しかしエドガーは、平然と言う。
「きみね、信用できない相手に勧められたものをむやみに口にするのは危険なんだよ」
「きさま……、今度会ったら八《や》つ裂《ざ》きにしてやるからな!」
ケルピーは、風のようにテラスから飛び出していった。
肝臓を食べてしまったことは、怒るどころではないくらいケルピーを動揺させたらしい。リディアは心底ほっとし、と同時に頭をかかえた。
「なんてことするのよ! 怖いもの知らずにもほどがあるわ!」
「向こうが僕をあまくみてるんだよ」
浮かべた薄い笑みは、ふだんはうかがい知れない彼の闇をのぞかせる。
怖いもの知らずなんじゃなくて、怖くないのだ。
少なくとも彼にとっては、自分の命を奪う存在など脅威《きょうい》でも何でもなく、生かしたまま何もかも奪おうとする宿敵の存在だけが恐ろしいに違いない。
「失礼します、伯爵」
テラスへ現れたポールに、顔を向けたエドガーは、すでにおだやかで鷹揚《おうよう》な伯爵の微笑みになっていた。
「ポール、きみの昼食をケイン君が食べてしまったよ。すぐに新しいものを用意させよう」
「いえ、いいんです。それより伯爵、お願いがあるんですが」
「なんだい?」
少しためらい、けれど思い切ったように彼はまた口を開いた。
「青騎士|卿《きょう》の宝剣を、見せていただけないでしょうか」
宝剣、それは言い伝えによると、伯爵家の先祖である青騎士卿が、英国王エドワード一世から爵位《しゃくい》とともに賜《たまわ》ったという剣だ。それを所有していることが、伯爵家の継承者《けいしょうしゃ》としての身分を証明するという貴重なもの。
アシェンバート家と無関係なエドガーが、イブラゼル伯爵と認められたのは、宝剣を手に入れたからだ。
家宝ともいえるそれを、ポールは見たいと言う。
「ご依頼の絵ですが、青騎士卿の物語をもとにした妖精画にしたいのです。それならやはり、伝説の宝剣を描かないことにはと思いまして」
無謀《むぼう》な願いだと思っているのか、ポールは落ちつきなく言葉を続ける。
「いえあの、さわったり汚したりするようなことはありません。見せていただくだけでいいんです。イメージさえ頭に焼きつければ。ただの妖精画になってしまっては、この屋敷を飾る意味がないと、ずっと考えていて、ようやくひらめいたんです」
ポールを見るエドガーの視線が、ふと鋭くなったように見えたのは、リディアの気のせいだろうか。
しかし彼は、なんのことはなさそうに即答した。
「いいよ。それできみの絵が、さらにすばらしいものになるというなら」
緊張が解けたように口元をゆるめ、ポールは頭を下げたが、エドガーはどういうわけか、にこりともしなかった。
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義賊団《ぎぞくだん》のスパイ
「それでエドガーさま、宝剣をお見せになったんですか?」
「見せたよ。しきりに感心してたけど、それだけだった」
直立不動のまま、レイヴンは考え込む。エドガーは、ソファのひじ掛《か》けに寄りかかり、頬杖《ほおづえ》をついた。
「単なる偶然か」
「ですが、この屋敷に本物があるということも、それがどんな形をしているのかも、貴重な情報になります」
伯爵《はくしゃく》家の宝剣をよこせという、〝|朱い月《スカーレットムーン》〟からの脅迫状《きょうはくじょう》と、ポールが宝剣を見たがったのは関係あるのかどうか、エドガーは頭を悩ませていた。
「そのとおりだ。でもポールは、スパイができるような性格に思えないんだ。宝剣を見た反応も、まるきり天然に見えた」
昔の彼も、単純で人の言うことは鵜呑《うの》みにするし、考えていることがすぐ顔に出る男だった。他人をだませるほどの芝居ができるとも思えない。
それは今でも変わっていないと信じていたが、違うのだろうか。
「いや……、わかってるよ、レイヴン。芸術家が秘密めいた結社に属するのは、流行といってもいいくらいだ。おまえの言うように慎重《しんちょう》に判断するべきだろうね」
大きなものではフリーメイソンや薔薇《ばら》十字団。貴族や学識者《がくしきしゃ》が多数|籍《せき》を置いている。部外者にはそれらは、非常に謎めいて不気味に見えるし、闇でとてつもないことを画策《かくさく》しているようにささやかれることもあるが、じっさいには、反社会的な目的意識は薄い。
その一方で、本当に危険な結社は、人の噂《うわさ》にものぼらないまま、裏社会を動かしているものなのだ。
〝朱い月《スカーレットムーン》〟は、義賊団だとしたら下層階級では英雄だ。しかも、彼らがねらうのはプリンスが関与している汚い金ばかり。となれば、結社に属する人間にとっては、犯罪に荷担《かたん》しているというより、理想のために戦っているといった感覚だろう。
ポールのような純粋な人間が、魅力を感じたとしても不思議はない。
「彼についてわかっていることは、カナダ生まれ、幼い頃に両親は離婚し、母と暮らしていたものの、母が他界したおりにイギリスへ帰国、画家で父のアンドリュー・ファーマンに引き取られる。アートスクール在学中に父親は画家を引退し、現在はドーバー在住。以後ポールはロンドンで一人暮らし。品行方正《ひんこうほうせい》、母校でも近所でも悪い噂はなく、熱心に絵に打ち込んでいるとのことです」
聞きながら、エドガーは深く眉根《まゆね》をよせていた。それに気づいてレイヴンは、黙ったまま主人の質問を待った。
「アンドリュー・ファーマン? オニールではないのか?……つまり、ポールの父が画家として別の名前を持っていたのではないかということだけど」
「調査報告にはありませんね。ファーマンのサイン入りで描かれた絵なら、何点もあるようですが、オニールというのはなさそうです」
ポールが現れたとき、エドガーは、彼の姓が記憶とは違うのを、さほど気にしていなかった。母方の姓を名乗ったり、また芸術家や役者など、好き勝手に名前を変えていることは多い。
しかし父親は、エドガーの記憶では、オニールの名で知られた画家だったはずだ。
「ならレイヴン、オニールという画家を調べてくれ」
もしオニールという画家が存在し、彼こそがかつてエドガーの父が依頼した画家なら、オニールの息子であるはずのポールは、今現在、出自《しゅつじ》を偽《いつわ》っていることになる。
もしかするとそこから、ポールが〝朱い月〟とつながってくる可能性がある。
「わかりました」
「で、義賊団の方は?」
「エドガーさまがおっしゃったように、古物商《こぶつしょう》をあたってみましたところ、ヴァイオリンを売りに来たそれらしい人物がいました」
指をなくした男が来なかったか、ロンドン中の医者をあたったが該当者がいないと警察は言った。しかしどうせ、傷の手当ては闇医者か組織の仲間が請《う》け負《お》っているのだ。
しかし指が四本もなくなっては、もはやヴァイオリンを弾くことはできないだろうとエドガーは考えていた。
「ヴァイオリンは確認した?」
「はい。もみ合ったときに私がつけた傷がありました。ただ、売りに来た人物は太った黒髭《くろひげ》の男だということですので、頼まれて売りに来たとか、そんなところでしょう」
「その男の身元はわからないんだね」
「ええ。身なりがよかったことと、赤っぽい石のついた指輪をしていたこと。店主がおぼえているのはそれくらいです」
「……赤い石の、指輪」
「古物商ですので、宝石にはある程度詳しいのでしょうが、赤いムーンストーンだと気になったそうです」
ムーンストーン、朱《あか》い〝月〟だ。
「エドガーさま、ムーンストーンに赤い色もあるのですか?」
「あるよ。赤も、白も、青も……」
言いながらエドガーは、赤いムーンストーンを、最近どこかで見たことがあるような気がしていた。
でも、どこだったか思い出せない。社交界を飛び回る毎日で、会った人は数え切れない。目立つ宝石を身につけていたとしても不思議はない人たちばかりだ。
恰幅《かっぷく》のいい黒髭も、何人もいるだろう。
考えていると、ノックの音がした。だがドアではなく、窓の方だ。
レイヴンが窓を開けると、灰色の猫が部屋の中へすべり込んだ。
ノックができる猫というのはどうなのだろう。
「やあニコ、何か用かい?」
「いいかげんにリディアを解放してくれないか? とっくに帰る時間だってのに、あの絵描きさん、すっかり熱中してるんだよ」
ソファの上に飛び乗った猫は、鳴きながらえらそうにふんぞり返る。これだからどうも、猫らしくない。
しかしまだニコがここにいるということは、とエドガーは思い当たる。
「レイヴン、リディアはまだポールのモデルをやってるのか?」
「そういえばそうですね」
「ずいぶん遅いじゃないか。そろそろ彼女を帰すように言ってきてくれ」
レイヴンが出ていくと、ニコはエドガーを呼ぶかのようにひとつ鳴いた。そして彼の方を、責めるかのごとくじっと見る。
「聞こえたんだけどさ、絵描きさんはスパイかもしれないのか? それもこの間の、ダンスの先生の事件と関係がある?」
「ひょっとして、立ち聞きしたのか? ニコ」
「そんな奴にリディアを近づけておいていいのかよ」
「ああ、リディアのことを心配してるんだね。まだ彼がスパイだと決まったわけじゃないし、屋敷の中は召使いたちの目があるから、ふたりきりになることもないよ」
やれやれとでも言うように、ニコは首を動かした。
エドガーは、ふと疑問に思い顔をあげる。
「ニコ、もしかしてきみ、人の言葉をしゃべってる?」
「ニャア」
猫らしい鳴き声が、かえってわざとらしく聞こえた。
ソファの上のニコに歩み寄る。
「なあ、リディアはポールのこと、僕より信頼していると思うか?」
「あんたとくらべりゃ、誰でも信頼できる部類にはいるんじゃねーの?」
[#挿絵(img/moonstone_131.jpg)入る]
「僕より好きかな」
「んなことおれに訊《き》くなよ」
「……もし彼が、スパイだったら傷つくかな」
それにはニコも、悩んだように黙り込んだ。
「だからニコ、きみからもリディアに、僕を好きになるようすすめてくれ。それでもって、ポールの悪口を吹き込むんだ。いい考えだろう?」
「うーん、仮に画家がどっかのスパイでも、あんたよりましなんじゃないかって気がしないでも……」
言いかけたニコを、エドガーはむんずとつかんで持ちあげる。
「僕に逆らわない方がいいよ」
ポールが絵を描いている部屋へレイヴンが来て、もう遅いからと促《うなが》すと、彼はあわてて筆を置いた。
集中すると、時間を忘れてしまうようだ。
とはいえリディアも、考え事をしていたから時間を忘れていた。〝月〟の指輪がはずれたら、妖精たちとの問題をどうやって収拾《しゅうしゅう》するかと考え続けていたのだ。
ケルピーも野原の妖精たちも退《しりぞ》けるいい方法はないものだろうか。
結局何も思いつかないまま、帰宅するためにリディアは、エドガーのいる書斎《しょさい》のドアをたたく。ニコがそこにいると、レイヴンに聞いたからだ。
しかし返事よりも、激しい物音が聞こえた。驚いてリディアがドアを開けると、ふさふさした灰色のかたまりがリディアに飛びついてきた。
「ニコ、どうしたの?」
「くっそーっ、ひどい奴だぜこいつは! おれのプライドを踏みにじりやがって!」
ニコが暴れて倒したのだろう、椅子《いす》やランプ台の向こうで、エドガーがにんまり笑った。
「ちょっとエドガー、ニコに何したのよ」
「遊んでやっただけじゃないか」
服についた灰色の毛を払いながら、彼はソファから立ちあがる。
「おれは猫じゃねえって言ってんのに、猫扱いしやがったんだ!」
「けっこうよろこんでたけど」
「しかたねえだろ! 猫の体が勝手に反応して……」
「なんか、いかがわしいね」
「バカ言うな、このクソ! いいか、二度とおれをさわるな、撫《な》でるな、ゴロゴロ言わすんじゃねえ!」
リディアの腕から飛びおりると、ニコはすごい勢いで駆《か》け出していった。
それにしても、猫扱いがきらいなニコをあんなに怒らせるなんて、よほど。
「猫の扱いがうまいのね」
「女の子の扱いも自信あるよ」
あれ? また始まりそう?
このところおさまっていたはずの、口説《くど》きの猛攻撃。が、リディアが危機感をおぼえたときにはすでに、エドガーは目の前にいて、さっさと帰りたかったリディアの動きを封じていた。
真上からリディアを覗《のぞ》き込むように見おろす。完全に攻める気の姿勢だ。
どうしてよ。もう飽きたんじゃなかったの?
「遅くまでポールにつきあう義務はないんだよ。帰りが遅いと、カールトン教授が心配する」
「ええ、今日はちょっと、あたしも時間を忘れてたから」
「そんなに楽しかった?」
「……そうね。あたしが退屈しないように、いろんな話をしてくれるもの」
「たとえば、どんな」
えらく質問責めだ。
「ほとんど絵のことよ。べつに何話したっていいでしょ?」
「それは?」
リディアが手にしていたカードに、エドガーは気づいたようだった。隠すのも変なので、持ちあげて見せた。
「ポールさんがくれたの。モデルのお礼にって」
アイリスの花が、淡彩《たんさい》で描かれている。ポールの迷いのない線は、生き生きした花の生命力を大胆に写し取って、カードといえど、うっとりするような絵になっていた。
「アイリスか。花言葉は恋のメッセージ。きみへのラブレターだね」
「まさか。たまたまそばにあった花でしょう」
「違ったらどうするの?」
どうするって、つまり返事を?
てか、ふつーにうれしいわって受け取っちゃったじゃない。
「彼になら、口説かれても泣かないんだ」
え? どういう意味……?
悟《さと》るよりも先に、リディアは顔が熱くなるのを感じていた。
気づいてたんだ。舞踏《ぶとう》会の時のこと。
「どうして泣かれたのか、考え続けてるけどわからない。傷つけるようなことを言った? でもなぜ? どのへんが?」
そんなの、リディアにだってわからない。どうしてだか急に苦しくなって、つらくなってしまったのだ。
エドガーの気まぐれに、心を乱されるのはいやだ。そしてむかつくから、リディアはつい攻撃的になってしまう。
「あたしが、誰を好きでもいいじゃない。あなた身を引いてくれるんでしょ」
「あれはうそだ」
「はあ?」
「気どったこと言ってみたけど、本心じゃない」
「そんな簡単にうそつくから、信用できないんじゃないの」
「そうだね、僕がどれほどきみにうそをついてきたか」
「もういいわ、そこどいてよ」
しかしかまわず、通せんぼするように彼は立ちはだかったままだ。
「でもきみは、いつでも僕を許してくれる。最初からそうだった。僕が強盗だったと知ったときも、きみをだまそうとしたことも許してくれた。そんなきみだから、そばにいてほしいんだ。犯した罪は消えないけど、きみが僕を見捨てずにいてくれるなら、伯爵《はくしゃく》を名乗って生きていくことも許されるような気がしている」
いつになくきまじめな口調に、リディアの心臓がどきりと鳴った。
「きみは僕の、ろくでなしなところを知っている。でもそうなるしかなかった事情もわかってくれているだろう? きらいじゃないと言ってくれた、これがありのままの僕だ。きっとこれからも、誰にも打ち明けることはない秘密をかかえていくしかないけれど、同じ境遇にいた仲間以外にはわかるはずもないと思っていた僕の気持ちを、きみだけが受けとめてくれた。それだけでは、きみをとくべつに想う理由にはならないのか? これも軽い気持ちだと、うそだと思う?」
でも彼は、これくらいのこと、心にもなくてもすらすら言える人だ。
「うそじゃなくても、軽い気持ちよ」
「……傷つくな」
「あなたには、本気の恋なんて頭にない。あなたの心を占めているのは、女の子じゃなくて宿敵のこと。少しはあたしが、あなたの心をなぐさめるのに役立ってるとしても、恋じゃない。役に立つっていうだけよ」
図星だったはずだ。
リディアだって、少しは学習した。彼は自分にとって必要なものを得るために、巧《たく》みに言葉を使うのだ。
必要だという気持ちがうそではなくても、恋じゃない。
「これが友情ではいけないの? あたしが役に立つならそれでいいわ。あたしだってあなたのおかげで、フェアリードクターとしての仕事ができる。友達として思いやりをもてるならそれ以上必要ないじゃない。あなたがあたしのこと、単なる道具として利用してるんじゃないってことは、信じてもいいと思ってる」
しかし彼は、不本意そうにじっとリディアを見つめた。
「それは僕の主義に反する。女性に友達だと言われたらおしまいだ」
は?
これだから、ますます口説き文句なんか信用できないじゃないの。
もういや、とむりやりそばをすり抜けようとすれば、むしろ彼は苛立《いらだ》ったように、壁に両手をついてリディアを押しとどめた。
急に不機嫌になったというか、怒っているような気さえした。
「怖いの?」
けれど、声を落としてささやきかけた言葉は、あまい口調だった。
作戦を変えられたことに気づけるほど、リディアは百戦錬磨《ひゃくせんれんま》じゃないから、乗せられて動揺する。
「な、なにが……?」
「恋をするのを怖がっているみたいだ」
不意にまた、泣きたいような気分になった。
「舞踏会の夜も、本当いうとそんなふうに思えた。あんまり追いかけると、ますます怖がって逃げてしまいそうだからがまんしてたのに、このままきみがポールに惹《ひ》かれていくのを見ているのはつらい」
「……だから、ポールさんとはそんなんじゃ」
なんだかもう、エドガーのここ数日おとなしかったぶんが、一気に降りかかってきたかのようだった。
こんなことならため込まないでほしい。油断していただけに逃げる隙《すき》もない。
恥ずかしいし頭に血がのぼるし、リディアはだんだん、わけがわからなくなってくる。
「心を開いてくれないのは、子供のころに、ゲームの延長で告白されたから?」
ああもう、どうしよう。
「……べつにあたし、恋をするのが怖いわけじゃないわ。恋をしたことくらいあるもの、片想いだったけど。でも、あなたとは恋なんてありえない。だってあなた、もしあたしが好きになったら困るはずよ。考えてもみて。本気になってとことんのめり込んだりして、つきまとったら困るでしょう? 貴族の令嬢《れいじょう》との縁談が持ち上がったらもっとじゃまになるわ。どう考えても釣り合わない女の子に本気になんかなられたって、受け入れられるわけないんだから。だからって冷たくしたら、はらいせに秘密をタブロイド紙に売られちゃうかもしれないのよ、それこそあなたにとっていいことなんてひとつもないわ」
やけになって、リディアはまくし立てた。彼は少し、困ったような顔をした。ほらね、と思う。
「わかった」
「わかったならどいてちょうだい」
「やっぱりきみは怖がってる。頭から、うまくいくはずないと思いたがっている。その方が、あとで失望しなくてすむから」
失望、なんかじゃない。
子供のころ、あのときだって最初から、告白めいた手紙をもらうような対象ではないとわかっていた。何かのいたずらじゃないかと感じていた。
あの子にとってリディアは、人間ではなく妖精の友達みたいなものだったから。
|取り換え子《チェンジリング》と噂《うわさ》されるような少女と仲良くするのは、ひそかに妖精と語らうようなもの。
夢の中の友達は、現実じゃないから、彼にとって小さな悩みをうち明けやすい存在だった。
幻《まぼろし》が日常にしゃしゃり出てきたら、いい気分でいられるはずがない。彼の弱みを知っているリディアに、人前で声などかけてほしくなかったのだ。
なのに間違えて、彼を困らせた。
自分の役割はわかっていたはずなのに。もう少し、現実の友達に近づいてもいいのではないかと思ってしまった。
怖がっているとしたら、うその言葉に惑わされること。
間違ってはいけない距離を間違ってしまったら、エドガーだって不愉快《ふゆかい》になるに違いない。
「あたしは、失望したくないんじゃなくて、あるべき距離を間違えたくないだけ……」
「なにそれ、距離? そんなもの、いくらでも変わるし、変えていけるはずだろう?」
気がつけば、エドガーはさらにリディアに接近していた。
「たとえばこの距離を、僕たちのあたりまえにすることだって」
ささやくように言いながら、彼女の肩をつかむ。背中に壁を感じたまま、リディアは動けない。
「や、離して……」
押しのけようとした腕をつかまれ、すぐ目の前で手首に唇《くちびる》を押しつけられた。
思いがけず素肌に触れられて、リディアは震《ふる》える。
「あの、伯爵」
そのとき遠慮がちに割り込んだ声は、開いたままの戸口に立っていたポールのものだった。
リディアがほっとしたのもつかの間、エドガーは彼女を見つめたまま、髪をもてあそぶように撫《な》でながら淡々《たんたん》と返す。
「今とりこんでるから、ドアを閉めて出ていってくれ」
え、ええっ?
「でも、あの……」
「リディアとはちょっと込み入った話をしているだけだ」
これって、話なの?
待ってとポールに言いたいのに、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳がすぐ目の前にあるものだから、口を開くのがためらわれる。
それにエドガーに出ていけと言われて、逆らう必要がポールにあるだろうか。どうしよう、とあせるほど、リディアは声が出せなくなった。
「でもリディアさん、震《ふる》えています」
思い切ったようにポールは言った。
エドガーは、深く眉根《まゆね》をよせた。その様子は頭にきたというより、やけに淋《さび》しげで、そして苦しげに見えた。
億劫《おっくう》そうにリディアを離す。
「立派なナイトだ。きみを助けに来たらしい」
「伯爵《はくしゃく》、そういうことでは……」
「もう帰っていいよ。話は終わりだ」
追い出すように片手を振って、彼は奥の部屋へこもってしまった。
ぼんやりとしたまま自宅へ帰ってきたリディアは、寝室へ駆《か》け込むと、ランプの明かりもつけずにベッドに座り込んだ。
怖かった。まだ体が震えている。
手首に、肩に髪に、エドガーのぬくもりがまとわりついているようだった。
「何考えてんのよ、あいつは!」
声を出してみても、振り払えない。
いつもよりちょっとだけ、調子に乗りすぎた悪ふざけ? と考えてみるが、ふだんはもっと軽い感じで、こんなに逃げ出す隙がなかったことはない。
どういうわけか、機嫌も悪そうだった。
ポールにアイリスのカードをもらったことが原因なら、なんて身勝手な独占欲だろうとリディアはため息をおぼえる。
エドガーはただ、自分の身近にいる女の子が別の男性と親しくなるのが気にくわないだけ。そうとしか思えない。
しかしポールは、エドガーが腹を立てるような感情を、リディアにいだいてはいない。
さっき、伯爵に逆らってまでリディアを助けてくれたのだって、どちらかというとエドガーのためだった。
玄関先の馬車まで、震えているリディアを連れていってくれたポールは、義憤《ぎふん》を隠さずに言った。
エドガーが女性を口説《くど》きまくるのに、口をはさむような立場にないと前置きしながら、
『本気じゃないなら、あなたのようなお嬢《じょう》さんにいたずらがすぎると思います。身分の高い人に、庶民《しょみん》は逆らいにくいってことを知っているはずだから』
もちろんリディアは、身分の違いや雇われているという上下関係を持ち出され逃げ出せなかったわけではない。そもそも最初からうさんくさかったエドガーを、伯爵として見ていなかったし、対等な口のきき方を続けている。
しかしそんなふうに感じたポールは、リディアを助けたというよりも、エドガーに高潔な紳士《しんし》であってほしいと思っているように見えた。
間違っても身分下のうぶな少女に、強引に手を出すような人ではあってほしくないと。
エドガーが、公爵家《こうしゃく》の若君とは別人だと思っていても、どこかで重ねているのだろうか。
とすると、彼がリディアにやさしいのも、エドガーが特別扱いしているように見える少女だからではないのだろうか?
「ま、そんなものよね」
ため息とともに、またつぶやく。
「おーいリディア、晩飯食わないのか?」
戸口からニコがこちらを覗《のぞ》き込んだ。帰ってきてから鏡の前で、必死に毛並みを直していたが、食事の用意ができたらもう機嫌を直しているらしい。
しかしリディアの機嫌は直らない。ベッドの上でひざをかかえたまま、「いらない」と答える。
「あ、そ」
薄情な妖精猫は、あっさりそう言った。
帰りの馬車の中で、黙り込んでいたリディアに、『あんたも伯爵になでまわされたのか?』と言って彼女の神経を逆なでしたから、しっぽの毛に結び目をつくってやったのだ。だから警戒《けいかい》して近づいてこないのだろう。
ふさふさしたしっぽを左右に揺らしながら、二本足でとことこと階段を降りていった。
なぐさめようって気はないの? リディアは何もかもにむかつく。
手首を押さえた自分の手に、血の脈を感じれば、彼の唇にも伝わったのだろうかと考えてしまって苛立《いらだ》つ。
「よう、晩飯いらないって、変なもの食って腹でもこわしたか?」
今度はケルピーが、二階の窓から現れた。そういえば、エドガーにレバーを食べさせられたのだったが、問題はなかったのだろうか。
いっそあのまま食あたりでも起こして、故郷へ帰ってくれればよかったのにと、うんざりしながらリディアは返す。
「それはそっちでしょ」
「ったく、毒気を抜くのに時間がかかったぜ。高地《ハイランド》の水ならすぐ回復するってのに、ここの水はよどんでるからな」
やっぱり肝臓《かんぞう》は、ケルピーの体によくないらしい。
人の姿をしていても、背丈《せたけ》も体格も大きめな彼だが、狭い窓から器用に身をすべり込ませる。窓枠に腰かけて、蠱惑的《こわくてき》な瞳をリディアに向けた。
そういう妖力を持つ瞳なのであって、彼の意図とは無関係だと知っていれば、エドガーの視線ほどには居心地の悪さを感じない。
「テムズ河にもぐってたの?」
「バカ言うな。あんなくさった河に俺さまが棲《す》めるかよ。そっちの公園の池だ」
指さす方角からすると、ハイドパークだろう。広い池があったはずだ。
「どうでもいいけど、あたし今機嫌が悪いの。聖書を投げつけられないうちに帰ってちょうだい」
「何で機嫌悪いんだ? ああ、あれか。人間の女が月に一度機嫌が悪くなるという……」
そこにあったクッションを投げつけてやったが、さっと彼は受けとめた。
「そうカリカリすんなよ。いいものやるからさ」
ケルピーのいいものなんて。新鮮なブタの頭とか羊の心臓とか、死んでもほしくないわ。
眉根《まゆね》をよせるリディアの目の前に差しだした手を、彼はそっと開く。
黄色い毛糸玉のようなものが、もぞもぞと動くと、パチリと黒い目がふたつ開いてリディアを見た。
「え、ひよこ? かわいい……」
思わずリディアは頬《ほお》をゆるめる。
「拾ったんだ」
「どこで?」
「郊外《こうがい》の家畜小屋」
もしやそれは、拾ったとはいわないのでは。
「……食べたわね」
「ニワトリをつまみ食いしただけだろ。おまえがいやがるから、人間は襲《おそ》わないようにしてるんだからな」
ケルピーだって、食べないわけにはいかない。それでもリディアと知り合ってから、人を食べないようにしているという彼は、ある意味誠実なのかもしれなかった。
「この子は食べなかったの」
「小さすぎるだろ。肝臓取るのがめんどくさいんだよな」
リディアの手のひらに乗せる。落ちないようにそっと包み込むと、ふわふわした手触りに気持ちがなごんだ。
「どんな感じがするんだ?」
隣に座って、彼はリディアがひよこをそっとなでる様子を、不思議そうに覗き込んだ。
たぶん彼には、生き物を慈《いつく》しむ感覚がわかりにくいのだ。
「あたたかくてやわらかくて、やさしい気持ちになれるわ」
「喰《く》ってみたくならないのか」
「守ってあげたくなるの。心を通わせたくて、いっしょに過ごしたくて、いなくなったら淋《さび》しくて悲しいだろうなって思うの」
「ふうん、じゃこういう感じだ」
ケルピーはリディアの頭をくしゃくしゃと撫でた。
ひよこみたいなものなの、あたしは?
でも水棲馬にしてみれば、寿命は短く腕力も魔力もない人間なんて、その程度のものかもしれない。
そしてそんなちっぽけな生き物を、そばに置きたいと思うらしいこのケルピーは、水棲馬とは思えないくらい変わっている。
「なんでかおまえは喰ってみたくならないんだよな。それに、会えないと退屈だ」
「退屈って、水棲馬はふつう、あなたみたいにべらべらしゃべらないんじゃ?」
「そりゃ、俺だって水の中じゃ黙ってるさ。しゃべる相手がいないんだからな。でもおまえが俺といっしょに来れば、いつでもしゃべっていられるぜ」
気安くリディアの肩に腕をまわす。
けれども、払いのけようと思うほど不愉快《ふゆかい》ではなかった。
エドガーだったら、とてもこんなにおとなしくしていられないだろう。
昔から人よりも妖精と接する方が多かったリディアには、水棲馬でも妖精であるだけ、抵抗を感じにくいのかもしれない。
人の本心は、リディアにはわかりにくいけれど、妖精の心はまだわかる。少なくともケルピーが、リディアを食べるためにだまそうとするなら、言葉より態度より、魔力を使うだろうということは。
「なあ、あの伯爵に嫌味でも言われたか?」
この、リディアを元気づけようとしてくれている気持ちに裏はないとわかるから、安心していられる。
「だからさ、あいつのとこで働くのなんかやめて、俺と結婚しろっての」
ほんとに、軽々しく言ってくれるわね。
妖精と恋におちた人間は、そんな生活を選んで人界を去ることもあるけれど、リディアはまだこちらがわに執着《しゅうちゃく》がある。
父がいる。フェアリードクターとして母のあとを継ぎたいという夢もある。人の世にも、まだまだステキなことはあるはずだと思っている。
「しつこいってか? まあそれはともかく、スコットランドへ帰らないか? こんな人間だらけの街で着飾ってるより、妖精がいっぱいいるあっちで草原《くさはら》を飛び回ってる方が、おまえには合ってるよ」
それは自分でもそう思う。
「でもあたし、一人前のフェアリードクターになりたい。妖精とばかりつきあってるわけにはいかないわ」
「人間とつきあうと、疲れるだろ。フェアリードクターはたいていそうさ。人であっても妖精に近いんだ。それに人間ってのは妖精の姿が見えないから、問題さえ起こらなきゃすぐに妖精のことも、フェアリードクターのありがたみも忘れるからな。昔から、人の世を去って妖精界で暮らすフェアリードクターは多いって聞くぜ」
言い伝えでは、フェアリードクターになる能力のある人は、妖精の血を濃く引いていたり、|取り換え子《チェンジリング》だったりするという。自分はどうなのだろう。
妖精との縁が深いぶん、人の世界にいても、馴染《なじ》めないまま過ごさなければならないのだろうか。
母は、どうだったのだろう。
でも母には父がいた。だから人の世で生をまっとうした。
リディアにはまだ、自分の未来がどこを向いているのかわからない。
いつかは人の世界に見切りをつけ、妖精の国へ行くことになるのだろうか。
「おまえらはさ、死ぬまであっという間なんだから、こんなキタナイ街で無駄《むだ》な時間を過ごしてる場合じゃないぞ」
妖精にとっては数十年なんてあっという間だろうけれど、人にとってはそれなりに長いのだ。
それでもリディアは、あっけらかんとしたケルピーの言葉になぐさめられた。
水の精霊に触れられていると、少しひんやりとしているけれど清浄《せいじょう》な気配《けはい》に包まれる。身体にたまっていた濁《にご》りが、浄化されていくようだ。
恐ろしい性質を持つ水棲馬だが、きれいな水にしか生息しない彼らは、水を浄化する力があるという。だから彼らが棲む川や湖は、いつでも澄んだ水がたっぷりとたたえられ、人も動物も、その恩恵《おんけい》にあずかっているのだ。