寛子は笑った。
「誰が言うのよ、そんなこと。よしみがあればともかく、面識もないのに家を訪ねて、そう言ってやるわけ?」
「表敬訪問ってことにすればいいのよ。町内会の連絡とか、ちょっとした用を作って。ついでに、よろしくって出向いたんだってことにすれば、角も立たないでしょ」
寛子は好奇心を刺激されたような顔をした。
「悪くないかもね、それ」
そこまでしなくても、と加奈美は思ったが、特に口は挟まなかった。佐知子たちの好奇心は分かる。そもそも妙な家を建てて、煽ったのは本人たちだから、この程度の干渉は我慢して貰うしかないだろう。
「娘さんがいるっていうじゃない。中外場の父兄会の人に声をかけてみたらどうかしらね。村の小学校だか中学校だかに通うことになるわけでしょ?」
「あら、身体か弱くて学校には行けないかも、って聞いたわよ」
へえ、と加奈美は寛子の顔を見た。
「そうなの?」
「うん。村迫米穀店にね、若い使用人みたいな男の人が現れたんだって。その人がそう言ってたみたいよ。ついさっき、買い物にいったら、智寿子さんがそう言ってたわ。なんとかいう病気で、お医者が家にいて面倒を見てるんだって。難病指定されてる病気みたいよ。母親と娘と、両方とも」
「あら……それは大変ね。それでこんな田舎に越してきたんだ」
「そうみたいね」
少し考え込むようにしていた佐知子は、軽く手を打つ。
「それこそ、そういうふうに聞いたけど、いかがですかって、聞けばいいのよね。父兄会で娘さんができるだけ登校できるよう、お手伝いしますけどって」
「ああ、そうね」寛子は頷く。「それ、本当に訊いたほうがいいかもね。登校するのに、誰かの手が必要なのかもしれないし」
「でしょ? あたし、中外場の小池さん辺りに声をかけてみようかしら」
頷く寛子を身ながら、加奈美は心中で溜息をつく。本当に、自ら煽ってしまったこととはいえ、転居者には同情したくなる。さずかし、しばらく暮らしにくい思いをすることだろう。
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4
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清水恵は蝉時雨の降る小道を急いだ。
西の山際に沿って下外場から中外場を経て門前へと向かう細い道。そちらのほうが顔見知りが少なくて、声をかけられることもないだろうと思ったのに、やっぱり知り合いにあって、もう少しで捕まるところだった。暇を持て余した年寄りの相手なんか御免だ。何を言われるかぐらいは分かっている。いつの間にか引越があったらしい、という話、そうでなければ山入で人が死んだという話を聞かされるだけ、それも最後には訓戒めいたお節介で終わる。
(どうだっていいじゃない)
人間は誰だって死ぬのだ。村には老人だって多い。人が死ぬなんてことは、毎日ひっきりなしに起こっているのだ。――大部分が目の届かないところで起こっているというだけのことで。
大人たちはこれで山入集落はなくなったんだ、とさも重大そうに騒いでいたけれど、山入なんて本当はもう、とっくになくなっていたのだ。誰だって今にも忘れそうになっていた。いまさら騒ぐようなことじゃない、と思う。
恵だって最初は、山入で死人が出たとき、大変なことが起こった、という気がした。新聞やテレビに出て、なにかとてつもない変化が起こりそうな気がしたのだけど、そんなものは起こらなかったし、よく考えれば新聞だってテレビだって地方版やローカル?ニュースで、最初からそんな大層なことではなかったのだった。
(結局、物珍しいことが起こって嬉しいだけじゃない)
さも一大事のように目を輝かせて噂をしながら、口先では可哀想だとか不憫だとか。誰も本当は可哀想だなんて思ってないくせに。なのに恵が興味ないと正直に言えば、見下げ果てたような顔をする。
(くだらない町)
すごく、とてもくだらない。自分に関わりのないことは、無関係だと言わないだろうか。それをまるで自分が、死人の旧来の知り合いだったかのような顔をする。大騒ぎする連中に言ってやりたい。あんたは関係ないじゃないの、と。
(あたしには関係ないわ)
恵には関係ない。自分に関係あるのは、むしろ――。
恵は曲がり角まで来て坂を見上げた。一昨日の夜中、トラックが入ったのを見た者がいる、という噂は、すでに村を駆けめぐっている。しかしながら、住人の姿を見かけた者はいなかった。少なくとも、恵は見た人がいるという噂を聞くばかりで、実際に会ったという者を知らなかった。近所への挨拶はもちろん、とりあえず村の様子を見に下りてくる、そういうこともないらしい。単に引越の後始末で慌ただしく過ごしているのかもしれなかったが、住人があまり積極的に村に溶け込もうという気でいないことは確かなのかもしれない。そんなわけで、恵はまだ住人についての詳しい話を聞いてなかった。
くだらないことばかりの村の中で、この家だけが恵にとって意味のあることだ。結局のところ、恵はこの家にとって無関係なその他大勢に過ぎないことを分かってはいるけれども、そうと決まって落胆するまでは、期待することをやめられない。
落胆はしたくない。およそ恵には興味の持てないような人たちが越してきて、向こうだって恵には何の興味も抱かなくて、閉め出されてしまうことなんて想像もしたくない。
(そんなことは起こらないはず……)
食い入るように坂の上を見ながら、恵は自分に言い聞かせる。こんなにあの家が好きなのだから、その家の住人だって、好きになれるはず。こんな恵を、住人だって決して悪くは思わないはずだ。
(そうだよね?)
思い入れをこめて家を見上げていたので、恵は突然、声をかけられて飛び上がった。
「恵ちゃん」
振り返ると、かおりが犬を連れてやってくるところだった。恵の視線を受けてかおりは大きく手を振る。かおりの連れた犬は間延びした顔の雑種だ。ラブなどというお笑いな名前がついている。
(あの家で飼うなら、きっと洋犬だわ。精悍な感じの)
恵は名残惜しく家を一瞥した。
「今日も暑いね。――散歩?」かおりは言って、恵の目線を追うように坂の上を見上げる。「どうしたの、あの家に何か用事?」
「そんなはずないでしょ」
なんだか気恥ずかしくて、恵は足早に坂を離れた。慌てたようについてくるかおりを、恵は横目で見やる。
(野暮ったいお下げ。せめてゴムだけじゃなく、リボンくらい付ければいいのに。しかもTシャツに突っ掛け履きだなんて)
かおりは恵のひとつ下で、家も近い。母親同士も仲が良かった。去年までは同じ中学に一緒に通っていた。今年になって恵は高校に進み、かおりは中学校の最高学年に残されたが、それでも毎朝、学校へ行こうと誘いに来る。別に恵が一緒に行こうといったわけでもなんでもないのに、それが当たり前のことのような顔で毎朝律儀にやってくるのだ。恵がぐずぐず用意をしていると、「置いて行っちゃうぞ」などと言いながら、待っている。そういう時のかおりの顔は、飼い犬の顔によく似ていた。
恵が一緒に登校したがっていると決めてかかっている。高校まではバスを使っても三十分、村の中学校に通うかおりは、そんなに早く家を出る必要などないはずだ。それを「いいんだよ、気にしなくて。予習ができてちょうどいいから」などと言って恩に着せるのだから呆れ返る。
「引越してきたらしいって噂、聞いた?」
かおりが言うので、恵は頷いた。かおりは歩きながら坂の上を振り返る。二人が歩いている位置からは、もう門は見えなかった。見えるのは二階と屋根だけだ。それでも恵は少し、何かが汚されたような気分がした。
「娘さんがいるんだってね」
かおりが言って、恵は足を止めた。
「娘さん? いるの?」
うん、とかおりは頷く。
「そう聞いたよ。でも、あたしたより年下。小学校の六年生か中学生――そのくらい」
恵は複雑な気分がした。娘がいたのは嬉しいけれども、年下だというのは宛が外れた気がした。それを自分が知らなくて、かおりが知っていたのも面白くなかった。
「……そう」
「旦那さんと、奥さんと、娘さん。三人家族なんだって。近所の小母さんたちが立ち話してたよ」
「ふうん……それで?」
「それで、って?」
「だから、どういう人たちなの?」
知らない、とかおりは首を振った。
「だって、立ち話してるのを、小耳に挟んだだけだもん。別に興味もなかったし、通り過ぎちゃった」
「興味ないの?」
恵が驚いて訊くと、かおりも驚いたようにする。
「恵ちゃんは興味あるの?」
「そりゃあ……当たり前でしょ」
「変な人たちなのになあ」
「変? どうしてよ」
かおりは、恵の詰問口調に驚いて首を傾げた。ひとつ年上の恵は幼稚園の頃からの友達だが、時にとてもよそよそしい。今のように。
「だって……夜中に越してきたんでしょ? 普通はそんな時間に引越なんてしないじゃないかな」
「そんなの、事情があったのかもしれないじゃない」
そうかなあ、と、かおりは呟いた。
「……変な家だし」
「だから、どうして」
「似合わないでしょ、場所に家が」
「単に外場が田舎だからでしょ」
その田舎に、あんな家が建つこと自体そぐわなくて、かおりには変に思えるのだが、恵はそうは思わないのだろうか。
「なんか、重苦しくて暗そうだし……」かおりが言うと、恵はひどく険のある、それでいてどこか軽蔑したような視線を向けてきた。「……ああいう家に住んだら、気が重そう」
「別にあんたの家じゃないんだから、いいじゃない」
恵の声は突き放すようで、踵を返した足取りもつけつけとしている。
「どうしたの? またお母さんと喧嘩?」
かおりの声に、恵は一瞥をくれただけで答えない。さっさと坂のほうへ戻り、かおりをちらりと振り返ってから坂を登っていった。かおりはぽかんとそれを見送る。本当に長い付き合いだけれど、ときどき理解に困ってしまう。
かおりと一緒に足を止めたラブに、かおりは溜息混じりに声をかけた。
「恵、何かあったのかな」
犬は興味なさそうに欠伸をする。
恵は憤然と坂を登った。あんな田舎者に、という言葉が胸の中で渦を巻いている。
くだらない、くだらない、くだらない。
野暮ったい住人、野暮ったい村。それを少しも恥ずかしいと思っていない。それどころか、それでいいと思っているのだ。
この村に、あの家は立派すぎる。それを前にして恥じ入るのじゃなく、あの家のほうが変だという。ちょっと村の中の店にお使いにいく、その時に恵が着替えて出るのを、笑うみたいに。
(あの家が変なんじゃないわ、あんたたちのほうが変なのよ)
犬を連れて普段着のまま突っ掛け履きで散歩に出る。身なりを構わないのは、外も家の延長だからだ。村ぐるみ、庭先のような意識で、親戚のような感覚でいる。当然のことのように他人の家に上がり込み、家族のような顔をして他人の生活に指図する。
(こんな村、大っきらい)
けれども恵は、その村の囚われているのだ。出たくても出られない。このままこの村で就職して、村の誰かと結婚して、村の一部になるのだろうか。――それだけは御免だった。
大学に行きたい、都会で就職したい。けれども家族も、近所の連中も、女の子は家にいるのが一番だと口を揃えて説教する。
(最低)
怒りにまかせて前屈みに坂を登り、恵は顔を上げた。家を見上げようとして、はっと息をつく。
(……門が)
坂道はその家の前で屈曲し、カーブに面した門は、ちょうど道をふさぐようにして立っている。白い塀、煉瓦を積んだ門柱、飴色の板に黒い金具の門扉、道の先に立ち塞がり、視野を遮ってきたそれが少しだけ開いている。
隙間はわずかに五センチほど。そこから細く、夕日に照らされた敷地の中が見えた。門から続いている石畳と枝先だけがのぞいている庭木、その先に建った暗い石組みの壁。
恵は、そろそろと坂を登った。少しだけ胸の鼓動が高鳴っている。門扉の間を覗き込みながら、そっと近づいていった。外界に向かって開かれた間隙は、もどかしくなるくらい細い。石壁に開いた一階の窓の、板戸が開かれ、白いカーテンも開いているのが、かろうじて見て取れた。家の中にはすでに明かりが点っている。内壁か家具か、何か家の中のものが見えているのが分かる。
我知らず、恵は息を潜めた。門のほんの手前まで来たとき、夕風でも吹いたのか、門扉が揺れるように動いた。片方の扉が内側に向かい、ゆらりと開く。それで弾みがついたのか、石畳に穿たれ弧を描くレールに沿い、音もなく滑って開ききった。
恵は息を詰め、開く動きに引かれるように、その門へと近づいていった。
[#改段]
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六章
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1
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かおりの家の電話が鳴ったのは、夕飯も済んで九時のテレビ番組が始まって少しした頃だった。
電話を取った母親は、少しの間電話の相手と話をしてから、茶の間でテレビを見ていたかおりに硬い調子の声をかけてきた。
「かおり、あんた今日、恵ちゃんに会わなかった?」
かおりは頷いた。
「ラブの散歩に行ったとき、会ったよ」
「恵ちゃんがまだ帰ってきてないんだって。あんた、何か聞いてない?」
かおりは瞬いた。
「別に……」
「おしいわね。溝辺町にでも行ったのかしら」
恵はお洒落していたけれども、あれはいつものことだから、出かけるつもりだったかどうかは分からない。いや、どこか村の外に出かけるという様子ではなかった。かおりと話した後、坂を登っていったから……。
かおりは、軽く空気を呑み込んだ。
「門前で会った、けど」
そして坂を登っていった。かおりは先を言い淀む。あの坂には恵の秘密があり、かおりだけがそれを知っていた。坂の途中から林に入って斜面を下ると、中外場の山際にある家の裏手に出られるのだ。恵は今年に入ってから、頻繁に中外場にある一軒の家を訪ねていた。裏手からそっと、ひとつの窓を見守るために。
かおりは言葉を呑み下す。それを母親に言うわけにはいかない。――誰にも。
母親は、そう、とだけ言って、受話器に向かった。茶の間でテレビを見ていた弟が、かおりのほうに身を寄せてきた。
「なに? 恵、行方不明?」
弟の昭は、中学校の一年生のくせに、かおりはおろか、恵まで呼び捨てにする。
「馬鹿なこと言わないで。ちょっと遅くなってるだけでしょ」
「こんな時間まで?」
昭に言われ、改めて茶の間の時計に目をやった。九時十七分。
いつものように結城夏野の家を見に行ったのだとしても遅い。恵にあったのは五時過ぎのこと、それから四時間、夕飯も摂らず、あの草叢の中で藪蚊に刺されながら窓を見上げているとは思えなかった。
「なんかあったんじゃないの」
昭の含みのある口調に、そろりと不安が首を擡げた。山入で悲惨な死体が発見されたのは、つい先日のことだ。あれは年寄りが具合が悪くて死んだだけだ、とは聞いているけれども――。
かおりは声を上げた。
「お母さん、……兼正の下を通る坂を登っていったよ、恵ちゃん」
母親が、ちらりと振り向いて目線で頷き、それを電話の相手に伝えた。
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2
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電話が鳴って、大川はカウンターで酒を飲んでいる連中の話を遮り、受話器を取った。電話の相手は消防団の団長である安森徳次郎だった。
「ああ――大川さん。あんた下外場の清水さんとこの娘を知ってるかい」
ああ、と大川は頷いた。清水とは特別な付き合いはないが、娘のほうは大川の次男と同い年だから、まんざらしらなくもなかった。
「あの子がまだ戻ってこないっていうんだけどね」
「へえ」と大川は眉根を寄せて店の時計を見上げた。九時半になろうとしている。とっくに看板にする時間だが、飲兵衛たちが居座っていて、ずるずると店を閉めそびれていた。「そりゃあ、変だ。この時間に」
「うん。そうなんだよ。どうも西山に登ったらしいんだがね。何しろ近頃、いろいろと物騒なんで両親が心配してね。ちっと山を探そうかと思うんだが」
大川は顔を顰めた。大川は消防団の一員だが、外場集落の班長だった。下外場の娘のために駆り出されるのは、ありがたいとは思えない。飲兵衛たちのおかげで夕飯も摂りそびれていればなおのこと。
「どっかに遊びに行ってるんじゃないんですかね。デートでもしてて時間を忘れてるとかさ。いや、別に嫌だってわけじゃあないんだが、あの子はそういう浮ついたところのある子だと思うんだがねえ」
「松尾の大将もそう言ってたがね」と、徳次郎は苦笑するふうだった。松尾誠二は下外場の班長だ。「まあ、親御さんの気持ちを考えて、ひとつ頼むよ。ついでに、詰め所にビールを三ケースほど届けといてもらえるかね。わしの奢りってことで」
大川は苦笑した。徳次郎らしい気の使い方だった。
「分かりましたよ。――じゃあ、詰め所で」
電話を切ると、カウンターの客たちは、興味津々という様子で大川を見守っている。
「誰かいなくなったの? 誰?」
勢い込んで聞いてきたのは、伊藤郁美だった。常連と言ってもいいが、他の客の奢りで飲むばかりで金を払ったことはなかった。
「清水さんとこの娘だとさ。恵とかいう子」
あらあ、と郁美は聞きようによっては歓声とも聞こえる声を上げた。大川は軽く鼻を鳴らし、二階に向かって声を張り上げた。
「おい、篤! ちょっと来い」
いらつくほどの時間をかけて、うっそりと息子が下りてきた。
「ぐすぐずすんな。山狩りだ」
「おれも行くのかよ」
つべこべ言うな、と大川は怒鳴る。次男や娘に比べ、出来の悪い息子だが長男には違いない。ゆくゆくは店を継ぎ、たぶん消防団の仕事も継ぐことになる。そう思うから大川は、こういった人手のいる場合には必ず息子も同行させることにしていた。
どうしたの、と娘の瑞穂が茶の間から顔を出した。恵がいなくなったと言うと、複雑そうな顔をした。次男の豊も顔を出して、心配そうにする。
「おれも行こうか?」
その必要はない、と言いかけて、大川は思い直した。山狩りになるとしたら人手は多いほうがいいだろう。
「そうだな。支度してこい。長袖を着て軍手を履いてろよ。山に入ることになるからな」
うん、と豊は二階に駆け上がっていく。ふてくされたように突っ立っている篤を、大川は怒鳴りつけた。
「お前も行くんだ、さっさと支度しろ。ついでにビールを三ケースだ。詰め所まで運ぶからな」
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3
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長谷川がスイッチをひねると、ドアの上にあるランタンふうの電灯が消えた。もう看板か、と結城はポケットの財布を探る。それに目を留めたのか、「ごゆっくり」と長谷川は言ってCDをリズム?アンド?ブルースに換え、水割りのグラスを抱えてカウンターに坐り込んだ。
「ここからが本番なんです。わたしにとっちゃあね」
グラスを掲げてみせる長谷川を、妻のちよみが笑った。
「あたしは先に帰るわよ。広沢さん、度を過ごさないように見張っててくださいね」
ちよみは広沢に言い、結城たちに笑いかけてエプロンを外す。厨房の脇の小部屋で帰り支度をすると、手を振って店を出ていった。長谷川の家は渓流の対岸、水口にある。
店に残ったのは広沢と結城、そして近所にある田代書店の田代正紀だった。結城はこのクレオールに後藤田秀司の葬儀以来、ひんぱんに足を運んでおり、それなりに顔なじみができつつあった。クレオールを根城にしている常連客の間には、それなりに共通するトーンがある。結城にはそれが、至極、居心地いい。
長谷川がカウンターに落ち着いていくらも経たない頃、ちよみが戻ってきた。
「どうした? 忘れ物か」
長谷川の声に、ちよみは首を振る。
「誰か清水さんとこの恵ちゃんを見た人はいない?」
長谷川は、いや、と言って結城たちを見た。田代も広沢も首を横に振った。結城はそもそも清水恵という人物を知らなかった。結城はちよみを見る。
「清水――というと、よくここに来られる清水さんですか。JAの」
「ええ。恵ちゃんは清水さんとこのお嬢さんなんです。高校の一年で。――ああ、結城さんとこの息子さんと同級生じゃなかったかしら」
そう、と頷いたのは広沢だった。
「同じ学校ですよ。たしかクラスメートじゃなかったかな。――その恵ちゃんがどうしたんです。まさか?」
ちよみは頷く。
「帰ってこないんですって。交番に清水さんと奥さんがいて、人が集まってるわ」
「山狩り?」
田代が硬い口調で言った。
「そうみたいね。なにしろこの時間でしょう。最後に西山に登っていくのを見た人があって、山の中で立ち往生してるんじゃないかって」
結城は広沢たちを見た。
「そんなに危険なんですか、この辺りの山は」
「いや――山自体に危険はありません。山入のほうから北に迷い込むと難儀ですけどね。あとは神社の裏手のほうか。地獄穴に落ち込むと危険ですが」
「地獄穴?」
広沢は東のほうを示した。
「川の対岸に神社があるんでしょう。あの裏手から登った崖に、地獄穴と呼ばれている横穴があるんです」
「へえ……」
「岩というか岩盤というか、その隙間にできた細長い亀裂なんですけどね。奥行きはどのくらいあるのかな。入口に|祠《ほこら》が建っていて入れないんで分からないんですけど、枝道がいくつもあって、かなり長いものらしいです。地の底に下がっていくように見えるから地獄穴と名前がついているんでしょうね」
「入れないんですね?」
「ええ。けれどもその穴の上がね。地獄穴はどうも神社の裏手から東山を斜めに横断しているようなんですけど、それの浅いところで落盤が起きて穴が開くときがあるんですよ。あのへんは鎮守の森になるんで、木を切りに入る者もいません。始終、人が入るわけじゃないから、穴が開いてても分からない」
「でも、それは関係ないわ。西山の――兼正の坂を登っていくのを見かけたのが最後なんですって」
「だったら、迷うようなことはないはずなんだがな。西山は尾根を林道が通っているし、林道を横切って尾根を越えない限りは村の中だ」
田代が言うと、長谷川が首を傾げた。
「勘違いして林道を渡って、尾根を越えてしまうようなことはないんですか」
広沢は首を振った。
「林道に平行して鉄塔の高圧線も通ってますからね。方角を見失っても、尾根道に出ればすぐに分かる。村の者なら、勘違いすることはないでしょう。どこかで怪我でもして立ち往生しているのかな。最近、野犬が出るって話も聞きますからね」
「高見さんたちもそう言ってたわ。それで消防団に招集をかけたんですって」
「そりゃあ、清水さん、生きた心地がしてないだろう」言って、長谷川は立ち上がった。「飲んでる場合じゃないな。行って手伝ってこよう」
「わたしも行きます」と広沢が言い、結城も田代も立ち上がった。清水とは面識がある。その上息子のクラスメイトだと聞くと、他人事の気がしなかった。
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敏夫が往診から帰ると、駐車場に見慣れた車が停まっていた。診察鞄を控え室に置き、自宅のほうに戻ると、案の定、妻の恭子が戻ってきていた。
「なんだ。戻ってきていたのか」
敏夫の声に、居間でテレビを見ていた恭子は投げ遣りに手を振った。
「明後日からお盆でしょ。戻ってこいって」
敏夫は瞬いた。
「……お袋がか?」
「他に誰がいるの。十三日に戻るって言ったら、準備があるんだから、当日に帰ってくればいいってものじゃない、って怒鳴られちゃったわ。――ところで、お盆の準備ってなに?」
「おれに訊かれても知るもんか。単に近頃、足が遠のいたから、お前の顔が見たかったんだろう」
「それは光栄な話ねえ」と、恭子は嘆息する。「でも、ちっとも嬉しくないわ」
おれもだ、と敏夫は内心で答えた。
「なんだか、いつにもまして機嫌が悪かった感じよ」
「悪いんだよ。兼正が越してきて以来」
あら、と恭子は身を乗り出す。
「やっと越してきたの?」
「ああ。ほんの一昨日な。お袋としちゃ、あのまま越してきて欲しくなかったんだろ。以来、あたこちに当たり散らしてるよ」
やだ、と恭子はソファに身体を投げ出して白い喉を反らした。天井に向かって溜息を零す。
「溝辺に帰りたくなっちゃった」
「帰ってもいいぞ」
「そんなことしたら、電話攻撃だわね」
だろうな、と敏夫は呟く。孝江が恭子を気に入ってないのは、嫌というほど聞いているから分かっている。だったら、溝辺町に出したまま放っておけば良さそうなものなのに、それも気に入らないらしい。冗談交じりに、それじゃあ実家に帰そうか、と敏夫が言うと、そんな外聞が悪いこと、と孝江は顔を歪めた。絶対に離婚なんてみっともない真似はさせないと言う。とどのつまり、何をしても気に入らないのだ。
夫婦で深い溜息をついたとき、当の孝江が居間に入ってきた。湯上がりらしく、寝間着に着替えている。
「あら、おかえり」
ああ、と敏夫は視線を逸らした。しどけなくミニスカートの足を投げ出した恭子を肘で小突く。恭子がうんざりしたように息を吐いて居住まいを正した。
「お風呂、先にもらいましたよ」
うん、と敏夫は生返事をした。孝江は澄ました顔でソファの一郭に陣取る。逃げ出そうか、という気がしていたので、チャイムの音に救われた気がした。
「誰かしら、こんな時間に」
眉を|顰《ひそ》めた孝江を制し、敏夫は立ち上がる。
「いいよ、おれが出る。急患かもしれないから」
言って、そそくさと玄関に逃げ出した。
玄関に出てみると、駐在の高見が深刻な顔をして佇んでいた。敏夫の顔を見るなり、清水恵を見なかったか、と言う。
敏夫は首を傾げた。恵は何かというと大騒ぎをして医者にかかりたがる少女だが、夏休みに入ったせいなのか、ここしばらく顔を見ていなかった。
「どうしたんだ? 恵ちゃんがまさか?」
「姿が見えないんです。昼間に出たきり、まだ戻ってこないそうで」
敏夫は腕時計に目を落とした。十時半。
「……この時間まで? 連絡は」
「ないそうでする夕方に兼正の坂を登っていくのを見たものがいるきりで」
「そりゃあ、心配だな」
都会ならいくらでもあることだろうが、村ではこんな時間まで娘が出歩くことはない。近所に遊びに行くことはあっても、夕飯にも戻らないまま、連絡もなしに、ということはあり得なかった。
「事故じゃなければいいんだがな。消防団に連絡は?」
「しました。近頃は野犬も出るし、いろいろと妙なことも多いんで、清水さんが顔色をなくしちゃいましてね。ちょっと山を探そうかという話になってるんです」
「おれも行こう」
敏夫が言って、玄関に下りたとき、背後から一括する声がした。
「冗談じゃありませんよ」
振り返ると、夏羽織をはおった孝江が険しい目で高見を見ていた。
「あなたがそんなことをする必要はないでしょう。――高見さん、あなたも何を考えてるんですか」
高見は、悪戯を見とがめられた子供のように背筋を伸ばした。
「敏夫は尾崎医院の院長ですよ。気安く病院を空けるわけにはいかないんです。なにしろ、いつ急患が入るか分からないんですからね。みなさんの命を預かってるんですから」
「はあ……、どうも」
高見は腰を低くする。
「敏夫に指示を仰ぎに来るのならともかく、山狩りを手伝えとは何事です。そういうことで尾崎を気安く使ってもらっては困ります」
「いや、そんなつもりではなかったんですが。ちょっとお伺いしただけで。どうも夜分に、失礼しました」
高見は首を|竦《すく》め、慌てて頭を下げた。顔を上げると、敏夫が苦笑している。孝江には見えないように身体の陰で軽く手を挙げ、拝むようにする。高見は心得て、敏夫にちょっと笑ってみせた。
「いや、本当に御無礼を。――では、失礼します」
改めて孝江に頭を下げ、高見はそそくさと尾崎家を辞去した。
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神託の通り、彼は丘を追われ、荒野を|漂泊《さまよ》う。
彼の傍らに置かれた屍鬼は、少なくとも彼自身の主観において、呪いに他ならなかった。弟の屍は、彼の罪の最も端的な象徴だった。それと彼は連れだって、この不毛の凍土を放浪せねばならなかった。
悪霊の|跋扈《ばっこ》する濃密な夜を、彼はただ俯き、鬼火を従えてひたすらに歩く。視野の端に屍鬼と化した弟を意識しながら、足下の凍った土と閉塞して過ごした。
やがて、遠巻きに揶揄を盛んにする悪霊の喧噪が消えゆくと、大地は白く光を帯びる。凍った土の微細な粒子が、暁光に輝いて|肌理《きめ》を露わにするころ、彼はようやく傍らにある気配が薄れ、消えたことを察して頭を上げた。
彼は壮大な天地の間に独りだった。
つきまとう悪霊の姿もなく、弟の姿もまたない。
見渡す限りの凍土と曇天、赤黒い頑なな起伏が地平線にまで続き、その上方を泥水を吸った綿羊のような雲が低く垂れ込めて覆っている。曙光はその陰鬱な雲のどんよりとした起伏を赤く照らし、|禍々《まがまが》しい陰影をつける。
無機的に連なる大地の起伏と、有機的に堆積し|蠢《うごめ》く曇雲と、その両者に挟まれたわずかな間隙に残された者は、彼がただ一人だった。振り返れば、一夜を経てなお遙かに緑の丘が見える。風に押し流され、どよもす雲はその丘の上空で渦を描いて途切れ、小さく丸く穿たれたそこから真っ直ぐに光が注いでいた。
その光のせいで、これほどに離れても、緑の緩やかな丘と、その裾野を丸く囲った城壁、丘の頂上に白く聳えた街が明らかだった。それは暗澹たる世界の中で浮き上がり、文字通り輝いて見えた。眩しいほどの緑、目に痛いほどに白い石、街の上空には接するようにして光輝がひとつ、淡く点っている。
あれこそが帰還かなわぬ彼の故郷、屍鬼と化した弟の眠る慈愛の土地、彼は荒野に取り残され、大地の起伏が作る影のように佇んでそれをただ望んでいる。
雲と大地と光と丘と。それは彼に神殿の裁きの間を思い起こさせる。
なぜ、と賢者は訊いた。
灰色の石に封じ込められた広間は、端々に
[#ここで字下げ終わり]
「若御院」
声をかけられて、静信は振り返る。湯上がりらしい池辺が、首にタオルを引っかけたまま、寺務所の中を覗き込んでいた。
「済みません、ちょっといいですか」
池辺は申し訳なさそうに言う。静信は鉛筆を置いた。
「なんですか?」
「若御院、清水さんとこの恵ちゃんを見かけたりしてませんよねえ」
「いや」静信は首を傾げた。清水家は檀家だが、娘の恵に会うことはほとんどないし、最後に顔を会わせたのがいつのことで、どこのことだったかも記憶になかった。「もう長いこと会ってません。――どうしたんです?」
「それが、帰ってこないんだそうです。いま、駐在の高見さんが」
静信は立ち上がって寺務所を出た。廊下を曲がると、庫裡の玄関の土間に高見が懐中電灯を片手に立っており、気遣わしげな顔をした美和子が上がり|框《がまち》に膝をついていた。
「こんばんは。恵ちゃんが、どうかしたんですか?」
「ああ――済みません、若御院。お仕事中じゃなかったですか」
「お気になさらず。恵ちゃんが帰ってこない?」
そうなんです、と高見は事情を説明する。そうしながら盛んに汗で濡れた首筋を掻いていた。藪蚊に刺されたのだろう、陽に灼けた首筋のあちこちが赤くなっていた。
「何しろほら、色々とあったでしょう。だからみんな心配してましてね」
「山入のあれは」
静信が言いかけると、高見は手を振った。
「なに、変質者がどうのこうのという話じゃないですよ。そういうふうに思っている者もいるかもしれないですけど。ただ、そういう噂もあったから不安だってことと、あと、野犬がね。最近、頻繁に山の中で野犬を見たって話を聞くんで」
ああ、静信は呟いた。
「そうですね、確かに」
「やっぱり若御院は恵ちゃんを見ていないですか」
ええ、と静信は頷いた。美和子は眉根を寄せて手を頬に当てる。
「お手伝いに行ったほうがいいんじゃないかしら」
「そうですね。――ちょっと行ってきます」
静信が踵を返そうとしたとき、高見は慌てたように声を上げた。
「いや、そんな。若御院に来ていただくようなことじゃないです。どこかで立ち往生しているかもしれないから、ちょっと様子を見に行こうってだけのことなんで」
高見は意外なほど|狼狽《うろた》えた。
「でも」
「いえ、本当に。若御院の手を煩わせたんじゃ、年寄りに叱られます」
言って、高見は苦笑してみせる。
「実を言うと、ついさっき、尾崎の奥さんに叱られたばっかりで。不用意に若先生に相談をしたもんだから」