饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.16

みしなくなったのですが、それと同時に、ある事ない事谷村さんの悪口をふれ廻りはじめ

ました。殊にひどいのは、絹代さんの貞操を疑わせるようなことを、しかもその罪の相手

は琴野氏自身であるという作り話を方々でしゃべりちらすことでした。

たとえ作り話とわかっていても、そんなことを間接に耳にしますと、万右衛門さんもつ

い妙な疑惑を抱かないではいられませんでした。私の家内は、絹代さんと大へんうまが合

って、よくお訪ねしてはいろいろお世話になっていたのですが、そういうことが自然家内

の耳にもはいるものですから、近頃谷村さん御夫婦のあいだが変だ、時々高い声で口論な

すっていることさえある。あれでは奥さんがお可哀そうだなどと、よく私に言い言いした

ものでした。

そんなふうにして、先祖伝来の憎悪怨恨の悪血が、万右衛門さんの胸にも宗一さんの胸

にも、だんだん烈しく沸き立って行きました。その果てには、宗一さんから万右衛門さん

に当てて、呪いに充ちた挑戦の手紙が頻々として舞い込むこととなったのです。谷村さん

は平常は大へん物わかりのよい紳士ですが、ひとつ間違うと、まるで悪鬼のように猛り狂

う烈しい気性の持ち主でした。おそらくは先祖から伝わる闘争好きな血のさせるわざだっ

たのでしょうね。

硫酸殺人事件は、こういう事情が、いわばその頂点に達していた時に起こったのです。

宗一さんが前代未聞のむごたらしい方法で殺されたそのちょうど翌朝、万右衛門さんが汽

車に乗ったまま行方不明になってしまった。とすると、絹代さんがあのようにおののき恐

れたのも決して無理ではなかったのです。

さて、お話を元に戻して、私が絹代さんに呼ばれて、被害者が琴野宗一氏に違いないと

うちあけられた、あの晩のことをつづけて申し上げますが、絹代さんは、それには着物の

柄が一致するばかりでなく、こういう証拠があるのだと言って、帯のあいだから細かく畳

んだ紙切れを取り出し、それをひろげて見せてくれました。紙切れというのは手紙らしい

もので、大体こんなことが書いてあったのです。

何月幾日の――正確な日付をいま思い出せませんが、それはつまり殺人事件が発見され

た当日にあたるのです。で、何月幾日の午後四時にG町の例の空き家(例のとあるからに

は、その手紙の受け取り主であった万右衛門さんも、あらかじめその空き家を知っていた

のでしょうね)例の空き家に待っているから、是非来てもらいたい。そこで、年来のいざ

こざをすっかり清算したいと思うのだ。君はよもや、この手紙を読んで、卑怯に逃げ隠れ

などしないだろうね。まあこんなことが、しかつめらしい文章で書いてあったのです。差

出人はむろん琴野宗一氏で、文章の終りに以前琴野家の商標であった、丸の中の宗の字が

書き添えてありました。

「で、御主人は、この時間に空き家へ出掛けられたのですか」

私は驚いて尋ねました。万右衛門さんは感情が激すると、そういうばかばかしいまねも

仕兼ねない人ですからね。

「それがなんともいえませんのよ。主人はこの手紙を見ると顔色を変えて、ホラ、御存知

でしょう。あの人の癖の、こめかみの脈が、眼に見えるほどピクピク動き出しましたの。

わたし、これはいけないと思って、気ちがいみたいな人に、お取り合いなさらぬほうがい

いって、くどくお止めしておいたのですけれど……」

と絹代さんはいうのです。それに、万右衛門さんは、さきにもちょっと申しましたよう

に、その日、午後からずっと夜おそくまで、書斎にとじこもって、東京へ持って行く新設

会社の目論見書とかを書いていたので、絹代さんはすっかり安心していたのだそうですが、

今になって考えると……いったい万右衛門さんは、ひと晩だって行く先を知らせないで家

をあけたことのない人ですから、それが丸二日も行方不明になってみると、どうもその書

斎にこもっていたというのが、絹代さんを安心させる手だったのかもしれないのです。万

右衛門さんの書斎というのは、裏庭に面した日本座敷で、その縁側を降りて柴折戸をあけ

れば、自由にそとへ出られたのですからね。で、恐ろしい邪推をすれば、家内の者に知ら

れぬようにソッと忍び出して、すぐ近くのG町へ出かけて行き、また何喰わぬ顔で書斎に

戻っているということも、決して不可能ではなかったのです。

万右衛門さんが、あらかじめ殺意をもって、その空き家へ出かけて行ったというのは、

まったくあり得ないことでした。由緒ある家名を捨て、美しい奥さんを捨てて、敗残の琴

野氏などと命のやり取りをする気になれよう道理がありませんからね。もし出かけて行っ

たとすれば、ただ琴野氏の卑劣なやり方を面罵して、拳骨のひとつもお見舞い申すくらい

の考えだったのでしょう。しかしそこに待ちかまえていた相手は、さっきからもいうよう

に、世を呪い人を呪い、気ちがいのようになっていた琴野氏ですから、どんな陰謀を企ら

んでいなかったとも限りません。もしその時、琴野氏が硫酸の瓶を手にして、相手の顔を

めちゃめちゃにしてやろうと身構えていたとしたら……これは想像ですよ。しかし非常に

適切な想像ではないでしょうか。琴野氏にとって、万右衛門さんは憎んでも憎み足りない

恋敵です。その恋敵の顔を癩病やみのように醜くしてやるというのは、実に絶好の復讐と

いわねばなりません。恋人を奪った男が、片輪者同然になって生涯悶え苦しむのみか、女

のほうでは、つまり絹代さんのほうでは、その醜い片輪者を末永く夫としてかしずいて行

かねばならぬという、一挙にして二重の効果をおさめるわけですからね。さて、そこへは

いって行った万右衛門さんが、事前に敵の陰謀を見抜いたとしたら、どういうことになり

ましょうか。勃然として起こる激情をおさえることができたでしょうか。幾代前の先祖か

らつちかわれた憎悪の血潮が、分別を越えて荒れ狂わなかったでしょうか。そこに常規を

逸した闘争が演じられたことは、想像にかたくないではありませんか。そして、つい勢い

のおもむくところ、敵の用意した劇薬を逆に即座の武器として、あの恐ろしい結果をひき

起した。と考えても、さして不合理ではないように思われます。

絹代さんはゆうべから、一睡もしないで、そういう恐ろしい妄想を描いていたのです。

そして、もうじっとしていられなくなったものですから、日頃、相当立ち入ったことまで

話し合っている私を呼び出して、思い切って、その恐ろしい疑惑をうち明けなすったわけ

でした。

「しかし、いくら感情が激したからといって、奥さんは御承知ないかもしれませんが、琴

野さんはただ硫酸をぶっかけられたのでなく、それを飲まされていたのですよ。昔、罪人

の背筋を裂いて鉛の熱湯を流しこむという刑罰があったそうですが、それにも劣らぬ無残

きわまる所業ではありませんか。御主人にそんな残酷なまねができたでしょうか」

私はなんの気もつかず、感じたままをいったのですが、すると、絹代さんはさも気まず

そうに、上目使いに私を見て、パッと赤面されたではありませんか。私はたちまちその意

味を悟りました。万右衛門さんは或る意味では非常に残酷な人だったのです。少し以前、

私の家内が絹代さんのお供をして、笠置の温泉へ遊びに行ったことがありまして、そのと

き家内は、絹代さんの全身に、赤くなった妙な傷痕がたくさんついていることを知ったの

です。絹代さんは、誰にもいっちゃいやよ、と断わって、家内にだけ、その傷のいわれを

お話しなすったそうですが、万右衛門さんには、そういう意味の残酷性は充分あったわけ

で、絹代さんはそれを考えて、思わず赤面されたのに違いありません。

しかし、私はそれを見ぬ振りをして、なおも慰めの言葉をつづけました。

「あなたは大へんな取り越し苦労をしていらっしゃるのですよ。そんなことがあっていい

ものですか。御主人が出発されてから、まだ二日しかたっていないのですから、行方不明

だかどうだかわかりもしないのです。それに、たとえあれが琴野さんだったとしても、現

に赤池という気ちがいみたいな青年が、現場で捕えられているのですから、何か確かな反

証でも挙がらない限り、あの男が下手人と見なければなりません。恐ろしい死骸を、平気

で写生していたほどですから、あいつなれば硫酸を飲ませるぐらいのことはやったかもし

れませんよ」

と、まあいろいろ気休めを並べてみたのですが、直覚的に、ほとんどそれを信じきって

いるらしい絹代さんは、いっこう取り合ってくれませんでした。そこで、結局は、今どう

騒いでみても仕方がないのですから、私は何も聞かなかったていにして、もう一日二日様

子を見ようではありませんか。なあに、谷村さんはそのうちヒョッコリ帰ってこられるか

もしれませんよ。ただ被害者が琴野宗一であるという点は、私が警察官なのですから、こ

のままうっちゃっておくわけにも行きませんが、しかし、それは谷村さんや奥さんの名前

を出さなくても、他の方面から確かめる道がいくらもありますよ。決して御心配には及び

ません。ということで、その晩は絹代さんと別れたのです。むろん私はその夜のうちに、

被害者が琴野氏であるという新知識に基づいて、同氏が佗住まいをしていた借家を訪ね、

果たして行方不明になっているかどうかを確かめてみるつもりでした。ところが、そうし

て谷村家を辞して、K署へ帰ってみますと、私の留守中に何かあった様子で、署内の空気

がなんとなくざわめいているではありませんか。司法主任の斎藤という警部補が……この

人は当時県下でも指折りの名探偵といわれていたのですが……その斎藤氏がいきなり私の

肩を叩いて、オイ被害者がわかったぞ。というのです。

よく聞いてみますと、私が会議の席をはずして間もなく、二人づれのお菓子屋さんが署

を訪ねてきて、硫酸殺人事件の被害者の着物を見せてほしいと申し出たのだそうです。そ

の着物は幸いまだ署に置いてあったものですから、すぐ見せてやりますと、二人の者は顔

を見合わせて、いよいよそうだ、元貉饅頭の主人琴野宗一さんに違いない。この結城紬は、

琴野さんがまだ盛んの時分、わざわざ織元へ注文した別誂えの柄だから、広い名古屋にも、

ふたつとない品だ。最近もこの一張羅を着て、私どもの店へ遊びにきたことがあるくらい

ですから、決して間違いはありません。という確かな証言を与えました。そこで、琴野氏

の住所へ署のものが行って調べてみますと、案の|定《じょう》、おとといどこかへ出かけ

たきり、まだ帰宅しないということが判明したのだそうです。

もうなんの疑うところもありません。被害者は琴野氏に確定しました。少なくとも被害

者に関する限り絹代さんの直覚は恐ろしく的中したのです。この調子だと、加害者もやっ

ぱりあの人の想像した通りかもしれないぞと、私はなんだか不吉な予感におびえないでは

いられませんでした。

「被害者が琴野とわかってみると、もう一軒の貉饅頭の本家を調べる必要があるね。なに

しろ有名な敵《かたき》同士なんだから。ああ、そうそう、確かあの貉饅頭、谷村とかい

ったっけね、君は、あすこの主人と懇意なのじゃないかね。ひとつ君を煩わそうか」

司法主任がなんの気もつかず、私をビクビクさせるのです。

「いや、私はどうも……」

「フン、懇意すぎて調べにくいというのかね、よしよし、それじゃおれがやろう。そして、

この神秘の謎というやつを、ひとつ嗅ぎ出してみるかな」

名探偵の司法主任は、舌なめずりをして、そんなことをいうのでした。

斎藤警部補は、さすが名探偵といわれたほどあって、実にテキパキと調査を進めて行き

ました。彼はもうその晩のうちに、谷村さんが行方不明になっていることをさぐり出し、

翌日からは谷村家の店や住宅はもちろん、万右衛門さんと親交のあった同業者の宅などへ、

自から出向いたり部下をやったりして、忽ちのうちに、私が絹代さんから聞いているだけ

の事情を、すっかり調べ上げてしまいました。いや、それ以上のある重大な事実までもさ

ぐり出したのです。しかもその新事実は、万右衛門さんが下手人であるということを、ほ

とんど確定するほどの恐ろしい力を持っていたのでした。

谷村さんが株式組織の製菓会社を起こそうとしていたことは前にも申し上げた通りです

が、株式といっても一般に公募するわけではなく、新式の製菓会社に圧迫されて営業不振

をかこつ市内の主だったお菓子屋さんたちが、それに対抗して新らしい活路を求めるため

に、各自資金を調達して、相当大規模な製菓工場を起こそうということになり、会社成立

の上は、谷村さんが専務取締役に就任する予定だったのですが、それについて、工場敷地

買入れ資金そのほか創立準備費用として、各お菓子屋さんの出資になる五万円〔註、今の

二千万円〕ほどの現金を谷村さんが保管して、仮りに市内の銀行の当座預金にしてあった

というのです。

二、三のお菓子屋さんの口から、そのことがわかったものですから、さっそく絹代さん

に預金通帳のありかを尋ねますと、通帳なれば主人の書斎の小型金庫にしまってあるはず

だというので、それをひらいてみたのですが、ほかの小口の預金帳は残っていましたけれ

ど、五万円の分だけが紛失していたのです。そこで、すぐさまN銀行に問い合わせたとこ

ろ、その五万円は、ちょうど殺人事件のあった翌朝、銀行がひらかれると間もなく、規定

の手つづきを踏んで引き出されていることが判明しました。支払い係りは谷村さんの顔を

見慣れていませんでしたので、引き出しにきたのが万右衛門さんかどうかは断言しかねる

ということでしたが、しかし、これによってみますと、谷村さんは四時の上り急行列車に

乗ったと見せかけて、実は銀行のひらかれる時間まで、名古屋にとどまっていたことにな

るのです。この一事だけでも、万右衛門さんが犯人であることは、もう疑いの余地がない

ではありませんか。

たとえ一時の激情からとはいえ、殺人罪を犯してみれば、すぐ目の前にちらつくのは恐

ろしい断頭台の幻です。万右衛門さんが逃げられるだけ逃げてみようと決心したのは、人

情の自然ではありますまいか。逃亡となると、すぐ入用なものはお金です。纏まったお金

さえあれば、捜査の網の目をのがれるために、あらゆる手段を尽すことができるのですか

らね。万右衛門さんは、あのむごたらしい罪を犯したあとで、何喰わぬ顔で自宅に帰りま

した。それはひとつには絹代さんにそれとなく別かれを告げるためでもあったでしょう。

しかし、もっと重大な目的は、小型金庫の中から五万円の通帳を取り出すことではなかっ

たでしょうか。

そのほかにまだ、私だけが知っていて、検事局でも警察でも知らないひとつの妙な事柄

がありました。これは後になって私の家内が絹代さんの口から聞き出してきたのですが、

谷村さんが東京へ行くといって家を出た前晩、つまり殺人事件が発見されたその夜ですね。

万右衛門さんのその夜なかの様子が、どうもただごとではなかったというのです。何かこ

う、永の別かれでもするように、さもさも名残惜しげに、近頃になく絹代さんにやさしい

言葉をかけて、突然気違いみたいに笑い出すかと思うと、涙をポロポロこぼして烈しいす

すり泣きをはじめるという有様だったそうです。万右衛門さんという人は、先にも申しま

した通り、日頃から奥さんに対する愛情の表わし方が、常人とはひどく違っていたのです。

そういう風変わりな人だものですから、またいつもの病気なのだろうと、さして気にも留

めなかったのだそうですが、あとになって考えると、やっぱりあれには深い意味があった

のだ、万右衛門さんはほんとうに今生の別かれを告げていたのだと、ひしひし思い当たり

ますと、絹代さんが打ち明けなすったというのです。

そんなふうにして、万右衛門さんの有罪はもはや動かしがたいものとなったのですが、

それらの事情なぞよりも、もっと確かな証拠は、そうして十何日というものが経過したに

もかかわらず、谷村さんの行方が少しも知れないことでした。むろん警察では、人相書き

を全国の警察署に配布して、厳重な捜索を依頼していたのですけれど、それにもかかわら

ず、今もってなんの消息もないのを見ますと、これはもう、万右衛門さんが、あらゆる手

段を尽して、故意に姿をくらましているとしか考えられないのでした。そこでやっとあの

非凡な芸術家赤池青年の釈放ということになりました。彼はこの事件の発端で甚だ重要な

ひと役を勤めたわけですが、考えてみれば気の毒な男です。聞けばその後、ほんとうの気

ちがいになって、とうとう癲狂院に入れられてしまったということですが。

このようにして旧幕以来の名古屋名物であった貉饅頭は、二軒が二軒とも、なんの因縁

でしたろうか、実にみじめな終りをとげたのでありました。気の毒なのは絹代さんでした。

さて御主人がいなくなって、親戚なぞが寄り集まって、財産しらべをしてみますと、谷村

さんがああして製菓会社を起こしてみたり、いろいろやきもきしなければならなかったの

も無理でないことがわかってきました。外見は派手につくろっていたものの、内実は、谷

村家には負債こそあれ、絹代さんが相続するような資産など一銭だってありはしなかった

のです。T町の由緒ある土蔵造りの店舗は、三番まで抵当にはいっているし、土地住宅も

同じように負債の担保になっているという始末。十数本の箪笥と、その中にはいっている

幾十|襲《かさ》ねの衣裳だけが、やっと奥さんの手に残ったのですが、絹代さんはそれ

を持って、泣く泣く里へ居候に帰らなければならない有様でした。

さて、これでいわゆる硫酸殺人事件はすべて落着したように見えました。私などもそれ

を信じきっていたのです。ところが、やがて、実はそうでないことがわかってきました。

この事件には、まるで探偵小説のような、非常に念入りな、奇怪至極なトリックが用いら

れていたことがわかってきました。それは指紋だったのです。たったひとつの指紋が事態

をまるで逆転させてしまったのです。これから少し自慢話になるわけですが……その指紋

を発見したのが、この私でありました。そして、たったひとつの指紋から、まるで不可能

としか思えない、犯人のずば抜けたトリックを看破して、県の警察部長からお褒めの言葉

をいただいたという、まあ気のいい話なのですが。

それは殺人が行なわれて半月あまりののちのことでしたが、ある日、絹代さんがいよい

よ住まいを手離すことになって、女中たちを指図して部屋をかたづけているところへ、私

が行き合わせたのです。そして取りかたづけのお手伝いをしながら、元の万右衛門さんの

書斎をウロウロしていて、ふと眼についたのが一冊の日記帳でした。むろん万右衛門さん

の日記ですよ。あの人は今頃どこに隠れているのかしら、定めし取り返しのつかぬ後悔に

責めさいなまれていることであろう……などと、感慨を催しながら、その日記の最後の記

事から、だんだんに日をさかのぼって眼を通して行ったのですが、記事そのものには、別

に意外な点もなく、ただ所々に、琴野宗一氏の執拗な所業を呪う言葉が書きつらねてある

くらいのものでしたが、その或るページを読んで、ヒョイと気がついたのは、ページの欄

外の白い部分に、ベッタリと、|拇《おや》指に違いない一つの指紋が捺されていること

でした。万右衛門さんが日記を書きながら、インキで拇指を汚してそれを知らずにページ

を繰ったために、そんなハッキリした指紋が残されたのに違いありません。

はじめはなにげなく眺めていたのですが、やがて私はギョッとして穴のあくほどその指

紋を見つめはじめました。おそらく顔色も青ざめていたことでしょう。息遣いさえ烈しく

なっていたかもしれません。絹代さんが私の恐ろしい形相に気づいて、まあどうなすった

のと、声をかけられたほどですからね。

「奥さん、これ、これ……」と、私はどもりながら、その指紋をゆびさして、「この指のあ

とはむろん御主人でしょうね」と詰問するように尋ねたものです。すると絹代さんは、

「ええ、そうですわ。主人はこの日記を決して他人にさわらせませんでしたから。それは

主人のに間違いありませんわ」

とおっしゃるのです。

「では、奥さん、何かこう、御主人がふだんお使いになっていた品で、指紋の残っている

ようなものはないでしょうか。たとえば塗りものだとか、銀器だとか……」

「銀器でしたら、そこに煙草入れがありますが、そのほかには主人が手ずから扱ったよう

な品物はちょっと思い出せませんけれど」

絹代さんはびっくりしたような顔をしています。私はいきなりその煙草入れを取って調

べてみました。表面は拭ったようになんの跡もついていませんでしたが、蓋を取って裏を

見ると、その滑らかな銀板の表面に、幾つかの指紋にまじって、日記帳のと一分一厘違わ

ない拇指紋が、まざまざと浮き上がっていたではありませんか。

あなたはきっと、ただ肉眼で見たくらいで、指紋の見分けがつくものかと、不審にお思

いなさるでしょうが、われわれその道で苦労しています者には、別段拡大鏡を使わずとも、

少し眼を接近させて熟視すれば、隆線の模様など大体見分けることができるのですよ。も

っとも、その時はなお念のために、書斎の机の引出しにあったレンズを出して、充分調べ

てみたのですが、決して私の思い違いではありませんでした。

「奥さん、実に大へんなことを発見したのです。まあそこへ坐ってください。そして、私

のお尋ねすることを、よく考えて答えてください」

私はすっかり興奮してしまって、おそらく眼の色を変えて、絹代さんに詰め寄ったこと

と思います。その興奮が移ったのか、絹代さんも青い顔をして、不安らしく私の前に坐り

ました。

「エーと、先ず第一に、あの夕方ですね、御主人が出発された前日の夕方ですね、谷村さ

んはむろん夕ご飯をうちでお上がりになったのでしょうが、その時の様子を、できるだけ

詳しくお話しくださいませんか」

私の質問はひどく唐突だったに違いありません。絹代さんは眼を丸くして、まじまじと

私の顔を見ておりましたが、

「詳しくといって、何もお話しすることはありませんわ」

とおっしゃるのです。といいますのは、その日、谷村さんは書斎にとじこもったきり、

夢中になって調べものをしておられたので、夕御飯なんかも絹代さんが書斎まで運んで行

って、お給仕もしないで、襖をしめて、茶の間へ帰ったというのです。そして、しばらく

してから、頃を見計らってお膳を下げに行っただけだから、別にお話しすることもないと

いうことでした。これは万右衛門さんの癖でして、何か調べものをするとか、書きものや

読書などに熱中している時は、朝から晩まで書斎にとじこもって、家内の人を近寄らせな

い、お茶なども、机のそばの火鉢に鉄瓶をかけておいて、自分で入れて飲むといったあん

ばいで、まるで芸術家みたいな潔癖を持っていたのです。

「で、その時、御主人はどんなふうをしていられました。何かあなたに物をいわれました

か」

「いいえ、物なんかいうものですか。そんな時こちらから話しかけようものなら、きっと

どなりつけられるにきまっていますので、私もだんまりで引き下がりましたの。主人は向

こうを向いて机にかじりついたまま、見向きもしませんでした」

「ああ、そうでしたか……それから、これはちょっとお尋ねしにくいのですが、こういう

大事の場合ですから、思い切ってお聞きしますが、その晩ですね、御主人はなんでも一時

頃まで書斎にこもっていて、それからお寝みになったということですが、そのお寝みにな

った時の様子をひとつ……」

絹代さんはポッと眼の縁を赤くして……あの人はよく赤面する人でした。そうするとま

たいっそう美しく見える人でした。私は今でも、あの美しい奥さんの姿が、瞼の裏に残っ

ているような気がしますよ……赤くなってモジモジしていましたが、私が真顔になって催

促するものですから、仕方なく答えました。

「奥の八畳に寝みますの。あの晩は、あまり遅くなるものですから、わたし、先に失礼し

て、ウトウトしているところへ、そうです、ちょうど一時頃でしたわ。主人がはいって参

りましたの」

「そのとき部屋の電灯はつけてありましたか」

「いいえ、いつも消しておく習慣だったものですから……廊下の電灯が障子に射して、ま

っ暗というほどでもありませんの」

「それで、御主人は何かお話しになりましたか。いいえ、ほかのことは何もお聞きしない

でもいいです。ただ、その晩寝室で御主人とのあいだに、世間話とか、家庭のこととか、

何かお話があったかどうかということをうかがいたいのです」

「別になにも……そういえばほんとうに話らしい話は、何もしなかったようですわ」

「そして、四時前にはもう起きていらしったのですね。その時の様子は?」

「わたし、つい寝すごして、主人が起きて行ったのを知りませんでしたの。ちょうどその

朝、電灯に故障があって、主人はロウソクの光で洋服を着たのですが、化粧室ですっかり

着更えをするまで、私ちっとも知らなかったのです。そうしているところへ、前の晩から

いいつけてあった人力車が参りましたので、女中と私とが、やっぱりロウソクを持って玄

関のところまでお送りしましたの」

まるで講釈師みたいな変な話し方になりましたが、これは決して写実の意味ではありま

せんよ。話の筋をわかりやすくするための便法です。ダラダラお話ししていたのでは、御

退屈を増すばかりだと思いますので、ほんとうの要点だけをつまんでいるのですよ。むろ

んこんな簡単な会話で、私のさぐり出そうとしていたことがわかろうはずはありません。

その時の私たちの会話は、たっぷり一時間もかかったのですからね。

で、つまり、その朝、万右衛門さんは食事もしないで出掛けたのだそうです。秋の四時

といえば、夜なかですから、それも尤もなわけではありますがね。まあこういうふうにし

て、聞きたいだけのことをすっかり聞いてしまいました。私はドキドキしながら、手に汗

を握って、この奇妙な質問をつづけていたのです。私の組み立てた途方もない妄想が的中

するかどうかと、まるで一か八かのサイコロでも振るような気持でしたよ。ところが、ど

うでしょう。その晩の様子を聞けば聞くほど、私の妄想はだんだん現実の色を濃くしてく

るではありませんか。

「すると、奥さんはあの夕方から翌朝までのあいだ、御主人の顔を、はっきりごらんなす

ったことは一度もないわけですね。また、話らしい話もなさらなかったのですね」

私がいよいよ最後の質問を発しますと、絹代さんは、しばらくのあいだその意味を解し

かねてぼんやりしていましたが、やがて徐々に表情が変わって行きました。それはまるで

お化けにでも出くわしたような無残な恐怖でした。

「まあ、何をおっしゃってますの? それはいったいどういう意味ですの?早く、早く、

わけを聞かせてください」

「では、奥さんは自信がないのですね。あれが果たして御主人だったかどうか」

「まあ、いくらなんでも、そんなことが……」

「しかし、はっきり顔をごらんなすったわけではないでしょう。それに、あの晩に限って、

御主人はどうしてそんなに無口だったのですか。よく考えてごらんなさい。夕方から朝ま

でですよ。そのあいだ一度も話らしい話もしない一家の主人なんてあるものでしょうか。

書斎にとじこもっていらしったあいだは別として、それからあと出発されるまでには、留

守中言い置くこととか、なんかお話があるべきじゃないでしょうか」

「そういえば、ほんとうに無口でしたわ。旅立ちの前に、あんなに無口であったことは、

一度もありませんでしたわ。まあ、わたし、どうしましょう。これはいったいどういうこ

とでしょう。気が違いそうですわ。早くほんとうのことをおっしゃってください。早く…

…」

絹代さんのこの時の驚きと恐れとが、どのようなものであったか、あなたにも充分ご想

像がつくと思います。さすがに私もそこまでは突っ込むことはできませんでしたし、絹代

さんのほうでも、むろんそれに触れはしなかったのですが、もしあの晩の男が万右衛門さ

んでなかったとすると、絹代さんは実に女としての最大の恥辱にあったわけなのです。さ

いぜんも申しました通り、私の家内を通じて知ったところによりますと、その晩に限って、

万右衛門さんの様子が、不断とは非常に違っていたというではありませんか。突然笑い出

すかと思うと、またたちまち泣き出したというではありませんか。そしてその熱い涙が絹

代さんの頬をグショグショに濡らしたというではありませんか。それを今までは、谷村さ

んが殺人犯人であるために気が顛倒していたのだ、あの涙は奥さんとの訣別の涙だったの

だと、きめてしまっていましたけれど、もしその人が万右衛門さんでなかったとすれば、

あの執拗な抱擁も、笑いも、涙も、まったく別な、非常にいまわしい意味を持ってくるで

はありませんか。

そんなばかばかしいことが起こるものだろうか。あなたはきっとそうおっしゃるでしょ

うね。しかし、昔からずば抜けた犯罪者たちは、まったくありそうもないことを、不可能

としか思われぬことをやすやすとやってのけたではありませんか。それでこそ、彼らは犯

罪史上に不朽の悪名を残すことができたのではありませんか。

絹代さんの立場は、ただ不幸というほかに言葉はありません。そういう思い違いをした

としても、決してあの人の罪ではないのです。犯人の思いつきがあまりにも病的で、常規

を逸していたのです。あらゆる物質が慣性とか惰力とかいう奇妙な力に支配されているよ

うに、人間の心理にもそれと似た力が働いています。書斎に坐りこんで調べものをしてい

る人は、もしその着物が同じで、うしろ姿がそっくりであったとしたら、主人に違いない

と思いこんでしまうのです。書斎にはいるまでは確かにその人だったのですから、別の事

情が生じない限り……そして、その別の事情は生じてはいたのですが、ずっとあとになっ

てはじめてわかったのです……書斎から出てきた人も主人だと思い込むのに、なんの無理

がありましょう。それから寝室、朝の出発、すべてはこの錯覚の継続でした。大胆不敵の

曲者は、同時にまた甚だ細心でありまして、そこには電灯の故障というような微妙なトリ

ックまでも用意されていました。絹代さんの話によれば、あとで電灯会社の人を呼んで、

調べてもらいますと、故障でもなんでもなく、どうしてはずれたのか、いつの間にやら大

元のスイッチの蓋がひらいて、電流が切れていたのだということです。つまり曲者は、皆

の寝静まっているあいだに台所へ行って、鴨居の上にあるスイッチ箱の蓋をひらいておき

さえすればよかったのです。普通の家庭では大元のスイッチのことなどいっこう注意しな

いものですから、あわただしい出発の際に、女中たちがそこまで気のつくはずはないと、

チャンと計算を立てていたのに違いありません。

「では、では、あなたは、あれが主人でないとすると、いったい誰だったとおっしゃるの

ですか」

やっとしてから、絹代さんが泣きそうな声で恐る恐る尋ねました。

「びっくりなすってはいけませんよ。僕の想像が当たっているとすれば、いやいや、想像

ではなくて、もうほとんど間違いのない事実ですが、あれは琴野宗一だったのです」

それを聞くと、絹代さんの美しい顔が、子供が泣き出す時のようにキューッとゆがみま

した。

「いいえ、そんなはずはありません。あなたは何をいっていらっしゃるのです。夢でもご

らんなすったのですか。琴野さんはああして殺されたではありませんか。殺されたのがあ

の日の夕方だというではありませんか」

絹代さんにしてみれば藁にもすがりついて、この恐ろしい考えを否定したかったのに違

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