饭饭TXT > 海外名作 > 《江户川乱步短篇集(日版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 《江户川乱步短篇集(日版)》@txtnovel.com.txt

蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名.2

気づかないで、最近の心理学が発明した方法をちゃんと応用していたのですよ」

恐ろしき錯誤

「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」

北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのこ

とは何も思わなかった。

彼は今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかっ

た。第一、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。

往来の人たちは妙な顔をして、彼の変てこな歩きぶりを眺めた。酔っぱらいにしては顔

色が尋常だった。病気にしては元気があった。

What ho ! What ho ! This fellow dancing mad ! who hath been bitten by the tarantula.

ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北

川氏は決して現実の毒グモに噛まれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろ

しい執念の虜となっていた。

彼は今全身をもって復讐の快感に酔っているのだった。

「勝った、勝った、勝った……」

一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつまでもつづ

いていた。渦巻花火のような、眼も眩むばかりの光り物が、彼の頭の中を縦横無尽に駈け

まわっていた。

あいつはきょうから、一日の休む暇もなく一生涯、長い長い一生涯、あの取り返しのつ

かぬ苦しみを苦しみ抜くんだ。あのどうにもしようのない悶えを悶え通すのだ。

おれの気のせいだって?ばかなっ!確かに、確かに、おれは太鼓のような判だって

おしてやる。あいつはおれの話を聴いているうちに、とうとううつぶしてしまったじゃな

いか。まっ青な顔をして、うつぶしてしまったじゃないか。これが勝利でなくてなんだ。

「勝った、勝った、勝った……」

という、単調な、没思考力の渦巻のあいだあいだに、ちょうど映画の字幕のように、こ

んな断想がパッパッと浮かんでは消えて行った。

夏の空はソコヒの眼のようにドンヨリと曇っていた。そよとの風もなく、家々ののれん

や日除けは、彫刻のようにじっとしていた。往来の人たちは、何かえたいのしれぬ不幸を

予感しているとでもいったふうに、抜き足差し足で歩いているかと見えた。音というもの

が無かった。死んだような静寂が、その辺一帯を覆っていた。

北川氏は、その中を、独りストレンジャーのように、狂気の歩行をつづけていた。

行っても行っても果てしのない、|鈍《にぶ》|色《いろ》に光った道路が、北川氏の

行手につづいていた。

あてもなくさまよう人にとって、東京市は永久に行止まりのない迷路であった。

狭い道、広い道、まっすぐな道、曲がりくねった道が、それからそれへとつづいていた。

「だが、なんというデリケートな、そして深刻な復讐だったろう。あいつのもずいぶん頭

のいい復讐だったに違いない。しかし、その復讐に対する、おれの返り討ちの手際が、ど

んなにまあ鮮やかなものだったろう。天才と天才の一騎討ちだ。天衣無縫の芸術だ。あい

つがその前半を受持ち、おれが後半を受持ったところの一大芸術品だ。だが、なんといっ

ても勝利はおれのものだ……おれは勝ったぞ、勝ったんだぞ。あいつをペチャンコに叩き

つけてしまったんだぞ」

北川氏は、鼻の頭に一杯汗の玉を溜めて、炎天の下を飽きずまに歩きつづけていた。彼

にとっては、暑さなどは問題ではなかった。

やがて、時がたつに従って、彼の有頂天な、没思考力な歓喜が、少しずつ、意識的にな

って行った。

そして、彼の頭には、ようやく、回想の甘味を味わうことができるほどの余裕が生じて

きた。

それは|三《み》|月《つき》ぶりの訪問であった。あの事件が起こる少し前に会った

きり、二人はきょうまで顔を合わさなかった。

野本氏の方では、事件の悔み状を出したきり、北川氏の新居を訪ねもしなかったことが、

わだかまりになっていた。

北川氏は北川氏で、その野本氏の気まずさが反映して、彼の家の敷居をまたぐとこから、

もう吐き気を催すほどに不快を感じていた。

二人は生れながらのかたき同士だった。

同じ学校の同じ科で机を並べながら、北川氏はどうにも野本氏が虫が好かなかった。多

分野本氏の方でも、彼をゲジゲジのように嫌っていたに違いないと、北川氏は信じていた。

二人がかつては恋の競争者だったことが、なおさらこの反感を高めた。北川氏はそのこ

ろから、野本氏のうしろ姿を一と眼見ただけでも、こう、からだがねじれてくるほど、な

んともいえぬ不快を覚えるのだった。そこへ今度の問題が起こった。そして、もう破れる

か、もう破れるかと見えながら、やっと危く均衡を保っていた二人の関係が、とうとう爆

発してしまった。

こうなっては、二人はどちらかが死んでしまうまで、命がけの果たしあいをするほかに

逃げ道がないのだと、彼は信じていた。

北川氏は、機の熟するまでは、なるべくきょうの訪問の真の目的を秘しておこうとして

いた。

しかし敏感な野本氏はとっくにそれを察したらしく、恐怖にたえぬ眼で、チラリチラリ

と北川氏を盗み見るのであった。

先ず運ばれた冷しビールのコップを挾んで、新しい皮蒲団の上に対座した二人のあいだ

には、最初の瞬間から、息詰まるような暗雲が低迷していた。

「君がなぜあの事件に触れようとしないのか、僕はよく知っている。君はあれ以来はじめ

て会った僕に、悔みの言葉一つ述べられないほど、あの事件に触れることを怖れているん

だ」

しばらく心にもない世間話をつづけているうちに、もう我慢ができなくなって、北川氏

はこう戦闘開始の火蓋を切ったのだった。

野本氏はハッとして眼をそらした。

あの時、彼の顔が青ざめたのは、顔の向きを代えたために、庭の青葉が映ってそう見え

たばかりではないと、北川氏は固く信じていた。

「おれの放った第一声は、見事にあいつの心臓をえぐったんだ」

相変らず、どこともしれぬ場末の街筋をテクテクと歩きながら、北川氏は甘い回想をつ

づけて行った。

ちょうど反芻動物が、一度胃の腑の中へおさまったものを、また吐き出して、ニチャリ

ニチャリと噛みしめては、楽しみをくり返すように、北川氏は、きょうの野本氏との会談

の模様を、はじめから終りまで、文句のこまかい点まで注意しながら、ユックリユックリ

思い出して行った。事実そのものにもまして快い回想の魅力は、北川氏を夢中にさせない

ではおかなかった。

「僕がそれに気づいたのは、極く最近のことなんだ。その当座はただもう泣くにも泣かれ

ぬ悲しみで心が一杯だった。恥かしいことだが、正直をいうと、僕は妙子に惚れていた。

惚れていたればこそ、彼女の居るあいだは、あれほども、君をはじめ友人たちが驚いてい

たほども、仕事に没頭できたんだ。どんなに仕事に夢中になっていたって、おれの女房は、

あの片靨の可愛い笑顔で、おれのうしろにちゃんと坐っているんだという安心が、僕をあ

んなふうにしていたんだ。

忘れもしない彼女の初七日の朝だった。ふと新聞を見ると、文芸欄の片隅に生田春月の

訳詩がのっていた――そのある日にはそれとも知らず、なくてぞ恋しき妻である――とい

う一句を読むと、子供の時分からこのかた、ずっと忘れてしまっていた涙が、不思議なほ

ど止めどもなく、ほろほろとこぼれたっけ。僕は女房の死んだあとになって、僕がどれほ

ど彼女を愛していたかということがわかった……君はこんな繰り言を聞きたくもないだろ

うね。僕も言いたくはない、殊に君の前では言いたくない。しかし、どれほど女房の死が

僕を悲しませたか、それがどんなに僕の一生をメチャメチャにしてしまったかということ

を、よくよく君に察してもらいたいからこそ、言いたくもないのを、無理にも言っている

んだ」

北川氏はいかにも殊勝げにこう語り出したのであった。

しかし、このめめしい繰りごととも見えるものが、実は世にも恐ろしい復讐への第一歩

だろうと、誰が想像し得ただろう。

「日がたつに従って、ほんの少しずつではあったが、悲しみが薄らいで行った。いや、悲

しみそのものには変りがなかったのだろうが、ただそればかりにかかずらって、めそめそ

と泣いていた僕の心に、少しばかり余裕ができてきた。すると、今までは、悲しみにまぎ

れて、忘れるともなく忘れていたある疑いが、猛然として頭をもたげはじめたんだ……君

も知っているように、妙子のあの不思議な死に方は、僕にとってはどうしても解くことの

できない謎だった」

北川氏は彼の細君の死については、最初から疑いを抱いていた。子供さえ助かっている

のに、なぜ妙子だけが、あの火事のために焼け死んだかということは、彼には、考えても

考えても、解きがたい一つの謎だった。

それは三カ月以前の春もたけなわなころの出来事だった。

そのころ、北川氏は二軒建ちのちょっとした借家に住んでいたのだが、あの日、真夜中

に棟を同じうしている、壁ひとえ隣から失火して、彼の家も丸焼けになってしまった。

類焼は五軒ばかりで鎮火したが、風のひどかったせいか、火の燃え拡がる速力は不思議

なほど早かった。大切なものを持ち出したり、子供にけがをさせまいとしたり、そういう

場合でなければ経験のできない、一種異様な、追いつめられたような、せかせかした気持

のために、可なりの時間をほとんど一瞬のように感じたせいもあろうけれど、あの、とほ

うもなく大きな大蛇の舌ででもあるような「火焔」という生き物が、人間の住家をなめた

だらしてしまう速さというものは、ほんとうにびっくりするほどであった。

北川氏は第一に幼児――誕生を過ぎてまだ間もなかった幼児を抱いて、少し離れた友人

の家へかけつけた。

泣き叫ぶ子供は、友人の細君に託し、友人にも手伝ってもらって、できるだけの品物を

持ち出そうと、彼は火事場へ取って返した。

寝巻姿の気違いめいた北川氏は、人間がまだ言葉というものを知らなかった原始時代に

立ち帰って、意味をなさぬ|世《よ》|迷《まい》|言《ごと》を口走りながら、息を切

らして走るのだった。

そうして、友人の家との二、三丁のあいだを二回往復すると、もう火勢が強くなって、

品物を持ち出すどころではなく、危くすると命にもかかわりそうになったので、彼はとも

かくも友人の家に落ち着いて、何よりも先ず、痛みを感じるほどにカラカラに渇いた喉を、

コップに何杯も何杯もお代りをして、うるおしたのだった。

が、ふと気がつくと、妙子の姿が見えない。

たしかに一度は彼女の走っているのを見かけたのだが、そして、彼女は、北川氏がこの

友人の家へ避難したことは当然知っているはずだが、どうしたものか姿を見せなかった。

でも、まさか、燃えさかる火の中へ飛びこもうなどとは、想像もしなかったので、しば

らくは、彼女の取り乱した姿が、友人の門口に現われるのを、ぼんやりと待っていたのだ

った。

行李だとか、手文庫だとか、書類だとか、いろいろの品物が雑然と投げ出された友人の

家の玄関に、友人夫婦と、北川氏と、子供を抱いてふるえているまだ年のいかぬ女中とが、

妙にだまり込んで顔を見合わせていた。

そとからは、火事場の騒擾が手に取るように聞こえてきた。「オーイ」とか「ワー」とか

「ワッワッワッ、ワッワッワッ……」とかいう感じの騒音が、表通りを駈けて通る騒々し

い足音が、近所の軒先にたたずんだ人々の眠むそうな、しかしおどおどした話声にまじっ

て、まるで、北川氏自身にはなんの関係もない音楽かなんぞのように響いてくるのだった。

あちらでもこちらでも、あの妙に劇的な音色を持った半鐘の音が、人の心臓をドキドキ

させないではおかぬ、凄いような、それでいてどこか快いような感じで打ち鳴らされてい

た。

それに引きかえて、家の中の彼らの一団の静かさが、なんとまあ不思議なほどであった

ことよ。どれほどの時間だったか、よほど長いあいだ、彼らは身動きさえしないでシーン

と静まり返っていた。

一時は火のつくように泣き叫んでいた幼児も、もうすっかりだまりこんでいた。

ほどへてから、友人の細君が、まるで、つまらない世間話でもしているような、ゆった

りした調子でこう言った。

「奥さんはどうなすったのでしょうね、ねえ、あなた」

「そうだ、だいぶ時間もたったのに、おかしいな」

友人は北川氏の顔をじろじろ眺めながら、考え深そうに答えた。

そんなわけで、彼らが妙子を探しに出掛けたのは、さすがに烈しかった火勢も、もう下

火になったころであった。

だが、探しても探しても妙子の姿は見えなかった。知り合いの家を一軒ずつ尋ね廻って、

もうこれ以上手の尽しようがないと思ったのは、はや夜の明けるに間もないころであった。

へとへとに疲れきった北川氏は、一と先ず友人の家へ引き上げて、ともかく床についた。

その翌日、焼け跡の取かたづけをしていた仕事師の鳶口によって、北川氏の家の跡から、

女の死骸が掘り出された。

そして、はじめて、妙子がなんのためだか、燃えさかる家の中へ飛びこんで、焼け死ん

だということがわかった。

それは実際不思議なことだった。

何一つ彼女を猛火の中へ導くような理由というものがなかった。変事のために遠方から

集まってきた親族の人たちのあいだには、これはきっと、あまり恐ろしい出来事のために

逆上して、気が変になったせいだろうという説が勝ちを占めた。

「私の知っているあるお婆さんは、そら火事だというのに、うろたえてしまって、いきな

り米櫃の前へ行って、丹念にお米を量っては桶の中へ入れていたっていいますよ。ほんと

うに、お米が一ばん大切だと思ったのでしょうね。こんな時には、よっぽどしっかりした

者でも、うろたえてしまいますからね」

妙子の母親は、ともすれば、咽びそうになるのをこらえこらえして、鼻の詰まった声で、

こんなことを言ったりした。

「可愛い女房が、若い身そらで、しかも子供まで残して、死んでしまった。それだけで、

もう男の心を打ちひしぐには充分過ぎるほど充分なんだ。その上に、見るも無ざんなあの

死にかた……君にあいつの死顔を一と眼見せてやりたかった。もし、あの死骸を前に置い

て、君にこの話ができるんだったら、まあどんなに深刻な、劇的な効果を収め得たことだ

ろう。

あいつの死骸はまっ黒な一つのかたまりにすぎなかった。それはむごたらしいなどとい

うよりは、むしろ気味のわるいものだった。知らせによってその場へ駈けつけた僕の眼の

前にころがっていたものは、生れてからまだ一度も見たことのないような珍らしいものだ

った。それが三年以来つれ添ってきた女房だなどとは、どうしたって考えられなかった。

それが人間の死骸だということさえも、ちょっと見ただけではわからなかった。眼も鼻も、

手足さえ判明し兼ねるような一とかたまりの黒いものだった。所々、黒い表皮が破れて、

まっ赤な肉がはみ出していた。

君は火星の望遠鏡写真を見たことがあるかね。火星の運河という、あの変な表現派じみ

た、網の目のようなものを知っているかね。ちょうどあの感じだった。まっ黒なかたまり

の表面が、あんなふうにひび割れて、毒々しいまっ赤な筋が縦横についていた。人間とい

う感じからは、まるでかけはなれた、えたいのしれぬ物凄い物体だった。僕は、これが果

たして妙子かしらと疑ぐった。物慣れた仕事師は、僕の疑わしげな様子に気づいたとみえ

て、その黒い物体のある箇所を指し示してくれた。そこには、よく見ると、妙子がきのう

まではめていた、細いプラチナの指環が光っていた。もう疑ってみようもなかった。

それに、妙子のほかには、その夜、行方不明になったものは、一人もなかったことも後

になってわかったのだ。

だが、こんな死にざまも世間にないことではない。それはずいぶんひどいことには違い

なかったが、それよりも、そんな外面的なことよりも、もっと、もっと、僕の心を苦しめ

たのは、なぜ妙子が死んだかという疑いだった。死なねばならぬような理由は少しだって

ありはしなかった。物質的にも、精神的にも、彼女に死ぬほど深い悩みがあったろうとは、

僕にはどうしたって考えられなかった。といって、彼女は、不意の出来事に気の狂うほど、

気の弱い女でもなかった。彼女が見かけによらぬしっかり者だということは、君もよく知

っている通りだからね。仮りに一歩を譲って、彼女は気が狂ったのだとしても、何もわざ

わざ猛火の中へ飛びこんで行くわけがないじゃないか。

そこには何か理由がなくてはならない。一人の女を、死の危険を冒してまで、燃えさか

る家の中へ飛びこませるほど重大な理由というのは、それは一体なんだろう。夜となく、

昼となく、この息苦しい疑いが僕の頭にこびりついて離れなかった。たとえ死因がわかっ

たところで、今さらどうしてみようもないと知りながら、やっぱり考えないではいられな

かった。僕は長いあいだかかって、あらゆるありそうな場合を考えてみた。

大切な品物を家の中へ置き忘れて、それを取り出すために、ああした行動を取ったと解

するのが、先ず一ばんもっともらしい考えだった。

しかし、どんな大切な品物を彼女が持っていたのだろう?僕は、妙子の身のまわりの

細かい点などにはまるで注意を払っていなかったので、その持ち物なども、何があるのか、

ちっとも知らなかった。しかし、あの女が命にも換えられぬような大切な品物を持ってい

たとも考えられないじゃないか。そんなふうに、ほかのいろいろな理由を想像してみても、

みな可能性に乏しいものばかりだった。僕はついには、これは死人と共に永久によみがえ

ることのない疑問としてあきらめるほかはないのかと思った。dead secret という言葉が

あるが、妙子の死因は文字通りの dead secret だった。

君は盲点というものを知っているだろう。

僕は盲点の作用ほど恐ろしいものはないと思うよ。普通、盲点といえば視覚について用

いられてる言葉だが、僕は意識にも盲点があると思う。つまり、いわば『脳髄の盲点』な

んだね。なんでもないことをふと胴忘れすることがある。最も親しい友だちの名前が、ど

うしても思い出せないようなこともある。世の中に何が恐ろしいといって、こんな恐ろし

いことはないと思うよ。僕はそれを考えると、じっとしていられないような気がする。例

えば、僕が一つの創見に富んだ学説を発表する、その場合、その巧みに組立てられた学説

のある一点に『脳髄の盲点』が作用していたとしたらどうだ。一度盲点にかかったら何か

の機会でそれをはずれるまでは、間違いを間違いだと意識しないのだからな。僕らのよう

な仕事をしているものには殊に、盲点の作用ほど恐ろしいものはない。

ところが、どうだろう。あの妙子の死因が、どうやら僕の『脳髄の盲点』に引っ掛って

いるような気がし出したのだ。どうも不思議だと思う反面には、これほどよくわかったこ

とはないじゃないかと、何者かがささやいているんだ。ぼんやりした、なんだかわからな

いものが、『私こそ奥さんの死因なんですよ』といわぬばかりに、そこにじっとしているん

だ。しかし、もうちょっとで手が届くというところまで行っていて、それから先はどうに

もこうにも考え出せないのだ」

北川氏は予定通り、寸分も間違えないで話を進めて行った。あせる心をじっと抑えて、

結論までの距離をなるだけ長くしようとした。そして、ちょうど子供が蛇をなぶり殺しに

する時のような快感で、野本氏の苦悶する有様を眺めようとした。一寸だめし五分だめし

に、チクリチクリと急所を突いて行った。

この愚痴っぽい、なんでもないような長談義が野本氏にとっては、どんなに恐ろしい責

め道具だかということを、彼はよく知っていた。

野本氏はだまって彼の話を聴いていた。

はじめのうちは「うん」とか「なるほど」とか受け答えの言葉を挾んでいたが、だんだ

ん物を言わなくなって行った。それは退屈な話に飽き飽きしたというふうにも見えた。

しかし、北川氏は、野本氏は怖れのために口が利けなくなったのだと信じていた。うっ

かり口を利けば、それが恐怖の叫び声になりはしないかというおそれのために、だまって

いるのだと信じていた。

「ある日、越野が訪ねてくれた。越野は近所に住んでいたばかりに、火事の手伝いから避

難場まで引き受けて、ずいぶん面倒を見てくれたんだが、その日はその日で妙子の死因に

ついて非常に重大なサゼッションを与えてくれたのだった。越野の話によると、それはあ

る目撃者から聞いたんだそうだが、妙子はあのとき何か大声に喚きながら、燃えさかる家

の前を、右往左往に駈け回っていたっていうんだ。あたりの騒音のために、それが何を喚

いているのか聞き取れなかったが、何か非常に重大なことだったに違いないって、その男

が言ったそうだ。そうしているうちに、どこからともなく、一人の男が現われて、妙子の

側へ近寄って行ったそうだ」

北川氏はこういって、じっと相手の眼に見入ったのだった。それがどんなに相手を怖わ

がらせるかということを意識しながら、彼は、暗い洞穴の中からじいっと獲物を狙ってい

る蛇のような眼つきで、野本氏を見つめたのだった。

「その男は、妙子のそばまで行ったかと思うと、フッと廻れ右をして、元来た方へ走り去

ってしまったそうだが、すると、どうした事か、妙子は非常に驚いて、一杯に見ひらいた

眼で、救いを求めるようにあたりを見廻した。が、それも瞬間で、アッと思う間に、一面

の火になっていた家の中へ飛びこんでしまったというのだ……その男は、それからどうな

ったか、まさか、その不思議な女が焼け死のうとも思わなかったので、混雑にまぎれて、

その後の様子を見届けなかったと言ったそうだ。そして、それが、翌日焼け跡から掘り出

された越野の友だちの細君だったと聞くと、その男は、そんなことなら、あの時すぐお知

らせするのだった。残念をしたといって悔みを述べたそうだ。

この話を聞いて、僕は、やっぱり妙子は気が狂ったのではなかったと思った。確かに何

か重大な理由があって、火中に飛びこんだのに違いないと思った。

『それにしても、妙子のそばまで行って、すぐにどっかへ居なくなった男というのは、一

体何者だろう』と僕がいうと、越野は声を落として、真剣な眼付で『それについて思い当

たることがある』と言うではないか……越野はあの時、僕の荷物を肩に担いで走りながら、

ふと一人の男にすれ違ったのだった。ハッと思って振り返ると、もうその男は、たくさん

の野次馬の中へまぎれこんで、姿が見えなかったそうだ。越野はその男の名前を知らせて

くれたが、君はそれが誰だったと思う。僕とも、越野とも、至って親しい古い友だちなん

だが……その男は、なぜ友だちの越野に会って、挨拶もしないで、逃げるように跡をくら

ましたのだろう。僕の家が焼けているというのに、見舞いにもこないで行ってしまったの

だろう。これについては、君は一体どんなふうに考えるね」

北川氏の話は、だんだん問題の中心に近づいて行くのだった。

野本氏は相変らず一とことも口を利かないで、一種異様の表情をもって、北川氏の雄弁

に動く口のあたりをじっと見つめていた。彼の顔色は、さいぜんから、手酌でかなりビー

ルを飲んでおったにもかかわらず、はじめ対座したときから見ると、見違えるほどあおざ

めていた。

勝ちほこった北川氏は、ますます雄弁に、まるで演説でもしているような口調で、一所

懸命に話を進めて行くのだった。

彼は極度の緊張で、両頬のカッカッとほてるのを感じた。腋の下が、冷たい汗でしとど

濡れるのを感じた。

「だが、それだけの謎のような事実を聞いたばかりでは、僕にはどうにも判断の下しよう

がなかった。事実の真髄によほど近づいたことは確かだった。しかし、真髄そのものは、

やっぱり今にもわかりそうでいて、少しもわからなかった。それは無限小の距離には近づ

き得ても、本体に触れることは絶対にできないようなもどかしさだった。もどかしいとい

うよりは、むしろ恐ろしかった。僕は、これはてっきり『脳髄の盲点』だなと思うと、身

震いするほど恐ろしかった。そうして二日三日と日がたって行った。

ところが、ついしたことから、その盲点がハッと破れた。そして、夢からさめたように、

何もかもすっかりわかってしまった。僕は忿怒のあまり躍り上がった。そいつこそ、越野

が教えてくれたその男こそ、憎んでも憎んでも憎み足りないやつだった。僕はすぐさま、

そいつの家へ飛んで行って、掴み殺してやろうかと思ったくらいだ……いや、僕は少し興

奮しすぎた。もっと冷静にゆっくり話をするはずだった……そのとき僕は、妙子の里から

よこしてくれた新しい乳母に抱かれている子供を見ていた。子供は、まだ乳母になつかな

いで、まわらぬ舌で『ママ、ママ』と、死んだ母親を求めていた。子供はいじらしかった。

だが、こんな可愛い子供を残して死んでしまった、いや殺されてしまった母親こそなお

さら可哀そうだった。僕はそう思うと、『坊や、坊や』と子供を呼んでいる母親の声が、あ

の世から聞こえてくるような気がした。

君、これはきっと、浮かばれぬ妙子の魂が、どっかから、僕の胸へささやいたんだね。

『坊や、坊や』という妙子の声を想像すると、突然僕は烈しいショックに打たれた。そう

だ。それに違いない……妙子を猛火の中へ飛びこませるほどの偉大な力はこの『坊や』の

ほかには持っていないのだ……一度盲点が破れると、長いあいだせき止められていた考え

が津波のようにほとばしり出た。

あのとき、僕が第一に子供を連れて友だちの家に避難したことを、妙子は知らなかった

かもしれない。あの場合そうした思いちがいは、あり得ないことじゃない。僕は飛び起き

るとすぐさま子供を抱えて走り出しながら、床の上に起き上がって身づくろいしている妻

に、『早く逃げろ、子供はおれが連れて行くぞ』とどなったのだ。しかし、それが果たして、

顛動していた妙子の耳に通じたかどうか。何を考える暇もなく、本能的に飛び出したあと

で、はじめて子供のことに気づいたというようなことではあるまいか。そして、『坊や、坊

や』と叫びながら、家の前をうろついていたのではあるまいか。ああいう異常な場合には、

ふだんとはまるで違った心理作用が働くものだ。その証拠には、僕自身にしても、二度目

に、荷物を運んで越野の家へ走っているあいだに、『はてな、子供はどうしたかしら』とい

う考えで、幾度となく心臓をドキドキさせたくらいだもの」

北川氏は、ここで少し言葉を切って、その効果を確かめるように、野本氏の様子をうか

がった。

そして、野本氏が一層あおざめて、歯を食いしばっているのを知ると、満足らしくうな

ずいて、話を最も肝要な点に進めて行った。

「ここに一人の執念深い男があって、ある女に深い恨みを抱いていたと仮定する。男はど

うかして、その恨みをはらそうと執念深く機会を狙っている。すると、ある時その女の家

が火事にあう。どうかした都合で、その場に居合わせた男が、女の一家が焼け出される有

様を小気味のいいことに思って眺めている、ふと見ると、女が『坊や、坊や』と叫びなが

ら家の前をうろついている。男の頭にあるすばらしい機智が浮かぶ。このチャンスをはず

してなるものかと思う。

男はやにわに女のそばに近寄って、催眠術の暗示でもかけるように、『坊ちゃんはね、奥

座敷に寝ていますよ』と告げる。そして、素早くその場を逃げてしまう。なんという驚く

べきインジニアスな復讐だろう。ふだんなら、誰だってこんな暗示にかかりはしないだろ

う。しかし、気も狂わんばかりに、子供の身の上を気遣って逆上している、あの際の母を

殺すには、それは飛び切りのトリックだった。僕は忿怒に燃え立ちながらも、その男のす

ばらしい機知に感心しないわけにはいかなかった。

僕は今まで、絶対に証拠を残さないような犯罪というものが、あり得ようとは思わなか

った。だが、その男の場合はどうだ。どんな偉い裁判官だって処罰のしようがないではな

いか。死人のほかには誰も聞かなかったであろうそのささやきが、なんの証拠になるだろ

う。それは、その男の行動を怪しんで、記憶にとどめている幾人かの人はあるかもしれな

い。しかし、そんなことが何になるものか。友だちの細君の不幸を慰めるために、そのそ

ばへよって口を利くということは、ごく当たり前のことだからね。仮りに一歩を譲って、

そのささやきが誰かに洩れ聞かれたとしても、それはその男にとってちっとも恐ろしいこ

とじゃない。『私は真実そう信じて言ったまでのことです。そのために奥さんが火の中へ飛

びこんで、自分で自分を焼き殺したって、それは私の知ったことじゃありません。あなた

は、そんな気ちがいじみたことを私が予期しておったとでもおっしゃるのですか』そうい

えば、立派に申しわけが立つではないか。なんという恐ろしい企らみだ。その男は確かに

人殺しの天才だ。え、そうじゃないか、野本君」

北川氏は、ここでもう一度言葉を切った。そしてこれからいよいよおれの復讐を実行す

るのだぞと言わぬばかりに、ペロペロと唇を舐め廻した。

彼は、半殺しの鼠を前にした猫のように、いかにも楽しそうに、物凄い眼つきで野本氏

の顔をジロジロ眺めるのだった。

北川氏が野本氏と親しくなったのは、もちろん学校が同じだったという点もあるが、そ

れよりも、一人の女性を渇仰する青年たちが、類を以て集まった、そのグループの中の一

員として、お互いに嫉視しながら近づき合ったということが、より重大な動機をなしてい

たのだった。

そのグループの中には、北川氏、野本氏のほかに、まだ二、三人の同じ青年たちがいた。

あの火事の際に、北川氏一家の避難所をうけたまわった越野氏もその中の一人だった。そ

れは七、八年も前のことで、当時の青年たちは、もうそれぞれ一かどの威厳を備えたプテ

ィ.ブルジョワになりすましていたが、さすがに昔忘れずつき合っているのだった。

では、そのグループの中心となった幸福な女性はというと、それがすなわち後の北川氏

夫人妙子だったのである。

妙子は山の手のある旧御家人の娘だった。何々小町と呼ばれたほどの器量よしで、その

上、教育こそ地味な技芸学校を出たばかりだったが、女としては可なり理解力にも富んで

いたし、昔形気の母親のしつけにもよったのだろうが、当節の娘に似合わないしとやかな

ところもあって、申し分のない少女だった。

当時北川氏は、遠い親戚に当たるところから、妙子の家に寄寓して学校に通よっていた。

自然、妙子渇仰の青年たちは、北川氏の書斎に集まってきた。

北川氏はその頃から、少し変人型のむっつりやで、学問にかけては誰にもひけを取らな

かったが、交際というようなことは至って不得手だった。それにもかかわらず、彼の書斎

に客の絶えまがなかったというのは、彼を訪ねさえすれば、たとえ一緒になって談笑する

とまでは行かずとも、取次に出たり、お茶を運んできたり、何かと妙子の顔を拝む機会が

あろうという、友人たちの敵本主義によるものだった。その中でも、最もしげしげ彼の室

に出入りしたのは、今いった野本氏、越野氏、そのほか二、三氏のグループだった。彼ら

の暗闘は並々ならず烈しいものだった。だが、それはあくまで暗闘にすぎなかった。

その中でも、野本氏は最も熱心だった。秀麗な容貌の持主で、学校の成績も先ず秀才の

部に属してい、その上ずいぶん調子のいい交際家でもあった野本氏が、われこそという自

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页