蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名.3
信を持っていたのは当然なことだった。彼自身そう信じていたばかりでなく、競争者たち
も、残念ながら彼の優越を否定するわけにはいかなかった。北川氏の書斎での談笑の中心
は、いつもきまったように野本氏が引き受けていた。時たま妙子が座にあるとき、もしそ
こに野本氏がいないと座が白けた。野本氏がいれば、彼女も快活に口をひらいた。
彼女が大声に笑ったりするのは野本氏のいる時に限られていた。そういう調子で、彼は
苦もなく妙子に接近して行ったのだった。
誰しも野本氏こそ勝利者だと思った。
いろいろな機会のいろいろな暗黙の了解によって、野本氏自身もそう信じていた。あと
には唯プロポーズが残っているばかりだと信じていた。
彼らの関係がちょうどそうした状態にあるとき、暑中休暇がきた。野本氏は優勝者の満
悦をもって、いそいそと帰省の途についた。もうすっかり自分のものだという安心が、妙
子とのしばしの別れをかえって楽しいものに思わせた。
遠方からの手紙の遣り取りによって、二人のあいだがなお一層接近するであろうことを
予想しながら、野本氏は東京をあとにした。
ところが、野本氏の帰省中に、俄然局面が一変した。野本氏があれほども自分のものだ
と信じきっていた妙子が、彼には一とことの断りもなく、一同がまさかこの男がと、高を
くくっていた、あのむっつりやの北川氏に嫁してしまったのであった。
北川氏の喜悦と反比例して、野本氏の忿怒は烈しいものだった。それは忿怒というより
もむしろ驚愕であった。信じきっていたものに裏切られた人の驚愕であった。これ見よが
しに振舞っていた手前、彼は友だちに合わす顔がなかった。
しかし、これといってハッキリした約束を取りかわしているわけではなかったので、ど
うにも抗議のしようがなかった。違約を責めようにも、違えるべき約束をまだしていない
のだった。洩らすすべのない憤りは野本氏の人物を一変させてしまった。
それ以来彼はあまり物を言わなくなった。これまでのように友だちの家を遊び廻らなく
なった。彼はただ、学問に没頭することによって、僅かにやるせない失恋の悲しみを紛ら
そうとした。北川氏はそれらの事情を知りすぎるほどよく知っていた。野本氏がその後今
日に至るまで妻帯しないことが、彼の失恋の悲しみがいかに烈しいものだったかを証拠立
てていると思っていた。それだけに、彼と野本氏との間柄は、表面は同窓の友としてつき
合っていたけれども、実は恐ろしく気まずいものになっていた。
そうしたいきさつを考えると、野本氏があのような復讐を企てるというのも、ずいぶん
もっともなことだったし、北川氏がそれを疑う心持も、決して無理ではなかった。
さて、北川氏という男は、前にもちょっと言い及んだように、少し変り者だった。
社交的の会話、洒落とか冗談とかいうものは、まるでだめだった。彼はユーモアという
ものをてんで解しないような男だった。しかし議論などになると、ずいぶん雄弁にしゃべ
った。彼は何か一つの目的がきまらないことには何もする気になれぬらしかった。その代
り、これと思い込むと、傍目もふらず突き進む方だった。そういう時は、目的以外のこと
にはまるで盲目になってしまった。この性質があればこそ、彼は学問にも成功した。不得
手な恋にさえ成功した。彼は二つのことを同時に念頭におくことのできない性質だった。
妙子を得るまでは妙子のことのほかは何も考えなかった。妙子を得てしまうと、今度は
学問に熱中した。あれほど執心だった妙子を一人ぼっちにほったらかして学問の研究に没
頭した。そして、今や妙子の死に会するに及んでは、「可哀そうな妙子」のことのほかは何
も考えられぬ彼であった。野本氏に対する復讐についても彼は狂的に熱中した。そして、
その目的を果たすと狂的に歓喜した。
すべてが極端から極端へと走った。
彼は一つ間違うと気違いになり兼ねぬような素質を多分に持っていた。いや、現に、妙
子の死因についてのあの突飛な想像、野本氏に対するあの奇怪なる復讐、それらは北川氏
の正気を信ずるにはあまりに気違いじみたものではなかったか。
しかし、北川氏は彼の想像の的中を固く信じていた。そして、その信念がいま確証され
たのであった。
かたきと狙う野本氏は、見事北川氏の術中におちいって、彼の眼の前に、あさましい苦
悶の姿を曝したのであった。
北川氏の話は、やっと長々しい前提を終えて、復讐の眼目にはいるのだった。
「その男の恐ろしい復讐には少しの手落ちもなかった。たとえそれを推量することはでき
ても、それは推量の範囲を一歩だって越えることはできないのだ。お前はこういう罪を犯
したではないかと責めたところで、相手がそれに服しなければ、どうにもしようがないの
だ。僕はただその男の機知に感じ入って、じっとしているほかはなかった。相手はわかっ
ている。しかもそれを責める方法がない。こんな苦しい変てこな立場があるだろうか。だ
が、野本君、安心してくれたまえ、僕はとうとうその男をとっちめる武器を発見したんだ。
けれど、それは僕にとってなんという残酷な武器だったろう。
僕が発見した事実というのは、その男を苦しめると同時に僕を苦しめる、それを復讐の
手段に用いるためには、先ず僕自身が相手と同様の苦しみを舐めた上でなければ、役に立
たないような種類のものだった。僕は、あの、敵に毒饅頭を食わせるために、先ず自から
の命を的にその一片を毒見した昔の忠臣の話を思い出した。敵をたおせば自分も滅びる、
自分が先ず死なねば相手を殺すことができない。なんという恐ろしい死にもの狂いな復讐
だろう。
だが、昔の忠臣の場合はまだいい。彼は復讐を思い止まりさえすれば、身を殺す必要は
なかったのだ。ところが、僕の場合は、復讐をしようがしまいが、そんなことに関係なく、
その恐ろしい事実は、刻一刻鮮明の度を加えて、僕に迫ってくるのだった。はじめのあい
だはボンヤリした、あるかなきかの疑いだったものが、徐々に、ほんとうに徐々に、事実
らしくなって行った。そして、今ではそれが『らしく』などという言葉を許さぬ、火のよ
うに明らかな事実となってしまったのだ。今までは心の中の問題だったものが、あまりに
明瞭な証拠物の発見によって、もうどうにも動きのとれぬ事実となってしまった。どっち
みち、僕はこの苦しみを味わねばならぬのだ。どうせ苦しむのなら、多分僕よりも幾層倍
打撃を蒙るであろう敵にも、この事実を知らせてやろう。そして、そののたうち廻る有様
を眺めてやろう。僕はそう決心したのだ。
その当座、僕は毎日々々その男のこの上もなく巧妙な復讐のことよりほかは考えなかっ
た。或いは憤ったり、或いは感心したりしながら、そればかりで頭の中が一杯になってい
た。ところが、ある日、地平線の彼方にぽっつりと現われた、一点の怪しげな黒雲のよう
に、ふと妙な考えが浮かんだ、なるほど、あの男は完全無欠な手際で復讐をなしとげた。
しかし、もし妙子が彼の信じているように、彼を嫌っていなかったとしたらどうだ。いや、
かえって彼を愛していたとしたらどうだ……そんなことがあるはずはない。それはとりと
めもない妄想だ。おれは頭がどうかしている。ばかな、そんなことがあってたまるものか。
だが、しかしそれは果たしてあり得ないことだろうか。なぜ、こんなとほうもない妄想が、
おれの頭の中へ浮かんできたのだろう。僕は恐ろしさに身震いした。もし……もし、妙子
があれ以来その男を思いつづけていたとしたら。
自然に、僕の考えは妙子との結婚当時の事情に移って行った。その男は結婚以前の僕に
とって、一人の恐るべき競争者だった。僕は秘かに信じているんだが、その男自身も、彼
の周囲の人たちも、妙子が僕と結婚しようなどとは、毛頭考えていなかったに違いない。
そして、その男こそ妙子の未来の夫になる仕合わせ者だと信じていたに違いない。それほ
ど、その男は妙子の心を奪っていた。もしそこに特別の事情がなかったなら、妙子は必ず
彼のもとに走ったであろう。敵ながら、その男にはあらゆる条件が備わっていた。それに
反して僕はというと、何一つ女の心を惹くような美点を持ち合わせていなかったではない
か。だが、僕の方には特別の武器があった。僕は妙子の家と遠い姻戚関係があったばかり
でなく、昔にさかのぼれば、僕の一家は妙子の一家の主筋に当たるのだった。そうした関
係から、結婚を申込めば妙子の両親が、あの昔形気な老人たちが、二つ返事でむしろ有難
く承諾するのは当然のことだった。そんな義理づくばかりでなく、物堅い僕の性質が『あ
の人なら』というふうに彼らの深い信用を買っていた。その上、幸か不幸か、妙子自身が、
どんなことがあっても親の言いつけには反き得ないような、昔風の娘だった。心では、ど
れほど深く思いつめている男があっても、それを色に現わすようなはしたない女ではなか
った。僕はそういう事情につけ込んで、無理にも我意を通そうとしたのではなかったか。
たとえこれほど明瞭には考えないでも、心の奥では、それを意識していはしなかったか。
だが、誰でも持っているように、僕とても、人並の、いやおそらく人並以上の自惚れを
持っていた。意外にもすらすらと結婚の話が進捗して、さて一緒になってみると、いつと
はなしに、そうした自責に似た心持も消え去ってしまった。妙子は、僕を大切な旦那様と
して、十分貞節を尽してくれた。『さては、あの男を恋していたと思ったのも、おれの疑心
暗鬼であったか』お人好しの僕は一概にそう信じてしまったのだった。
しかし今にして思えば、妙子のほかに女というものを知らぬ僕には、なんとも判断しか
ねるけれど、恋というのはあんなものではないらしい。僕と妙子の関係は、恋人というよ
りも、むしろ主従のそれに近いものだったのではあるまいか。考えてみれば僕もずいぶん
お坊ちゃんであった。三年間もつれ添っていながら、女房の心持がハッキリわからないな
んて……実際、僕はこれまで、女房の心持について考えて見ようなどと思ったことすらな
いのだ。夫婦になりさえすれば、女房というものは、亭主を世界中のただ一人として愛す
るものだと単純に極めてしまって、もうなんの疑うところもなく、専門の仕事に没頭して
いたのだった。
だが、今度の事件が僕の眼をひらいてくれた。
あとになって考えると、妙子のそぶりに腑に落ちぬ点が多々あった。ああいう時、ほん
とうに夫を愛している女房だったら、あんなふうにはしなかったろうというような、些細
な出来事がそれからそれへと思い浮かぶのだった。確かに、妙子は僕という夫に満足して
いなかったのだ。そして心ならずも見棄てたところの、昔の恋人の姿を、絶えず心にいだ
きしめていたのだ。いや心の上だけではない。悲しいことだが、彼女のあのふくよかな暖
かい胸には、真実その男の『姿』が抱きしめられていたのだった。
僕はさっき、動きのとれぬ証拠物を発見したと言った。
その証拠というのは、見たまえ、これなんだ。このペンダントは、君もよく知っている
ように、妙子が娘時代から大切にしていた品だ。
これは、やっと火事場から持ち出した彼女の手文庫の底に、丁寧にビロードのサックに
入れてしまってあったのを、つい数日前、ふとしたことから発見したんだが、この妙子の
秘蔵のペンダントの中には一体なにがはいっていたと思う。その中には、野本君、その男
の――越野が火事場で出会った男の――妙子を無残に焼き殺した男の――しかも、その妙
子が以前からずっと愛しつづけていた男の――写真が、守り本尊のようにはりつけてあっ
たのだよ。しかし、もし、これが、妙子が娘時代にその男の写真をはりつけておいたまま、
うち忘れていたとでもいうのならまだしも、現に、彼女は僕と結婚した当座、確かにこの
中へは僕の写真をはりつけていたのだからな。それがいつの間にか、その男の写真と代っ
ていたというのは、これは一体なにを語るものだろう」
北川氏は、内ぶところへ手を入れて、一つの金製のペンダントを取り出した。そして、
それを手の平の上にのせてヌッと野本氏の鼻の先へつき出した。
野本氏は、怖れに耐えぬように、打震う手でそれを受け取った。そして、ペンダントの
表面の浮彫り模様をじっと見入っていた。
北川氏は極度に緊張していた。皇国の興廃この一戦にありといった感じだった。あらゆ
る神経が両眼に集中した。そして、野本氏の表情を、どんな細かい点までも見のがすまい
と努力した。死のような沈黙がつづいた。
野本氏は可なり長いあいだペンダントを見つめていた。
彼は、その蓋をひらいて、中の写真を確かめようともしなかった。それは、そんなこと
をしてみるまでもなく、あまりに明白な事実として、野本氏の胸を打ったのに違いなかっ
た……彼の表情はだんだん空虚になって行った。殊に彼の眼は、視線だけはペンダントに
注いでいたけれど、何かほかのことを深く深く思いめぐらしてでもいるように、まるでう
つろに見えた。やがて、彼の頭は、そろりそろりとさがって行った。そして、ついには、
彼はチャブ台の上に俯伏してしまったのだった。その瞬間、北川氏は彼が泣き出したので
はないかと思ってハッとした。だが、そうではなかった。
野本氏は、あまりにひどい心の痛手に、もはや永久に起き上がることのできない人のよ
うに、俯伏したまま動かなかった。
北川氏は、もうこれでいいと思った。
勝利の快感で喉が塞がったようになった。それ以上話をつづける必要はなかった。たと
えあっても、北川氏にはもう口が利けなかった。彼はもがくようにして立ち上がった。
そして、俯伏したままの野本氏をしり目にかけて、すっと座敷から出た。何も知らぬ婆
やが、あわてて彼の下駄を直しに出てきた。彼は躍るような足取りで玄関の式台へ下りた
とたんに、ドサリという音がした。
北川氏は婆やの上に重なって、ぶざまに倒れていた。彼は昂奮のあまり痺れが切れたこ
とすら意識しなかったのだ。
「かくして、おれは勝ったのだ」
北川氏は満悦のていで、まだ歩きつづけていた。
「あいつはあのペンダントを永久に手離し得ないのだ。棄てようとしても、どうにも棄て
られないのだ、いやペンダントそのものはたとえ棄てることができても、あいつの頭の中
には、いつまでも、いつまでも、おそらく墓場の中までも、その持主の姿を象徴するよう
にあのペンダントがこびりついていることだろう。『これほど自分を思ってくれた人を、お
れはこの上もない残酷な手段で焼き殺してしまったのだ』やつは取り返しのつかぬ失策に、
毎日々々嘆き悶えることだろう。こんな気味のいい復讐があるだろうか。なんという申し
分のない手際だろう。さすがは北川だ。お前は偉い。お前の頭は、日頃お前が信じている
通り、実にすばらしいものだなあ」
北川氏の歓喜は勝利の悲哀に転ずる一刹那前のクライマックスに達していた。
彼は今、歩きつづけながらベースボールの応援者たちが、「フレー、フレー、なんとかあ」
と喚いて躍り上がる時のように、躍り上がった。そして、気違いのように涎を垂らしなが
ら、ゲラゲラと笑った、おびただしい汗が、シャツを通して、薩摩上布の腰のあたりをべ
っとりと濡らしていた。まっ赤に充血した顔からは、ぼとりぼとりと汗の雫が垂れていた。
「ワハハハハハハハハハハハハ、なんというばかばかしい、子供だましなトリックだ。野
本先生まんまとしてやられたね。え、野本先生」
彼は大きな声でこうどなった。
さて、北川氏が野本氏に話したことは、実は前の半分だけがほんとうで、あとの半分は
彼の復讐のために考え出したトリックにすぎないのだった。
彼が妙子の死を悲しんだことは、実際野本氏に話した幾層倍か知れなかった。彼女が死
んでから半月ばかりというものは、学校も休んでしまって――それが彼の職業だった――
夜の眼も寝ずに泣き悲しんでいた。「ママ、ママ」と母親の乳を求める幼児といっしょにな
って泣いていた。
越野氏――あの火事の時に親切に手伝ってくれた越野氏が、彼の新居へやってきて、妙
子の死因についてある暗示を与えたまでは、彼は彼女の死を疑う余裕さえないほど、ただ
わけもなく悲嘆に暮れていた。
だが一とたび越野氏の話を聞くと、
彼は例の一本調子になって、悲しみを打ち忘れて復讐に熱中しだした。夜となく昼とな
く、彼は相手の残酷な復讐に対する返り討ちの手段のみを考えた。
それは非常に困難な仕事だった。第一、相手が誰であるか、それすらわからなかった。
北川氏は越野氏が火事場で野本氏に逢ったように話したけれど、あれも作りごとだった。
なるほど、越野氏は見覚えのある男に逢ったと言った。そして、その男がいかにも彼の眼
を怖れるように人混みの中へ隠れてしまったとも言った。
しかし、それが誰であったか、越野氏はよく見別ける暇がなかったのだった。
「なんでも、学校時代に親しく往き来した友だちの一人なんだ。何しろ、あの騒ぎで、気
が顛動している際だったから、ハッキリしたことはいえないが、野本か、井上か、松村か、
つまり、あの時分君の書斎へよく集まった連中の一人だと思うんだがね。野本のようでも
あり、井上のようでもあり、そうかといって松村でなかったとも断言し兼ねるが……とも
かくその三人のうちの誰かに違いないのだけれど、どうしても思い出せない」
越野氏はこんなふうに言った。
先ず相手から探してかからねばならないのだった。もし、間違った相手に復讐するよう
なことがあったら、取り返しのつかぬことになる。それに、たとえ相手がわかったとして
も、あまりに巧妙な遣り口に、どうにも手のつけようがないではないか、北川氏自身野本
氏に白状した通り、それは絶対に証拠のない犯罪だった。純粋に心理的なものだった。つ
まり、そこには二重の困難が横たわっていたのだった。
幾日となく、そればかりを考えているうちに、北川氏の頭に、ふとすばらしい名案が浮
かんできた。それは法律に訴えることではむろんなかった。といって、暴力をもって私刑
を行なうのでもなかった。それは、復讐者は絶対に安全で、しかも、相手には、政府の牢
獄や、どんな私刑の苦痛にもまして、深い、強い打撃を与えうるような方法だった。それ
ばかりでなく、もっといい事には、その方法によるときは、わざわざ真犯人を見いだす面
倒のないことだった。嫌疑者のすべてに対して、それを実行しさえすればよいのだった。
真の犯罪者にはこの上もない苦痛を与えるけれども、他の者はなんらの痛痒も感じない
という方法だった。
妙子が残していったペンダントと、学生時代に、同じクラスの者が集まって写した四つ
切りの写真とが、その材料だった。
北川氏は先ずそのペンダントと同じものを二つ作らせた。そして、都合三つの寸分違わ
ないペンダントが揃うと、今度はその中へ、それぞれ、野本氏、井上氏、松村氏の写真を、
顔のところだけ切り抜いてはりつけた。
なんという簡単な準備だ。これであの重大な仇討ができようとは。
「しかし、相手のトリックは、もっと簡単でしかも自然だったではないか。世の中には、
きわめて些細な原因が、非常に重大な結果を招くことがあるもんだ。このつまらないペン
ダントと、古ぼけた切抜き写真が、一人の人間の一生の運命を左右する偉大な力を持って
いないと誰が断言できるだろう。
野本にしろ、井上にしろ、松村にしろ、このペンダントを見忘れているはずはない。殊
にこの蓋の表面のヴィーナスの浮彫りは、あの頃おれの室へきたほどの青年たちが皆熟知
しているはずだ。彼らが妙子の噂をし合うときには、いつもその本名を呼ぶ代りに、ペン
ダントの模様から思いついた『ヴィーナス』という綽名を使っていたほどではないか。今
もし、彼らのうちの誰かが、妙子の手文庫の底深く秘めていた、このペンダントの中に、
自分の写真がはり付けてあったと知ったなら、どんなに狂喜することだろう。と同時に、
もしその誰かが、妙子を焼き殺した本人だったら、その男の悲痛はまあどれほどだろう」
実を言えば、越野氏の教えてくれた三人の中では、北川氏は野本氏を最も疑っていた。
だが、他の二人とても妙子に無関心であったはずはないのだから、疑って疑えないことは
なかった。そこで、最も嫌疑の重い野本氏を最後に残して、先ず、井上、松村の両氏に、
北川氏自ら名案と信ずる、このペンダントのトリックを試みることにしたのだった。
しかし、両氏とも、ペンダントを取り出すまでもなく、その無実が明瞭になった。
彼らは申し合わせたように、北川氏の変てこな話を聴くと、気の毒だという表情をした。
そして、
「君は細君に死なれて、少しとりのぼせているに違いない。そんなばかばかしいことがあ
ってたまるものか、君はもっと気を落ち着けなくちゃいけない。まあまあそんなつまらな
い話は止しにして、さあ一杯やりたまえ」
というような調子で、他意もなく慰めてくれるのだった。彼らの表情には、犯罪者の不
安などは影さえもささなかった。
北川氏は少なからず失望した。
「おれの考えは、そんなに気違いじみているのかしら。もしかすると、これは彼らのいう
ように、まるで根も葉もない妄想にすぎないのではあるまいか。
だが、まだ野本が残っている。おれは最初からあいつをこそ目ざしていたのではないか。
ともかくも最後までやってみなければ」
こうして、彼はきょう野本氏をおとずれたのだった。そして、予期以上の見事な効果を
収めたのだった。彼が狂人のように歓喜したのは決して無理ではなかった。
北川氏は二時間あまりも、汗でベトベトになって歩きつづけていた。ふと時計を見ると、
夏の日はまだ暮れるに間があったけれど、時間はもう夕食どきをすぎていた。彼はようや
くわれに返ったように、今度は方向を定めて歩き出した。
一日の昂奮で疲れきったからだを、郊外電車に揺られながら、家にたどりつくと、彼は
もう何をする気にもなれなかった。すぐに床をとらせて、ぐったりと横になると、間もな
く、快い鼾が、きょうの勝利に満足しきった彼の喉から、ゆったりしたリズムをもって、
流れてくるのだった。
翌日、北川氏が眼をさましたのは、十時に近いころだった。熟睡の後の快い倦怠が、彼
をことさらいい心持にした。彼は起き上がると寝間着のまま書斎へはいって行った。そこ
には甘い回想の材料が彼を待っていた。野本氏の手に残してきたのと寸分違わない、二つ
のペンダントが、書き物机の引出しの中に待っていた。
彼はそれを取り出して愛撫するように眺めるのだった。
はじめの計画では、野本氏の所ばかりでなく、井上氏や、松村氏の所へも、それを残し
てくるつもりだった。もし三人の内、誰が犯罪者だか判別しかねるような場合には、どう
しても一人に一つずつペンダントを残してくる必要があった。そういうつもりで、彼はわ
ざわざ高価な模造品を二つまで造らせたのだった。
しかし、前にも言ったように、野本氏のほかの二人は、ペンダントを取り出すまでもな
く見別けがついた。北川氏は大切に紙入れの中へ入れて行ったのを、二度ともそのまま持
ち帰らねばならなかった。彼は今、その不用に帰した二つのペンダントを眺めているのだ
った。
「野本のやつ、こんなトリックがあろうとは、まるで想像もできないだろう。へへへへへ、
どうです。なんとうまい手品でしょうがな。ところで一つ種明かしをいたしましょうか。
さあごらんなされ。手品の種というのは、この二つのペンダントでござる。この中には一
体なにがはいっているとおぼしめす。わかりますまい? では申しますがね。この一つに
は松村先生の写真、もう一つには井上先生の写真が、ちゃんとはいっているのですよ。野
本先生の写真はもうここには……」
北川氏は、ふと|台詞《せ りふ》めいた独り言をやめた。
彼は心臓がスーッと喉の方へ飛び上がってくるような気がした。彼の顔が白紙のように
白くなった。今にもペンダントの蓋をひらこうとしていた彼の手は、突然、えたいの知れ
ぬ恐れのために、パッタリその動作を中止した。
そして恐怖に耐えぬ彼の瞳がじっと空を見詰めた。
「おれはどんなこまかい点までも、注意に注意して事を運んだつもりだ。しかし、この不
安はどうしたというのだろう。何かとほうもない間違いをしてやしないかしら、お前は今、
その肝腎の点だけがどうしても思い出せないではないか。お前は野本の家へ行くときに、
果たして野本の写真のはいっているペンダントを持って行ったか。
さあ、しっかりしろ。もしも、お前が野本に渡したペンダントに、松村か井上の写真が
はいっていたとしたら、どんな結果になるか、よく考えてみよ。お前は恐ろしくはないか。
そら、お前は震えているではないか。では、お前は、そのどうにも取り返しのつかぬ錯誤
を、今思い出したとでもいうのか」
彼はフラフラと立ち上がった。そして、じっとしていられないように、部屋の入口の方
へ歩き出した。ちょうどその時、出会いがしらに女中が一通の封書を手にして彼の書斎へ
はいってきた。
「旦那様、野本さんからお使いでございます」
しゃっくりのようなものが北川氏の胸に込み上げてきた。
ある予感が、だだっ子のように、この手紙を読ませまいと、彼を引き止めた。しかし、
いつまでもそうして女中と睨めっこをしているわけにはいかなかった。
彼はついに意を決したもののように、手紙を取って開封した。巻紙に書かれた達筆な野
本氏の文字が、焼きつくように北川氏の眼を射た。
読んでいるうちに、物凄い笑いが北川氏の口辺に浮かんできた。その笑いがだんだん顔
じゅうに拡がって行った。
彼は、巻紙を持った両手をスーッとさし上げたかと思うと、クルリ、その巻紙で頬冠り
をした。そして爆発したように笑い出した。
「ハッハッハッハッ…………ヘッヘッヘッヘッヘッ…………フッフッフッフッ…………」
彼は身をもだえて笑いつづけた。ちょうど、朝顔日記の笑い薬の段に出てくる|悪《あ
く》医者のように、止め度もなく笑いこけた。
こうして、可哀そうな北川氏は発狂してしまった。彼の発狂の原因がなんであったか、
われわれはいま俄かにそれを判断することはできない。
しかし、妙子の変死がその最も重大なる遠因であって、野本氏の手紙がその最も重大な
る近因であったと推定するのが、まず誤りのないところであろう。その野本氏の手紙には
左のような文句が綴られてあった。
[#ここから2字下げ]
前略
昨日は意外の失策御無礼の段幾重にも御容赦下されたく候。実は数日来極度の多忙にてろ
くろく夜の眼も寝ず仕事に没頭いたしおり、連日の睡眠不足より遂にあの不始末に及びた
る次第に候。貴君のお話も幽かには記憶いたしおり候得共、いつお立帰りになりたること
やらまるで前後忘却、貴君の前をも憚らずいぎたなく熟睡に及びたる段、何とも申訳の言
葉もこれなく候。おぼろげながら昨日のお話によれば、令閨御死去に関して何か疑惑を抱
かれおる様拝察いたし候得共、常識より判断いたせばお話の如き儀はよもこれあるまじき
かと存ぜられ候。愛人を失われたる御悲歎の程は千万御同情申上候得共、余りに其事のみ
思い詰められては御健康にも宜しからず、此際転地でもなされ十分御静養相成り候様、差
出がましき次第ながら、旧友の老婆心より御忠告申上候。先は取りあえず昨日の御詫旁々
斯くのごとくに御座候。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
二伸、御忘れのペンダント同封いたしおき候。確かこの中に貼付けある写真の主こそは恐
るべき殺人者のよう承り候得共、さるにても御同様親しく往来いたしおるかの松村君が仰
せの如き極悪人なりとは断じて信じ難き所に御座候。
[#ここで字下げ終わり]
封筒の中には、手紙のほかに、白紙で包んだペンダントがはいっていた。どうして間違
ったのか、そのペンダントには野本氏のでなくて、松村氏の写真が貼りつけてあった。こ
の手紙が野本氏の真意であったか、それともペンダントの間違いに乗じた彼の機智であっ
たか、それは野本氏自身のほかは誰にもわからぬ永久の秘密だった。かくて、北川氏の発
狂の直接の動機となったものは、なんと恐ろしい因縁ではないか。彼がへいぜい口癖のよ
うにしていた、いわゆる「脳髄の盲点」の作用だったのである。
D坂の殺人事件
(上)事実
それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中ほどにある、
白梅軒という、行きつけの喫茶店で、冷しコーヒーを啜っていた。当時私は、学校を出た
ばかりで、まだこれという職業もなく、下宿にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに
飽きると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬ喫茶店廻りをやるくらいが、
毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも
必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけで
あったが、私という男は悪い癖で、喫茶店にはいるとどうも長尻になる。それに、元来食
欲の少ない方なので、ひとつは嚢中の乏しいせいもあってだが、洋食ひと皿注文するでな
く、安いコーヒーを二杯も三杯もお代りして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そ
うかといって、別段、ウエートレスにおぼしめしがあったり、からかったりするわけでも
ない。まあ下宿よりなんとなく派手で居心地がいいのだろう。私はその晩も、例によって、
一杯の冷しコーヒーを十分もかかって飲みながら、いつもの往来に面したテーブルに陣取
って、ボンヤリ窓のそとをながめていた。
さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった
通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ
大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。
大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、私は先ほどか
ら、そこの店先をながめていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの
景色でもないのだが、私にはちょっと特別の興味があった。というのは、私が近頃この白
梅軒で知合いになった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をして
みるといかにも変り者で、それが頭がよさそうで、私の惚れ込んだことには、探偵小説好
きなのだが、その男の幼馴染の女が、今ではこの古本屋の女房になっているということを、
この前、彼から聞いていたからだった。二、三度本を買って覚えているところによれば、
この古本屋の細君というのがなかなかの美人で、どこがどうというではないが、なんとな
く官能的に男をひきつけるようなところがあるのだ。彼女は夜はいつでも店番をしている
のだから、今晩もいるに違いないと、店じゅうを、といっても二間半間口の手狭な店だけ
れど、探してみたが、誰もいない、いずれそのうちに出てくるのだろうと、私はじっと眼
で待っていたものだ。
だが、女房はなかなか出てこない。で、いい加減面倒臭くなって、隣の時計屋へと眼を
移そうとしている時であった。私はふと、店と奥の間との境に閉めてある障子の戸が、ピ
ッシャリしまるのを見た――その障子は専門家の方では無双と称するもので、普通、紙を
はるべき中央の部分が、こまかい縦の二重の格子になっていて、一つの格子の幅が五分ぐ
らいで、それが開閉できるようになっているのだ――ハテ変なこともあるものだ。古本屋
などというものは、万引きされやすい商売だから、たとえ店に番をしていなくても、奥に