饭饭TXT > 海外名作 > 《伯爵と妖精(日版)》作者:[日]谷瑞惠【1-3卷】 > 《伯爵と妖精(日版)》@txtnovel.com 第03卷 プロポーズはお手やわらかに.txt

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作者:日-谷瑞惠 当前章节:15386 字 更新时间:2026-6-16 07:18



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伯爵と妖精

プロポーズはお手やわらかに

著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子

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  妖精女王の花婿

「あーあ、ロンドンはまだ先かよ」

 走り疲れ、川縁《かわべり》の草むらに寝転んでいた彼は、ため息とともにひとりごちた。スコットランドを出てから三日、自慢の俊足《しゅんそく》でもロンドンはかなり遠い。

「リディアの奴、俺に黙って行っちまうってどういうことだ?」

 それも、ロンドンでフェアリードクターとして雇われたとか、当分帰ってこられないとか、冗談じゃないと彼は思う。

 リディアを引き止めているのは、人間のくせに妖精界に領地を持っているという青騎士|伯爵《はくしゃく》だという。その名は、彼も聞いたことはある。

 しかし、妖精を従える力を持つ伯爵なら、フェアリードクターを雇う必要なんかないじゃないか。

 ともかくリディアを連れ戻すのだと意気込んで、彼はスコットランドを飛び出してきた。一族の誰も、行ったことなどないというイングランドまで、わざわざやってきたのだ。

「ぜったいに見つけだしてやる」

 そのとき、空の方から歌声が聞こえてきた。

「白い月、女王さまの白い月、花婿《はなむこ》さまに贈る月……」

 月だって?

 興味をおぼえ、彼は体を起こすと美しい青年に姿を変えた。

 枝から枝へとひらひらと飛んでいく、小さな妖精に声をかける。

「よう、お嬢《じょう》さん、ご機嫌だね」

「こんにちは、黒髪さん」

「ロンドンへ行きたいんだけどさ、こっちでいいのかな」

「ええ、もうすぐですわ。わたしもロンドンへ行くんです。女王さまの花婿を迎えに」

「そいつはめでたいな。で、今歌ってた白い月ってどんな月なんだ?」

「本物の月ですわ」

「まさか。本物の月が手に入るわけないだろ」

「それが入ったんですのよ。ちゃんと満ち欠けするんですの」

「へえ、めずらしい。ちょっと見せてくれよ」

「少しだけですわよ」

 小さな妖精は、上機嫌だからか警戒《けいかい》もせず、彼の目の前に乳白色《にゅうはくしょく》に輝く〝月〟がくっついた指輪を取りだして見せた。

「本当に満ち欠けするのか?」

「もちろんですわ」

「そっか。いいもの見せてもらったよ。ありがとうな」

 指輪を返しながら、彼は微笑《ほほえ》んだ。

「どういたしまして。それじゃあわたし、先を急ぎますので」

「ああ、じゃあな」

 ひらひらと飛んでいく姿が、やがて木々の向こうに見えなぐなると、彼はぺろりと舌を出した。

「間抜けな小妖精だ」

 開いた手の中には、〝月〟の指輪が握られていた。

   * * *

 借り物の一張羅《いっちょうら》に身を包み、足を踏み入れた場所は、ポール・ファーマンにとってはじめての、社交界のサロンだった。

 上流階級が集まる高級クラブ、そこで開かれた展覧会には、名だたる人物が集まっている。

 広いホールに展示された絵画の数々は、ほとんどが、このところロイヤルアカデミーに次々と入選している流行の画風だ。ロマンティックな物語を主題にした、初期ルネサンスの様式は、優美ではかなげで、この英国の、うるわしき女王|陛下《へいか》の治世《ちせい》にふさわしいともてはやされている。

 しかしまったく無名の、若い画家の絵もある。こういった場所で紳士淑女《しんししゅくじょ》の目にとまれば、画壇《がだん》に出ていくチャンスになる。

 そんなわけで、まだ駆け出しのポールの絵も、画商《がしょう》が手配した立派な額に収められ、豪華なシャンデリアの下に並べられることになったのだった。

 しかし今のところ、彼の絵の前で足を止める紳士はいない。

 少々地味だとよく言われる。貴族が好む絵の傾向はわかっているつもりでも、自分の絵はなかなか変えられない。だから今回の出品には、さほど期待しているわけではない。

 それよりも、ポールはサロンの中ほどが、さっきから気になっていた。

 にぎやかな談笑の輪、その中心にいるのは目立つ金髪の青年だ。

 絵画の美男美女もかすむほどに絵画的な美貌《びぼう》。彼が動くと、その場の空気も動く。光が彼についていくかのごとく、影が動く。

 だが、ポールが気になっているのはそれではない。

 よく似ている。まるであの少年が成長したかのようだ。

 死んだはずの、彼が。

「ポール、何をぼんやりしているんだ。チャンスだぞ」

 はっと我に返った画家は、じっと目で追っていた青年が、自分の絵の前に立っているのにようやく気がついた。

 画商は、急いで彼を引っぱっていく。青年のそばまでやって来ると、商売人らしく慇懃《いんぎん》に声をかけた。

「いかがです、伯爵《はくしゃく》。いい絵でございましょう?」

 社交界で噂《うわさ》の的《まと》になっている、その若き伯爵の名は、エドガー・アシェンバート。この春に、外国から帰国したばかりだという。

「そうだね。これは、ティタニア?」

「はい。『真夏の夜《よ》の夢』の妖精女王がモチーフでございます」

 プリムローズの花影で、うたた寝をする月の妖精。絵に見入る伯爵の視線は、まるで彼女に恋をしているかのようだった。

 絵の力ではない。伯爵が見つめるだけで、絵が輝きだして見えてくるのだと、ポールは驚かされる。

 それは伯爵の、やわらかく馴染《なじ》んだ山羊皮《キッド》の手袋や、ネクタイの結び目や、イブニングコートの上品な光沢《こうたく》さえ、芸術的に見えるのと同じように。

 あまい花の香りが、絵の中から漂ってくるかのような錯覚《さっかく》さえ起こす。

 その香りはこちらへ近づいてきた貴婦人のものだったけれど、そうと気づくのに時間がかかったほどだった。

「伯爵にはうってつけの主題じゃありませんこと?」

 青いドレスの貴婦人が言う。

 画商は、そこですかさず売り込んだ。

「そうですとも、この社交界で、伯爵は誰よりも妖精をよくご存じのはずですから。わたくしとしても数ある妖精画の中から、これはと思うものをお持ちしたのですよ」

 そして画商は、ポールの方に振り返る。この絵の作者だと、性急《せいきゅう》に紹介した。妖精の国に領地を持つという伯爵は、ポールを見てやわらかく微笑んだ。

 まだ二十歳《はたち》そこそこだと聞いている。ポールより年下だというのに、新人画家に注ぐ眼差《まなざ》しは、鷹揚《おうよう》な後援人のものだ。

 この伯爵に気に入られようなんて、無謀《むぼう》な試みではないのか。気後《きおく》れしながらも、画商に肘《ひじ》でつつかれ、ポールはどうにかあいさつをした。

「お目にかかれて光栄です。アシェンバート伯爵」

「きみは、よく妖精画を?」

「あ、はい。ドレイトンやスペンサーのような妖精文学が好きで」

「見たことは?」

「は?」

 妖精を見たことがあるのかと訊《たず》ねているのだ。しかしその質問が、冗談なのか本気なのかわからずに、ポールは戸惑《とまど》った。

 妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》、という彼の名は、人の興味をかき立てるほどにロマンティックだが、ただの名ではないのだろうか。実在しない領地名を爵位《しゃくい》に持つ貴族はほかにもいる。

「伯爵、純粋な芸術家をからかうものじゃありませんわ」

「おや、レディ。妖精の存在を信じてはおられないので?」

「あなたが見えるとおっしゃるなら、信じてもよろしくてよ」

「ええ、見えますよ。この世の女性《ひと》ならぬ美しさで、誰もをとりこにする妖精が。あなたとお話ししている僕は、夢でも見ているのでしょうか?」

「お上手ね」

 ふたりの間に話がはずめば、そのままポールと画商の存在は忘れられてしまいそうだった。

 画商がうしろから、もっとしっかり売り込めとせっつくが、もともとポールは口べたなたちだ。

 言葉をはさめなくて困っていると、またふと思い出したように伯爵がこちらに顔を向けた。

「ほかの絵も見てみたいな、ファーマン君」

「え……」

「気に入っていただけましたか」

 思いがけない言葉に硬直していたポールを押しのけて、画商が身を乗り出す。

「そう……、このティタニアが、僕の好きな女性を思わせる」

「あら、聞き捨てならないわ。恋人ですの?」

「いいえ、片想いなんですよ」

「まさか、信じられませんわ」

「どうにも女性の気持ちがわからなくて、すぐ怒らせてしまうんです」

「あなたに女心がわからないはずはございませんでしょう?」

「本当ですよ、レディ。ご教示《きょうじ》いただきたいぐらいだ」

「わたくしでよろしければ、おやすいご用ですわよ」

 本当に絵を気に入ってもらえたのか、それとも貴婦人を口説《くど》くダシにされたのかわからないまま、ポールはふたりの背中を見送りながら突っ立っていた。

 あの少年によく似ていると思った。でも、話をすれば印象がまるで違う。

 当然だ、彼であるはずがないのだから。

   *

 |接ぎ木リンゴ《インプトゥリー》の下で眠ると、妖精に連れ去られる。

 美しい若者や娘なら、木の下を通りかかるときは要注意だ。妖精の魔力が眠りを誘う。少し休もうと木の根元に座り込んだら、きっともう、目覚めることはないだろう。

 そうしていなくなった者は、妖精の花嫁《はなよめ》や花婿《はなむこ》になるのだという。

「その昔、青騎士伯爵のご先祖にも、うっかり接ぎ木リンゴの下で眠ってしまった方がいらっしゃいましてね」

 トムキンスがそう言った。

 伯爵家|執事《しつじ》の彼は、邸宅内の一室で、デスクに積まれた招待状の束を片端から封印していく。

 青騎士伯爵というのは、この屋敷の主人、アシェンバート伯爵のことを妖精たちが呼ぶ名だ。先祖の、青騎士|卿《きょう》と呼ばれた人物にちなんでいる。

 現在の英国人にとってその名は、十六世紀に書かれた幻想小説の主人公にすぎないが、この伯爵家の先祖をモデルにしていることは、知る人は知っている。

「それでどうなったんですか?」

 リディアも手紙の封を手伝いながら、トムキンスと妖精話に興《きょう》じていた。

「美しい妖精女王のもとへ連れていかれたそうです」

 その昔は妖精国の領主として、不思議な力を持っていたという青騎士卿の血筋はすでに絶えた。しかしそんな、青騎士伯爵に代々|仕《つか》えてきたトムキンスの家には、妖精にまつわる伯爵のエピソードが語り継がれているらしい。

「伯爵は妖精女王と結婚を?」

「もう少しで結婚しなければならなくなるところだったそうですよ。でも、伯爵は魔法の呪文《じゅもん》を知っていたんです。それでどうにか解放されて、人間界へ戻ってこられたとか」

「その魔法の呪文、知ってるわ」

「おや、本当ですか? さすがはフェアリードクターでいらっしゃる」

 リディアは、妖精博士《フェアリードクター》としてこの伯爵家に雇われている少女だ。

 フェアリードクターというのは妖精の専門家で、妖精の姿が見えるし話もできる。十九世紀ともなった今では忘れ去られつつある、伝統的な妖精とのつきあい方も知っている。

 もともと妖精博士の仕事は、人と妖精が共存していくために知恵を貸し、妖精との取り引きや駆け引きを請《う》け負《お》うことだった。

 亡き母のあとを継いで、この仕事を始めたばかりのリディアは、まだまだ半人前だが、やる気と誇りは一人前のつもりだ。

「それでリディアさん、いったいどんな呪文なんですか?」

「あら、トムキンスさんは知らないの?」

「ええ、その部分は伝わっていないんですよ。それで私、ずっと気になっていたんですがね」

「僕も気になるな。教えてよ、リディア」

 割り込んだ声は、現在の青騎士伯爵、エドガーだった。颯爽《さっそう》と部屋へ入ってくると、紙切れをテーブルに置く。

「トムキンス、招待客の追加リストだ、頼むよ」

「これでぜんぶですか?」

「おそらくね。料理の手配は間に合うかな」

「どうにかいたしましょう」

 エドガーの無茶な注文を、トムキンスはまるで売られたケンカのように買う。いや、引き受ける。主人に「できません」と言うことは、執事として負けだと思っているふしがある。

 |社交界の季節《ザ・シーズン》が始まって、ロンドンでは毎日のように、どこかで晩餐《ばんさん》会だの舞踏《ぶとう》会だのが開かれている。エドガーが夜会《やかい》を主催すると言い出したのは当然のことだが、決めた日取りがあまりにも性急だった。

 それ以上に、トムキンスの手配は素早かったのだから、リディアは感心するだけだ。

「ああそれから、リディア、きみも招待客のひとりだからね。父上のところに招待状が届くはずだからそのつもりで」

 え、とリディアは、招待状を封印する作業の手を止めた。

「舞踏会なんて、あたしには無理よ!」

「心配しないで、来るのは貴族ばかりじゃないから」

 そうはいっても、中流階級《ミドルクラス》出身で社交界に出ているとしたら、それなりの資産家たちだ。

「それに、そんな格式張った作法《さほう》は必要ないよ。宮廷舞《きゅうてい》踏会じゃないんだから。ああそう、メースフィールド公爵夫《こうしゃく》人、オペラハウスで会っただろう? 彼《か》の貴婦人がまたきみの妖精話を聞きたいと言っていた。そういえば夫の公爵は、きみの父上の恩師とは従兄《いとこ》どうしだって、知ってた?」

 知らなかった。そして気がつけば外堀をうめられ、断れないようになっている。

 学者としての変人ぶりを認められている父はともかく、その娘が父に縁のある貴族に失礼なことをするわけにはいかないではないか。

 エドガーのいつもの手だ。

「でも、ダンスなんてできないもの」

「トムキンス、ダンスの教師はいつ来るって?」

 は?

「今日の午後です」

「ということだからリディア、問題はないよ」

 大ありじゃないの!

 と叫びたかったが、にっこり微笑《ほほえ》むエドガーを目の前に、リディアは口を開けたまま声を発する気力を失っていた。

「とりあえず、形になっていればいいよ。きみと踊るのは僕だけだから。そう、僕以外とは踊らないこと。いいね」

「……どうしてよ」

「妬《や》けるから」

 目を見つめながらきっぱりと言うが、リディアにはからかわれているとしか思えない。

 エドガーは、いつでも万事《ばんじ》この調子だ。

 ちょっとしたいきさつがあって、妖精国伯爵の名を得たエドガーには、当然妖精に関する知識がない。だからとリディアが伯爵家顧問フェアリードクターにさせられたのも強引だった。

 スコットランドの片田舎《かたいなか》にいた十七歳の少女には、女王|陛下《へいか》のお墨付きまで出されては断るすべもなく、貴族の大邸宅に仕事部屋を持つことも、大都会ロンドンでの暮らしも、三カ月たってようやく慣れてきたところだ。

 でも、この伯爵の考えていることは、相変わらずまったくわからない。

 女性相手には片っ端からあまい言葉をささやく。恵まれた美貌《びぼう》と計算高さで、いくらでも自分を魅力的に見せることができる人だ。

 リディアは、彼のこういうせりふを鵜呑《うの》みにしてはいけないと知っている。

 エドガーにとって、他人を心地よくする言葉は、思い通りに動かすための手段にすぎないのも知っている。

 けれどわからないのは、リディアみたいな田舎娘をパーティに引っぱり出して何が楽しいのかということだ。

 単に、フェアリードクターというめずらしい少女を、異国の鸚鵡《おうむ》か何かみたいに連れ歩いてみたいだけなら、そろそろ飽きてもよさそうなものなのに。

「あなたにも、お月さまの呪文が効けばいいのに」

 ため息まじりにリディアはつぶやく。

「お月さまの呪文?」

「そうよ、しつこい妖精を追い払う呪文」

「リディアさん、それが昔、青騎士伯爵が使ったという魔法の呪文でございますか?」

「ええ。妖精の求婚を断るには、『満ち欠けをくり返す、あの月を贈ってくださるなら』と言えばいいの。ぜったいに無理だから、妖精たちはしかたなく立ち去るのよ」

「なるほど、妖精は約束には忠実だといいますからね。我らが伯爵も、それでとらわれの身から解放されたわけですか」

 感慨《かんがい》深げに頷《うなず》くトムキンスを横目に、エドガーはリディアのすぐそばへやって来て、デスクに寄りかかる。こちらを見おろしながら、意味深《いみしん》ににんまり笑う。

「僕はしつこいから、簡単にはあきらめないね。どうにかして、月をきみに贈ってみせるよ」

 リディアが〝しつこい〟と言ったことが少々気に障《さわ》っているようだ。

「……そんなこと言うのは、本命だけにしなさいってこと」

「本命だよ」

 いつでも目の前にいる女性が、でしょ。

「だから気になるんだけど、きみはその、お月さまの呪文をとなえたことがあるわけだよね」

「え……」

 鋭い指摘に、どきりとさせられた。

「僕にも効けばいいと言っただろ。誰を追い払ったんだ?」

「よ、妖精よ」

「妖精に求婚《プロポーズ》されたんだ」

「プロポーズ……ていうか」

「先をこされた気分だ。そこまできみに恋した男が僕のほかにもいるだなんて」

「ち、違うの! そんなのじゃなくて、ちょっと変わり者の妖精で、ほら、妖精だから恋とかじゃなくて、人間を手に入れてみたいってなものよ」

[#挿絵(img/moonstone_023.jpg)入る]

「じゃあほかにはいるの?」

「は?」

「きみを好きになった男」

「いるわけないでしょ! 妖精とばかり親しくしてるって気味悪がられてたのよ。あたしが男の子から告白めいた手紙をもらったのは一度きりよ。それもその子にとっては仲間|内《うち》の罰《ばつ》ゲームよ!」

 言ってしまってから我に返れば、何を正直に告白しているのだろうと恥ずかしくなった。

 そんなことまでこいつに話す必要なんかなかったじゃない。

「男の子ってのは不器用なんだよ。悪ふざけの延長でしか好きな子に近づけなかったりする」

 そういう場合もあるのかもしれないけれど、自分には当てはまらないと思う。ただリディアは、エドガーに笑われなかったのを不思議に感じていた。

 人に話したことはなかったけれど、笑われるようなできごとだと思っていた。彼らにとっては軽いいたずらだ。

 でも、笑われなくてほっとしている自分は何なのだろう。

 こちらをまっすぐに見るエドガーの、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳は、やさしげでいながら扇情的《せんじょうてき》だ。

 目が合えばどうしていいかわからなくなってうろたえる。それでも冷静な部分で、こいつはこの手で誰でもだますのよと言い聞かせている。

 たぶんリディアが冷静でいられるのは、彼がそもそも、もと強盗の悪党だと知っているからだ。

 彼も、どれだけ口でうまく言ってもリディアはなびかないと、本当はわかっているのではないだろうか。

 だから今は、微妙に友情のようなものが成り立っている、と感じられることもある。

 が、それはリディアだけの錯覚《さっかく》だろうか?

 いつのまにか執事《しつじ》が部屋からいなくなっていることに気づくと、よける隙《すき》もないくらいさりげなく、デスクの上で手を重ねられていた。

「でもね、きみの周囲に不器用な男しかいなかったことを、僕は感謝したいくらいだ」

 引っ込めようとしたけれど、しっかりと握られる。けれどむりやりというほど強くもなく、やさしく包み込むように。

 だからかどうか、リディアも力が入らなくなってしまう。

「エドガーさま、スレイド氏から荷物が届いておりますが」

 そこへ割り込んだのはレイヴンの声だった。

 伯爵《はくしゃく》家の召使いとして働いている、褐色《かっしょく》の肌の少年は、エドガーがもっとも信頼している従者だ。アメリカの裏社会にいた頃から、主人を守るためなら何でもしてきたというくらいに忠実な。

 しかたなくというふうにリディアから手を離したエドガーは、レイヴンの方に振り返った。

「レイヴン、気をきかせるということを最初に教えなかったか?」

 それって、最初に教育するべきことだろうか?

「はい。ですが先日、リディアさんが困っていたら助けるようにとおっしゃいました」

 なるほど、とエドガーは深刻に眉根《まゆね》を寄せた。なにしろレイヴンは、冗談を言っているわけではない。エドガーに出会う前は、感情を持たないように教育され、道具のように扱われていたというから、気をきかせるなどかなり難しいことのようだ。

「どちらを優先するべきなのですか?」

「それはね、時と場合によるんだよ。臨機応変《りんきおうへん》に……、まあいいよ。リディアが困っていると今のおまえは判断したんだろうから」

 いつでもほとんど無表情なレイヴンだが、小さくまばたきしたのはエドガーにとがめられなくて安心したかのように見えた。

「で、スレイドって……、ああ、あの画商《がしょう》か。荷《に》を解いてくれ。ちょうどよかった。リディアに見せたいと思っていたところなんだ」

 レイヴンがテーブルに置いたものは、一フィート四方ほどの、淡い色彩で描かれた妖精画だった。

 思わずリディアは覗《のぞ》き込む。

「まあ、きれい」

「若手の画家なんだけどね、気に入ったんだ」

「女の人なの?」

「あのね、画家じゃなくて絵を。この妖精女王がきみに見えるから、どうしても手元に置いておきたくなった」

 彼はまた、リディアに熱い視線を向ける。

「どこもあたしに似てないわよ」

「似てるよ。かわいらしくて神秘的で、この閉じた目を開いたら、きみと同じ金緑の瞳に違いないと思ったんだ。うるわしきティタニア、僕にとってきみのイメージそのものだ」

 また始まった。

 リディアは助けを求めるようにレイヴンを見た。しかし彼は、今度は「気をきかせる」方を選んだらしい。さっと目をそらす。

「そうだ、きみをモデルに妖精画を描いてもらおうか。この屋敷を飾るにふさわしいじゃないか」

「無理よ、モデルなんて」

「楽な姿勢で座っていればいいだけだよ。いい考えだ。絵の中のきみなら、キスしても怒らないだろう?」

 眠れるティタニアに、エドガーは唇《くちびる》を近づける。似ているとは思えなくても、リディアはあせる。

「や、やめて!」

 つい叫んでしまう。

「どうして?」

「似てるとか言って、そういうことやめてちょうだい。変な気がするじゃないの。それにあたしの絵をあなたが好き勝手にいじるなんていやよ!」

「べつにそんな、いやらしいことするつもりはないけど」

「は……、そ、そんなこと言ってないでしょ!」

「キス以上のこと想像した?」

 真っ赤になるリディアを、楽しそうに見つめる彼は、本当にどうしようもない軽薄《けいはく》男だ。

「もう、あたしはあなたのおもちゃじゃないのよ。ダンスをおぼえろとかモデルになれとか、お月さまをくれないなら何もかもは無理よ!」

 お月さまの呪文《じゅもん》が効くなら、こいつの戯《ざ》れ言《ごと》を封印したい。そしたらどれだけ平安に過ごせることか。

 しかしエドガーに効くはずもなく、彼はどこまでも上機嫌に微笑《ほほえ》んでいる。

「じゃあとりあえず、ダンスに専念してもらおう。レイヴン、相手役を務めるように」

「えっ、彼と練習するの?」

「急だったから、先生は助手を連れてこられないそうだ。だからレイヴン、足を踏まれたくらいで怒らないようにね」

「はい」

 と神妙《しんみょう》に答えるレイヴンを、リディアはこわごわうかがった。

 うそでしょ。

 エドガーには完璧《かんぺき》なほど忠実なレイヴンだが、敵には容赦《ようしゃ》がない。殺人鬼として教育を受けていたという彼と、ダンスの練習をするなんてリディアにはそら恐ろしい。

 彼自身のことはきらいじゃないけれど、彼が自分でもコントロールするのが難しいという殺戮《さつりく》の衝動《しょうどう》に結びつくようなことは避けたいではないか。

「ねえリディア、人間相手の場合は、しつこい男を追い払うより、あきらめた方が幸せだってそのうちにわかるよ」

 お月さまの呪文は、エドガーには逆効果だったようだ。

 いつもよりちょっと意地悪だわ、とリディアはため息をついた。

 カドリール、ワルツにギャロップ。はじめてのステップに大混乱しながら、リディアは悪戦苦闘する。

 レイヴンはまるで機械仕掛けの人形のように、正確なステップを踏むからなおさら、ひとつ間違えただけでバランスを崩すし転びそうになるし、当然何度も彼を踏んだり蹴《け》ったりした。

「ご、ごめんなさい……」

「……大丈夫です」

 痛いなんてひとことも言わないし、表情にも出さないけれど、今の一呼吸の間《ま》に、怒ってるわとリディアは思う。

 それにしてもレイヴンは、ダンスなんていつ誰に習ったのだろう。

 などと余計《よけい》なことを考えたせいで、また間違えた。

「ああお嬢《じょう》さま、そうじゃありません。左足を先に、そしてターンですよ」

 ヴァイオリンを弾きつつ指導するダンス教師は、痩《や》せた男性だ。やたら甲高《かんだか》い声で話す。

「少し休憩《きゅうけい》しましょうか。初日から張り切って、怪我《けが》をされるといけませんからね」

 先生の言葉にほっとしたのは、リディアよりもレイヴンだったかもしれない。

 飲み物を用意した隣室《りんしつ》へ先生を案内するために、レイヴンも出ていってしまうと、リディアはひとりになって窓辺の椅子《いす》に腰をおろす。と、そこに灰色の猫が姿を現した。

「おいおいリディア、何やってんだよ」

 リディアの相棒の妖精猫だ。紳士《しんし》を気取ってネクタイをしているし、二本足で窓縁《まどべり》に立って、腰に手をあてたりなんかしているが、姿形《すがたかたち》はまったくの猫だ。

「見てたならわかるでしょ、ダンスよ」

「ふうん、おれはまた、あの大鴉《レイヴン》氏を痛めつけてるのかと思ったぜ」

 ニコの憎まれ口に腹を立てるよりも、その通りだわと落ちこまされた。

「ねえニコ、そんなにあたし、ひどかった?」

「ダンスというより凶器だな」

「……レイヴン、怒ってるかしら」

「気にすんなよ。伯爵《はくしゃく》さまに頼まれた仕事なら、奴は拷問《ごうもん》だろうと黙って受けるさ」

 拷問って、あんまりじゃない。リディアは憮然《ぶぜん》と口をつぐむ。

「あのう……、すみません」

 鈴の音《ね》のような声が、聞こえたような気がした。あたりを見回すが、誰もいない。

「あ、忘れてた。リディア、伯爵はいるのか?」

「いると思うけど、何?」

「このお嬢さんが、伯爵に用があるんだとさ」

 ふさふさしたしっぽをニコが持ちあげると、そこにごく小さな妖精がいた。

 黄金《こがね》色の花びらに身を包んだ妖精は、ニコの灰色の毛をかきわけつつ進み出ると、リディアに小さくお辞儀《じぎ》をした。

「はじめまして、フェアリードクターさん」

「あなた、野原の妖精?」

「はい、マリーゴールドとお呼びください」

 なるほど、マリーゴールドの精らしい。

「伯爵に用って、どんな?」

「青騎士伯爵へ、主人からお届け物をことづかってまいりました。どうかお取り次ぎくださいませ」

 礼儀正しい態度と、善良な種族だという安心感で、リディアはあまり深く考えずに頷《うなず》く。

「玄関で執事《しつじ》を呼んだ方がいいわよ。でもあなた、エドガーには見えないと思うの。人の姿になれる?」

「あまり得意ではないのですが」

 そう言いながらも、マリーゴールドはふっと姿を消した。代わりにそこには、花びら色のドレスを着た小さな女の子が立っていた。

「残念ながら、大人の人間にはなれないのです」

 五歳くらいの外見で、丁重《ていちょう》なしゃべり方は奇妙な気もするが、妖精だからしかたがない。

「まあいいんじゃない。あ、あたしまだダンスの練習があるから、ニコ、ちゃんと案内してあげてね」

 先生とレイヴンが部屋へ戻ってきたのだ。

 一瞬のうちに小さな姿に戻った妖精は、ニコのしっぽにつかまる。

「さあお嬢さま、続きを練習しましょうか」

 先生に促《うなが》され、リディアはまたレイヴンの前に立った。

「まずはワルツのステップから」

 先生が手拍子を取る。そのリズムに紛《まぎ》れて、ニコといっしょに出ていく妖精の声が、ふと耳に届いた。

「ああやっと、青騎士伯爵をお迎えできるわ。女王さまの花婿《はなむこ》に」

 え?

 昔、青騎士伯爵と結婚しようとした妖精女王がいた。

 まさかその、女王の使い?

 まさか、あり得ないけど、約束どおりに月を持ってきたとか?

 もしそうなら、エドガーがそれを受け取ってしまったら、妖精と結婚しなければならなくなる。

 そこまで考えて、あせったリディアの足元がもつれた。

「リディアさん、あぶない」

 彼女をささえようと、レイヴンは強く腕をつかんだのだけれど、考え事に夢中だったリディアは、とっさに混乱する。

 突き放そうとし、スカートのすそを踏んでつんのめる。

「きゃあっ!」

 レイヴンにぶつかって倒れ込み、おもいきり、彼を下敷きにしてしまった。

 なにしろ東洋系の彼は、一般的な英国人男性より小柄で華奢《きゃしゃ》だ。見事にいっしょに転んでしまう。

「痛《い》った……、あっ、ごご、ごめんなさいレイヴン。あたしったら……」

 彼の上からどこうとしたが、クリノリンをつけたスカートで身を起こすのはなかなか大変なのだ。

「ああ、おふたりとも、お怪我はありませんか?」

 ようやく家庭教師が近づいてきたが、気がきかないらしく、手を貸してくれようとしない。

 もたつくリディアの目の前で、そのとき無表情なレイヴンがかすかに眉《まゆ》をあげた。

 鋭い殺気を間近に感じ、一瞬にして鳥肌が立つ。

 さすがにキレた?

 と思った瞬間、リディアはぐいと肩を押さえつけられた。

 懐《ふところ》に手を入れたレイヴンが、ナイフを取り出すのがちらりと見える。と、家庭教師の罵倒《ばとう》が聞こえた。

「覚悟しろ、プリンスの犬め……!」

 え? どうしてダンスの先生が、プリンスのことを?

 しかし問う間もなく、レイヴンはリディアをむりやり押しのける。先生につかみかかり、ナイフを素早く動かす。

「ぎゃあっ!」

 聞こえたのは、先生の悲鳴だ。

 そのあとに続く激しい物音よりも、目の前に落ちたものを見てリディアがあげた声の方が大きかったかもしれない。

 間もなく執事とエドガーが駆《か》け込んできたが、家庭教師はいなくなっていた。

 レイヴンに切られた指をそのままに、先生は窓から逃げ出したようだった。

 もういや、とリディアはつぶやく。

 エドガーとかかわってから、身の危険を感じることがしょっちゅうだ。

 妖精がらみの危険なら、心構えもあるが、血が流れるような危険はごめんだ。

 もともとエドガーは、プリンスと呼ばれる人物を頂点にした、謎めいた組織から逃亡してきた身だし、彼らと戦争を始めようとたくらんでいるふしがある。

 伯爵《はくしゃく》家に雇われている以上、こういうことは何度でも起こるのだろうか。

 辞めようかしら。という考えが頭をよぎるが、ここにはフェアリードクターとしてのまともな仕事がある。

 エドガーが本物のアシェンバート家の人間ではなくても、この伯爵家が受け継ぐ土地は、いまだ人と妖精が共存していて、リディアのような未熟者|妖精博士《フェアリードクター》でもいちおうは役に立っている。

 スコットランドに帰っても、これまでのように変人扱いされながら、あるかないかわからない仕事の依頼を待つだけだ。

「レイヴン、先生はおまえをねらったんだな」

「はい。プリンスの犬、と私に言いました」

 考えながら、エドガーはリディアの前を往復する。

「いったいどういうことなのよ」

「たぶん、プリンスに敵対する連中だろう。レイヴンがプリンスのもとにいたことを知っていて、英国に来たのも奴の差《さ》し金《がね》だと思っている」

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