蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名.6
から、被害者の日常生活をよく知っている者を調べ上げたら、犯人はすぐ知れるだろうと
思います」
その時、廊下にバタバタとあわただしい足音がしてひとりの青年が飛び込んできた。二
郎だ。はいってくるなり寝台の上の兄の死体の方に眼を馳せたが、その顔は恐怖のあまり
ひどく硬ばっていた。私はなぜか二郎の姿を見ると急に動悸がはげしくなってきた。来て
はいけない所へその人がやってきたように思ったからだ。すべての状況が、ひとりの人に
向かって「お前が犯人だ」とゆびさしているではないか。火繩銃は二郎のものだし、窓の
そとの足跡は下駄の跡だが、いま目の前にいる二郎は和服を着ている。それに、彼ら兄弟
の家庭内のごたごたを私はよく知っていた。
「これは、いったい、どうしたのです」
肩で息をしながら、はいってくるなり二郎は誰にともなくどなった。
「君が二郎君だね」
刑事が鋭い口調で尋ねた。
「そうです」
二郎はそこに居並んだ緊張しきった人々の顔を見ると、一層顔を青くして、震え声で答
えた。
「じゃあ、これは、この火繩銃はあなたのでしょうね」
刑事は机の上の猟銃をゆびさした。それを見ると、二郎はハッと驚いたらしかったが、
でも平然と答える。
「そうです。しかし、それがどうかしたのですか」
刑事はそれにかまわず畳みかけた。
「今まであなたはどこへ行っていたのです」
この質問に二郎はちょっと詰ったが、やっと小さな声でつぶやくように答えた。
「それは申し上げられません。また申し上げる必要もないと思います」
「失礼ですが、あなた方は真実の御兄弟でしょうね」
そう言った刑事の顔には皮肉な微笑が浮かんでいた。
「いいえ、そうじゃないんです」
それからなおいろいろの尋問があったり、警察医の検死があったり、部屋の内とそとの
現場調べがあったりしたが、そのあげく、二郎はついにその場から拘引される事になった。
その夕方、橘と私とは同じホテルの一室で互に向かい合っていた。死体の後始末や何か
のため私たちはホテルに残っていたのだ。
「君はしばらく姿が見えなかったが、どこかへ行っていたのかい?」
先ず私が口を切った。日頃探偵狂の橘が、こんな事件にぶっつかって安閑としているは
ずがない。永いあいだ姿を隠していたのは、そのあいだに何か真相をあばく手掛かりを掴
んだのか、或いは証拠がためのために奔走していたに違いないと思ったので、私は橘の探
偵談を聞きたくて、話をその方に向けてみたのだ。とはいうものの、私はまじめに橘の名
探偵振りを期待したのではなく、こんなきまりきった殺人事件を、探偵狂の橘がどうもっ
たいつけて説明するか、それが実は聞きたかったのである。すると、橘は突然大きな口を
あけて、
「アハハハハハ」
と笑い出した。
私は何が何やらさっぱりわからず、狐につままれた形で、ボンヤリ橘の顔を眺めていた。
「田舎の刑事にしては、素早く立ち廻ってよく調べているようだったが、この事件は、せ
んさく好きの田舎探偵には少し簡単すぎるようだ。そうだ、まったく単純過ぎるくらい単
純な事件なんだ――」
橘がなおも語りつづけようとした時、ボーイに案内されて、今うわさしていた、その橘
のいわゆる田舎探偵がヒョッコリやってきた。
「先ほどは失礼、ちょっとお尋ねしたいことがありまして、ね」
探偵が挨拶した。
「二郎君は自白しましたか」
私がこう聞くと、刑事は嫌な顔をして、
「それをあなた方にいう必要はありません」
と空うそぶいた。
「それじゃなんの用で来たのです」
「あの時の模様をもう一度詳しく聞きたいと思うのです」
刑事がそう言って私につめ寄ると、傍から橘が片頬に皮肉な、また得意そうな笑いを浮
かべて刑事に答えた。
「詳しくお話しすることもないでしょう」
この侮辱したような言葉は、明らかに刑事を怒らせた。
「なにっ? 話す必要がないとはなんです。僕は職権をもって調べにきたのだ」
「お調べになるのは御自由ですが、僕はその必要がないと思うのです」
「なぜ?」
「あなたはどうお考えか知りませんが、この事件は犯罪ではないのです。従って犯人もな
く、犯行を調べる必要もないのです」
この橘の意外な言葉に、刑事も私も飛び上がるほど驚いた。
「犯罪でない?フン、じゃあ君は自殺だと言うんだね」
刑事の言葉には、この若造が何を生意気な、という侮蔑の響きがこもっていた。
「いや、もちろん自殺じゃありません」
「それじゃ過失死とでも言うのかね」
「そうでもないんです」
「アハハハハハハ、これは面白い。他殺でもなく、自殺でもなく、又過失死でもないか、
じゃあ一体あの男はどうして死んだのだね。まさか、君は――」
「いや、僕はただ犯罪でないと言ったまでです。他殺でないとは言いません」
「わからないね、僕には――」
口ではそう言ったものの刑事の顔にはまだ橘をばかにしたような皮肉な微笑が浮かんで
いた。その刑事の顔色を見た橘は、グッと癪にさわったらしく、鋭く刑事を睨みつけて言
った。
「ここで今、私が説明しても、あなたには得心できぬかもしれませんから、あすその証拠
をお見せしましょう」
「証拠?ホウ、そんな珍らしい証拠があれば是非見せていただきたいね。だが、あすと
はどうしてなんだね」
「それには重大な意味があるのです。あすにならなければお見せする事ができないのです。
ともかくあす一時にここへ来てください。きっと御得心のゆく証拠をお見せします」
「まさか冗談ではあるまいね、よろしい、あす一時だね」
「しかし、もしあす雨天か、少しでも曇っていたらだめだと思ってください」
「へえ、曇っていてはいけないのかね」
「そうです。きょうのように晴天でなければ証拠はお目にかけられないのです。ああ、そ
れからお出での時に必ずあの火繩銃を持ってきてください」
「なかなかむずかしい条件だね。では、あすの日を楽しみにして、きょうはこれで失礼し
よう」
刑事は捨てぜりふともつかず、そう言い捨てると、妙にニヤニヤ笑いながら出て行った。
刑事が出て行くと、橘は私に向かって、
「田舎刑事め、今度は僕を疑いはじめたな」
とつぶやいた。田舎刑事ならずとも、私も実は橘の言動があまりに意表外なので、橘の
言葉を疑わずにはいられなかった。
橘の言う証拠とはいったい何を指しているのだろう。
「君、証拠って、いったい何をいうんだい?」
そこで、私がその事を聞くと、橘は、さも事もなげに言うのだった。
「あの部屋のテーブルの上に、風変わりな花瓶があっただろう。あれがつまり証拠さ」
橘にそう言われても、私にはさっぱり呑み込めなかった。だが、それ以上つっ込んで聞
くのも私は業腹だった。
その夜、私は床に就く前、部屋の窓をあけてそとを眺めたが、その時、窓に添うて闇の
中につっ立っている怪しい男の姿を見た。
翌日は、幸いに日本晴れの好天気だった。
きのうの刑事はふたりの巡査を伴なって、約束通り一時かっきりにやってきた。右手に
は問題の火繩銃をしっかり握っている。橘は刑事のうしろからついてくるひとりの巡査の
姿を見ると、その方に近寄り、その巡査の肩を軽く叩いて笑いながら、
「ゆうべは御苦労でした」
と言った。
それを聞くと、刑事の方がドギマギして、
「実は、まだこのホテル内に犯人が隠れていやしないかと思ったので、見張りをさせてお
いたのです」
と、言いわけをした。すると、私の見た怪しい男はこの警官であったらしい。
さて、一同の顔が離れに揃うと……その中にはホテルの主人もボーイもいたのであるが
……きょうの主役の橘は、部屋の西南隅にあるテーブルに近寄って、その上の品物をきの
うの通り置き並べた。刑事から受け取った火繩銃には、用意の弾丸と火薬を装填して、し
るしをつけておいた元の位置に正確に置き、花瓶と花瓶台も、これには最も綿密に注意を
したのであるが、前にあった位置通りに据えた。机の上の品物が、きのうと寸分違わぬ場
所に置かれると、今度は机の前の窓を、しるしをつけてあった所までひらいた。そうして
おいて橘はボーイに何か耳打ちした。すると、ボーイはうなずいて部屋を出て行ったが、
間もなく等身大の藁人形を抱えて戻ってきた。藁人形には不恰好にチョッキが着せてあっ
た。橘はボーイからそれを受け取ると、部屋の隅の寝台の上に、きのう林が寝ていた通り
に人形を横たえた。
用意がととのうと、橘は一同の人々を見廻して、おもむろに口をきった。
「これで、この部屋の様子はどの品一つも、きのう椿事があった時の位置と違っていない
はずです。重要な品物の位置にはすべてしるしをつけておいたのです。さて私はこれから
きのう林君がいかにして殺されたか、いや、いかにして胸に弾丸を受けたか、その時の状
況を皆さんにお目にかけようと思うのです」
この橘のいかにも自信に満ちた言葉を聞くと、なみいる人々は緊張した。
「その前に、私はこの事件について、私の信ずるところを申し述べてみようと思います。
警察は二郎君を犯人と認められているようですが、それは、この事件の真相を見誤まった
ものと言わなければなりません。二郎君に限らず、この事件には、どこにも林一郎を殺害
した犯人はいないのです。二郎君に嫌疑をかけた第一の理由は、この火繩銃が彼の所有品
である事によるらしいのですが、これは毫も理由にならないと思います。いかに迂闊な人
間でも、自分の銃で人を殺し、その上それを現場に置いて逃げるようなばかなまねはしな
いでしょう。かえってこの事は、二郎君の無罪を証拠だてるものだと思います。第二の理
由は、この庭にある足跡ですが、これもまた反対の証拠を示しているにすぎません。あと
でお調べになればよくわかる事ですが、往復とも同じ歩幅で、しかもその歩幅が非常に狭
いのです。殺人罪を犯した人間が、こんなに落ちついて帰れるものでしょうか。なお念の
ため、ゆうべその足跡を辿って調べてみますと、ばかばかしい事には、それは、このホテ
ルの裏山の気ちがい娘が、裏の生垣をくぐって庭に忍び込んだ足跡とわかったのです。第
三の理由は、二郎君が椿事のあった時間に、ちょうど不在であって、その行き先を言わな
かった事です。この事については、私はあまり詳しい話は避けたいと思いますが、ただ、
ボーイから、二郎君が外出するとすぐ、二階に滞在している老紳士の令嬢が外出し、その
令嬢は二郎君とほとんど同時に帰られたという事実を聞いた事のみ申し上げておきます。
この事は、或いはもう二郎君が警察で告白したかもしれませんが」
そこで橘は言葉をきって、刑事の方を眺めた。刑事はうなずいて、暗黙のうちに橘の推
察を肯定した。
橘は再び語りはじめた。
「最後に、一郎君と二郎君とが、真実の兄弟でないという事も、疑う理由の一つになって
いるようですが、それは理由とするに足らないほど薄弱な理由だと思います。それにもし
二郎君が一郎君に殺意を抱いておったとしても、何もホテルなどという人目の多い場所を
選ぶことはありません。兄弟は毎日のように裏山へ狩猟に行っていたのですから、もしや
ろうと思えばそこでいくらでも機会はあったはずです。もし運わるく現場を誰かに見られ
たとしても、そんな場所であれば、鳥かけものか、何かをうとうとして、誤まって殺した
とでも言いのがれる途があるのです。こう煎じ詰めてきますと、どこに一つ二郎君を疑う
理由も見出せないではありませんか。いかがでしょう。これでも二郎君が殺人犯人でしょ
うか」
橘の雄弁と推理のあざやかさには、唯もう感心するばかりで、私は心の中で、なるほど、
なるほど、と叫びつづけていた。橘は言葉を改めてまた語りつづけた。
「はじめは私も火繩銃が机の上に置いてあったり、死人のチョッキが煙硝で黒く焦げてい
たりするものですから、或いは自殺ではないかとも思いましたが、机の上にあった、二つ
の品の或る怖ろしい因果関係に気づいて、私はすぐ自分の考えの間違っていたことを悟っ
たのです。次に足跡がこの事件にまったく関係のない事がわかったので、この事件に犯人
のある事を想像する事はできないわけになりました。と、しますと、林君の死は、いった
いどう解釈したらいいのでしょう。犯人のない他殺とよりほかに考えようはないのじゃな
いでしょうか」
ああ、犯人のない他殺。そのような奇妙な事実があるであろうか。一座の人々は固唾を
呑んで橘の言葉に聞き入っていた。
「私の想像に間違いなければ、林君はきのう正午、中食を終ると、二郎君の部屋から弾丸
の装填してあった火繩銃を持ち出して、この部屋に戻り、それをこの机に凭れながらもて
あそんでいたのです。ところが、フト友人に手紙を書かなければならない事を思い出した
ので、銃を机の上に置いたまま、手紙を書きはじめたのです。その時、銃の台尻がちょう
どこの本立ての隅に当たっていたということが、この事件に重大な関係があるのです。手
紙を書き終ると、すぐ、習慣になっている午睡のためにベッドに横たわりました。それか
らどれくらいたったか明確ではありませんが、一時三十分になって、実に恐るべき惨事が
突発したのです。世にも不思議な犯人のない殺人が行なわれたのです」
そう言いながら、橘はポケットから懐中時計を取り出した。
「さあ、今一時二十八分です、もう一、二分すれば、犯人のない殺人が行なわれるのです。
この事件の真相がハッキリわかるのです。机の上の花瓶によく注意していてください」
人々は手品師の奇術を見るような気持で、そのガラス瓶に十二の瞳を一斉に注いだ。
と、そのとき、私の頭に或る考えが稲妻のように閃めいた。そうだ。手品の種がわかっ
た。事件の真相が明らかとなった。
ああ、それは太陽とガラス瓶との世にも不思議な殺人事件であったのだ。
見よ、ガラス瓶は、空から射す強烈な太陽の光を受けて、焔のようにキラキラと照りか
がやき、その満々と水をたたえた球形のガラス瓶を貫ぬいて、太陽の光線は一層強烈とな
り、机の上に置かれた火繩銃の上に、世にも怖ろしい呪いの焦点を作りはじめた。
焦点は太陽の移動と共にジリジリ位置を換えて、今や点火孔の真上にその白熱の光を投
げた。と同時に、鋭い銃声が部屋一杯に響きわたり、銃口からは白い煙がモクモクとゆら
めいた。
人々は一様に視線を寝台に移した。
そこには胸を撃たれた藁人形が、無残な死体となって横たわっていた。
黒手組
顕れたる事実
またしても明智小五郎の手柄話です。
それは、私が明智と知合いになってから一年ほどたったころの出来事なのですが、事件
に一種劇的な色彩があってなかなか面白かったばかりでなく、それが私の身内のものの家
庭を中心にして行なわれたという点で、私には一そう忘れがたいのです。
この事件で、私は、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者
諸君の興味のために、彼の解いた暗号文というのをまず冒頭に掲げておきましょうか。
[#ここから2字下げ]
一度おうかがいしたいと存じながらつい好い折がなく失礼ばかり致しております割合にお
暖かな日がつづきますのね是非此頃にお邪魔させていただきますわ扨|日《いつ》|外《ぞ
や》×つまらぬ品物をお贈りしました処御叮寧なお礼を頂き痛み入りますあの手提袋は実
はわたくしがつれづれのすさびに自×ら拙い刺繍をしました物で却ってお叱りを受けるか
と心配したほどですのよ歌の方は近頃はいかが?時節柄お身お大切に遊ばして下さいまし
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]さよなら
これは或る葉書の文面です。忠実に原文通りしるしておきました。文字を抹消したとこ
ろから各行の字詰めにいたるまですべて原文のままです。
さてお話ですが、当時私は避寒かたがた少し仕事をもって熱海温泉の或る旅館に逗留し
ていました。毎日いくどとなく湯につかったり、散歩したり、寝ころんだり、そしてその
ひまに筆をとったりして、のんびりと日を送っていたのです。ある日のことでした。又し
ても一と風呂あびて好い気持に暖まったからだを、日あたりのいい縁側の籐椅子に投げか
け、なにげなくその日の新聞を見ていますと、ふとたいへんな記事が眼につきました。
当時都には「黒手組」と自称する賊徒の一団が人もなげに跳梁していまして、警察のあ
らゆる努力もその甲斐なく、きのうは某の富豪がやられた。きょうは某の貴族がおそわれ
たと、噂は噂をうんで、都の人心は兢々として安き日もなかったのです。したがって新聞
の社会面なども、毎日々々そのことで賑わっていましたが、きょうも「神出鬼没の怪賊云々」
というような三段抜きの大見出しで、相もかわらず書き立てています。しかし私はそうし
た記事にはもうなれっこになっていて別に興味をひかれませんでしたが、その記事の下の
方に、いろいろと黒手組の被害者の消息をならべたうちに、小さい見出しで「××××氏
襲わる」という十二三行の記事を発見して非常に驚きました。といいますのは、その××××氏はかくいう私の伯父だったからです。記事が簡単でよく分りませんけれど、なんで
も娘の富美子が賊に誘拐され、その身代金として一万円〔註、今の四、五百万に当る〕を
奪われたということらしいのです。
私の実家はごく貧乏で、私自身もこうして温泉場にきてまで筆かせぎをしなければなら
ぬほどですが、伯父はどうしてなかなか金持なのです。二、三の相当な会社の重役なども
勤めていますし、充分「黒手組」の目標になる資格はありました。日頃なにかと世話にな
っている伯父のことですから、私は何をおいても見舞いに帰らなければなりません。身代
金をとられてしまうまで知らずにいたのは迂闊千万です。きっと伯父の方では私の下宿へ
電話ぐらいはかけていたのでしょうが、こんどの旅行はどこへも知らせずにきていました
ので、新聞の記事になってから、はじめてこの不祥事を知ったわけなのです。
そこで、私は早速荷物をまとめて帰京しました。そして旅装をとくや否や伯父の屋敷へ
出掛けました。行ってみますと、どうしたというのでしょう。伯父夫婦が仏壇の前で一心
不乱に|団扇《う ちわ》|太《だい》|鼓《こ》や拍子木をたたいてお題目を唱えてい
るではありませんか。いったい彼らの一家は狂的な日蓮宗の信者で、一にも二にもお祖師
様なんです。ひどいのは、ちょっとした商人でさえも、まず宗旨を確かめた上でなければ
出入りを許さないという始末でした。しかしそれにしても、いつもお勤めをする時間では
ないのにおかしなこともあるものだと思い、様子をききますと、驚いたことには事件はま
だ解決していないのでした。身代金は賊の要求どおり渡したにもかかわらず、肝心の娘が
いまだに帰ってこないというのです。彼らがお題目をとなえていたのは、いわゆる苦しい
時の神頼みで、お祖師様のお袖にすがって娘を取戻してもらおうというわけだったのでし
ょう。
ここでちょっと当時の「黒手組」のやり口を説明しておく必要があるようです。あれか
らまだ数年にしかなりませんから、読者諸君のうちには当時の模様を御記憶のかたもある
でしょうが、彼らはきまったように、まず犠牲者の子女を誘拐し、それを人質にして巨額
の身代金を要求するのです。脅迫状には、いつ何日の何時にどこそこへ金何万円を持参せ
よと、くわしい指定があって、その場所には「黒手組」の首領がちゃんと待ちかまえてい
ます。つまり身代金は被害者から直接賊の手に渡されるのです。なんと大胆なやりかたで
はありませんか。しかも、それでいて彼らには寸分の油断もありません。誘拐にしろ、脅
迫にしろ、金円の受授にしろ、少しの手掛りも残さないようにやってのけるのです。また
被害者があらかじめ警察に届け出て、身代金を手渡す場所に刑事などを張り込ませておき
ますと、どうして察知するのか、彼らは決してそこへやってきません。そして後になって、
その被害者の人質は手ひどい目にあわされるのです。思うにこんどの黒手組事件は、よく
ある不良青年の気まぐれなどではなくて、非常に頭の鋭い、しかもきわめて豪胆な連中の
仕業に違いありません。
さて、この兇賊のお見舞いを受けた伯父の一家では、今も言いますように、伯父夫妻を
はじめ青くなってうろたえていました。一万円の身代金はとられる、娘は返してもらえな
いというのでは、さすが実業界では古狸とまでいわれている策士の伯父も、手のつけよう
がないのでしょう。いつになく私のような青二才をたよりにして、何かと相談をする始末
です。|従妹《い とこ》の富美子は当時十九のしかも非常な美人でしたから、身代金を
あたえても戻さぬところを見ると、ひょっとしたら無残にも賊の毒手にもてあそばれてい
るのかもしれません。そうでなかったら、賊は伯父を組みしやすしと見て、一度ではあき
たらず、二度、三度身代金を脅喝しようとしているのでしょう。いずれにしても伯父とし
てはこんな心配なことはありません。
伯父には富美子のほかに一人の息子がありましたが、まだ中学へはいったばかりで力に
はなりません。で、さしずめ私が、伯父の助言者という格でいろいろと相談したことです
が、よく聞いてみますと、賊のやり方はうわさにたがわず実に巧妙をきわめていて、なん
となく妖怪じみたすごいところさえあるのです。私も犯罪とか探偵とかいうことには人並
み以上の興味があり、「D坂の殺人事件」でもご承知のように、時にはみずから素人探偵を
気取るほどの稚気も持ち合わせているのですから、できることなら一つ本職の探偵の向こ
うを張ってやろうと、さまざまに頭をしぼってみましたものの、これはとてもだめです。
てんで手がかりというものがないのですからね。警察へはもちろん伯父から届け出てあり
ましたけれど、果たして警察の手でこれが解決できましょうか。少なくともきょうまでの
成績を見ると、まず覚束ないものです。
そこで、当然、私は友だちの明智小五郎のことをおもいだしました。彼なればこの事件
にもなんとか眼鼻をつけてくれるかもしれません。そう考えますと、私は早速それを伯父
に相談してみました。伯父は一人でも余計に相談相手のほしい際ではあり、それに私が日
頃明智の探偵的手腕についてよく話をしていたものですから、もっとも、伯父としてはた
いして彼の才能を信用してはいなかったようですけれど、ともかく呼んできてくれという
ことになりました。
私は御承知の煙草屋へ車を飛ばしました。そして、いろいろの書物を山と積み上げた例
の二階の四畳半で明智に会いました。都合のよかったことには、彼は数日来「黒手組」に
ついてあらゆる材料を蒐集し、ちょうど得意の推理を組み立てつつあるところでした。し
かも彼の口ぶりではどうやら何か端緒をつかんでいる様子なのです。で、私が伯父のこと
を話しますと、そういう実例にぶっつかるのは願ってもないことだというわけで、早速承
諾してくれ、時を移さず連れだって伯父の家へ帰ることができました。
間もなく、明智と私とは伯父の屋敷の数奇を凝らした応接間で伯父と対座していました。
伯母や書生の牧田なども出てきて話に加わりました。この牧田というのは身代金手交の当
日、伯父の護衛役として現場へ同行した男なので、参考のために伯父に呼ばれたのでした。
取り込みの中で、紅茶だ菓子だといろいろのものが運ばれました。明智は舶来の接待煙
草を一本つまんで、つつましやかに煙をはいていましたっけ。伯父はいかにも実業界の古
狸といった形で、生来大男のところへ、美食と運動不足のためにデブデブ肥っていますの
で、こんな場合にも、多分に相手を威圧するようなところを失いません。その伯父の両隣
に伯母と牧田が坐っているのですが、これがまた二人とも痩形で、ことに牧田は人並みは
ずれた小男ですから、一そう伯父の恰幅が引き立って見えます。一通り挨拶がすみますと、
事情はすでに私からざっと話してあったのですけれど、もう一度詳しく聞きたいという明
智の希望で、伯父が説明をはじめました。「事の起こりは、さよう、きょうから六日前、つ
まり十三日でした。その日のちょうど昼ごろ、娘の富美がちょっと友だちの所までといっ
て、着がえをして家を出たまま晩になっても帰らない。われわれはじめ『黒手組』のうわ
さに脅かされている際でしたから、先ずこの家内が心配をはじめましてね、その友だちの
家へ電話で問い合わせたところが、娘はきょうは一度も行っていないという返事です。さ
あ驚いてね、わかっているだけの友だちの所へはすっかり電話をかけさせてみたが、どこ
へも寄っていない。それから、書生や出入りの者などを狩り集めて八方捜索につくしまし
た。その晩はとうとうわれわれは一睡もせずでしたよ」
「ちょっとお話し中ですが、その時、お嬢さんがお出ましになるところを実際に見られた
かたがありましたでしょうか」
明智がたずねますと、伯母がかわって答えました。
「はあ、それはもう女どもや書生などがたしかに見たのだそうでございます。ことに梅と
申す女中などは、あれが門を出る後姿を見送ってよくおぼえていると申しておりますので
……」
「それからあとは一切不明なのですね。ご近所の人とか通行人などで、お嬢さんのお姿を
見かけたものもないのですね」
「そうです」と伯父が答えます。「娘は車にも乗らないで行ったのだから、もし知った人に
行きあえば、充分顔を見られるはずですが、ここはご存じの通り淋しい屋敷町で、近所の
人といっても、そう出あるかないようだし、それはずいぶんたずね廻ってみたのですが、
だれ一人娘を見かけたものがないのです。そういうわけで警察へ届けたものかどうだろう
と迷っているところへ、その翌日の昼すぎでした。心配していた『黒手組』の脅迫状が舞
い込んだのです。もしやと思っていたものの、実に驚かされました。家内などは手ばなし
で泣きだす始末でね。脅迫状は警察へ持って行って今ありませんが、文句は、身代金一万
円を、十五日午後十一時に、T原の一本松まで現金で持参せよ。持参人は必ず一人きりで
くること、もし警察へ訴えたりすれば、人質の生命はないものと思え……娘は身代金を受
取った翌日返還する。ざっとまあこんなものでした」
T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所
にちょっとした灌木林があって、一本松はそのまん中に立っているのです。練兵場といっ
ても、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、ことに今は冬のことですから一
そう淋しく、秘密の会合場所には持ってこいなのです。
「その脅迫状を警察で検べた結果、何か手掛りでも見つかりませんでしたか」とこれは明
智です。
「それがね、まるで手掛りがないというのです。紙はありふれた半紙だし、封筒も茶色の
一重の安物で目印もなにもない。刑事は、手跡などもいっこう特徴がないといっていまし
た」
「警視庁にはそういうことを検べる設備はよくととのっていますから、先ず間違いはあり
ますまい。で、消印はどこの局になっていましたでしょう」
「いや、消印はありません。というのは、郵便で送ったのではなく、誰かが表の郵便受函
へ投げ込んで行ったらしいのです」
「それを函からお出しになったのはどなたでしょう」
「私です」書生の牧田が答えた。「郵便物はすべて私が取りまとめて奥様の所へさし出しま