もちろんすべて、見覚えがある。
「ケ、ケルピー!」
スコットランドの自宅へ、しばしば遊びに来ていた妖精だった。
もともとは高地地方《ハイランド》に棲《す》む水棲馬だ。しかしリディアのいたエジンバラ近くの町までやってきて、川に棲み着いた変わり者だ。
本来は人と意思の疎通《そつう》を図ることなどない。その魔性《ましょう》の美しさで人を惑わし、水の中へ引きずり込んで食べてしまうという|悪い妖精《アンシーリーコート》。
しかしこのケルピーは、リディアの家へやって来ては気まぐれに過ごしていくだけで、少々ずうずうしい友人のようなものといえなくもなかった。
魔性の水棲馬でも、川から離れればそれほど危険はないし、彼に限っては人を喰《く》らう本性よりも、フェアリードクターへの好奇心の方が勝《まさ》っているように見えた。
しかしリディアが訪問を許しているうち、しばしば陸へ上がるのが面倒だからか、リディアに水の中へ来いとまで言い出した。いっしょに暮らそうなどと、人間の常識などまるでないケルピーは気軽に言うものだから、『月をくれるなら』とおまじないをとなえてやったところ、しばらく姿を見せなくなった。
そのままロンドンへでてきたリディアは、あわただしく過ごしていたからケルピーのことなど思い出す余裕もなかったのだが。
それにしたって、こんなときに現れなくたって。
「迎えに来たぞ。スコットランドへ帰ろうぜ」
ケルピーは、こちらのバルコニーへ軽々と飛び移ってきた。
「ど、どうしてここがわかったのよ」
リディアは身構える。
「おまえの家のホブゴブリンが言ってた。ロンドンの青騎士|伯爵《はくしゃく》に雇われたから、当分帰ってこないって。だからわざわざ俺さまが来てやったんじゃないか」
留守宅の管理を頼む手紙を、父が知人宛に出したと聞いた。変わり者のリディアが、これまた変わった名称を持つ伯爵に雇われたと、すでに町中で噂《うわさ》になっているに違いない。
ホブゴブリンは人間にも増して噂好きだ。好ましくないケルピーを追い払うためにも、嬉々《きき》としてリディアがロンドンにいると話したのだろう。
「あたしには仕事があるの。だからひとりで帰ってちょうだい」
しかしケルピーは聞いていない。じろじろと不躾《ぶしつけ》にリディアを見る。
「何でそんな変なかっこうしてるんだ?」
正装なんですけど。
場違いに見えるのはケルピーの方だ。妖精なのだからしかたがないが、チュニックふうのシャツとズボンだけの、野山の羊飼いみたいなかっこうでは、あきらかに不審《ふしん》者だ。
とにかく今は、こいつを人目から隠さなければならないとリディアはあせる。が、ケルピーは能天気《のうてんき》にも、彼女のスカートをひらりとめくった。
「何すんのよっ!」
反射的に、平手をお見舞いする。ケルピーはいちおう手を離したが、たぶんさほどのダメージはないのだ。
「相変わらず凶暴《きょうぼう》だなあ」
「獰猛《どうもう》なケルピーに言われたくないわよ」
「中に何が入ってんのかと思っただけじゃないか」
「これはこういうドレスなの!」
「リディアさん、どうかしたんですか?」
声をかけながらバルコニーへ入ってきたのはポール・ファーマンだった。
きっと今のやりとりを見ていて、不審な侵入者《しんにゅう》が悪さを働いているとでも思ったのだろう。ケルピーとリディアの間に割って入る。
「あなたは? 招待客じゃなさそうですが、勝手に入ってきたのなら、すみやかに出ていった方がいい。でないと警備の者を呼びますよ」
ケルピーは苛立《いらだ》ったように、りりしい眉《まゆ》をひそめた。
「こいつが青騎士伯爵か? リディア、おまえこんな貧弱な男にこき使われてるのか?」
「違うわ、この人は伯爵じゃ……。ていうか、失礼なこと言わないの!」
ポールは意外そうに、リディアの方に振り返った。
「リディアさん、知り合いなんですか?」
「え……と、まあ……」
「なんだ、伯爵じゃないのか。ならじゃますんな」
ケルピーはポールを押しのけ、リディアの腕を引く。
「それよりリディア、月をみつけたんだ。これでおまえは俺のものだな」
[#挿絵(img/moonstone_069.jpg)入る]
は? と口を開けたリディアは、ニコが背後《はいご》でスカートを引っぱるのに気がついた。
そうだ。マリーゴールドの〝月〟を奪ったのがこいつだと言っていた。
何があっても受け取ってはだめだと、リディアは彼の手を払いのける。
「バカ言わないで。お月さまは空にかかってるわよ」
「まあ見てみろよ。本当にちゃんと満ち欠けする月なんだって」
彼が開いた手のひらには、乳白色《にゅうはくしょく》の石のついた指輪があったが、リディアは目をそらす。
「けっこうよ。本物のはずないもの」
「いいから受け取れ」
「いやよ!」
ケルピーはむりやり、リディアの手にそれをはめようとした。
「いらないって言ってるでしょ!」
「やめなさい、きみ……」
リディアをかばおうとしたポールと、ケルピーはもみ合う。
「じゃまだって言ってんだよ、この」
「彼女はいやがってるじゃないか」
「うるせえっ! ……あっ」
と言って急にケルピーは動きを止めた。
え? とポールが怪訝《けげん》そうに持ちあげた手に、指輪がすっぽりはまっている。
「おい、なにしゃがんだ、おまえなんかに俺は興味ないぞ! 返せよ!」
「……抜けないんですけど」
「はあ? ならその指|噛《か》みちぎってやる」
「ええっ!」
「もう、やめて!」
リディアは必死でケルピーを押しとどめる。
しかしもうすでに、収拾《しゅうしゅう》がつかなくなっていた。騒ぎに気づいた客たちが、バルコニーを取り巻くように集まってきていたからだ。
「いったい、何事だい?」
エドガーだった。リディアのそばまでやって来ると、ポールの胸ぐらをつかんでいるケルピーを見た。
「僕の大切な客を離してくれないか」
伯爵、と怯《おび》えた声を出すポールを放り出し、ケルピーはエドガーに向き直った。
「おまえが青騎士伯爵か」
「リディア、こちらは?」
わざわざリディアに訊《たず》ねるのは、紹介者がいない人物とはまともに話すつもりはないという、貴族らしく相手を見下《みくだ》した態度だ。
でもたぶん、ケルピーには通じていない。
「俺さまはな、悪魔も怖《おそ》れるケ……」
リディアはケルピーの脇腹《わきばら》に、おもいきり肘《ひじ》を入れていた。彼が声を詰まらせた隙《すき》に口をはさむ。
「ケ……、ケ、ケインよ!」
水棲馬《ケルピー》だなんて、この衆人環視《しゅうじんかんし》の場で言われたら大混乱になりそうではないか。
「で、ケイン君、僕にご用件でも?」
「用? ああ、こいつをスコットランドへ連れ帰るために来たんだ。イングランドのゴミだめにとどめるなんて、ひでーことするぜ」
「そうだねえ、ここには捨てるほど物があまってるけど、きみの故郷じゃ捨てたゴミもすぐ誰かが拾って使うのだろうね」
これはケルピーも、バカにされたと気づいたらしい。
「なんだと、この……!」
頑丈《がんじょう》そうな腕が、エドガーの首をわしづかみにしようとのばされる。
しかしエドガーは平然として、よけようとしないままだ。寸前《すんぜん》で、ケルピーの腕を止めたのはレイヴンだった。
小柄で童顔な東洋の少年、けれど猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭い瞳でケルピーをにらむ。獰猛《どうもう》な水棲馬の力を、力で押し戻す。
「は、さすがは青騎士|伯爵《はくしゃく》だ。とんでもないものを従者にしてるな」
レイヴンの中にいるという殺戮《さつりく》の精霊が、ケルピーには見えるのだろうか。
黒|真珠《しんじゅ》の目を細め、彼はあとずさった。
「陸地じゃ分が悪い。リディア、またな」
そのままケルピーは、しなやかに体をくねらせ、バルコニーから下方へ飛んだ。
人々が驚きの声をあげる中、噴水の池へまっすぐ飛び込む。
ごく浅いはずの池の中へすっかり沈んでいったと思うと、漆黒《しっこく》の馬の姿になって再び浮かびあがり、雨のように激しく水滴《すいてき》をまき散らしながら嘶《いなな》いて、そして消えた。
舞踏《ぶとう》会の客たちは、あまりのことにしんと静まりかえっていた。
どうすんのよ、とリディアはバルコニーの手すりから下方を見おろしたまま、怖くて顔があげられない。
硬直したまま彼女は、すぐ近くでエドガーが深呼吸する気配《けはい》を感じていた。
「あの、エドガー……」
「いいから、きみは微笑《ほほえ》んでいて」
そして彼は、みんなの方に振り返った。
「紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》のみなさん、お騒がせしました。当家の舞踏会には、妖精たちも紛《まぎ》れ込んでいるようです。あなたのダンスのお相手に、角や羽を見つけましたなら、彼らの国へ連れ去られぬようどうぞお気をつけて」
にっこりと彼が微笑めば、どよめきとともに拍手が起こる。
なんてすてきな演出、とリディアの耳に客たちの言葉が届く。
いったいどういう仕掛《しかけ》なんでしょうな?
あの黒髪の男性はサーカスの方?
それとも手品師では?
でも、伯爵は妖精国の領主ですもの、あんがい本物の妖精だったのかもしれませんわよ。
口々に、そんなふうに話しながら、音楽の響きわたる広間へ再び人々が戻っていくと、何事もなかったかのように舞踏会の時間は動き出していた。
「ポール、怪我《けが》は?」
エドガーに声をかけられ、彼はようやく我に返り、姿勢を正した。ケルピーにつかまれたせいで乱れたネクタイを直しながら、首を横に振る。
「いえ、大丈夫です……」
「すまなかったね、不愉快《ふゆかい》な思いをさせて」
そして彼は、リディアの方を見た。
「踊ろう」
すでにエドガーも、何事もなかったかのように、彼女の方に手を差し出す。
「約束してただろ」
「え、ええ……」
まだ事態がのみこめないらしくもの言いたげなポールの前を通り抜け、「がんばれよ」とニコに見送られながら、リディアは広間へと進み入った。
ちょうどポルカの一曲が終わったところで、エドガーに連れられてリディアがフロアへ入っていくと、同じ薔薇《ばら》の花をつけた少女に視線が集まるのは、見回すまでもなく感じていた。
「次はワルツだよ」
いきなりワルツ、難関だ。
「エドガー、やっぱりやめたほうが……」
「ポールとは踊っても、僕はだめなのか?」
ちゃんと気づいていたようだ。
「そんなんじゃないわよ。あなたに恥《はじ》をかかせちゃうかもしれないから。せっかくさっきはうまく切り抜けたのに、またあたしのせいで……」
覗《のぞ》き込むように、アッシュモーヴの瞳がリディアを見つめた。何を言うのかと少し怒っているかのようだった。
「きみが僕の恥になるはずないじゃないか」
手を重ね、腰に腕をまわすのはワルツの最初の音を待つため。けれどほかのカップルにくらべて、近づきすぎてないかしらとリディアは気にする。
少し下がろうとしても、彼は腕の力をゆるめてくれない。
「……あんまり近いと、足を踏むわよ」
「いいよ」
「ぶつかって無様《ぶざま》に倒れるかも」
「ちゃんと受けとめるから大丈夫だ」
「あたしのダンス、凶器か拷問《ごうもん》みたいだって、レイヴンに聞いてないの?」
「やわらかくていい香りがしたって」
「は」
「僕にも体当たりでぶつかってきてほしいくらいだ」
「……レイヴンがそんなこと言うはずないじゃない」
「うん、僕の想像。今夜のきみは、フリージアの香り」
赤くなるリディアに、いつもならからかうように笑う彼だが、いまはやけに艶《つや》っぽい眼差《まなざ》しを向ける。
つながれた手も寄せ合った体も、ダンスのためではなく、リディアにはまだ想像するのもむずかしいあまい時を、ふたりで過ごすための前触れのよう。
一瞬、しんと静まったホールに、ヴァイオリンのワンフレーズが響く。
合図のように、エドガーがリディアの体を引き寄せると、最初のステップはすんなりと踏み出せる。
続くヴィオラの音色《ねいろ》に寄りかかるように、自然に体が動いていくのを、リディアは自分でも驚いていた。
エドガーが、巧《たく》みにリディアを連れていくからだ。
呼吸が合うという感覚。音楽と彼と、自分自身がぴったり重なって、ひとつになったかのようだった。
「上手じゃないか」
「……そんなはずないのよ。あなたが上手だからだわ」
深く背中をかかえ込まれながらくるりと回る。それはそれは華やかに、ドレスのすそをゆらしながら、なめらかに舞ったことだろうと自分でも不思議なほどだった。
「リディア、僕たちはこんなふうに、いつでもとてもうまく補い合える。そう思わないか?」
耳に唇《くちびる》が触れそうな距離で、彼がささやく。
さらさらした金色の髪を、リディアは目の前に感じ、不本意にも鼓動《こどう》が高鳴る。
でもこれは、彼女の練習の成果ではなく、エドガーの技術だ。パートナーが誰だろうと、うっとりするほど美しく見せることができる。
周囲も、目の前の女の子も、そうして彼から目が離せなくなると知っている。
「今度は何をたくらんでるの?」
だって彼があまい言葉をささやくのは、半分はうまくリディアを扱うためだ。それはさすがに学習した。
あとの半分は、単なる彼の性分《しょうぶん》。
そうであるはずなのに、彼は不本意そうに黙り込んだ。
ぐいと体を引かれる。大きなターンをくり返すから、リディアは目がまわりそうだ。
さっきまでのリードとは違う、ずいぶん強引なダンス。ついていくのがやっと、足がもつれそうだと思ったとき、エドガーは唐突《とうとつ》に踊るのをやめた。
広間から続く温室の奥へ、いつのまにか入り込んでいた。
音楽は聞こえてくるが、ホールの熱気も騒がしさも、茂る植物にさえぎられてか、ここは静かに感じられる。心なしか空気もさわやかだ。
通路にぽつぽつと置かれたランプと、ガラス天井から透《す》けて見える月明かりは、煌々《こうこう》とシャンデリアにてらされていた室内とはちがって、落ち着いた気分にさせてくれた。
「少し休もうか」
かけっこでもしたみたいに、息が上がっていた。南国の香りがする空気を吸い込み、リディアは呼吸を整える。
彼女をベンチに座らせたエドガーは、立ったままじっと見おろしている。着慣れないドレスの胸元が気になってしまう。
「ドレス、よく似合ってるよ。シフォンケーキのようだね」
「それって、ほめてるの?」
「うん、とてもおいしそうだ」
いつものふざけたせりふに、どう突っ込んでやろうかしらと考えている間に、エドガーだけはキャラメル色と表現するリディアの赤茶の髪を、彼はすくい取って口づけた。
「月が見てるから、キャラメルだけでがまんしよう」
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳の色が、情熱の赤を秘めて見えるのは、ネクタイをとめる大きなルビーのせいかもしれない。
なのにふと、彼の心の色を映しているように思えて、くらくらする。
「きれいだよ、リディア」
平静を保とうと、リディアは深呼吸した。
「……今夜だけで何人にそう言ったの」
「二十人くらいかな」
やっぱりね。
「でもきみがいちばんきれいだ。これは誰にも言ってないよ」
そんなわけないでしょう。
信じてないという口調で、「はいはい」とあしらっておくと、エドガーは少し肩をすくめ、大きな木にもたれかかった。
「さっきの黒髪巻き毛、本物の妖精?」
「そうよ」
「きみを連れ戻しに来たと言っていたね」
リディアは気まずく感じ、口をつぐむ。
勘《かん》のいいエドガーだから、きっと気づいたのだろう。
「きみにプロポーズした奴か」
まさかケルピーがここへ来るとは思わなかったけれど、あんな話するんじゃなかった。
ケルピーとのいざこざに、エドガーがからんできたら、とんでもなくやっかいなことになりそうだ。
「だからプロポーズじゃなくて、自分の近くに置いておきたいってだけの感覚なのよ」
「きみに恋してるわけじゃないってこと?」
「ええ、そう」
「でも僕としては、心|穏《おだ》やかじゃない」
「あなただって、あたしに恋してるわけじゃないわ」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、そう思うもの」
エドガーはいつになく、深刻そうに考え込んだ。
「ミスター・ケイン、だったっけ? ギリシャ彫刻みたいに容姿《ようし》端麗《たんれい》だ。まあ僕と互角《ごかく》としよう」
自分の容貌《ようぼう》を謙遜《けんそん》する気はないらしい。
「腕力は負けるかもね。でも彼には、知性も品も財産も地位もない。たいていの女性なら、賢明に僕を選ぶだろう。でもきみは、そういう種類の女の子じゃない」
「……バカバカしいわ」
「そう、バカバカしいことだ。だけどしようもないことを引き合いに比較して、勝ち負けを考えてしまうのは、恋じゃないのかな」
どきりとさせられながらも、リディアは否定しようと言葉を探した。
「違うわ、いつでもあなたは、いちばん注目されていたいの」
「気がかりはそれだけじゃない。ポールはいかにもきみが好みそうなタイプだ。平凡な容姿、平凡な印象、平凡な存在感。人のよさそうなところだけが取《と》り柄《え》。世渡りがへたで女の子にもいまいちモテない、どこか間が抜けてても正直に生きていて、そのうえ画家としての夢を追い求めている。夢を追う男、ああどういうわけか、女の子はそういうのに弱いんだ。貧乏で苦労しても支え合って慎《つつ》ましく暮らして、彼の夢をかなえてあげたい、とかいうのがきみの理想だろ?」
「勝手に決めないで。ていうか、人のことめちゃくちゃに言い過ぎよ」
「でもね、リディア、芸術家ってのは純粋に見えて偏屈《へんくつ》が多いんだよ。苦労させられるよ」
「彼とは会ったばかりよ、そんなんじゃないの。それにエドガー、恋におちるかどうかは条件じゃないと思うわ」
「知ってる、恋は理屈でするものじゃない。だから今、僕はとても不安だ。今夜はずっと、きみがポールと楽しそうにしてるのを見たときから胸騒ぎがして落ち着かない。妖精が現れて、さらに動揺してる。この不安な気持ちは、恋じゃないのかな」
リディアが口ごもれば、エドガーはさらにたたみかける。
「僕の言葉を信用してくれないのは、しかたがないよね。もと強盗の犯罪者に気を許すつもりはないってことなんだろうけど、恋は理屈じゃないからこそ、希望も持ってる。ずうずうしいと思われようが、思いを告げる権利はあるだろう?」
よどみなく、すらすらと出てくる言葉のどこを信じればいいというのか。
やっぱりリディアには、エドガーはゲームを楽しんでいるように見える。
たぶん、悪意のないゲーム。
お互い本気になるはずもない既婚者《きこんしゃ》と恋の駆け引きを楽しむのは貴族の流儀《りゅうぎ》だという。
必ず退《ひ》くとわかっているリディアを口説《くど》くのは、それに似ている。
好意を持たれていると感じるのは、心地のいいものだし、お互いとても親しくなったように感じていればトラブルもない。
リディアは独身だけれど、エドガーの過去を少しばかり知っているから、本気で彼にのめり込んだりしないと思っているはずだ。
それはそれでいい。ときどきおだててくれれば、リディアだって悪い気はしないし、気持ちよく伯爵《はくしゃく》家のために仕事ができる。エドガーに親しみを感じることもできる。
でも、行きすぎた口説き言葉は困る。
貴族の奥方ではないリディアには、刺激が強すぎる。混乱させられるだけだ。
「もうやめましょう。あたし、あなたと恋愛ゲームをするつもりはないから」
「ゲーム?」
心外だとでも言いたげに眉《まゆ》をひそめたが、それも決まりきった駆け引きの手ではないのだろうか。
「とにかく、やめてほしいの! うわべだけの言葉は」
うつむいて、思いがけず強く言ってしまった自分に驚いた。
ムキになってバカみたい。そう思う一方で、これ以上恋だの何だのとささやかれることが、本当に怖くなっていた。
リディアのことを好きだと、はじめて告白めいた手紙をもらった昔のことを思い出す。バースデイパーティに来てほしいと書いてあった。
近所だったし、親どうしが親しくてお茶会に招かれたこともある家だった。その子とは、ふたりのときはふつうに楽しく遊んだ。ちょっとした悩みをうち明けられることもあったが、ほかに友達がいると彼は、リディアに話しかけようとはしなかった。たぶん、変わり者の少女と仲良くしていると、友達にからかわれたくなかったのだろう。
そんな微妙なつきあいだったから、手紙の内容は不審《ふしん》に思った。迷って、結局パーティには出かけていった。けれど、たくさん友達が来ている場所で、彼はリディアに一度も声をかけなかった。
いつもならふつうのこと、なのにそのときは、どうしてこちらを見ないのかと、リディアは少し腹が立った。
だから近づいていって、話しかけると、彼は困ったような怒ったような顔になった。
『あれ、うそだから』
友達とのゲームに負けて、うその手紙を書かされたのだと開き、やっぱりおかしいと思った、とだけ感じた彼女は、それほどすごく傷ついたという記憶はない。
ただ、おかしいと思ったのだから、声をかけずに帰るべきだったと後悔した。
たぶん、パーティに招かれただけならそうしただろう。いたずらの告白めいた手紙のせいで、それもあまり信じていなかったのに、いつもの距離を誤った自分にあきれた。
でも今、そんなことを思い出して、ふと怖くなっているのはどういうことなのだろう。
「気を悪くしたならあやまるよ。でも」
エドガーの声に、現実に引き戻されながら、うつむいたままのリディアは、ひざの上に置いた手を、ぽつりと濡《ぬ》らすしずくに気がついた。
あれ? なに泣いて……。
「リディア、どうかした?」
わけがわからなくなり、リディアはあわてて立ちあがる。
「なんでもないの! あ、あたし、のどが渇いたから飲み物もらってくるわ!」
気づかれたかしら。どうか気づいてませんように。
祈りながらリディアは、父のいる談話室へ駆け込んだ。
[#改ページ]
朱《あか》い月、白い月
『伯爵《はくしゃく》を騙《かた》るニセ者、きさまに青騎士伯爵を名乗る資格がないことは知っている。すみやかに宝剣を放棄《ほうき》しろ。さもなくば、きさまの命も宝剣とともにいただく』
そう書かれた手紙には、もちろん署名はなく、封筒《ふうとう》には赤いインクで、三日月《みかづき》を描いたマークだけがあった。
「ふざけた手紙だ」
エドガーはそれをかたわらに投げ出し、ティーカップに手をのばした。
起き抜けに不愉快《ふゆかい》な気分にさせられた。
ゆうべの舞踏《ぶとう》会は夜中まで続き、眠ったのは明け方、そして目覚めた時間はすでに昼前だが、夜会《やかい》に明け暮れる貴族の生活習慣といえばこんなものだ。
そんな主人が起き出すのを、辛抱《しんぼう》強く待っていたらしい執事《しつじ》が、青くなって持ち込んだ手紙は、ゆうべのうちに裏口から投げ込まれたものだという。誰もが忙しくしていたので、気づいたのが今朝《けさ》だったというわけだ。
「旦那《だんな》さま、どういたしましょう。警察に相談いたしますか?」
宝剣は、この伯爵家の当主であることを証明するもの。
エドガーをニセ伯爵と断言し、宝剣をよこせという差出人は、どう考えても先日、レイヴンをねらって『プリンスの犬』と言い放った男と関係があるのだろう。
「そうだなあ、この間の、指を忘れていった先生のことも、警察は何ひとつつかめないままなんだろう? どのみち今のところ、警備を厳重にするしかできることはなさそうだ」
「それは問題ございませんが」
「ならあとは、こっちでどうにかする」
「わかりました」と答える執事は、得体の知れない連中に対し、何をどうするのかとは訊《き》かない。エドガーの過去におだやかでない組織とのかかわりを感じていても、けっして問わない。
妖精の領民を持っていた青騎士伯爵家は、その昔、メロウの血を引くという不思議な人々を教会の厳しい弾圧から守ってきたという。
トムキンスもその一族だ。伯爵家にゆるぎない忠誠心を見せる。
代々の青騎士伯爵は、よほど彼らにとって信頼された主人だったのだろうと思うと、エドガーは少しもうしわけないような気分になった。
伯爵の地位を手に入れたのは、もちろん利用価値があるからだ。けれどこの名を穢《けが》すつもりなどない。
ニセ者だろうと、本物以上になるしかないし、この家を守るべき責任があるのだと意識もしている。
こんな脅《おど》しに、いちいちひるんでなどいられない。
「ですが旦那さま、宝剣よりもご自身を危険にさらされませんように……」
「心配してくれるのか?」
「まだお世継《よつ》ぎがいらっしゃいません」
何百年もの当主の不在は、後継者《こうけいしゃ》の存在が不明のままだったから、伯爵家は廃《はい》されずに残されてきた。しかしエドガーに何かあると、血が絶えたと判断されるかもしれない。
「そうか。そういう仕事もあったな。トムキンス、おまえを早く安心させてやりたいけど、未来の奥さま候補には嫌われたかもしれない」
「大丈夫ですよ旦那さま、奥さまに嫌われているご主人はいくらでもおります」
「……なるほど、勇気づけられるよ」
苦笑するエドガーの前に、ていねいにしわを伸ばした新聞を置き、執事は立ち去る。入れかわりにレイヴンが姿を見せた。
「レイヴン、〝|朱い月《スカーレットムーン》〟とかいう結社が、調べていた裏組織の中にあったような気がするが」
「はい。はっきりとそう名乗っているわけではありませんが、義賊団《ぎぞくだん》です。下町では有名らしく、セントジャイルズやサザックに金貨がばらまかれた事件は彼らの仕業《しわざ》だという噂《うわさ》ですし、イーストエンドの家々に、やはり貨幣《かへい》が投げ込まれたりしています。一部の硬貨に、赤いインクで月が描かれていたとか」
「義賊団、てことは、金貨はどこかから盗まれたんだな?」
「盗むときは、朱い月を名乗るわけでもないようなので、はっきりとはしていません。でもばらまかれた金貨が自分のところから盗まれたものだと主張している資産家はいます」
メモを見ながら、レイヴンはそういった資産家や会社の名前をいくつか挙げた。
エドガーにおぼえのある名もあった。
「プリンスの資金源だ」
「はい」
裾野《すその》で金貨を少しばかりくすねられたところで、富を積み上げたピラミッドの頂点にいるプリンスにダメージがあるかというと疑問だが、彼らがプリンスを標的に、地味な活動をしている可能性はある。
それが今回の、エドガーへの攻撃につながっているのだろうか。
「これまでに彼らが、人を殺したことは?」
「記事になるような事件としてはありません」
「義賊というからには、殺人はイメージダウンになるからね」
なのに、先日の奇襲《きしゅう》といいこの脅迫状《きょうはくじょう》といい、殺す気満々だ。それも、伯爵家の宝剣をよこせという。
あれは金に替えられる代物《しろもの》ではなく、盗んだって処分に困るだけだろう。むしろこの青騎士伯爵という名前に執着《しゅうちゃく》があるかのようだ。
ニセ者で、しかもプリンスの手先だと彼らが考えているエドガーに、これ以上伯爵を名乗らせておきたくないとでもいうような。
「なぜ、〝朱い月〟なんだろうな……」
月。
お月さまをくれるなら、という呪文《じゅもん》。
青騎士伯爵が妖精女王と交わした約束。
なんだか月に呪われているかのようだ。
そういえばゆうべ、月の指輪がどうこうと、マリーゴールドが騒いでいなかったか。
その件はリディアに話してくれと、エドガーは言ったような気がする。
マリーゴールド、ゆうべのあの少女は、小さくて半透明の羽根がはえていたような……。
ニコの頭の上にのって。
ニコ、そう、あの猫ときたら、えらそうに腰に手をあてて説教めいたことを言うのだ。
リディアになにしやがったと。
何もしていないじゃないか。
それより、飲み過ぎていたようだ。猫がしゃべるはずはない。
いや、あいつはときどき、人の言葉がわかっているようじゃないか?
「レイヴン、リディアは来てるのか?」
「まだですが」
「……来るかな」
「いつものようにニコさんが、仕事部屋でお茶を飲んでいらっしゃいましたから、そろそろ来られるのでは」
ああお茶を。紅茶好きの猫だ。しかし執事もレイヴンも、あたりまえのように奴にお茶を出す。
「そういえばレイヴン、不思議に思ってたんだが、どうして猫に|さん《ミスター》を付けるんだ?」
「彼は、猫なんですか?」
悩んだように聞き返す。
「猫じゃないのか?」
「エドガーさまがときどき話しかけていらっしゃいますので、違うのかと思ってました」
あらためて考えると、エドガーも悩む。
「なんとなく、会話が成立してるような気がすることもあるんだけど。だいたい、カップを持ちあげて紅茶を飲むなんて器用なことをするからな……」
まあいいか。
リディアと知り合ってから、彼女の不思議な現実が、エドガーの方にも侵食《しんしょく》してきている。
ゆうべだって、漆黒《しっこく》の馬が噴水《ふんすい》の池に消えた。
そうだあの馬が、リディアにプロポーズした妖精なのだ。
馬に負けたくはないなと思う。
「それからエドガーさま、ポール・ファーマン氏がいらっしゃっています」
「ポール? 約束していないけど」
「何時間でも待つとおっしゃってます。すでに二時間待っていらっしゃいますが」
ため息をつきつつ、エドガーは身支度《みじたく》をするために立ちあがった。
「ならもうしばらく待てるだろう」
*
メイフェアの伯爵邸《パレス》へ、ようやく出勤してきたリディアは、執事とあわただしいあいさつだけして仕事部屋に駆け込んだ。
エドガーと、どんな顔をして会えばいいのかわからないから、今日はここにこもっていようと思う。
じつのところリディアは、舞踏《ぶとう》会でのあれからのことをよくおぼえていない。
やけになってパンチ酒を二、三杯飲んだら、なんだかどうでもよくなった。
父によると、やけに陽気にしゃべったり踊ったりしていたらしいが、舞踏会も深夜になるほど、みんな酔っぱらってくるだけに、礼儀や作法《さほう》や堅苦《かたくる》しいところが抜けていってバカ騒ぎになってくる。
だからリディアが酔っぱらっていても、目立つほどでもなかったようだが、粗相《そそう》がないうちにと父が連れ帰ってくれたらしかった。
気持ちを切りかえ、仕事をしようと、フェアリードクター宛に届いたばかりの手紙を手に取る。
しかし仕事に没頭《ぼっとう》できる状況ではなかった。少女の姿のマリーゴールドが、部屋へ飛び込んできたのだ。
「リディアさん、ああお待ちしてましたわ。早くご相談したくて……。伯爵《はくしゃく》は、妖精のことはすべてリディアさんに任せてるとおっしゃいますし、でもゆうべは、リディアさんしらふじゃなかったものですから、明日まで待ってとニコさんに言われて」
「……いったいどうしたの?」
「女王さまの〝月〟が、あの方の指からはずれないんです。あれは伯爵に、女王さまの夫となる方に贈るためのものですのに」
そういえば忘れていた。ケルピーがマリーゴールドから盗み、リディアに渡そうとしたが、あやまってポールが受け取ってしまったのだった。
ということは、〝月〟の指輪をはめているポールは、妖精女王との月の約束に縛《しば》られていることになる。
もし妖精女王が、伯爵の代わりとして彼をほしがったら、指輪を彼が持っている限り、妖精の国へ連れ去られてしまうのを止めるのは難しいだろう。
「このままじゃあの方に、女王さまと結婚していただくしかなくなってしまいます」