饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.17

作者:日-小野不由美 当前章节:15371 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 敏夫は恵の体を検めながら自問自答する。自分に予断があって、そのせいで重大な兆候を見落とした、という可能性は?

(ないとは言えない……)

 不本意ながら、それは認めないわけにはいかなかった。実際のところ、敏夫は往診に来て、本当に恵が貧血を起こしているのを見て驚いたぐらいだ。件の失踪騒ぎ以来、恵の調子がおかしいと聞いて、敏夫は真っ先に詐病を考えた。これまでの例から考えても、騒ぎを起こした恵は、清水らに叱責されるのを恐れて具合が悪いふりをしているのだろうと思ったのは確かだ。

 恵の外見のどこにも、外傷や不審点はない。体温の下降が始まっており、死後硬直も始まっている。死斑は軽微、角膜の混濁も軽微。だが、死亡しているのは間違いなく、しかも死後数時間が経っている。

「昨夜遅く――というよりも、今朝だと思います。午前一時から三時ぐらい」

 敏夫は呟いて清水を振り返った。

「どうしますか」

 清水は険しい顔で瞬いた。

「どう――とは」

「おれには確実な死因が分からない。前回の診察から二十四時間以上、経過してもいる。できたら病理解剖を勧めたいところです。せめて末梢血の採取と骨髄液の採取をさせてもらいたいが、清水さんの同意が必要です」

「冗談じゃない!」清水は顔を紅潮させて怒鳴り、そして自分でも自分の怒声に狼狽したように顔を伏せた。「――いや、済みません」

「おれを殴りたい清水さんの気持ちは分かりますよ」

「いや……申し訳ない。そんなつもりはありません。だが、解剖は駄目です。この子は若い女の子なんです。いまさら死因が分かっても、恵は帰ってこない。……もう勘弁してやってください」

 なんとか自分を抑えようとする清水の態度は立派だ、と敏夫は思った。本当ならば敏夫の襟首を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]んで怒鳴りたいところだろう。清水の性格から言って、理を解いて説明すれば、資料の採取には同意してもらえるかもしれない。だが、これ以上、醜態を見せまいとする清水の感情を刺激するのも|躊躇《ためら》われた。

(それとも、おれは逃げたいんだろうか)

 単なる貧血だ、と言った。それが過ちであったことは確かだ。それも不可避の過ちではなく、予断によるものである可能性がある。恵の死体は否応なくそれを敏夫に突きつける。

「死亡時間は早朝二時、死因は急性心不全ということでいいですか」

 敏夫の問いに、清水は頷いた。

[#ここから5字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

「清水、恵ちゃん?」

 静信は受話器を置いた光男の顔をまじまじと見た。続く言葉は呑み込んだが、代わりに鶴見がそれを口にした。

「娘のほうなのかい。――爺さんのほうじゃなく?」

 光男はどこかきょとんとした様子で頷いた。

「娘のほうだとさ。高校生の」言って、光男はどういう意味でか、溜息をついた。「ほら、盆前に山狩りをしたでしょう。清水さんとこの娘さんが帰ってこないって言って。あれで見つかって以来、寝込んでたらしいんですよ。それが今朝、呆気なく」

 死んだんですか、と確認するように声を上げたのは池辺だった。

「また?」

 池辺の言葉は、寺務所に集まった人間の気分を代弁していた。後藤田秀司が死に、山入でも三人が死んだばかり、しかも今度は少女だ。ある意味で山入の三人は高齢でもあり、いずれ来るものが思いも寄らない状況で来た、としか思えなかった。秀司も若かったが、秀司くらいの年代の男が急死することは多くないとはいえ、珍しいことでもない。――だが、恵はあまりにも若い。まだ大人にさえなっていない。

「やれやれ……」鶴見は息を吐いて椅子に腰を下ろした。「清水さんとこの家族はショックだろう。顔を合わすのが辛いな。高校生じゃあなあ」

「本人も可哀想ですよ。これからいちばん、いい時期なのにねえ」

 池辺はそう、妙に老成したことを言った。

「まったくだ。今年の夏はどうなってるんだかな」

 鶴見の弁に静信は頷いた。窓に目を向けると、すでに熱気を伴った陽射しが降り注いでいる。本当に、今年の夏はどうかしている。――酷暑の夏。

 恵が死んだ、とかおりは呟いた。声に出してみても、少しも現実感がなかった。

 恵は死んだ。今、連絡があった。でも、ラブを連れて散歩に行けば、また坂の下で会えるだろう。どのみち新学期になれば、毎朝、会うのだ。

(もう、会えない)

 理性はそれを知っていたが、かおりには恵の欠落が信じられなかった。二度と会うこともなく会話を交わすこともない。そんなことが、どうして起こるはずがあるだろう? かおりくらいの年代の女の子が不幸にして死ぬことがある。でもそれは、ニュースや噂話の中のことで、新聞の中から出てきて、かおりの側に居座ったりするはずのないことだ。そう、漫画やドラマの登場人物が、決してかおりを訪ねてきたりしないように。

 母親に促されて出かける準備をする間も、どこか呆然としたままだった。何か大変なことが起こったことは分かる。それが恵に関することだ、ということも。具体的に言うなら、それは「恵の死」で、けれども、かおりにはやはりそれが腑に落ちなかった。

 急いで行かなきゃ、という妙に浮ついた気分。まるで何かのイベントに参加するかのような。それでいて、母親がエプロンを引き出して手提げの中に入れているのを見ると、棟のあたりがモヤモヤした。エプロンなんて、――それもあんな、花柄の入ったエプロンを引っ張り出すなんてどうかしてる。

 しかしながら、どうかしているのは、かおり自身のほうだった。もちろん母親は、弔いの手伝いに恵の家に行くのだ。恵の母親とは親しかったのだから。これから弔組の女衆と一緒に働かなくてはならない。それで当然のようにエプロンが必要なのだった。

 母親に言われるまま、普段着に突っ掛け履きで通い慣れた道を歩いた。アスファルトのうえには、もう|陽炎《かげろう》が立っていた。二日前にも同じようにして歩いた。いま、数珠を下げていることだけが、二日前と違っている。

 恵の家の玄関は開いたままになっていた。何人もの人が出入りしていた。かおりと同じく普段着のまま、使い古した手提げをさげた母親は、玄関の|三和土《たたき》で恵の母親に頭を下げた。

 コノタビハ、キュウノコトデ。マコトニゴシュウショウサマデス。

 かおりはボンヤリと、その不思議な呪文を聞き、母親に促されて、いつものように頭を下げた。清水寛子は、恵に会ってやってください、と言った。もちろん、かおりだってそのつもりだ。いつもの習慣で二階へ向かおうとすると、母親に呼び止められた。寛子と母親が向かったのは一階の座敷で、どうしてだか、恵はそこに横たわってていた。すぐ近くに仏壇があって、縁起が悪いな、とかおりは感じた。

(あたし、変だ……)

 かおりは恵が横たわった布団の側に膝をついた。

(恵も変……)

 どうしてこの暑いのに、しっかり布団を着ているんだろう。第一、ここは恵の部屋じゃない。部屋に戻ればベッドがあるのに。しかもこの恵は、まるで恵の抜け殻のようだ。

(恵はどこに行ったんだろう)

 かおりはそう思いながら、母親と寛子が何やら泣きながら話をする間、恵の抜け殻を見つめた。手の中に握った数珠の感触が奇妙だ。

 思っているうちに、母親に促された。あんたは先に帰ってていいから、と言われ、かおりは首を傾げた。自分が何のために、ここに来たのか分からなかった。それでひとり、玄関に向かい、ふと思いついて二階へ向かった。恵の部屋には、誰もいなかった。

 部屋はきちんと掃除されている。ベッドも整えられていた。かおりは部屋の中を見まわす。棚の上も、机の上もきちんと整理されていた。教科書、ノート、封を切っていない文房具。かおりはそれらをそっと見渡し、恵がこの部屋でなく座敷にいたことの意味を考えた。

(……恵)

 何かか喉元まで出てこようとしている。なのに、どうしてもそれが喉を越さない。呑み下すこともできなくて、苦しい。

 かおりはなんとなくデスクマットの下を探った。透明なデスクマットの下に入れたカレンダーの子猫の写真。その下。そこは恵の秘密の場所だ。親には見せたくないメモや手紙の類を、そこにしまっておく。

 カレンダーの下に葉書を見つけた。可愛らしいペンギンの絵が入った葉書だった。

[#以下、2字下げした恵の葉書内容部分は丸ゴシック?太字]

[#ここから2字下げ]

残暑お見舞い申し上げます

[#ここで字下げ終わり]

 丁寧に書かれた文字には、一文字ずつ細く青い縁取りがしてある。ところどころにツヤが入っていて、氷の中に閉じこめられた文字、という感じだった。下に続く私信も丁寧な文字で書かれていた。何度も書き直したのだろうと想像がつく。

[#ここから2字下げ]

暑くて嫌になっちゃいますね!

おまけに今年はすごく暑い!

学校が始まったらヤレヤレって感じ……

とにかく夏バテしないでね

[#ここで字下げ終わり]

 表を向けて、かおりは微笑んだ。同時に涙が溢れてきた。

[#ここから2字下げ]

結城 夏野 様

[#ここで字下げ終わり]

(恵ったら……)

[#ここから2字下げ]

(ホントは暑中見舞いのつもりだったのに

何度も書き直してるうち

残暑見舞いの季節になってしまった

あたしってバカ?)

[#ここで字下げ終わり]

「恵ったら……本当に、ばかだなぁ……」

 かおりは葉書をもう一度裏返す。丁寧に書かれた文字と、色とりどりのマーカーで描いた小さなイラスト。

「こんな頑張って書いて……出せなかったら意味、ないのに……」

 何度も何度も書き直して。一番綺麗に見えるように。涙が零れて葉書のうえに落ちた。かおりは慌ててそれをTシャツの裾で拭う。ほんの少し、マーカーが滲んだ。

「――恵」

 夏休みになってから、ずっと葉書のことを考えていたのに違いない。あちこちの文具店をハシゴして、いちばん気に入った葉書を探して、それをいくつも無駄にして。何を書こうか、悩んでいるうちに日は過ぎていく。やっと書いても投函する勇気が出ないうちに残暑見舞いの季節になって、また書き直して。――結局、投函できないまま。

「言ってくれたら、ポストに入れたのに」

 迷っているうちに、具合を悪くして投函できなかったのだろう。そして、とうとう――。

 かおりはその葉書をそっと隠し場所に戻した。デスクマットを押さえ、そして泣き崩れた。ようやく、喉の奥から熱く硬い塊が出てきた。

「こんなの、ないよぉ」

 広沢が結城とクレオールのドアを開けると、カウンターの向こうから長谷川が咳き込んだように呼んで手招きをした。昼下がり、盆のことである。店内には客の姿がない。カウンターに田代だけが坐っていた。

「こんにちは、閑古鳥ですね」

 広沢の言葉が耳に入った様子もなく、長谷川は身を乗り出す。

「広沢さん、亡くなったんですよ、清水さんのとこ」

 え、と虚を突かれて広沢は瞬いた。

「亡くなったって、誰が」

「恵ちゃん。夜中に。あれ以来、ずっと寝込んでたらしいんですけどね。それが容態が急変して朝にはもう」

「そんな」

 広沢は呟いた。「あれ以来」とは、恵の捜索劇のことを言っているのだろう。実際、見つかった恵は様子がおかしかった。

「いったい、なんで」

「それが、若先生にも良く分からないらしいんだよ。ただ、すごく急だったから、白血病とか、そういう関係の病気じゃないかって話だったな。――いや、さっき病因の若奥さんが来ててね、そう言ってたんだよ。お盆で戻っててさ。若先生がそう言ってたって」

 そうか、と呟いて広沢はカウンターに座った。

「そりゃあ、清水さんも気落ちしてるだろうな。……参ったな」

 長谷川は、まったくですよ、と頭を振ってサイフォンに火を入れた。

「そういえば、結城さんとこの息子さんは、恵ちゃんと同じ高校でしょう」

 ええ、と結城は頷いた。

「どうやら同じクラスみたいですね」

 高校一年生。夏野はまだ十六になっていないが、恵はどうだったのだろう。いずれにしても、余りに若い。

「なんともなあ」長谷川はまた首を振った。「嫌なことが続く」

 本当に、と広沢と田代が同意した。

「今年はどうしたことだろうな。雨も少ないし、いやに暑い日が続くし」

 広沢が頷いて結城を見た。

「結城さん、お弔いはどうします」

「ああ――そうですね。清水さんとは会って間がないとはいえ、面識がないわけじゃないし」

「無理をなさることもないと思いますけどね。わたしは、清水さんの縁もあるし、中学校の時は恵ちゃんの担任もしてたんで、行きますけど」

「いや、わたしも行きます。息子のクラスメイトでもありますしね。この間のいきさつもありますから。――しかし、慰める言葉がないですね」

 なに、と長谷川はコーヒーを点てながら言う。

「こういう時はね、自分のことを気にかけてくれる人間がいる、ってだけで嬉しいもんですよ」

 タケムラの前には、昼下がりの気怠い空気の中、例によって老人たちがたむろしていた。

「死んだって? 誰が」

 笈太郎と武子が訊くと、大塚弥栄子が、答える。

「清水の娘よ。徳郎さんとこの恵ちゃん」

 ああ、と広沢武子が頷いた。

「ちゃらちゃらした、あの?」

「そうよ」と弥栄子は声を低めた。「あの子が盆前に行方不明になったじゃない」

 笈太郎が何度も首を振る。

「そうそう。十一日だ。夜に西山に光がうんと見えたんでな、何事だろうと思って次の日に訊いたら山狩りをしたって言ってた」

「そう」と、大川酒店の|浪江《なみえ》が声を上げる。「夜になっても帰ってこなかったのよ。それで大騒ぎになってさ。うちの富雄も消防団だからさ、駆り出されて山狩りをしたのよ。そしたら西山で気を失ってるのが見つかったのよね」

 弥栄子は大仰に頷く。

「以来、具合が悪かったらしいのよ。それがゆうべ、親が寝てる間に死んだんだって」

「あらまあ」

 タツは聞くともなく聞きながら、またか、という気がしていた。

 夜に死んだ少女。この間の山狩りだって夜のことで、タツが知ったのは全部が終わってからだった。迎え火の日には転居者が村のあちこちに現れて挨拶をしたというが、それだってタツは見ていない。

(夜にばっかり何事か起こるね)

 タツの目の届かない時間帯にだけ。

「だから言ったじゃない」

 床几の奥から伊藤郁美が含み笑う。

「今年の夏はろくなことにならないわよ、って。やっぱり死人が出たわ。言わんこっちゃない」

「死んだ、って誰が?」

 矢野加奈美は驚いて手を止め、店に駆け込んできた母親の顔を見返した。

「だから、徳郎さんとこのお孫さん。清水さんとこ」

「清水……」加奈美は首を傾げ、声を上げた。「まさか、寛子さんのとこの恵ちゃん?」

 思わず大声を出してから、加奈美は慌てて隣で洗い物をしている元子を見た。元子の顔色が変わるのが、はっきりと分かった。

「そうそう、恵ちゃん」

 頷いてみせる妙に、加奈美は「なんでまた」と訊いた。お願いですから交通事故で肺ありませんように、と傍らの元子の気配を意識しながら祈った。

「さあ。盆前に姿が見えなくて山狩りしたらしいから、怪我じゃないかしら。ああ……違う、そういえば具合が悪かったって聞いたような気もするわ」

「どっちなの?」

「具合が悪かったのよ、そう。弥栄子さんが、寝込んでたって言ってたわ」

「そう……可哀想に」

 言いながら、加奈美はわずかにほっとした。元子も同じように小さく息を吐くのを聞いた。

「あんた、どうする?」

 妙に聞かれて、加奈美は頷いた。

「お悔やみに行くわ。困ったわ、寛子さんに何て言って慰めようかしら」

[#ここから5字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

[#ここから4字下げ]

 日没が近づくと、またぞろ悪霊たちは|喧《かまびす》しい。荒野を|彷徨《さまよ》い歩き続ける彼の側に寄ってきては罵り、|礫《いしくれ》を投げた。

 ここ流離の地においても、やはり彼は罪人であり、破戒者だった。

 ――追放者。

 亡霊たちは嘲笑しながら石を投げる。

 たしかに、彼は故郷の丘を追放された。だが、こうして荒野を|漂泊《さすら》う悪霊たちもまた、彼と同じく呪われた存在であり、神の作った秩序の中から追い払われた者どものはずだ。

 お前たちもまた、追放者ではないか。

 彼の怒声に、悪霊たちは嗤う。

 我らは追放者にあらず。

 我らは殺人者にあらず。

 此の地に至れるは、罪ならず、裁きならず。

 ただ心の内の未練が、妄執が、憎悪が、悔恨が、好みを|荒穢《こうわい》に繋ぎ留めしも。

 彼は黙した。

 彼は故郷を失い、神の加護を失い、そして弟を失った。三重の喪失は、間違いなく彼自身が犯した罪に対する報いだった。

 ――呪われてあれ。

 悪霊たちの呪詛を受けるまでもなく、彼はすでに呪われていた。夜が来れば、その呪いは弟の姿に形を取って彼を訪う。ただ傍らにあるだけ、彼は責めることもせず、ましてや危害を加えることもない異形の者は、懲罰ではなく報いでもなく、呪いとしか呼びようのない存在だった。

 弟が荒野に彼を訪うのは、弟自身の意志によるものだろうか、それとも神の意志によるものだろうか。もしも弟自身の意志によるものなら、その真意はどこにあるのか。報復、断崖、怨詛、彼の推測するあらゆる行為を、この屍鬼は行わなかった。空洞の目でただ彼を見守り、無言で彼に付き従う。はたして屍鬼の意図を問うことに意味があるのか、彼にはそもそも分からなかったが、もしも意図があるのだとすればそれが何なのか、彼にはおよそ想像ができなかった。

[#ここで字下げ終わり]

 静信は鉛筆を投げ出した。

 原稿用紙の升目は着々と埋められていきはしたが、少しも書くべきことを書いたという気がしなかった。無意味な積み木を積み重ねている、という感触。個々の升目は「空」という文字で埋め尽くされているようだった。

 いや、と静信は思う。埋められているのは「嘘」という文字かもしれない。

[#ここから4字下げ]

 それは慈愛であって呪いではない。

[#ここで字下げ終わり]

 ――だが、いかに「彼」の弟が慈愛の権化であったとしても、果たして己を屠った犯人を憎まずにいられるだろうか。

 彼は衝動によって弟を殺した。弟にとって、兄の凶行は予測不可能だったはずだ。裏切りは唐突に、理不尽に訪れた。それでもなお弟が彼を哀れむとすれば、この弟は慈愛という名の狂信に冒されていたのに違いない。

(いや、そうじゃない)

 もちろん、彼の弟は特定の意味を付与された一つの表象でしかないのだ。もとより静信には、現実における人間を仮構の物語の中で再現しようという意志などない。現実と引き比べてみることに意味があるはずがなかった。

 それを承知しているにもかかわらず、現実から乖離した姿に違和感を覚えるのは、清水恵のあまりにも早い死が静信を動揺させているからに他ならなかった。

 ――もちろん、人は死ぬ。それは避けられない。生まれたばかりの乳児が死ぬこともあれば、少女が死ぬこともある。そもそも人の生などというものは、持続するはずだという希望的観測のもとに成り立った幻想でしかない。生死は表裏一体のものだ。生きている、ということは、死ぬかもしれない、ということとまぎれもなく同義だ。

 にもかかわらず、恵の死は痛ましく思われた。彼女には年齢に応じただけの「人生」という名の取り分があったのに、それを不当に何者かによって剥奪されたのだ、という印象から逃れることができなかった。彼女が持っていたはずの可能性、彼女が思い描いていた未来と、実際に訪れたであろう悲喜こもごも。それは彼女の権利であり、それを奪い去った死は不当だという気分から抜け出せない。

 死は不当な現象だ。――ならば、「彼」が弟に突きつけた死もまた、不当なものだったはずだ。ましてやそれは殺害という行為であり、厳然たる死以上に理不尽で無慈悲な暴力そのものだった。恵は死へと傾斜していく瞬間、それを自覚しただろうか。弟はそれを自覚しただろうか。自覚したとしたら、何を思ったのだろう。

 唐突に、自分はそれを知っているはずだ、という気がした。

 おそるおそる振り返ってみたが、赤い渦が見えただけだった。風呂を閉めに寮監がやってくるまで、静信は水を見ていた。白いタイルの表面を流れる透明な水と、そこに漂う赤い|靄《もや》。幾許かの粘度を持った赤い液体が、透明な粘度を持たない水に乗って細い紐状に流れていた。それが解れるようにして、端々からさらに微細な糸となって溶け入っていく様子をぼんやりと見ていた。そのとき静信が何も考えないで入られたのは、自らそれを選んだからなのかもしれなかったし、あるいは、そんなことでは死なないだろうということを了解していたからなのかもしれなかった。――そう、少なくともあれは不当ではなかった。とりあえず、自分自身にとっては。

 もちろん、静信の周囲の人間にとっては、それは回避されたとはいえ不当な現象だったのだった。タクシーに乗せられ、一夜を過ごした病院から寮に戻ってみると、ちょうど父母が到着したところだった。そのまま家に連れ戻され、光男や鶴見や――あるいは安森徳次郎のような、寺と縁の深い人々に対面した。誰もがなぜ、と聞いた。彼らは何より、あまりにも不当で理不尽なことが、自分たちに突きつけられたことに衝撃を受けているように見えた。

[#ここから4字下げ]

 なぜ、と賢者は訊いた。

[#ここで字下げ終わり]

 静信は答えられなかった。それは答えを持たなかったからなのだが、彼らは彼らなりに静信の

[#ここから4字下げ]

心情を|斟酌《しんしゃく》し、それを消化し、黙って胸の中に折りたたんだ。隣人たちはもはや何故とは訊かなかった。代わりに不当にも自分たちから愛すべき同胞を奪った殺戮者に対して、哀れみと悲嘆を込めた視線を

[#ここで字下げ終わり]

 静信は我に返り、自嘲めいて息を吐いた。窓からは夜気と虫の音が流れ込んできている。静信は原稿用紙を重ねて折りたたみ、屑籠の中に放り込んでから寺務所を出た。

 境内から見下ろす村は暗かった。さすがにもう盆踊りの明かりが残る時刻でもない。束の間、戻ってきた死者も、そしてそれを迎えた生者も眠りについている。――いや、眠れない家が少なくとも一軒、あるはずだった。まばらに見える明かりの中には、その不幸な家の窓の明かりが含まれており、その窓の中では少女の遺体を取り囲んで、娘と過ごす最後の夜が持たれているはずだった。彼女のために灯明と線香を絶やすまいとする家族たちの最後の庇護。

 清水や寛子、あるいは祖父である徳郎の悲嘆を思うと気分が沈んだ。自分が置いていくはずだった者に、置いていかれてしまう理不尽。鬱々とそれを思いながら墓地に入った。

 墓地は静信にとって、異常な場所ではない。それは死者の眠る場所だが、不思議に客人が眠るべき座敷と同じように感じられる。今は誰もいない。――いつも、誰もいない。そういう種類の場所だった。

 懐中電灯を点け、墓地の参道を通り抜けて寺の北西の林に出る。削げたような急斜面が丸安製材の材木置き場へと向かって落ち込んでいたが、すでに付が落ちた状態では、ただ暗い穴に向かって滑落する斜面のようにしか見えなかった。斜面の縁には踏み分け道のようにして|杣道《そまみち》が続いている。材木置き場を見下ろしながら迂回して西山へと向かう道だ。

 足許を照らしながら歩いた。「彼」の弟の死について考えながら、それでいて常に思考は恵の死に横滑りした。恵が失ったものについて、考えないでいることができなかった。割り切ることができないのは、死因がはっきりしないせいかもしれなかった。恵は失踪の翌日、敏夫の診察を受けた。敏夫は単なる貧血だと診断したが、その三日後に恵は死んだ。それを語った清水寛子は言外に敏夫を責めるふうで、通夜に弔問に来た敏夫に対しても意図的な冷淡さが漂っていた。

 もちろん、人は過つ。敏夫が全能でないこと、過ちを犯すことは分かっている。重大な医療過誤こそなくても、些細なミスを数え上げればキリがないだろう。それを分かっていても胸のどこかに何かがわだかまる気がした。敏夫に対して思うところがあるわけではない。静信は少なくとも、敏夫が可能な限り自分の責務に対して誠実であろうとしていることを良く知っていたし、その点に関しては信頼している。――ただ、誰かが何かを過たなければ恵は死を回避できたのではないか、恵の死は修正可能だったのではないか、それほど恵の死は理不尽なもので、起こるべきではないことだったのではないか、という疑念から逃れられないのだった。

 しばらく歩くと、ふいに前方の空が明るくなった。樅が切れて、星空が覗いたのだ。時間の感覚は喪失していたが、寺から十五分ほど歩いたことになる。樅の林の中に、唐突に建物が現れた。荒れ果てた廃屋だった。

 この辺りの山は寺の一部だ。一帯に植えられた樅はかつての墓標で、切り出されることはない。手入れされることもないので周囲の純林とは趣を異にしている。静信が歩いてきた小道はずっと先で西山の林道と交わるはずだが、この道を辿るものは、今では静信ぐらいしかいないだろう。寺の一部であるこの辺りは、村人にとっては入らずの山だ。昔、それに目を付けた者がいた。兼正の一族であった彼は、寺から個々を賃借し、そこに離れと称して建物を建てた。それがこうして残っている。

 夜露の降りた夏草を踏み分け、ポーチまで歩いた。コンクリート製のポーチはひび割れ、亀裂から夏草が伸びている。ポーチにかかる|廂《ひさし》は二本の柱に支えられていたが、一方の柱が傾いているせいで不安定なカーブを描いて歪んでいた。

 静信はポーチに近づき、懐中電灯の明かりの先に(やがて前方に、)白いものが浮かび上がって(白く淡く人影が)足を止めた。

「――きみ」

 懐中電灯の明かりを向けると、眩しそうに片手を上げて、少女が振り向いた。

「室井さん?」

 静信は沙子、と呼びかけようとして、その名前の後に何をつけたらいいのか分からずに言葉を呑み込んだ。

「こんばんは」少女は微笑んだ。「室井さんも散歩?」

「ああ――そうだけど、きみ」

 静信の困惑には気づかなかったのか、沙子は建物を見上げた。

「これは廃屋? わたし、どこに出ちゃったのかしら」

 静信は少女が立ったポーチまで歩み寄った。

「ここは寺の地所だよ」

「あら、じゃあ、ひょっとしたら、わたしが入ってきちゃいけなかったの?」

「いや。そういうわけじゃないけどね」静信は呟き、なんとなく左手に視線を向けた。無骨な腕時計の文字盤が光った。「こんな時間に山歩きかい?」

「御覧の通りよ。――ねえ、この変な建物はなに?」沙子は、半分開いたまま朽ちようとしているドアの中を示した。「まるで教会のように見えるんだけど、違うみたい」静信はそれには答えなかった。ひどく困惑していた。

「懐中電灯は?」

「持って出なかったの。田舎の夜って暗いのね」

「どいて」静信はポーチに立った少女を促して建物の中に入った。「予備があるから貸してあげよう」

 あら、と沙子は入口から中を覗き込んだ。

「ひょっとしたら、室井さんの隠れ家? お邪魔だったかしら、わたし」

「いや」静信は短く言って、入口に近いベンチの上に置いた予備の懐中電灯を取り上げた。スイッチを入れ点灯することを確かめて沙子に差し出す。「――これ」

「ありがとう」

 沙子は言いながら、おずおずとしたふうに建物の中に入ってきた。懐中電灯を受け取り、それで建物の内部を照らす。埃にまみれ整然と並んだベンチと、それを取り巻く壁に設けられた細長い窓、正面の祭壇めいたものが浮かび上がっていった。

「教会――じゃないの?」

「教会だよ。個人的な」

 静信はベンチに腰を下ろした。ベンチのいくつかは、静信自身が何度も埃を払ったせいで、とりあえず木目が現れている。正面の祭壇の右上には夜空が見えた。一郭の屋根が落ちているのだ。下には夏草の茂った瓦礫が小山を作り、建物の内部にも夜露の匂いと虫の音が満ちていた。

「嘘でしょ? 教会じゃないわ、ここ」

 沙子はあちこちを照らしながら、静信の隣に坐った。

「汚れるよ」

「平気。――でも、ステンドグラスがある」

 細長い窓には確かにステンドグラスが入っている。しかしながら、そこに描かれているのは、聖書のどんな一場面でもなかった。

「気味の悪い絵」

 もともとが粗末な細工であり、しかもあちこちが割れているものの、沙子の照らしたステンドグラスが何を描き出しているのかは分かった。三人の男だ。中の一人は刀を振り上げた侍とおぼしき姿をしていて、その前には合掌し仰向いた農民ふうの男が膝をついている。その脇には首を落とされて倒れた骸が、かろうじて首の断面を見せて納まっている。落とされた首は見当たらない。

 静信は腕時計を握るようにして息を吐いた。

「教会なんだ。正式なものじゃないけどね。昔、この村に変わり者がいたんだよ。彼は離れと称して自分のための教会を建てた」

「へえ?」沙子は呟き、別のステンドグラスに光を当てる。「火だるまの人――違うわ、あれ、箕踊りって言うのよね?」

 静信は頷いた。

「そう。彼は一時、村を出ていて、そこで頻繁に教会に通っていたけれども、正式に洗礼を受けた信者じゃなかった。彼は神に興味がなかった。たぶん――」

 沙子が言葉を引き継いだ。獅子に襲われる犠牲者の絵を照らしながら振り返る。

「殉教者に興味があったのね。でしょ?」

 静信は微笑む。

「うん、そうなんだと思う。だからここは教会と言うより、殉教者を祀る祠だと言ったほうがいいんじゃないかな。彼にとっては聖堂だったけど、いわゆる教会とは違うんだ」

「変わった人がいたのねえ」

 うん、と頷いて静信は祭壇に光を向けた。祭壇といっても真鍮製の燭台がいくつか置かれただけのものだ。静信が向けた明かりは、半ば崩壊しかけた祭壇奥の壁を照らし、祭壇の左手――内陣に位置するものを照らした。それは燭台と同じく真鍮製のフレームの寝台だった。

「ここに住んでたの?」

「うん、本当に離れだったんだよ」

「ここで信者を集めていたわけじゃなく? ええと、新興宗教みたいなことをやっていたわけじゃないの?」

「違うんだと思うよ。――そう思われて彼はここから引き出されてしまったんだけどね。たぶんそんなつもりはなかったんだと思う。まるで信者を待つみたいにこうしてベンチがあったりするけど、彼はこれを単なる棚だと思っていたみたいだね。ぼくが初めてここを見つけたとき、衣類や生活道具や本なんかが並べてあったから」

「頭のおかしな人だったの?」

「そういうことになるかな。彼は兼正の――きみの家のあるあそこに住んでいたんだ。兼正、というんだけどね。竹村が本当の名字。兼正というのは屋号で」

「竹村の小父さんの先祖だったの?」

「先祖というほど昔の話じゃない。さっきも言った通り、ここは寺の地所なんだ。それを竹村が借りたいと言ってきた。戦前の話だそうだよ。竹村の息子はいっぷう変わった人物で、ここに離れを建てて暮らしたいと言っている、という話だった。もともと奇行の多い人物だったので、きつと家族が離れに押し込めようとしたんだと、ぼくの祖父は思ったらしい」

「ああ」沙子は軽蔑したように顔を顰めた。「体のいい座敷牢ね」

「そうだね。――ところが、そういうことでもなかったんだ。実際に彼が望んだことだったんだね。そしてこれを建てた。村の者は建物を見て驚いた。どこからどう見ても教会だったからだ。もちろん、教会であっていけないという法はないけれども――」

「この村は寺を頂点として存在していた」沙子は微笑む。「なんでしょう?」

 静信もまた微笑んだ。

「そう。村人のほとんどが檀家だしね。これはてっきりキリスト教系の新興宗教の一種だろう、ここでそれを始める気だ、と思ったらしいね。だから祖父も、当時の村の人間も血相を変えた。戻れ戻らないの押し問答の末、兼正が引きずるようにして連れ帰った。それでも彼は三年くらい、ここで生活していたらしいんだけどね。そうしてここは、そのまま廃墟になった。それがもう戦中の話だ」

「へえ……」

 興味深げに周囲に光を向ける沙子を、静信は見守った。十三かそこらの少女が出歩く時間ではない。

「きみは、いつもこんな時間に出歩くのかい?」

 沙子は振り返った。細い肩を軽くすくめると、長い髪が肩から胸へと零れ落ちる。

「いつもというわけじゃないわ。少なくとも前の家にいる時は、外に出してもらえなかったもの。夜に女の子が出歩くものじゃないのよ、そうでしょ?」

「でも、――こんな言い方をすると失礼かしら。こういう田舎だったら、あまり心配をする必要もないと思うの。特に、山の中を散歩するぶんにはね」

「暗いから危険だよ。野犬もいるしね」

「家の中ばかりじゃ窒息しちゃうわ」

 静信は辰巳の言を思い出した。

「きみは……まったく昼間には出歩かないのかい?」

「そうね、お天気の日にはまったく。陽射しは駄目なの。紫外線をたくさん浴びると、どっと悪くなっちゃう。だから学校にも行かずに穏和しくしてるのに、このうえ夜にも閉じこめられたら、わたし、ヒスを起こしちゃうわ。ヒスを起こしたわたしのほうが野犬より危険よ」

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