「違います。あの男はただの女好きで、たらしこめるような才能はありませんでした」
レイヴンはまじめな顔でそう言った。
「そこだけ訂正してくれるのか。ありがとう」
悩みながら、レイヴンはまた口を開く。
「ちっとも似てません。似ていたら、誰があなたを信頼しともに戦うためについてきたでしょうか」
その言葉を素直にうれしく思いながら、けれどエドガーは、やっぱり似ているのだと思う。
これからも、生きている限り似ていくだろう。あの男を意識しながら、戦っていこうとするなら、もとの自分を切り捨てていくことになる。
たとえば、幸福な頃の自分を知るポールを、この手で葬《ほうむ》らねばならないように。
「エドガーさま、だから、私は心配です。わずかでもわかり合えたと感じた相手には、あなたは、とてもやさしい」
ポールのことだろうか。彼が義賊団《ぎぞくだん》のスパイでも、エドガーには手を下《くだ》すことができないかもしれないと心配しているのか。
「レイヴン、成長したね」
人を殺す機械のように扱われてきた少年を、守ってやるつもりでここまできた。けれど本当のところ、彼にどれほど救われているだろうとエドガーは思う。
守るべき人がいるうちは、まだプリンスのようにはならないかもしれない。
わかり合えるはずの人を、傷つけることになったとしても……。
*
「いったい何なのよ!」
リディアはとうとう頭にきて、声をあげた。
というのも朝、目が覚めたときからケルピーが部屋に居座っていた。
女の子が寝てるのに! と追い出し、身支度《みじたく》を整えて朝食を取ろうと居間へおりていったら、まだそこにいた。
図体《ずうたい》も態度もでかい青年が、妖精だとはニコにでも聞いたのだろうが、父が困惑を浮かべながら、生卵を殻《から》ごと口に放り込むケルピーと向き合っていた。
もちろんニコは、野蛮《やばん》なケルピーが苦手だから、いっしょに食事をする気になどなれなかったのだろう。リディアと入れ違うように、不機嫌に鼻を鳴らしながら出ていった。
それからずっと、ケルピーはリディアの見える範囲にいる。
伯爵邸へ馬車で出勤する間も隣にいる。この調子だと、リディアが帰る時間まで、仕事部屋に居座るつもりではないだろうか。
べつに用事があるふうでもなく、ただそこにいるのだから、リディアもいいかげん気分が悪い。
「まあ気にすんな」
ケルピーはそう言うだけだ。
伯爵邸へ到着し、御者《ぎょしゃ》がドアを開けると、降りようとしたリディアを押し戻すようにして、エドガーが乗り込んできた。
「おはよう、リディア」
彼のことはあれ以来、三日ほど避けていたから、突然のことで戸惑《とまど》った。
「お、おは……、ていうか、何?」
あからさまにリディアは引き気味になっていたが、エドガーは意に介さなかった。
「ちょっと話をしよう。ケイン君、この馬車はふたり乗りだ。どこか行っててくれないか」
「なんで俺がどかなきゃいけないんだ」
「うちの馬車だ。御者も馬も」
ふん、とケルピーは鼻を鳴らす。
「まあいいだろ。あんたもあわれな奴だからな」
どういう意味? 訊《たず》ねようとしたが、ケルピーはさっさと消えてしまった。
でも、この狭い空間にエドガーとふたりきり?
気づいたとたん、リディアはまた怖くなった。
「ちょっと待って、あたし降りる!」
「リディア、きみには触れないと誓うから、ここにいてくれ」
いつになく切実な言い方だったからか、どのみち降ろしてくれそうにないなら刺激しまいと思ったのか、とにかくリディアはしかたなく、座席に腰を落ち着けた。
御者にはそのへんを走らせるように伝え、彼はようやくほっとしたかのように、「いい天気だね」とのんびりしたことを言った。
「曇り空よ」
「ロンドンではいい方だ」
「まあそうね」
「この間のこと、まだ怒ってる?」
怒っているのかどうか、リディアにもよくわからない。よくよく考えれば、怒るほどのことはなかったような気もする。
手首にキスされたといったって、エドガーはそこら中の淑女《しゅくじょ》の手を取っては口づけているはずだ。
貴婦人に対するあいさつみたいなもの。それを悪ふざけでリディアにしただけではないのだろうか。
ふつうは手の甲だけど、そんなに違わないじゃない。
とは思っても、あのときの、扇情的《せんじょうてき》な空気というか、彼の態度というか視線というか、何もかもが、リディアにとって未知の感覚で、逃げ出せなくてただ怖かった。
でもそれも、人付き合いが少ない、とくに男の人をよく知らない自分の、子供っぽさゆえの不安で、エドガーが悪いわけじゃないのかもしれない。
そう思っても、許してやってまた彼の思い通りなんてしゃくだ。
「べつにあたしが怒っていようと関係ないでしょ。どうせあなたにとっては、ちょっとだけふざけてみたってくらいだもの」
「どうすれば許してくれる?」
「ほうっておけばそのうち忘れるんじゃない?」
「そのうちっていつ? きみと気まずいままだというのは、心残りだ」
「心残り?」
「間違えた。気がかり」
変な間違え方、と思ったものの、さほど気にはとめなかった。
「忘れるんじゃなくて、許してほしいんだ。僕は忘れたくない。いやな思いをさせたかもしれないけど、あんなにきみに近づけたと感じたことはないから」
今のエドガーは、約束どおり少しも触れようとしなかったけれど、リディアはまた、さらりと撫《な》でられたような気分になった。
でも、そんなふうだから、ますます許すとは言いにくい。
あのときのことだけでなく、これからもエドガーが接近することを許してしまうみたいではないか。
戸惑い、うつむくしかないリディアから、許すという言葉を引き出すのはあきらめたのか、彼は話を変えた。
「ポールに口説《くど》かれた?」
が、ますます微妙な話題だった。
「騎士然ときみを助けていったんだから、当然気を引くようなことを言っただろう」
それが当然なのはあなただけでしょ。
「誤解してるわ。ポールさんはあたしじゃなくて、あなたを助けたのよ。あなたに、尊敬すべき人であってほしいのよ」
「彼がそう言ったのか?」
「まあね」
「……ものすごい天然バカだな。せっかくきみが、彼の勇気ある行動に胸を打たれたというのに、冷水をあびせるようなものじゃないか」
ほんの少し、がっかりしたのはたしかだけれど、そんな大げさなことじゃない。
「きみが恋に臆病《おくびょう》なのは、そういう天然|優男《やさおとこ》が、気のあるそぶりを見せておいて無邪気《むじゃき》に否定するからかもしれないね」
「好きになる前に、そんな気はないんだってわかるだけ親切よ。人の気持ちをもてあそぶあなたより、ずっと……」
かすかにエドガーが眉《まゆ》をひそめたのが、傷ついたかのように見えたから、リディアは口をつぐむ。でも、どうせそういう芝居だわとも思っている。
「そうだね。ポールは人をだますような男じゃない。でも彼は、隠し事をしているかもしれない。僕にとって重要なことを」
深刻な様子は、エドガーが彼にいだいている友情にかかわることだからだろうか。
「彼に聞いたい。話し合ってお互い、和解できるものなら。でも、ケンカになるだろうな。リディア、もし彼と僕が殴《なぐ》り合いのケンカをしたらどちらを味方する?」
「殴り合い? どう考えても、あなたが一方的に殴りつける場面しか思い浮かばないわ」
「なるほど。そういう場合きみは、ポールをかばいたくなるんだろう。でもその理屈で言うと、もし僕が負けそうだったら、味方になってくれるのかな。なら、ぶちのめされるのも悪くないかもしれない」
何が言いたいのか、わけがわからない。
でも、おだやかじゃないのはわかる。
「……ねえ、ケンカなんてしないで。彼、昔のあなたとの約束を貴重なものだと思ってるわ。画家になれたのはあなたのおかげだって、一人前の画家になれたら、誰よりもあなたに絵を見てもらいたかったって。ポールさんは、公爵家《こうしゃく》の若君は死んだと信じてるけど、あなたに姿を重ねてる。いくらケンカをふっかけても、殴るなんてできないと思うの」
少しうつむく彼の、金の髪が鼻先にさらりと落ちる。整った横顔からは、何を胸に秘めているのか少しも想像できない。
本当にポールとケンカをするつもりなのだろうか。いったい、どういう理由で?
再び顔をあげた彼は、御者《ぎょしゃ》に声をかけて馬車を止めさせた。
「リディア、時間をくれてありがとう」
「どこか行くの?」
「ちょっとね」
なんとなくリディアは、もっと言うべきことがあるような、もっとちゃんと彼の話を受けとめるべきだったのではないかと思えていた。
「あの、エドガー、あたしが味方しようとしまいと、あなたは負けないわ。うまく運を、自分の方に向けられる。ポールさんとだって、望めば和解できるはずよ」
馬車を降りた彼は、振り返ってにっこり笑う。
「やさしいね。だから期待してしまう。本当はきみは、僕が好きなんじゃないかって」
返答に困ったリディアが赤くなっているうちに、ドアは閉められ、馬車は走り出していた。
帽子《トップハット》をかぶったエドガーの姿は、すぐに人込みに紛《まぎ》れてしまった。
*
フリートストリートの下宿《げしゅく》へ久しぶりに戻っていたポールは、結社の同志に手渡された薬|瓶《びん》を握りしめながら、深い深いため息をついた。
エドガーに対する結社のたくらみを、これまで少しも知らず、彼を本物の青騎士|伯爵《はくしゃく》だと信じていた。
エドガーはポールの絵を気に入ってくれたし、貴族らしい高慢なところと気さくなところと、どちらも魅力的に持ち合わせていた。
ポールはあの若い伯爵のために、満足してもらえるような絵を描きたいと思い、そうすることで、亡くなった公爵家の若君との約束が果たせるような気がしていた。
でも、エドガー・アシェンバートを名乗る彼が、父を殺したという組織のリーダーに近《ちか》しい人物だとすると、自分の役目は重大だ。
感傷的な気分にひたってなどいられない。
「ファーマンさん、お客さまですよ」
声をかけてきたのは、下宿屋を取り仕切っている中年の家政婦だった。
彼女が開けたドアから入ってきた人物に、ポールは硬直し、思わず薬瓶を落としそうになった。
「は、伯爵……」
「どうしたんだ? この世の終わりみたいな悲愴《ひそう》な顔をしてるよ」
「い、いえ、なんでもないんです。それよりあの、こんなむさ苦しいところへわざわざ……」
「画家のアトリエに興味があったんだ」
座ったままでは失礼だと、あわてて立ちあがる。
「ただの部屋です。あちこち絵の具で汚れてますが」
椅子《いす》を勧めるべきだと考えながら、どれもこれも油や絵の具の染《し》みがあって、伯爵の高級なフロックコートを汚してしまいはしないかと心配になった。
彼もきたない椅子に座る気はないのか、窓辺に近づいて立ち止まった。
「引っ越しでもするのか?」
「えっ」
伯爵が目をとめたのは、部屋の片隅に積まれたトランクだ。海外へ逃亡する準備をしているなど、言えるわけがない。
「いえあの、あれは知人に、しばらく置かせてくれと頼まれたもので」
開いて荷物を放り込みかけたトランクもあるというのに、苦しい言いわけをする。
「そう。ここへ来たのはね、きみに聞きたいこともあったからなんだ」
薄い笑みと鋭い視線を向けられ、ポールはまた硬直した。手の中の薬瓶が、汗ですべってしまいそうだ。
「……なんでしょうか」
「ムーンストーンの指輪、どうしてはずれないままだとうそをついているんだ?」
はっと右手に視線を落とすが、指輪はそこにはなかった。絵筆を持つのにじゃまだから、ときどき左手にはめ変えていた。気づかれないよう気をつけていたつもりだが、ここは自宅だからと気を抜いて、すっかり忘れていたのだ。
「もっと以前からはずれてたよね。はずれたと言えば屋敷に泊まる理由はなくなる。リディアと親しくする機会を失いたくないから、黙っているのかと思っていた。でもきみは、僕から彼女を助けておきながら、あのあとあっさり彼女を帰した。おかしな話だ。あんな完璧《かんぺき》なチャンスにつけ込まない男はいない。よほどの朴念仁《ぼくねんじん》か、指輪をつけたままでいる目的が別にあるかだ」
あのときの状況につけ込むことがふつうなのかどうかはともかく、エドガーの言うとおりではあった。まったくポールは、朴念仁のうえに目的が別にあるのだから。
「屋敷に、まだしばらく居座る必要があった?」
どこまで気づかれている?
「……リディアさんが、伯爵邸に泊まった方が安全だと提案してくれたから、あなたが絵の仕事をくれました。指輪が意外にもすぐはずれて、屋敷にいる理由がなくなれば、絵の依頼も取り下げられるのではと心配になって」
それは本当だ。ポールはエドガーについて仲間に報告する役目を負っていたが、彼が本物の青騎士伯爵だと信じていたから、絵の依頼が何より貴重に思えていた。
「意外と、言いわけがうまいね。もっとうそのつけない男かと思っていた」
「うそじゃありません」
「きみの名は、ファーマンではなくオニールだ。これもうそじゃないと?」
なぜ、とポールは狼狽《ろうばい》した。ファーマンを調べても、オニールにつながらないと仲間は言っていたのに。
〝昔のきみを知っているのでない限り〟
家政婦がドアをたたいた。お茶を淹《い》れてきたようだ。ポールはとっさに戸口へ進み出、自分がやるからとトレーを引き取る。
「オニールも画家だった。八年前に殺された。少なくともきみは、殺されたと思っているし、そう思うからにはそのころ身の危険を感じていたんだろう」
まるで追いつめるかのように、エドガーは続けた。
ポールの決意は、ゆっくりと冷えるように固まっていった。
この美しい青年も、父を殺した結社の一味だ。やるしかない。
「何の話ですか? ぼくはずっとファーマンです。父は画家を引退しましたが健在です」
声が震《ふる》えないよう気をつけながら、ずっと握り込んでいた薬瓶のふたを取る。
中の白っぽい粉末が、紅茶のカップにこぼれ落ちる。視線の片隅で、エドガーがこちらを見ていないのを確認する。
冷静に考えれば、不信感をいだいている男の部屋で出された飲み物を、彼が口にするはずはない。しかしポールは気が高ぶっていて、細かいことまで考えられなかった。
「いったいどこから、オニールなんて名前が出てきたんです?」
エドガーのそばに、ティーカップを置く。
「彼のことは知っていた。いい画家だったね。湖のそばに建つマナーハウスは、白百合《しらゆり》館と呼ばれていたんだ。どのへんが百合なのかと、僕はずっと疑問に思っていたけれど、彼の絵を見てわかった。湖のほとりに咲く、可憐《かれん》な百合そのものだった」
ポールの目にも、鮮やかにその風景が、父が描いた絵が浮かんだ。それは、シルヴァンフォード公爵家《こうしゃく》のマナーハウスだ。
豊かな田園と神秘的な森に囲まれた、夢のような城だった。そこに住む高貴な人々は、やさしく美しくて……。
くらくらした。プリンスの手下だという彼が、どうしてそんなことを話すのか。
昔のポールを知っているとしたら……。
まさか、でもそんな。
「きみの絵は、オニールの繊細《せんさい》な感性を受け継いでいる。やっぱりきみは、画家になるべきだったんだね」
印象的なアッシュモーヴの瞳、陽光をたっぷりはらんだかのような金髪、すっと通った鼻筋もやわらかく笑みをたたえた唇《くちびる》も、誰もを一瞬で魅了する恵まれた容貌《ようぼう》の持ち主が、そうそういるだろうか。
エドガーがティーカップを手に取った。まるで無邪気《むじゃき》に見えた。ポールに疑いの気持ちを突きつけるために来たのではなく、大切なことをうち明けるために来たのではないかとさえ思えた。
そしてふと、試されていると感じる。
ポールがエドガーの周辺を調べ、害するために伯爵《はくしゃく》家へ入り込んだと気づきながら、かつての友情がまだあると、確かめようとしているのではないのか。
だから、警戒《けいかい》すべきはずの紅茶を、そのまま飲もうとしている。
かつての友情?
そう、もしもこの人が、彼なら。
「……そうすすめてくれる方がいなかったら、この道に進んでいたかどうかわかりません」
「詩人を目指していたから?」
ああやはり。かつての自分が、詩作へのあこがれをうちあけたのはひとりだけだ。
もはや疑いようもなく、ポールはとっさに、エドガーの手からティーカップをはねのけていた。
カップが割れ、紅茶があたりにぶちまけられる。
熱いお茶がポールの手にも、たぶんエドガーにもかかっただろうけれど、ふたりとも意に介していなかった。
物音に驚いた家政婦が部屋に入ってきたのも、一見して貴族とわかる客が火傷《やけど》をしなかったかと心配そうに近づいてくるのもどうでもよかった。
ポールは突っ立ったまま、かろうじて胸に手をあてた。
「ポール、きみはやっぱり変わっていない」
「……お許しください、伯爵《ロード》。……いえ」
公爵《デューク》と言いかけたそのとき、家政婦が不自然なほどエドガーに接近した。
彼女の手にナイフが見える。気づいたエドガーが身をよじるが、細い切っ先が彼の脚に突き刺さる。
さっと彼女が離れると同時に、エドガーがうずくまるようにその場に倒れた。
ナイフに毒が。すぐに気づくが、駆《か》け寄ろうとしたポールの腕を家政婦がつかんだ。
「早く、ここを出るんだよ。仲間に知らせて、この男の死体を片づけてもらうんだ」
まだ死体じゃない。でも。
「あなたは……、〝|朱い月《スカーレットムーン》〟の?」
「そう、あたしも結社の一員さ。この男がここへ来てくれて好都合だったよ。あんたね、自分から毒を盛ったことを明かしてどうするんだよ。殺さなかったら殺されるだけだよ」
それは違う。エドガーにはポールを殺すつもりなどなかった。
「解毒剤《げどくざい》をくれ、この人はプリンスの手先なんかじゃない!」
「何を言い出すんだよ。あんた、裏切る気かい?」
警戒するような目をポールに向けると、家政婦はきびすを返す。とにかくさっさと仲間を呼んでくるつもりなのだ。
[#挿絵(img/moonstone_195.jpg)入る]
思わずポールは、彼女の肩をつかんでいた。
結社でおぼえた基本的な護身術、とはいえある意味暴力を、女性に対して使ったのは、ポールにとってはじめてで恥《は》ずべきことだったが、ほかに方法がない。
気絶させた女の持ち物を探ったが、解毒剤らしきものはなかった。
医者を呼ぶ? そんなことをしたら、結社の存亡にかかわる。父もその一員だった〝朱い月〟は、これまでポールを守ってくれたし、父の仇《かたき》と戦うために、同志となると誓ったのだ。
どうしていいかわからずに、彼はその場に座り込んだ。
*
いつのまに、仕事部屋の人口密度、いや妖精密度が高くなってしまったのだろうと思いながら、リディアは頭痛を感じていた。
そもそもケルピー、図体《ずうたい》のでかいこいつが、圧迫感のいちばんの原因であることは間違いない。それにニコ、なぜかさっきから、うろうろと部屋の中を歩き回る。ふさふさした胸の毛をしきりに気にしている。
そしてマリーゴールドとスイートピーも、小さい羽でひらひら飛び回っているし、どうやら部屋のすみにはうじゃうじゃと、屋敷中のホブゴブリンが集まってきているようだ。
さすがにおかしい、とリディアは書き物の手を止めた。
「ねえニコ、どうかしたの?」
「なんかこう、体がむずかゆいんだよな」
「空気がゆれているみたいなんですの」
「魔力が波のようにうねるんですわ」
マリーゴールドとスイートピーも不安げに言った。
「この屋敷にメロウの宝剣があるんだろ。そいつがうなってるんだ」
ケルピーが口をはさむ。
「宝剣が? どうして?」
「そんなもん知るかよ」
「で、どうしてみんなこの部屋にいるの?」
「フェアリードクターのそばは、いくらかマシだからだろ」
そういうものなのか。
しかし宝剣がうなるなんて知らなかった。考えながらリディアは、執事《しつじ》に知らせた方がいいのではないかと立ちあがった。
そこへちょうど、レイヴンが現れた。
「リディアさん、エドガーさまがどこへ行かれたか、聞いていませんか?」
淡々《たんたん》としていたけれど、いつもより余裕のない口調だった。
「馬車の中で少し話をしたけど、ひとりで降りて歩いていったわ。行き先はわからない」
レイヴンのあせった様子は、宝剣のうなりと関係があるのだろうか。手紙らしいものを、くしゃりと握りしめている。
「……ファーマンは……?」
つぶやいてきびすを返そうとした彼が、ポールの名にミスターをつけなかったことが異様に感じられた。
「ファーマンさんは今日はいらっしゃらないよ」
そう言ったのは執事のトムキンスだ。
「自宅に戻ると言っていた。風を入れないと、保管している絵にかびが生えるからとか。レイヴン、どうかしたのかね。何か問題でも?」
「なんだ、今日は奴は来ないのか。じゃあ俺が見張ってる必要ないじゃないか」
そう言ったケルピーの方を、リディアは見た。
「どういう意味よ」
「おまえが巻き添えを食うと困るから」
「巻き添え? 何の?」
「まあいいじゃないか。そっか、いないのか。じゃあこのうるさい屋敷にいる意味もねーし、帰るかな」
「ちょっとケルピー、ちゃんと話して!」
リディアは、彼の前に立ちはだかった。
「言わないと絶交よ!」
「絶交? そんなことで俺を追い払えるかよ」
「つきまといたいなら好きにすれば、でもあなたとは、二度と口をきかない。話しかけようがまとわりつこうが、返事しないから」
悩んだように、彼は黙った。そしてうるさそうに前髪をかきあげる。
「聞いたんだよ。あの画家が、仲間に伯爵《はくしゃく》を殺せと言われてたのをさ」
「な……なんですって! どうしてポールさんが、エドガーを殺さなきゃならないの?」
「ニセ伯爵だからってさ」
「ファーマンは、私を襲《おそ》ったダンス教師と同じ組織に属している可能性があったんです。疑って調べていましたが、やはり……」
レイヴンが、くやしそうにつぶやいた。
「トムキンスさん、ファーマンの下宿《げしゅく》へ行ってみます」
急いでレイヴンは駆け出していった。こうしてはいられないと、執事も出ていく。
「ケルピー、どうして黙ってるのよ! エドガーが殺されるかもしれないなんて重大なことを……」
「俺には関係ない。それに奴がいなけりゃ、おまえはスコットランドに帰れるわけだろ。なのに画家の奴、人殺しなんて怖くてできそうにないって感じでさ、だからちょっと、強気になれるよう術《じゅつ》をかけてやった」
それを聞いて、リディアはぶちきれた。
「あ、あなたとは絶交よ! さっさと帰って!」
「おい、リディア」
言いわけなんか聞かないと、リディアも部屋を飛び出す。
と、玄関ホールの方がにわかに騒がしいのに気がついた。
エドガーの名を呼ぶレイヴンの声が聞こえる。召使いたちがざわざわと騒ぎ、トムキンスの指示に駆《か》け出す。
階段の踊り場でリディアは、トムキンスがかかえて運ぼうとしているエドガーの、かたく閉じられたまぶたを見て、足がすくむ思いで立ち止まった。
辻《つじ》馬車の御者《ぎょしゃ》は、若い男に、急病人だからメイフェアのアシェンバート伯爵邸へ運んでくれと頼まれたという。
若い男の人相は、ポールの特徴と一致した。
いったいポールは、殺そうとしたはずのエドガーを、どうしてまた家へ帰してよこしたのだろう。
エドガーの部屋には、長いこと医者が詰めていた。けれどその医者も、夕方になって帰ってしまうと、館《やかた》の中は妙に静かになった。
メロウの宝剣は、当主の危機を嘆《なげ》くようにうなり続けていたようだったが、人間には聞こえない。
そのころになって、ようやくリディアは、レイヴンからエドガーの様子を聞くことができたが、意識はほとんどないということだった。
「麻痺《まひ》が進んでいますので、神経毒が使われたのではないかと思います」
「神経……?」
「蛇《へび》の猛毒に似たものです」
医者でもないのにやけに詳しいのは、殺人鬼として育てられた彼には毒薬の知識もあるのだろうか。
「解毒剤《げどくざい》はないの?」
「ありません。おそらく複合的に調合されたものですし」
そんな、という声を、リディアは飲み込んだ。
いつもと変わりないくらい、冷静に見えるレイヴンだが、エドガーの身内ともいえるくらい近い彼が、いちばんつらいのではないだろうか。
リディアもトムキンスも、伯爵家に仕《つか》える誰もが、まだほんの三カ月くらいしかエドガーと接していない。
だからレイヴンを元気づけたいと思っても、言葉が見つからない。
そして何よりも、リディア自身、信じたくない思いでいっぱいだ。
「心配していたんです」
ぽつりと彼は言った。
「エドガーさまは、ファーマンが〝|朱い月《スカーレットムーン》〟のスパイだとはっきりしても、彼に危害を加えることを私に許さないだろうと」
「〝朱い月〟?」
「プリンスを敵視する結社の名前です。おもに義賊《ぎぞく》的な活動をしているようですが、エドガーさまがプリンスの手先で青騎士伯爵のニセ者だと言って、宝剣をよこさなければ命をねらうと脅迫《きょうはく》してきていたんです」
リディアは何も知らなかった。
妖精に関すること意外は、彼らがリディアに話す必要を感じないのはしかたがない。彼女はフェアリードクターとして雇われているだけで、ともに戦う仲間ではない。
けれども、疎外感《そがいかん》をおぼえる。
雇われているという立場よりも、もう少しだけ近くにいるように感じていたから。
エドガーの言葉はうそばかりだと思っていても、彼が親しみを示してくれればうれしい部分もあった。
フェアリードクターの仕事を求められているだけでなく、純粋に仲間ではないからこそ、戦いの外にいて、彼の淋《さび》しい心のささえになれるかもしれないと思った。
なによりもただ、話してほしかった。
リディアにだってできることがあったかもしれないのに。
あのとき馬車の中で、ポールにばかり同情するようなことは言わなかっただろうし、エドガーの気持ちももっと考えられただろう。
「私にも黙って、エドガーさまがファーマンに会いに行ったのは、すでにこうなることを覚悟していたのかもしれません」
「彼があなたを見捨てるつもりだったって言うの? そんなはずないわ」
「ファーマンは、昔のエドガーさまを知る唯一の人間です」
だから、手を出せなかったのだろうか。ポールがいなくなれば、エドガーは自分がどこの誰だったのかわからなくなりそうに感じたのだろうか。
変わってしまった自分を、彼は嘆《なげ》いていた。
だから昔の、変わる前の彼を知るポールに執着《しゅうちゃく》があったのかもしれない。
「レイヴン、……あたしもいけなかったの。ポールさんと望めば和解できるはずだって、エドガーに言ったわ。今考えれば、エドガーは彼を敵だと切り捨てるべきかどうか迷ってたのかもしれない……。なんだか様子が変だったもの。だから、あたしがよけいなこと言わなければ、彼に会いに行っても油断しなかったかも……」
リディアは両手で顔を覆《おお》った。
「あなたのせいではありません。エドガーさまは必ず自分で決めます」
そう、リディアと仲直りを申し出た彼は、「心残りだ」と言った。すでに心は決まっていたのだろう。
でも、迷わない人がいるだろうか。決意をしながらも心はゆれ動くもの。
リディアの平和すぎる感覚は、エドガーの戦い続けている緊張感をやわらげる。彼はそれを求めてリディアをかまうのかもしれないが、危険を感じ取る嗅覚《きゅうかく》までも、鈍らせてしまったかもしれないではないか。
「リディアさん、エドガーさまに会われますか?」
「……看病のじゃまにならない?」
「きっと、会いたがっておられると思います」
それはまるで、別れの言葉をかける機会をリディアに与えてくれるかのように。
部屋に通され、枕元《まくらもと》へ歩み寄ると、付き添っていたハウスキーパーが気を遣《つか》うように出ていった。
エドガーの顔色は青白く、よほど近づかないと息をしていないのではないかと思うほどだ。
リディアはそっと、彼の手を取る。それもとても冷たくて、いつもはこんなふうじゃないのにと思い出すと泣きたくなった。
せめてあたためようと、両手で包み込む。
このまま二度と、話ができなくなるなんていやだ。まだちゃんと、仲直りができていない。
リディアが許すと言わなかったから。
そんなにひどく怒ってるわけじゃなかった。エドガーがめずらしく反省しているふうだったから、もう少しおとなしくしておいてもらおうなんて、強気に出てみただけ。
振り回されてばかりだから、たまにはいいじゃないと思った。
彼がどのくらい本気で、このくだらないリディアとのすれ違いを「心残り」だと思っていたのか知らないけれど、このままではリディアにとって、たえがたい心残りになってしまう。
それに、ケルピー。彼がよけいなことをしなければ、ポールはエドガーを殺すなんてことを、思いとどまったかもしれないのだ。
それはリディアにとって、フェアリードクターとしての責任を感じる部分でもあった。
「しっかりしてよ。こんなことでくたばるようなあなたじゃないでしょ」
ふだんなら、からかいまじりの口説《くど》き文句が返ってくるのに。
なんとかしなきゃ。
強い思いに駆られ、リディアは立ちあがる。
助ける方法を考え続けていた。ひとつだけ、可能性がある。
意外なほど、迷いはなかった。それしかないと心を決めると、彼女は急いで部屋をあとにした。
[#改ページ]
青騎士|伯爵《はくしゃ》の血
ひとり伯爵邸《はくしゃくてい》を出たリディアは、小走りに道を急いだ。
ようやくハイドパークまでやって来ると、中ほどにある池へ向かう。
日没の遅いこの季節、夜とはいってもまだうっすらと明るい中、散歩を楽しむ男女が遊歩道にちらほらと見える。
人目を避けて、リディアは植え込みの方へ入っていくと、池に向かって呼びかけた。
「ケルピー、いるんでしょ。お願いがあるの」
水面は静まりかえったままだ。
どうしよう……。
「ケルピー、まさかもうここにはいないの? スコットランドへ帰っちゃった?」
エドガーのことで、怒鳴《どな》ったりしたから。
「おまえを連れ戻しにきたのに、ひとりで帰れるかよ」
振り向けば、木のそばに彼は、人の姿で立っていた。
「もう口きかないんじゃなかったのか」
それどころではなくなった、なんて身勝手な話だけれど、リディアにはほかにできることがなかった。
水辺のケルピーはもっとも危険だ。ふだん接している陸地では、水棲馬もたいした魔力を発揮《はっき》できないからとふつうにつきあってきたけれど、これまでもリディアは、なるべくケルピーと水辺に近づかないよう気をつけてきたつもりだ。
けれども今は、あえて接近する。
彼がちょっとでも気まぐれをおこせば、リディアなんて簡単に水底へ引きこんでしまえるくらい近くに歩み寄って、魔性《ましょう》の美しい瞳を見あげた。
「エドガーを助けてほしいの。お願い」
「てことは、まだくたばってないのか」
「…………」
「俺はな、あいつがいなくなりゃいいと思ってるんだぜ。おまえさっきそれで、頭にきたばかりじゃないか。わかんねーな、なのにどうして、そんなこと頼みに来るんだ?」
「あなたしか、水棲馬を知らない」
泣きそうに顔をゆがめたせいか、ケルピーは大きくため息をつき、折れたように言った。
「水棲馬なら奴を助けられると?」
「毒薬が使われたの。ケルピー、あなたには水を浄化する力があるわ。彼の体から、毒を消す方法を知ってるでしょ?」