饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.14

作者:日-小野不由美 当前章节:15371 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 なるほど、と静信は苦笑した。

「ですから、気にせんでおいてください」

「じゃあ、ぼくが行ってきます」

 池辺が声を上げた。

「いや、池辺くん、しかし」

 高見の制する声に、池辺は笑う。

「檀家さんがお困りなのですから。人手は多い方がいいでしょう」

「そうね」美和子は微笑んだ。「池辺くん、そうしてあげてくれるかしら。お風呂も済ませたところなのに、御免なさいね」

「いいえ。若いお嬢さんですからね、清水さんは生きた心地がしないでしょう。どうせぼくは、あとはもう寝るだけだったんだで。若御院は仕事をしててください」

「済みません」

 いいえ、と池辺は快活に言う。

「大急ぎで着替えますんで、高見さん、待っててください」

「いやあ、申し訳ないな」高見は、小走りに庫裡の奥にある自室へと引き返す池辺を見送って頭を掻いた。「友達の家にでも行って、時間を忘れてるんならいいんですけどね」

「そうですねえ」美和子は息を吐いた。「でも、時間が時間ですもの。清水さんは、さぞ御心配でしょう」

「そうなんですよ。連絡もなしにこの時間まで帰ってこないとなるとねえ」

 美和子は小首を傾げた。

「兼正はどうです?」

 は、と高見は瞬いた。静信もまた、美和子の思考を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]みかねて母親の顔を見た。

「あら、わたし妙なことを言ったかしら」美和子は困惑したように口許を押さえる。「兼正のお家に人が越してきたと聞いたから。ひょっとしたら、同じ年頃のお子さんがいるかもしれないし。恵ちゃん、坂を登っていったんでしょう? 兼正の人と会って、話し込んでいるうちに時間を忘れたってことはないかしら」

「ああ――そうですねえ」

「けれど、お母さん。それだったら、恵ちゃんから家に電話なりがありそうなものじゃないですか? 兼正のお宅だって電話するよう促すでしょう」

「あら、電話するなんてこと、念頭にも浮かばないからこそ、時間を忘れた、って言うんですよ。それに村じゃそういうことは当たり前だけど、あの家の方は都会の人だって噂だもの、特に家に電話をしたほうがいいんじゃないかとか、そういうことは思いつかないかもしれないじゃないですか」

「けれど、いくらなんでも……」

「そうね。それにしても、お夕飯にも連絡なし、っていうのは変だわね」美和子は言って、照れたように笑った。

「ごめんなさい。単に坂を登った、ってそれから思いついただけなんです。忘れてください」

 いやいや、と高見は笑いつつ、どこか釈然としない様子だった。

「あるかもしれませんよ、意外にね。――しかし」

 高見は首を傾げる。

「越してきたらしい、という噂は聞きましたけど、どういう人たちなんだか……」

「あら、見かけた人ぐらい、いるんでしょう?」

 それが、と高見は声を低める。

「誰もおらんのですよ。全く家の外には出てこないみたいで」

「そうなんですか?」

 美和子は驚いたように目を丸くした。

「使用人の若いのを見かけたって話はあるんですけどね、肝心の家族は全く。少なくとも、近所付き合いをする気はなさそうですな。そういう案配なんで、恵ちゃんと会ってどうこうというのは、どうも考えにくいなあ」

 静信は内心で首を傾げた。桐敷家が越してきたのは、一昨日のことだったか。辰巳に会ったのが昨日の話だ。住人についての噂を聞かないと思っていたが、肝心の住人はまだ村人の前に姿を現していなかったのだ。

 越してきてわずかに二日のことだから、引越の後片づけもあるだろう。村を出歩く余裕がないのかもしれないが、全く姿を現さないというのは、どこか意表をつかれる種類の事柄だった。自分たちが越してきた村がどういう場所なのか、興味がないのだろうか。辰巳のように少し歩いて家の周囲の地理を確認したいとは思わないのだろうか――。

 静信が首をひねっていると、長袖シャツとジーンズに着替えた池辺が、懐中電灯を片手に戻ってきた。

「どうも、お待たせしました」

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 西山のあちこちに光点が点されていた。おおい、と呼ぶ声が交錯する。

「こりゃあ、道沿いにはいないな」

 田代が言って、結城は汗を拭った。山の夜は涼しいが、さすがに斜面を上り下りすると暑い。

 ハンドライトの明かりで林の中を見通すには限界がある。林道に沿い、道の周辺に分け入っては戻ることを繰り返していたが、十分に探すことができているのか心許なかった。

 おおい、とすぐ間近の斜面から声がして、結城は一瞬、朗報を期待したが、返答に対して帰ってきた声は落胆の色が深かった。

「こりゃあ、本格的に山狩りせんと駄目だ。一回、丸安の材木置き場に集まろうってよ」

 広沢が溜息をついて林道に上がり、結城らもそれに倣った。こんなに小さな村を囲む山の一郭、なのにそこで人ひとりを見つけるとなると、山はいかにも広大だった。

 疲労もあって、とぼとぼと林道を下っているうち、田代と並んでいた若者が足を止めた。山寺の役僧だ。池辺といったと思う。ちょうど兼正の家の前にさしかかっていた。

「どうしました、池辺くん」

 広沢が訊くと、池辺は複雑そうな表情で振り返る。

「こちらのお宅のほうは、恵ちゃんをみてないですかね。声をかけてみたほうがいいんじゃないでしょうか」

 広沢は瞬いた。

「この時間にかい」

「いや」と池辺は照れたように笑う。「寺の奥さんが高見さんにそう言ってたらしいんです。ひょっとしたらこの家の人と会って、時間を忘れてるんじゃないかって」

「しかし」

「この時間じゃそれもないでしょうが、恵ちゃんは坂を登ってきたんでしょう? だったら、姿を見てるかもしれないです」

 そうだね、と広沢もまた複雑そうな表情で暗い家を見上げた。結城にも広沢の困惑は理解できた。越してきて以来、姿を現すことのない住人。住人は村の者と積極的に交わる気がないように見える。高い塀は内部を窺わせず、閉鎖的な家の佇まいと相まって、新しい住人は村の者との間に一線を引こうとしているように思われた。そういう相手をこの時間に訪問して、少女の行方を尋ねることは、妥当だとは思えても躊躇される。

「行ってみましょう」言ったのは長谷川だった。「確かにそうだ。姿を見てるかもしれないわけだし。ひょっとしたら、どちらの方角へ向かったか、それくらいは分かるかもしれません。もしも恵ちゃんが怪我をして立ち往生してるなら、少しでも早く見つけないと、おおごとになってしまう」

 そうですね、と広沢が頷いた。結城たちは固く閉ざされた門に近づく。門柱の脇には潜り戸があって、その脇にインターフォンが見える。――そう、寝入りばなを起こすことになっても、とりあえずインターフォンを通じて話をするだけだし、その程度のことなら緊急時だ、許されてもいいだろう。

 広沢が代表してボタンに指をかけた。周囲の顔を見渡してから、おずおずと呼び鈴を押す。二度、三度と押すと、四度目に応答があった。

「はい」

「あの――夜分遅くに済みません。ちょっとお尋ねしたいのですが」

 広沢は、高校生の女の子が行方不明になったのだが、姿を見かけていないだろうか、と手短に伝えた。

「ちょっとお待ちください」

 インターフォンの向こうから聞こえる声は若い。何人かの村人が二十代半ばの若い男を見かけた、と言っていたが、それだろうか、と広沢は思った。

 ややあって、潜り戸が開いて、広沢はたじろいだ。ハンドライトを手に姿を現したのは、噂の人物のようだった。

「お待たせしました」

「どうも済みません。こんな時間に」

「いえいえ。――ただ、家中の者に訊いてみたんですが、誰もそのお嬢さんを見かけてはいないそうです」

 そうですか、と広沢は息を吐いた。

「こちらに登ってこられたのは確かなんですか?」

「ええ。最後に姿を見かけたのが、この坂を登るところだったそうで」

 そうですか、と言って彼は門の外に出てきて潜り戸を閉めた、瞬く広沢に笑む。

「旦那さまにお手伝いするように言われました。御心配だろうから、って」

「いや――それは」広沢は狼狽する。「そこまでしてもらっては」

「いえ。こういうことは、お互いさまですから。ああ、ぼくは辰巳といいます」

「広沢です。それは恐縮です。ありがとうございます」

 辰巳は笑う。

「ぼくでは足手まといになるだけかもしれませんけどね。こういうことにも地理にも不慣れなんで、どうすればいいか指示してください」

 人々は幾手にも分かれ、山に分け入っていった。結城はひたすらに広沢たちの後をついていく。いつの間にか辰巳と池辺と並ぶ格好になったのは、明らかに彼らだけ山に不慣れだからだ。

「ああ、あのお寺の方ですか」辰巳はライトで周囲を照らしながら、池辺に言う。「つい先日、室井さんという方にお会いしましたよ。尾崎医院から出てこられたところで」

「若御院ですか? へえ」

「お聞きじゃなかったんですか?」

「ええ。若御院は、そういう噂話ってぜんぜんしない人なんで」

 辰巳は笑った。

「いかにも物静かな方でした」

「そうなんです。ぼくなら、すぐさま広めちゃいますけどね。なにしろ八五郎みたいな性分なんで」

「広めるほどのニュース?バリューはないでしょう」

「とんでもない。村の人はみんな、興味津々なんですよ。ほら、お宅の建物も変わっているし、引越して以来、ぜんぜん出ておいでじゃなかったでしょう。それで、どういう人なのか、ってそれはもう」

「ぜんぜん出てないわけじゃないんですが。そうか、そういうことになるかな」

「正直言って、村の者を避けているのかと思ってたんですよ。なんで、こうして辰巳さんが出てこられてびっくりしました」

「避ける? なんでです?」

「いや、引越して以来、出てこられないから。高い塀があって、門もずっとぴったり閉じてて」

 辰巳は瞬き、そうか、と呟いた。

「ひょっとしたら、引越のご挨拶をどこかにしないといけなかつたのかな。これまであまり隣近所と付き合いをする習慣がなかったのでぜんぜん意識してませんでした」

「おやまあ」

 声を上げる池辺を、結城は笑った。

「都会に住んでるとそんなもんですからね。回覧板を回すときぐらいしか隣の人の顔を見ることもないし、マンションなんかじゃそれさえしない。門だって閉じておくし、昼間だってドアには鍵をかけておく。こっちじゃ夜中だって、全部開け放したままです。最初はちょっと抵抗がありましたね、わたしも」

「結城さんも都会から越してらっしゃったんですか?」

「そうなんです。それで、最初はそんなもんだと分かってても心細くてね。どうも気分的に落ち着かないんで、玄関だけは戸締まりをしてましたよ。もっとも、うちはそもそも裏口に鍵がないんですけどね」

「へえ」

「なんだか――ガスの火を点けたままにしてるような、そんな感じがしてね。半年ぐらいかかりました、慣れるのに」

「なるほどなあ」と辰巳は頷く。「それは帰って報告しないといけないなあ。みんな、そういうこと、ぜんぜん念頭にないんだと思うんで」

 池辺が低く笑った。

「べつに無理をなさることはないと思いますけどね。でも、つまらないでしょう。家の中に閉じこもったままじゃあ」

 結城も頷く。

「せっかく越していらっしゃったんですからね。鍵をかけなくても家を留守にできる、隣近所とはみんな顔見知りで、気軽に行き来して助け合って。――そういうのが、こういう小さな社会の醍醐味ですからね」

「そうですね」

 頷いた辰巳に微笑んで、結城は捜索に専念する。あまり無駄口を叩いているのも気後れがするし、そうしている間に前を行く広沢たちと距離ができていた。足を急がせながら、そんなに難しい転入者でも奇矯な一家でもないじゃないか、と独白していた。――こんなものだろう、世の中というものは。

 揃って口を噤み、先を急いでいたせいか、近くを探す別のグループの会話が聞こえてきた。

「こりゃあ、ひょっとしたら時間がかかるんじゃないかなあ」

「見つかればいいがね。仏さんを見つけることになったらかなわんな」

 結城は思わず林の向こうを見た。濃い下生えと茂みに遮られ、ハンドライトの明かりしか見えない。二、三人がいるようだが、どういう人物たちなのか分からなかった。

「なら、いいけどな。どっかに遊びに行ってるんじゃないのかい。明日になってしらっとした顔で戻ってきたりしてな」

「あるかもなあ。清水んとこの娘だろう。ちゃらちゃらした娘だったからな。男でも作ってしけこんでるんじゃないのかねえ」

「しけこんでるぐらいのことならいいけどよ。ほら、こないだ山入で年寄りが殺されたって言うじゃないか。妙なのが、うろうろしてるんじゃないといいけどな」

「ありゃあ、病死だろう」

「どうだか分かったもんか。その前にも――前田のとこの息子だったか。轢き逃げにあったことがあっただろう。最近はそう平和でもないからね、この村も」

「大きな声じゃ言えないけどな、おれも山を探すより、大川の息子でも捕まえて行方を訊いたほうが話は早いんじゃない買って気がするよ」

「それより兼正だよ。なんでもあそこに若いのがいるそうじゃないか。そいつにそのへんの草叢に引きずり込まれたんじゃないのかい」

 結城はとっさに足を止め、辰巳を振り返った。辰巳は無言で自分を指さし、おどけたように瞬いてみせる。

「そうそう。前田んとこの轢き逃げだって、兼正の車だって噂だかならな」

「ありゃあ、お前、寺の若御院だって話もあるじゃないか」

「いくらなんでも、そりゃあないだろう」

「どうだかな。だいたい村の連中は、いつまでも寺を別格に扱いすぎるんだよ。清水の娘だって、どうだか分からねえぞ。なにせあの若さん、三十過ぎて未だに独り者だからな」

「寺にはなんとかいう若いのもいるだろう。そっちじゃないのかい」

 結城はなぜだか、恥じ入る思いで足を止めた。声が遠ざかっていくのを待つ。辰巳と池辺は、結城を待つように足を止めていた。下草を掻き分ける音が遠ざかり、結城は密かに息を吐く。

「……あんな連中ばかりだと思わないでください」

「結城さんがそんな顔をなさることはないです。余所者なんて、そんなものでしょう」辰巳が苦笑するようにいう。「妙に引き籠もっていたからなおさらだ。ちゃんと挨拶回りしてればよかったですね」

「挨拶まわりしても、余所者だってのはついてまわるんですよね……」池辺は溜息をつく。「なにしろ村は、ほとんどが親戚みたいなもんですから」

「そういうものでしょうねえ」

 ことさらのように軽い調子で言う二人に対し、頭が下がった。村が異物を排除しようとする性質を本来的な備えていることは、結城自身、身に滲みて知っている。

 池辺は笑う。

「恵ちゃんが見つかれば、御両親も安心できるし、ぼくらも身の証が立つってもんです。――行きましょう」

 おおい、と怒声が聞こえたのは、午前三時を廻ってからのことだった。いたぞ、という声に、草叢を掻き分けていた結城たちは顔を上げた。声の所在を探して周囲を見渡していると、少し離れた斜面を登りかけていた広沢たちが駆け戻ってくる。

「あっちのほうです」

 示されたほうに、結城たちは急いだ。結城自身は、完全に現在地を見失っていたが、広沢によると結城たちがいるのは、西山のかなり北のほうらしい。

「このずっと先に細い沢があって、それを越えると北山です。寺の地所になるんで」

 ちょうど北山と西山が交わる辺りだという。斜面を下っていくと、段々畑を隔てて丸安の材木置き場などがある入り江のような場所に出るらしい。

 林の中をライトが交錯し、人の声が交錯していた。あちらからもこちらからも下草を掻き分ける音がし、人々が集まってくる。先頭に立つ広沢と田代の後をついて走っていくと、やがてライトが一箇所に集まっているのが見て取れた。斜面の途中に人の背丈ほどの段差があって、その下のえぐれたような場所に人が集まっている。

「見つかりましたか」

 広沢が駆けつけると、消防団の法被を着た男が振り返った。

「いた。――ここだ」

「怪我は」という広沢の問いに、男は首を傾げる。

「見たところ怪我はなさそうなんだがね」

 駆けつけた結城にも、人垣の間から助け起こされた少女の姿が見えた。怪我はないように見えるが、ぐったりとしている。

「おい、あんた恵ちゃんだな? 大丈夫か」

 助け起こした初老の男が、少女を揺する。誰かが「あまり揺すらないほうが」と声をかけた。

「尾崎の先生を呼んだほうがいいんじゃないのかい。頭を打ってるかもしれねえ」

「ああ……そうだな」

 初老の男が答えたところで、恵が目を開けた。集まったライトに眩しそうに瞬き、目元を軽く手で覆う。

「気がついたかい。大丈夫か?」

 周囲の問いかけに、恵は頷いた。どこか呆然としてるふうではあったが、苦痛がある様子ではなかった。

「気分はどうだ? 立てるかい」

 言われると、どこか間延びした動作で頷く。左右から差し出された手に縋って、なんとか立ち上がった。

「よかった」と安堵の声がする。恵は男たちに支えられて、よろめきながら斜面を下り始めた。

「自分で歩けるようなら心配はないか」

 これまた安堵したように長谷川が言い、結城も深い息を吐く。何はともあれ、無事で良かった。

「段差から落ちたのかな。見つかって良かったよ、まったく」

 田代が破顔し、結城らも頷く。さざめくように安堵の息と笑い声が林の中を流れ、人々は斜面を三々五々下っていった。

 池辺が寺に戻ったのは四時過ぎ、庫裡の玄関脇、寺務所の明かりがまだ点いていた。そっと玄関の戸を開け、土間でジーンズについた泥や草の切れ端を払い落としていると、その物音を聞きつけたのか静信が出てくる。

「お帰りなさい。申し訳ありませんでした」

 副住職はそう言って、年下の池辺に頭を下げる。池辺は静信のそういうところが嫌いではなかった。いつまで経っても他人行儀な気がして気詰まりに思うこともあるが、居丈高に振る舞われるより、よほどいい。

「いかがでしたか」

 静信は心配そうに訊いた。副住職の夜更かしはいつものことだが、今日は池辺を待って起きていたのかもしれない。

「見つかりましたよ」

「ああ、それは良かった。やっぱり山で?」

「ええ。ちょうど丸安の裏手を登った辺りです。斜面を落ちたかどうかしたみたいで、気を失ってるのが見つかったんですよ」

「大丈夫なんですか?」

「みたいでしたよ」池辺は言って、上がり框に腰を下ろした。長靴を脱ぎながら、「呼んだら目を覚ましましたし。なんだかぐったりしてるふうでしたけど、とりあえず怪我というほどの怪我はないみたいだったし、交代で支えたら自分で歩いて山を下りましたから」

「ああ……それは良かった」

 良かった、と言えるのだろうか、と池辺は恵の様子を思い出した。恵は放心しているように見えた。まるで視点が定まらず、支えられて歩く足取りも怪しかった。その様子は何か恐ろしいことに遭って、心がその衝撃から醒めてない、そんなふうに見えた。

「何があったんでしょうね」

 静信の心底、気遣わしげな声を複雑な思いで聞きながら、池辺は長靴の泥を落として揃えた。

「それが、肝心の恵ちゃんが何も言わないもので、良く分からないんですよ。声をかけても上の空っていうか、ぼうっとしたふうでしたから。家に帰って寝れば落ち着いて、何があったのか聞けるんじゃないですか」

 本当に、と池辺は答えるにとどめた。

 村は狭い。いずれあの会話も噂となって寺に舞い戻ってくるのだろう。都会から外場に来た池辺は、村の「世間」の狭さを嫌というほど知っていた。

(いい人なのに……)

 池辺はそう思う。この副住職に対して、池辺は無条件の好意を抱いていた。なのに妙なことを言う者がいる。以前、子供が撥ねられたときといい、どうして、という気がしてならなかった。

 まったく、と思い、ふと池辺は以前、小耳に挟んだ噂話を思い出した。ほんのわずか、静信の横顔を盗み見る。

 とても光男や鶴見には聞けない種類の噂。あれは本当なのだろうか。ひょっとしたら、村の者が妙な目で見るのは――あれのせいなのだろうか。

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 清水から敏夫のもとに電話があったのは、恵が発見された翌日――カレンダーの上では当日夜のことだった。

 敏夫が受話器を取ると、清水のどこかおずおずとした声が、恵の様子がおかしいので診て欲しい、と告げた。

「おかしい? どういう様子ですか」

 それが、と清水は口ごもった。

「どこがどう悪い、というふうではないんですが。どう言えばいいんだろう、とにかく呆然としているふうなんです。家内に訊くと、今朝、山で見つかって以来、一日ずっとその有様だったようで」

 敏夫は首を傾げる。

「それだけじゃ、よく分からないな。もう少し具体的に言ってもらわないと」

 敏夫は首を傾げる。

「それだけじゃ、よく分からないな。もう少し具体的に言ってもらわないと」

「ですから、ちょっと来て診てもらえませんか」

「往診に行くのを渋っていると思わないでもらいたいんですけどね」敏夫が言うと、居間のソファに坐ってテレビを眺めていた孝江と恭子が振り返った。「とりあえずどんな様子か聞かないと、おれも用意のしように困るんですよ。最低限の処置をするのに、何が必要か見当をつけないと、病院ごと担いでいくわけにはいかないもんでね。――熱は?」

「ないようです」

「食事はどうです」

「全く、朝から何も手をつけてないらしい」

「どこか痛みがあるふうですか」

「いえ。特にそんな様子には見えません。具体的にどう悪い、というふうではないんです。ただ、話しかけても生返事しかしませんし、上の空というか」言って、清水は歯切れの悪い口調で続けた。「こちらから連れて行くなり、一晩様子を見たほうがいいんじゃないかとは思うんですが。その――昨日の今日なんで家内が心配してましてね。申し訳ないんですが、とにかく様子を見てもらえませんか」

 敏夫は溜息をついた。

「分かりました。とりあえず、これから準備をして出ますから」

 受話器を置くと、孝江は険のある表情でこちらを見て、これ見よがしに壁の時計を見上げた。恭子はそっと肩をすくめて、同情したような視線を敏夫に投げて寄越し、そっぽを向いた。

「往診なの? この時間に」

 敏夫も時計に目をやる。すでに十一時を過ぎている。

「まったく、もう少し時間を考えて欲しいものね」

 こんな時間であるにもかかわらず、敏夫を呼ぶほど清水は娘が心配なのだろう、と思ったが、敏夫は特に異論は唱えなかった。こういう場合、母親に何を言っても無駄だと承知している。特に返事もせずに居間を出ると、孝江は後をついてきた。

「お前も気安く出ていくから。だから安易に扱き使われるんですよ。――誰なの」

「清水さんとこ」

 答えながら病院に向かう。

「清水線そういえば、娘さんを探してたんじゃないの。見つかったの?」

「らしいな」

 言って渡り廊下のドアをくぐった。敏夫は密かに、この廊下を緩衝地帯と呼んでいる。待合室に出るドアが国境線だ。孝江は滅多なことでは緩衝地帯に足を踏み入れず、ましてや国境線を越えることはない。だが、今夜の孝江は珍しく、自ら国境を越える気になったらしかった。

「らしいな、って。高見さんはどうしたんです。報告に来てないの」

「来る必要もないだろう」

「必要ないはずがないじゃないの。昨日、わざわざ女の子がいなくなったと言って報告に来たんじゃないの。まるで、一緒に探せっていわんばかりの口調で。そうやって来た以上、その後どうなったか、一言、報告に来るのが筋じゃないんですか。第一、お前は防犯委員なんですからね。何かあったのなら、耳に入れてもらわないと」

「一緒に探したわけじゃないし、別に何かの事件があったわけじゃない」

「何かあったに決まってますよ、あんな時間まで若い女の子が行方知れずだなんて。それとも、親に黙って外泊でもしていたの?」

「母さん」

 敏夫は深い息を吐きながら振り返った。孝江が待合室にまで出てくることは希有なことだと言っていい。だが、もちろんそれを喜ぶ気にはなれなかった。

「おれは、恵ちゃんはどうやら山の中で具合を悪くして身動きができなかったようだ、と聞いている。そうして実際に具合が悪いらしい。清水さんが診てくれ、と言ってきているんだ。おれは医者で、患者が待ってる。急いで出かけないといけないんだ。そういう話は帰ってきてからにしてくれ」

 孝江は明らかに鼻白んだ様子だった。

「別に興味本位で言ってるわけじゃありませんよ。あなたがそうも気安く扱き使われているのは、どうか、と言っているんです」

「母さん」

「清水さんのところのお嬢さんは、こんな時間にお前が出かけて行かなきゃならないほどの容態なんですか。そうやって気軽に引っ張り出されて、お前が出ている間に、本当に一刻を争う患者さんが来たらどうするの?」

「一刻を争うようなら、おれを呼ぶ前に救急車を呼ぶさ。そのくらいの分別は、みんなあるだろう」

「敏夫」

「とにかく行ってくるから」

 敏夫は控え室に入る。さすがの孝江も、控え室にまで追ってくる気にはなれないようだった。孝江は控え室を嫌っている。仮にも尾崎医院の院長室がこんな有様だなんて、と言う。あまりにも情けなくて足を踏み入れるのも嫌らしい。

 ドアの向こうに孝江を置き去りにして、敏夫は息を吐いた。

 院長と奉られ、一目も二目も置かれることで地位や権勢を確認したいなら、誰がこんな村に帰ってくるものか。本当にそれを望むなら、山奥の小さな病院の院長以上に望む値打ちのあるものが、世間にはいくらでも存在するのだということを、孝江は理解できないらしい。

 いや、孝江だけではない、と敏夫は病院を出ながら思う。敏夫の父親もまた、それを理解できない男だった。地位や名誉に価値を置くことは敏夫も否定しない。だが、たかだか外場の、ほとんど診療所に近い小さな病院の院長に納まって、なんの地位だろう。そもそも医者が一名しかいないというのに、「長」を名乗るところから笑わせる。個人商店の親父と同じじゃないか、という気がしてならなかった。院長ではなく、村の商店の主人と同じように「大将」と呼べばいいのだ。――敏夫はずっと、そう思ってきた。

 確かに、尾崎医院はかつて、付近一帯に唯一の医者だった。まだ溝辺町にさえ医者がいなかった時代に病院を構え、はるばる旅をしてまで診てもらおうという患者のために、門前には宿屋まであったらしい。だが、そんな時代はとっくに過ぎ去っている。患者は緊急の事態になれば救急車を呼ぶ。溝辺街に出れば、設備の整った総合病院もあれば、国立病院もある。高速に乗れば、都市の大学病院まで三時間もかからない。

 外場村という狭い地域の中で、尾崎と祀り上げられ、村政に口を出してお大尽気分に浸っている間に尾崎は取り残されてしまった。本当に権勢を望むなら、さっさと地の利の良い場所に移転して、病院を拡大していけば良かったのだ。村の連中から崇め奉られる生活を捨てられず、狭い村にしがみついた結果がこれだ。

 文字通り井の中の蛙だ。敏夫は父親の、こけおどしに満ちた院長室に足を踏み入れるたびにそう思っていた。すでにありもしない権勢を信じ、自分の周囲の人々も自分と同じ種類の信仰を堅持しているものと信じていた男。もはや一介の医者に過ぎなかったにもかかわらず、一介の医者であることを拒み通した男と、未だに拒み続けているその妻。

(不思議な話だ……)

 そんな生き方だけはしたくない。――断じて。

 清水の家の前に車を寄せると、エンジン音を聞きつけたように玄関のドアが開いた。にもかかわらず門灯は消され、雨戸が引き回され、カーテンもぴったり閉められている。一見して寝静まった家という有様だった。

「先生――どうも」

 迎えに出てきた清水寛子は、どこか辺りを|憚《はばか》るふうで、声も押し殺したように低かった。手を引かんばかりにして家の中へと促し、敏夫がやってきたことを近所の者に見られはしなかったかと確認するように周囲を見まわしてから素早く――けれども音を立てずにドアを閉めた。

「こんな時間に済みません」

 玄関まで出てきた清水もまた、声を潜めるふうだった。

「恵ちゃんは」

「二階です」

 敏夫は玄関に上がり込み、まっすぐ二階に向かおうと、正面にある階段に足を乗せたが、それを清水が止めた。

「あの」

「どうしたました」

 実は、と清水は目を逸らす。

「とにかく恵は様子が変で……その昨日何があったのかと訊いても、要領を得んのです。ろくすっぽ返事もしないし、怒鳴っても聞こえているのかいないのか」

 清水は二階の様子を窺うようにして声を低める。

「ひょっとしたら、具合が悪いんじゃなく、……なんというか、精神的なものじゃないかと思ったりもするんですが」

 敏夫は意を得て頷いた。つまり清水は、孝江と同種の心配をしているわけだ。娘の身に何かがあったのかもしれない。娘の精神に衝撃を与えるような種類のこと。だからこそ、周囲の目を憚り、病院に連れ出す出もなく、あえて夜遅くにひっそりと敏夫を呼んだのに違いない。

「とにかく診てみます」敏夫は頓着なげに笑ってみせた。「診察してみれば、何か分かるかもしれませんしね」

「ええ、……そうですね。どうぞ。二階に上がってすぐの部屋です」

 失礼します、と言い置いて、敏夫は二階に上がる。息を殺すようにして清水と寛子が後をついてきた。

 恵の部屋には、若い女の子らしい名札が下がっている。「めぐみ」という丸みを帯びた文字を見ながら、敏夫は軽くノックしてドアを開ける。ぬいぐるみや小物が溢れた部屋の中の、窓際のベッドの上に恵は横たわっていた。

「恵ちゃん」敏夫はその恵が目を開いているのを見て取って声をかける。「どうした。具合が悪いんだって?」

 枕許のスタンドだけが恵の顔に光を投げかけている。悪いけども明かりを点けるよ、と断って、敏夫は部屋の明かりを点けた。蛍光灯の明かりが満ちてみると、どこか虚ろな恵の表情と、色味を失った顔色が明らかだった。

「顔色が悪いな。――気分はどうだい?」

 ベッドの脇に敏夫が膝をつくと、恵は眩しそうに盛んに瞬いている。にもかかわらず、特にそれ以外の反応は見られない。

「食事をしてないんだって? 食欲がないのかい」

 敏夫が声をかけても反応がなかった。半ば寝ぼけてでもいるように、敏夫に視線は注いでいるが、なんの感興も誘われていないように見える。

 さて、と敏夫は内心で独白した。これは実際に感情が鈍磨しているのだろうか、それとも――演技だろうか。

 恵は頻繁に病院に来る患者だった。胸が痛いだの、胃が痛いだのといって騒ぎ立てるが、実際に治療を必要とするほどの不具合が発見されることはほとんどない。客観的には不具合は存在しないのに、患者の主観的には何かしらの不具合があって、それは恵が清水らと喧嘩をしたり、学校で嫌な行事があると、唐突に起こるものらしかった。たまに不具合があっても、治療を必要とするほどのものではなく、にもかかわらず恵はさも重大な病に冒されたかのように振る舞う。まるでそれを望んでいるかのように。そのたびに敏夫は、適当な病名に「ごく軽い」という接頭辞をつけて、ビタミン剤などの無害な薬を処方してきた。果たして今回はどうだろう。

「寒いかい?」

 敏夫は恵が、しっかりと夏布団を被っているのを見てそう訊いた。恵は瞬いたが、特に返答を寄越さない。脈を診るために手を取ったが、熱はない。むしろんやりとして感じられる。

「熱はないな。少しクーラーが強いかな」

 言いながら脈拍を数える。やや早い。血圧を測ると、かなり低かった。瞼を持ち上げて眼瞼粘膜の色を確認する。顔色と同様にこれも色味を失っていた。

「口を開けてごらん」

 軽く顎に手を添えて口を開かせると、とりあえずされるまま口を開いた。特に扁桃腺や口腔に異常は見られないが、やはりこれも健康な赤味を失っている。

「貧血があるようだな。――生理中?」

 目を覗き込みながら訊いても返答がない。違います、とこれは寛子が答えた。

「ちょっと前を開いて」

 敏夫は聴診器を出していう。恵の反応はやはりなく、寛子が慌てて寄ってきて、恵のパジャマの前に手をかけた。敏夫は聴診器を当てながら、それとなく恵の身体を検分する。虫刺されの痕、細かな傷や|痣《あざ》は山で倒れたときのものだろう。特に暴行の痕跡を示すようなものは見られない。念のために下腹部まで触診してみたが、特にこれといって異常はなく、色味を失って白い肌には傷も痣も見られなかった。

「生理中ではない、と言いましたね。不正出血や、おりものに異常は?」

 敏夫は寛子を振り返る。寛子は困惑したように首を振った。

「いえ、……ないと思います」

「そう」敏夫は笑う。「貧血だろうな。念のために血液検査をするから。ちょっと血をもらうよ」

 これにはようやく反応があった。いかにも億劫そうに恵は頷く。

「どこか痛いところはあるかい?」

「いえ……」

「眠い?」

「とても、眠いんです……」

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