蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名.4
人がいて、障子のすき間などから、じっと見張っているものなのに、そのすき見の箇所を
塞いでしまうとはおかしい。寒い時分ならともかく、九月になったばかりのこんな蒸し暑
い晩だのに、第一障子そのものが閉めきってあるのからして変だ。そんなふうにいろいろ
考えてみると、古本屋の奥の間になにごとかありそうで、私は眼を移す気になれなかった。
古本屋の細君といえば、ある時、この喫茶店のウエートレスたちが、妙な噂をしている
のを聞いたことがある。なんでも、銭湯で出会うおかみさんや娘さんたちの棚おろしのつ
づきらしかったが、「古本屋のおかみさんは、あんなきれいな人だけれど、はだかになると、
からだじゅう傷だらけだ。たたかれたり抓られたりした痕に違いないわ。別に夫婦仲が悪
くもないようだのに、おかしいわねえ」すると別の女がそれを受けてしゃべるのだ。「あの
並びのソバ屋の旭屋のおかみさんだって、よく傷をしているわ。あれもどうも叩かれた傷
に違いないわ」……で、この噂話が何を意味するか、私は深くも気に留めないで、ただ亭
主が邪慳なのだろうぐらいに考えたことだが、読者諸君、それがなかなかそうではなかっ
たのだ。このちょっとした事柄が、この物語全体に大きな関係を持っていたことが、後に
なってわかったのである。
それはともかく、私はそうして三十分ほども同じところを見詰めていた。虫が知らすと
でもいうのか、なんだかこう、傍見をしているすきに何事か起こりそうで、どうもほかへ
眼が向けられなかったのだ。その時、先ほどちょっと名前の出た明智小五郎が、いつもの
荒い棒縞の浴衣を着て、変に肩を振る歩き方で、窓のそとを通りかかった。彼は私に気づ
くと会釈をして中へはいってきたが、冷しコーヒーを命じておいて、私と同じように窓の
方を向いて、私の隣に腰かけた。そして、私が一つところを見詰めているのに気づくと、
彼はその私の視線をたどって、同じく向こうの古本屋をながめた。しかも、不思議なこと
には、彼もまた、いかにも興味ありげに、少しも眼をそらさないで、その方を凝視し出し
たのである。
私たちは、そうして、申し合わせたように同じ場所をながめながら、いろいろむだ話を
取りかわした。その時、私たちのあいだにどんな話題が話されたか、今ではもう忘れても
いるし、それに、この物語にはあまり関係のないことだから、略するけれど、それが、犯
罪や探偵に関したものであったことは確かだ。試みに見本をひとつ取り出してみると、
「絶対に発見されない犯罪というものは不可能でしょうか。僕はずいぶん可能性があると
思うのですがね。たとえば、谷崎潤一郎の『途上』ですね。ああした犯罪はまず発見され
ることはありませんよ。もっとも、あの小説では、探偵が発見したことになってますけれ
ど、あれは作者のすばらしい想像力が作り出したことですからね」と明智。
「いや、僕はそうは思いませんよ。実際問題としてならともかく、理論的にいって、探偵
のできない犯罪なんてありませんよ。ただ、現在の警察に『途上』に出てくるような偉い
探偵がいないだけですよ」と私。
ざっとこういったふうなのだ。だが、ある瞬間、二人は言い合わせたように、ふとだま
り込んでしまった。さっきから、話しながら眼をそらさないでいた向こうの古本屋に、あ
る面白い事件が発生していたのだ。
「君も気づいているようですね」
と私がささやくと、彼は即座に答えた。
「本泥棒でしょう。どうも変ですね。僕もここへはいってきた時から、見ていたんですよ。
これで四人目ですね」
「君が来てからまだ三十分にもなりませんが、三十分に四人も。少しおかしいですね。僕
は君の来る前からあすこを見ていたんですよ。一時間ほど前にね、あの障子があるでしょ
う。あれの格子のようになったところが、しまるのを見たんですが、それからずっと注意
していたのです」
「うちの人が出て行ったのじゃないのですか」
「それが、あの障子は一度もひらかないのですよ。出て行ったとすれば裏口からでしょう
が………三十分も人がいないなんて、確かに変ですよ。どうです、行ってみようじゃあり
ませんか」
「そうですね。うちの中には別状がないとしても、そとで何かあったのかもしれませんか
らね」
私はこれが犯罪事件ででもあってくれれば面白いがと思いながら、喫茶店を出た。明智
とても同じ思いに違いなかった。彼も少なからず興奮しているのだ。
古本屋は、よくある型で、店は全体土間になっていて、正面と左右に天井まで届くよう
な本棚を取り付け、その腰のところが本を並べるための台になっている。土間の中央には、
島のように、これも本を並べたり積み上げたりするための、長方形の台がおいてある。そ
して、正面の本棚の右の方が三尺ばかりあいていて奥の部屋との通路になり、先にいった
一枚の障子が立ててある。いつもは、この障子の前の半畳ほどの畳敷きのところに、主人
か細君がチョコンとすわって番をしているのだ。
明智と私とは、その畳敷きのところまで行って、大声に叫んでみたけれど、なんの返事
もない。はたして誰もいないらしい。私は障子を少しあけて、奥の間を覗いてみると、中
は電燈が消えてまっ暗だが、どうやら人間らしいものが、部屋の隅に倒れている様子だ。
不審に思ってもう一度声をかけたが、返事をしない。
「構わない、上がってみようじゃありませんか」
そこで、二人はドカドカと奥の間へ上がり込んで行った。明智の手で電燈のスイッチが
ひねられた。そのとたん、私たちは同時に「アッ」と声を立てた。明かるくなった部屋の
片隅に、女の死体が横たわっていたからだ。
「ここの細君ですね」やっと私がいった。「首を絞められているようじゃありませんか」
明智はそばへ寄って、死骸を調べていたが、
「とても蘇生の見込みはありませんよ。早く警察へ知らせなきゃ。僕、公衆電話まで行っ
てきましょう。君、番をしててください。近所へはまだ知らせない方がいいでしょう。手
掛りを消してしまってはいけないから」
彼はこう命令的に言い残して、半丁ばかりのところにある公衆電話へ飛んで行った。
平常から、犯罪だ探偵だと、議論だけはなかなか一人前にやってのける私だが、さて実
際にぶっつかったのははじめてだ。手のつけようがない。私は、ただ、まじまじと部屋の
様子をながめているほかはなかった。
部屋はひと間きりの六畳で、奥の方は、右一間は幅の狭い縁側をへだてて、二坪ばかり
の庭と便所があり、庭の向こうは板塀になっている――夏のことで、あけっぱなしだから、
すっかり、見通しなのだ――左半間はひらき戸で、その奥に二畳敷きほどの板の間があり、
裏口に接して狭い流し場が見え、裏口の腰高障子は閉まっている。向かって右側は、四枚
の襖になっていて、中は二階への階段と物入れ場になっているらしい。ごくありふれた安
長屋の間取りだ。死骸は、左側の壁寄りに、店の間の方を頭にして倒れている。私は、な
るべく兇行当時の模様を乱すまいとして、一つは気味もわるかったので、死骸のそばへ近
寄らないようにしていた。でも、狭い部屋のことだから、見まいとしても、自然その方に
眼が行くのだ。女は荒い中形模様の浴衣を着て、ほとんど仰向きに倒れている。しかし、
着物が膝の上の方までまくれて、腿がむき出しになっているくらいで、別に抵抗した様子
はない。首のところは、よくはわからぬが、どうやら、絞められた痕が紫色になっている
らしい。
表の大通りには往来が絶えない。声高に話し合って、カラカラと|日《ひ》|和《より》
下駄を引きずって行くのや、酒に酔って流行歌をどなって行くのや、しごく天下泰平なこ
とだ。そして障子ひとえの家の中には、一人の女が惨殺されて横たわっている。なんとい
う皮肉だろう。私は妙な気持ちになって、呆然とたたずんでいた。
「すぐくるそうですよ」
明智が息をきって帰ってきた。
「あ、そう」
私はなんだか口をきくのも大儀になっていた。二人は長いあいだ、ひとことも言わない
で顔を見合わせていた。
間もなく、一人の制服の警官が背広の男と連れだってやってきた。制服の方は、後で知
ったのだが、K警察署の司法主任で、もう一人は、その顔つきや持物でもわかるように同
じ署に属する警察医だった。私たちは司法主任に、最初からの事情を大略説明した。そし
て私はこうつけ加えた。
「この明智君が喫茶店へはいってきた時、偶然時計を見たのですが、ちょうど八時半でし
たから、この障子の格子が閉まったのは、おそらく八時頃だったと思います。その時はた
しか中にも電燈がついていました。ですから、少なくとも八時頃には、誰か生きた人間が
部屋にいたことは明らかです」
司法主任が私たちの陳述を聞き取って、手帳に書き留めているあいだに、警察医は一応
死体の検診を済ませていた。彼は私たちの言葉のとぎれるのを待っていった。
「絞殺ですね。手でやられたのです。これごらんなさい。この紫色になっているのが指の
痕ですよ。それから、この出血しているのは、爪があたった箇所です。|拇《おや》|指
《ゆび》の痕が頸の右側についているのを見ると、右手でやったものですね。そうですね。
おそらく死後一時間以上はたっていないでしょう。しかし、むろん蘇生の見込みはありま
せん」
「上から押さえつけられたのですね」司法主任が考え考え言った。「しかし、それにしては、
抵抗した様子がないが……おそらく非常に急激にやったのでしょうね、ひどい力で」
それから、彼は私たちの方を向いて、この家の主人はどうしたのだと尋ねた。だが、む
ろん、私たちが知っているはずはない。そこで、明智は気をきかして、隣家の時計屋の主
人を呼んできた。
司法主任と時計屋の問答は大体次のようなものだった。
「主人はどこへ行っているのかね」
「ここの主人は、毎晩古本の夜店を出しに参りますんで、いつも十二時頃でなきゃ帰って
参りません」
「どこへ夜店を出すんだね」
「よく上野の広小路へ参りますようですが、今晩はどこへ出しましたか、どうも手前には
わかりかねます」
「一時間ばかり前に、何か物音を聞かなかったかね」
「物音と申しますと」
「きまっているじゃないか。この女が殺される時の叫び声とか、格闘の音とか……」
「別段これという物音も聞きませんようでございましたが」
そうこうするうちに、近所の人たちが聞き伝えて集まってきたのと、通りがかりの野次
馬で、古本屋の表は一杯の人だかりになった。その中に、もう一方の隣家の足袋屋のおか
みさんがいて、時計屋に応援した。そして、彼女も、何も物音を聞かなかったと申し立て
た。
このあいだに、近所の人たちは、協議の上、古本屋の主人のところへ使いを走らせた様
子だった。
そこへ、表に自動車が止まる音がして、数人の人がドヤドヤとはいってきた。それは警
察からの急報で駈けつけた検事局の連中と、偶然同時に到着したK警察署長、及び当時名
探偵という噂の高かった小林刑事などの一行だ――むろんこれは後になってわかったこと
だ。というのは、私の友だちに一人の司法記者があって、それがこの事件の係りの小林刑
事とごく懇意だったので、私は後日彼からいろいろと聞くことができたのだ。――先着の
司法主任は、この人たちの前で今までの模様を説明した。私たちも|先《さき》の陳述を
もう一度繰り返さねばならなかった。
「表の戸を閉めましょう」
突然、黒いアルパカの背広に白ズボンという、下廻りの会社員みたいな男が大声でどな
って、さっさと戸を閉め出した。これが小林刑事だった。彼はこうして野次馬を撃退して
おいて、さて探偵にとりかかった。彼のやり方はいかにも傍若無人で、検事や署長などは
まるで眼中にない様子だった。彼ははじめから終りまで一人で活動した。他の人たちはた
だ彼の敏捷な行動を傍観するためにやってきた見物人にすぎないように見えた。彼は第一
に死体を調べた。頸のまわりは殊に念入りにいじり廻していたが、
「この指の痕には別に特徴がありません。つまり普通の人間が、右手で押さえつけたとい
う以外になんの手がかりもありません」
と検事の方を見て言った。次に彼は一度死体をはだかにしてみると言い出した。そこで
議会の秘密会みたいに、傍観者の私たちは、店の間へ追い出されねばならなかった。だか
ら、そのあいだにどういう発見があったか、よくわからないが、察するところ、彼らは死
人のからだにたくさんの生傷のあることを注意したに違いない。喫茶店のウエートレスの
噂していたあれだ。
やがて、この秘密会は解かれたけれど、私たちは奥の間へはいって行くのを遠慮して、
例の店の間と奥との境の畳敷きのところから奥の方をのぞきこんでいた。幸いなことには、
私たちは事件の発見者だったし、それに、あとから明智の指紋をとらねばならぬことにな
ったために、最後まで追い出されずにすんだ。というよりは抑留されていたという方が正
しいかもしれぬ。しかし小林刑事の活動は奥の間だけに限られていたわけではなく、屋内
屋外の広い範囲にわたって行なわれたのだから、ひとつところにじっとしていた私たちに、
その捜査の模様がわかろうはずがないのだが、うまいぐあいに、検事が奥の間に陣取って
いて、始終ほとんど動かなかったので、刑事が出たりはいったりするごとに、一々捜査の
結果を報告するのを、もれなく聞きとることができた。検事はその報告にもとづいて、調
書の材料を書記に書きとめさせていた。
まず、死体のあった奥の間の捜索が行なわれたが、遺留品も、足跡も、その他探偵の眼
に触れる何物もなかった様子だった。ただひとつのものを除いては。
「電燈のスイッチに指紋があります」黒いエボナイトのスイッチに何か白い粉をふりかけ
ていた刑事がいった。
「前後の事情から考えて、電燈を消したのは犯人に違いありません。しかし、これをつけ
たのはあなた方のうちどちらですか」
明智は自分だと答えた。
「そうですか。あとであなたの指紋をとらせてください。この電燈はさわらないようにし
て、このまま取りはずして持って行きましょう」
それから、刑事は二階へ上がって行って、しばらく下りてこなかったが、下りてくると
すぐに裏口の路地を調べるのだと言って出て行ってしまった。それが十分もかかったろう
か。やがて、彼はまだついたままの懐中電燈を片手に、一人の男を連れて帰ってきた。そ
れは汚れたクレップシャツにカーキ色のズボンという服装で、四十ばかりの汚ない男だ。
「足跡はまるでだめです」刑事が報告した。「この裏口の辺は、日当りがわるいせいか、ひ
どいぬかるみで、下駄の跡が滅多無性についているんだから、とてもわかりっこありませ
ん。ところで、この男ですが」と今連れてきた男を指さし「これは、この裏の路地を出た
ところの角に店を出していた、アイスクリーム屋ですが、もし犯人が裏口から逃げたとす
れば、路地は一方口なんですから、かならずこの男の眼についたはずです。君、もう一度
私の訊ねることに答えてごらん」
そこで、アイスクリーム屋と刑事の一問一答。
「今晩八時前後に、この路地を出入りしたものはないかね」
「一人もありません。日が暮れてからこっち、猫の子一匹通りません」アイスクリーム屋
はなかなか要領よく答える。「私は長らくここへ店を出させてもらってますが、あすこは、
ここのおかみさんたちも、夜分は滅多に通りません。何分あの足場のわるいところへもっ
てきて、まっ暗なんですから」
「君の店のお客で路地の中へはいったものはないかね」
「それもございません。皆さん私の眼の前でアイスクリームを食べて、すぐ元の方へお帰
りになりました。それはもう間違いはありません」
さて、もしこのアイスクリーム屋の証言が信用すべきものだとすると、犯人はたとえこ
の家の裏口から逃げたとしても、その裏口からの唯一の通路である路地は出なかったこと
になる。さればといって表の方から出なかったことも、私たちが白梅軒から見ていたのだ
から間違いはない。では彼は一体どうしたのであろう。小林刑事の考えによれば、これは、
犯人がこの路地を取りまいている裏おもて二た側の長屋のどこかの家に潜伏しているか、
それとも借家人のうちに犯人がいるのか、どちらかであろう。もっとも、二階から屋根伝
いに逃げる道はあるけれど、二階をしらべたところによると、表の方の窓は取りつけの格
子がはまっていて、少しも動かした様子はないのだし、裏の方の窓だって、この暑さで、
どこの家も二階は明けっぱなしで、中には物干で涼んでいる人もあるくらいだから、ここ
から逃げるのはちょっとむずかしいように思われる、というのだ。
そこで臨検者たちのあいだに、ちょっと捜査方針についての協議がひらかれたが、結局、
手分けをして近所を軒並みにしらべてみることになった。といっても、裏おもての長屋を
合わせて十一軒しかないのだから、たいして面倒ではない。それと同時に、家の中も再度、
縁の下から天井裏まで残るくまなく調べられた。ところがその結果は、なんの得るところ
もなかったばかりでなく、かえって事情を困難にしてしまったようにみえた。というのは、
古本屋の一軒おいて隣の菓子屋の主人が、日暮れ時分からつい今しがたまで、屋上の物干
へ出て尺八を吹いていたことがわかったが、彼は初めからしまいまで、ちょうど古本屋の
二階の窓の出来事を見のがすはずのないような位置に坐っていたのだ。
読者諸君、事件はなかなか面白くなってきた。犯人は、どこからはいって、どこから逃
げたのか、裏口からでもない、二階の窓からでもない、そして表からではもちろんない。
彼は最初から存在しなかったのか、それとも煙のように消えてしまったのか。不思議はそ
ればかりではない。小林刑事が、検事の前に連れてきた二人の学生が、実に妙なことを申
し立てたのだ。それは近所に間借りしている或る工業学校の生徒たちで、二人ともでたら
めをいうような男とも見えぬが、それにもかかわらず、彼らの陳述はこの事件をますます
不可解にするような性質のものだったのである。
検事の質問に対して、彼らは大体左のように答えた。
「僕は、ちょうど八時頃に、この古本屋の前に立って、そこの台にある雑誌をひらいて見
ていたのです。すると、奥の方でなんだか物音がしたもんですから、ふと眼を上げてこの
障子の方を見ますと、障子は閉まっていましたけれど、この格子のようになったところが
ひらいていましたので、そのすき間に一人の男の立っているのが見えました。しかし、私
が眼を上げるのと、その男がこの格子を閉めるのと、ほとんど同時でしたから、くわしい
ことはむろん分りませんが、でも帯のぐあいで男だったことは確かです」
「で、男だったというほかに何か気づいた点はありませんか、背恰好とか、着物の柄とか」
「見えたのは腰から下ですから背恰好はちょっとわかりませんが、着物は黒いものでした。
ひょっとしたら、細かい縞か絣であったかもしれませんけれど、私の眼には黒く見えまし
た」
「僕もこの友だちと一緒に本を見ていたんです」ともう一方の学生、「そして、同じように
物音に気づいて同じように格子の閉まるのを見ました。ですが、その男は確かに白い着物
を着ていました。縞も模様もない、白っぽい着物です」
「それは変ではありませんか。君たちのうちどちらかが間違いでなけりゃ」
「決して間違いではありません」
「僕も嘘は言いません」
この二人の学生の不思議な陳述は何を意味するか、敏感な読者はおそらくあることに気
づかれたであろう。実は、私もそれに気づいたのだ。しかし、検事や警察の人たちは、こ
の点について、あまり深くは考えない様子だった。
間もなく、死人の|夫《おっと》の古本屋が、知らせを聞いて帰ってきた。彼は古本屋
らしくない、きゃしゃな若い男だったが、細君の死骸を見ると、気の弱い性質とみえて、
声こそ出さないけれど、涙をぽろぽろこぼしていた。小林刑事は彼が落ち着くのを待って、
質問をはじめた。検事も口を添えた。だが、彼らの失望したことには、主人は全然犯人の
心当りがないというのだ。彼は「これに限って人様の怨みを受けるようなものではござい
ません」といって泣くのだ。それに、彼がいろいろ調べた結果、物とりの仕業でないこと
も確かめられた。そこで主人の経歴、細君の身元その他のさまざまの取調べがあったけれ
ど、それらは別段疑うべき点もなく、この話の筋に大して関係もないので、略することに
する。最後に死人のからだにある多くの生傷について刑事の質問があった。主人は非常に
躊躇していたが、やっと自分がつけたのだと答えた。ところが、その理由については、く
どく訊ねられたにもかかわらず、ハッキリ答えることはできなかった。しかし、彼はその
夜ずっと夜店を出していたことがわかっているのだから、たとえそれが虐待の傷痕だった
としても、殺害の疑いはかからぬはずだ。刑事もそう思ったのか、深くは追究しなかった。
そうして、その夜の取調べはひとまず終った。私たちは住所氏名などを書き留められ、
明智は指紋をとられ、帰途についたのは、もう一時を過ぎていた。
もし警察の捜索に手抜かりなく、また証人たちも嘘をいわなかったとすれば、これは実
に不可解な事件であった。しかもあとで分ったところによると、翌日から引きつづいて行
なわれた小林刑事のあらゆる取調べもなんの甲斐もなくて、事件は発生の当夜のまま少し
だって発展しなかったのだ。証人たちはすべて信頼するに足る人々だった。十一軒の長屋
の住人にも疑うべきところはなかった。被害者の国許も取調べられたけれど、これまたな
んの変ったこともない。少なくとも、小林刑事――彼は先にもいった通り、名探偵とうわ
さされている人だ――が、全力をつくして捜索した限りでは、この事件は全然不可解と結
論するほかはなかった。これもあとで聞いたのだが、小林刑事が唯一の証拠品として、頼
みをかけて持ち帰った例の電燈のスイッチにも、明智の指紋のほか何物も発見することが
できなかった。明智はあの際であわてていたせいか、そこにはたくさんの指紋が印せられ
ていたが、すべて彼自身のものだった。おそらく、明智の指紋が犯人のそれを消してしま
ったのだろうと、刑事は判断した。
読者諸君、諸君はこの話を読んで、ポーの「モルグ街の殺人」やドイルの「スペックル
ド.バンド」を連想されはしないだろうか。つまり、この殺人事件の犯人が、人間ではな
くて、オランウータンだとか、印度の毒蛇だとかいうような種類のものだと想像されはし
ないだろうか。私も実はそれを考えたのだ。しかし、東京のD坂あたりにそんなものがい
るとも思われぬし、第一、障子のすき間から、男の姿を見たという証人があるのみならず、
猿類などだったら、足跡の残らぬはずはなく、また人眼にもついたわけだ。そして、死人
の頸にあった指の痕も、まさに人間のそれだった。蛇がまきついたとて、あんな痕は残ら
ぬ。
それはともかく、明智と私とは、その夜帰途につきながら、非常に興奮していろいろと
話し合ったものだ。一例をあげると、まあこんなふうなことを。
「君は、ポーの『ル.モルグ』やルルーの『黄色の部屋』などの材料になった、あのパリ
の Rose Delacourt 事件を知っているでしょう。百年以上たった今日でも、まだ謎として
残っているあの不思議な殺人事件を。僕はあれを思い出したのですよ。今夜の事件も犯人
の立ち去った跡のないところは、どうやら、あれに似ているではありませんか」と明智。
「そうですね。実に不思議ですね。よく、日本の建築では外国の探偵小説にあるような深
刻な犯罪は起こらないなんていいますが、僕は決してそうじゃないと思いますよ、現にこ
うした事件もあるのですからね。僕はなんだか、できるかできないかわかりませんけれど、
ひとつこの事件を探偵してみたいような気がしますよ」と私。
そうして、私たちはある横町で別れを告げた。その時私は、横町をまがって彼一流の肩
を振る歩き方で、さっさと帰って行く明智のうしろ姿が、その派手な棒縞の浴衣によって、
闇の中にくっきりと浮き出して見えたのが、なぜか深く私の印象に残った。
(下)推理
さて、殺人事件から十日ほどたった或る日、私は明智小五郎の宿を訪ねた。その十日の
あいだに、明智と私とが、この事件に関して、何をなし、何を考え、そして何を結論した
か。読者は、それらを、この日、彼と私とのあいだに取りかわされた会話によって、充分
察することができるであろう。
それまで、明智とは喫茶店で顔を合わしていたばかりで、宿を訪ねるのは、その時がは
じめてだったけれど、かねて所を聞いていたので、探すのに骨は折れなかった。私は、そ
れらしい煙草屋の店先に立って、おかみさんに明智がいるかどうかを尋ねた。
「ええ、いらっしゃいます。ちょっとお待ちください、今お呼びしますから」
彼女はそういって、店先から見えている階段の上がり口まで行って、大声に明智を呼ん
だ。彼はこの家の二階に間借りしていたのだ。すると、「オー」と変な返事をして、明智は
ミシミシと階段を下りてきたが、私を発見すると、驚いた顔をして「やあ、お上がりなさ
い」といった。私は彼の|後《あと》に従って二階へ上がった。ところが、なにげなく、
彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッとたまげてしまった。部屋の様子があまりに
も異様だったからだ。明智が変り者だということは知らぬではなかったけれど、これはま
た変り過ぎていた。
なんのことはない、四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。まん中のところに少し畳
が見えるだけで、あとは本の山だ、四方の壁や襖にそって、下の方はほとんど部屋いっぱ
いに、上の方ほど幅が狭くなって天井の近くまで、四方から書物の土手がせまっている。
ほかの道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われるほどだ。
第一、主客二人のすわるところもない。うっかり身動きしようものなら、たちまち本の土
手くずれで、おしつぶされてしまうかもしれない。
「どうも狭くっていけませんが、それに、座蒲団がないのです。すみませんが、やわらか
そうな本の上へでもすわってください」
私は書物の山に分け入って、やっとすわる場所を見つけたが、あまりのことに、しばら
く、ぼんやりとその辺を見廻していた。
私はかくも風変りな部屋のぬしである明智小五郎の人物について、ここで一応説明して
おかねばなるまい。しかし、彼とは昨今のつき合いだから、彼がどういう経歴の男で、何
によって衣食し、何を目的にこの人生を送っているのか、というようなことは一切わから
ぬけれど、彼がこれという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。しいていえば学
究であろうか。だが、学究にしてもよほど風変りな学究だ。いつか彼が「僕は人間を研究
しているんですよ」と言ったことがあるが、そのとき私には、それが何を意味するのかわ
からなかった。ただ、わかっているのは、彼が犯罪や探偵について、なみなみならぬ興味
と、おそるべき豊富な知識を持っていることだ。
年は私と同じくらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえば痩せた方で、先
にも言った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれでは
なく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯龍を思い出させるよ
うな歩き方なのだ。伯龍といえば、明智は顔つきから|声《こわ》|音《ね》まで、彼に
そっくりだ――伯龍を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男
子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい――
ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている、そ
して彼は人と話しているあいだにも、指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さら
にモジャモジャにするためのように引っ掻き廻すのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らし
く、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている。
「よく訪ねてくれましたね。その|後《ご》しばらく会いませんが、例のD坂の事件はど
うです。警察の方ではまだ犯人の見込みがつかぬようではありませんか」
明智は例の、頭を掻き廻しながら、ジロジロ私の顔をながめる。
「実は僕、きょうはそのことで少し話があって来たんですがね」そこで私はどういうふう
に切り出したものかと迷いながらはじめた。「僕はあれから、いろいろ考えてみたんですよ。
考えたばかりでなく、探偵のように実地の取調べもやったのですよ。そして、実はひとつ
の結論に達したのです。それを君にご報告しようと思って……」
「ホウ。そいつはすてきですね。くわしく聞きたいものですね」
私は、そういう彼の眼つきに、何がわかるものかというような、軽蔑と安心の色が浮か
んでいるのを見のがさなかった。そして、それが私の逡巡している心を激励した。私は勢
いこんで話しはじめた。
「僕の友だちに一人の新聞記者がありましてね、それが、例の事件の小林刑事というのと
懇意なのです。で、僕はその新聞記者を通じて、警察の模様をくわしく知ることができま
したが、警察ではどうも捜査方針が立たないらしいのです。むろん、いろいろやってはい
るのですが、これはという見込みがつかぬのです。あの例の電燈のスイッチですね。あれ
もだめなんです。あすこには、君の指紋だけしかついていないことがわかりました。警察
の考えでは、多分君の指紋が犯人の指紋を隠してしまったのだろうというのですよ。そう
いうわけで、警察が困っていることを知ったものですから、僕はいっそう熱心に調べてみ
る気になりました。そこで、僕が到達した結論というのは、どんなものだと思います。そ
して、それを警察へ訴える前に、君のところへ話しにきたのはなんのためだと思います。
それはともかく、僕はあの事件のあった日から、或ることを気づいていたのですよ。君
は覚えているでしょう。二人の学生が犯人らしい男の着物の色については、まるで違った
申立てをしたことをね。一人は黒だと言い、一人は白だと言うのです。いくら人間の眼が
不確かだと言って、正反対の黒と白とを間違えるのは変じゃないですか。警察ではあれを
どんなふうに解釈したか知りませんが、僕は二人の陳述は両方とも間違いでないと思うの
ですよ。君、わかりますか。あれはね、犯人が白と黒とのだんだらの着物を着ていたんで
すよ――つまり、太い黒の棒縞の浴衣かなんかですね。よく宿屋の貸し浴衣にあるような
――では、なぜそれが一人にはまっ白に見え、もう一人にはまっ黒に見えたかといいます
と、彼らは障子の格子のすき間から見たのですから、ちょうどその瞬間、一人の眼が格子
のすき間と着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もう一人の眼が黒地の部分と
一致して見える位置にあったんです。これは珍らしい偶然かもしれませんが、決して不可
能ではない。そして、この場合こう考えるよりほかに方法がないのです。
さて、犯人の着物の縞柄はわかりましたが、これでは単に捜査範囲が縮小されたという
までで、まだ確定的のものではありません。第二の論拠は、あの電燈のスイッチの指紋な
んです。僕はさっき話した新聞記者の友だちの伝手で小林刑事に頼んでその指紋を――君
の指紋ですよ――よくしらべさせてもらったのです。その結果、いよいよ僕の考えている
ことが間違っていないのを確かめました。ところで君、硯があったら、ちょっと貸してく