蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名.5
れませんか」
そこで、私はひとつの実験をやって見せた。まず硯を借りると、私は右手の|拇《おや》
|指《ゆび》に薄く墨をつけて懐中から取り出した半紙の上にひとつ指紋を捺した。それ
から、その指紋の乾くのを待って、もう一度同じ指に墨をつけ、前の指紋の上から、今度
は指の方向をかえて念入りにおさえつけた。すると、そこには互に交錯した二重の指紋が
ハッキリあらわれた。
「警察では、君の指紋が犯人の指紋の上に重なってそれを消してしまったのだと解釈して
いるのですが、しかしそれは今の実験でもわかる通り不可能なんですよ。いくら強く押し
たところで、指紋というものが線でできている以上、線と線とあいだに、前の指紋の跡が
残るはずです。もし前後の指紋がまったく同じもので、捺し方まで寸分違わなかったとす
れば、指紋の各線が一致しますから、あるいは後の指紋が先の指紋を隠してしまうことも
できるでしょうが、そういうことはまずあり得ませんし、たとえそうだとしても、この場
合結論は変らないのです。
しかし、あの電燈を消したのが犯人だとすれば、スイッチにその指紋が残っていなけれ
ばなりません。僕はもしや警察では君の指紋の線と線とのあいだに残っている犯人の指紋
を見おとしているのではないかと思って、自分で調べてみたのですが、少しもそんな痕跡
がないのです。つまり、あのスイッチには、後にも先にも、君の指紋が捺されているだけ
なのです――どうして古本屋の人たちの指紋が残っていなかったのか、それはよくわかり
ませんが、多分、あの部屋の電燈はつけっぱなしで、一度も消したことがないのでしょう。
〔註1〕
君、以上の事柄はいったい何を語っているでしょう。僕は、こういうふうに考えるので
すよ。一人の太い棒縞の着物を着た男が――その男はたぶん死んだ女の幼馴染で、失恋の
恨みという動機なんかも考えられるわけですね――古本屋の主人が夜店を出すことを知っ
ていて、その留守のあいだに女を襲ったのです。声を立てたり抵抗したりした形跡がない
のですから、女はその男をよく知っていたに違いありません。で、まんまと目的をはたし
た男は、死骸の発見をおくらすために、電燈を消して立ち去ったのです。しかし、この男
はひとつの大きな手ぬかりをやっています。それはあの障子の格子のあいているのを知ら
なかったこと、そして、驚いてそれを閉めた時に、偶然店先にいた二人の学生に姿を見ら
れたことでした。それから、男はいったんそとへ出ましたが、ふと気がついたのは、電燈
を消した時、スイッチに指紋が残ったに違いないということです。これはどうしても消し
てしまわねばなりません。しかし、もう一度同じ方法で部屋の中へ忍び込むのは危険です、
そこで、男は一つの妙案を思いつきました。というのは、自分が殺人事件の発見者になる
ことです。そうすれば、少しの不自然もなく、自分の手で電燈をつけて、以前の指紋に対
する疑いをなくしてしまうことができるばかりでなく、まさか、発見者が犯人だろうとは
誰しも考えませんからね。二重の利益があるのです。こうして、彼は何食わぬ顔で警察の
やり方を見ていたのです。大胆にも証言さえしました。しかも、その結果は彼の思うつぼ
だったのですよ。五日たっても十日たっても、誰も彼をとらえに来るものはなかったので
すからね」
この私の話を、明智小五郎はどんな表情で聴いていたか。私は、おそらく話の中途で、
何か変った表情をするか、言葉をはさむだろうと予期していた。ところが、驚いたことに
は、彼の顔にはなんの表情もあらわれぬのだ。日頃から心を色にあらわさぬたちではあっ
たけれど、あまり平気すぎる。彼は始終例の髪の毛をモジャモジャやりながら、だまりこ
んでいるのだ。私は、どこまでずうずうしい男だろうと思いながら、最後の点に話を進め
た。
「君はきっと、それじゃ、その犯人はどこからはいって、どこから逃げたかと反問するで
しょう。確かにそれが明らかにならなければ、他のすべてのことがわかってもなんのかい
もないのですからね。だが、遺憾ながら、それも僕が探り出したのですよ。あの晩の捜査
の結果では、全然犯人の出て行った形跡がないように見えました。しかし、殺人があった
以上、犯人が出入りしなかったはずはないのですから、刑事の捜索にどこか抜け目があっ
たと考えるほかはありません。警察でもそれにはずいぶん苦心した様子ですが、不幸にし
て、彼らは、僕という一人の青年の推理力に及ばなかったのですよ。
なあに、実に下らないことですが、僕はこう思ったのです。これほど警察が取調べてい
るのだから、近所の人たちに疑うべき点はまずあるまい。もしそうだとすれば、犯人は何
か、人の眼にふれても、それが犯人だとは気づかれぬような方法で逃げたのじゃないだろ
うか。そして、それを目撃した人はあっても、まるで問題にしなかったのではなかろうか
とね。つまり人間の注意力の盲点――われわれの眼に盲点があると同じように、注意力に
もそれがありますよ――を利用して、手品使いが見物の眼の前で、大きな品物をわけもな
く隠すように、自分自身を隠したのかもしれませんからね。そこで、僕が眼をつけたのは
あの古本屋の一軒おいて隣の旭屋というソバ屋です」
古本屋の右へ時計屋、菓子屋と並び、左へ足袋屋、ソバ屋と並んでいるのだ。
「僕はあすこへ行って、事件の夜八時頃に、手洗いを借りにきた男はないかと聞いてみた
のです。あの旭屋は、君も知っているでしょうが、店から土間つづきで、裏木戸まで行け
るようになっていて、その裏木戸のすぐそばに便所があるのですから、それを借りるよう
に見せかけて、裏口から出て行って、また裏口から戻ってくるのはわけはありませんから
ね――例のアイスクリーム屋は路地を出た角に店を出していたのですから、見つかるはず
はありません――それに相手がソバ屋ですから、手洗いを借りるということがきわめて自
然なんです。聞けば、あの晩はおかみさんは不在で、主人だけが店の間にいたのだそうで
すから、おあつらえ向きなんです。君、なんとすてきな思いつきではありませんか。
調べてみると、果たして、ちょうどその時分に手洗いを借りた客があったのです。ただ、
残念なことには、旭屋の主人は、その男の顔とか着物の縞柄なぞを少しも覚えていないの
ですがね――僕は早速このことを例の友だちを通じて、小林刑事に知らせてやりましたよ。
刑事は自分でもソバ屋を調べたようでしたが、それ以上には何もわからなかったらしいの
です……」
私は少し言葉を切って、明智に発言の余裕を与えた。彼の立場は、この際なんとか一こ
といわないではいられぬはずだ。ところが、彼は相変らず頭を掻き廻しながら、すましこ
んでいるではないか。私はこれまで、敬意を表する意味で間接法を用いていたのを、直接
法に改めねばならなかった。
「君、明智君、僕のいう意味がわかるでしょう。動かぬ証拠が君を指さしているのですよ。
白状すると、僕はまだ心の底では、どうしても君を疑う気にはなれないのですが、こうい
うふうに証拠がそろっていては、どうも仕方がありません……僕は、もしやあの長屋の住
人のうちに、太い棒縞の浴衣を持っている人がないかと思って、ずいぶん骨折って調べて
みましたが、一人もありません。それももっともですよ。同じ棒縞の浴衣でも、あの格子
に一致するような派手なのを着る人は珍らしいのですからね。それに、指紋のトリックに
しても、手洗いを借りるというトリックにしても、実に巧妙で、君のような犯罪学者でで
もなければ、ちょっとまねのできない芸当ですよ。それから、第一おかしいのは、君はあ
の死人の細君と幼馴染だといっていながら、あの晩、細君の身元調べなんかあった時に、
そばで聞いていて、少しもそれを申し立てなかったではありませんか。
さて、そうなると、唯一の頼みはアリバイの有無です。ところが、それもだめなんです。
君は覚えていますか、あの晩帰り途で、白梅軒へ来るまで君がどこにいたかということを、
僕が聞きましたね。君は、一時間ほど、その辺を散歩していたと答えたでしょう。たとえ
君の散歩姿を見た人があったとしても、散歩の途中で、ソバ屋の手洗いを借りるなどはあ
りがちのことですからね。明智君、僕のいうことが間違っていますか。どうです、もしで
きるなら君の弁明を聞きたいものですね」
読者諸君、私がこういって詰めよった時、奇人明智小五郎は何をしたと思います。面目
なさに俯伏してしまったとでも思いますか。どうしてどうして、彼はまるで意表外のやり
方で、私の荒胆をひしいだ。というのは、彼はいきなりゲラゲラと笑い出したのである。
「いや失敬々々、決して笑うつもりではなかったのですが、君があまりまじめだもんだか
ら」明智は弁解するように言った。「君の考えはなかなか面白いですよ。僕は君のような友
だちを見つけたことをうれしく思いますよ。しかし惜しいことには、君の推理はあまりに
外面的で、そして物質的ですよ。たとえばですね。僕とあの女との関係についても、君は
僕たちがどんなふうな幼馴染だったかということを、内面的に心理的に調べてみましたか。
僕が以前あの女と恋愛関係があったかどうか。また現に彼女を恨んでいるかどうか。君に
はそれくらいのことが推察できなかったのですか。あの晩、なぜ彼女を知っていることを
いわなかったか、そのわけは簡単ですよ。僕は何も参考になるような事柄を知らなかった
のです……僕はまだ小学校へもはいらぬ時分に、彼女と別れたきりなのですからね」
「では、たとえば指紋のことはどういうふうに考えたらいいのですか?」
「君は、僕があれから何もしないでいたと思うのですか。僕もこれでなかなかやったので
すよ。D坂は毎日のようにうろついていましたよ。ことに古本屋へはよく行きました。そ
して、主人をつかまえて、いろいろ探ったのです――細君を知っていたことはその時打ち
明けたのですが、それがかえって話を聞き出す便宜になりましたよ――君が新聞記者をつ
うじて警察の模様を知ったように、僕はあの古本屋の主人から、それを聞き出していたん
です。今の指紋のことも、じきわかりましたから、僕も妙だと思って調べてみたのですが、
ハハハハ、笑い話ですよ。電球の線が切れていたのです。誰も消しやしなかったのですよ。
僕がスイッチをひねったために光が出たと思ったのは間違いで、あの時、あわてて電球を
動かしたので、一度切れたタングステンがつながったのですよ。〔註2〕スイッチに僕の指
紋しかなかったのはあたりまえなのです。あの晩、君は障子のすき間から電燈のついてい
るのを見たといいましたね。とすれば、電球の切れたのは、そのあとですよ。古い電球は、
どうもしないでも、ひとりでに切れることがありますからね。それから、犯人の着物の色
のことですが、これは僕が説明するよりも……」
彼はそういって、彼の身辺の書物の山を、あちらこちら発掘していたが、やがて、一冊
の古ぼけた洋書を掘りだしてきた。
「君、これを読んだことがありますか、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本
ですが、この『錯覚』という章の冒頭を十行ばかり読んでごらんなさい」
私は、彼の自信ありげな議論を聞いているうちに、だんだん私自身の失敗を意識しはじ
めていた。で、言われるままにその書物を受け取って、読んでみた。そこには大体次のよ
うなことが書いてあった。
かつて一つの自動車犯罪事件があった。法廷において、真実を申し立てると宣誓した証
人の一人は、問題の道路は全然乾燥してほこり立っていたと主張し、今一人の証人は、雨
降りあげくで、道路はぬかるんでいたと証言した。一人は、問題の自動車は徐行していた
と言い、他の一人は、あのように早く走っている自動車を見たことがないと述べた。また、
前者は、その村道には人が二、三人しかいなかったと言い、後者は、男や女や子供の通行
人がたくさんあったと陳述した。この二人の証人は共に尊敬すべき紳士で、事実を曲弁し
たとて、なんの利益があるはずもない人々であった。
私がそれを読み終るのを待って明智はさらに本のページをくりながらいった。
「これは実際あったことですが、今度は、この『証人の記憶』という章があるでしょう。
その中ほどのところに、あらかじめ計画して実験した話があるのですよ。ちょうど着物の
色のことが出てますから、面倒でしょうが、まあちょっと読んでごらんなさい」
それは左のような記事であった。
(前略)一例をあげるならば、一昨年(この書物の出版は一九一一年)ゲッティンゲンに
おいて、法律家、心理学者及び物理学者よりなる、或る学術上の集会が催されたことがあ
る。したがって、そこに集まったのはみな綿密な観察に熟練した人たちばかりであった。
その町には、あたかもカーニヴァルのお祭り騒ぎが演じられていたが、この学究的な会合
の最中に、突然戸がひらかれて、けばけばしい衣裳をつけた一人の道化が狂気のように飛
び込んできた。見ると、その|後《あと》から一人の黒人がピストルを持って追っかけて
くるのだ。ホールのまん中で、彼らはかたみがわりに、おそろしい言葉をどなり合ったが、
やがて、道化の方がバッタリ床に倒れると、黒人はその上におどりかかった、そして、ポ
ンとピストルの音がした。と、たちまち彼らは二人とも、かき消すように室を出て行って
しまった。全体の出来事が二十秒とはかからなかった。人々はむろん非常に驚かされた。
座長のほかには、誰一人、それらの言葉や動作が、あらかじめ予習されていたこと、その
光景が写真に撮られたことなどを悟ったものはなかった。で、座長が、これはいずれ法廷
に持ち出される問題だからというので、会員各自に正確な記録を書くことを頼んだのは、
ごく自然に見えた(中略、このあいだに、彼らの記録がいかに間違いにみちていたかを、
パーセンテイジを示してしるしてある)。黒人が頭に何もかぶっていなかったことを言いあ
てたのは四十人のうちでたった四人きりで、ほかの人たちは、中折帽子をかぶっていたと
書いたものもあれば、シルクハットだったと書くものもあるという有様だった。着物につ
いても、ある者は赤だと言い、あるものは茶色だと言い、あるものは縞だと言い、あるも
のはコーヒー色だと言い、その他さまざまの色合いが彼のために発明せられた。ところが、
黒人は実際は、白ズボンに黒の上衣を着て、大きな赤のネクタイを結んでいたのである。
(後略)
「ミュンスターベルヒが賢くも説破した通り」と明智ははじめた。「人間の観察や人間の記
憶なんて、実にたよりないものですよ。この例にあるような学者たちでさえ、服の色の見
分けがつかなかったのです。私が、あの晩の学生たちも着物の色を思い違えたと考えるの
が無理でしょうか。彼らは何物かを見たかもしれません。しかしその者は棒縞の着物なん
か着ていなかったのです。むろん僕ではなかったのです。格子のすき間から棒縞の浴衣を
思いついた君の着眼は、なかなか面白いには面白いですが、あまりおあつらえ向きすぎる
じゃありませんか。少なくとも、そんな偶然の符合を信ずるよりは、君は、僕の潔白を信
じてくれるわけにはいかないでしょうか。さて最後に、ソバ屋の手洗いを借りた男のこと
ですがね。この点は僕も君と同じ考えだったのです。どうも、あの旭屋のほかに犯人の通
路はないと思ったのです。で、僕もあすこへ行って調べてみましたが、その結果は、残念
ながら君とは正反対の結論に達したのです。実際は手洗いを借りた男なんてなかったので
すよ」
読者もすでに気づかれたであろうように、明智はこうして、証人の申立てを否定し、犯
人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠だてようとしているが、
しかしそれは同時に、犯罪そのものをも否定することになりはしないか。私は彼が何を考
えているのか少しもわからなかった。
「で、君には犯人の見当がついているのですか」
「ついてますよ」彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。「僕のやり方は、君とは少し違
うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもなるものですよ。いちば
んいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵自身の能力
の問題ですがね。ともかく、僕は今度はそういう方面に重きをおいてやってみましたよ。
最初僕の注意をひいたのは、古本屋の細君のからだじゅうに生傷があったことです。そ
れから間もなく、僕はソバ屋の細君のからだにも同じような生傷があるということを聞き
込みました。これは君も知っているでしょう。しかし、彼女らの夫たちはそんな乱暴者で
もなさそうです。古本屋にしても、ソバ屋にしても、おとなしそうな物分りのいい男なん
ですからね。僕はなんとなく、そこに或る秘密が伏在しているのではないかと疑わないで
はいられなかったのです。で、僕はまず古本屋の主人をとらえて、彼の口からその秘密を
探り出そうとしました。僕が死んだ細君の知合いだというので、彼もいくらか気を許して
いましたから、それは比較的らくにいきました。そして、ある変な事実を聞き出すことが
できたのです。ところが、今度はソバ屋の主人ですが、彼はああ見えてもなかなかしっか
りした男ですから、探り出すのにかなり骨が折れましたよ。でも、僕はある方法によって、
うまく成功したのです。
君は、心理学上の連想診断法が、犯罪捜査の方面にも利用されはじめたのを知っている
でしょう。たくさんの簡単な刺戟語を与えて、それに対する嫌疑者の観念連合の遅速をは
かる、あの方法です。しかし、あれは心理学者のいうように、犬だとか家だとか川だとか、
簡単な刺戟語には限らないし、そしてまた、常にクロノスコープの助けを借りる必要もな
いと、僕は思いますよ。連想診断のコツを悟ったものにとっては、そのような形式はたい
して必要ではないのです。それが証拠に、昔の名判官とか名探偵とかいわれた人は、心理
学が今のように発達しない以前から、ただ彼らの天禀によって、知らずしらずのあいだに
この心理学的方法を実行していたではありませんか。大岡越前なども確かにその一人です
よ。小説でいえば、ポーの『ル.モルグ』のはじめに、デュパンが友だちのからだの動き
方ひとつによって、その心に思っていることを言い当てるところがありますね。ドイルも
それをまねて、『レジデント.ペーシェント』の中で、ホームズに同じような推理をやらせ
てますが、これらはみな、或る意味の連想診断ですからね。心理学者の色々な機械的方法
は、ただこうした天禀の洞察力を持たぬ凡人のために作られたものにすぎませんよ。話が
わき道にはいりましたが、僕はソバ屋の主人にいろいろの話をしかけてみました。それも
ごくつまらない世間話をね。そして、彼の心理的反応を研究したのです。しかし、これは
非常にデリケートな心理の問題で、それに可なり複雑してますから、くわしいことはいず
れゆっくり話すとして、ともかくその結果、僕はひとつの確信に到達しました。つまり、
犯人を見つけたのです。
しかし、物質的な証拠というものがひとつもないのです。だから、警察に訴えるわけに
もいきません。よし訴えてもおそらく取り上げてくれないでしょう。それに、僕が犯人を
知りながら、手をつかねて見ているもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかっ
たという点です。変な言い方ですが、この殺人事件は、犯人と被害者と同意の上で行なわ
れたのです。いや、ひょっとしたら被害者自身の希望によって行なわれたのかもしれませ
ん」
私はいろいろ想像をめぐらしてみたけれど、どうにも彼の考えていることがわかりかね
た。私は自分の失敗を恥じることも忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。
「で、僕の考えをいいますとね。殺人者は旭屋の主人なのです。彼は罪跡をくらますため
に、あんな手洗いを借りた男のことを言ったのですよ。いや、しかし、それは何も彼の創
案でもなんでもない。われわれが悪いのです。君にしろ僕にしろ、そういう男がなかった
かと、こちらから問いを構えて彼を教唆したようなものですからね。それに、彼は僕たち
を刑事かなんかと思い違えていたのです。では、彼はなぜに殺人罪をおかしたか……僕は
この事件によって、うわべはきわめて何気なさそうなこの人生の裏面に、どんなに意外な
陰惨な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられたような気がします。
それは実にあの悪夢の世界でしか見出すことのできないような種類のものだったのです。
「旭屋の主人というのは、マルキ.ド.サドの流れをくんだ、ひどい残虐色情者で、なん
という運命のいたずらでしょう。一軒おいて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本
屋の細君は彼におとらぬ被虐色情者だったのです。そして、彼らは、そういう病者に特有
の巧みさをもって、誰にも見つけられずに、姦通していたのです――君、僕が合意の殺人
だといった意味がわかるでしょう――彼らは、最近まではおのおの、そういう趣味を解し
ない夫や妻によって、その病的な欲望を、かろうじてみたしていました。古本屋の細君に
も、旭屋の細君にも、同じような生傷のあったのはその証拠です。しかし、彼らがそれに
満足しなかったのはいうまでもありません。ですから眼と鼻の近所に、お互の探し求めて
いる人間を発見した時、彼らのあいだに非常に敏速な了解の成立したことは想像にかたく
ないではありませんか。ところがその結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。彼らの、
パッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が漸次倍加されて行きました。そして、
ついにあの夜、この、彼らとても決して願わなかった事件をひき起こしてしまったわけな
のです……」
私は、明智の異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、なんという事件だ!
そこへ、下の煙草屋のおかみさんが、夕刊を持ってきた。明智はそれを受け取って、社
会面を見ていたが、やがて、そっと溜息をついていった。
「ああ、とうとう耐えきれなくなったと見えて、自首しましたよ。妙な偶然ですね。ちょ
うどそのことを話している時に、こんな報道に接するとは」
私は彼の指さすところを見た。そこには小さい見出しで、十行ばかりソバ屋の主人の自
首したことがしるされてあった。
[#ここから2字下げ]
〔註1〕この小説の書かれた大正時代には、メーターを取りつけない小さな家の電燈は、
昼間は、電燈会社の方で、変電所のスイッチを切って消燈したものである。
〔註2〕当時の電球はタングステンの細い線を鼓の紐のように張ったもので、一度切れ
ても、また偶然つながることがよくあった。
[#ここで字下げ終わり]
火繩銃
或る年の冬休み、私は友人の林一郎から一通の招待状を受けとった。手紙は弟の二郎と
一緒に一週間ばかり前からこちらに来て毎日狩猟に日を暮らしているが、ふたりだけでは
面白くないから暇があれば私にも遊びにこないか、という文面だった。封筒はホテルのも
ので、A山麓Sホテルと名前が刷ってあった。
永い冬休みをどうして暮らそうかと、物憂い毎日をホトホト持てあましていたおりなの
で、私にはその招待がとても嬉しく、渡りに船で早速招きに応ずることにした。林が日頃
仲のわるい義弟と一緒だというのがちょっと気になったが、ともかく橘を誘ってふたりで
出掛けることになった。なんでも前の日の雨が名残りなく晴れた十二月の、小春日和の暖
かい日であった。別に身支度の必要もない私らは、旅行といっても至極簡単で、身柄一つ
で列車に乗りこめばよかった。この日、橘は、これが彼の好みらしいのだが、制服の上に
インバネスという変な恰好で、車室の隅に深々と身を沈め、絶えずポーのレーヴンか何か
を|口《くち》|誦《ずさ》んでいた。そうやってインバネスの片袖から突き出した肘を
窓枠に乗せ、移り行く窓のそとの景色をうっとりと眺めながら、物凄い|怪鳥《けちょう》
の詩を口誦んでいる彼の様子が、私には何かしらひどく神秘的に見えたものだ。
三時間ばかりの後、汽車はA山麓の駅に着いた。なんの前触れもしてなかったことだし、
駅にはもちろん誰も出迎えに来てはいなかったので、私たちはすぐ駅前の車に乗ってホテ
ルに向かった。ホテルに着くと、私たちを迎えたホテルのボーイが私たちに答えて言った。
「林さんでございますか、弟様の方はどこかへお出ましになりましたが、にいさまの方は
裏の離れにお寝みでございます」
「昼寝かい」
「ハイ、毎日お昼からしばらくお寝みでございますので。では離れへ御案内いたしましょ
う」
その離れは母屋から庭を隔てて十間ほど奥に、一軒ポツンと建っている小さな洋館であ
ったが、母屋からまっすぐに長い廊下が通じていた。
部屋の前に私たちを導いたボーイは「いつもお寝みの時は中から錠をおろしてございま
すので」と言いながら、とざされたドアを軽く叩いた。しかしよく眠っているとみえて、
内部からはなんの返事もない。今度は少し強く叩いたが、それでも林の深い眠りをさます
ことはできなかった。
「オイ、林、起きないか」
そこで、今度は私が大声にわめいてみた。これならいかに寝込んでいても眼をさますだ
ろうと思ったが、どうしたことか、内部からはなんの物音も聞こえない。橘も一緒になっ
てドアを一層強く叩きながらどなったが、更に眼をさますけはいもなかった。私はなんだ
か不安になってきた。非常に不吉なことが想像された。
「オイ、どうも変だぜ。どうかしてやしないか」
私が、橘にそういうと、橘も私と同じような事を想像していたらしく、ボーイの方を振
り返って言った。
「林がこの部屋で寝ているのは間違いないでしょうね」
「ええ、それはもう……何しろ中から鍵もかかっていますし」
「合鍵はほかにないですか」
「ございます。持ってまいりましょう」
「これほど叩いても起きないのは、ただ事でないようです。ともかく、合鍵であけて中の
様子を見てみましょう」
そこで、ボーイは引き返して母屋から合鍵を持ってきた。
ドアがひらかれると、まっ先に橘が飛び込んだが、入口の真正面の壁際にすえてある寝
台の方へつかつかと近づいて行ったかと思うと、そこで棒立ちになり「アッ」とかすかな
叫びを洩らした。
寝台の上には、上衣をぬいだチョッキ一枚の林一郎が、左胸に貫通銃創を受けて横たわ
っていた。生々しい血潮は、チョッキから流れて白いシーツを紅に染め、まだ乾ききらず、
血の匂いを漂わしている。私はこの意外な林の姿を見ると、もう何を考える力もなく、な
かば放心のていで、ボンヤリ橘の動作を見まもっていた。
橘はしばらく変わり果てた林の死体をじっと見詰めていたが、やがて、あまりにも不意
の血なまぐさい出来事のためにろくろく口も利けず、ただおろおろと顔の色を変えて震え
ているボーイに、ともかく急を警察へ知らせるように言いつけておいて、さて、寝台の傍
を離れると、あらためて部屋の内部を克明に見廻しはじめた。
先にも言った通り、この離れは一軒建ての洋館だったが、部屋の様子を一と通り話して
みると、東と北とは壁、そして、その隅に寝台が置かれ、それに並んで、洋だんすが据え
てある。その真正面、つまり西側の北寄りのところが、この部屋の唯一の入口で、長い廊
下を通よって母屋に行けるようになっていた。南に面した方には二つの窓があり、その西
側の窓の下に大きな机があって、その上にドッシリした本立てが置かれ、それに数冊の洋
書が立ててある。その本立ての傍に、台にのせた、珍らしい形をした、球形のガラスの花
瓶があって、それに一杯水がいれてあった。その前にはきわめて旧式な一梃の猟銃が無造
作に投げ出されてある。そのほかにペンとインキ、それから手紙が一通、それが机の上に
置かれたすべてのものであった。机の前と横には型どおり二脚の椅子が行儀よく据えてあ
った。
窓は両方とも磨りガラスだったが、一方の、机の前の窓はどうしたのか半びらきになっ
て、そこから陽の光がまぶしいまでに、机の上いっぱい射しこんでいた。
橘はしばらく部屋の中を見廻していたが、机の前のなかばひらいた窓に近寄ると、そこ
からヒョイと首を出して窓のそとを眺め、首を引くと、机の上の猟銃にじっと眼をそそい
だ。次に封筒を手に取って一瞥し、今度は洋服のポケットから時計の鎖についた磁石を取
り出し、その磁石を見ては又窓から首を出して空を眺めたり、じっと机の上を見詰めたり、
うしろを振り返って部屋の隅の寝台の方を見たり、そんな事をなんべんかくり返していた
が、その時、母屋の方から廊下伝いにあわただしい人の足音が聞こえてきた。すると何思
ったか橘は急にあわてだし、ポケットから取り出した鉛筆でそそくさと机の上に猟銃の位
置とガラス瓶の位置とのしるしをつけた。半びらきになった窓にも、そのひらき加減を同
じように鉛筆でしるしをつけた。
やがて椿事の部屋にドカドカとはいってきたのは、ボーイの急報によって駈けつけた警
察官の一行であった。制服の警部に巡査、背広服の刑事に警察医、そしてそのうしろには
このホテルの主人と、私たちを最初この部屋に案内したさっきのボーイが、青くなって控
えていた。
警察医と刑事は、はいってくるなりまっすぐに寝台の方に歩みよって、何かもぞもぞ調
べていたが、見ていると、刑事が死体の胸のあたりから鎖の付いた懐中時計を引きずり出
した。そして誰にともなく、
「やられたのは一時半だな」
とつぶやいた。銃弾が当たって、時計の針が一時半で止まっていたらしい。刑事がそう
して死体を調べているあいだに、警部はボーイを招いて尋問をはじめていた。
「被害者は昼食を食堂ですましてから部屋に帰ったというのだな。ウン、それでお前は何
か鉄砲の音のようなものを聞かなかったか」
「そういえば、お昼すぎ、なんだか大きな音がしたように思いますが、何分すぐ裏の山で
始終鉄砲の音がしているものですから、別に気にも留めませんでした」
「この机の上の銃は――火繩銃のようだが、これはどうしたのだ。被害者の物か」
そう言いながら、警部はその火繩銃を取り上げ、銃口を鼻に近づけたが、思わずつぶや
いた。
「フン、まだ煙硝の匂いが残っている」
「ああ、それでございますか、それはこのかたの弟様ので……」
ホテルの主人が横から口をはさんだ。
「弟?」
「ハイ、二郎様とおっしゃいまして、矢張り手前どもにお泊まりで、只今お留守でござい
ますが、母屋の方にお部屋がございます」
「じゃあ、あれは?あの銃は?」
警部はなかば向きをかえて、寝台の上を指さした。そこには、最新式の連発銃が、やっ
と手の届くほどの高さの壁に懸かっていた。迂闊な話だが、私はそのときまでそれに気が
つかなかった。
「あれはにいさまのでございまして、あれで毎日裏山へ猟においででございました」
その時、死体から離れて窓のそとを眺めていた刑事が、何を見出したのか、
「アッ、これだ!」
と叫んだ。私もその声に釣られて、刑事のうしろから窓の下を見ると、きのうの雨で湿
った庭に、下駄の跡がクッキリしるされていた。それを見きわめた刑事は、さもわが意を
得たというふうに、警部のほうに向きなおって、一席弁じだした。
「犯行の径路は至極簡単のようです。つまり、犯人は被害者の昼寝の習慣を知っていて、
ちょうど被害者が寝ついた頃、この窓のそとへ忍び寄り、静かにこの窓をあけてその火繩
銃で狙撃したのです。そして銃を机の上に置いたまま逃走したというわけでしょう。です