饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名

な素人心理学者の笠森氏だということを知った。そして、当時既にこの最後の場合を予想

して少なからず狼狽した。さすがの彼も、日本に、たとえ一個人の道楽気からとはいえ、

心理試験などというものが行なわれているという事実を、うっかり見のがしていた。彼は

種々の書物によって、心理試験の何物であるかを、知り過ぎるほど知っていたのだ。

この大打撃に、もはや平気を装って通学をつづける余裕を失った彼は、病気と称して下

宿の一室にとじこもった。そして、ただ、いかにしてこの難関を切り抜けるべきかを考え

た。ちょうど、殺人を実行する以前にやったと同じ、或いはそれ以上の、綿密と熱心とを

もって考えつづけた。

笠森判事は果たしてどのような心理試験を行なうであろうか。それは到底予知すること

ができない。で、蕗屋は知っている限りの方法を思い出して、そのひとつひとつについて、

なんとか対策がないものかと考えてみた。しかし、元来心理試験というものが、虚偽の申

立てをあばくためにできているのだから、それを更に偽るということは、理論上不可能ら

しくもあった。

蕗屋の考えによれば、心理試験はその性質によって二つに大別することができた。ひと

つは純然たる生理上の反応によるもの、今ひとつは言葉を通じて行なわれるものだ。前者

は、試験者が犯罪に関連したさまざまの質問を発して、被験者の身体上の微細な反応を、

適当な装置によって記録し、普通の訊問によっては到底知ることのできない真実を掴もう

とする方法だ。それは、人間は、たとえ言葉の上で、または顔面表情の上で、嘘をついて

も、神経そのものの興奮は隠すことができず、それが微細な肉体上の徴候として現われる

ものだという理論に基づくので、その方法としては、たとえば automatograph などの力を

借りて、手の微細な動きを発見する方法、或る手段によって眼球の動き方を確かめる方法、

pneumograph によって呼吸の深浅遅速を計る方法、sphygmograph によって脈搏の高低遅速

を計る方法、plethysmograph によって四肢の血量を計る方法、galvanometer によって手

の平の微細なる発汗を発見する方法、膝の関節を軽く打って生じる筋肉の収縮の多少を見

る方法、その他これらに類する種々さまざまの方法がある。

たとえば、不意に「お前は老婆を殺した本人であろう」と問われた場合、彼は平気な顔

で「何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」と言い返すだけの自信はある。だが、そ

の時不自然に脈搏が高まったり、呼吸が早くなるようなことはないだろうか。それを防ぐ

ことは絶対に不可能なのではあるまいか。彼はいろいろな場合を仮定して、心のうちで実

験してみた。ところが、不思議なことには、自分自身で発した訊問は、それがどんなにき

わどい、不意の思い付きであっても、肉体上に変化を及ぼすようには考えられなかった。

むろん微細な変化を計る道具があるわけではないから、確かなことはいえぬけれど、神経

の興奮そのものが感じられない以上は、その結果である肉体上の変化も起こらぬはずだっ

た。

そうして、いろいろと実験や推量をつづけているうちに、蕗屋はふとある考えにぶっつ

かった。それは、練習というものが心理試験の効果を妨げはしないか、言い換えれば、同

じ質問に対しても、一回目よりは二回目が、二回目よりは三回目が、神経の反応が微弱に

なりはしないかということだった。つまり、慣れるということだ。これは他のいろいろの

場合を考えて見てもわかる通り、ずいぶん可能性がある。自分自身の訊問に対しては反応

がないというのも、結局はこれと同じ理窟で、訊問が発せられる以前に、すでに予期があ

るために違いない。

そこで、彼は「|辞《じ》|林《りん》」の中の何万という単語をひとつ残らず調べてみ

て、少しでも訊問されそうな言葉をすっかり書き抜いた。そして、一週間もかかって、そ

れに対する神経の「練習」をやった。

さて次には、言葉を通じて試験する方法だ。これとても恐れることはない。いやむしろ、

それが言葉であるだけに、ごまかしやすいというものだ。これにはいろいろな方法がある

けれど、最もよく行なわれるのは、あの精神分析家が病人を見るときに用いるのと同じ方

法で、連想診断というやつだ。「障子」だとか「机」だとか「インキ」だとか「ペン」だと

か、なんでもない用語をいくつも順次に読み聞かせて、できるだけ早く、少しも考えない

で、それらの単語について連想した言葉をしゃべらせるのだ。たとえば「障子」に対して

は「窓」とか「敷居」とか「紙」とか「戸」とかいろいろの連想があるだろうが、どれで

も構わない。その時ふと浮かんだ言葉を言わせる。そして、それらの意味のない単語のあ

いだへ「ナイフ」だとか「血」だとか「金」だとか「財布」だとか、犯罪に関係のある単

語を、気づかれぬように混ぜておいて、それに対する連想を調べるのだ。

先ず第一に、最も思慮の浅い者は、この老婆殺しの事件でいえば「植木鉢」という単語

に対して、うっかり「金」と答えるかもしれない。即ち「植木鉢」の底から「金」を盗ん

だことが最も深く印象されているからだ。そこで彼は罪状を自白したことになる。だが、

少し考え深い者だったら、たとえ「金」という言葉が浮かんでも、それを押し殺して、た

とえば「瀬戸物」と答えるだろう。

かような偽りに対して二つの方法がある。ひとつは、一巡試験した単語を、少し時間を

置いて、もう一度繰り返すのだ。すると、自然に出た答えは多くの場合前後相違がないの

に、故意に作った答えは十中八九は最初のときと違ってくる。たとえば「植木鉢」に対し

て最初は「瀬戸物」と答え、二度目は「土」と答えるようなものだ。

もうひとつの方法は、問いを発してから答えを得るまでの時間を、ある装置によって精

確に記録し、その遅速によって、たとえば「障子」に対して「戸」と答えた時間が一秒で

あったにもかかわらず、「植木鉢」に対して「瀬戸物」と答えた時間が三秒もかかったとす

れば、それは「植木鉢」について最初に現われた連想を押し殺すために時間を取ったので、

その被験者は怪しいということになるのだ。この時間の遅延は、当面の単語に現われるば

かりでなく、その次の意味のない単語にまで影響して現われることもある。

また、犯罪当時の状況を詳しく話して聞かせて、それを暗誦させる方法もある。真実の

犯人であったら、暗誦する場合に、微細な点で思わず話して聞かされたことと違った真実

を口走ってしまうものなのだ。

この種の試験に対しては、前の場合と同じく「練習」が必要なのはいうまでもないが、

それよりももっと大切なのは、蕗屋に言わせると、無邪気なことだ。つまらない技巧を弄

しないことだ。「植木鉢」に対しては、むしろあからさまに「金」または「松」と答えるの

が、いちばん安全な方法なのだ。というのは、蕗屋は、たとえ彼が犯人でなかったにして

も、判事の取り調べその他によって、犯罪事実をある程度まで知っているのが当然だから、

そして、植木鉢の底に金があったという事実は、最近の且つ最も深刻な印象に違いないの

だから、連想作用がそんなふうに働くのは至極あたり前ではないか。また、この手段によ

れば、現場の有様を暗誦させられた場合にも安全なのだ。ただ、問題は所要時間の点だ。

これにはやはり「練習」が必要である。「植木鉢」ときたら、少しもまごつかないで、「金」

または「松」と答え得るように練習しておく必要がある。彼は更にこの「練習」のために

数日をついやした。かようにして、準備はまったく整った。

彼はまた、一方において、ある一つの有利な事情を勘定に入れていた。それを考えると、

たとえ、予期しない訊問に接しても、更に一歩を進めて、予期した訊問に対して不利な反

応を示しても、少しも恐れることはないのだった。というのは、試験されるのは、蕗屋一

人ではないからだ。あの神経過敏な斎藤勇が、いくら身に覚えがないといっても、さまざ

まの訊問に対して、果たして虚心平気でいることができるだろうか。おそらく彼とても、

少なくとも蕗屋と同様くらいの反応を示すのが自然ではあるまいか。

蕗屋は考えるにしたがって、だんだん安心してきた。なんだか鼻歌でも歌い出したいよ

うな気持になってきた。彼は今はかえって笠森判事の呼出しを待ち構える気持にさえなっ

た。

笠森判事の心理試験がいかように行なわれたか。それに対して、神経質な斎藤がどんな

反応を示したか、蕗屋がいかに落ちつきはらって試験に応じたか、ここにそれらの管々し

い叙述を並べ立てることを避けて、直ちにその結果に話を進めることにする。

それは心理試験の行なわれた翌日のことであった。笠森判事が、自宅の書斎で、試験の

結果を書きとめた書類を前にして、小首を傾けているところへ、明智小五郎の名刺が通じ

られた。

「D坂の殺人事件」を読んだ人は、この明智小五郎がどんな男だかということを幾分ご存

じであろう。彼はその後、しばしば困難な犯罪事件に関係して、その珍らしい才能を現わ

し、専門家たちはもちろん、一般の世間からも、もう立派に認められていた。笠森氏とも、

ある事件から心易くなったのであった。

女中の案内につれて、判事の書斎に、明智のニコニコした顔が現われた。このお話は「D

坂の殺人事件」から数年後のことで、彼ももう昔の書生ではなくなっていた。

「いや、どうも、今度はまったく弱りましたよ」

判事が来客の方にからだの向きを変えて、ゆううつな顔を見せた。

「例の老婆殺しの事件ですね。どうでした、心理試験の結果は」

明智は判事の机の上を覗きながら言った。彼は事件以来、たびたび笠森判事に会って詳

しい事情を聞いていたのだ。

「いや、結果は明白ですがね」と判事「それがどうも、僕にはなんだか得心できないので

すよ。きょうは脈搏の試験と、連想診断をやってみたのですが、蕗屋の方は殆んど反応が

ないのです。もっとも脈搏では大分疑わしいところもありましたが、しかし、斎藤に比べ

れば、問題にもならぬくらい僅かなんです。これをごらんなさい。ここに質問事項と、脈

搏の記録がありますよ。斎藤の方は実にいちじるしい反応を示しているでしょう。連想試

験でも同じことです。この「植木鉢」という刺戟語に対する反応時間を見てもわかります

よ。蕗屋の方はほかの無意味な言葉よりもかえって短かい時間で答えているのに、斎藤の

方はどうです、六秒もかかっているではありませんか」

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判事が示した連想診断の記録は前頁に表示したようなものであった。

「ね、非常に明瞭でしょう」判事は明智が記録に眼を通すのを待ってつづけた。「これでみ

ると、斎藤はいろいろ故意の細工をやっている。いちばんよくわかるのは反応時間のおそ

いことですが、それが問題の単語ばかりでなく、そのすぐあとのや、二つ目のにまで影響

しているのです。それからまた、『金』に対して『鉄』と答えたり、『盗む』に対して『馬』

といったり、かなり無理な連想をやっています。『植木鉢』にいちばんながくかかったのは、

恐らく『金』と『松』という二つの連想を押さえつけるために手間どったのでしょう。そ

れに反して、蕗屋の方はごく自然です。『植木鉢』に『松』だとか、『油紙』に『隠す』だ

とか、『犯罪』に『人殺し』だとか、もし犯人だったら是非隠さなければならないような連

想を、平気でしかも短かい時間に答えています。彼が人殺しの本人でいて、こんな反応を

示したとすれば、よほどの低能児に違いありません。ところが、実際は彼は××大学の学

生で、それになかなか秀才なのですからね」

「そんなふうにも取れますね」

明智は何か考え考え言った。しかし判事は彼の意味ありげな表情には、少しも気づかな

いで、話を進める。

「ところがですね、これでもう、蕗屋の方は疑うところはないのだが、斎藤が果たして犯

人かどうかという点になると、試験の結果はこんなにハッキリしているのに、どうも僕は

確信が持てないのですよ。何も予審で有罪にしたといって、それが最後の決定になるわけ

ではなし、まあこのくらいでいいのですが、御承知のように、僕は例のまけぬ気でね。公

判で僕の考えをひっくり返されるのが癪なんですよ。そんなわけで実はまだ迷っている始

末です」

「これを見ると、実に面白いですね」明智が記録を手にしてはじめた。「蕗屋も斎藤もなか

なか勉強家だって言いますが、『本』という単語に対して、両人とも『丸善』と答えたとこ

ろなどは、よく性質が現われていますね。もっと面白いのは、蕗屋の答えは、皆どことな

く物質的で、理智的なのに反して、斉藤のは、いかにもやさしいところがあるじゃありま

せんか。叙情的ですね。たとえば『女』だとか『着物』だとか『花』だとか『人形』だと

か『景色』だとか『妹』だとかという答えは、どちらかといえば、センチメンタルな弱々

しい男を思わせますね。それから、斎藤はきっと病身ですよ。『嫌い』に『病気』と答え、

『病気』に『肺病』と答えているじゃありませんか。平生から肺病になりゃしないかと恐

れている証拠ですよ」

「そういう見方もありますね。連想診断てやつは、考えれば考えるだけ、いろいろ面白い

判断が出てくるものですよ」

「ところで」明智は少し口調をかえて言った。「あなたは、心理試験というものの弱点につ

いて考えられたことがありますかしら。デ.キロスは心理試験の提唱者ミュンスターベル

ヒの考えを批評して、この方法は拷問に代るべく考案されたものだけれど、その結果は、

やはり拷問と同じように無実のものを罪に陥れ、有罪者を逸することがあるといっていま

すね。ミュンスターベルヒ自身も、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所とか人と

か物について、知っているかどうかを見いだす場合に限って決定的だけれど、その他の場

合には幾分危険だというようなことを、どっかで書いていました。あなたにこんなことを

お話しするのは釈迦に説法かもしれませんね。でも、これは確かに大切な点だと思います

が、どうでしょう」

「それは悪い場合を考えれば、そうでしょうがね。むろん僕もそれは知ってますよ」

判事は少しいやな顔をして答えた。

「しかし、その悪い場合が、存外手近にないとも限りませんからね。こういうことはいえ

ないでしょうか。たとえば非常に神経過敏な無実の男が、ある犯罪の嫌疑を受けたと仮定

しますね。その男は犯罪の現場で捕えられ、犯罪事実もよく知っているのです。この場合、

彼は果たして心理試験に対して平気でいることができるでしょうか。『あ、これは僕を試す

のだな、どう答えたら疑われないだろう』などというふうに興奮するのが当然ではないで

しょうか。ですから、そういう事情の下に行なわれた心理試験は、デ.キロスのいわゆる

『無実のものを罪に陥れる』ことになりゃあしないでしょうか」

「君は斎藤勇のことをいっているのですね。いや、それは僕もなんとなくそう感じたもの

だから、今もいったように、まだ迷っているのじゃありませんか」

判事はますます苦い顔をした。

「では、そういうふうに、斎藤が無実だとすれば(もっとも金を盗んだ罪はまぬがれませ

んけれど)いったい誰が老婆を殺したのでしょう」

判事はこの明智の言葉を中途から引き取って、荒々しく訊ねた。

「そんなら、君は、ほかに犯人の目当てでもあるのですか」

「あります」明智はニコニコしながら、「僕はこの連想試験の結果から見て蕗屋が犯人だと

思うのですよ。しかしまだ確実にそうだとは言いきれませんけれど。あの男はもううちへ

帰したのでしょうね。どうでしょう。それとなく彼をここへ呼ぶわけにはいきませんかし

ら、そうすれば、僕はきっと真相をつき止めてお眼にかけますがね」

「なんですって、それは何か確かな証拠でもあるのですか」

判事が少なからず驚いて訊ねた。

明智は別に得意らしい色もなく、詳しく彼の考えを述べた。そして、それが判事をすっ

かり感心させてしまった。明智の希望が容れられて、蕗屋の下宿へ使いが走った。

「御友人の斎藤氏はいよいよ有罪と決した。それについてお話ししたいこともあるから、

私の私宅まで御足労を煩わしたい」

これが呼び出しの口上だった。蕗屋はちょうど学校から帰ったところで、それを聞くと

早速やってきた。さすがの彼もこの吉報には少なからず興奮していた。嬉しさのあまり、

そこに恐ろしい罠のあることを、まるで気づかなかった。

笠森判事は、ひと通り斎藤を有罪と決定した理由を説明したあとで、こうつけ加えた。

「君を疑ったりして、まったく相すまんと思っているのです。きょうは、実はそのお詫び

かたがた、事情をよくお話ししようと思って、来て頂いたわけですよ」

そして、蕗屋のために紅茶を命じたりして、ごくうちくつろいだ様子で雑談をはじめた。

明智も話に加わった。判事は彼を知り合いの弁護士で、死んだ老婆の遺産相続者から、貸

金の取り立てなどを依頼されている男だといって紹介した。むろん半分は嘘だけれど、親

族会議の結果、老婆の甥が田舎から出てきて、遺産を相続することになったのは事実だっ

た。

三人のあいだには、斎藤の噂をはじめとして、いろいろの話題が話された。すっかり安

心した蕗屋は、中でもいちばん雄弁な話し手だった。

そうしているうちに、いつの間にか時間がたって、窓のそとに夕闇が迫ってきた。蕗屋

はふとそれに気づくと、帰り支度をはじめながら言った。

「では、もう失礼しますが、別にご用はないでしょうか」

「おお、すっかり忘れてしまうところだった」明智が快活に言った。「なあに、どうでもい

いようなことですがね。ちょうど序でだから……ご承知かどうですか、あの殺人のあった

部屋に二枚折りの金屏風が立ててあったのですが、それにちょっと傷がついていたといっ

て問題になっているのですよ。というのは、その屏風は婆さんのものではなく、貸金の抵

当に預かってあった品で、持ち主の方では、殺人の際についた傷に違いないから弁償しろ

というし、婆さんの甥は、これがまた婆さんに似たけちん坊でね、元からあった傷かもし

れないといって、なかなか応じないのです。実際つまらない問題で、閉口してるんです。

尤もその屏風は可なり値うちのある品物らしいのですがね。ところで、あなたはよくあの

家へ出入りされたのですから、その屏風も多分ご存じでしょうが、以前に傷があったかど

うか、ひょっと御記憶じゃないでしょうか、どうでしょう、屏風なんか別に注意しなかっ

たでしょうね。実は斎藤にも聞いてみたんですが、先生興奮しきっていて、よくわからな

いのです。それに、女中は国へ帰ってしまって、手紙で聞き合わせても要領を得ないし、

ちょっと困っているのですが……」

屏風が抵当物だったことはほんとうだが、そのほかの点はむろん作り話にすぎなかった。

蕗屋は屏風という言葉に思わずヒャッとした。しかしよく聞いてみるとなんでもないこと

なので、すっかり安心した。

「何をビクビクしているのだ。事件はもう決定してしまったのじゃないか」

彼はどんなふうに答えてやろうかと、ちょっと思案したが、例によってありのままにや

るのがいちばんいい方法のように考えられた。

「判事さんはよく御承知ですが、僕はあの部屋へはいったのはたった一度きりなんです。

それも、事件の二日前にね。つまり先月の三日ですね」彼はニヤニヤ笑いながら言った。

こうした言い方をするのが愉快でたまらないのだ。「しかし、その屏風なら覚えてますよ。

僕の見た時には確か傷なんかありませんでした」

「そうですか。間違いないでしょうね。あの小野の小町の顔のところに、ほんのちょっと

した傷があるだけなんですが」

「そうそう、思い出しましたよ」蕗屋はいかにも今思い出したふうを装って言った。「あれ

は六歌仙の絵でしたね。小野の小町も覚えてますよ。しかし、もしその傷がついていたと

すれば、見おとしたはずがありません。だって、極彩色の小野の小町の顔に傷があれば、

ひと目でわかりますからね」

「じゃあ、ご迷惑でも、証言をして頂くわけにはいきませんかしら。屏風の持ち主という

のが、実に欲の深いやつで、始末にいけないのですよ」

「ええ、よござんすとも、いつでもご都合のいい時に」

蕗屋はいささか得意になって、弁護士と信ずる男の頼みを承諾した。

「ありがとう」明智はモジャモジャと伸ばした髪の毛を指でかきまわしながら、嬉しそう

に言った。これは彼が興奮した際にやる一種の癖なのだ。「実は、僕は最初から、あなたが

屏風のことを知っておられるに違いないと思ったのですよ。というのはね、この、きのう

の心理試験の記録のなかで、『絵』という問に対して、あなたは『屏風』という特別の答え

方をしていますね。これですよ。下宿屋にはあんまり屏風なんて備えてありませんし、あ

なたは斎藤のほかには別段親しいお友だちもないようですから、これはさしずめ老婆の座

敷の屏風が、何かの理由で特別に深い印象になって残っていたのだろうと想像したのです

よ」

蕗屋はちょっと驚いた。それは確かにこの弁護士のいう通りに違いなかった。でも、彼

はきのうどうして屏風なんて口走ったのだろう。そして、不思議にも今までまるでそれに

気づかないとは。これは危険じゃないかな。しかし、どういう点が危険なのだろう。あの

時彼は、その傷跡をよく調べて、なんの手掛りにもならぬことを確かめておいたではない

か。なあに、平気だ、平気だ。彼は一応考えてみてやっと安心した。ところが、ほんとう

は、彼は明白すぎるほど明白な大間違いをやっていたことを少しも気づかなかったのだ。

「なるほど、僕はちっとも気づきませんでしたけれど、確かにおっしゃる通りですよ。な

かなか鋭い御観察ですね」

蕗屋はあくまで、無技巧主義を忘れないで、平然として答えた。

「なあに、偶然気づいたのですよ」弁護士を装った明智が謙遜した。「だが、気づいたとい

えば、実はもうひとつあるのですが、いや、いや、決して御心配なさるようなことじゃあ

りません。きのうの連想試験の中には八つの危険な単語が含まれていたのですが、あなた

はそれを実に完全にパスしましたね。実際完全すぎたほどですよ。少しでもうしろ暗いと

ころがあれば、こうは行きませんからね。その八つの単語というのは、ここに丸が打って

あるでしょう。これですよ」といって明智は記録の紙片を示した。「ところが、あなたのこ

れらに対する反応時間は、ほかの無意味な言葉よりも、皆ほんの僅かずつではありますけ

れど、早くなってますね。たとえば『植木鉢』に対して『松』と答えるのに、たった〇.

六秒しかかかってない。これは珍らしい無邪気さですよ。この三十箇の単語の内で、いち

ばん連想し易いのは先ず『緑』に対する『青』などでしょうが、あなたはそれにさえ〇.

七秒かかってますからね」

蕗屋は非常な不安を感じはじめた。この弁護士は、いったいなんのためにこんな饒舌を

弄しているのだろう。好意でか、それとも悪意でか。何か深い下心があるのじゃないかし

ら。彼は全力を傾けて、その意味を探ろうとした。

「『植木鉢』にしろ『油紙』にしろ『犯罪』にしろ、そのほか、問題の八つの単語は、皆、

決して『頭』だとか『緑』だとかいう平凡なものより、連想しやすいとは考えられません。

それにもかかわらず、あなたは、そのむずかしい連想の方をかえって早く答えているので

す。これはどういう意味でしょう。僕が気づいた点というのはここですよ。ひとつあなた

の心持を当ててみましょうか。え、どうです。なにも一興ですからね。しかしもし間違っ

ていたらごめんくださいよ」

蕗屋はブルッと身震いした。しかし、何がそうさせたかは彼自身にもわからなかった。

「あなたは、心理試験の危険なことをよく知っていて、あらかじめ準備していたのでしょ

う。犯罪に関係のある言葉について、ああ言えばこうと、ちゃんと腹案ができていたんで

しょう。いや、僕は決して、あなたのやり方を非難するのではありませんよ。実際、心理

試験というやつは、場合によっては非常に危険なものですからね。有罪者を逸して無実の

ものを罪に陥れることがないとは断言できないのですからね。ところが、準備があまり行

き届き過ぎていて、もちろん別に早く答えるつもりはなかったのでしょうけれど、その言

葉だけが早くなってしまったのです。これは確かに大へんな失敗でしたね。あなたは、た

だもう遅れることばかり心配して、それが早過ぎるのも同じように危険だということを少

しも気づかなかったのです。もっとも、この時間の差は非常に僅かずつですから、よほど

注意深い観察者でないと、うっかり見逃がしてしまいますがね。ともかく、こしらえ事と

いうものは、どっかに破綻があるものですよ」明智の蕗屋を疑った論拠は、ただこの一点

にあったのだ。「しかし、あなたはなぜ『金』だとか『人殺し』だとか『隠す』だとか、嫌

疑を受け易い言葉を選んで答えたのでしょう。言うまでもない。そこがそれ、あなたの無

邪気なところですよ。もしあなたが犯人だったら決して『油紙』と問われて『隠す』など

とは答えませんからね。そんな危険な言葉を平気で答え得るのは、少しもやましいところ

のない証拠ですよ。ね、そうでしょう。僕のいう通りでしょう」

蕗屋は話し手の眼をじっと見詰めていた。どういうわけか、そらすことができないのだ。

そして、鼻から口の辺にかけて筋肉が硬直して、笑うことも、泣くことも、驚くことも、

一切の表情が不可能になったような気がした。むろん口は利けなかった。もし無理に口を

利こうとすれば、それは直ちに恐怖の叫び声になったに違いない。

「この無邪気なこと、つまり小細工を弄しないということが、あなたのいちじるしい特徴

ですよ。僕はそれを知ったものだから、あのような質問をしたのです。え、おわかりにな

りませんか。例の屏風のことです。僕は、あなたがむろん無邪気にありのままにお答えく

ださることを信じて疑わなかったのですよ。実際その通りでしたがね。ところで、笠森さ

んに伺いますが、問題の六歌仙の屏風は、いつあの老婆の家に持ち込まれたのですかしら」

明智はとぼけた顔をして、判事に訊ねた。

「犯罪事件の前日ですよ。つまり先月の四日です」

「え、前日ですって、それはほんとうですか。妙じゃありませんか、今蕗屋君は、事件の

前々日即ち三日に、それをあの部屋で見たと、ハッキリ言っているじゃありませんか。ど

うも不合理ですね。あなた方のどちらかが間違っていないとしたら」

「蕗屋君は何か思い違いをしているのでしょう」判事がニヤニヤ笑いながら言った。「四日

の夕方までは、あの屏風が、そのほんとうの持ち主の家にあったことは、明白にわかって

いるのです」

明智は深い興味をもって、蕗屋の表情を観察した。それは、今にも泣き出そうとする小

娘の顔のように変なふうにくずれかけていた。これが明智の最初から計画した罠だった。

彼は事件の二日前には、老婆の家に屏風のなかったことを、判事から聞いて知っていたの

だ。

「どうも困ったことになりましたね」明智はさも困ったような声で言った。「これはもう取

り返しのつかぬ大失策ですよ。なぜあなたは見もしないものを見たなどと言うのです。あ

なたは事件の二日前から一度もあの家へ行っていないはずじゃありませんか。殊に六歌仙

の絵を覚えていたのは致命傷ですよ。おそらくあなたは、ほんとうのことを言おう、ほん

とうのことを言おうとして、つい嘘をついてしまったのでしょう。ね、そうでしょう。あ

なたは事件の二日前にあの座敷へはいった時、そこに屏風があるかないかというようなこ

とを注意したでしょうか。むろん注意しなかったでしょう。実際それはあなたの計画には

なんの関係もなかったのですし、もし屏風があったとしても、あれは御承知の通り時代の

ついたくすんだ色合いで、ほかのいろいろの道具の中で、殊さら目立っていたわけでもあ

りませんからね。で、あなたが今、事件の当日そこで見た屏風が、二日前にも同じように

そこにあっただろうと考えたのは、ごく自然ですよ。それに僕はそう思わせるような調子

で問いかけたのですものね。これは一種の錯覚みたいなものですが、よく考えてみると、

われわれには日常ザラにあることです。しかし、もし普通の犯罪者だったら決してあなた

のようには答えなかったでしょう。彼らは、なんでもかんでも、隠しさえすればいいと思

っているのですからね。ところが、僕にとって好都合だったのは、あなたが世間なみの裁

判官や犯罪者より、十倍も二十倍も進んだ頭を持っていられたことです。つまり、急所に

ふれない限りは、できるだけあからさまにしゃべってしまう方が、かえって安全だという

信念を持っていられたことです。裏の裏を行くやり方ですね。そこで僕は更にその裏を行

ってみたのですよ。まさか、あなたは、この事件になんの関係もない弁護士が、あなたを

白状させるために、罠を作っていようとは想像もしなかったでしょうからね。ハハハハハ

ハ」

蕗屋はまっ青になった顔の、ひたいのところにビッショリ汗を浮かせて、じっとだまり

込んでいた。彼はもうこうなったら、弁明すればするだけボロを出すばかりだと思った。

彼は頭がよいだけに、自分の失言がどんなに雄弁な自白だったかということを、よくわき

まえていた。彼の頭の中には、妙なことだが、子供の時分からのさまざまの出来事が、走

馬燈のように、めまぐるしく現われては消えて行った。長い沈黙がつづいた。

「聞こえますか」明智がしばらくしてから言った。「そら、サラサラ、サラサラという音が

しているでしょう。あれはね、さっきから、隣の部屋で、僕たちの問答を書きとめている

のですよ……君、もうよござんすから、それをここへ持ってきてくれませんか」

すると、襖がひらいて、一人の書生ふうの男が手に洋紙の束を持って出てきた。

「それを一度読み上げてください」

明智の命令にしたがって、その男は最初から朗読した。

「では、蕗屋君、これに署名して、拇印で結構ですから捺してくれませんか。君はまさか

いやだとは言いますまいね。だって、さっき、屏風のことはいつでも証言してやると約束

したばかりじゃありませんか。もっとも、こんなふうな証言だろうとは想像しなかったか

もしれませんがね」

蕗屋は、ここで署名を拒んだところで、なんの甲斐もないことを、充分知っていた。彼

は明智の驚くべき推理をも、あわせて承認する意味で、署名捺印した。そして、今はもう

すっかりあきらめ果てた人のようにうなだれていた。

「先にも申し上げた通り」明智は最後に説明した。「ミュンスターベルヒは、心理試験の真

の効能は、嫌疑者が、ある場所、人、または物について知っているかどうかを試す場合に

限って、決定的だといっています。今度の事件でいえば、蕗屋君が屏風を見たかどうかと

いう点が、それなんです。この点をほかにしては、百の心理試験もおそらくむだでしょう。

なにしろ相手が蕗屋君のような、なにもかも予想して、綿密な準備をしている男なのです

からね。それからもう一つ申し上げたいのは、心理試験というものは、必ずしも、書物に

書いてある通り、一定の刺戟語を使い、一定の機械を用意しなければできないものではな

くて、いま僕が実験してお眼にかけたように、ごく日常的な会話によってでも充分やれる

ということです。昔からの名判官は、たとえば大岡越前守というような人は、皆自分でも

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