷になっていたか、というのが、第一の着眼点であった。これは、前夜

PL商会の切符を落として行ったところの列車が通過した後、何者かが、その石塊をそこ

に持ってきたと判断するほかはない。汽車の線路から、或いは、石塊を積載して通過した

無蓋貨車の上から、転落したのではないことはその位置によって明かである。では、どこ

からこの石を持ってきたか、可なり重いものだから遠方であるはずはない。さしずめ、博

士邸の裏に、下水を築くために置いてある、たくさんの石塊のうちの一つだということは、

楔形に削られたその恰好からだけでも明かである。

つまり、前夜深更から、その朝、轢死が発見されるまでのあいだに、博士邸から轢死の

あった箇所まで、その石を運んだものがあるのだ。とすれば、その足跡が残っているはず

である。前夜は雨も小降りになって、夜中ごろにはやんでおったのだから、足跡の流れた

はずはない。ところが足跡というものは、賢明なる黒田氏が調査せられた通り、その朝、

現場に居合わせた者のそれのほかは「犯人の足跡」ただ一つあるのみである。ここにおい

て、石を運んだものは「犯人」その人でなければならぬことになる。この変テコな結論に

達した私は、いかにして「犯人」が石を運ぶということに可能性を与えるべきかに苦しん

だ。そして、そこにいかにも巧妙なトリックの弄せられておることを発見して、一驚を喫

したのである。

人間を抱いて歩いた足跡と、石を抱いて歩いた足跡、それは熟練なる探偵の眼をくらま

すに充分なほど、似通よっているに違いない。私はこの驚くべきトリックに気づいたので

ある。すなわち博士に殺人の嫌疑を掛けようと望む何者かが、博士の靴を穿いて、夫人の

からだの代りに、石塊を抱いて、線路まで足跡をつけたと、かように考えるほかに解釈の

くだしようがないのである。そこで、この憎むべきトリックの製作者が、例の足跡を残し

たとするならば、かの轢死した当人、すなわち博士夫人はどうして線路まで行ったか。そ

の足跡が一つ不足することになる。以上の推理の当然にして唯一つの帰結として、私は遺

憾ながら博士夫人その人が、夫を呪う恐るべき悪魔であったことを、確認せざるを得ない

のである。戦慄すべき犯罪の天才、私は嫉妬に狂った、しかも肺結核という――それはむ

しろ患者の頭脳を病的にまで明晰にする傾きのあるところの――不治の病にかかった、一

人の暗い女を想像した。すべてが暗黒である。すべてが陰湿である。その暗黒と陰湿の中

に、眼ばかり物凄く光る青白い女の幻想、幾十日幾百日の幻想、その幻想の実現、私は思

わずゾッとしないではいられなかった。

それはさておき、次に第二の疑問である。足跡が博士邸に帰っていなかったという点は

どうか。これは単純に考えれば、轢死者がはいて行った靴跡だから、立ち帰らないのがむ

しろ当然のように思われるかもしれない。が、私は少し深く考えてみる必要があると思う。

かくの如き犯罪的天才の所有者たる博士夫人が、なにゆえに線路から博士邸まで、足跡を

返すことを忘れたのであろう。そしてもしPL商会の切符が、偶然にも列車の窓から落と

されなかった場合には、ただ一つの手懸りとなったであろうところの、まずい痕跡を残し

たのであろう。

この疑問に対して、解決の鍵を与えてくれたものは、第三の疑点として上げた、犬の足

跡であった。私は、かの犬の足跡と、この博士夫人の唯一の手ぬかりとを結び合わせて、

微笑を禁じ得なかったのである。おそらく、夫人は博士の靴をはいたまま、線路までを往

復する予定であったに違いない。そして改めて他の足跡のつかぬような道を選んで、線路

に行くつもりであったに違いない。が、滑稽なことにはここに一つの邪魔がはいった。と

いうのは、夫人の愛犬であるところのジョンが――このジョンという名前は、私が本日同

家の召使い××氏から聞き得たところである――夫人の異様なる行動を眼ざとくも見つけ

て、そのそばにきて盛んに吠え立てたのである。夫人は犬の鳴き声に家人が眼を醒まして、

自分を発見することをおそれた。グズグズしているわけにはいかぬ。たとえ家人が眼を醒

まさずとも、ジョンの鳴き声に近所の犬どもがおし寄せては大変だ。そこで、夫人はこの

難境を逆に利用して、ジョンを去らせると同時に、自分の計画をも遂行するような、うま

い方法をとっさに考えついたのである。

私が本日探索したところによると、ジョンという犬は、日頃から、ちょっとした物を咥

えて用達しをするように教えこまれておった。多くは、主人と同行の途中などから、自宅

まで何かを届けさせるというようなことに慣らされていた。そして、そういう場合には、

ジョンは持ち帰った品物を、必ず奥座敷の縁側の上に置く習慣であった。もう一つ博士邸

の訪問によって発見したことは、裏口から奥座敷の縁側に達するためには、内庭をとり囲

んでいるところの板塀の木戸を通るほかに通路はないのであって、その木戸というのが、

洋室のドアなどにあるようなバネ仕掛けで、内側へだけひらくように作られてあったこと

である。

博士夫人はこの二つの点を巧みに利用したのである。犬というものを知っている人は、

こういう場合に、唯口で追ったばかりでは立ち去るものではないが、何か用達しを言いつ

ける――例えば、木切れを遠くへ投げて、拾ってこさせるというような――時は、必ずそ

れに従うものだということをいなまないであろう。この動物心理を利用して、夫人は、靴

をジョンに与えて、その場を去らしめたのである。そして、その靴が、少なくとも、奥座

敷の縁側のそばに置かれることと――当時多分縁側の雨戸が閉ざされていたので、ジョン

もいつもの習慣通りにはいかなかったのであろう――内側からは押してもひらかぬところ

の木戸にささえられて、再び犬がその場へこないことを願ったのである。

以上は、靴跡の立ち帰っていなかったことと、犬の足跡その他の事情と、博士夫人の犯

罪的天才とを思い合わせて、私が想像をめぐらしたものにすぎないが、これについては、

余りに穿ちすぎたという非難があるかもしれないことをおそれる。むしろ、足跡の帰って

居なかったのは、実際夫人の手ぬかりであって、犬の足跡は、最初から、夫人が靴の始末

について計画したことを語るものだと考えるのが、或いは当たっているかもしれない。し

かし、それがどっちであっても、私の主張しようとする「夫人の犯罪」ということに動き

はないのである。

さて、ここに一つの疑問がある。それは、一匹の犬が、一足の即ち二個の靴をどうして

一度に運び得たかという点である。これに答えるものは、先に挙げた二つの証拠物件のう

ち、まだ説明をくださなかった「証拠品としてその筋に保管されているところの博士の靴

の紐」である。私は同じ召使い××氏の記憶から、その靴が押収された時、劇場の下足番

がするように、靴と靴とが靴紐で結び付けてあったということを、苦心してさぐり出した

のである。刑事黒田氏は、この点に注意を払われたかどうか。目的物を発見した嬉しまぎ

れに、或いは閑却されたのではなかろうか。よし閑却されなかったとしても、犯人が何か

の理由で、この紐を結び合わせて、縁側の下へ隠しておいたという程度の推測をもって安

心せられたのではあるまいか。そうでなかったら、黒田氏のあの結論は出てこなかったは

ずである。

かくして、恐るべき呪いの女は、用意の毒薬を服し、線路に横たわって、名誉の絶頂か

ら|擯《ひん》|斥《せき》の谷底に追い落とされ、やがて獄裡に呻吟するであろうとこ

ろの夫の幻想に、物凄い微笑を浮かべながら、急行列車の|轍《わだち》にかかるのを待

ったのである。薬剤の容器については、私は知るところがない。が、物好きな読者が、か

の線路の付近を丹念に探しまわったならば、おそらくは水田の泥の中から、何ものかを発

見するのではなかろうか。

かの夫人のふところから発見されたという書置については、まだ一言も言及しなかった

が、これとても靴跡その他と同様に、いうまでもなく夫人の拵えておいた偽証である。私

は書置を見たわけではないから単なる推測に止まるが、専門の筆蹟鑑定家の研究を乞うた

ならば、必ず夫人が自分自身の筆癖をまねたものであることが、そして、そこに書いてあ

った文句は、まさに事実であったことが、判明するであろう。その他こまかい点について

は、一々反証を上げたり、説明をくだしたりする煩を避けよう。それは、以上の陳述によ

って、おのずから明かなことなのだから。

最後に、夫人の自殺の理由であるが、それは読者諸君も想像されるように、至極簡単で

ある。私が博士の召使い××氏から聞き得たところによれば、かの書置にもしるされた通

り、夫人は実際ひどい肺病患者であった。このことは、夫人の自殺の原因を語るものでは

あるまいか。すなわち、夫人は欲深くも、一死によって厭世の自殺と、恋の復讐との、二

重の目的を達しようとしたのである。

これで私の陳述はおしまいである。今はただ、予審判事××氏が一日も早く私を喚問し

てくれることを祈るばかりである。

前日と同じレストランの同じテーブルに、左右田と松村が相対していた。

「一躍して人気役者になったね」

松村が友だちを讃美するように言った。

「ただ、いささか学界に貢献し得たことを喜ぶよ。もし将来、富田博士が、世界を驚かせ

るような著述を発表した場合にはだ、僕はその署名のところへ、左右田五郎共著という金

文字を付け加えることを博士に要求しても差支えなかろうじゃないか」

こういって、左右田は、モジャモジャと伸びた長髪の中へ、クシででもあるように、指

をひろげて突っ込んだ。

「しかし、君がこれほど優れた探偵であろうとは思わなかったよ」

「その探偵という言葉を、空想家と訂正してくれたまえ。実際僕の空想はどこまでとっ走

るかわからないんだ。例えば、もしあの嫌疑者が、僕の崇拝する大学者でなかったとした

ら、富田博士その人が夫人を殺した罪人であるということですらも、空想したかもしれな

いんだ。そして、僕自身が最も有力な証拠として提供したところのものを、片っ端から否

定してしまったかもしれないんだ。君、これがわかるかい、僕がまことしやかに並べ立て

た証拠というのは、よく考えてみると、ことごとくそうでない、他の場合をも想像するこ

とができるような、曖昧なものばかりだぜ。ただ一つ確実性を持っているのはPL商会の

切符だが、あれだってだ。例えば、問題の石塊の下から拾ったのではなくて、その石のそ

ばから拾ったとしたらどうだ」

左右田は、よく呑み込めないらしい相手の顔を眺めて、さもおかしそうにニヤリとした。

二癈人

二人は湯からあがって、一局囲んだあとを煙草にして、渋い煎茶をすすりながら、いつ

ものようにポツリポツリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱ

いにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐の火鉢には鉄瓶が眠けを

さそうような音をたててたぎっていた。夢のようにのどかな冬の温泉場の午後であった。

無意味な世間話が、いつの間にか懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は|青《チン》

|島《タオ》役の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火鉢に軽く手をか

ざしながら、だまってその血腥い話に聞き入っていた。かすかに鶯の遠音が、話の合の手

のように聞こえてきたりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。

斎藤氏の見るも無慙に傷ついた顔面は、そうした武勇伝の話し手としては至極似つかわ

しかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたという、その右半面の引っつりを指さしなが

ら、当時の有様を手にとるように物語るのだった。そのほかにも、からだじゅうに数カ所

の刀傷があり、それが冬になると痛むので、こうして湯治にくるのだといって、肌をぬい

でその古傷を見せたりした。

「これで、私も若い時分には、それ相当の野心を持っていたんですがね。こういう姿にな

っちゃおしまいですよ」

斎藤氏はこういって長い実戦談の結末をつけた。

井原氏は、話の余韻でも味わうようにしばらくだまっていた。

「この男は戦争のお蔭で一生台無しにしてしまった。お互いに癈人なんだ。が、この男は

まだ名誉という気休めがある。しかしおれには……」

井原氏はまたしても心の古傷に触れてヒヤリとした。そして肉体の古傷に悩んでいる斎

藤氏などは、まだまだ仕合わせだと思った。

「こんどはひとつ私の懺悔話を聞いていただきましょうか。勇ましい戦争のお話のあとで、

少し陰気すぎるかも知れませんが」

お茶を入れかえて一服すると、井原氏はいかにも意気ごんだようにこんなことをいった。

「ぜひ伺いたいもんですね」

斎藤氏は即座に答えた。そしてなにごとかを待ち構えるようにチラと井原氏の方を見た

が、すぐ、さりげなく眼を伏せた。

井原氏はその瞬間、オヤッと思った。井原氏は今チラと彼の方を見た斎藤氏の表情に、

どこか見覚えがあるような気がしたのだった。彼は斎藤氏と初対面の時から――といって

も十日ばかり以前のことだが――何かしら、二人のあいだに前世の約束とでもいったふう

のひっかかりがあるような気がしていた。そして、日がたつにつれて、だんだんその感じ

が深くなって行った。でなければ、宿も違い、身分も違う二人が、わずか数日のあいだに

こんなに親しくなるはずがないと井原氏は思った。

「どうも不思議だ。この男の顔は確かにどこかで見たことがある」しかしどう考えてみて

も思い出せなかった。

「ひょっとしたら、この男とおれとは、ずっとずっと昔の、たとえばもの心のつかぬ子供

の時分の、遊び友だちででもあったのではあるまいか」そんなふうに思えば、そうとも考

えられるのだった。

「いや、さぞかし面白いお話が伺えることでしょう。そういえば、きょうはなんだか昔を

思い出すような日よりではありませんか」

斎藤氏はうながすように言った。

井原氏は恥かしい自分の身の上を、これまで人に話したことはなかった、むしろできる

だけ隠しておこうとしていた。自分でも忘れようとつとめていた。それが、きょうはどう

したはずみか、ふと話してみたくなった。

「さあ、どういうふうにお話ししたらいいか……私は××町でちょっと古い商家の総領に

生れたのですが、親に甘やかされたのが原因でしょう、小さい時から病身で、学校なども

そのために二年おくれたほどですが、そのほかにはこれという不都合もなく、小学から中

学、それから東京の××大学と、人さまよりはおくれながらも、まずまず順当に育ってき

たのでした。東京へ出てからはからだの方も順調でしたし、そこへ学科が専門になるにつ

れて興味が湧き、ぼつぼつ親しい友だちもできてくるというわけで、不自由な下宿生活も

かえって楽しく、まあなんの屈託もない学生生活を送っていたのでした。今から考えます

と、ほんとうにあのころが私の一生中での花でしたよ。ところが東京へ出て一年たつかた

たないころでした。私はふと或る恐ろしい事実に気づくようになったのです」

ここまで話すと、井原氏はなぜかかすかに身震いした。斎藤氏は吸いさしの巻煙草を火

鉢に突き差して、熱心に聞きはじめた。

「ある朝のことでした。私がこれから登校しようと、身支度をしていますと、同じ下宿に

いる友だちが私の部屋へはいってきました。そして私が着物を着かえたりするのを待ち合

わせながら、『ゆうべは大へんな気焔だったね』と冷やかすように言うではありませんか。

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