妖精と接していると、人の世の仕組みも考え方も、一方的な見方なのだと思えてくる。ケルピーを悪い妖精に分類するのも、一方的な人の都合だ。
だったら人の世で、いやなことがあったり、悩んだり失敗したり、それくらい何よと思う。疲れ果てたら妖精の国が、やさしく迎えてくれるだろう。
「あなたって、意外といい奴よね」
魔性《ましょう》なのにまっすぐなケルピーと、人間なのに、いや人間だからうそだらけのエドガー。
個として見れば、エドガーの方が悪人じゃないだろうか。
けれど、人間だから善悪の間をゆれ動く。エドガーがわかりにくいのは、ゆれる幅が広すぎるから。それを本人が自覚していて、ときどきとてもつらそうで、そういうときリディアは、傲慢《ごうまん》な彼をこの手の中のひよこのように感じてしまうのだ。
包み込んであたためてあげることが、もしも自分にできるならと。
でも彼は、友情なんかいらないと言った。リディアが必要だと言いながら、本当のところ、からかって遊ぶ気晴らし程度にしか考えていないのかもしれない。
階段をあがってくる足音が聞こえていた。いつのまにかケルピーは姿を消していた。
部屋のドアをたたいたのは、帰宅したらしい父だ。
「リディア、誰かいるのか? 話し声が……」
「いいえ父さま、妖精よ。もう行っちゃったわ」
「食事をしたくないと聞いたんだが」
「うん……、あんまりおなかすいてなかったの。でも、少し食べようかな。父さまといっしょに」
立ちあがりながら、|家付き妖精《ホブゴブリン》のためのミルクとビスケットを置いたテーブルに、ひよこをそっと放す。
働き者のホブゴブリンがすぐに集まってきて、小さな生き物を取り巻いた。
「この子の面倒を見てあげてね」
*
リディアが震《ふる》えていると言って、あのときポールは引き下がらなかった。
伯爵家に入り込んで、探るのが目的なら、エドガーの機嫌をそこねるようなことは避けるだろう。
だとすると、ポールはやはり〝|朱い月《スカーレットムーン》〟とは無関係なのか?
それとも、自分の目的よりも、正義感が勝ったか。
考えながらエドガーは、軽い自己|嫌悪《けんお》に陥《おちい》り、ため息をついた。
「どうかなさいましたか」
馬車の中、ドアのそばに座っているレイヴンがこちらを見た。
窓の外を、オックスフォードストリートの雑踏《ざっとう》が流れていく。
ポールが義賊団《ぎぞくだん》と関係があるのかどうか、そのことについて頭の中を整理したいのに、考え始めるとどうしても、リディアの顔が目に浮かぶ。
「ちょっとね」
震えているリディアに罪悪感をおぼえながら、けれどあのときポールの存在に気づいたエドガーは、彼の出方を見るために、わざとリディアを離さなかった。
その一方で、自分を拒絶し続ける彼女に苛立《いらだ》っていて、止められなければまずいことになっていたかもしれないと思う。
冷静にリディアの価値をはかっている自分と、感情的にほしがっている自分がいる。
リディアが離れていくと困るのだから、彼女の言うように友情を築けばいいのかもしれないが、そう申し出られると腹が立つのだからどうしようもない。
「レイヴン、リディアを利用しているのはたしかなのに、そう思われたくないってのはどうなのかな」
「どう思われればいいのですか?」
「彼女に恋いこがれているからぜったいに離したくないと思ってる、とか」
「いまさら無理なのでは」
だから困るんだ、とエドガーは腕を組む。いくらそう言っても、リディアは信用してくれない。
「あの、それは本気なのですか?」
「うん、ぜったいに手放したくない」
「いえ……そこではなく」
「恋いこがれているかってこと? 問題は、そこのところが本気ですべてうまくいくというなら、いくらでも本気になれるってことだ」
わからないというふうに、レイヴンは首を傾《かし》げた。
「でもリディアは、そういう本気を認めないだろうね」
いつまでたっても片想いだ。とエドガーは吐き出すように言った。
「そんな本気があるかよ」
動く馬車の中に、いるはずのない声がした。
「あきれるね。やっぱりあんたなんかに、リディアをあずけておけねえよ」
向かいの席に、ゆるりと姿を現したのは、黒髪巻き毛の青年だ。
とっさに動こうとしたレイヴンを、エドガーは視線で止める。
「ケイン君、僕に用があるなら執事《しつじ》を通してくれないと困るな」
「人間のルールなんか、俺には関係ない。それにリディアは、フェアリードクターになりたいってだけで、あんたのことなんかどうでもいいんだ。勘違《かんちが》いするなよ」
「きみ、彼女に求婚を断られたはずじゃ? 少なくとも僕はまだ、はっきりと拒絶されていない」
「断られたなんて俺は思ってないね。人間なんてすぐ歳をとるわ無能だわ、憎しみ合うし殺し合うしだまし合う。フェアリードクターなら、いずれそんな連中よりも、妖精と暮らしたいと思うはずだからな」
「水棲馬《ケルピー》とかいうのだっけ。きみは人を喰《く》うんだろ? うっかり食べられてしまうんじゃないかと、リディアだって警戒《けいかい》してると思うよ」
「喰うわけないだろ。ケルピーの意志は強いんだ」
「もったいない。僕はリディアを食べてみたいけどね」
ケルピーはあからさまに顔をしかめた。
「あんた……、人間のくせに。ヘンタイか?」
くす、と笑いながら、エドガーは視線をあげた。
「きみは、どうしてリディアが好きなんだ? 人を好きになるなんて、水棲馬の性《さが》に反しているんじゃないのか?」
「俺のことを怖がらないからだ。そりゃ水棲馬だから危険視してるさ。でも種族じゃなくて、俺自身を見てる。近寄っても話しかけても逃げたりしない。そんな人間ははじめてだった」
「じゃあ、リディアに会うまで孤独だったんだね」
「孤独? 水棲馬ってのはそういうもんだ。同族とも離れて暮らす」
「でも彼女に会って、他人に受け入れられる心地よさを知った。それで、彼女を独占したくなった」
ケルピーは、心の内を探ろうとするようにじっとこちらを見た。美しい、黒|真珠《しんじゅ》の瞳だ。人ではない魔性《ましょう》の輝きは、リディアの金緑の瞳にも通じるものがある。
何もかも見透《みす》かされそうで、それなら何も偽《いつわ》る必要はないと、安心させられるような。
「よくわかるな」
「僕も同じだ。彼女は僕のやってきたことを怖がらなかった。世間が僕のような人間に貼るレッテルよりも、僕自身の言葉を聞いてくれて、同情してくれた。力を貸してくれた。人として失ってはいけない部分を、僕に思い出させてくれた。リディアがいればこの先も、まだ少しはまともでいられるかもしれないと思っている」
「はあん、あんた地獄へ堕《お》ちるたぐいの人間か」
にやりと、ケルピーが笑う。くらくらするのは、妖精の魔力のせいだろうか。男も女も見境《みさかい》なく喰うのだったか。だとしたらこの妖《あや》しい美しさに惑わされるのは、男でも同じなのか。
最高級の美術品みたいだ。手に入れようとして罠《わな》にはまるのも無理はない。
「エドガーさま!」
レイヴンが声をあげ、エドガーの肩に触れた。一方で、ケルピーの眉間《みけん》にナイフを突きつける。
「そうカッカすんなよ、ぼうや。……いや、そいつは蛇《へび》か? それとも鳥か?」
ケルピーが体を引けば、呪縛《じゅばく》から解放されたかのように、急に体が軽くなった。
「大丈夫だよ、レイヴン」
彼にナイフを退《ひ》かせながら、エドガーはつぶやく。
「まあね。地獄を信じていないけど。……だからケイン君、僕は彼女を手放すつもりはない。これだけは本気だからね」
ふん、と彼は鼻で笑った。
「受けてたってやる」
ケルピーが消えると、ほどなくして馬車は止まった。
エドガーがやってきたのは、ロンドン大学ユニバーシティカレッジだ。
馬車を降りて、リディアの父、カールトンが勤めるその建物へ、彼はひとりで入っていく。
少し訊《たず》ねたいことがあって、個人指導の合間に時間をあけてもらったのだ。
カレッジの職員に案内され、研究室を訪ねると、教授というよりは雑務係かと思うような、ボサボサ頭に丸|眼鏡《めがね》のカールトンが迎えてくれた。
「ようこそ、伯爵《はくしゃく》。ちょっと今散らかってましてすみません」
と言いながら積み上げられた書物とデスクの間をすり抜けようとしたカールトンは、上着のすそを椅子《いす》に引っかけ、派手に書物の山を崩した。
「ああっ、まったくこんなところに本を積み上げるものですから……。いえ、伯爵、お気になさらずに。どうぞおかけください」
来客用のソファに、書類が散乱していることに気づいたらしく、あわてて片づける。
隣室《りんしつ》にいたらしい弟子のラングレーが、さっと手を貸さなければ、集めようとした書類の束をまたぶちまけてしまいそうな手際《てぎわ》の悪さだった。
「あの、それでお話というのは、リディアが何かご迷惑を?」
どうやら彼が落ち着きない様子だったのは、エドガーが娘のことで文句を言いに来たのかと心配していたせいらしい。
「いいえ、リディアさんはとてもよくやってくれてます。そうではなくて教授、宝石のことで教えていただきたいことがあるのです」
宝石と聞いて、カールトンは相好《そうごう》を崩した。
鉱物学は彼の専門分野だ。学問バカ、とリディアが言うだけあって、とたんに神妙《しんみょう》な学者の表情に変わる。
「ムーンストーンなんですが、本物の月のように、満ち欠けするものがあると聞きました」
ムーンストーンについて知りたいと思ったのは、その宝石が青騎士伯爵という名にまとわりつくように感じたからだった。
昔、妖精女王に『月をくれたら』と結婚の約束をしたという。そして女王が見つけてきたのは、月のように満ち欠けするという白いムーンストーン。
エドガーがふと思ったのは、昔の青騎士伯爵のその言葉は、本当に結婚を断るための常套句《じょうとうく》だったのだろうかということだ。
そしてもう一方の〝月〟、スカーレットムーンという義賊団《ぎぞくだん》。その名が赤いムーンストーンから来ているとすると、なぜムーンストーンなのだろうという疑問が浮かぶ。
青騎士伯爵のニセ者が許せないらしい彼らは、〝月〟にどんな意味を持たせているのだろう。
ひょっとするとムーンストーンは、青騎士伯爵と深い関係があるのではないか。
しかしエドガーは、伯爵家について、領地の妖精国がどこにあるのか、本当にあるのか、当主がどんなふうに妖精たちとかかわってきたのか、何一つ知らないのだ。
「ムーンストーンの内側の光は、違う種類の鉱物が層状に薄く重なることで生み出される反射光です。非常に繊細《せんさい》な構造ですので、たとえば満月の光と、暗い三日月《みかづき》の光とでは、その反射光も違ったように見える、かもしれませんね」
「ではあくまで印象の問題であって、本当に光り方が変わるというものはないと」
「どうでしょう。などと言うと、鉱物の構造と組成《そせい》を突き詰める立場からすれば、ある種のダイヤモンドが呪われているというくらい信じがたい話です。ですが昔から、月のように満ち欠けするムーンストーンが存在しているという話は、人々に信じられています」
たとえば、とカールトンは思いをめぐらせる。
「有名なところでは、中世のローマ教皇、レオ十世が、そんな不思議なムーンストーンを持っていたとか」
「そのような逸話《いつわ》はほかにも?」
「じつのところ、いくらでもあると言っても過言ではありません。ムーンストーンはその名のとおり、月の変化とともにある、あるいは月のかけらだと考えられてきた宝石なのですから。人の心の目は、程度の差はあれど光が満ち欠けする石として、ムーンストーンを眺めてきたわけです」
とすると、昔の青騎士伯爵が求め、妖精女王がみつけてきたものは、ムーンストーンの中でも高度に繊細な反射光を持つものにすぎなくて、何か不思議な力を持つものではないということだろうか。
ポールの指にはまっているものを、毎日確認してはいるが、まだ満月には間《ま》がある。輝きの幅は、広くなったようにも見えるが気のせいかもしれないと思う程度だ。
少し思案し、エドガーは言葉を続けた。
「教授、あなたは古今《ここん》東西の伝説的な宝石についてもお詳しい。アラビアンナイトに登場する魔人が隠し持つ石でさえ、鉱物学的見地から種類を推定されますよね」
「あれは趣味みたいなもので」
「いいえ、ほかにそういうことを誰もやっていないのですから価値がありますよ」
そして本題を切り出すことにした。
「じつは、伯爵家の先祖のひとりが、そのような満ち欠けするムーンストーンを探していたのではないかと思われるのです。何のためかはわかりません」
「結婚相手を探すためでは?」
カールトンは、少々照れたように笑いながらそう言った。
「ムーンストーンは愛の絆《きずな》を保つ石だと言いますので」
「それは知りませんでした。鉱物学はそんなロマンティックな内容も研究なさるんですか?」
「いえいえ、これはたまたま聞き知っただけで。昔、妻がそう言って、結婚指輪にムーンストーンを……。あっ、私事《わたくしごと》で話がそれてしまいましたね。ええと、お知りになりたいのは……」
「いえ教授、すてきなことをうかがいました。僕もいつか、愛する女性にはムーンストーンを贈りたい」
にっこり笑ってそう言うと、カールトンは急に不安げな表情になった。
「伯爵、まだお若いですから、急ぐことはありませんよ。女性は選《よ》り取《ど》りみどりでしょうし、あまり早まっては後悔する場合も……」
「年齢よりも、お互いの気持ちしだいでは?」
うろたえる様子がおもしろい、などと不謹慎《ふきんしん》ながらエドガーは思う。
「そ、そんなご令嬢《れいじょう》がいらっしゃるので?」
「一般論ですよ」
ほっとしたように、彼は額《ひたい》の汗をぬぐった。
「でも教授、かわいらしいお嬢さんを持つと心配ですね。いずれロマンティックな宝石ひとつで、彼女の心を手に入れる男が現れるかもしれない」
カールトンはそのまましばし硬直した。
そしてふと我に返ると、かなり強引に話をもどした。
「ああっそういえば伯爵、結婚相手で思い出しました。あなたのご先祖、青騎士|卿《きょう》の物語に登場するお妃《きさき》が、そのままムーンストーンを象徴しているのではなかったですかな」
それは思いがけない話だった。
青騎士卿の物語は、もちろんエドガーは何度も読んでいる。しかし、ムーンストーンが出てきた記憶はない。
「卿の妃、というと、彼の守護妖精でもあったという弓の名手でしたか」
弓の使い手である守護妖精はふたりいた。そのうちひとりが妃だったはずだ。
頷《うなず》きながら、カールトンは棚から取りだした本をぱらぱらとめくる。
青騎士卿を主人公としたその本は、読み物としてはよく知られたもので、書かれたのはエリザベス朝。当時|流行《はや》った妖精趣味が散りばめられた物語になっているので、実在した人物について書かれているとはいっても、絵空ごとだと一般的には受けとめられている。
アシェンバート伯爵家の始祖《しそ》、青騎士卿が英国王の騎士として活躍し、伯爵に叙《じょ》せられたのは事実でも、妖精が現れ魔法が飛び交うといったくだりは、鵜呑《うの》みにするのが難しい。
もっともリディアは、妖精を知っているだけに、ありえない話ではないと言っていたが。
「弓の使い手、それが月を象徴的に言い表しているというのはおわかりいただけますか?」
なるほど。月の女神ダイアナは、狩りの女神でもあった。三日月の形が、弓を連想するからだろうか。月と弓は、文学的にも絵画的にも、古来からしばしば同じ意味に使われる。
「それに月は、妖精族にとって高い位《くらい》を表すもの。守護者の妖精の名も、月をイメージしてつけられたものだと思われます」
「名、……妃の妖精がグウェンドレン、もうひとりがフランドレン」
「ゲール語で、白い弓、朱《あか》い弓です」
「つまり、白い月と朱い月……」
「どちらも、ムーンストーンの色です。フランドレンについては、青騎士卿の子だという説もありますし、彼女らが宝石を身につけていたという描写からするに、満ち欠けするというムーンストーン以上にふさわしい宝石があるでしょうか」
ああそれだ。
昔、野原の妖精女王との結婚に、『月をくれるなら』と条件を出した伯爵《はくしゃく》には、先祖の守護者だった妖精たちのことが頭にあったはずだろう。
本当に結婚相手をさがしていたのか、それとも守護妖精の縁者を見つける必要があったのだろうか。
だがそれはもう、遠い昔のこと。
ポールの手にあるムーンストーンの指輪が、グウェンドレンのものだったかどうかはわからないし、そうだったとしても、その名の妖精はすでにいないからこそ指輪だけを女王が見つけてきたのだろう。
今のエドガーに関係あるのは、〝朱い月〟のほうだ。
脅迫状《きょうはくじょう》をよこした義賊団が、この物語をもとにして、〝朱い月〟を名乗っているのだとすると、彼らは青騎士伯爵の守護者のつもりでいるということになる。
だからニセ者が許せない。宝剣を取り戻さなければならないと考えている。
しかし、プリンスとのつながりは?
プリンスに敵対する連中が、青騎士伯爵の射手《いて》を名乗る意味は?
それを調べるのは、エドガー自身の仕事だ。
エドガーは立ちあがった。
「ありがとうございました、教授。勉強になりました」
「お役に立てましたか」
握手を交わしながら、彼はまたふと、リディアの父に訊《き》いてみたいことが思い浮かんだ。
「教授、もうひとつだけ質問してもよろしいですか?」
「ええもちろん」
「奥さまはフェアリードクターだったと聞きました。見えないはずのものが見える、そういう女性を好きになるのは、勇気がいりませんか?」
どんなに表面を取り繕《つくろ》っても、本音も弱みも、すべて見透《みす》かされそうで。
「私は、身勝手に妻を故郷の島から、親しい妖精たちから奪い去ってきました。そこで彼女に用意されていた運命から引き離して。多くを奪い、けれど代わりに与えることができたのは、わずかだったように思えてなりません。……ああまた話がそれてしまいましたが、人を好きになるのに勇気なんか必要でしょうか? どうしようもなく、惹《ひ》かれ合うんじゃないでしょうか」
おだやかに、彼は微笑《ほほえ》みを浮かべた。
駆け落ち同然だったのかと、エドガーは意外に思った。そんなふうに情熱的なタイプには、カールトンはとても見えない。
「きっと誰にでも、突然そのときはやって来る。勇気なんかなくても、当然のように困難な道に踏み出してしまう。そのとき私は、ひとつ覚悟しました。私が妻をその家族から奪ったように、リディアもいつか私よりも大切なものを見つけるでしょう。でもそれはリディアにとって、悩む必要もないくらい当然の選択でなければならないと考えています」
やられたかな、とエドガーは思う。
カールトンは、素でどこか抜けててお人好しなのに、鋭くて頭のいい人だ。そしてやんわりと、エドガーに釘をさした。
[#挿絵(img/moonstone_167.jpg)入る]
いいかげんな気持ちでリディアに近づいても無意味だと。
そう言われれば、エドガーはどちらかというと闘志をかき立てられる方だ。ケルピーとにらみ合ったときはそうだった。
けれど今は、不思議と落ちこまされた。
リディアを引き止めておく手ならいくらでもある。本気でなければだめだというなら、本気にくらいなってやろうと、傲慢《ごうまん》にも考えていた。
そういう意気込みもたくらみも、あっさり蹴散《けち》らされてしまったかのようで、不思議とエドガーは、単純なほどリディアに会いたいと感じていた。
今日も伯爵家に出勤してきていた彼女だが、仕事部屋にこもったきり、エドガーのためにドアを開けてもくれなかった。
自業自得だとはいえ、当分まともに口をきいてくれそうにない。
そのくらいどうってことはない。リディアにとってフェアリードクターの仕事は重要で、おいそれと休んでなんかいられないというのが理由だとしても、完全に拒絶されてはいないと思う。
昨日のことなどうやむやにする自信はある。
しかしそうできたからといって、リディアが自分から彼のそばにいてくれるようになるわけではないのだと気づかされた。
リディアのことは、わりと、けっこう好きなんじゃないかと思っているのに、決定的に足りないものがあると、はねつけられたようだった。
[#改ページ]
射手《いて》の矢は放たれて
公園に横たわる広い池の底で、漆黒《しっこく》の水棲馬は目を覚ました。
まだうっすらと朝霞《あさもや》のたちこめる時刻だ。公園内に人の気配《けはい》はほとんどない。
馬の姿のまま水面に浮上し、優美なたてがみを硫《す》くように、ゆるやかな波を立てて泳ぐ。
気配に気づいた水鳥たちが、いっせいに空へ飛び立った。
「腹減ったな」
と彼はつぶやく。
そのへんをちょろちょろしているリスなんて喰《く》う気にならない。しかしロンドンにいる大きめの動物といえば、人か馬くらいだ。
馬なら食べてもいいだろうかと思うものの、たいてい人が乗っているから、襲《おそ》いかかるのが難しい。
「港でブタをさらってくるか……」
岸へ上がったそのとき、人の話し声が聞こえてきた。
ずいぶん早朝の散歩だと思いながら、ケルピーは、辺《あた》りの木々や草のように気配を消す。
彼の姿が見えない人間は、警戒心《けいかいしん》もなく近づいてきて、公園の小道が奥まったその場所で足を止めた。
狩りには絶好のチャンスだが、喰うわけにいかないのだから、さっさとその場を離れようとした。それを思いとどまったのは、ふたりの人影のうちひとりに見覚えがあったからだった。
リディアに〝月〟の指輪を贈るはずだったのに、じゃまをしたあの画家だ。右手には、まだあの指輪がはまったままだ。
「伯爵《はくしゃく》を、殺す?」
画家がそう言ったのが聞こえた。
おやおや、人間どうしはこれだから。と思うケルピーには人殺しなどどうでもよかったが、伯爵というのがあのクソ生意気な若造《わかぞう》だとすると気にしないわけにはいかなかった。
もうひとりの男は、静かにと言うように人差し指を立てた。
「何を言うんです。あの方は青騎士伯爵ですよ。我らが結社〝|朱い月《スカーレットムーン》〟の頂点に君臨《くんりん》すべき方ではないのですか? 伯爵にこの結社の存在をあかし、認めていただくために、伯爵家に接近するのがぼくの役目ではなかったんですか?」
「あの男はニセ者だ。我らが待っていた青騎士伯爵ではない」
「でも、宝剣がありました。ちゃんと確認しましたけど、本物です。我らが結社に保管されている三百年前の絵、当時の青騎士伯爵と宝剣を描いたという、現存する唯一のもの。間違いなく宝剣は、絵の中のそれとそっくり同じでした」
「わかっている。今現在、青騎士伯爵の宝剣が本物かどうか判断できるのは、王家と紋章院《もんしょういん》と我々くらいしかいないだろう。だからこそ、きみのその報告を聞いて、ミスターは結論を出した。奴はニセ者である上に宝剣を盗んだ許せない人物だとな」
「どうしてニセ者だと断言できるんですか。三百年も不在だった青騎士伯爵の後継者《こうけいしゃ》を、誰も見たことなどないはずでしょう?」
「だがポール、伯爵家にいる東洋人の少年を知っているだろう。あの少年は、プリンスの奴隷《どれい》として殺人の訓練を受けていた。おぼろげながらも見覚えのある者が仲間にいた。ひとりじゃない、プリンスのもとを逃れ我らが保護した何人かが、あの東洋人を知っていたんだ」
「プリンスの……?」
「ああ、はっきりと確認するために、マイクがダンス教師に扮《ふん》して潜入《せんにゅう》した。よけいなことをしでかしてあのざまだがな、ただの召使いじゃないことははっきりしたさ。それに、プリンスが特別扱いしていた白人奴隷は金髪の美しい少年だったというし、どう考えてもあのふたりは、アメリカから送り込まれ青騎士伯爵の宝剣を盗むよう命令されたプリンスの犬だ」
よくわからないが、エドガーは青騎士伯爵の血筋じゃないらしいとケルピーは話を聞きながら、だからといってニセ者だと考える理屈に首を傾《かし》げた。
妖精の魔法を秘めた宝剣を持っているんだから、本物でいいじゃないかと思う。
どうせ人間なんて、妖精にかかわれる者とそうでない者と、二種類しかいないのだから。
しかし画家は、伯爵がニセ者だということより、別のことに驚愕《きょうがく》したようだった。
「そんな、あの伯爵がプリンスの仲間なんですか? どうして今まで教えてくれなかったんですか!」
「きみはすぐ顔に出るじゃないか。今回の役目だって、本物の青騎士伯爵だと思い込んでいたからこそ、向こうにあやしまれずにうまくやれたんだろうが。きみの伯爵に対する邪気《じゃき》のなさで、かえって信用させられると踏んだからこそ、脅迫状《きょうはくじょう》を出して奴らを混乱させるようにも仕向けた」
「プリンスという人物は、父を殺した組織のリーダーだと……」
「だからこそきみに、我ら〝|朱い月《スカーレットムーン》〟の一員として、もう一仕事してもらわなきゃならない」
「ぼくに、人を殺せというんですか」
「あれは悪魔の手先だ。人だと思うな。知っているだろう、プリンスという奴は、自分の目的のためには手段を選ばない。裏社会の帝王でも目指しているのか、それとももっととんでもない野望があるのか知らない。だが我々が、それを阻止《そし》せねばならない」
男は熱く語り続ける。
「いいかポール、これがすめば、ほとぼりが冷めるまできみは海外で暮らす。イタリアで学んでみたいと言ってただろう。それだけの金は用意してある」
画家は混乱しきった様子で、曖昧《あいまい》に頷《うなず》く。
「きみはこれまで、あのニセ者を伯爵と信じ崇拝《すうはい》していた。宝剣を見たいと言ったきみのことを、奴らはそれなりに警戒《けいかい》しただろうが、きみの態度に不審《ふしん》なところは見あたらなかったはずだ」
「でも、もし彼らが、ぼくの出自《しゅつじ》を調べて、不審な点に気づいたら……」
「気づくわけがない。我らの結社の力で、きみの過去を隠し、ファーマン氏の息子に仕立てあげた。きみのことをいくら調べても、プリンスに殺された父親とつながるものは何もない。昔のきみを知っているのでない限りな」
心配そうなポールの肩を、その男はなだめるようにたたいた。
「プリンスはじゃまな人間を片っ端から殺している。その中のひとり、八年も前に死んだオニールのことなんて、あの若い手下が知るわけないだろ」
「でも……」
「まだ何かあるのか?」
「伯爵を怒らせてしまったような。いえあの、あれからお話しする機会がないのでどう感じていらっしゃるかわからないんですが。ええまあ、たいていの場合|寛大《かんだい》な方だと思うんですけど、なにしろ伯爵が少々強引に、身分違いの少女に言い寄っていたものでつい」
「ポール、……奴はすでにロンドンの社交界じゃ有名な女たらしだぞ。たいていのことに寛大なのは、女にしか関心がないからだ。横取りしてどうする! 禁止されて久しいというのに、いまだに決闘なんてことをやっている連中の、いちばんの原因は女だぞ」
「いえあの、横取りしたわけでは……。それに決闘なんてぼくには無理ですよ」
「アホか! 貴族が庶民《しょみん》と決闘するか! その場で撃ち殺すだけだ」
とりあえずその場では殺されなかったなどとつぶやく画家にあきれたらしく、もうひとりの男は頭をかかえ込んだ。しかし何か思いついたのか、ふと顔をあげた。
「そうだ、それならますます、きみがスパイだとは思われにくいだろう。よし、さっさとあやまって関係を修復しろ。奴はきみに油断する。ふたりきりのときをねらえ」
男は上着の中から小さな薬|瓶《びん》を取りだした。まだ迷っている画家の手に、それを押しつけると、足早に立ち去った。
残された画家は、自分の手の中にあるものを、しばらくじっと見つめていた。ようやくのろのろと、ポケットに入れようと手を動かしたが、震《ふる》えていたせいか、薬瓶を落としてしまう。
「あ」
と彼が目で追っているうち、転がったそれは池の中へぽちゃんと落ちた。
急に画家はきびすを返し、その場から逃げ出そうとする。自分で薬瓶を捨てる度胸はないが、この幸運にすがって自分の役目から逃れようというのか。
おい、伯爵《はくしゃく》を殺すんじゃなかったのかよ。
せっかくおもしろくなってきてたのにと、ケルピーはさっと水底の薬瓶を拾いあげ、画家の前に姿を現した。
「落としものだ」
怯《おび》えたようにこちらを見るのは、水棲馬が目の前に現れたからか、それとも薬瓶とともに、再び自分の仕事を突きつけられたからか。
「しっかりやれよ」
魔力を持つ視線を彼に注げば、画家の中で、エドガーが親の仇《かたき》だという憎しみがふくらんだことだろう。
ケルピーから、おそるおそる瓶を受け取った画家は、重い足取りで立ち去りながら、しかし二度と瓶を落とさないようしっかり握り込んでいた。
さてと、とケルピーが考え込んだのは、画家が伯爵を殺すのはいいとして、ふたりの近くにいるだろうリディアへの影響だった。
何かの間違いで、リディアが巻き込まれそうになっては困る。
彼女のことだ、伯爵と画家がいさかいを起こしたら、しゃしゃり出ていくに違いない。
「チッ、食事に出かける場合じゃないな。まったく、人間どもは困ったもんだよ」
画家をけしかけるのに自分も荷担《かたん》したことは棚上げにし、ケルピーはつぶやいた。
*
オニールという画家についての調査報告書を手に、エドガーはきつくまぶたを閉じた。
今朝《けさ》早く、調査を依頼した探偵から届けられたものだった。
それによると、風光明媚《ふうこうめいび》な場所にある貴族の荘園邸宅《マナーハウス》を描くことを専門職にしていたパトリック・オニールという画家はたしかに存在した。彼が手がけた絵は、むろん依頼人のマナーハウスに飾られるので、一般に売り出されることはまずない。だがこの|社交界の季節《ザ・シーズン》のおり、ロンドンに集《つど》っている地方貴族には知っている者も多い。
彼には息子がひとりいた。名はたしかにポール、年齢も合う。ただし、オニールの死後、どこでどうしているのかはまるで不明だということだった。
天涯《てんがい》孤独の身になった十六、七歳の少年が、大都市へ紛《まぎ》れ込めば、所在はおろか、生死すらわからないのはありふれた話だ。
オニールの死因は、当時住んでいたバースの自宅でのガス中毒によるものだとある。事故死となってはいるが、殺されたと、幸い中毒が軽く助かった息子は言い張っていたらしい。
「殺された……?」
ともかくポールは、父親の死後、ファーマンという別の画家の息子として暮らしていたことになる。
それもずいぶん巧妙《こうみょう》だ。ポールが自ら仕組んだこととは考えにくく、組織的な後ろ盾があるように思える。
その組織とは、〝朱い月〟だろうか。
オニールは、エドガーの家を描いた。家族も、エドガー自身も。
絵は屋敷とともに燃えてしまったはずだが、もしかしたら彼は、スケッチや習作のひとつやふたつ保管していたかもしれない。
プリンスは、エドガーを見て公爵家《こうしゃく》を思い出す人物がひとりでもいれば困るはず。あるいはオニールが、公爵家にいる間に、プリンスにとって不都合なことを知ってしまったから追ってまで殺したのかもしれない。
そしてその後、偶然助かったポールを〝朱い月〟が隠したのだとすると……。
もはやポールを、昔のままだとは言っていられない。
しかしエドガーは、報告書を隠すかのように書物の間にはさんだ。ちょうど書斎《しょさい》へ、レイヴンが入ってきたところだった。
「レイヴン、僕はプリンスに似ていないだろうか」
紅茶を淹《い》れる彼を眺めながら、問いかけていた。
「何をおっしゃいます」
「外見のことじゃないよ。奴は自分のような人間に僕をつくり変えようとした。あそこで受けた矯正《きょうせい》教育、知識も教養も動作や言葉の選び方や、考え方や感じ方でさえたたき込まれた。今の僕は、昔の自分よりもプリンスに近いんじゃないだろうかってさ……。人を支配し利用する方法を知っている。いくらでも残酷《ざんこく》になれる。心も痛まない。気がつけば僕は、唯我独尊《ゆいがどくそん》の厚顔無恥《こうがんむち》、何もかも思い通りにならないと気がすまないし、たてつく奴はめちゃくちゃにしてやりたくなる。そのうえ女たらしだ」