「まあ待って、マリーゴールド。指輪をはずせばいいんでしょう?」
言いながらもリディアは、そうなったら今度はエドガーに、〝月〟を受け取れというマリーゴールドの攻撃が始まるだろうことを考えていた。
受け取らなければいい。彼女にはケルピーみたいな力業《ちからわざ》はできないだろう。
でも、女性にあまいエドガーが、何かの間違いで受け取ってしまうかもしれない。
どうすればいいのかと考え込んでいたので、ノックの音がしたとき、つい「どうぞ」と言ってしまっていた。
「おはよう、リディア」
エドガーの顔を見たとたん、リディアは顔が熱くなるのを感じ、あわててうつむく。開いた手紙を読んでいるふりで顔を隠す。
「……何かしら? 今ちょっと忙しいんだけど」
「手紙、逆さまだよ」
うろたえるリディアの手から、さっと手紙を抜き取って、真上から彼女を見おろす。
「ポールが来てる。どうやら彼を助けるのはきみの仕事のようだ」
くどいほどのおだて言葉もご機嫌取りもなしに、本題を告げるなんてめずらしい。
リディアは拍子抜けしながらも、ほっとして、ようやく顔をあげることができた。
昨日のことを話題にされたら、自分がどんな反応をしてしまうかわからないと不安に思っていたところだ。
この様子なら、エドガーはリディアの気持ちの乱れになど気づいていないのかもしれない。
「あ、そ、そう。今マリーゴールドとも彼のことを話してたの」
「指輪を返せと、下宿《げしゅく》に押しかけられたそうだよ」
「え、誰に?」
「たぶん、ケイン君に」
あ、あのケルピー、しつこいったら!
「馬の姿で襲《おそ》いかかられそうになって、枕元《まくらもと》の聖書を投げつけたら消えた、という夢を見たそうだ」
「夢じゃないわよ、たぶん」
「ともかく馬は、返すまで何度でも来ると言ったので、ファーマン君は、指輪のせいで悪夢を見続けてはたまらないと思っている。きっとこの指輪は呪われていると。それでまあ、昨日のケイン君はきみや僕を訪ねてきたようだったからと、ここへ相談に来たんだ。呼んでもいいかな?」
「ええもちろん。あの方を巻き込んでしまったのは、あたしの責任だわ」
ややあって、レイヴンが案内してきたポール・ファーマンは、憔悴《しょうすい》した様子だった。
立ちあがって、リディアは彼を迎える。
「ごめんなさい、ポールさん。昨日はあたしを助けてくださったのに、面倒なことになってしまったみたいで」
「いえ、あなたに何事もなくてよかった。……でも、ぼくには何がなんだわかりません。妖精の仕業《しわざ》だとか、伯爵はおっしゃいますし」
妖精画家でもやはり、本物の妖精と接したなどとは、にわかには信じがたいようだった。
エドガーに促《うなが》され、彼は椅子《いす》に腰をおろす。
リディアも座り、まずは指輪を見せてもらうことにした。
彼の右手の中指に、きっちりおさまっている。絵の具が染《し》みついた、筆を握るためのたこがある、意外にしっかりした画家の手だ。
「ムーンストーンだね」
エドガーが言うように、大粒の月長石だった。光沢《こうたく》のある乳白色の宝石。半透明のその内側に浮かびあがる光が、まるで三日月《みかづき》のように見える。
「マリーゴールド、このムーンストーンが本物の月みたいに満ち欠けするっていうの?」
「はい。内側の光の幅が変わります。満月の夜には大きく広がり、新月の夜はかすかに細く」
そう言ってから、彼女は黄金《こがね》色の羽根を震《ふる》わせ、訂正した。
「いえ、それが本物の月なのですから」
少女の姿になっているのに、羽根を隠し忘れている。
しかしエドガーもポールも、気づかないのかそれどころではないのか指摘することもないまま、指輪に注目していた。
「それは毎日眺めていても飽きないだろうね。ポール、考えようによっては、きみは幸運だ」
まるきり他人《ひと》ごとな発言だ。
「そんなわけないじゃないですか」
「で、どうしてはずれないんだ?」
「ケルピーがむりやりはめたせいね。リングの部分がゆがんで、指にくい込んでるの」
リディアが答えた。
「ケルピー?」
「えっと、ケインは水棲馬《ケルピー》なの」
ふうん、と言うエドガーは、水棲馬をよく知らないらしい。
「ケ、ケルピーなんですか! 人を喰《く》うっていう、あの……?」
さすがに妖精画家は悲鳴に近い声をあげた。が、エドガーは淡々《たんたん》と受けとめる。
「人喰い馬なのか」
「家畜なんかも食べるけど、肝臓《かんぞう》だけは必ず岸辺に残していくのよ」
「損な嗜好《しこう》だな。フォアグラなんか絶品なのに」
「それよりぼくは、どうしたら……」
それてしまいそうな話を、ポールは必死にもとへもどす。
「とにかく指輪をはずしましょう」
「色々やってみたけど無理なんです。石鹸《せっけん》や油を使っても」
「リングを切るしかないんじゃないか? 慎重《しんちょう》にやれば、きみの大切な手を傷つけずにすむだろう」
「それはだめです! 女王さまの指輪に傷をつけたりしたら、わたし、もう帰れません」
マリーゴールドが泣き出した。
「それはかわいそうだ。もっと別の方法を考えよう」
[#挿絵(img/moonstone_099.jpg)入る]
エドガーはあっさり彼女のかたを持った。
「別の方法って、あるの?」
「指が細くなれば抜けるだろう? ポールに痩《や》せてもらえばいい」
痩せるといったって、彼はべつに太ってもいない。
「一週間くらい食べなければ抜けるんじゃないか?」
「い……一週間もですか?」
「それでも抜けなかったらもう一週間」
「死んでしまいます……」
ポールはもう泣きそうだった。
「大丈夫、骨と皮になってもかなり生きているものだよ」
冗談ぼくではなく、歴然とした事実のようにエドガーは言うのだから、ポールはまるで刑の執行《しっこう》を言い渡された囚人《しゅうじん》のように肩を落とした。
「ケルピーの方は、あたしが言い聞かせます。聖書や十字架も、万全《ばんぜん》じゃないけど身につけておくといいと思うわ」
「ありがとう、リディアさん……」
とりあえず落ち着いたと思ったそのとき、窓辺にニコが姿を見せた。
「おいリディア、また客だぞ」
ニコの背後《はいご》に、ちらりと薄い羽根が見えたと思うと、窓辺に小さな女の子が降り立つ。
「スイートピーさま!」
とマリーゴールドが駆《か》け寄った。
「マリーゴールド、なかなか帰ってこないと思ったら、何をしているの? 女王さまのお使いもまともにできないなんて」
「す、すみません。それがその……」
スイートピーと呼ばれた妖精は、なるほど、淡いピンクのドレス姿だった。マリーゴールドより位《くらい》が高い様子だが、どちらも同じ年頃の童女に見えるので、ふたりのやりとりは人の目には奇妙に映る。
「なんですって? 女王さまの指輪が、伯爵《はくしゃく》ではない別の男の手に?」
くらりと倒れそうになるスイートピーを、マリーゴールドはあわててささえた。
リディアはひそかにニコをにらむ。
「どうして面倒な妖精を連れてくるのよ」
「んなこと言ったって、道を聞かれたんだよ」
「どうしてしょっちゅう道を聞かれるの?」
「さあ、屋根の上で昼寝してただけなんだけどな」
どうせ片ひじを枕《まくら》に足なんか組んだりして、およそ猫らしくない気取ったかっこうで寝そべっていたのだ。空を飛ぶ者からすれば、目立つことこの上ない。ひとめで妖精族だと気づくだろう。
「しかたがないわ。女王さまにはこの方と結婚していただきましょう」
スイートピーが、気を取り直して決意するのは早かった。さっとポールの上着をつかむ。
リディアが怖《おそ》れていたのはこれだ。
「ちょっと待って、女王の夫が誰でもいいっていうの?」
「わたくしたち、女王さまの結婚を待ちくたびれているんです。どうしても伯爵をとおっしゃって、〝月〟を手に入れるためにどれほど苦労したか。もうこれ以上待てません。わたくしたち一族の繁栄のために、できるだけ早く結婚していただかないと。ですからこの方を、伯爵ということにして連れ帰りたいと思います」
そんな乱暴な。
しかしスイートピーは本気らしかった。
部屋を見まわした彼女は、エドガーの方に進み出た。
「伯爵、突然おじゃましてもうしわけありません。わたくしは女王の侍女《じじょ》、スイートピーともうします」
「ああ。よろしく」
なんだかよくわからない、といった様子ながら、エドガーは少女に極上《ごくじょう》の微笑《ほほえ》みを向ける。
「本当ならあなたさまを、わたくしたちの国へご案内するはずだったのですが、主人は指輪を身につけた人物と結婚すると決めてしまいましたゆえ、今回はご容赦《ようしゃ》くださいませ」
「それは気にしてないけどね」
「またの機会に、あらためてお迎えにあがります」
「またの機会?」
「ええ、人の命は短《みじこ》うございますから、主人もまた結婚をする必要がでてくるでしょう」
「ああそう。そのころ伯爵はもう僕じゃないだろうけど。それより今の問題は、彼は僕が目をかけている画家なんだ。いなくなっては困るんだが」
いちおうエドガーは、ポールを見放すつもりはないようだった。
リディアは少し意外に思った。エドガーはお人好しではない。彼に絵の才能を見たとしても、これで妖精を追い払えるなら見捨ててしまうくらいどうってことはない人だと思っていた。
まだ知り合って間《ま》がないはずだし、女性じゃないし、画家という才能がエドガーにとってものすごく利用価値があるとも思えない。
よほど人柄が気に入ってるのかしら。
「では何かと取り換えましょう」
「だめよ、取り引きはなし!」
妖精との取り引きはまずいと、リディアはあわてて口をはさんだ。
「でしたら、わたくしたちを止める権利はありません。連れていきます」
マリーゴールドと違って、頑固《がんこ》なスイートピーだった。
「バカを言うな、その〝月〟は俺のもんだ。俺がリディアに贈るつもりなんだから勝手なことするな」
もう、なんでまた現れるのよ。
うんざりしながら振り返ると、黒髪巻き毛の青年が窓から入ってくるところだった。
「おい、チビ妖精ども、消え失せろ。でないと喰《く》ってやるからな!」
きゃあ、と悲鳴をあげたスイートピーとマリーゴールドは、両側からポールにしがみつく。
「あなた、今すぐわたくしたちと行くと言ってください。でないとこの、あくどい妖精の餌食《えじき》にされてしまいますわ!」
ケルピーに怯《おび》えながらも、ポールを誘おうとする。
「てめーら、気高《けだか》き水棲馬をバカにすんなよ!」
収拾《しゅうしゅう》がつかなくなっていた。リディアは頭にきて声をあげる。
「いいかげんにしてちょうだい! この人に近づいたら、フェアリードクターのあたしが許しませんから! いい? ケルピーもマリーゴールドもスイートピーも、あたしと勝負してからになさい!」
肩で息をしながら言いきると、ようやく誰もが静まりかえった。
*
半人前のフェアリードクターでも、妖精たちにその啖呵《たんか》は、効き目があったのだろうか。
ふたりの少女は、おとなしく、指輪がはずれるのを待つと約束した。
ケルピーはというと、リディアのことなどみじんも怖れていないが、野原の妖精が手出しをしないなら、これも指輪がはずれるまで待ってやってもいいということになった。
野原の小妖精は善良だからいいとして、ケルピーの方は、待つとしてもポールにいやがらせをしないとも限らない。
リディアはエドガーに、指輪が取れるまでポールを伯爵邸に泊めてやれないかと相談した。
人魚《メロウ》の宝剣がある伯爵邸は、いわばメロウの縄張《なわば》り。水棲馬の好き勝手にはしにくい場所だ。
快諾《かいだく》したエドガーは、ついでだからとポールに、屋敷を飾る絵を一枚描いてみないかと依頼したのだった。
「ポールさん、そっちはだめです。あまり川に近づかない方がいいわ」
スケッチブックをかかえて、林の道をそれようとしていた彼は、あわてて戻ってきた。
「じゃあ、あの丘にします」
川のそばでは、ケルピーの魔力が強くなる。いちおうは警戒《けいかい》しておいた方がいい。丘なら大丈夫だろうと、リディアは彼についていく。
ロンドンの郊外《こうがい》へ、ポールがスケッチに来たのは、そういうわけでエドガーに注文された絵を描くためだった。
指輪をはずすために食事を制限しながらも、依頼された仕事に、彼はさっそく取りかかっている。
そしてこの、スケッチのための遠出にリディアがつきそってきたのは、街なかと違い、野山は妖精の領域に近いからだった。
妖精の力が強い場所だからと心配したリディアに、だったらついていけばいいとエドガーは言った。
『きみに守ってもらえるなんてうらやましい』
といつもの軽口をたたいたけれど、やけにあっさりしていた。
舞踏《ぶとう》会の夜には、ポールと親しくしていたことにけちをつけまくった彼が、ついていけなどと言ったことは、リディアにはびっくりするほど意外だった。
そういえば、舞踏会の夜以来、あまりしつこく口説《くど》かれていない。
まさか、泣いたのに気づかれたから?
思い出すだけでリディアはうろたえてもだえそうになるが、どうにか気持ちを静める。
気づいていたら、ネタにしてからかわないわけがない。
きっとようやく飽きてきたんだわ。
相変わらず、あちこちのパーティを行き来しているエドガーだ、貴婦人たちを相手に思う存分口説けるなら、リディアにかまっている余裕はないだろう。
むしろこのまま落ち着いてくれたほうが、伯爵《はくしゃく》家のフェアリードクターとしてうまくやっていけそうだ。
丘の上で場所を決めると、ポールはすぐスケッチに集中する。リディアは、辺《あた》りを少し散策したり、彼のスケッチを眺めたりして過ごす。
つきそいのメイドがひとり、リディアの話し相手にもなってくれたが、久しぶりの自然に囲まれた場所で、|縁なし帽《ボネット》のフリルをゆらす風を感じながら、何もせずに時を過ごすのも心地よかった。
「退屈じゃありませんか?」
一段落ついたらしいポールが、そばで眺めていたリディアに声をかけた。
「ちっとも。少し前まであたし、田舎《いなか》に住んでたから、一日中木の下で雲が流れるのを見てるなんてこともしょっちゅうだったんです」
「すてきな一日ですね」
そんなふうに言われ、リディアはほのぼのした気持ちになって微笑《ほほえ》んだ。
「ぼくはずっと、ごみごみした街中で暮らしてきたから、いつか空気のきれいなところに家を買って、野の花を描きながら暮らすのが夢なんです」
彼は少し恥ずかしそうに首を傾《かし》げた。
「とはいっても、世間に認められないと、そんな贅沢《ぜいたく》な暮らしはできませんけど」
「きっと認められます。エドガーもあなたの力になってくれるはずだし」
「だといいんですけど」
少し悩み、彼はまた言った。
「伯爵がよくしてくれるのは、あなたがいるからじゃないかな。ぼくの妖精画に目をとめてくれたのも、フェアリードクターのあなたをよろこぼせるためだという気がするんです。ご本人は、もともと妖精画が好みというわけでもなさそうですし」
「まさか、エドガーはべつにあたしをとくべつに見てるわけじゃないもの」
「そうなんですか? あなたが本命なのでは?」
「やだ、彼がどれほど女たらしか、五分も観察すればわかるでしょう?」
苦笑いしながら、ポールは頭をかく。
「ええまあ……、でもなんとなく、あなたは違うのかと思ってました」
どのへんが? と訊《き》いてみたくなったが、バカげていると思い直す。ポールにどう見えたって、エドガーがとことんタラシなのは間違いない。
「ポールさん、彼はあなたの才能をちゃんと見てるはずです。エドガーの目は厳しいもの。とくに男性には」
そう。女性は選ばないけれど、男性は確実に、接し方を区別している。社交界でただ遊んでいるわけではなく、政界、財界の有力者を選んで親しくなっている。
どんなに高位の貴族でも、名前だけの相手には目もかけないが、作法《さほう》を知らないと陰口をたたかれている成り上がりの人物には、堂々と近づく。
伯爵家に出入りする著名人が、日に日に増えている。
エドガーにとっては、好かれようと思う相手に信頼を得るくらいたやすいことだ。
それに、人付き合いを増やして自分も有名になることは、身を守る手段でもある。彼に何かあって、英国中が騒ぎになるとすれば、敵は手を出しにくくなるのだから。
でも、周囲を固めたエドガーが、それらを利用して復讐《ふくしゅう》をたくらむ可能性を考えると、リディアは、彼の『力ある友人』が増えることに憂慮《ゆうりょ》を感じる。
「なんというか、誰にでも好かれる方ですよね」
そうね。本当の彼を知らない相手になら。
「実は、話せば話すほどよくわからなくなる方なのに、だから知りたいと興味を感じてしまうのかな。本当は、伯爵はどんな方なんですか? リディアさん、あなたは誰よりも伯爵をよくご存じのようだ」
悪党よ、とはさすがに言えない。
だがリディアも、そこのところは詳しいわけじゃない。
知っているのは、エドガーは悪党だけど、とても哀しい人だということ。自分の運命と戦い続けているということ。
「彼を見ていると、昔のことを思い出します。画家だった父に連れられて、はじめて貴族のお屋敷を訪ねたときのこと。大きなお城で、ぼくにはおとぎ話の世界に思えました。そこに住んでいた高貴な方々を、バラッドに詩《うた》われるような英雄の末裔《まつえい》と信じたいくらいでした。とくに若君が、こうごうしい金髪にすみれ色の瞳で、十二、三歳だったかと思いますが、アドニスを想像させるような美しい少年で」
その話に、リディアは強く気を引かれた。
「似ているんですか?……エドガーに」
「ええ、最初お目にかかったときは、当人ではないかとさえ思いました。でも、その家はアシェンバート伯爵家ではなかったですから」
訊いていいものかどうか、少し迷った。けれども、リディアは結局|訊《たず》ねていた。
「どういう家だったんですか?」
「ああ、公爵家《こうしゃく》ですよ。シルヴァンフォード公爵の若君でした」
公爵家? 大貴族じゃないの。
「あの年頃なら、パブリックスクールに入っているのがふつうなんでしょうけど、体が弱かったらしくて、マナーハウスにいながら家庭教師が何人もついていたんですよ」
でも、体が弱いって。やっぱり別人じゃないかと思う。
「父は公爵に雇われて、城や庭園やご家族の肖像を描いていたんです。十六だったぼくは、そのころ画家になる気はなくて、でもむりやり父に助手として連れ出されて、絵の具を調合したりカンバスを張ったり……、それを若君は、ときどき見に来ていました」
「それで仲良くなったんですね?」
「ええ、数ヶ月の間でしたけど、遊び相手の少ない若君には、格好の相手だったんでしょうね。絵描きなんてと思っていたぼくのつたない習作を見て、才能があると言ってくれたんです。彼が公爵家を継いだら、面倒を見てやるとまで。子供でも、高尚《こうしょう》な芸術にたくさん接していたでしょうからね、ちょっとその気にさせられましたよ。ぼくも若かったし、だったら画家になると安易に約束したものの、才能なんてとんでもなくて、その後も苦労を続けていますが。でもおかげで、父にけなされてばかりで遠ざけていた絵を描くことが、じつは好きでたまらなかったんだと気づきました。ほんとうに彼は、フェアで思いやりがあって、育ちがいいというのはこういうことかと思うような少年でした」
その部分についても、リディアは首を傾げたくなった。
「ですから、彼も公爵家の方々も、みんな亡くなったと聞いたときはショックでした」
けれど、別人かもという思いは、あっさりうち消された。
エドガーは、自分のことを死んだはずの人間だと言っていた。両親も家も名前も、すべて奪われたと。
「……亡くなったって、どうしてまた」
「火事だったとか。人も、あの美しいお城も、庭園も、すべて消えてしまったなんて。いつか一人前の画家になれたら、誰よりも若君に、絵を見ていただきたいと思っていたのに」
気がつけばリディアは、震《ふる》える指を握り込んでいた。
「ああ、すみません。変な話になってしまいました」
「いえ、そんなこと」
「あ、でも、伯爵と彼が似てるのは、髪と瞳の色だけでしたよ」
つまりエドガーと接してみれば、公爵家の若君とはかけ離れた性格だったということか。
昔から裏表が激しかったのかしら。
「……あの、その少年がもし生きていたら、あなたをおぼえていると思います?」
怪訝《けげん》そうに、彼はリディアを見た。死んだと言ってるのに、変な質問だ。
それでも彼は、思いをめぐらせ答えてくれた。
「おぼえていてくれればうれしいですね」
エドガーは、きっとおぼえている。
だからポールに、世に出る機会を与えようとしている。
ポールが公爵家の少年になつかしい思い出を重ねているように、エドガーもきっとなつかしさを感じている。
ポールを妖精たちからかばったし、リディアが伯爵家の仕事を保留にしてポールにつきそうのも許している。
残酷《ざんこく》だったり非情だったりするエドガーの一面を、リディアは身をもって体験しているが、本当はとても情《じょう》のあつい人だとも思う。
彼が非情になるのは、最悪の状況をともに切り抜け支え合ってきた仲間のためだけだ。
ポールとの昔の友情を、大切に感じているとしても不思議はない。
「リディア、僕を見つめてくれるのはうれしいけど、せめて眉間《みけん》にしわはよせないでくれ」
気がつけばリディアは、テーブルをはさんで向かい側にいるエドガーを、じっとにらみつけるように見ていたらしい。
「えっ、あ、ちょっと考え事を……」
「僕のことなら、考えなくても教えてあげるよ。きみが知りたいなら何でも」
めずらしく、昼食どきに自宅にいたエドガーと、リディアはランチを取っていた。
光の射し込むテラスにふたりだけだ。ポールは痩《や》せるための努力を続けているし、うまいぐあいに、絵に集中しているときはもともと、食事を忘れがちになるらしい。
少し食べるかと声をかけても、はいと言いつつ来なかった。
だから今は、エドガーとふたりだけだ。そういえば、ふたりだけで話をするのは、舞踏《ぶとう》会以来だと気づき、リディアは急に落ち着かなくなった。
「体、弱かったの?」
しゃべってごまかそうとしたものだから、考えていたことがそのまま口にでてしまった。
「うん」
エドガーはさらりと答えた。
「喘息《ぜんそく》持ちで家にこもりきりだった。十歳ぐらいで治ってたんだけど、母が心配性でね。マナーハウスを訪ねてくる客とも、ほとんど顔を会わせることはなかったよ」
「だから、社交界に昔のあなたを知ってる人がいないのね」
「たぶん、ひとりをのぞいてね」
そのひとりが、ポールだ。唐突《とうとつ》にリディアが、こんなことを言いだしたわけも、ポールが何か話したのだと彼は気づいているようだった。
「でも、使用人がたくさんいたでしょう? 家庭教師とかも」
「そのころの家庭教師も、上級召使いも、家族の身近にいただけにみんな死んでるよ。生き残った使用人は、僕の顔なんか知らないだろう」
何百人という召使いをかかえている屋敷では、上級といわれる執事《しつじ》や|メイド頭《ハウスキーパー》、侍女《じじょ》、そして給仕《きゅうじ》係や御者《ぎょしゃ》といった一部の使用人をのぞけば、主人やその家族と顔を会わせないものだという。
「仮にあの少年をおぼえている人がいるとしても、僕がそうだとは思わないよ。彼にはちゃんと墓もある。中には死体も入っている。どこの誰だか知らない。まあ僕が棺《ひつぎ》を開けて確かめたわけじゃないけど、個体判別不可能な黒こげの、子供の死体がね」
エドガーはわざと彼女を当惑させるように言って、平然とローストチキンを口に運んだ。
一気に食欲がなくなって、ナイフとフォークを置きながら、リディアは負けるもんかと意味もなく思う。
「あなたがその少年と別人に見えるのは、性格が違いすぎるからだそうよ。少なくとも、攻撃的なところも威圧的《いあつてき》なところも、悪趣味なからかい方もする人じゃなかったんじゃない?」
グラスを持ちあげた彼は、そこに映る自分の姿を確かめるように眺めた。
「そうだね。自分でも思うよ。いろんなことがありすぎた。僕は本当に、昔の自分と同じ人物なんだろうかと考えると、わからなくなるくらいだ」
突然、家族を殺され、外国へ連れ去られた。プリンスという人物が、何のためにエドガーを手に入れ、どう扱っていたのかリディアは知らないけれど、そこでの彼は自由も意志も奪われた奴隷《どれい》だった。
同じようにそこにとらわれていたというレイヴンや、心を通わせた仲間たちと逃亡するまでに、敵をあざむき本音を隠す二面性や、冷静な判断力や、危険を切り抜けるための非情さを身につけなければならなかっただろう。
逃げ出せても、最下層に身をひそめながら追っ手をかわし、足場を固めるための闘争、策略、……死がすぐそばにある戦場だったはずだ。
天真爛漫《てんしんらんまん》な貴公子でいられるはずがない。
誰も助けてくれなかったから、自分を変えて生き残り、レイヴンを守っている。
「でもあたし、昔のあなたは知らないけど、いまのあなたもきらいじゃないわ」
「……きみはほんとうに……」
何か言いかけ、ふと口をつぐむ。
そして彼は、やわらかく微笑《ほほえ》んだ。
エドガーの本心なんて少しもわからないけれど、幸福そうな微笑みを向けられ、リディアは安堵《あんど》する。
変わったかもしれないけれど、変わっていない部分もあるのだろう。
心安らぐ幸福感を知らない人だったら、どんなにうまく演じようとしても、きっとこんなふうには微笑めない。
だからエドガーを、リディアはただの悪人だと思えなかったし、平穏《へいおん》な暮らしを取り戻すのに協力したいと思っている。
このままアシェンバート伯爵として、プリンスへの恨《うら》みを断ち切ってほしい。
「どうして人間は、肉を焼いちまうんだか」
突然の声は、ケルピーだった。いつのまにか、ポールのための椅子《いす》に腰かけ、手づかみでローストチキンにかぶりついていた。
「生の方がぜったいうまいってのに」
「な、何しに来たのよ!」
「おまえに会いに。どうだ? 奴の指輪はまだ抜けないのか?」
「指輪が取れても、きみにリディアは渡さないよ」
言ったエドガーの方を、ケルピーは一瞥《いちべつ》する。
「でかい口たたくんじゃないぞ。青騎士伯爵ったって、今じゃろくに妖精も見えないんだろ。だからってリディアを働かせるなんて冗談じゃない」
「そんなに彼女のそばにいたいのなら、きみも雇ってやろう。馬車を引くくらいはできるだろう?」
馬扱いされて、頭にきたらしいケルピーは、チキンの骨を放り投げた。
「俺は馬じゃねえ。気高《けだか》き水棲馬だ!」
身を乗り出し、エドガーを威圧《いあつ》するように見る。ケルピーの視線をまともに見返すエドガーは、命知らずだわとリディアは思う。
ケルピーの恐ろしさを知らないのだろうけれど、魔性《ましょう》の妖精の視線は、人の心をかき乱す。恐怖のあまりに失神する人だって多いのだ。
「どうした伯爵《はくしゃく》、怖いならあの従者を呼んだ方がいいんじゃねえのか?」
短気なケルピーが、すぐにエドガーに襲いかかろうとしないのは、どうやらレイヴンの存在を気にしているらしい。
「レイヴンなら、今はいないよ」
なのにエドガーはあっさり言ってしまう。
「ふうん、俺があんたの首をへし折る気になったら、誰にも止められないってわけだ」
「あたしが止めるわよ!」
リディアは魔よけを、ケルピーの目の前に突きだした。聖書のページを破ってまるめたものだ。
彼は臭いものを鼻先に突き出されたかのように顔をゆがめた。神聖なものをケルピーが嫌うといっても、その程度の反応だ。
それでも今はまだ、本気でやる気ではないからか、彼は体を引いた。
「女に助けてもらって、恥ずかしくないのかよ」
「リディアが僕のために、言い寄る男を追い払おうとしてるなんてゾクゾクするじゃないか」
そうだけど、なんだか違うような。
「リディア、この口の減らない軟弱《なんじゃく》男のどこがいいんだ? どう考えても俺の方がいい男だ」
「馬より人間の方がいいに決まってるだろ」
「馬じゃないと言ってるだろ! おいリディア、はっきりしろ。俺かこいつか、どっちを選ぶんだ」
選ぶって、人喰《ひとく》い妖精と元強盗の口説《くど》き魔だなんて、あんまりな選択肢じゃないの。
「もう、どっちもそんなのじゃないの!」
「リディアのお気に入りは、妖精画家だからね」
エドガーがぽつりと言った。
「な、何言ってるのよ」
「モデルになること承知したんだって? いやだと言ってたのに」
「それは、なりゆきで」
スケッチについていったとき、描かせてくれと言われたから、草の上に座っていただけだ。
簡単なことだったから、また今度もと頼まれれば、断る理由もなかった。
リディアの絵を描くわけではなく、そのデッサンをもとに妖精画を構成するのだというから、そんなに身構えることでもない。
「ケイン君、だからきみのライバルは僕じゃない」
「そうなのか? あの、〝月〟を横取りしやがった奴か?」
横取りって、あなたが間違ってはめたんでしょうに。
「エドガー、いいかげんなこと言わないで」
「きみが彼を好きになるなら、潔《いさぎよ》く身を引くよ。せめて嫌われたくないからね」
そんなふうに言われてしまうと、リディアは反論できなくなった。
違うと強く言えば、エドガーに対し誤解を解こうと必死になっているみたいではないか。
彼が誤解していようと、おもしろ半分の口説き攻勢をやめてくれるなら願ったりのはずだ。
そうよ。ポールはとてもいい人だし、本当に好きにならないとも限らない。
けれどなぜか、妬《や》いてくれないんだ、とリディアは落胆《らくたん》を感じている。
エドガーの口説き攻撃がないのは物足りないような……。
てか、そんなはずないじゃない。ちょっと拍子抜けしただけで。
あせって自分に言いわけしながら、リディアは急に気がついた。
エドガーは、リディアにではなく、ポールに嫌われたくないのではないのか。ケルピーとリディアを取り合う嫌味の応酬《おうしゅう》も、彼にとっては言葉のやりとりを楽しむ遊び。でもポールとは、そんなゲームをするつもりはないということ。
本気でリディアを取り合うつもりなんかないのに、ポールを不愉快《ふゆかい》にする必要はない。
力が抜けて、リディアは椅子《いす》の背に寄りかかった。
ま、そんなものよね。
エドガーの口説き文句が本気じゃないのは、最初からわかっていたことだ。
「なんだ、あんたべつに、リディアが好きだってわけじゃないのか」
能天気《のうてんき》にもケルピーは、リディアの脱力感に追い討ちをかける。だから彼女は、エドガーが静かに不機嫌を蓄積していることには気づかなかった。
ケルピーがパンをわしづかみにするのを眺めながら、エドガーは料理の一皿を彼の方へ押し出した。
「ケイン君、よかったらこれも」
まずいと言いながらも、食い意地の張っているケルピーは、繊細《せんさい》に盛りつけられた料理をひとくちで飲み込んだ。
と、急に顔色を変えて立ちあがる。
「な、何だこれは……。何喰わせやがった!」
「レバーのパテだよ」
レバー。……肝臓《かんぞう》。ケルピーがけっして食べないもの。
リディアの血の気が引いたのは言うまでもない。
ケルピーを本気で怒らせたらどうなるのか。いくらここが魔力を発揮しにくい伯爵邸だとしても、獰猛《どうもう》な水棲馬が暴れたら……。
リディアには止められない。
怒りに全身を震《ふる》わせるケルピーの背に、たてがみがのび、しっぽがはえる。馬の姿がにじみ出している。