もっともエドガーには痛くもかゆくもない。彼らがプリンスとは違うというなら、なおさら悪くはない。
スレイドは、力をゆるめたレイヴンのそばからそろりと動いた。
エドガーたちを奥へ案内しながら、通路を複雑に進む。そのあたりは、おそらく一般の使用人たちが入ってはこない場所なのだろう。いつのまにか人の気配《けはい》がすっかり消えていた。
と思ったそのとき、視界のすみで人影が動いた。エドガーが振り返るよりも早く、レイヴンが肩を押す。
次の瞬間聞こえた銃《じゅう》声は、そばにあったランプシェードが割れる音と重なった。
スレイドが逃げ出す。
「こいつらをつかまえろ!」
その声に、ひそんでいた〝朱い月〟の連中が、次々と隠されたドアから飛び出してきた。
「レイヴン、こっちだ!」
ふたりして走り出す。
人の目につかないように保護されているはずのポールも、この建物の奥にいるはずなのだ。
だとしたらこのあたりのはずだと、部屋をあちこち確かめながら駆《か》け回る。
だがどの部屋も、使われている様子がない。
やがて突き当たった両開きの大きなドア、その中に駆け込み、鍵を閉める。レイヴンが、壁際にあった装飾用の槍《やり》をつっかえ棒にすると、少しは時間|稼《かせ》ぎができそうだった。
そこは、秘密結社の集会場か、広めの、ホールのような部屋だった。
高い天井から、ゴシックふうのシャンデリアがひとつぶら下がっている。その真下の床に描かれたモザイク画は、朱い三日月《みかづき》だ。
よく見れば、モザイクは朱いムーンストーンでできていて、ひとつひとつの石に血のような赤茶けた文字でアルファベットが刻まれていた。
団員の結束を固めるために、入会の儀式にでも使われたものか。
おそらくは団員の頭文字を刻んだムーンストーン、それらを見おろすかのように、正面の祭壇状になった場所には、いかにもな玉座《ぎょくざ》があった。
玉座の背後の壁に、ひとつだけ絵が掛かっている。近づいていって、エドガーは絵を見あげる。
「青騎士伯爵……?」
栗色の髪、青い瞳の男性が、スターサファイアの入った宝剣を手にしている肖像画だった。
服装からするに、エリザベス一世の宮廷に現れたというジュリアス・アシェンバートではないだろうか。
アシェンバート家の人物画は、エドガーが知る限りどこにもなかった。伯爵家の所有物を把握しているはずのトムキンスも、肖像画のたぐいはないと言っていた。
妖精族とつながりが強いだけに、肖像という自分の似姿を、魔術に悪用される危険を避けたのではないかということだった。
エドガーはあまり詳しくはないが、ある種の魔術では、肖像に術《じゅつ》をかけるだけで本人を害することができるとか。
それならなぜこの伯爵は、肖像を描かせたのか。そうしてそれが、どうしてこんなところにあるのだろうか。
いずれにしろこの〝朱い月〟が、青騎士伯爵を崇拝《すうはい》し、|朱い弓《フランドレン》の名を持つ守護妖精に自らをなぞらえていることは、予想したとおりのようだった。
ドアは激しくたたかれていた。鍵はどうせ開けられてしまうだろうし、つっかえ棒もそろそろ折れそうだ。
「エドガーさま、天窓から出ますか?」
「いや、ここで決着をつけよう」
そう言うのとほぼ同時に、ドアが破られた。
男たちがなだれ込んだ。その背後《はいご》に、スレイドの姿が見える。
エドガーの隣で、レイヴンがピストルをかまえる。
銃口が、何の迷いもなくスレイドの眉間《みけん》をねらっていることに気づき、彼ははっと立ち止まった。
わざと耳元をかすめるように、レイヴンは撃つ。
スレイドが悲鳴をあげ、みんな硬直するように動きを止める。
「そう、動かないほうがいい 動いた奴から先に死んでもらうことになるからね」
言いながらエドガーは、できるだけゆっくりと彼らを見まわした。
「さて諸君、きみたちはみんな、〝朱い月〟の団員か? 青騎士伯爵に血の誓いをたてたその同志だというなら、きみたちは僕のしもべだということだ」
わざとらしく、壁の肖像画を一瞥《いちべつ》する。
「……ニセ者のくせに」
スレイドのつぶやきを聞きとめ、彼に歩み寄った。
「きみたちだってニセ者だよ。まがいものの|朱い弓《フランドレン》」
腕をつかみ、ムーンストーンの指輪を乱暴に抜き取る。
「朱《あか》いムーンストーンだが、ありふれた品だね。|輝き《シーン》はぼやけているし、妖精の持ち物だったとは思えない」
ぞんざいに放り投げて返す。
「だがきみたちは、青騎士|卿《きょう》の守護妖精を名乗り、この肖像画の伯爵に忠誠を誓っているんだろう? まあね、どこもかしこも秘密結社ってやつは、パラケルススだのローゼンクロイツだの伝説的な人物を始祖《しそ》に据えたがる。儀式を特殊化し、部外者に謎めいた印象を持たせ、仲間内の結束を高尚《こうしょう》なものと思い込むための、一種の遊び、そういうことか?」
「我々は、遊びでこんなことを始めたのではない。身を守るため、そして戦うためだ」
「なら本気で、青騎士伯爵の片腕となるつもりかい? むろん僕は、きみたちが使い物になるかどうか確かめたいけどね」
片隅で、誰かが動いた。
レイヴンが撃つ。相手の銃だけをはね飛ばす。
しかし張りつめていた緊張の均衡《きんこう》が崩れ、別のひとりがエドガーにつかみかかろうとした。
身をかわし、さっと距離を取ったエドガーは、大胆にも祭壇上に飛び乗った。
手にしていた宝剣を、すらりと鞘《さや》から抜く。
祭壇の背後にある肖像画、そこに描かれたものとまったく同じ、銀色に輝く剣をまっすぐにかかげる。
「僕が青騎士|伯爵《はくしゃく》だ。この宝剣の主人だ。気に入らないというなら、かかってくるがいい。この剣に武器を向ける度胸があるならね」
さすがに誰もがたじろいだ。
敵に囲まれようと堂々とひるまないふりくらい、どうってことはない。恵まれた美貌《びぼう》も、エドガーは自分が他人にどう見えるか、熟知しているから利用する。
「おいみんな、何をしている。ニセ者から宝剣を奪い取れ!」
スレイドが沈黙を割った。
頑固《がんこ》な男だ。いっそ黙らせるかと悩んだそのとき、見知った若者が駆け込んできた。
「待ってください!」
エドガーのいる祭壇の下へ駆けつけたポールは、皆の方に向き直る。
「もうやめましょう。この人はプリンスの手先なんかじゃありません。ぼくたちとおなじように、被害者なんです」
「ポール、おまえの話が本当だとしても、こいつもその東洋人も、プリンスのもとにいたのは間違いない。洗脳されているかもしれないし、よほど下《した》っ端《ぱ》ならともかく、奴の身近にいた人間が逃げ出して自由にしているなど考えられない。逃亡者は徹底的に追われて殺される」
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その通りだ。エドガーが殺されなかったのは、プリンスにとって生きたままとらえなければならない存在だったからだ。
なぜ殺さないのか理由は知らない。エドガーを追いつめるために仲間を殺し、様々な手をしかけてきたけれど、彼を殺すわけにはいかなかったその一点を抜け道として、ここまで逃れることができたのだ。
「でも、プリンスが手下に、青騎士伯爵の名を得ることを許すでしょうか。この方は、ぼくたちが認めようと認めまいと、女王|陛下《へいか》によって正式に認められているんです。そういう存在は、プリンスにとって好ましくないのではないですか?」
反論の余地を探してか、スレイドは首をひねりながら黙り込んだ。
「そのへんを、僕も知りたい。プリンスと青騎士伯爵に、何か因縁《いんねん》でもあるのか?」
少し振り返ったポールは、結社の団員ではないエドガーに、話していいものかどうか迷ったようだった。
スレイドはこちらをにらみつけるようにしながら黙っているだけだ。
「お話ししましょう」
そう言ったのは、また別の声だった。
戸口から、初老の男が入ってくる。団員たちがさっと道をあけたことから、結社のリーダー格だろう。
背筋をピンと伸ばしているが、目が不自由らしく、彼はゆっくり杖をつきながら進み出た。
「ファーマン……」
とスレイドが心配そうに声をかける。ということは、ポールを息子にした男か。ドーバーにいるのではなかったようだ。
「スレイド、ここは私にまかせてくれ」
どうやらふたりは、画家と画商《がしょう》としてよりも親しい間柄らしかった。
「すいぶんと失礼をいたしました、伯爵。いえ、公爵《こうしゃく》とお呼びするべきですか?」
「その名はもう、僕のものじゃない」
「では伯爵、プリンスと青騎士伯爵の間に何があるのか、私たちもじつはよくわかっておりません。ただ、奴が青騎士伯爵の存在を怖《おそ》れているかのように、血筋を徹底的に抹殺《まっさつ》したことを知るのみです」
「血筋を? しかしアシェンバート家の爵位《しゃくい》継承者《けいしょうしゃ》は、三百年前からひとりも英国に現れていない」
「そうなのですが、爵位を相続する権利はなくとも、血を引く者はおりました」
そして彼は、肖像画を見あげた。
「青騎士伯爵家の人物を描いた、唯一のものではないかと思われます。これを描いたのは、伯爵の恋人で彼の子を産んだ女性……」
「なるほど、恋人と子のために、自分の絵を描くことを許したのか。ロマンチックな話だ。で、その女流画家の家に、伯爵家の血と絵が受け継がれてきたと」
「ええ。私とこのスレイドが弟子入りしていた、師の家系でした」
画商ももとは、画家を目指していたのか。芽が出なかった代わりに、遺産でも手に入れて成り上がったのだろうかと想像する。
「で、きみたちの師匠《ししょう》はプリンスに殺されたわけか?」
沈痛な面《おも》もちで、死者を悼《いた》むように彼は頭《こうべ》を垂れる。
「私たちのほとんどは、殺された師の一族と親しくしていた者。画家仲間だけではなく、もっと古くからの職人的な、壁画や彫刻など装飾美術を手がけてきた者たちです。その昔は、領主や城についての秘密を知るような仕事もあり、身を守る必要もあって発達した組織で、師の一族はそのネットワークの中心的位置にいました」
「それが、〝朱い月〟という結社なのか?」
「〝朱い月〟と名乗ることにしたのは私たちです。師の一族は、青騎士伯爵の子に与えられた名、フランドレンをミドルネームに受け継いできたといういきさつもあってそう決めました。彼らが皆殺され、職人たちの組織もバラバラになりましたが、どうにか寄り集まった者たちです」
「結局、なぜねらわれるかわからないのか?」
「私たちにはわかりません。師は知っていたかもしれませんが、他言《たごん》する前に殺されました。残された私たちは、プリンスへの恨《うら》みで結束を固め、青騎士伯爵が英国に戻ってこられるのをひたすら待ち望んでいたのです。プリンスがその血を嫌うなら、彼が現れることでしか、対抗することはできないと……」
「なのにニセ者で、失望したわけかい?」
ファーマンは、皮肉めいて口元をゆがめた。
「数年前にオニールが殺されたとき、私たちは彼が滞在していた公爵家について不審《ふしん》に思い調べました。しかし火事があったことしかわからず、まさかその若君が、プリンスの元で生きていたとは考えもしませんでした。伯爵、あなたの家族を描いた彼が殺され、あなたの家もプリンスにつぶされたのなら、その理由を私は知りたい。オニールは、公爵家にいて何か知ってしまったのかもしれません」
エドガーの家がなぜねらわれたのか。それは彼自身考え続けてきたことだ。
しかしいまだ、明確な答えはつかめない。ただ、公爵家がねらわれたというより、エドガー自身を手に入れるためだったのではないかという気がしている。
「僕にもよくわからない。しかし、青騎士伯爵の血は関係ないと思う。家系図は子供のころから頭にたたき込まれるが、百年に一度現れるか現れないかの伯爵家とつながりはなかったはずだ」
ファーマンは深く息をついた。
わからないことばかりだ。
魔術的な研究に傾倒していたプリンスの組織にとって、青騎士|伯爵《はくしゃく》の不思議な力が脅威《きょうい》であったのだろうか。
その可能性はある。しかしアシェンバート家の不思議な力は、エドガーにはない。
だが今は、エドガーが青騎士伯爵だ。名を背負った以上、古い家系のすべてを背負っている自覚はある。
どのみち自分は、プリンスと対決する道から逃れられないのだ。
「伯爵、これ以上お話しすることはありません。あなたには今後ご迷惑をかけないと約束します。どうか私たちの結社については胸にしまっていただき、おひきとり願えないでしょうか」
「プリンスに対抗できるはずの、血も神秘的な力も持たない伯爵は、いらないって?」
しかしこのまま帰る気など、エドガーにはない。この〝朱い月〟は使えるはずだ。
だからほしい。
「おそらく僕は、プリンスの組織の中で、誰よりも奴のことを知っている。奴のやり方、考え方、陰湿な攻め方も知っている。だからこそ裏をかくこともできるはずだ。頭脳《ブレイン》がほしくはないか? 察するところきみたちの活動は、プリンスに無視されるほどこれといった成果を上げていない。だからこそ生き残ってこられたのだろうけど、それでいいのか?」
スレイドがむっと顔をしかめたのは、自分でも歯がゆく思っているからだろう。ファーマンは表情を変えずに淡々《たんたん》と言った。
「あなたを仲間にするということですか?」
「違うよ、〝|朱い月《スカーレットムーン》〟の諸君。僕のものにならないかと言ってるんだ」
エドガーは鷹揚《おうよう》に微笑《ほほえ》みながら、祭壇の上を大股《おおまた》で歩き、結社の象徴である青騎士伯爵のための玉座《ぎょくざ》に腰をおろした。
一瞬ざわめいたが、誰も抗議の声をあげなかった。
「戦うために、僕は|朱い弓《フランドレン》と|白い弓《グウェンドレン》を手に入れたい。ニセの伯爵にニセの朱い弓。まったく、きみたちは妖精の射手《いて》を勝手に名乗っているだけなのだから、それでじゅうぶんじゃないか。勝てそうな気がしてきただろ?」
返事はない。だが手応《てごた》えはある。
もう一押しか。
ニセの、名前と意気込みだけの朱い弓だからこそ、彼らは本物の青騎士伯爵を欲した。
しかしそんなことをしても意味はない。本物の青騎士伯爵にしてみれば、この〝朱い月〟はどこまでもまがいものではないか。
本物の輝きをまねたって、同じものにはなれない。ニセ者が本物に成り代われるとしたら、本物以上に輝くことだ。
エドガーは、ポールの方に視線を向けた。
「ところでポール、きみに用があったのは、その白いムーンストーンを返してもらいたかったからだ」
あ、とあわてたように、ポールは指輪をはずした。レイヴンがそれを受け取り、玉座のエドガーに手渡す。
彼は宝剣をレイヴンにあずけ、指輪を手に立ちあがった。
「レイヴン、あとは頼んだよ」
「はい」
「さて諸君、僕は|白い弓《グウェンドレン》をさがしに行ってくるから、ゆっくり返事を考えておいてくれ」
戸惑《とまど》う彼らを見まわし、そしてエドガーはマリーゴールドたちを呼んだ。
どこからともなく現れたふたりの少女に、〝朱い月〟の団員たちは驚きを隠せない様子だったが、そうでなくてはこの大げさな芝居をする意味がない。
「では伯爵、まいりましょう」
幼い少女の姿をしたふたりの妖精が、エドガーの手を取った。
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うそつきと約束
夏至《げし》の夜を思わせる薄藍《うすあい》色の空に、白っぽい月がかかっている。川面《かわも》を渡る風が、森の木の葉をゆらしながら、ゆっくりと流れている。
妖精界は、暑くも寒くもなく、そして静かだ。
月を見あげながらリディアは、今ごろ父さまはどうしているだろうと考えた。エドガーは、リディアがもう伯爵《はくしゃく》家のために働くことはできないと聞かされただろうか。
妖精界と人間界とは時間の流れが違うから、リディアにしてみればまだ夜も明けていないのだが、きっと向こうではもっと時間が経っているのだろう。
空腹を感じ、リディアはひざの上の果実に目を落とした。
妖精界の果実は、よく熟《う》れていてあまい香りを漂わせている。もしもひとくちかじってみれば、これまでに味わったことがないほど美味なのだろう。
でも、妖精の食べ物を口にしたら、二度と人界へ戻れなくなる。
そもそもケルピーと暮らすことにしたからには、人の世界と縁を切らねばならないのだけれど、なにぶん急だったのでまだ心の準備ができないのだ。
目をつぶってリディアは、ケルピーが採ってきてくれた果実を遠くへ投げ捨てる。と、その彼が、川の方から戻ってくるのが見えた。
背負ってきた草の束を地面におろす。やわらかな、いい匂いのする草を敷きつめた上にリディアを座らせ、満足げに微笑《ほほえ》んだ。
「今日のところはここで休めよ。スコットランドに帰ったら、人間にも住み心地がいいようにいろいろ整えてやるからさ」
「うん、ありがと」
意外とやさしいというか、世話を焼いてくれる。
「なあリディア、もう月の約束を取り消してくれてもいいだろ?」
月をくれたら結婚する、と以前に言ったあれのことだ。
ケルピーとは、毒消しの血を受け取る代わりに彼のそばにいるという約束をした。それがそのまま結婚の約束ではなかったけれど、このままずっとそばにいるのに、結婚を拒む意味はない、だから、月の約束を取り消してほしいと彼は言う。
「……スコットランドへ着いてからにしましょう。今は疲れてるの」
「そうか。ま、おまえにとっては、人間界と決別するには気持ちの整理も簡単じゃないだろうからな」
けっして、うわべを取り繕《つくろ》った言葉ではない。ケルピーにはそんな裏も小細工もない。これがそのままの彼の性格なのだから、リディアは、彼との生活を割り切ってしまえば平穏《へいおん》に暮らせるだろう。
ふと顔をあげると、ケルピーがじっとこちらを見ている。
悪いやつではない、とはいえアンシーリーコートだ。人を喰《く》う妖精だ。エドガーに見られているような艶《つや》っぽいものではなく、ちょっとかじってみたいと思われているような妙な感覚に包まれる。
と、いきなり肩をつかまれ、リディアは草の上に押し倒された。
「ちょ、ちょっと何すんのよ……!」
「交尾」
「はあっ?」
ああこいつ、獣《けもの》の属性入ってるから、とっても即物的《そくぶつてき》なんだわ。
静かにむかつきながらリディアは、おもいきりげんこつでケルピーの鼻面《はなづら》を殴《なぐ》りつけた。
「痛って……、なんだよ、人間は水棲馬の雌《めす》みたいに暴れないって聞いたぞ」
「まだ結婚してないでしょ!」
やっぱ無理か、と舌打ちしつつ、彼はリディアから離れる。
そのとき川の水面に、不自然な波が立った。
ケルピーが気にしたらしく立ちあがる。少なくとも今は、この岸辺と川の一帯は、ケルピーのなわばりだ。水棲馬は、とくに水中のなわばりの侵入者を嫌う。
「ちょっと様子を見てくる」
彼が水の中に消えると、リディアは大きくため息をついた。
やっていけるのかしら、と少々不安になってくる。
「リディア」
エドガーの声が聞こえたような気がすれば、きっと疲れすぎているのだと思う。一眠りして、夜が明ければ、もう少し前向きな気持ちになれるかもしれない。
「リディア、早く、今のうちに逃げよう」
え?
すぐそばで草を踏む気配《けはい》に、ようやくリディアが顔をあげると、エドガーがにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「ど、どうしてあなたが、ここに?」
「きみを連れ戻しにきた」
「でも……」
「勝手に行ってしまうなんてあんまりだよ」
「おい、早くしろよ! 奴が戻ってくるぞ!」
草の陰からニコが手招きしている。
エドガーに腕を引かれ、リディアはどうしていいかわからないまま、彼といっしょに駆《か》け出していた。
「ちょっと、あたしは逃げるわけにいかないのよ。ケルピーとは約束を……」
「でも、貞操《ていそう》の危機を立派に戦ったじゃないか」
「み、見てたのーっ!」
「思わず飛び出しかけたよ。ニコがカエルを川に投げ込んでくれたから、ケルピーの注意をそらせたけど」
とりあえずはケルピーのなわばりから離れようというのか、エドガーは森の中を小走りに急ぐ。力をゆるめずにリディアの腕をつかんだままなのは、彼女がケルピーのもとへ戻ると言い出さないかと怖《おそ》れているようでもあった。
「リディア、あの女心がみじんもわからないような妖精と、本当に結婚したいわけじゃないだろう?」
そんなことは、すでに問題ではないのだ。
約束が成立しているのに、エドガーのやろうとしていることは無茶な上に無意味なことだ。
「……ここは妖精界よ。あなたのうそやはったりが通用する世界じゃない。約束をたがえることはできないの」
「きみに命を助けられたと知って、そうだったのか、と感動しただけですむと思った? だとしたら、きみの大きな見込み違いだ」
少し怒ったように、彼は言う。
「それにきみは、僕を好きになってくれると言ったのに、それこそ約束違反だよ」
「言ってないわよ、考えとくって言っただけじゃないの」
「なら考えもせずにいなくならないでほしい」
それはでも、考えたってもうケルピーと約束していたから。
それにしてもこの人、どうやって妖精界へ入ってこられたのだろうと横顔を眺める。
ニコにはそんなことはできないはずだ。
入ってきただけでなく、彼の知恵も経験も及ばない世界だとわかっているのかいないのか、いつもの確信に満ちた顔つきで先へ進んでいく。
「おい、あのふたりだ。隠れろ!」
急にニコが声をあげた。エドガーはリディアをかかえ込むようにして、木の後ろに身を隠した。
ふわふわと、ふたつの淡い光が森の中を飛んでいく。
エドガーの名を呼んでいる。
「あなたまさか、マリーゴールドたちに連れてきてもらったの?」
静かに、とエドガーは人差し指をたてる。
「……てことは、まさか妖精女王との結婚を受けたりしたんじゃ」
「まあそんなふうに、彼女たちは勘違《かんちが》いしているかもね」
「か、勘違いじゃないわよ! 勘違いなんて曖昧《あいまい》な約束はありえないのよ! あなた、ポールさんからムーンストーンの指輪を受け取ったんでしょ?」
「うん、これ」
上着のチーフポケットから取りだして見せたその指輪に、リディアはめまいさえ感じた。
指輪を受け取って、妖精界へ案内させておきながら、あのふたりの妖精のそばから逃げ出し、ニコを道案内にリディアをさがそうとしたのか。
とんでもないことをしてくれる。
これでは、ケルピーをなだめてエドガーを人界へ送り返せばまるくおさまるというものではない。
「……せっかく、命が助かったのに……。あなたは妖精界で幸せになれるような人間じゃないでしょ? 人の世で自分の力を試すことに生きがいを感じてるでしょ? そういう魂《たましい》を持つ人にとってこちらがわは、死の世界も同じなのよ!」
「おいリディア、見つかるってば」
ニコがあせって髪を引っぱったが、リディアは言葉を止められなかった。
「バカじゃない、それを受け取ったら、女王と結婚するしかないじゃない。あたしにだってどうにもできないわ」
ふたりの妖精は、リディアの声に気づいたのだろう、宙に浮かんだまま明滅《めいめつ》した。
「誰か、そこにいるんですか?」
ようやく、見つかればまずいとリディアも気づく。声をひそめてつぶやく。
「どうしよう……、ねえニコ、何か方法はないの?」
「だからさ、おれも無理だって伯爵《はくしゃく》に言ったんだけどさ」
「いいやリディア、きみには僕を助けてくれることができるよ」
エドガーはやけに自信たっぷりに言った。
「僕と結婚してくれ」
「は?」
「生死の境をさまよいながら、君をさがす夢を見た。いずれまた、死が訪れるそのときに、僕はきみの姿をさがそうとするに違いない。だからずっと、そばにいてほしい」
リディアの両手を握りしめ、真剣な顔つきで言うけれど、こいつのこれが真剣なはずはない。
でも、百にひとつくらい本気が入っていたりするから、惑わされる。
ケルピーのせまり方だったら、げんこつひとつで退《しりぞ》けられるのに、エドガーの場合はどうしてうまくかわせないのだろう。
「身分が違うわ」
思わず口をついてでたのは、この場ではどうでもいいようなことだった。
「妖精と結婚することにくらべたら、たいした障害じゃないと思うけど」
「とにかく、バカなこと言わないで」
「バカなことか。月をくれるなら結婚してもいいってくらい?」
「そうね、本物の月をくれるなら」
「ニコ、聞いたね」
「え、ああ……」
「リディア、これが月だ。本物の」
問題のムーンストーンを、彼は差し出す。
「ちょっと待ってよ、これは月じゃないわ」
「月だよ。きみさえ認めれば」
「……どういうこと?」
「昔の青騎士伯爵は、『月をくれるなら』じゃなく、『月と誓いを取り交わせば』婚約が成立すると言ったそうだ。だから、受け取るだけじゃなく身につけて誓いのあかしとしなければならないんだ。でも、いいかいリディア、僕はまだ、これを一度も指にはめていない」
つまり、エドガーと女王との婚約が、まだ完全には成立していないことになるのだろうか。
もしもリディアが、エドガーの求婚を承諾《しょうだく》しムーンストーンを指にはめれば、伯爵から〝月〟を受け取ったかわりに結婚の誓いを捧げたことになる?
〝月〟と〝誓い〟を取り交わした、正式な婚約者はリディアになるとしたら。
同時に、まだ〝月〟の約束が残っているケルピーもリディアとは結婚できなくなる。
月野原の女王もケルピーも、このムーンストーンを〝月〟だという前提で、エドガーやリディアにせまった。そのことが、逆に彼らを封じる力になるのだ。
「伯爵、そこにいらっしゃったんですね!」
見つかったらしい。
野原の妖精たちがふわふわと近づいてくる。
「リディア、お願いだから承諾してくれ」
エドガーは返事を急がせる。
そういうことね。
ようやくリディアは、エドガーが急に結婚などと言い出した意味がわかってきた。
彼にとってこの求婚は、フェアリードクターを取り戻しこの場を切り抜けるための手段なのだ。
だったらなおさら、承諾なんてできるわけないじゃない。
自分の役に立つ少女を、そばに置いておくためなら、結婚するくらいどうってことはないと思っているのだろうか。
エドガーならあり得るわ。でも、そんな結婚できやしない。
「……あなたじゃない。あなたはあたしに、恋なんかしてないもの」
「僕の言葉はそんなに信じられない?」
何をかたくなになっているのだろう、とも思う。魔性《ましょう》と呼ばれている水棲馬との結婚を覚悟したのに、恋をしていようがしていまいが人であるエドガーの方が、ふつうに考えればずっと、リディアにとってましな結婚相手のはずだ。
なのに、あきれつつもリディアは首をたてにふる気にはなれなかった。
ケルピーだって、人のように愛や恋の感情を持っているわけではなかった。でも彼なら、いつまでも変わらない気持ちで接してくれるだろうと思えた。
一方で、エドガーの心の中は、どうしてもよくわからない。
彼にふさわしい女の子はいくらでもいて、そのうえ彼は口ばっかりで、うそつきだ。
「信じられないわ」
思案するように、彼は黙り込んだ。
リディアの拒絶に、少しも傷ついている様子はないのだから、やっぱりこれは彼にとって戦略でしかないのだろう。
「……わかった。僕との結婚が今のところ気乗りしないっていうなら、とりあえずのこの場しのぎだと思ってくれていい」
「この場しのぎ? 結局それが本音なのね」
「違う。でも今きみに、僕の本気を説得する時間がないならと言ってるんだよ」
「伯爵、早くまいりましょう。女王さまのところへ」
ふたりの妖精がエドガーにまとわりつくが、彼はリディアを離さない。
「おいおまえら、いったいどういうことだよ!」
その声に、マリーゴールドたちが散るようにエドガーから離れた。
「きゃあっ、野蛮《やばん》な水棲馬が!」
ケルピーにまで見つかってしまった。
おそるおそるリディアが振り返ると、彼は堂々とした馬の姿で、魔性の力を持つ瞳を鋭くエドガーに向けていた。
「伯爵さま、早くこちらへ!」
マリーゴールドたちは騒ぎながらも、ケルピーがいるからエドガーには近づけない。
エドガーはケルピーににらまれながらも、リディアをさらに引き寄せた。
「青騎士伯爵、しつこい男だな。そいつは俺の花嫁《はなよめ》だ」
「違うよ、リディアは僕と結婚するつもりだ」
「いい度胸だ。そんなに喰《く》われたいのか」
リディアをかかえてあとずさりながら、エドガーはささやく。
「リディア、お願いだからとりあえず帰ろう。人間どうしの約束はいくらでもなかったことにできる」
それもどうかと思うわ。
けれどうそでも、エドガーとの結婚を承諾するふりさえすれば、リディアは人の世に帰れるのだ。
彼が野原の女王の国へ連れ去られるのもふせげる。
それに、人の世に残る気がかりはもうひとつ。
「カールトン教授が、きみがいなくなってどれほど落ちこんでいたか」
エドガーは、リディアがなるべく考えないようにしていた切り札まで持ち出した。
きっとこれも計算済みね。
それでも父のことを思い浮かべてしまえば、リディアの心は大きく傾いた。
結婚なんてまだまだ先のことだと思っていたリディアにとって、もう少し父の娘でいたいというのは正直な思いだ。
ずるい。けどもう、父につながるエドガーの手を、リディアが離せないだろうと知っている彼は、不敵に微笑《ほほえ》む。
「わかったわ、エドガー。あたしに〝月〟をください……」
「ありがとう。一生きみを大切にする」
この場だけの約束。わかっていても、エドガーがやけにまじめにそう言うから、奇妙にドキドキした。
リディアの左手を、急いで彼は取りあげる。ムーンストーンの指輪が薬指におさまるのを眺めているのは、不思議とくすぐったいような気持ちだった。
「おい、リディア!」
〝月〟の指輪に気づき、叫んだケルピーの方に彼女は振り返った。
「ごめんなさい、ケルピー。あたし、まだ人の世に未練があるの」
怒るというよりは、彼は淋《さび》しげに眉《まゆ》をひそめた。
少なくとも、エドガーに襲《おそ》いかかるとか力ずくでどうにかしようという様子もなかった。
マリーゴールドたちも、困惑しつつ遠巻きにしている。
「ごめんね、妖精たち。僕のことはあきらめてくれ」
「伯爵《はくしゃく》、でしたら早く息子さんをつくってください」
「だってさ、リディア」
「調子に乗らないで」
「帰り道を開くぞ」
[#挿絵(img/moonstone_265.jpg)入る]
と言ってニコがリディアの肩に飛び乗る。風景がゆがむように感じるのは、妖精界と人間界のわずかな隙間《すきま》を通り抜ける一瞬のこと。
そのかすかな狭間《はざま》で、リディアはケルピーの声を聞いていた。
「未練がなくなるまで、待ってやる。どうせあっという間だろ」
そうね。妖精にしてみれば、数年、二十年や三十年だってあっという間だから。
* * *
そしてアシェンバート伯爵|邸《てい》に、平穏《へいおん》な日常が戻った。
はずだったが。
「ちょっとエドガー、どういうことなの?」
当主のジェントルマンズルームへ駆け込んだリディアは、めずらしく領地の事務処理などという仕事らしいことをしていたエドガーに詰め寄った。
「やあリディア、会いたかったよ」
「あなた、自分の命をねらった義賊団《ぎぞくだん》結社に入るつもりですって? ニコに聞いたわ。彼らが、青騎士伯爵の不思議な力に救いを求めているからって、マリーゴールドたちの魔力を利用して、伯爵として認めさせようとしたんですって?」
「今夜は時間があきそうなんだ。きみをディナーに誘おうと思ってた」