すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.14
のそとへ出るまでに、使いに出された婆やが帰ってくるか、それともほかの来客とぶっつ
かるか、そんなことがないと、どうして断言できよう。彼は今さらそこへ気がついたよう
に、慌てふためいて階段をおりかけた。途中で足がいうことをきかなくなって、ひどい音
を立てて辷り落ちたけれど、彼はそんなことをほとんど意識しなかった。そしてまるでわ
ざとのように、玄関の格子をガタピシいわせて、やっとのことで門のそばまでたどりつい
た。
が、門を出ようとして、彼はハッと立ち止まった。ある重大な手抜かりに気づいたのだ。
あのような際によくもそこまで考えまわすことができたと、彼はあとになってしばしば不
思議に思った。
彼は日頃、新聞の三面記事などで、指紋というものの重大さを知っていた。むろん実際
以上に誇張して考えていたほどである。今まで握っていたあのピストルには、彼の指紋が
残っているに違いない。他の万事が好都合に運んでも、あの指紋たった一つによって犯罪
が露顕するのだ。そう思うと、彼はどうしても、そのまま立ち去ることはできなかった。
もう一度二階へ戻るというのは、その際の彼にとって、ほとんど不可能に近い事柄ではあ
ったけれど、彼は死にもの狂いの気力をふるって、更に家の中へ取って返した。両足が義
足のようにしびれて、歩くたびごとに、膝頭がガクリガクリと折れた。
どうして二階へ上がったか、どうしてピストルを拭き清めたか、それからどうして門前
へ出てきたか、あとで考えると少しも記憶に残っていなかった。
門のそとには幸い人通りがなかった。その辺は郊外のことで、住宅といっては、庭の広
い一軒家がまばらに建っているばかりで、昼間でも往来は途絶え勝ちなのだ。ほとんど思
考力を失った庄太郎は、その田舎道をフラフラと歩いて行った。早く、早く、早く、とい
う声が、時計のセコンドのように絶え間なく耳許に聞こえていた。それにもかかわらず、
彼の歩調はいっこう早くなかった。外見は、暢気な郊外散歩者とも見えたであろう。その
実、彼はまるで夢遊病者のように、いま歩いているということすら、ほとんど意識してい
ないのであった。
二
どうしてピストルを撃つようなことになったのか、時のはずみとはいえ、あまりに意外
な出来事であった。庄太郎は、彼自身が恐ろしい人殺しなどとは、まるでうそのような話
で、ほとんど信じかねるほどであった。
庄太郎と奥村一郎とが、一人の女性を中心に、烈しい反感をいだき合っていたことは事
実である。その感情が互いに反発して、加速度に高まりつつあったことも事実である。そ
して、折につけ、つまらないほかの議論が二人を異常に興奮せしめた。彼らは双方とも決
して問題の中心に触れようとはしなかった。
そのかわりに、問題外のごく些細な事柄が、いつも議論の対象となり、ほとんど狂的に
までいがみ合うのであった。
その上、一そういけないのは、庄太郎に取っては一郎がある意味のパトロンであったこ
とだ。貧乏絵かきの庄太郎は、一郎の補助なしには生きて行くことができなかった。彼は
言いがたき不快をおさえて、しばしば|恋敵《こいがたき》の門をくぐることを余儀なく
された。
今度の事件も、事の起こりはやはりそれであった。その時、一郎はいつになくキッパリ
と、庄太郎の借金の申し込みを拒絶した。このあからさまな敵意に会って、庄太郎はカッ
とのぼせ上がった。恋敵の前に頭を下げて、物乞いをしている自分自身が、此の上もなく
みじめに見えた。それと同時に、その心持ちを充分知っていながら、自己の有利な立場を
利用して、これを好機と敵意を見せる相手が、ジリジリするほど癪にさわった。一郎の方
では、何も借金の申し込みに応ずる義理はないと言い張った。庄太郎の方では、これまで
パトロンのようにふるまっておきながら、そして暗黙のうちに物質的援助を予期させてお
きながら、今さら金が貸せないといわれては困ると主張した。
争いはだんだん烈しくなって行った。問題が焦点をそれていることが、そのかわりに、
野卑な金銭上の事柄にまで、こうしていがみ合わなければならぬという意識が、一そう二
人をたまらなくした。しかし、もしその時、一郎の机の上にあのピストルが出ていなかっ
たら、まさかこんなことにもならなかったであろうが、悪いことには、一郎は日頃から銃
器類に興味を持っていて、ちょうど当時、その付近にしばしば強盗沙汰があったものだか
ら、護身の意味で|弾《た》|丸《ま》まで込めて、机の上に置いてあったのである。そ
れを庄太郎が手に取って、つい相手を撃ち殺してしまったのだ。
それにしても、どうしてあのピストルを取ったか、そして、引き金に指をかけたか、庄
太郎にはそのきっかけが、少しも思い出せないのだった。ふだんの庄太郎であったら、い
かに口論をすればとて、相手を撃ち殺そうなどとは、考えさえもしなかったであろう。時
のはずみというか、魔がさしたというか、ほとんど常識では判断もできないような事件で
ある。
だが、庄太郎が人殺しだということは、もはやどうすることもできない事実であった。
この上はいさぎよく自首して出るか、それとも、あくまで素知らぬ振りをしているか、二
つの方法しかない。そして、庄太郎はそのいずれの道を採ったのか。彼は、読者もすでに
推察されたように、いうまでもなく後者を選んだのである。これがもし、彼が犯人だと知
れるような証拠が、少しでも残っているのだったら、まさか、彼とてもそんな野望を抱き
はしなかったであろう。だが、そこにはなんの証拠もないのだ。指紋すらも残ってはいな
いのだ。彼は下宿に帰ってから、一と晩じゅうそのことばかりを繰り返し考えつづけた。
そして、結局、あくまでも知らぬていを装うことに決心した。
うまく行けば、一郎は自殺したものと判断されるかもしれない。仮りに一歩を譲って、
他殺の疑いがかかったとしても、何を証拠に庄太郎を犯人だときめることができるのだ。
現場にはなんの証跡も残ってはいない。そればかりか、その時に庄太郎が一郎の部屋にい
たということすら、誰も知らないではないか。
「なに、心配することがあるものか。おれはいつでも運がいいのだ。これまでとても、犯
罪に近い悪事を、しばしばやっているではないか、そしてそれが少しも発覚しなかったで
はないか」
やがて彼は、そんな気安めを考えるほどになっていた。そうして一と安心すると、そこ
へ、人殺しとはまるで違った、はなやかな人生が浮き上がってきた。考えてみれば、彼は
あの殺人によって、計らずも二人で争っていた恋人を独占したわけであった。社会的地位
と物質とのために、いくらか一郎の方へ傾いていた彼女も、もはやその対象を失ったので
ある。
「おお、おれはなんという幸運児であろう」
夜、寝床の中では、昼間とは打って変わって楽天的になる庄太郎であった。彼は煎餅蒲
団にくるまって、天井の節穴を眺めながら、恋しい人の上を思った。なんとも形容のでき
ない、はなやかな色彩と、快い薫りと、柔らかな音響が彼の心を占めた。
三
だが、彼のこの安心も、つまりは寝床の中だけのものであった。翌朝、ほとんど一睡も
しなかった彼の前に第一に来たものは、恐ろしい記事をのせた新聞であった。そして、そ
の記事の内容はたちまち彼の心臓を軽くした。そこには二段抜きの大見出しで、奥村一郎
の惨死が報道されていた。検死の模様も簡単にしるされてあった。
「……前額の中央に弾痕のある点、ピストルの落ちていた位置等を以て見るも自殺とは考
えられぬ、その筋では他殺の見込みを以て、已に犯人捜索に着手した」
そういう意味の二、三行が、ギラギラと庄太郎の眼に焼きついた。彼はそれを読むと、
何か急用でも思いついたかのように、いきなりガバと蒲団から起き上がった。だが、起き
上がってどうしようというのだ。彼は思いなおしてまた蒲団の中へもぐりこんだ。そして、
すぐそばに怖いものでもあるように、頭から蒲団をかぶると、身を縮めてじっとしていた。
一時間ばかりののち、彼はそそくさと起き上がると、着物を着更えてそとへ出た。茶の
間を通るとき、宿の主婦が声をかけたけれど、彼は聞こえぬのか返事もしなかった。
彼は何かに引きつけられるように、恋人のところへ急いだ。いま逢っておかなければも
う永久に顔を見る機会がないような気がするのだ。ところが、一里の道を電車に揺られて、
彼女を訪ねた結果はどうであったか。そこにもまた、恐ろしい疑いの目が彼を待っていた
のだ。彼女はむろん事件を知っていた。そして日頃の事情から推して、当然庄太郎に一種
の疑いを抱いていた。実はそうではなかったのかもしれないけれど、脛に傷持つ庄太郎に
は、そうとしか考えられなかった。第一に、追いつめられた野獣のような庄太郎の様子が、
相手を驚かせた。それを見ると彼女の方でも青ざめた。
せっかく逢いは逢いながら、二人はろくろく話をかわすこともできなかった。庄太郎は
相手の眼に疑惑の色を読むと、その上じっとしてはいられなかった。座敷に通ったかと思
うと、もういとまを告げていた。そして今度はどこという当てもなく、フラフラと街から
街をさまよった。どこまで逃げても、たった五尺のからだを隠す場所がなかった。
日の暮れがたになって、ヘトヘトに疲れきった庄太郎は、やっぱり自分の宿へ帰るほか
はなかった。宿の主婦はわずか一日のあいだに、大病人のように痩せ衰えた彼を、不思議
そうに眺めた。そして、気ちがいのような彼の目つきにおずおずしながら一枚の名刺をさ
し出した。その名刺のぬしが彼の不在中に訪ねてきたというのだ。そこには「××警察署
刑事××××」と印刷されてあった。
「ああ刑事ですね、僕のところへ刑事が訪ねてくるなんて、こいつは大笑いですね、ハハ
ハハ」
思わずそんな無意味な言葉が彼の口をついて出た。彼はそうしてゲラゲラと笑い出した。
だが口だけでばか笑いをしていても、彼の顔つきは少しもおかしそうには見えなかった。
その異様な態度が更に主婦を驚かせた。
その晩おそくまで、彼はほとんど放心状態でいた。考えようにも考えることがないよう
な、或いはあまりにありすぎてどれを考えていいのかわからないような、一種異様の気持
であった。が、やがて、いつもの「夜の楽観」が、彼をおとずれた。そして、いくらか思
考力を取り返すことができた。
「おれはいったい何を恐れていたのだろう」
考えてみれば、昼間の焦躁は無意味であった。たとえ奥村一郎の死が他殺と断定されよ
うと、恋人が彼に疑惑の目を向けようと、或いは又、刑事巡査が訪ねてこようと、何も彼
が有罪ときまったわけではないのだ。彼らには一つも証拠というものがないではないか。
それは単に疑惑にすぎぬ。いやひょっとしたら彼自身の疑心暗鬼かもしれないのだ。
だが、決して安心することはできない。なるほど、額のまん中を撃って自殺するやつも
なかろうから、警察が他殺と判断したのは無理はない。とすると、そこには下手人が必要
だ。現場になんの証拠もなければ、警察は被害者の死を願うような立場にある人物を探す
に違いない。奥村一郎は日頃敵を持たぬ男だった。庄太郎をほかにして、そんな立場の人
物が存在するであろうか。それに悪いことには、弟の奥村二郎が、彼らのあいだの恋の葛
藤をよく知っていたことである。二郎の口から、それが警察に洩れないとどうしていえよ
う。現にきょうの刑事とても、二郎の話を聞いた上で、充分疑いを持ってやってきたのか
もしれないではないか。
考えるに従って、やっぱりのがれる途はないような気がする。だが、果たして絶体絶命
であろうか。何かしらこの難関を切り抜ける方法がないものであろうか。それから一と晩
のあいだ、庄太郎は全身の智恵をしぼり尽して考えた。異常の興奮が彼の頭脳をこの上も
なく鋭敏にした。ありとあらゆる場合が、彼の目の前に浮かんでは消えた。
ある刹那、彼は殺人現場の幻を描いていた、そこには額の穴から|血《ち》|膿《うみ》
を流して倒れている奥村一郎の姿があった。キラキラ光るピストルがあった。煙があった。
桐の火鉢の五徳の上に、なかば湯をこぼした鉄瓶があった。濛々と立ちこめた灰神楽があ
った。
「灰神楽、灰神楽」
彼は心の中でこんな言葉を繰り返した。そこに何かの暗示を含んでいるような気がする
のだ。
「灰神楽……桐の大火鉢……火鉢の中の灰」
そして、彼はハタとある事に思い及んだ。暗澹たる闇の中に一縷の光明が燃えはじめた。
それは犯罪者のしばしばおちいるばかばかしい妄想であったかもしれない。第三者から見
れば一顧の価値もない愚挙であったかもしれない。しかしこの際の庄太郎にとっては、そ
の考えが、天来の福音のごとくありがたいものに思われるのだった。そして、考えに考え
たあげく、結局彼はその計画を実行してみることに腹をきめた。
そう事がきまると、二昼夜にわたる不眠が、彼を恐ろしい熟睡に誘った。翌日の昼頃ま
で、彼は何も知らないで、泥のように睡った。
四
さて、その翌日、いよいよ実行となると、彼は又しても二の足を踏まなければならなか
った。表の往来から聞こえてくる威勢のいい玄米パンの呼び声、自動車の警笛、自転車の
ベル、そして、障子を照らす眩しい白日の光、どれも、これも、彼の暗澹たる計画に比べ
ては、なんと健康に冴えわたっていることであろう。この快活な、あけっぱなしな世界で、
果たしてあの異様な考えが実現できるものであろうか。
「だが、へこたれてはいけない。ゆうべあんなにも考えたあげく、堅く堅く決心した計画
ではないか。そのほかにどんな方法があるというのだ。ためらっている時ではない。これ
を実行しなかったら、お前には絞首台があるばかりだ。たとえ失敗したところで、元々で
はないか。実行だ、実行だ」
彼は奮然として起き上がった。ゆっくりと顔を洗って食事をすませると、わざと暢気ら
しく、一とわたり新聞に眼を通し、ふだん散歩に出るのと同じ調子で、口笛さえ吹きなが
ら、ブラブラと宿を出た。
それから一時間ばかりのあいだ、彼がどこへ行って何をしたか、それは後になって自然
読者にわかることだから、ここには説明をはぶいて、彼が奥村二郎を訪問したところから
話を進めるのが便宜である。
さて、奥村二郎の家の、殺人の行なわれたその同じ部屋で、庄太郎と死者の弟の二郎と
が相対していた。
「で、警察では加害者の見当がついているのかい」
一とわたり悔みの挨拶が取りかわされてから、庄太郎はこんなふうに切り出すのであっ
た。
「さあどうだか」中学上級生の二郎は、あらわなる敵意をもって、相手の顔をじろじろ眺
めながら答えた。「たぶんだめだろうと思う。だって証拠が一つもないんだからね。たとえ
疑わしい人間があるとしても、どうすることもできないさ」
「他殺は疑う余地がないらしいね」
「警察ではそう言っている」
「証拠が残っていないという話だが、この部屋は充分調べたのかしら」
「そりゃ無論だよ」
「誰かの本で読んだことがあるが、証拠というものは、どんな場合にでも残らないはずは
ないそうだ。ただ、それが人間の眼で発見できるかできないかが問題なのだ。たとえば一
人の男がこの部屋へはいって何一つ品物を動かさないで出て行ったとする。そんな場合に
も、少なくとも畳の上の埃には、なんらかの変化が起こっていたはずだ。だから、と、そ
の本の著者が言うのだよ、綿密なる科学的検査によれば、どのような巧妙な犯罪をも発見
することができるって」
「…………」
「それから又、こういうこともある。人間というものは、何かを探す場合、なるべく目に
つかないような所、部屋の隅々とか、物の蔭とかに注意を奪われて、すぐ鼻の先にほうり
出してある、大きな品物なぞを見のがすことがある。これは面白い心理だよ。だから最も
上手な隠し場所は、ある場合には、最も人目につき易いところへ露出して置くことなんだ
よ」
「だからどうだっていうのだい、僕らにしてみれば、そんな暢気らしい理窟を言っている
場合ではないんだが」
「だからさ、たとえばだね」庄太郎は考え深そうにつづけた。「この火鉢だってそうだ。こ
いつは部屋の中で最も目につき易い中央にある。この火鉢を誰かが調べたかね。殊に中の
灰に注意した人があるかね」
「そんな物を調べた人はないようだね」
「そうだろう。火鉢の灰なんてことは、誰も気がつかない。ところで君はさっき、兄さん
が殺された時には、この火鉢のところに一面に灰がこぼれていたといったね。むろんそれ
はここにかけてあった鉄瓶が傾いて、灰神楽が立ったからだろう。問題は何がその鉄瓶を
傾けたかという点だよ。実はね、僕はさっき、君がここへくるまでに、変なものを発見し
たのだ。ソラ、これを見たまえ」
庄太郎はそういうと、火箸を持って、グルグル灰の中をかき探していたが、やがて一つ
の汚れたボールをつまみ出した。
「これだよ。このタマがどうして灰の中に隠れていたか。君は変だとは思わないかね」
それを見ると二郎は驚きの目を見張った。そして、彼の額には、少しばかり不安らしい
色が浮かんだ。
「変だね。どうしてそんな所へボールがはいったのだろう」
「変だろう。僕はさっきから一つの推理を組み立ててみたのだがね。兄さんの死んだ時、
ここの障子はすっかり閉まっていたかしら」
「いや、ちょうどこの机の前のが一枚あいていたよ」
「ではね、こういうことはいえないかしら、兄さんを殺した犯人……そんなものがあった
と仮定すればだよ……その犯人の手が触れて鉄瓶の湯がこぼれたと見ることもできるけれ
ど、又もう一つは、そこの障子のそとから何かが飛んできて、この鉄瓶にぶつかったと考
えることもできそうだね。そしてあとの場合の方がなんとなく自然に見えやしないかい」
「じゃあ、このボールがそとから飛んできたというのか」
「そうだよ。灰の中にボールが落ちていた以上、そう考えるのが当然ではないだろうか。
ところで、君はよくこの裏の広っぱで、球投げをやるね。その日はどうだったい。兄さん
の死んだ日には」
「やっていたよ」二郎はますます不安を感じながら答えた。「だが、ここまでボールを飛ば
したはずはない、もっとも一度そこの塀を越したことはあるけれど、杉の木に当たって下
へ落ちたよ。僕はちゃんとそれを拾ったのだから間違いはない。タマは一つもなくなって
やしないんだよ」
「そうかい、塀を越したことがあるのかい。むろんバットで打ったのだろうね。だが、そ
のとき下へ落ちたと思ったのは間違いで、実は杉の木をかすめて、ここまで飛んできたの
ではないだろうか。君は何か思い違いをしてやしないかい」
「そんなことはないよ。ちゃんと、そこの一ばん大きい杉の木の根元で、そのタマを拾っ
たんだもの、そのほかには一度だって塀を越したことなぞありゃしない」
「じゃあ、そのボールに何か目印でもつけてあったのかい」
「いや、そんなものはないけれど、タマが塀を越して、探してみると庭の中に落ちていた
んだから間違いっこないよ」
「しかしこういう事も考えうるね。君が拾ったボールは、実はその時打ったやつではなく
て、以前からそこに落ちていたボールであったということもね」
「そりゃあ、そうだけれど、だっておかしいよ」
「でも、そうでも考えるほかに方法がないじゃないか。この火鉢の中にボールがある以上
は。そして、ちょうどそのとき鉄瓶のくつがえったという一致がある以上は。君は時々こ
の庭の中へボールを打ち込みはしないかい。そして、ひょっとして、そのとき探しても、
植込みが茂っていたりして、わからないままになってしまったようなことはないだろうか」
「それはわからないけれど……」
「で、これが最も肝要な点なのだが、そのボールが塀を越したという時間だね、それがも
しや兄さんの死んだ時と一致してやしないかい」
その瞬間、二郎はハッとしたように、顔の色を変えた。そして、しばらく言い渋ったあ
とで、やっとこう答えた。
「考えてみると、それが偶然一致しているんだ。変だな、変だな」
そうして、彼は俄かにそわそわと落ちつかぬ様子を示した。
「偶然ではないよ。そんなに偶然が幾つもかさなるということはないよ」庄太郎は勝ちほ
こって言った。「先ず灰神楽だ。灰の中のボールだ。それから君たちの打ったタマが塀を越
した時間だ。それがことごとく兄さんの死んだときに前後しているじゃないか。偶然にし
ては、あまり揃いすぎているよ」
二郎はじっと一つ所を見つめて、何かに考え耽っていた。顔は青ざめ、鼻の頭には粟粒
のような汗の玉が浮かんでいた。庄太郎はひそかに計画の奏効を喜んだ。彼はその問題の
ボールの打者が、ほかならぬ二郎自身であったことを知っていたのだ。
「君はもう、僕が何を言おうとしているかを推察しただろう。そのときボールが、杉の木
を通り越してここの障子のあいだから、兄さんの前へ飛んできたのだよ。そして、ちょう
どそのとき兄さんは、君も知っている通りピストルをいじることの好きな兄さんは、タマ
を込めたそれを顔の前でもてあそんでいたのだよ。偶然指が引き金にかかっていたのだね。
ボールが兄さんの手を打った拍子に、ピストルが発射したのだ。そして、兄さんは自分の
手で自分の額を打ったのだよ。僕はそれに似た事件を、外国の雑誌で読んだことがある。
それから、そこで一度はずんだボールは、その余勢で鉄瓶をくつがえして、灰の中へ落ち
込んだのだ。勢いがついているから、ボールはむろん灰の中へもぐってしまう。これはす
べて仮定にすぎない。だが、非常にプロバビリティのある仮定ではないだろうか。先にも
いった通り偶然としてはあまり揃いすぎたさまざまの一致が、この解釈を裏書きしてはい
ないだろうか。警察のいうように、これから先、犯人が出ればともかく、いつまでもそれ
がわからないようなら、僕はこの推定を事実と見るほかはないのだ。ね、君はそうは思わ
ないかい」
二郎は返事をしようともしなかった。さっきからの姿勢を少しもくずさないで、じっと
一つ所を見つめていた。彼の顔には恐ろしい苦悶の色が現われていた。
「ところで、二郎君」庄太郎はここぞと、取って置きの質問を発した。「そのとき、塀を越
したボールを打ったのは、いったい誰だい。君の友だちかい。その男は、考えてみれば罪
の深いことをしたものだね」
二郎はそれでも答えなかった。見ると彼の大きく見張った目尻からギラギラと涙が湧き
上がっていた。
「だが君、何もそう心配することはないよ」庄太郎はもうこれで充分だと思った。「もし僕
の考えが当たっていたとしても、それは過失にすぎないのだ。ひょっとして、あのボール
を打ったのが君自身であったところが、それはどうも仕方のないことだ。決してその人が
兄さんを殺したわけではない。ああ、僕はつまらないことを言い出したね。君、気をわる
くしてはいけないよ。じゃね、僕はこれから下へ行ってねえさんにお悔みを言ってくるか
ら、もう君は何も考えないことにしたまえ」
そして彼は、かつて不様に辷り落ちたあの梯子段を、意気揚々とおりて行くのであった。
五
庄太郎の突拍子もない計画は、まんまと成功したのである。あの調子なら、二郎は今に
たまらなくなって、彼が事実だと信じている事柄を、警察に申し出るに違いない。よしそ
の以前に、庄太郎が嫌疑者として捕われるようなことがあっても、二郎の申し出さえあれ
ば、わけなく疑いをはらすことができる。彼の捏造した推理には、単なる情況証拠による
嫌疑者を釈放するには、充分過ぎるほどの事実味があるのだ。のみならず、それが自分の
過失から兄を殺したと信じている二郎の口によって述べられるときは、一そうの迫真性が
加わるわけでもあった。
庄太郎はこれで充分安心することができた。そして、きのうの刑事がいずれ又やってく
るであろうが、彼がきた時には、ああしてこうしてと、手落ちなくはかりごとを廻らすの
であった。
その次の日の昼過ぎに、案の|定《じょう》××警察署刑事××××氏が庄太郎の下宿
をおとずれた。宿の主婦がささやき声で、
「又このあいだの人が来ましたよ」
といって、その名刺を彼の机の上に置いた時にも、彼は決して騒がなかった。
「そうですか、なにいいんですよ、ここへ通してください」
すると、やがて階段に刑事の上がってくる足音が聞こえた。だが、妙なことにはそれが
一人の足音ではなく、二人三人のそれらしく感じられるのだ。「おかしいな」と思いながら
待っている目の前に、先ず刑事らしい男の顔が現われ、そのうしろから、意外にも奥村二
郎の顔がひょいと覗いた。
「さては、先生もうあのことを警察に知らせたのだな」
庄太郎はふとほほえみそうになるのを、やっとこらえた。
だが、あれはいったい何者であろう。二郎の次に現われた商人体の男は。庄太郎はその
男をどっかで見たような気がした。しかし、いくら考えてみても、どうした知り合いであ
るか、少しも思い出せないのだ。
「君が河合庄太郎か」刑事が横柄な調子で言った。「オイ、番頭さん、この人だろうね」
すると、番頭さんと呼ばれた商人ていの男は即座にうなずいて見せて、
「ええ、間違いございません」
というのだ。それを聞くと、庄太郎はハッとして思わず立ち上がった。彼には一瞬間に
一切の事情がわかった。もはや運のつきなのだ。それにしても、どうしてこうも手早く彼
の計画が破れたのであろう。二郎がそれを見破ろうとはどうしても考えられない。彼はボ
ールを打った本人である。時間も一致すれば、お誂え向きに障子があいていたばかりか、
鉄瓶さえくつがえっていたのだ。この真に迫まったトリックを、どうして彼が気づくもの
か。それはきっと何か庄太郎自身に錯誤があったものに違いない。だが、それはいったい
どのような錯誤であったろう。
「君は実際ひどい男だね。僕はうっかりだまされてしまうところだった」二郎が腹立たし
げにどなった。「だが、気の毒だけれど、君はあんな小刀細工をやったばかりに、もう動き
のとれない証拠を作ってしまったのだよ。あの時には、僕も気がつかなかったけれど、あ
すこにあった火鉢は、あれは兄が殺された時に同じ場所に置いてあったのとは、別の火鉢
なのだよ。君は灰神楽のことをやかましく言っていたが、どうしてそこへ気づかなかった
のだろうね。これが天罰というものだよ。灰神楽のために灰がすっかりかたまってしまっ
て、使えなくなったものだから、婆やが別の新らしい火鉢と取り替えておいたのだよ。そ
れは灰を入れてから一度も使わぬ分だから、ボールなんぞ落ち込む道理がないのだ。君は
僕のうちに同じ桐の火鉢が一つしかないとでも思っているのかい。ゆうべはじめてそのこ
とがわかった。僕は君の悪企みにほとほと感心してしまったよ。よくもあんな|空《そら》
|事《ごと》を考え出したもんだね。僕は当時あの部屋になかった火鉢にボールが落ちて
いるとはおかしいと思って、よく考えてみると、どうも君の話し方に腑に落ちないところ
がある。で、とにかく、きょう早朝刑事さんに話してみたのだ」
「運動具を売っているうちはこの町にもたくさんはないから、すぐわかったよ。君はこの
番頭さんを覚えていないかね。きのうの昼頃、君はこの人からボールを一個買い取ったで
はないか。そして、それを泥で汚して、さも古い品のように見せかけて、奥村さんの火鉢
へ入れたのじゃないか」
刑事が吐き出すように言った。
「自分で入れておいて、自分で探し出すのだから、わけはないや」
二郎が大きな声で笑い出した。
庄太郎は、正に御念の入った「犯罪者の愚挙」を演じたのであった。
石榴
1
私は以前から「犯罪捜査録」という手記を書き溜めていて、それには、私の長い探偵生
活中に取り扱った目ぼしい事件は、ほとんど漏れなく、詳細に記録しているのだが、ここ
に書きつけておこうとする「硫酸殺人事件」は、なかなか風変わりな面白い事件であった
にもかかわらず、なぜか私の捜査録にまだしるされていなかった。取り扱った事件のおび
ただしさに、私はついこの奇妙な小事件を忘れてしまっていたのに違いない。
ところが、最近のこと、その「硫酸殺人事件」をこまごまと思い出す機会に出くわした。
それは実に不思議千万な、驚くべき「機会」であったが、そのことはいずれあとでしるす
として、ともかくこの事件を私に思い出させたのは、信州のS温泉で知り合いになった|
猪《いの》|股《また》という紳士、というよりは、その人が持っていた一冊の英文の探
偵小説であった。手擦れで汚れた青黒いクロース表紙の探偵小説本に、今考えてみると、
実はさまざまの意味がこもっていたのであった。
これを書いているのは昭和――年の秋のはじめであるが、その同じ年の夏、つまりつい
一と月ばかり前まで、私が信濃の山奥に在るSという温泉へ、ひとりで避暑に出かけてい
た。S温泉は信越線のY駅から、私設電車に乗って、その終点からまた二時間ほどガタガ
タの乗合自動車に揺られなければならないような、ごくごく辺鄙な場所にあって、旅館の
設備は不完全だし、料理はまずいし、遊楽の気分はまったく得られないかわりには、人里
離れた深山幽谷の感じは申し分がなかった。旅館から三丁ほど行くと、非常に深い谷があ
って、そこに見事な滝が懸っていたし、すぐ裏の山から時々猪が出て、旅館の裏庭近くま
でやってくることもあるという話であった。
私の泊った翠巒荘というのが、S温泉でたった一軒の旅館らしい旅館なのだが、ものも
のしいのは名前だけで、広さは相当広いけれど、全体に黒ずんだ山家風の古い建物、白粉
の塗り方も知らない女中たち、糊のこわいツンツルテンの貸し浴衣という、まことに都離
れた風情であった。そんな山奥ではあるけれど、さすがに盛夏には八分どおり滞在客があ
り、そのなかばは東京、名古屋などの大都会からのお客さんである。私が知合いになった
という猪股氏も、都会客の一人で、東京の株屋さんということであった。
私は本職が警察官のくせに、どうしたものか探偵小説の大の愛読者なのである。という
よりは、私の場合は、探偵小説の愛読者が、犯罪事件に興味を持ち出したのがきっかけで、
地方警察の平刑事から警視庁捜査課に入りこみ、とうとう半生を犯罪捜査に捧げることに
なったという、風変わりな径路をとったのであるが、そういう私のことだから、温泉など
へ行くと、泊り客の中にうさん臭いやつはいないかと目を光らせるよりは、かえって、探
偵小説好きはいないかしら、探偵小説論を戦わす相手はいないかしらと、それとなく物色
するのが常であった。
今、日本でも探偵小説はなかなか流行しているのに、娯楽雑誌などの探偵小説は読んで
いても、単行本になった本格の探偵小説を持ち歩いているような人は、不思議なほど少な
いので、私はいつも失望を感じていたのであるが、今度だけは、翠巒荘に投宿したその日
のうちに、実に願ってもない話相手を見つけることができた。
その人は、青年でもあることか、あとでわかったところによると、私より五つも年長の
四十四歳という中年者の癖に、トランクに詰めている本といえばことごとく探偵小説、し
かも、それが日本の本よりも英文のものの方が多いという、実に珍らしい探偵趣味家であ
った。その中年紳士が今いった猪股氏なのである。その猪股氏が、旅館の二階の縁側で、