すんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっており.17
いありません。
「いや、そうではないのです。あなたには実になんとも言いようのないほどお気の毒なこ
とですが、殺されたのは琴野さんではなくて……琴野さんの着物を着せられた谷村さんだ
ったのですよ。御主人だったのですよ」
私はとうとうそれをいわねばなりませんでした。絹代さんはほんとうに可哀そうでした。
行方不明にもせよ、谷村さんがこの世のどこかの隈に隠れていたとすれば、どうしたこと
で再会できぬとも限らないのですが、そうではなくて、谷村さんこそ被害者……あのはぜ
た石榴みたいにむごたらしく殺された当人だとすると、たとえ、|夫《おっと》は恐ろし
い殺人者ではなかったのだという気休めがあるにもせよ、悲痛の情はいっそう切実に迫ま
ってくるに違いありませんからね。その上、さらにさらに残酷なことは、一と晩だけ夫に
化けた男が、谷村家にとっては累代の仇敵、夫の万右衛門さんが蛇蝎のごとく忌み嫌って
いた男、いや、そんなことはまだどうでもいいのです。何よりも恐ろしいのは、それが万
右衛門さんを殺害した――無理やり硫酸を飲ませて殺害した当の下手人であったというこ
とでした。女として、妻として、ほとんど耐えがたい事柄ではないでしょうか。
「私、どうにも信じきれません。それには確かな証拠でもありますの?どうか何もかも
おっしゃってくださいまし。私はもう覚悟しておりますから」
絹代さんはまったく色を失ったカサカサの唇で、かすかにいうのでした。
「ええ、お気の毒ですけれど、確かすぎる証拠があるのです。この日記帳と煙草入れに残
された指紋は、さっきも確かめました通り、御主人の谷村さんのものに間違いないのです
が、その指紋とあのG町の空き家で殺されていた男の指紋とが、ピッタリ一致するのです
よ」
そのころ愛知県には、まだ索引指紋設備はなかったのですが、この事件の被害者は、何
しろ顔がめちゃめちゃになっていて、容易に身元が判明しそうもなかったものですから、
万一東京の索引指紋にある前科者であった場合を考慮して、ちゃんと指紋を採っておいた
のでした。当時駈け出しの刑事巡査で、しかも探偵小説好きの私のことですから、指紋な
どにも特別の興味を持っていました。その被害者の指紋を、ひとつひとつ、ハンブルク指
紋法でもって分類してみたほどです。といっても、細かい隆線の特徴をことごとく記憶し
ているなんてことはできるものではありませんが、この被害者の右の拇指紋に限って、特
に覚え易いわけがあったのです。それは乙種蹄状紋……といいますのは、ひづめ型の隆線
が小指のがわからはじまって、また小指の方へ戻っているあれですね。その乙種蹄状紋の、
|外《がい》|端《たん》と|内《ない》|端《たん》とのあいだの線が、ちょうど七本
でして、索引の値でいえば3に当たるのです。しかし、それだけでは別に覚え易くもなん
ともありませんけれど、その七本の隆線を斜めによぎって、ごく小さな切り傷のあとがつ
いていたのですよ。同じ乙種蹄状紋で、同じ値で、同じ型の傷痕のある指が、この世に二
つあろうとは考えられません。つまりこの指紋こそ、G町の空き家で死んでいた男が、琴
野ではなくて谷村さんであったという、動かしがたい確証ではありますまいか。むろん、
あとになって私は日記帳の指紋とM署に保存してあった被害者のそれとを、綿密に比較し
てみましたが、ふたつはまったく一分一厘違っていないことが確かめられました。
私が、この驚くべき発見と推理とを、上官に対して詳細に報告したのは申すまでもあり
ません。そして、このたったひとつの指紋から、すでに確定的になっていた犯人推定が、
まったく逆転し、当局者はもちろん、あの地方の新聞記者を|心《しん》|底《そこ》か
ら仰天せしめたことも、また申すまでもありません。まだ若かった私は、この大手柄を、
もう有頂天になって喜ばないわけにはいきませんでした。
こんなふうにお話ししますと、被害者が琴野でないことは最初からわかっていたではな
いか、硫酸のために顔形が見分けられないということを、どうして疑わなかったのか。そ
ういうトリックは、探偵小説などにはザラにあるではないかと、われわれの迂闊をお笑い
なさるかもしれませんね。ですが、それは検事局にしろ、警察にしろ、最初一応は疑って
みたのです。ところが、この犯罪にはそういう疑いをまったく許さないような、一度は疑
っても、たちまちそれを忘れさせてしまうような、実に巧妙大胆な、もうひとつの大きな
トリックが、ちゃんと用意されていたのでした。といいますのは、谷村家の書斎での、あ
のずば抜けた人間すり替えの芸当によって、当の被害者の奥さんをまんまと罠にかけて、
万右衛門さんは少なくとも殺人事件の翌朝までは生きていた、その人が被害者であるはず
はないと信じさせてしまったことです。絹代さんの証言によって、あの夕方、問題の空き
家で谷村、琴野両氏が出会ったことは、想像にかたくはないのです。そしてその一方の谷
村さんが生き残っていたとしたら、前後の事情から考えて、被害者は琴野のほかにはない
ということになるではありませんか。このふたりは背恰好もほとんど同じでしたし、頭は
どちらも短かい五分刈りにしていたのですし、着物を着更えさせて顔をつぶしてしまえば、
ほとんど見分けがつきはしないのです。その上に、当の万右衛門さんはちゃんと生きてい
たことになっているのですから、絹代さんが現場に出向いて……犯人にはそれがいちばん
恐ろしかったに違いありません……死人のからだを検分するという危険なども、起こりよ
うがないのでした。実に何から何まで、うまいぐあいに考え抜いてあったではありません
か。しかし、探偵小説の慣用句を使いますと、犯人にはたったひとつ手抜かりがあったの
です。つまり、折角顔をつぶしながら、その顔よりももっと有力な個人鑑別の手掛かりで
ある指紋を、つぶしておかなかったことです。ある探偵小説家の口調をまねれば、この事
件では、指紋というものが、琴野氏の盲点に入っていたというわけです。
それにしても、まあなんとよく考えた犯罪でしたろう。琴野氏はこの一挙にして、先祖
累代の怨敵を思う存分残酷な……残酷であればあるほど、かえって嫌疑を免れるためには
好都合だったのです……残酷な手段で亡きものにすると同時に、年来あこがれの恋人と、
たとえ一夜にもせよ、夫婦のように暮らし、それがまた、罪跡をくらます最も重要な手段
になろうとは、なんといううまい思いつきだったのでしょう。そして第三に、金庫の中の
通帳を盗み出すことによって、赤貧の身がたちまち大金持ちになれたのではありませんか。
つまり一石にして三鳥という、まるでおとぎ話の魔法使いかなんぞのような手際でした。
今になって考えてみますと、犯罪の少し前、琴野が日頃の恨みを忘れたように、のめのめ
と谷村家へ出入りをしましたのは、ただ絹代さんの顔が見たいばかりではなかったのです。
谷村さん夫婦の習慣だとか、家の間取りだとか、金庫のひらき方だとか、実印の所在だと
か、電灯のスイッチのありかまでも、すっかり調べ上げておくためだったに違いありませ
ん。そして、その金庫の中へ纏まった会社創立資金が納められるのを待って、且つは谷村
さんが上京するという、ちょうどその夕方を選んで、いよいよ事を決行したのだと考えま
す。
琴野の犯行の径路などは、あなたには蛇足でしょうと思いますが、探偵小説などの手法
に習って、簡単に申し添えておきますと、先ず硫酸の瓶を用意して、空き家に待ち伏せ、
谷村さんがはいってくると、いきなり手足をしばり上げて、あの無残な罪を犯したのです。
それから、縛った繩を一度ほどいて、すっかり着物を取り替え、再び元の繩目の上を縛り
つけておいたのでしょう。そうして、谷村さんになりすました琴野は、硫酸の空瓶をどっ
かへ隠した上、通行者に見とがめられぬよう、細心の注意を払って、案内知った柴折戸か
ら、谷村家の書斎にこもってしまったというわけなのです。それからのちの順序は、さい
ぜん詳しくお話ししたのですから、もう付け加えることはないと思います。
これで硫酸殺人事件のお話はおしまいです。どうも大へん長話になってしまって恐縮で
した。あなたには御迷惑だったか知りませんが、でも、こうしてお話しさせていただいた
お蔭で、当時のことをありありと思い出すことができました。さっそく私の「犯罪捜査録」
に書きとめておくことにいたしましょう。
5
「いや、迷惑どころか、大へん面白かったですよ。あなたは名探偵でいらっしゃるばかり
でなく、話術家としても、どうして、大したものだと思いますよ。近来にない愉快な時間
を過ごさせていただきました。ですが、お話は条理を尽してよくわかりましたが、たった
一つ、まだうかがってないことがあるようですね。それは琴野という真犯人が、あとにな
って捕まったかどうかということです」
猪股氏は私の長話を聞き終った時、異様に私を褒めたたえながら、そんなことを尋ねる
のであった。
「ところが、残念ながら、犯人を逮捕することはできなかったのです。人相書きはもちろ
ん、琴野の写真の複製をたくさん作らせて、全国の主な警察署に配布したほどなんですが、
人間一人、隠れようと思えば隠れられるものとみえますね。その後十年近くになりますけ
れど、いまだに犯人は挙がらないのです。琴野は、どこか警察の目の届かぬところで、も
う死んでしまっているかもしれませんよ。たとえ生きていたとしても、局に当たった私自
身でさえほとんど忘れているほどですから、もう捕まりっこはありますまいね」
そう答えると、猪股氏はニコニコして、私の顔をじって見つめていたが、
「すると、犯人自身の自白はまだなかったわけですね。そこにはただあなたという優れた
探偵家の推理があっただけなのですね」
と、聞き方によっては、皮肉にとれるようなことをいうのである。
私は妙な不快を感じてだまっていた。猪股氏は何か考えごとをしながら、遙か目の下の
青黒い淵をボンヤリと眺めている。もう夕暮に近く、曇った空はいよいよ薄暗く、その鈍
い光によって、地上の万物をじっと圧えつけているように感じられた。前方にかさなる山々
は、ほとんどまっ黒に見え、崖の下を覗くと、薄ぼんやりとした靄のようなものが立ちこ
めていた。見る限り一物の動くものとてもない、死のような世界であった。遠くから聞こ
えてくる滝の響きは、何か不吉な前兆のように、私の心臓の鼓動と調子を合わせていた。
やがて、猪股氏は、淵を覗いていた眼を上げて、何か意味ありげに私を見た。色ガラス
の目がねが、鈍い空を写してギラッと光った。ガラスを透して二重瞼のつぶらな眼が見え
ている。私は、その左のほうだけが、さいぜんからの長いあいだ、一度も瞬きしなかった
ことを気づいていた。きっと義眼に違いない。別に眼が悪くもないのに色目がねなんか掛
けているのは、あの義眼をごまかすためなんだな。意味もなくそんなことを考えながら、
私は相手の顔を見返していた。すると、猪股氏が突然妙なことを言い出したのである。
「子供の遊びのジャンケンというのを御存知でしょう。私はあれがうまいのですよ。ひと
つやってみようじゃありませんか。きっとあなたを負かしてお目にかけますよ」
私はあっけに取られて、ちょっとのあいだだまっていたが、相手が子供らしく挑んでく
るものだから、少しばかり癪にさわって、じゃあといって、右手を前に出したのである。
そこで、ジャン、ケン、ポン、ジャン、ケン、ポンと、おとなのどら声が、静かな谷に響
き渡ったのであるが、なるほど、やってみると、猪股氏は実に強いのだ。最初数回はどち
らともいえなかったけれど、それからあとは、断然強くなって、どんなにくやしがっても、
私は勝てないのだ。私がとうとう兜を脱ぐと、猪股氏は笑いながら、こんなふうに説明し
たことである。
「どうです。かないますまい。ジャンケンだって、なかなかばかにはできませんよ。この
競技には無限の奥底があるのです。その原理は数理哲学というようなものではないかと思
うのですよ。先ず最初紙を出して負けたとしますね。いちばん単純な子供は敵の鋏に負け
たのだから、次には鋏に勝つ石を出すでしょう。これが最も幼稚な方法です。それより少
し賢い子供は、鋏に負けたのだから敵はきっと、自分が次に石を出すと考え、それに勝つ
紙を選ぶだろう。だから、その紙に勝つ鋏を出そうと考えるでしょう。これが普通の考え
方なのです。ところが、もっと賢い子供は、さらにこんなふうに考えます。最初紙で負け
たのだから、次には自分が石を出すと考えて敵は紙を選ぶであろう、それ故、自分は紙に
勝つ鋏を出そうと考えている、ということを敵は悟るに違いない。すると敵は石を選ぶは
ずだ。だから自分はそれに勝つ紙を出すのだとね。こんなふうにして、いつも敵より一段
奥を考えて行きさえすれば、必ずジャンケンに勝てるのですよ。そして、これは何もジャ
ンケンに限ったことではなく、あらゆる人事の葛藤に応用ができるのだと思います。相手
よりもひとつ奥を考えている人が、常に勝利を得ているのです。それと同じことが犯罪に
ついても言えないでしょうか。犯人と探偵とはいつでもこのジャンケンをやっているのだ
と考えられないでしょうか。非常に優れた犯罪者は、検事なり警察官なりの物の考え方を
綿密に研究して、もうひとつ奥を実行するに違いありません。そうすれば彼は永久に捕わ
れることがないのではありますまいか」
そこでちょっと言葉を切った猪股氏は、私の顔を見て、またニッコリと笑ったものだ。
「エドガア.ポーの『盗まれた手紙』はむろんあなたも御存知だと思いますが、あれには
私のとは少し違った意味で子供の|丁《ちょう》か半かの遊びのことが書いてあります。
そのあとに、丁半遊びの上手な非常に賢い子供に、秘訣を尋ねると、子供がこんなふうに
答えるところがありますね……相手がどんなに賢いかばかか、善人か悪人か、今ちょうど
相手がどんなことを考えているかを知りたい時には、自分の顔の表情をできるだけその人
と同じようにします。そしてその表情と一致するようにして、自分の心に起こってくる気
持を、よく考えてみればよいのですとね。デュパンは、その子供の答えはマキヤベリやカ
ンパネラなどの哲学上の思索よりも、もっと深遠なものだと説いていたように思います。
ところで、あなたは硫酸殺人事件を捜査なさる時、仮想の犯人に対して、表情を一致させ
るというようなことをお考えになったでしょうか。おそらくそうではありますまい。現に
いま私とジャンケンをやっていた時にも、あなたは、そういう点にはまったく無関心のよ
うに見えましたが……」
私は相手のネチネチした長たらしい話し振りに、非常な嫌悪を感じはじめていた。この
男はいったい何を言おうとしているのであろう。
「あなたのお話をうかがっていますと、なんだか硫酸殺人事件での私の推理が間違ってい
た、犯人の方が一段奥を考えていたというように聞こえますが、もしやあなたは、私の推
理とは違った別のお考えが、おありなさるのではありませんか」
私はつい皮肉らしく反問しないではいられなかった。すると猪股氏は、またしてもニコ
ニコ笑いながら、こんなことをいうのである。
「そうですね。もう一歩奥を考えるものにとっては、あなたの推理を覆えすのは、非常に
たやすいことではないかと思うのです。ちょうどあなたが、たった一つの指紋から、それ
までの推理を覆えされたように、やっぱりたった一とことで、あなたの推理をも、逆転さ
せることができるかと思うのです」
私はそれを聞くと、グッと癇癪がこみあげてきた。十何年というものその道で苦労して
きたこの私に対して、なんという失礼な言い方であろう。
「では、あなたのお考えを承わりたいものですね。たった一とことで私の推理を覆えして
見せていただきたいものですね」
「ええ、お望みとあれば……これはほんのちょっとしたつまらないことなんです。あなた
はこういうことが確信できますか、例の日記帳と煙草入れに残っていた問題の指紋ですね、
その指紋にまったく作為がなかったと確信できるのですか」
「作為とおっしゃるのは?」
「つまりですね、当然谷村氏の指紋が残っているべき品物に、谷村氏のではなくて別の人
の指紋が故意に捺されていた、ということは想像できないものでしょうか」
私はだまっていた。相手の意味するところが、まだ判然とはわからなかったけれども、
その言葉の中に、何かしら私をギョッとさせるようなものがあったのだ。
「おわかりになりませんか。谷村氏がですね、或る計画を立てて、谷村氏の身辺の品物に
……日記帳とか煙草入れとかですね、あなたはそのふた品しか注意されなかったようです
が、もっと探してみたら、ほかの品物にも同じ指紋が用意されていたかもしれませんぜ…
…その品々に、さも谷村氏自身のものであるかのように、まったく別人の指紋を捺させて
おくということは、もしその相手がしょっちゅう谷村家へ出入りしている人物であったら、
さして困難な仕事でもないではありませんか」
「それはできるかもしれませんが、その別人というのは、いったい誰のことをおっしゃっ
ているのですか」
「琴野宗一ですよ」猪股氏は少しも言葉の調子を変えないで答えた。「琴野は一時しげしげ
と谷村家へ出入りしたというではありませんか。谷村氏は相手に疑いを起こさせないで、
琴野の指紋を方々へ捺させることなど、少しもむずかしくなかったのです。それと同時に、
谷村氏自身の指紋が残っていそうな滑らかな品物は、ひとつ残らず探し出して、注意深く
拭きとっておいたことは申すまでもありません」
「あれが琴野の指紋?……そういうことが成り立つものでしょうか」
私は異様な昏迷におちいって、今から考えると恥かしい愚問を発したものである。
「成り立ちますとも……あなたは錯覚におちいっているのです。空き家で殺されていたの
が谷村氏であるという信仰が邪魔をしているのです。もしあれが谷村氏でなくて、最初の
推定通り琴野であったとすれば、その死体から採った指紋はいうまでもなく琴野自身のも
のです。そうすれば、日記帳の指紋に作為があって、それも同じ琴野のものだったとすれ
ば、指紋が一致するのは当然じゃありませんか」
「では犯人は?」
私はつい引き込まれて、愚問を繰り返すほかはなかった。
「むろん、日記などに琴野の指紋を捺させた人物、即ち谷村万右衛門です」
猪股氏は、何かそれが動かしがたい事実でもあるかのように、彼自身犯行を目撃してい
たかのように、人もなげに断言するのであった。
「谷村氏が金の必要に迫まられていたことは、あなたにもおわかりでしょう。貉饅頭はも
う破産のほかはない運命だったのです。何十万〔今の何千万〕という負債は不動産を処分
したくらいでおっつくものではない。そういう不面目を忍ぶよりは、五万円〔今の二千万
円〕の現金を持って逃亡した方がどれほど幸福かしれません。しかしそれだけの理由では
どうも薄弱なようです。谷村氏は偶然琴野を殺したのではなく、前々から計画を立てて時
機を待っていたのですからね。金銭のほかの動機といえば……細君をあんなひどい目にあ
わせて平気でいられる動機といえば……さしずめ女のほかにはありません。そうです、谷
村氏は恋をしていたのです。しかも他人の妻と不倫の恋をしていたのです。いずれは手に
手を取って、世間の目をのがれなければならぬ運命でした。第三の動機は、むろん琴野そ
の人に対する怨恨です。恋と、金と、恨みと、谷村氏の場合もまた、あなたの謂われる一
石三鳥の名案だったのですよ。
当時、谷村氏の知合いに、あなたという探偵小説好きな、実際家というよりは、どちら
かといえば、むしろ空想的な肌合いの刑事探偵がありました。もしあなたがいなかったら、
彼はああいう廻りくどい計画は立てなかったことでしょう。つまり、あなたというものが、
谷村の唯一の目標だったのです。さっきの丁半遊びの子供のように、あなたと同じ表情を
して、またジャンケンの場合のように、あなたの一段奥を考えて、谷村氏はすべての計画
を立てました。そして、それがまったく思う壺にはまったのです。ずば抜けた犯罪者には、
その相手役として、優れた探偵が必要なのです。そういう探偵がいてこそ、はじめて彼の
トリックが役立ち、彼は安全であることができるのです。
谷村氏にとって、この異様な計画には、常人の思いも及ばない魅力がありました。あな
たも御承知の通り、いや、あなたがお考えになっているよりも遙かに多分に、彼はサド侯
爵の子孫でした。もう飽きてきている細君ではありましたが、あの最後の大芝居は実にす
ばらしかったのです。谷村氏自身が、谷村氏に変装した琴野であるかのように装って、物
もいわず顔も見せないように細心の注意を払いながら、ある瞬間はもう琴野その人になり
きってしまって、あるいは笑い、あるいは泣き、われとわが女房に世にも不思議な不義の
契りを結んだのでした。
あなたは、この谷村氏のサド的傾向に、もうひとつの意味があったことにお気づきでし
ょうか。というのは、あの残虐この上もない殺人方法です。あの方法こそ、彼のサド的な
独創力を示すものではありますまいか。あなたはさいぜん、はぜた石榴といううまい形容
をなさいましたね。そうです。谷村氏はそのはぜた石榴に、なんともいえない恐ろしい誘
惑を感じたのでした。そして、それが彼の着想のいわば出発点だったのです。一人の人間
を殺して、その顔を見分けられぬほどめちゃくちゃに傷つけておくということは、何を意
味するでしょうか。少し敏感な警察官なれば、そこに被害者の欺瞞が行なわれているに違
いないと悟るでありましょう。その被害者がもし琴野の着物を着ていたならば、それは犯
人が琴野の死骸に見せかけようとしたのであって、実は琴野以外の人物に違いないと信ず
るでありましょう。ところがそう信じさせることが、谷村氏の思う壺だったのです。被害
者は最初の見せかけ通り、やっぱり琴野でしかなかったのですからね。
そういうわけですから、あの硫酸の瓶も、琴野のほうで持ってきたのではなく、谷村氏
が前もって買い入れておいて、空き家に携えて行ったのです。そして、仕事をすませた帰
り途、道端のどぶ川の中へ投げ込んでしまったのです。それからがあのお芝居でした。谷
村氏が、谷村氏に化けた琴野になりすまして、谷村氏自身の書斎へ、まるで他人の部屋へ
忍び込むようにしてビクビクしながらはいって行ったのです」
私は猪股氏のまるで見ていたような断定に、あきれ果ててしまった。いったいこの男は
誰なのだ。なんの目的で、こんな途方もないことを言い出したのであろう。単なる論理の
遊戯にしては、あまりに詳細をきわめ、あまりに独断にすぎるではないか。私がだまりこ
んでいるものだから、猪股氏はまた別のことをしゃべりはじめた。
「さあ、もう余程以前のことですが、当時私の家へよく遊びにきた大へん探偵小説好きの
男があったのです。私はいつもその人と犯罪談を戦わせたものですが、ある時、殺人犯人
の最も巧妙なトリックはなんであろうということが話題になって、結局私たちの意見は、
被害者が即ち犯人であったというトリックがいちばん面白いときまったのでした。しかし、
この被害者即ち加害者のトリックは、観念としては実に奇抜なのだけれど、具体的に考え
てみると、犯人が不治の病気なんかにかかっていて、どうせない命だからというので、他
殺のように見せかけて自殺をし、その殺人の嫌疑を他の人物にかけておく場合か、または、
被害者が数人ある殺人事件で、その被害者の中に犯人がまじっていて、犯人だけは生命に
別状のない重傷を受け……つまり自ら傷つけて……嫌疑をまぬがれるという場合などが主
なもので、ぞんがい平凡ではないか、という意見が出たのです。私は、いや、そうではな
い、それは犯人の智恵がまだ足りないので、優れた犯罪者なれば被害者即ち加害者のトリ
ックだって、もっと気の利いたものを案出するに違いないと主張したものでした。すると、
私の友だちは、われわれが今こうして考えてみても、思い浮かばないのだから、そういう
トリックがありそうに思われぬというのです。いや、そうではない、きっとあるに違いな
い。いや、あるはずがないと、まあ大へんな論争になったのですが、その折の私の主張が
ここで立証されたわけではないでしょうか。つまりですね、硫酸殺人事件では、指紋の作
為と、あの夕方から朝までの思い切った変身のトリックによって、被害者は谷村氏に違い
ないと、この長の年月確信されていたのですが、いま申した私の推理が正しいとしますと
……そして、それは正しいにきまっているのですが……真犯人は意外にも被害者と推定さ
れた谷村氏その人ではなかったですか。被害者が即ち犯人だったではありませんか。
いくらうまいトリックを用いたからといって、いったい一人の男が他人の細君の夫に化
けて、その細君と一夜を過ごすなんて放れわざが現実に行なわれうるものでしょうか。小
説的には実にこの上もなく面白い着想ですし、そしてあなたなどは、この着想にたちまち
誘惑をお感じなすったに違いないと思うのだけれど……」
この話を聞いているうちに、私の心に、何か非常に遠い、かすかな記憶がよみがえって
くる感じがした。どうも私にもそれと同じ経験があるように思われるのだ。だが猪股氏は
まったく初対面の人である。その時の私の話し相手がこの猪股氏でなかったことは確かだ。
では、あれはいったい誰だったのかしら。私はお化けを見ているような気がした。何かモ
ヤモヤした大きなものが、目の前に立ちふさがっている。そいつは、ゾッとするほど恐ろ
しいやつに違いないのだが、しかし、もどかしいことには、どうしてもはっきりした正体
が掴めないのだ。
その時、猪股氏はまたしても、実に突飛なことをはじめたのである。彼は言葉を切って、
しばらく私の顔を眺めていたが、何かチラと妙な表情をしたかと思うと、いきなり両手を
口の辺に持って行って、ガクガクと二枚の総入歯を引き出してしまった。すると、そのあ
とに、八十歳のお婆さんの口が残った。つまり、入歯という支柱がなくなったものだから、
鼻から下が極度に圧縮されて、顔全体が圧しつぶした提灯のようにペチャンコになってし
まったのである。
冒頭にもしるした通り、猪股氏は禿頭ではあったけれど、それが大へん知識的に見えた
のだし、その上、高い鼻と、哲学者めいた三角型の顎ひげが風情を添えて、なかなかの好
男子であったのだが、そうしてお座のさめた総入歯をはずすと、いったい人間の相好がこ
んなにまで変わるものかと思われるほど、みじめな顔になってしまった。それは歯という
ものを持たない八十歳のお婆さんの顔でもあれば、また同時に、生れたばかりの赤ん坊の
あの皺くちゃな顔でもあった。
猪股氏はその平べったい顔のまま、色目がねをはずし、両眼をつむって、力ない唇をペ
チャペチャさせながら、非常に不明瞭な言葉で、こんなことを言うのであった。
「ひとつ、よく私の顔を見てください。先ずこの私の眼を二重瞼ではないと想像してごら
んなさい。眉毛をグッと濃くしてごらんなさい。また、この鼻をもう少し低くして考えて
ごらんなさい。それからひげをなくしてしまって、そのかわりに、頭に五分刈りの濃い髪
の毛を植えつけてごらんなさい……どうです、わかりませんか。あなたの記憶の中に、そ
ういう顔が残ってはいませんかしら」
彼は、さあ見てくださいという恰好で、顔を突き出し、眼を閉じてじっとしていた。
私はいわれるままに、しばらくその架空の相貌を頭の中に描いていたが、すると、写真
のピントを合わせるように、そこに、実に意外な人物の顔が、ボーッと浮き上がってきた。
ああ、そうだったのか。それなればこそ、猪股氏はあんな独断的な物の言い方をすること
ができたのか。
「わかりました。わかりました。あなたは谷村万右衛門さんですね」
私はつい叫び声を立てないではいられなかった。
「そう、僕はその谷村だよ。君にも似合わない、少しわかりが遅かったようだね」
猪股氏、いや谷村万右衛門さんは、そういって、低い声でフフフフフと笑ったのである。
「ですが、どうしてそんなにお顔が変わったのです。僕にはまだ信じきれないほどですが
……」
谷村さんは、それに答えるために、また入歯をはめて、明瞭な口調になって話し出した。
「僕は確か、あの時分、変装についても、君と議論をしたことがあったと思うが、その持
論を実行したまでなのだよ。僕は銀行から五万円を引き出すと、ちょっとした変装をして、
さっきも言ったある人の妻と、すぐシャンハイへ高飛びしたのだ。君の話にもあった通り、
あれが琴野の死骸だということは、丸二日のあいだわからないでいたのだから、僕はほと
んど危険を感じることはなかった。僕というものが一度疑われ出した時分には、二人はも
う朝鮮にはいって、長い退屈な汽車の中にいたのだよ。僕は海の旅を恐れたのだ。汽船と
いうやつは犯罪者にはなんだか檻のような気がして、苦手なものだね。
僕たちはシャンハイの或るシナ人の部屋を借りて、一年ほど過ごした。僕の感情につい
ては、立ち入ってお話しする気はないけれど、ともかく非常に楽しい一年であったことは
間違いない。絹代は普通の意味で美しい女ではあったけれど、僕には性分が合わないのだ。
僕は明子みたいな……それが僕と一緒に逃げた女の名だがね……明子みたいな陰性の妖婦
が好みだよ。僕はあれに|心《しん》|底《そこ》から恋していた。今でもその気持はち
っとも変らない。できることなら変わってほしいと思うのだけれど、どうしてもだめだ。
そのシャンハイにいるあいだに、万一の場合を考えて、大がかりな変装を試みたのだ。
顔料を使ったり、つけひげやかつらを用いる変装は、僕にいわせればほんとうの変装じゃ
ない。僕は谷村という男をこの世から抹殺してしまって、まったく別の新らしい人間をこ
しらえ上げようと、執念深く、徹底的にやったのだ。シャンハイにはなかなかいい病院が
ある。たいていは外人が経営しているんだが、僕にはそのうちからなるべく都合のいい歯
科医と、眼科医と、整形外科の医者を、別々に選んで、根気よくかよったものだ。先ず人
一倍濃い頭の毛をなくすることを考えた。毛を生やすのはむずかしいけれど、抜くのはわ
けはないのだよ。脱毛剤でさえなかなかよく利くのもあるくらいだからね。ついでに眉毛
をグッと薄くしてもらった。次に鼻だ。君も知っているように、いったい僕の鼻は、低い
上にあまり恰好がよくなかった。それを象牙手術でもってこんなギリシャ鼻に作り上げて
しまったのだよ。それから、顔の輪郭を変えることを考えた。なあに別にむずかしいわけ
ではない、ただ総入歯を作ればいいのだ。僕はいったい受け口で歯並みが内側のほうへ引
っ込んでいた。それにむし歯が非常に多かった。そこで、さっぱりと全部の歯を抜いてし
まって、痩せた歯ぐきの上から、前とは正反対に厚い肉の出っ歯の総入歯をかぶせたのだ。
そうすると、君がいま見ているように、相好がまるで変わってしまう。この入歯を取った
時に、はじめて君は僕の正体を認めたくらいだからね。それからひげを蓄えたのは、ごら
んの通りだが、残っているのは眼だ。眼というやつが変装にとってはいちばん厄介な代物
だよ。僕は先ず一重の瞼を二重瞼にする手術を受けた。これはごく簡単にすんだけれど、
どうもまだ安心はできない。絶えず眼病を装って黒い目がねをかけて隠していようかとも
思ったが、それもなんだが面白くない。うまい方法はないかしらんといろいろ考えた末、