「人にそれを教えるとろくなことにならないんだ。ちょっと前にも、完璧《かんぺき》な解毒薬《げどくやく》を手に入れようと水棲馬を狩ろうとした人間どもがいたからな」
やはり、できることはできるのだ。リディアはさらに、ケルピーに詰め寄った。
「教えて、誰にも言わないから」
「おまえはフェアリードクターだ。その点は信用してもいい。だがタダではやれない」
それはもちろんわかっている。
そしてこのケルピーが、ひきかえに出すだろう条件も、想像がついていた。
リディアは黙ったまま頷《うなず》く。
「絶交だって言ったくせに……。俺が画家をけしかけたこと、許せないんだろ。なのに俺の言うとおりにできるってのか?」
取り引きなんてしなくても、今すぐリディアを連れ去れるのに、そんなふうに彼女の心情を考えている、変わり者のケルピーだ。
「あなた、あたしが口をきかなくなったらいやだと思ってる。きっと、あたしを怖がらせたり苦しめたりしないでしょう?」
「そんなつもりはない。おまえと結婚してみたいだけだ」
結婚してみたいって、漠然《ばくぜん》とよさそうなものだと考えているらしいケルピーがおかしくて、かわいくも思えた。
もともと人よりも、妖精とのつきあいが深かった自分だ。人の世で、フェアリードクターとしてできることは多くはなく、いつかは妖精の国へ引きこもることになるかもしれないなら、それが少しばかり早まるというだけのこと。
「結婚は……、〝月をくれるなら〟って以前にかわした約束がまだあるわ。とりあえずはあなたといっしょに、妖精の国で暮らすことはできる……。それではだめ?」
「悪くはない」
しかしケルピーは、まだ納得できない様子でリディアを見ていた。
「助けたいあいつと、おまえはもう会えなくなるんだぞ」
水棲馬のくせに情《じょう》にあつい妖精だなんて。
「仲直りがしたいの。彼が助かって、あたしがもう怒ってなんかないってこと、伝えられればいいの。……エドガーはどう思ってるか知らないけど、妖精しか友達がいなかったあたしにとって、めずらしく、友達らしくなれそうな気がした人だから」
ようやく、ケルピーは「わかった」と言う。
リディアの目の前で、自分の指に牙を立てると、赤い血がゆっくりと傷口から流れ出した。
ケルピーの血も赤いのかと、ぼんやりリディアは眺めていたが、たぶんそれは、彼女が血から連想する色にすぎないのだろう。
もう片方の手で、彼はリディアのあごをやさしくつかんだ。
口づけを受けとめるかのように、リディアは目を閉じる。
唇《くちびる》に触れるのは、ケルピーの指先だ。さらさらとした彼の血は冷たく、雪解けの岩間に染《し》み出すわき水のような、新鮮な味がした。
眠りから目覚めたばかりの、穢《けが》れなきまっさらな水だ。
「さあ、早く行ってこい」
ケルピーの手が離れ、リディアは彼を見あげた。
「この血を、どうすればいいの?」
「奴に飲ませてやれ」
「……えっ、まさか、口移しでってこと? そんなことできな……、ああもう、あなたが直接エドガーに血を飲ませてくれればいいじゃないの」
「俺はあいつの口に指を突っ込みたくはない」
じゃああたしは、どうなってもいいっていうの?
自分の花嫁《はなよめ》にしようって娘が、ほかの男に口づけても……?
その点ケルピーは、人とは感覚が違うのだろうか。
「じゃあま、どこでもいいんじゃないか? なるべく血の流れに近いところを舐《な》めとけ。ケルピーの血は空気に触れると効力がなくなる。おまえを媒介《ばいかい》にするしか奴に届けられないんだからしかたないだろ」
どこでもいいと言われても戸惑《とまど》うが、これ以上だだをこねている場合ではなかった。
頷《うなず》き、リディアは急いで公園を離れた。
静まりかえっていた伯爵《はくしゃく》家の玄関ホールには、ニコが突っ立っていた。
リディアがどこへ行っていたか、気づいている様子で不機嫌そうにヒゲをひくつかせる。
「ケルピーくさい」
そう言って彼は、リディアの前に立ちはだかった。
「やめろよ、リディア。ケルピーと取り引きするなんてバカげてるぞ」
「あのケルピーは大丈夫よ。あたしを傷つけたりしないって言ってくれた」
「そういう問題じゃねーよ。だいたい、エドガーの奴が死んだって、べつにおれたちは困らないじゃないか。スコットランドへ帰って、これまでどおりの生活をするだけだ」
「助ける方法があるのに、何もしなかったらきっと悔やみ続けるわ」
「奴は人間の中でもクズだぞ。あんたにいい顔するのも、利用価値があると思ってるだけだ。そんな奴のために、フェアリードクターになる夢を捨てるのか? 人がよすぎるよ」
「クズなところもあるけど、そうじゃないところも知ってる。だから……。ニコ、ここで何もせずにいて、人のために役立つフェアリードクターになんてなれると思う?」
リディアは身を屈《かが》め、ニコの前に手を差しだした。
彼は立派な紳士《しんし》だから、めったなことでリディアは抱きあげたり撫《な》でたりなんてしない。
昔から対等な友達だった。
「ニコ、いままでありがとう。そばにいてくれて」
ふてくされたまま黙っているニコの手を取る。小さくてふさふさした、まるで猫の前足、けれど人間以上に上品にティーカップを持ちあげ、ナイフとフォークを操ることのできる不思議な手を握りしめ、そして離した。
「教授はどうするんだよ」
「あとで手紙を書くわ。ニコ、あたしがいなくなっても、できれば少しの間だけ、父さまのお酒の相手をしてあげて」
ニコはやはり不服そうなままで、返事はなかった。
リディアは立ち上がり、エドガーの部屋へと急いだ。
廊下《ろうか》の飾り台の上で、マリーゴールドとスイートピーが花瓶《かびん》に腰かけ、不安そうにこちらを見る。
声をかけてやる余裕もなく、リディアは彼女たちの目の前を通り過ぎる。
部屋のドアを開けてくれたレイヴンに、もういちどふたりだけにしてくれと駆《か》け込んだ勢いのまま言う。
彼はただ頷《うなず》き、望みどおりにしてくれた。
すぐさまリディアは、ベッドのわきにひざまずく。深呼吸して、気持ちを落ち着ける。
ええと、どうしよう。
どこでもいいといったって、自分から男の人に唇で触れるなんて、リディアのこれまでの人生にはありえないことだ。
それだけで緊張する。せめてもの救いは、相手の意識がないことか。
血の流れに近いところ?
心臓? なんてぜったい無理。服を脱がさなきゃいけないじゃない。
考えてしまったことすら恥ずかしくて、リディアは逃げ出したくなった。自分の動悸《どうき》を意識しながら、どうせ血は体中を流れているのだからと思い直す。
そうだ、手……。
リディアは決意し、彼の手を取る。
そして手首の、かすかに血の脈を感じるところに唇を押しつけた。
ケルピーの血が、エドガーの体に変化を起こしたのかどうか、リディアにはよくわからないまま時間が過ぎた。
[#挿絵(img/moonstone_215.jpg)入る]
血が足りなかったのか、いやがらずに口移しででも飲ませるべきだったのかと心配しはじめたとき、かすかに彼が身じろぎした。
ゆっくりと、まぶたを開く。灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が宙をさまよい、やがてリディアをとらえる。
「エドガー……」
安心したあまり、彼の手を強く握ったままなのは忘れていた。
「リディア、どうしてきみが……」
何がどうなったのか、把握しきれていないのだろう彼は、しばし考えるように眉根《まゆね》をよせた。
「もう大丈夫よ。あなたは助かったの」
「きみの、夢を見ていた」
眠っていたはずの彼に、何もかも見られていたかのような気がしてリディアは戸惑う。
「僕は年老いて、死の床についていた。まわりには人が集まっていて、そして僕は、きみの姿を探した。でも見つからなくてあせった。どうして? きみがいないはずはないと、そのとき僕は、何十年もきみといっしょにいたかのように思い込んでいた」
話を聞きながら、ようやくリディアは、彼の手を握りしめていることを思い出した。
急に離すのもわざとらしい。それに彼はまだ、自分の手がどうなっているかとか、意識していないに違いない。彼が気づかないうちにそっと離せないものかと思案し、少しずつ力をゆるめる。
しかし突然、リディアの手はエドガーに握り返された。
ゆっくりと力なく吐き出される言葉とはうらはらに、しっかりと強く握られた。
「それで、いつどこできみを失ったのかと、必死に思い出そうとした。……やがて思い出した。強引に言い寄って、嫌われたんだったって」
「嫌ってなんかないわ。いつもあなたが、あたしをからかうから、怒ってるふりしてただけなの。……もう、怒ってなんかいないって、それが言いたくて」
手を引っ込めることをあきらめると、彼も安心したように力をゆるめる。まあいいか、とリディアはそのままにしておくことにする。
「夢の中で、きみが言ったのはそれだったのかな。もう会えないのかと落胆《らくたん》した僕の前に、きみが現れたんだ。今のままの姿で。そして何か言ったようだったけれど聞こえなくて……」
やさしく握られている手に、あたたかさが戻ってきていた。徐々にケルピーの血は、彼の体の毒を浄化しているようだ。
「それでもただ、安心した。きみはそこにいるだけで、僕をおだやかな気持ちにしてくれる。そのときも、たぶん最低な人間として死を迎えようとしていた僕を、許すかのように、手を取って口づけてくれた」
手首にしておいてよかった、と思う。
「……ただの夢よ」
エドガーは、目を細めて微笑《ほほえ》んだ。リディアがはじめて見るくらい、含みも裏もない無邪気《むじゃき》な微笑みで、それは自然と、ポールが話していた幸福な頃の少年と重なった。
「リディア、僕は困らない」
「え?」
「本気になられてもとことんのめり込まれても、つきまとわれても困らない。……距離を間違えたくないときみは言うけど、どんどん間違えて、手の届くところまで、いきなり胸に飛び込んできてくれたって、……僕は、困らないよ」
リディアのような変わり者の少女に、想いを寄せられれば困る人ばかりに違いない。ずっとそう思い込んできた。
エドガーはなおさら、拒絶するリディアを追いかけるというゲームを楽しんでいるだけで、だから本気で好きになんかなられたら困るはずだと思った。
なのに、困らないと言う。
「だから、好きになってみないか、僕のことを」
心の奥をやさしく撫《な》でられたようで、リディアは動揺した。
でも、とどうにか気持ちのゆれを押さえ込む。
ほんと、元気が出てきたらこれだから。
口説《くど》くのは、ほとんど本能じゃないかと思うほど。いちいち反応してたらバカみたい。
けれどそう自分に言い聞かせたのは、もしも心動かされても、もう無意味だとわかっていたからだった。
「……考えとくわ」
「はなから『|いや《ノー》』と言わないんだね。めずらしく、好感触だ」
「あなた命が助かったばかりだもの」
「病人だから手加減してくれるのか」
「ゆっくり休んで。……また、明日」
素直に頷いて、安心したように彼は目を閉じた。
エドガーをだましたことになるのだろうかと、少しだけ胸が痛む。
けれどもリディアは、自分がエドガーにとって、それほど特別だとは思わない。彼なら、リディアがいなくなったって、すぐに気持ちを切りかえて進んでいけるだろう。
もっと困難な事態を、切り抜けてきた人だ。
おやすみなさい。そうささやいて、リディアは立ちあがった。
*
朝日を感じながら、まるでふだんの朝と変わらない気分で、エドガーは目覚めた。
脚の傷に気づかなければ、昨日のことが事実かどうかさえ曖昧《あいまい》に思えたことだろう。
ガウンを羽織《はお》り、寝室を出てドレッシングルームの大きなソファに腰をおろすと、そばにはいつもどおり、きちんと磨かれた靴が置いてあった。
あまりにも日常的な朝の風景の中にいて、本当に生きているのかと、不思議な気持ちになる。
どうして助かったのだろう。
対決する相手は、ポールひとりのつもりでいた。彼となら、本音で話せばお互い敵対する相手ではないと理解し合えるかもしれないと考え、賭《か》けた。
ポールはエドガーと、腹を割って話してくれる気になった。紅茶に毒を入れたことを明かすことになっても、エドガーの手からカップを払った瞬間、彼は結社に聞かされていたことよりも、目の前のエドガーを信じてくれたはずだった。
エドガーにとっては、緊張が解けた瞬間をねらわれたのだ。
あの家政婦、ポールも〝朱い月〟の同志だとは知らなかったようだった。
刺されてすぐに、しびれが走った。毒が仕込まれていると気づき、ナイフを抜こうとしたけれど、体の自由がきかなくなった。
たくさんの、人の死を目《ま》の当たりにしてきたから、直感的に自分の身に起こったことも、死に直結していると思った。
なのに今は、すっかり毒が抜けてしまったかのようだ。
「旦那《だんな》さま、もう起き出されて大丈夫なのでございますか?」
執事《しつじ》が姿を見せた。
「ああ、おはよう、トムキンス」
「念のために医者に診《み》ていただきますか?」
「いや、とても気分がいい。何の問題もないよ。熱い紅茶をもらえるかな」
「すぐにお持ちします」
彼の落ち着いた様子は、エドガーが回復すると知っていたかのようだった。
「トムキンス、僕を助けてくれた名医は誰だ? あの禿頭《はげあたま》のドクターじゃないだろう」
「フェアリードクターでございます」
やはり、夢ではなかったのだ。
手首にそっと触れながら、リディアのことを思い浮かべる。不思議な力を使う彼女は、自分にとって幸運の妖精だ。
きっと、何にも代え難《がた》い。
「おはようございます、エドガーさま」
執事が出ていって間もなく、レイヴンが紅茶を運んできた。
何事もなかったかのような、いつもの朝のあいさつを淡々《たんたん》と告げた彼に、エドガーは物足りなくて苦笑いした。
「レイヴン、心配をかけたね」
いえ、と小さくつぶやいて、彼は黙々とテーブルにカップを置く。
「おまえに黙って行ったのは、僕自身、迷っていたからなんだ」
「わかっております。私がその場にいれば、ファーマン氏を殺していたでしょう。あなたをここへ送りとどけてくれた彼に、殺意がなかったとしても、刃物を向けた女ともども、間違いなく殺していました」
ポールに助け起こされ、辻《つじ》馬車に乗せられたあたりまでは、エドガーも意識はあった。だがその先は何もわからない。ポールの下宿で起こったことを、レイヴンに話したわけもない。
「女、どうしてわかるんだ?」
レイヴンは、布に包んだものをテーブルに置いた。中身はエドガーを苦しめたナイフだ。血と、変色した毒薬の成分が、不快にこびりついていた。
細身の折りたたみナイフ、メイドが仕事のために持ち歩いている種類のものだ。
「ファーマン氏はこれも、あなたの衣服に入れておいてくれました。毒薬の成分を調べられないかとの配慮《はいりょ》でしょう」
「調べたのか?」
「いえ、一見して、無駄《むだ》だとわかりましたので」
一瞬、厳しい表情を見せたレイヴンは、そのときどれほど絶望しただろう。
けっして苦言《くげん》を口にしないだけに、エドガーは、彼の忠誠心にあまえている部分もあった。
腕をつかむと、彼は少し驚いたようにこちらを見た。
「すまなかった。ポールのことはどうしても、自分で決着をつけたかった。でもそれは、おまえが心配したとおり、判断のあまさにつながった」
レイヴンは、めずらしくあわてたのか、ぎこちない動作でひざまずいた。
「エドガーさま、私などに詫《わ》びないでください。私はいつでも、あなたの選択を受け入れる覚悟でおります。あなたは必ずしも自分を守ることに徹しないけれど、だからこそ、プリンスとは違う、私の主人なのです」
レイヴンの中の、殺戮《さつりく》の精霊が従う主人。
プリンスはそうなろうとしてレイヴンを手に入れたが、精霊は彼を主人と認めないまま、ただ殺戮の衝動《しょうどう》をむき出しにし、レイヴンの心は感情を閉じ込めた人形のようで、笑いもしゃべりもしなかった。
彼の故郷の国では、王の戦士となるべき精霊の子が、つまりはレイヴンのような子が、ときどき産まれるのだという。
土着の信仰と、戦闘能力に秀《ひい》でた血筋が結びついた伝統文化。いったい、精霊の存在が伝統を生んだのか、伝統が精霊を生み出したのか。しかしそこにはたぶん、人の知覚を超えた何かがあるのだ。
リディアが見える妖精も、そういうものなのだろうと、このごろエドガーは感じている。
そしてふと思う。
魔術の研究さえしていた、プリンスの悪魔的な秘密結社は、何を目指しているのかと。
およそ現実的ではなさそうだが、不可能を可能にするための不思議な力を、本気でプリンスは欲していたようだった。
とすると、プリンスを敵とする〝朱い月〟が、青騎士|卿《きょう》の伝説から守護妖精を名乗るのは、対抗するために彼らも不思議な力を欲しているということだろうか。
本物の、青騎士|伯爵《はくしゃく》をほしがっている?
だとしたら、どう手を打つか。
「レイヴン、まだ僕のために働いてくれるか?」
「はい、何なりと」
エドガーが考え込んだそこへ、再び執事が現れた。
カールトン教授が面会を望んでいるという。
ふつうに考えれば、約束もなく時間的にも非常識な来訪だったが、リディアの父に対してエドガーは、不思議と親しみを感じていたから気にならなかった。
レイヴンに着替えの用意を頼み、濃いミルクティに口をつける。
そのときはまだ、早朝にカールトンが訪ねてきた意味を深く考えてはいなかった。
「仕事を辞める? リディアがですか?」
「はい。勝手を言いましてもうしわけないのですが、リディアはもう、ここには来られません。解雇《かいこ》ということにしていただきたく存じます」
事務的に告げるカールトンは、ひどく落ちこんでいるように見えた。
「どういう理由で? あまりにも急な話じゃありませんか」
「……理由は私にもいまひとつ……。はっきりしているのは、リディアは向こうがわを選んだということだけです」
向こうがわ? と首をひねるエドガーに、カールトンは淋《さび》しげに唇《くちびる》をゆがめた。
「伯爵、先日私は、リディアの自然な選択を受け入れるとお話ししましたね。そのときが、思いがけず昨日だったようです」
「意味がわかりません」
椅子《いす》を勧めてもかけようとしなかったカールトンに、エドガーは詰め寄った。
「リディアも、その母親もそうでしたが、人の世に馴染《なじ》みにくく、だからこの世界に、さほど執着《しゅうちゃく》を持っていませんでした。妖精の世界と人の世界、境界を行き来する者は、ある意味、この世に根がないからこそそれが可能なのでしょう。けれど人の世は執着がないと、それなりに欲望がないと生きにくいのです。おわかりでしょうけれど、こちらがわには勝つ者と負ける者がいる。リディアのようにのん気で人を疑うことを知らない娘にとって、向こうがわの、変化のない退屈な世界の方がいかにやさしいか……」
「彼女が妖精の世界で暮らすことを選んだというのですか? こちらがわに嫌気がさして?」
死にかけたエドガー。そして親しみを感じていたはずのポールのたくらみを知って、リディアは傷ついたのだろうか。
争いごとばかりの人の世に、見切りをつけた?
「でも、カールトン教授、あなたは奥さまをこちらがわに引き止めたわけでしょう? リディアを人の世にとどめておくことだってできたはずです」
「それができるのは、私ではありません。伯爵、あなたでもなかった。人ではなく妖精が、リディアの決意を促《うなが》したのでしょう」
リディアをほしがっていた妖精、まさかあの黒馬か?
「連れ戻すことは……、会って話をすることもできないんでしょうか」
「私たちにはどうにもできません。ただ、受け入れていただくしか」
カールトンはきっぱりそう言って、足早に帰っていった。
彼自身も受け入れきれず、落ち着かない気持ちから、人前で感情を露呈《ろてい》してしまうことを怖《おそ》れて切り上げたかのようだった。
崩れるように椅子に座り込み、エドガーは金色の髪に指をうずめた。
リディアを人の世に引き止めることは、身内の愛情だけでは難しいというのか。彼女の母がそうだったように、血よりも強い絆《きずな》が持てる誰かを彼女が人の世に見つけるのでない限り、とどめることはできないと。
カールトンに、「あなたでもなかった」と言われたことが、エドガーの胸に突き刺さる。
でも、腑《ふ》に落ちない。リディアが人の世に絶望したなら、どうしてエドガーを助けていったのか。
それにわざわざ、わだかまっていた関係を修復していった。もう怒っていないと、それが言いたかったと彼女は言っていた。
考えながら、はっとエドガーは視線をあげる。ニコの灰色のしっぽが、ちらりと窓際《まどぎわ》を通ったように見えたからだった。
「ニコ!」
急いで窓を開け放つ。バルコニーの手すりから手すりへ飛び移ろうとしていたらしい猫は振り返った。
「教えてくれ、ニコ。きみはリディアがいなくなった本当の理由を知っているんだろう?」
「もうここに用はねえんだけどさ、トムキンス氏の淹《い》れる紅茶をもう一杯だけ飲みたくてさ」
「すぐに淹《い》れさせよう。こっちへおいでよ。チョコレートもある」
「まるいチョコレートか?」
「そうだよ、リキュール入りの」
そろそろと、彼は部屋の中へ入ってきた。
二本足で歩きながら、テーブルのそばの椅子に腰かける。
もはやエドガーは、ニコが向こうがわの存在であることを疑っていなかった。
熱いミルクティとチョコレートで、ニコから話を聞き出す。それはエドガーを驚かせ、どうしようもなくやるせない気持ちにさせた。
「それじゃあリディアは、僕を助けるためにケルピーとの結婚を承諾《しょうだく》したっていうのか?」
「あんたを助けるためっていうより、フェアリードクターの責任感とリディアの性分《しょうぶん》だとおれは思うけどな」
「僕を想いながら、あの野蛮《やばん》な妖精のもとへ行ってしまっただなんて」
「違うって」
「しかし好きでもない男のために、ふつうそこまでしないだろう?」
「リディアはふつうじゃないからな。それにケルピーに対しても、あんがい好意的だった。いやいやってほどじゃないんじゃねえか?」
冗談じゃない、とエドガーは思う。
たぶんニコの言うように、リディアはありえないくらいお人好しだ。ケルピーと取り引きしてまでエドガーを助けたのも、本当にただの性分なのだろう。
エドガーのそばにいるよりも、ケルピーの方が心|穏《おだ》やかに暮らせると思ったとしたら、彼女にとってついでの人助けだったのかもしれない。
でも、冗談じゃない。
エドガーは結局、ポールに殺されかけたのではなかったのだ。ケルピーがポールに干渉し、人に毒を盛る決意を促したのだとしても、リディアが責任を感じる必要はなかった。
それに、馬にリディアを奪われるなんて、がまんできるだろうか。
「ニコ、きみだってリディアがいなくなるのは淋しいだろう? それもあの水棲馬は、僕たちのような紳士《しんし》じゃない」
紳士と言われ、ニコはまんざらでもなさそうにヒゲを撫《な》でる。
エドガーは、ニコをこちらがわに引きずり込もうと考えた。なにしろケルピーは妖精だ。こちらにも妖精の協力がいる。
「教えてくれ、リディアを連れ戻す方法はないのか?」
「なあ伯爵、リディアは自分で決めて行ってしまったんだ。あんたやおれになんの権利があって連れ戻すなんて言うんだ?」
「彼女の本意だとは思えない。リディアがお人好しの性分で選んだことなら、僕だって自分の性分を通す」
「口説《くど》き魔の性分か?」
「そうだよ。落とせないままあきらめてたまるか」
わかんねーよ、とニコは肩をすくめる。エドガーは負けじと身を乗り出す。
「きみは妖精の領域とこちらがわを行き来できるんだろう? 何もしたくないならそれでもいい、僕に道を教えてくれ」
「おれはリディア以外の人間を、妖精界に導くことはできないんだ。妖精にも、いろいろとしがらみがあってな」
「帽子《トップハット》とブーツでどうだ?」
むう、とニコは腕を組んで考え込む。しかし誘惑を退《しりぞ》けるように、ぷるぷると頭を振る。
「無理なものは無理なんだよ。ほかのことならまあ、リディアに無理|強《じ》いしないってなら協力してもいいけどさ」
エドガーは考え込んだ。
「それにしたって、妖精界でリディアを見つけたところで、ケルピーとの約束を取り消す方法があるってのかよ」
それも問題だ。だがリディアを見つければどうにかなるのではないか? などと楽天的に考える。こういうことは勢いだ。考えすぎると、何もできなくなってしまう。
そしてはたと思いつき、彼は立ちあがった。
「あのふたり、マリーゴールドとスイートピーはまだいるのか?」
ニコは窓の方に首を動かした。
「おい、伯爵がお呼びだぞ」
窓から現れるのかと眺めていたが、唐突《とうとつ》に足元で声がした。
「ご用でしょうか」
幼い少女の姿で、野原の妖精ふたりがひざまずく。
「きみたちの女王のところへ案内してもらいたいんだ」
「ええっ、何言ってんだよあんた、妖精との結婚を受けるつもりか?」
ともかく、妖精界へ入らなければどうにもならない。それだけのために女王との結婚を受けるふりをするという、あまりにも無謀《むぼう》な考えに、ニコは苛立《いらだ》った様子で肩に飛び乗ってきた。
そうしてエドガーに耳打ちする。
「あんたがよくできた詐欺《さぎ》師だろうと、人間どうしのやり方は妖精には通用しないぞ。リディアを連れ戻すどころか、妖精女王にとらわれるだけだ」
「ちょっとニコさん、じゃましないでくださいな。せっかく伯爵が、女王さまと結婚する気になってくださったんですよ」
マリーゴールドがニコのしっぽをつかんで引きずりおろそうとした。
「おいっ、こいつはそんな気なんてない……」
暴露《ばくろ》しようとしたニコをつかまえ、口を押さえ込む。
「で、お嬢《じょう》さん方、すぐに出発できるのかい?」
「ああでも伯爵、月の指輪が必要ですわ。以前の青騎士伯爵は、婚約の誓いは〝月〟と取り交わさなければならないのだとおっしゃいました。ですから、女王さまが贈りましたあの〝月〟を身につけ、あなたさまの誓いのあかしとしていただかなければなりません」
ニコをかかえたまま、エドガーはまた考え込んだ。
月と誓いを取り交わす。それはつまり、青騎士卿とその妃《きさき》、グウェンドレンとの結婚をイメージしているのではないか? 伯爵家当主の結婚には、ムーンストーンを誓いのあかしとするような決まり事があったのかもしれない。
ともかく、問題の指輪はポールが持っている。
彼はおそらく、〝|朱い月《スカーレットムーン》〟に保護されていることだろう。
好都合だ。こちらからしかけてやる、とエドガーはにやりと口の端をあげる。
「わかった。指輪を取り戻そう。お嬢さん方、ニコ、力を貸してくれるね」
「もちろんですわ、伯爵」
「つか、何たくらんでんだよ!」
リディアを連れ戻すことさ、とニコに耳打ちし、そしてレイヴンを呼んだ。
「出かける用意を。それから、宝剣を持ってきてくれ」
*
夜通し居座っていた客をようやく吐き出した朝のクラブハウスは、再び喧燥《けんそう》の夜がやってくるまでと、扉を固く閉ざしていた。
レイヴンとふたり、エドガーはその前に立つ。
「エドガーさま、ここが〝朱い月〟の根城《ねじろ》なんですか?」
「おそらく。間違いないと思うよ」
エドガーがポールとはじめて会った、あの展覧会が開かれたクラブだった。
クラブのオーナーは、画商《がしょう》でもあるスレイドという男。ここは絵画に興味のある金持ちと、彼らに才能を売りたい画家たちが主な会員だという。
ポールの父オニールも、もうひとりの父ファーマンも、貴族を相手に注文を受ける画家だったからには、ここの会員だった可能性は高い。そもそもポールをエドガーに引き合わせ、気に入られるようにと仕向けたのもここのオーナーだ。
それらの関連からしても、このクラブの舞台裏に、〝朱い月《スカーレットムーン》〟がひそんでいると思われた。
「さあ、チェックメイトだ」
ステッキ代わりに長剣を手にしたまま、エドガーはクラブハウスのドアをたたいた。
やや待って、顔を出したのは小間使いらしい男だ。
「まだ開いてませんので、夕方おこしくださいますか、サー」
「ミスター・スレイドに用がある」
「はあ、どういったご用件で」
「彼の女に殺されかけた。公《おおやけ》にする前に、話し合ってやってもいいと伝えてくれ」
小間使いは不思議そうにエドガーを眺めた。何かの合い言葉とでも思ったのか。
「失礼ですがお名前は」
「アシェンバート伯爵」
と告げたとたん、彼は目を見開いた。あきらかに震《ふる》えながら、逃げるように奥へすっ飛んでいく。
幽霊《ゆうれい》でも見たみたいだなと、不愉快《ふゆかい》になりながら、エドガーは勝手に中へと踏み込んだ。
玄関ホールから続く階段をあがっていく。レイヴンもついてくる。
あがりきったところで、豪華な絨毯《じゅうたん》を敷きつめた廊下《ろうか》を、こちらへ向かって走ってくる人物が目についた。
スレイドだ。黒髭《くろひげ》の太った男。こいつだったのだと思い出しながら、エドガーは彼の右手に朱《あか》いムーンストーンを確認していた。
「伯爵、ここは会員制クラブですので、勝手な入室は困ります。しばし控え室でお待ちいただけませんか」
歩き回られては困るということか。
「なら入会しよう。その資格はあるはずだ」
「ええ、ですがその……」
いぶかしげに、帽子のつばが影を落とすエドガーの顔を確認しようとするスレイドは、本物かと疑っているのだろうか。
「死人に入会資格はないと?」
帽子を取ってにやりと笑ってやる。彼は動揺したように数歩|退《しりぞ》き、しかしどうにか踏みとどまった。
「し、死人には見えませんが」
「そう、やり損ねたんだよ、きみたちは」
「……何のことでしょう」
「ポールはどこだ?」
「彼の自宅を訪ねてください」
「下宿《げしゅく》にはいない。家政婦も急に姿を消して、困っていると大家《おおや》は言っていた」
「それは私の知ったことでは……」
「レイヴン、ミスター・スレイドは徹夜明けで血のめぐりが悪いらしい。目を覚まさせてあげるといい」
進み出たレイヴンは、スレイドの胸ぐらをつかみ、眉間《みけん》にナイフを突きつけた。
そのナイフが、毒を仕込んだ家政婦のものだと一目でわかったらしい彼の額《ひたい》に、冷や汗がふきだす。
身動きすらできなくなった彼を、エドガーは意地悪く覗《のぞ》き込んだ。
「目が覚めた?」
「…………」
「返事が聞こえない。もっと刺激が必要かな」
「いえっ、さ、覚めました」
「結構」
クラブの使用人たちが、遠巻きに集まってきていた。ざわめいたその様子から、どうやらみんながみんな〝朱い月〟の団員ではないようだ。
義賊《ぎぞく》の団員らしい人物は、確認できる限り多くはない。使用人たちを仕事場にもどそうとせっついている。
「は、伯爵《はくしゃく》。どうか奥で話しましょう」
スレイドも声を張り上げ、この場でエドガーによけいなことを言ってほしくないと示した。
声を落とし、スレイドに耳打ちしてやる。
「話したいのはきみとじゃない。きみたちスカーレットムーンなど、本当はたたきつぶしてやりたいところだが、ポールがいるなら交渉の余地はある。まさかと思うが、彼に伯爵殺しの罪をかぶせてテムズ河に放り込もうなどと考えているんじゃないだろうね」
「……私どもは、仲間がしくじったからといって簡単に殺したりしません」
ようやく認めながらも、プリンスの組織を引き合いに、彼は嫌味を言った。