すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.13
しかし私には、いっこうその意味がわからないのです。『気焔って、ゆうべ僕が気焔をはい
たとでもいうのかい』私がけげん顔に聞き返しますと、友だちはやにわに腹をかかえて笑
い出し『君はけさはまだ顔を洗わないんだろう』とからかうのです。で、よく聞きただし
てみますと、その前の晩の夜ふけに、友だちの寝ている部屋へ私がはいって行って、友だ
ちをたたき起こして、やにわに議論をはじめたのだそうです。なんでも、プラトンとアリ
ストテレスとの婦人観の比較論か何かを滔々と弁じたてたそうですが、自分が言いたいだ
けいってしまうと、友だちの意見なんか聞きもしないで、サッサと引き上げてしまったと
いうのです。どうも狐にでもつままれたような話なんです。『君こそ夢でも見たんだろう。
僕はゆうべは早くから床にはいって、今しがたまでぐっすり寝込んでいたんだもの、そん
なことのありそうな道理がない』と言いますと、友だちは『ところが夢でない証拠には、
君が帰ってから、僕は寝つかれないで永いあいだ読書していたくらいだし、何より確かな
のは、見たまえ、この葉書を。その時書いたんだ。夢で葉書を書くやつもないからね』と、
むきになって主張するのです。
そんなふうに押し問答をしながら、結局あやふやのまま、その日は学校へ行ったことで
すが、教室へはいって講師のくるのを待っているあいだに、友だちが考え深そうな眼をし
て『君はこれまでに寝とぼける習慣がありはしないか』とたずねるのです。私はそれを聞
くと、なんだか恐ろしいものにぶつかったように、思わずハッとしました。
私にはそういう習慣があったのです。私は小さい時分から寝言をよくいったそうですが、
誰かがその寝言にからかいでもすると、私は寝ていてハッキリ問答したそうです。しかも
朝になっては少しもそれを記憶していないのです、珍らしいというので、近所の評判にな
っていたほどなんです。でも、それは小学校時代の出来事で、大きくなってからは忘れた
ようになおっていたのですが、いま友だちにたずねられると、どうやらこの幼時の病癖と、
ゆうべの出来事とに脈絡がありそうな気がするのです。で、そのことを話しますと、『では、
それが再発したんだぜ。つまり一種の夢遊病なんだね』友だちは気の毒そうにそんなこと
をいうのです。
さあ、私は心配になってきました。私は夢遊病がどんなものか、ハッキリしたことはむ
ろん知りませんでしたが、夢中遊行、離魂病、夢中の犯罪などという熟語が気味わるく浮
かんでくるのです。第一、若い私には、寝とぼけたというようなことが恥かしくてならな
かったのです。もしそんなことがたびたび起こるようだったらどうしようと、私はもう気
が気ではありません。そのことがあって二、三日してから、私は勇気を出して、知合いの
医者のところへ出掛けて相談してみました。ところが医者の言いますのには『どうも夢中
遊行症らしいが、しかし、一度ぐらいの発作でそんなに心配しなくともよい。そうして神
経を使うのがかえって病気を昂進させる元だ。なるべく気をしずめて、呑気に、規則正し
い生活をして、からだを丈夫にしたまえ。そうすれば、自然そんな病気もなおってしまう』
という至極楽観的な話なんです。で、私もあきらめて帰ったのですが、不幸にして私とい
う人間は、生れつき非常な神経病みでして、いちどそんなことがあると、もうそれが心配
で心配で、勉強なども手につかぬという有様でした。
どうかこれきり再発しなければいいがと、その当座は毎日ビクビクものでしたが、仕合
わせと一と月ばかりというものは、なにごともなく過ぎてしまいました、ヤレヤレ助かっ
たと思っていますと、どうでしょう、それも束の間の糠喜びで、間もなく今度は以前より
もひどい発作が起こり、なんと、私は夢中で他人の品物を盗んでしまったのです。
朝眼をさましてみますと、私の枕もとに見知らぬ懐中時計が置いてあるではありません
か、妙だなと思っているうちに、同じ下宿にいた会社員の男が『時計がない、時計がない』
という騒ぎなんでしょう。私は『さては』と悟ったのですが、なんともきまりが悪くて、
謝りに行くにも行けないという始末です。とうとう今いった友だちを頼んで、私が夢遊病
者だということを証明してもらって時計を返し、やっとその場はおさまったのですが、さ
あそれからというものは『井原は夢遊病者だ』という噂がパッとひろがってしまって、学
校の教室での話題にさえなるという有様でした。
私はどうかして、この恥かしい病気をなおしたいと、その方面の書物を買い込んで読ん
でみたり、いろいろの健康法をやってみたり、もちろん医者は、いくたりもかえて見ても
らうというわけで、できるだけ手をつくしたのですが、どうしてなおるどころか、だんだ
ん悪くなって行くばかりです。月に一度、ひどい時には二度ぐらいずつ、必ず例の発作が
おこり、少しずつ夢中遊行の範囲が広くなって行くという始末です。そして、そのたびご
とに他人の品物を持ってくるか、自分の持物を持って行った先へ落としてくるのです。そ
れさえなければ他人に知られずにすむこともあったのでしょうが、悪いことには、たいて
い何か証拠品が残るのです。それとももしかしたら、そうでない場合にもたびたび発作を
起こしていても、証拠品がないために知らずにしまったのかもしれません。なんにしても
われながら薄気味のわるい話でした。ある時などは真夜中に下宿屋から抜け出して、近所
のお寺の墓地をうろついていたことなどもありました。拍子のわるいことには、ちょうど
その時、墓地のそとの往来を、同じ下宿屋にいる或る勤め人が、宴会の帰りかなんかで通
り合わせて、低い生垣ごしに私の姿をみとめ、あすこには幽霊が出るなどと言いふらした
ものですから、実はそれが私だったとわかると、さあたいへんな評判なんです。
そんなふうで私はいいもの笑いでした。なるほど、他人から見れば喜劇でもありましょ
うが、当時の私の身にとっては、それがどんなにつらく、どんなに気味のわるいことだっ
たか、その気持は、とても当人でなけりゃわかりっこありませんよ。はじめのあいだは、
今夜も失策をしやしないか、今夜も寝とぼけやしないかと、それが非常に恐ろしかったの
ですが、だんだん、単に睡るということがこわくなってきました。いや睡る睡らないにか
かわらず、夜になると寝床にはいらなければならぬということが脅迫観念になってきまし
た。そうなると、ばかげた話ですが、自分のでなくても、夜具というものを見るのが、い
うにいわれぬいやな気持なんです。普通の人たちには一日中でもっとも安らかな休息時間
が、私にはもっとも苦しい時なのです。なんという不幸な身の上だったのでしょう。
それに、私にはこの発作が起こりはじめた時から、ひとつ恐ろしい心配があったのです。
というのは、いつまでもこのような喜劇がつづいて、人のもの笑いになっているだけです
めばいいが、もしこれがいつの日か取りかえしのつかぬ悲劇を生むことになりはしないか、
という点でした。私は先にも申し上げましたように、夢遊病に関する書物はできるだけ手
をつくして収集し、それをいくどもいくども読み返していたくらいですから、夢遊病者の
犯罪の実例などもたくさん知っていました。そして、その中には数々の身震いするような
血なまぐさい事件が含まれていたのです。気の弱い私がどんなにそれを心配したか、蒲団
を見てさえ気持がわるくなるというのも決して無理ではなかったのです。やがて私もこう
してはいられないと気がつきました。いっそ学業をなげうって国許に帰ろうと決心したの
です。で、或る日、それは最初の発作が起こってからもう半年あまりもたった頃でしたが、
長い手紙を書いて、親たちのところへ相談してやりました。そして、その返事を待ってい
るあいだに、どうでしょう、私の恐れに恐れていた出来事が、とうとう実現してしまった
のです、私の一生涯をめちゃめちゃにしてしまうような、とり返しのつかぬ悲劇が持ち上
がったのです」
斎藤氏は身動きもしないで謹聴していた。しかし彼の眼は物語の興味に引きつけられて
いるという以上に、何事かを語っているように見えた。正月の書き入れ時もとくに過ぎた
温泉場は、湯治客も少なく、ひっそりとして物音ひとつしなかった。小鳥の鳴き声ももう
聞こえてはこなかった。実世間というものから遠く切り離された世界に、二人の癈人は異
常な緊張をもって相対していた。
「それは忘れもしない、ちょうど今から二十年前の秋のことです。ずいぶん古い話ですが
ね。ある朝眼をさましますと、なんとなく家の中がざわついていることに気づきました。
傷持つ足の私はまた何か失策をやったのではないかと、すぐいやな気持に襲われるのでし
たが、しばらく寝ながら様子を考えているうちに、どうもただ事でないという気がし出し
ました。なんともいえぬ恐ろしい予感が、ゾーッと背中を這い上がってくるのです。私は
おずおずしながら、部屋の中をずっと見廻しました。すると、なんとなく様子が変なので
す。部屋の中に、ゆうべ私が寝た時とはどことなく変ったところがあるような気がするの
です。で、起き上がってよく調べてみますと、果たして変なものが眼にはいりました。部
屋の入口のところに見覚えのない小さな風呂敷包みが置いてあるではありませんか。それ
を見た私は、なんということでしょう、やにわにそれをつかんで押入れの中へ投げ込んで
しまったのです。そして、押入れの戸を締めると、泥棒のようにあたりを見廻して、ほっ
と溜息をつくのでした。ちょうどその時、音もなく障子をあけて一人の友だちが首を出し
ました。そして小さな声で『君、大へんだよ』といかにもことありげにささやくのです。
私は今の挙動をさとられやしなかったかと気が気でなく、返事もしないでいますと、『老人
が殺されているんだ。ゆうべ泥棒がはいったんだよ。まあちょっときてみたまえ』そうい
って友だちは行ってしまいました。私はそれを聞くと、喉が塞がったようになって、しば
らくは身動きもできませんでしたが、やっと気を取りなおして、様子を見に部屋を出て行
きました。そして私は何を見、何を聞いたのでしょう……その時のなんともいえぬ変な気
持というものは、二十年後の唯今でも、きのうのことのようにまざまざと思い出されます。
ことにあの老人の物凄い死に顔は、寝ても覚めても、この眼の前にちらついて離れる時が
ありません」
井原氏は恐れに耐えぬように、あたりを見廻した。
「で、その出来事をかいつまんで申しますと、その夜、ちょうど息子夫婦が泊まりがけで
親戚へ行っていたので、下宿の老主人はただ一人で玄関脇の部屋に寝ていたのですが、い
つも早起きの主人が、その日に限っていつまでも寝ているので、女中の一人が不審に思っ
てその部屋をのぞいてみますと、老人は寝床の中に仰臥したまま、巻いて寝ていたフラン
ネルの襟巻で絞め殺されて、冷たくなっていたのです。取調べの結果、犯人は老人を殺し
ておいて、老人の巾着から鍵を取り出し、箪笥の引出しをあけ、その中の手提金庫から多
額の債券や株券を盗み出したことがわかりました。何分その下宿屋は、夜ふけに帰ってく
る客のために、いつだって入口の戸に鍵をかけたことがないのですから、賊の忍び入るに
はお誂え向きなんですが、そのかわりに、よくしたもので、殺された老主人がばかに目敏
い男なので、めったなこともなかろうと、みな安心していたわけなんです。現場には別段
これという手掛りも発見されなかったらしいのですが、ただ一つ老主人の枕もとに一枚の
よごれたハンカチが落ちていて、それをその筋の役人が持って行ったという噂なんです。
しばらくすると、私は自分の部屋へ帰っていましたが、その部屋の押入れの中には、そ
ら、例の風呂敷包みがあるのです。それを調べてみて、もし殺された老人の財産がはいっ
ていたら……まあその時の私の気持をお察しください。ほんとうに命懸けの土壇場です。
私は長いあいだ、寿命の縮む思いをしながらも、どうしても押入れがあけられないで立ち
つくしていましたが、ついに意を決して風呂敷包みを調べてみたのです。その途端、私は
グラグラと眼まいがして、しばらく気を失ったようになってしまいました……あったので
す。その風呂敷包みの中に、債券と株券がちゃんとはいっていたのです……現場に落ちて
いたハンカチも私のものだったことが、あとになってわかりました。
結局、私はその日のうちに自首して出ました。そして、いろいろの役人にいくたびとな
く取調べを受けた上、思い出してもゾッとする未決監へ入れられたのです。私はなんだか
白昼の悪夢にうなされている気持でした。夢遊病者の犯罪というものがあまり類例がない
ことなので、専門医の鑑定だとか、下宿人たちの証言だとか、いろいろ手数のかかる取調
べがありましたが、私が相当の家の息子で、金のために殺人を犯す道理がないこともわか
っていましたし、私が夢遊病者だということは友人などの証言で明白なことですし、それ
に、国の父親が上京して二人も弁護士を頼んで骨折ってくれたり、最初私の夢遊病を発見
した友だち――それは木村という男でしたが――その男が学友を代表して熱心に運動して
くれたり、そのほかいろいろ私にとって有利な事情がそろっていたためでありましょう、
長い未決監生活の後、ついに無罪の判決がくだされました。さて無罪になったものの、人
殺しという事実は、ちゃんと残っているのです。なんという変てこな立場でしょう。私は
無罪の判決をうれしいと感じる気力もないほど疲れきっていました。
私は放免されるとすぐさま、父親同行で郷里に帰りました。が、家の敷居をまたぐと、
それまででも半病人だった私は、ほんとうの病人になってしまって、半年ばかり寝たきり
で暮らすという始末でした……そんなことで、私はとうとう一生を棒にふってしまったの
です。父親の跡は弟にやらせて、それからのち二十年の長い月日を、こうして若隠居とい
った境遇で暮らしているのですが、もうこのごろでは煩悶もしなくなりましたよ。ハハハ
ハハ」
井原氏は力ない笑い声で長い身の上話を結んだ。そして「下らないお話で、さぞ御退屈
でしたろう。さあ、熱いのを一つ入れましょう」と言いながら茶道具を引き寄せるのであ
った。
「そうですか。ちょっと拝見したところは結構な御身分のようでも、伺ってみればあなた
もやっぱり不幸な方なんですね」斎藤氏は意味ありげな溜息をつきながら「ですが、その
夢遊病のほうは、すっかりおなおりなすったのですか」
「妙なことには、人殺しの騒ぎののち、忘れたようにいちども起こらないのです。おそら
く、あの時あまりひどいショックを受けたためだろうと医者はいっています」
「そのあなたのお友だちだった方……木村さんとかおっしゃいましたね……その方が最初
あなたの発作を見たのですね。それから時計の事件と、それから、墓地の幽霊の事件と…
…そのほかの場合はどんなふうだったのでしょうか。御記憶だったらお話しくださいませ
んか」
斎藤氏は突然、少しどもりながら、こんなことを言い出した。彼の一つしかない眼が異
様に光っていた。
「そうですね。みな似たり寄ったりの出来事で、殺人事件をのけては、まあ墓地をさまよ
った時のが、いちばん変っていたでしょう。あとはたいてい同宿者の部屋へ侵入したとい
うようなことでした」
「で、いつも品物を持ってくるとか、落としてくるとかいうことから発見されたわけです
ね」
「そうです。でも、そうでない場合もたびたびあったかもしれません、ひょっとしたら、
墓場どころでなく、もっともっと遠いところへさまよい出していたこともあったかもしれ
ません」
「最初、木村というお友だちと議論をなすった時と、墓場で勤め人に見られた時と、その
ほかに誰かに見られたというようなことはないのですか」
「いや、まだたくさんあったようです。夜なかに下宿屋の廊下を歩き廻っている足音を聞
いた人もあれば、他人の部屋へ侵入するところを見たという人などもあったようです。し
かしあなたは、どうしてそんなことをお尋ねになるのです。なんだか私が調べられている
ようではありませんか」
井原氏は無邪気に笑ってみせたが、その実、少し薄気味わるく思わないではいられなか
った。
「いや、ごめんください。決してそういうわけではないのですが、あなたのようなお人柄
な方が、たとえ夢中だったとはいえ、そんな恐ろしいことをなさろうとは、私にはどうも
考えられないものですから。それに一つ、私にはどうも不審な点があるのです。どうか怒
らないで聞いてください。こうして不具者になって世間をよそに暮らしていますと、つい
なにごとも疑い深くなるのですね……ですが、あなたはこういう点をお考えなすったこと
がありますかしら。夢遊病者というものは、その徴候が本人には絶対にわからない。夜な
かに歩き廻ったり、おしゃべりをしていても、朝になればすっかり忘れている。つまり他
人に教えられてはじめて『おれは夢遊病者なのかなあ』と思うくらいのことでしょう、医
者にいわせると、いろいろ肉体上の徴候もあるようですが、それとても実に漠としたもの
で、発作がともなってはじめて決せられる程度のものだというではありませんか。私は自
分が疑い深いせいですか、あなたはよく無造作に自分の病気をお信じなすったと思います
よ」
井原氏は、何かえたいのしれぬ不安を感じはじめていた。それは、斎藤氏の話からきた
というよりは、むしろ相手の見るも恐ろしい容貌から、その容貌の裏にひそむ何者かから
きた不安であった。しかし、彼は強いてそれをおさえながら答えた。
「なるほど、私とても最初の発作の時にはそんなふうに疑ってもみました。そして、これ
が間違いであってくれればいいと祈ったほどでした。でも、あんなにも長いあいだ、絶間
なく発作が起こっては、もうそんな気休めもいっていられなくなるではありませんか」
「ところが、あなたは一つの大切な事柄に気づかないでいらっしゃるように思われるので
す。というのは、あなたの発作を目撃した人が少ない。いや煎じつめればたった一人だっ
たという点です」
井原氏は、相手がとんでもないことを空想しているらしいのに気づいた。それは実に、
普通人の考えも及ばぬような恐ろしいことであった。
「一人ですって。いや決してそんなことはありません。先ほどもお話ししたように、私が
他人の部屋へはいる|後《うしろ》姿を見たり、廊下の足音を聞いたりしている人はいく
らもあるのです。それから墓場の場合などは、名前は忘れましたが、或る会社員が確かに
目撃して、私にそれを話したくらいです。そうでなくても、発作の起こるたびに、きっと
他人の品物が私の部屋にあるか、私の持物がとんでもない遠方に落ちているかしたのです
から、疑う余地がないじゃありませんか。品物がひとりで位置をかえるはずもありません
からね」
「いや、そういうふうに発作のおこるたびごとに証拠品が残っていたという点が、かえっ
てあやしいのです。考えてごらんなさい。それらの品物は、必ずしもあなた自身の手をわ
ずらわさなくても、誰かほかの人がそっと位置をかえておくこともできるのですからね。
それから、目撃者がたくさんあったようにおっしゃいますが、墓場の場合にしても、その
ほかの、後姿を見たとかなんとかいうのは、みな曖昧のところがあります。あなたでない
ほかの人を見ても、夢遊病者という先入主のために、少し夜ふけに怪しい人影でも見れば、
すぐあなたにしてしまったのかもしれません。そういう際に間違った噂をたてたからとて、
少しも非難される心配はありませんし、その上、一つでも新しい事実を報告するのを手柄
のように思うのが人情ですからね。さあ、こういうふうに考えてみますと、あなたの発作
を目撃したという数人の人々も、たくさんの証拠の品物も、みな或る一人の男の手品から
生れたのだといえないこともないではありませんか。それはいかにも上手な手品には違い
ありません。でも、いくら上手でも手品は手品ですからね」
井原氏はあっけにとられたように、ぼんやりして、相手の顔をながめていた。彼はあま
りのことに考えをまとめる力をなくした人のように見えた。
「で、私の考えを申しますと、これはその木村というお友だちの深いおもわくから編み出
された手品かも知れないと思うのです。何かの理由から、その下宿屋の老主人をなきもの
にしたい、そっと殺してしまいたい。しかし、たとえいかほど巧妙な方法で殺しても、殺
人が行なわれた以上、どうしても下手人が出なければ納まりっこはありませんから、誰か
別の人を自分の身がわりに下手人にする。しかもその人にはできる限り迷惑のかからぬよ
うな方法で……もし、もしですよ。その木村という人がそんな立場にあったと仮定します
ならば、あなたという信じやすい、気の弱い人を夢遊病者に仕立てて、ひと狂言書くとい
うことは、実に申し分のない方法ではなかったでしょうか。
こういう仮定を先ず立ててみて、それが理論上なりたつかどうかを調べてみましょう。
さて、その木村という人は或る機会を見て、あなたにありもしない作り話をして聞かせま
す。と、都合のいいことには、あなたが少年時代に寝とぼける癖があったことが一つの助
けとなって、その試みが案外効果をおさめたとします。そこで木村氏は、ほかの下宿人の
部屋から時計その他のものを盗み出して、あなたの寝ている部屋の中に入れておくとか、
気づかれぬようにあなたの持物を盗み出して、他の場所へ落としておくとか、自分自身が
あなたのようによそおって墓場や下宿の廊下などを歩き廻るとか、種々様々の機智を弄し
て、ますますあなたの迷信を深めようとします。また一方、あなたの周囲の人たちにそれ
を信じさせるために、いろいろの宣伝をやります。こうして、あなたが夢遊病だというこ
とが、本人にも周囲にも完全に信じられるようになった上で、もっとも都合のいい時を見
はからって、木村氏自身がかたきとねらう老人を殺害するのです。そして、その財産をそ
っとあなたの部屋に入れておき、前もって盗んでおいたあなたの所持品を現場へのこして
おくと、こういうふうに想像することが、あなたは理論的だとは思いませんか。一点の不
合理も見出せないではありませんか。そしてその結果はあなたの自首ということになりま
す。なるほどそれはあなたにとってずんぶん苦しいことには違いありませんが、犯罪とい
う点では無罪とはいかずとも、比較的軽くすむのはわかりきったことです。よし多少の刑
罰を受けたところで、あなたにしてみれば病気のさせた罪ですから、ほんとうの犯罪ほど
心苦しくはないはずです。少なくとも木村氏はそう信じていたことでしょう。別段あなた
に対して敵意があったわけではなかったのですからね。ですが、もし彼があなたの今のよ
うな告白を聞いたなら、さぞかし後悔したことでしょう。
いやとんだ失礼なことを申しました。どうか気を悪くしないでください。これというの
も、あなたの懺悔話を伺って、あまりお気の毒に思ったものですから、つい、われを忘れ
て変な理窟を考え出してしまったのです。ですが、あなたのお心を二十年来悩ましてきた
事件も、こういうふうに考えれば、すっかり気安くなるではありませんか。いかにも私の
申し上げたことは当て推量かもしれません。でも、たとえ当て推量にしろ、そう考える方
が理窟にもかない、あなたのお心も安まるとすれば、それで結構ではありますまいか。
木村という人がなぜ老人を殺さねばならなかったか。それは私が木村自身でない以上、
どうもわかりようがありませんが、そこにはきっと、いうにいわれぬ深いわけがあったこ
とでしょう。たとえば、そうですね、敵打ちといったような……」
まっさおになった井原氏の顔色に気づくと、斎藤氏はふと話をやめて、なにごとかをお
それるようにうなだれた。
二人はそうしたまま長いあいだ対坐していた。冬の日は暮れるにはやく、障子の日影も
薄れて、部屋の中にはうそ寒い空気がただよい出していた。
やがて、斎藤氏はおそるおそる挨拶をすると、逃げるように帰って行った。井原氏はそ
れを見送ろうともしなかった。彼は元の場所にすわったまま、込み上げてくる忿怒をじっ
とおさえつけていた。思いがけぬ発見に思慮を失うまいとして、全力をつくしていた。
しかし時がたつにつれて、彼のすさまじい顔色がだんだん元に復して行った。そして、
にがいにがい笑いが彼の口辺にただようのだった。
「顔かたちこそまるで変っているが、あいつは、あいつは……だが、たとえあの男が木村
自身だったとしても、おれは何を証拠に復讐しようというのだ。おれというおろかものは、
手も足も出ないで、あの男の手前勝手な憐憫をありがたく頂戴するばかりじゃないか」
井原氏は、つくづく自分のおろかさがわかったような気がした。と、同時に、世にもす
ばらしい木村の機智を、にくむというよりはむしろ讃美しないではいられなかった。
灰神楽
一
アッと思う間に、相手は、まるで泥でこしらえた人形がくずれでもするように、グナリ
と、前の机の上に平たくなった。顔は鼻柱がくだけはしないかと思われるほど、ベッタリ
と机におしつけられていた。そして、その顔の黄色い皮膚と、机掛けの青い織物とのあい
だから、椿のようにまっ赤な液体が、ドクドクと吹き出していた。
今の騒ぎで鉄瓶がくつがえり、大きな桐の角火鉢からは、噴火山のように灰神楽が立ち
昇って、それがピストルの煙と一緒に、まるで濃霧のように部屋の中をとじ込めていた。
覗きからくりの|絵《え》|板《いた》が、カタリと落ちたように、一刹那に世界が変
わってしまった。なんともいえぬ不思議な感じであった。
「こりゃまあ、どうしたことだ」
彼は胸の中で、さも暢気そうにそんなことを言っていた。
しかし、数秒の後には、彼は右の手先が重いのを意識した。見ると、そこには、相手の
奥村一郎所有の小型ピストルが光っていた。「おれが殺したんだ」ギョクンと喉がつかえた
ような気がした。胸の所がガラン洞になって、心臓がいやに上の方へ浮き上がってきた。
そして、顎の筋肉がツーンとしびれて、やがて歯の根がガクガクと動きはじめた。
意識の回復した彼が第一に考えたことは、いうまでもなく、「銃声」についてであった。
彼自身にはただ変な手答えのほかなんの物音も聞こえなかったけれど、ピストルが発射さ
れた以上、「銃声」が響かぬはずはなく、それを聞きつけて、誰かがここへやってきはしな
いかという心配であった。
彼はいきなり立ち上がって、グルグルと部屋の中を歩きまわった。時々立ち止まっては
耳をすました。
隣の部屋には階段の降り口があった。だが庄太郎には、そこへ近づく勇気がなかった。
今にもヌッと人の頭が、そこへ現われそうな気がした。彼は階段の方へ行きかけては引き
返した。
しかし、しばらくそうしていても、誰もくるけはいがなかった。一方では、時間が立つ
につれて、庄太郎の記憶力がよみがえってきた。「何を怖がっているのだ。下には誰もいな
かったはずじゃないか」奥村の細君は里へ帰っているのだし、婆やは彼のくる以前に、可
なり遠方へ使いに出されたというではないか。
「だが待てよ、もしや近所の人が……」
ようやく冷静を取り返した庄太郎は、死人のすぐ前にあけはなされた窓から、そっと半
面を出して覗いて見た。広い庭を隔てて左右に隣家の二階が見えた。一方は不在らしく雨
戸が閉まっているし、もう一方はガランとあけはなした座敷に、人影もなかった。正面は
茂った木立ちを通して、塀の向こうに広っぱがあり、そこに、数名の青年が球投げをやっ
ているのがチラチラと見えていた。彼らは何も知らないらしく夢中になって遊んでいた。
秋の空に、球を打つバットの音が冴えて響いた。
彼は、これほどの大事件を知らぬ顔に、静まり返っている世間が、不思議でたまらなか
った。「ひょっとしたらおれは夢を見ているのではないか」そんな事を考えてみたりした。
しかし振り返ると、そこには血に染まった死人が無気味な人形のように黙していた。その
様子が明きらかに夢ではなかった。
やがて彼は、ふとある事に気づいた。ちょうど稲の取り入れ時で、付近の田畑には、鳥
おどしの空鉄砲があちこちで鳴り響いていた。さっき奥村との対談中、あんなに激してい
る際にも、彼は時々その音を聞いた。いま彼が奥村を撃ち殺した銃声も、遠方の人々には、
その鳥おどしの銃声と区別がつかなかったに違いない。
家には誰もいない、銃声は疑われなかった。とすると、うまく行けば彼は助かるかもし
れないのである。
「早く、早く、早く」
耳の奥で半鐘のようなものが、ガンガンと鳴り出した。
彼はその時まだ手にしていたピストルを、死人のそばへ投げ出すと、ソロソロと階段の
方へ行こうとした。そして一歩足を踏み出した時である。庭の方でバサッというひどい音
がして、樹の枝がザワザワと鳴った。
「人?」
彼は吐き気のようなものを感じて、その方を振り向いた。だが、そこには彼の予期した
ような人影はなかった。今の物音はいったい何事であったろう。彼は判断をくだしかねて、
むしろ判断をしようともせず、一瞬間そこに立往生していた。
「庭の中だよ」
すると、そとの広っぱの方から、そんな声が聞こえてきた。
「中かい。じゃあおれが取ってこよう」
それは聞き覚えのある、奥村の弟の中学生の声であった。彼はさっき広っぱの方を覗い
た時に、その奥村二郎がバットを振りまわしているのを、頭の隅で認めていたことを思い
出した。
やがて快活な足音と、バタンと裏木戸のあく音とが聞こえ、それから、ガサガサと植込
みのあいだを歩きまわる様子が、二郎の烈しい呼吸づかいまで、手に取るように感じられ
るのであった。庄太郎にはことさらそう思われたのかもしれないけれど、ボールを探すの
は可なり手間取った。二郎はさも暢気そうに口笛など吹きながら、いつまでもゴソゴソと
いう音をやめなかった。
「あったよう」
やっとしてから、二郎の突拍子もない大声が、庄太郎を飛び上がらせた。そして、彼は
そのまま、二階の方など見向きもしないで、そとの広っぱへと駈け出して行く様子であっ
た。
「あいつは、きっと知っているのだ。この部屋で何かがあったことを知っているのだ。そ
れをわざと素知らぬ振りで、ボールを探すような顔をして、その実は二階の様子をうかが
いにきたのだ」
庄太郎はふとそんな事を考えた。
「だが、あいつは、たとえ銃声を疑ったとしても、おれがこのうちへ来ていることは知る
はずがない。あいつはおれがくる以前から、あすこで遊んでいたのだ。この部屋の様子は
広っぱの方からは、杉の木立ちが邪魔になって、よくは見えないし、たとえ見えたところ
で、遠方のことだから、おれの顔まで見わけられるはずはない」
彼は一方では、そんなふうにも考えた。そして、その疑いを確かめるために、障子から
半面を出して、広っぱの方を覗いて見た。そこには、木立ちの隙間から、バットを振り振
り走って行く、二郎のうしろ姿が眺められた。彼は元の位置に帰ると、すぐ何事もなかっ
たように打球の遊戯をはじめるのであった。
「大丈夫、大丈夫、あいつはなんにも知らないのだ」
庄太郎は、さっきの愚かな邪推を笑うどころではなく、しいて自分自身を安心させるよ
うに、大丈夫、大丈夫と繰り返した。
しかし、もうぐずぐずしてはいられない。第二の難関が待っているのだ。彼が無事に門