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序章
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村は死によって包囲されている。渓流に沿って拓けた村を、銛の穂先の三角形に封じ込めているのは樅の林だ。
樅の樹形は杉に似て端正、しかしながら幾分、ずんぐりとしている。杉が鋭利な刃物の先なら、樅は火影だ。灯心の先にふっくらとともった炎の輪郭。
直進の幹、心持ち斜め上方に向かってまっすぐに伸ばされた枝と樹冠が作る円錐形、葉は単純な針葉で、それが規則正しく並ぶのではなく|螺生《らせい》するところだけがわずかに複雑だ。――総じて淡々とした樹だと思う。
しかしながらこの樅の純林は、村を「死」として包囲している。それは村の境界線であり、こちらとあちらを隔てる稜線、林の中はすでに此岸ではなく彼岸だ。
彼岸から村を見下ろす者たちは、四十メートルにも達して巨躯[#《「躯」は旧字体。Unicode:U+8EC0]を表すくせに、その寿命は百五十年から二百年と短い。これは滅びる樹だ。植生が遷移する途中に現れ、|斃《たお》れることによって次の覇者に位を勧める。
その滅び行く樹は死者のために育てられ、村を取り巻く山肌にとどまっている。村は営々とこの樅材を利用して|卒塔婆《そとば》を作り、のちには棺を作った。村は生まれた当初から、死者のために祭具を作って成り立ってきた。
そして樅の林の中は、まさしく死者の国であり、樅はその墓標なのだった。村では今も死者を土葬にする。村人はそれぞれが山の一郭に墓所を持ち、そこに亡骸を埋葬する。墓石はない。そこが死者の住居であることを示す卒塔婆が立つきりだ。死者の|回向《えこう》の三十三回忌、それを過ぎると卒塔婆を倒して樅を植える。植えて忘れる。死者はすでに山の一部に還り、もはや人と接点を持たない。
死者のための滅びゆく樹、その純林は、まぎれもなく死者の国だ。三方を樅に囲まれて、村は死の中に孤絶している。
実際のところ、村は開かれた当初から、付近の山村の中で孤立している。そもそもが樅に目をつけた木地師の集団が移り住んで切り開いた村、血縁的にも地縁的にも村は周囲と脈絡を持たない。
そのせいだろう、すべては村の内部で完結しており、村は生きるに部外者の助けを借りない。外の力は、ちょうど村の南を貫いたバイパスのように、村を通り抜けていくだけだ。その道が村よりも大きな町へ、町よりもさらに大きな都市へと繋がっていても、それを降りて樅に包囲された山村に立ち寄る者もない以上、やはり村は隔絶されている。
しかしながら、不思議にこの山村は近年になっても過疎化とは比較的、無縁なままだった。人口は増えもしないかわりに、さして減ることもない。確かに村の外れ、最も辺鄙なあたりから少しずつ人家が減ってきてはいるのだが、そのぶん村の南に家が増える。老人が多いのは山村の常だが、老人たちが樅の林の中に歩み去っていくと、どこからともなく若者が戻ってくる。
この細く、しかしながら決して途絶えることのない営みを見ると、村はまるで|祠《ほこら》のようにも思える。どれほど荒れ果てても、何かの折、ふと思い出して立ち寄る種類の信仰のように、村の命脈は途切れることがない。
だとしたら、閑散とした山村のこの静けさは、指導に通じるものかもしれない。此岸から彼岸へと掛け渡された橋、その対岸、三方を死によって包囲されながら厳然として此岸で、世俗からは孤絶している。
そこで人は死に仕え、死者のために祈る。
――実際、村は生まれたときから、そのために存在した。
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|溝辺《みぞべ》町北西の山間部に火災のものだと思われる不審な明かりが見える、と消防署に第一報が入ったのは、十一月八日、午前三時を少し過ぎた頃だった。
気温、摂氏9?6度、実効湿度六二?三パーセント、風速毎秒十二?八メートル、折からの異常乾燥注意報は、いつ火災警報に切り替わってもおかしくなかった。
無線を耳にし、とっさに|好野《よしの》は雑誌を投げ出して出張所の前に飛び出した。
出張所の北には黒々とした山並みが横たわっている。昼間ならば、晩秋の冴えた空を背景に緑の山が連なるのが見えただろう。常緑樹に覆われ、なだらかに折り重なる稜線、そこに転々と混じる鮮やかな紅葉、その光景がはっきりと想起できるほど、好野にとっては見慣れた山だった。
それは今、無数の光点を撒いた星空を切り取り、漆黒の影として横たわっている。満天の星がいくつか散り落ちたように、あちこちに小さな明かりが見えていたが、それが常にそこにあるものかどうかまでは判然としなかった。
「徳さん、見えるか」
背後から緊張した同輩の声がして、好野は振り返った。
「いや」
身を軋ませるほどの寒風が真正面から押し寄せてきていた。それは山から市街に向かって吹き下ろしている。制服の首周りから入り込んでくる乾いた風は刺さるようで、好野は山に目をやったまま思わず襟を掻き合わせた。
溝辺町北部に広がる山間部は、町面積のほぼ三分の二を占める。人口のほとんどは残る三分の一である溝辺町市街地に集中しているが、山の中にもいくつかの集落が点在していた。問題は「火災のものと思われる明かり」が、その集落の中にあるのか、そうでないのか、ということだった。
正直なところ、集落の中なら問題はない。各集落は山に分断される形で孤立しており、ほとんどは狭い谷間に拓け、人家は得てして古く、密集する。それでも各集落にはそれぞれ消防団が組織されていたし、折からの異常な乾燥で警戒態勢を布いている。水利も確保されている、人手もある。消火は可能だ。真に恐ろしいのは、層でない場合――山に火が入った場合だった。
好野は風に身を竦めながら黒い山並みを注視する。|抽《ぬき》んでて高い山はない。起伏に乏しい平坦な山が連なっているだけだ。ハイキング気分で登れるような山ばかりだが、尾根が複雑に入り組んでいて交通の便は意外に悪い。山間部に植樹されているのは、ほとんどが杉や檜、樅などの常緑樹だが、その下生えはすでに枯れ、触れれば音を立てて折れるほど乾いていた。いったん山に火が入れば、大規模な火災になる可能性が高い。この夏、岡山、広島で続いた大規模な山林火災のことが思い出された。
(頼むから、単なる住宅火災であってくれ)
心の中で祈る好野の声が聞こえたように、同輩が声を落とした。
「山火事でなきゃ、いいんだがな」
好野は頷いた。火は乾ききった下生えを舐めて恐るべき速度で広がっていくだろう。広大な斜面が炎に包まれ、それは秒速十三メートル近い強風に煽られて、いくつもの尾根を駆け上がり駆け下りして、北部の山々とそこに孤立する集落を呑み込んでいく。しかも風は、狙い澄ましたように溝辺町市街部に向かって吹き下ろしてきていた。
好野は縋るような気分で山を見上げたまま、襟をさらに掻き合わせ、身震いした。
山間部の南を貫いて自動車道が開通した。平野部の外れにインターチェンジが置かれたせいで、かつては水田ばかりだったこのあたりも急速に開発されつつあった。田畑をつぶして造成された住宅地は、平地を埋め尽くして北へと溢れ、今や山の斜面をも切り開きつつある。山と市街は入り混じって完全な地続きになっていた。
頼む、と祈る宛はないまま声に出さずに呟いたとき、突然、けたたましい出場ベルが鳴り響いた。好野は弾かれたように出張所を振り返る。同時に若い隊員が出張所を飛び出してきた。
「上から明かりが見えました! |外場《そとば》方面!」
消防車は町内を縦断する|尾見《おみ》川に沿って北上し、溝辺町北部に広がる山間部へと入っていった。少なくとも今はまだ、山には何の異常も発見できなかった。黒々とした稜線が続いているのが、かろうじて見て取れるだけだった。
藍色を帯びた夜空の下、のったりとした起伏が黒く連なっている。夜明け前の国道は閑散として、いったん市街部を離れると、思い出したように突風とすれ違うほかは、行き会う車の影もなかった。
平穏に見える夜、平板に見える山、今はそれがもどかしかった。道は川や尾根の屈曲に沿って紆余曲折を繰り返す。なまじ険しい山がないだけに、思い切ってトンネルを掘り、山を切り開こうという意欲を削いだ。その結果、北の集落に向かうのに、いったん南に向かわねばならない。そういうことも頻繁だった。しかしながら、火勢はそんなものに頓着しない。風向きの促すまま、単刀直入に突き進んでいく。
それを考えると、カーブのたびに胃の腑が痛んだ。山なりに唯々諾々と進み、やがて前方、遠くに自動車道の明かりが見えた。煌々とした照明が一文字に連なって光の帯のように前方の谷を横切っている。
その自動車道の向こうにあって谷を堰き止めているように見える尾根、その北側が外場――旧?外場村のはずだった。渓流沿いの谷間に四百戸ほどの人家が集まっている。人口はおよそ千三百人あまり、山間部に点在する集落の中でも最大の集落だった。
「何も見えませんね」
若い隊員の声に好野は頷く。
「せめて夜が明るければ、煙くらいは見えるのかもしれんが」
答えながら、好野は奇妙な符号に驚いていた。無線が入る前、ちょうど一冊の雑誌を読んでいるところだった。それは先月死亡した隊員の前田が残していったものだ。前田は外場に住んでいた。近所に作家がいるのだと自慢そうに言って、雑誌を持ち込んできたのを覚えている。もう一年半も前になるはずだ。外場について書いた随筆が載っている、と御丁寧に付箋まで貼った頁を前田は嬉しげに開いてみせた。その雑誌がひょっこり棚の奥から出てきたのだった。
前田は病死したのだったか。好野よりまだ一まわりは年下だったはずだ。家族が遺品を整理に来て、私物を全部ひきとっていった。休憩室の棚の奥に雑誌だけが残されていた。
思い出すともなく思い出しながら、好野は無線に耳を傾ける。本部でも詳細は判っていないらしい。現場の様子がわからないだけでなく、具体的に火災現場がどこなのか、特定すらできていない。
好野は助手席の隊員に声をかけた。
「外場の消防団とは、まだ連絡がつかないのか」
それが、と無線機に向かっていた隊員は振り返る。
「詰所に誰もいないようなんです」
「馬鹿な」
異常乾燥注意報が出ている。それもいつ火災警報に切り替わってもおかしくない状態だ。各消防団には厳重に警戒するように勧告が出ているし、ならば詰所には必ず誰かがいるはずだった。
「団長は」
「出張所から家に電話しているんですが、やっぱり誰も出ないそうです」
「外場の団長はつい最近、替わったばかりだろう。新団長の家に連絡しているのか」
「当然、そうだと思いますが」
好野は軽く舌打ちをする。消防署と消防団は厳密に言えば別組織で、互いに並列する関係にある。指導するのは消防署だが、一枚岩の組織ではないから手足のように神経がゆきとどく、というわけにはいかなかった。
「まさか詰所も団長の家も、もう焼けてるんじゃないだろうな」
危惧とも冗談ともつかない口調で若い隊員が言って、好野は顔を|顰《しか》めた。それほどの事態なら、そこに至る前に外場から報告があったはずだ。しかしながら、不穏な想像が脳裏を過ぎるのは止められなかった。連絡をする余裕もないほど現場は混乱を極めているのだとしたら。
車がさらにカーブを曲がった。またひとつ尾根を迂回し、北西に向かって視野が開けた。前方に国道を跨ぐ自動車道の橋脚が見える。真昼のように照明された自動車道の向こうは、漆黒の山肌だ。その向こうに異常なものが見えた。行く手を塞ぐ暗闇のあちこちに、光の粉をまぶしたように赤い明かりが点っている。
好野だけでなく、同乗した隊員の誰もが声を上げた。最悪の事態が起こったのだと分かった。単なる住宅火災ではない。まぎれもなく山火事だ。それも、手前に自動車道の照明があってさえ、あれほどの光点が見えるのだから、すでに尋常の規模ではない。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。助手席の隊員が咳き込むようにむせんで現状を報告する。応援が必要になる。あの規模、この強風、とても出張所だけでは対応できない。
いったい鎮火までにどれだけの時間がかかるのか(それは、何日かかるのか、と言ったほうが正しいのに違いない)、それまでにどれだけの山林が焼失し、どれだけの犠牲が出るのか。
好野が思わず膝の上に置いた拳に力を込めたとき、前方に車のヘッドライトが見えた。好野は運転手に徐行を命じる。窓から身を乗り出し、近づいてくる車に向かって大きく手を振った。
なんの変哲もないワゴン車だった。相手方の車と消防車とが、センターラインの付近で接近して停まる。好野はドアを開け、半身を乗り出した。ワゴン車の運転手が窓を開けた。
「あんた、外場のほうから来たのかい」
好野の声は吹き下ろす風に攫われそうだった。強風に吹きちぎられたのか煙のようなものは見えなかったが、風の中には明らかに火事場の臭気が混じっていた。
好野の問いに運転手は淡々と頷いた。歳の頃は二十代半ばから三十代半ばのあたりだろうか。明かりが乏しいこともあって表情までは仔細に見て取れないものの、格別、取り乱した様子ではなかった。ただ、その顔も着衣も、泥の中を転げ回ったように汚れている。好野はほんの一瞬、その汚れを血糊だと思った。もちろん泥が光線の加減で血のように見えただけだろう。――そうに決まっている。
「外場はどうなってる? 何か知らないか」
運転手の声は感情を見失ったように(あるいは虚脱したように)静かだったが、風の中をよく通った。
「山火事です。北の山に火が入って、村に向かって下っています」
好野は呻いた。
「規模は」
「酷いです。火の粉が雪のように降っています」
――正真正銘、最悪の事態だ。
外場分団は何をしていたんだ、と誰かが毒づくのが聞こえた。助手席の隊員は、本部に報告を入れている。好野は軽く手を挙げ、ワゴン車の運転手に礼を言った。運転手は車を出す。同様に走り始めた消防車のドアを閉めながら、見るともなくワゴン車を見送って、好野はぎょっと息を呑んだ。
車の後部座席、そこに棺が積まれていた。一瞬のことだが、それは異様なまでに鮮明に好野の目に飛び込んできた。確かに白木の棺桶だった。後部シートをすべて倒し、何かの布に半ばくるまれるようにして納められた大きな木箱の、一方に小さな窓があり、観音開きの扉に房がついているのまでが、はっきりと目に焼き付いていた。
好野は口を開けて車を見送る。一瞬、追いかけて呼び止めたい気がしたが、すぐに肩の力を抜いた。――そう、棺だ。それで問題はない。
外場はもともと卒塔婆や棺を作って成り立ってきた村だ。運転手の風体からして、現場は本当に混乱を極めているのだろう。取るものもとりあえず、手元にあった商売用の棺に貴重品を詰め込んで逃げ出してきた、そういうことなのかもしれなかったし、あるいは納品する予定の棺が積んだままになっていたのかもしれない。
どこか違和感を感じたが、深く拘っている場合ではなかった。棺を積んだワゴン車に出会ったことよりも、卒塔婆には木工所や製材所が多い、そのことのほうが好野にとっては重大だった。
消防車はさらに国道を北上する。自動車道の高架をくぐり抜け、渓流に沿ってカーブを一つ曲がると、国道の前方、先細りに高くなりながら拓けた外場の集落を見通すことができた。
正面に見える北の山にはすでに一面、火が入っている。植樹された樹木の下を赤い火が完全に制圧しているのが見て取れた。山の稜線がくっきりと黒いのは、北山の向こう側が明るんでいるからだ。おそらくは火元は外場のさらに北で、山の向こう側は火に覆われているのだろう。
消防車の中には火事場の臭気どころか、煙そのものが入ってきた。慄然と見守る目の前で、山の一郭に火の手が上がった。樅が火勢に負けたのだ。北の斜面に近い建物のいくつかはすでに炎に包まれ、その周辺では逃げまどう車のヘッドライトが鬼火のように揺れている。
火の粉が降っていた。いや、降っているなどという生やさしい状態ではない。強い風に煽られて吹雪のような有様だった。
想像以上の惨状に、同乗した隊員がそれぞれ呻くように声を上げるのが聞こえた。ポンプ車一台が駆けつけたところでいったい何ができるというのか。
――もちろん、彼らにできることなど何もなかったのだった。
この惨状は何かの始まりではなく、一つの終焉だった。この夏以来、密かに進行してきた事態の、これが集結点だった。
いや、人によれば、その始まりをもっと以前――一年、あるいはそれよりも前に求めたかもしれない。いずれにしても、それが避けがたく進行し始めたのは夏のことだった。七月二十四日、未明。
すでにその日、外場と呼ばれるその集落が、近隣一千ヘクタールにもおよぶ山林を巻き込んで消滅することは、半ば決定していたのだった。
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第一部 鴉たち
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一章
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1
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荒涼たる大地は堅く凍って幾重にも|迂曲《うね》る。
空は暗澹と垂れ込め、雲と大地とで世界は見事に二分されていた。
駆けるのは刃物のような風ばかり、光は空のどこにもなく、ましてや地にあるはずもない。にもかかわらず、彼の背後からは清らかな光輝が押し寄せ、風を避けて深く|顔伏《おもぶ》せ、前のめりに歩く彼の視線の先に、長く赤黒い影を投げかけていた。
彼にはその影の色が赤茶けた大地によるものか、それとも自らに課せられた呪いによるものなのか分からなかった。分かるのはそれが永遠に彼の|踝《くるぶし》に結びつけられ、彼が斃れ、朽ち果てて塵になってしまうまで、決して離れることがないだろうということだ。いや、塵になってもまだ、微細な赤黒い影を作るのかもしれなかった。
この不毛の地に動くのは、彼と悪霊だけだった。彼の額には印があったが亡霊たちは契約を知らなかったので、彼に向かって冷気を吹きつけ、あるいは毒を吐きかけ、あるいは半透明の手に|礫《つぶて》を拾って投げた。
――呪われてあれ。
悪霊たちは彼につかず離れず、半ば透けながらつきまとった。どんなに鈍くとも真昼の光は彼らの姿を|朧《おぼろ》にする。影すら持たない彼らの、声はしかし風の中に明瞭だった。
――呪われてあれ。
――追放者。
揶揄を含んだ声とともに足の下に転がり込んできた石を踏んで、彼は何度目か、巌のように硬く凍った地に倒れた。
凍え軋む両手を突いて起きあがる前に、腕の間から背後の光輝が見えた。それは小高い丘に射しかかり、丘の緑をあまねく照らしていた。二度と戻ること叶わぬ彼の故郷、そこに満ちた遠い光だ。
丘の頂上に点った光は、その丘に慈愛を降り注ぎ、緑を暖かな色に輝かせていたが、この地にはただ影のみを与えた。
ここ|流離《りゅうり》の地において、この光によって育つ植物はなかった。空気でさえ凍結するような寒気を貫きながら、寸毫のぬくもりも寄越さない。その光はただ大地のざらざらとした手触りを目に見える形に浮き彫りにし、そして影を――濃い、罪の色の影をありとあらゆるものに分かちがたく添えた。
――追放者。
また、石礫が飛んできた。彼は目を閉じて一息に立ち上がったが、瞳の奥に焼き付いた光は瞼の下に忘れ難く、それを怖れて目を開けば、今度は雲に光輝の残滓となって映って見えた。
陽が薄れ、亡霊たちがまとった衣の端々が明らかになっても、背後の光輝だけは薄れることがなかった。彼はひたすらにもう何日も荒野を歩き続けていたが、光輝が弱まることはなく、しかも故郷の丘が大地の起伏の下に没することもなかった。彼はひたすらに歩いた。丘と光輝の見えないところへ、一刻も早く辿り着きたかった。
やがて前方に、白く淡く人影が見えた。それは先で、明らかに彼を待ち受けていた。青白く鬼火が揺れてその影の足下に集まっている。
彼はその人影の特徴を読み取って喘いだ。また夜がやってきたのだ。
それが荒野にやってくる刻限。
それは彼につきまとい、亡霊どもが|喧《かまびす》しい明け方まで彼の傍らを離れないだろう。それから逃げることはできず、また、それを追いやることもできないと彼はとうに知っていた。やむを得ず歩いた。立ち止まっても歩む方角を変えても、彼は必ずそれの側に辿り着くことになる。
彼自身も意識しないまま一歩ずつ狭まる歩みが、やがて影の輪郭を明らかにした。彼は足を止め、顔を覆った。
それは彼がすでに屠った彼の同胞だ。彼の後に生まれ、彼には得られなかったものを難なく手にした弟。
弟の地は大地に撒かれ、一昼夜のうちにそこにある緑を根絶した。その|骸《なきがら》は哀惜とともに丘の一隅に葬られたはずだった。光輝は悲しみに翳った光を墓に投げかけ、近辺の樹木の花は夕刻にしか咲かず、枝に留まる鳥は同じ調子の音でしか啼かない。
それがまた、今夜も墓から甦ってきたのだ。
――屍鬼だ。
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そこまでを書きつけて|静信《せいしん》は軽く息をつく。同時に緊張が緩み、凍てついた荒野から夏の夜の中に放り出されていた。
気温が一気に上昇したようだった。静信は鉛筆を手放す。古風な塗りの六角形は、荒野の夜を封じ込めた原稿用紙の升目の上を転がり、スタンドの明かりに滑った光沢を放った。原稿用紙を広げた無機的な事務机、それを照らす黄味を帯びたスタンドの明かり、机の脇の窓からは、夏の夜気とともに虫の音が流れ込んでいる。
七月二十四日、日曜日。日付は変わったばかりで、室井静信は三十三を目前に控えていた。彼は僧侶で同時に作家だった。寺の事務所で自分の机に向かい、目の前には取りかかってから五時間ほどが経過した原稿が広げられている。
静信はもう一度息を吐き、自分が埋めたばかりの原稿用紙を揃えて手に取った。升目を埋めた文字を冒頭から目で追う。
事務所の窓からは、旺盛な虫の音が流れ込んできていた。かなりの音量のはずだったが、それでも不思議に部屋の中には静寂が淀む。古びた部屋の片隅、かろうじて机の周辺を照らした明かりと、そこで俯き自閉するように原稿と向き合った自分。背後に並んで沈黙しているスチール製の机と事務機器。寝静まった庫裡。それらを懐に抱き込んだ伽藍は人の気配の残滓すら絶えた虚空に満たされている。伽藍の周囲は樅の林だ。寺は樅に覆われた山の斜面にあって、隣接する人家はない。山寺から見下ろす村は広大な山の中に孤立し、樅の中に封じ込められている。そうやって幾重にも取り巻いた孤絶が、静寂となって寺務所のそこここに淀んでいた。
(弟は、彼を哀れむ……)
静信は原稿用紙を机の上に戻し、もういちど軽く息を吐いた。事務机の|抽斗《ひきだし》からカッターナイフを取り出し、放り出した鉛筆を拾い上げて刃を当てた。埋めたばかりの原稿用紙の上で鉛筆を削る。
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弟は屍鬼となり果てたが、怨霊になったわけではなく、ましてや魔物になったわけでもなかった。弟はただ墓から起きあがった、それだけだ。ゆえに弟は、生前の性行のまま彼に慈悲を垂れるのだ。だが、加害者を哀れむ被害者ほど罪人を苦しめるものはない。彼は弟の慈悲に苦悶し
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――そしてどうするのだろう?
静信はわずかに考え込み、漠然と見える物語を辿って、やがて曖昧模糊とした混沌の中に行く末を見失ってしまった。
何とか手探りを繰り返しながら、鉛筆を長めに削って先を丁寧に尖らせる。芯は硬質の2H、硬い鉛筆で彫り込むようにして文字を書く癖があった。なので鉛筆を使っても消しゴムは使えない。使ったところで文字は消えないから、文字を消すときには原稿用紙のほうを消してしまうことにしている。
(殺された弟は、夜毎に墓から甦る)
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その慈悲深い弟は、彼が凶器を手にしたとき、兄が殺人者になることを悟った。弟は殺される自分よりも、殺す兄を哀れんだ。
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それで屍鬼となって兄を追う。罪人となって荒野をさまよう兄の行く末を追わないではいられないのだ。
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それは慈愛であって呪いではない。
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それが兄を苦しめることは、屍鬼となった弟には分からない。兄はそれを読み解く。そして――どこに帰着するのだろう。
考えながら鉛筆の先を丁寧に仕上げ、今夜使った他の鉛筆も削っていく。先が鈍いのは嫌いだけれども、そうそう鉛筆を削ってばかりもいられないので、切手盆に必ず一ダースの鉛筆を用意しておき、先が丸くなるたびに換えていく。
すでに梅雨が明けたが、部屋の中に浸み入るようにして流れ込んでくる夜気は熱気とは無縁だった。むしろ半袖シャツに肌寒くさえ感じられる。そもそも渓流に沿って拓けた山村は熱帯夜には縁がない。大学に行っていた頃に住んでいた街とは大層な差だった。クーラーのない寮の部屋では、机に向かっているだけでも汗が滴り落ちた。今と同じように原稿用紙に屈み込んで深夜を過ごし、落ちた汗に滲むインクに辟易して万年筆を使うのをやめた。以来十年、硬い薄い鉛筆を使っている。
まだ原稿用紙を使っているんですか、と驚いたように言ったのは、どこの編集者だったろう。静信はそれに、機械は性に合わないので、と答えた。ワープロを買ってはみたものの、ヶっきょく父親に譲ってしまった。きちんと打ち出される文字は嫌いではなかったが、いくらでもたやすくやり直せるのが、なんとなく気に入らなかった。
原稿用紙の升目を埋めていくのは、引き返せない道を進むのに似ている。袋小路に迷い込むと、枝道まで戻る。そうしてひとつずつ、迷路を踏破するようにして書いていくのが自分にあったやり方らしかった。時間はかかるが、そもそも静信は僧侶だし、小説を書くのは副業に過ぎない。出版社に脱稿を急かされるほどの売れっ子だったことは一度もないし、これからもないだろう。十年これでやってきたのだから、これからもこれで構わないのに違いない。
最後の鉛筆を削りあげて、削り屑を原稿用紙の中央に集め、包むようにして紙を折る。中のものが零れないよう、紙の端をきっちりと折り込み、屑籠の中に捨てた。どんなものもそんなふうにして始末をする癖があったから、母親などは捨てているのかしまっているのか分からない、と言って笑う。
新しい原稿用紙を広げ、静信は立ち上がった。軽く鳥肌が立っている。窓を閉めようと歩み寄ると、静信の影に驚いたのか、唐突に虫たちが口を|噤《つぐ》んだ。そのせいで|儚《はかな》いばかりに頼りなく、当たり鉦の音が聞こえてきた。浮き足立つようでもあり、どこかもの悲しいようでもあるその音は、虫送りの鉦の音だ。
鉦の音に耳を澄まし、ごく微かに静信は笑った。村の夜は早い。常には寝静まる頃合いに、大勢の人が出て喧噪が続く祭りの夜。昔、夜の中には秘密が隠されているような気がしていた。面をつけて練り歩く男たちを追っていけば、そこに辿り着けるような気がしたものだ。
あいにく静信は三十を越え、夜の中に隠されているものの正体を知ってしまった。けれども今も多くの子供が、眠い目をこすりながら行列の後をついて探し物をしているのだろう。それが、きっと何かがあるはずだと信じて鐘の音に胸を揺さぶられていた昨年の、あるいはその前の年の自分なのだとは気づかないままに。
窓辺から何気なく見渡した村は、闇に沈んでいた。点在する人家の明かりや街灯、それらは闇を払拭できてはいなかった。むしろ心細いほどまばらに点った明かりのせいで、村はいっそう暗かった。包み込むように屹立した暗黒は、樅に覆われた山の稜線だった。その情報に広がる天蓋には鮮やかに満天の星、夏の夜空は山村の夜景より遙かに明るい。
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村は死によって包囲されている。
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樅は死だ。村人はそこに今も死者を土葬にする。心残りや恨みを残した死人は墓から甦って徘徊し、村に災いをもたらす。村ではそれを「鬼」と呼んだ。鬼の触れたものは死に感染する。人や家畜は死に、作物は枯れる。泣く子のところには鬼が来るぞ、とは今も昔も変わらない親の言い分だ。
起き上がり、死を振りまきながら徘徊する屍者。それは樅の中で目覚め、暗黒の斜面を下り、乏しい明かりに群がって安逸の夢に縋る人々を訪う。
(この暗黒……)
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この暗黒を見よ。
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稜線の上の星
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星の光輝にくらべ、この暗さはどうだ。丘の上から賢者は荒野を指さした。
これは無明の闇、この昏きは汚れであり、呪いである。
そう言って示して、賢者は彼の背中を押す。たたらを踏んだ彼は荒野によろめき出、その背後で黄金の狭い門は閉じた。
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静信は首を振って窓に手をかけた。
物語の帰着点が見えないと、自分が何のために物語を書き始めたのか、その始まりでさえ疑問に思える。断片ばかりが降り積もり、それでいっそう、物語の核となる小骨を覆い隠してしまうのだ。
静信は自分に苦笑して窓を閉めようとし、その彼方、わずかに拓け、明るんだあたりに点った光。この位置に見えるのは国道から分岐する川沿いの道であることを、静信は長年の経験で知っている。明かりは移動していた。おそらくは車だろう。
わずかに眉を寄せて腕時計に目をやった。いつの間にか午前三時になろうとしていた。村の明かりもまばらで当然、鉦の音が寂しくて当然、祭りはすでに佳境を過ぎて、終焉へと向かっている。終焉に村人は参加することができない。村から害虫や疫病を追い出すための儀式だから、人々は送るだけ、その終焉に立ち会ってはならないのだ。立ち会って良いのは、面をつけて「人でない者」になった者だけ。
(こんな時間に……)
明かりは国道のほうから真っ直ぐに村の内懐に入ってきていた。遠目にもそれが三台分の車両のヘッドライトだと分かった。
ことさらのように注視してしまったのは、こんな時間に村に出入りする車を見かけることが、滅多にないせいかもしれなかった。
三台分の車の明かりは
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暗闇の中、弧を描き、漂うようにして地を這っていた。それは招く手、墓穴から甦った死者が鬼火を遣わして彼を呼ぶ。
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ふと浮かんだフレーズを、静信は頭を振って払い落とした。
何気なく窓を閉めるわずかの間に、明かりが停まったのを見たような気がした。
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山村の夜は漆黒に塗りつぶされ、アスファルトの路面にも闇が凝っている。道路際には街灯が立っていたが、明かりは暗く、かろうじて夜露の降りた街灯それ自身の周囲を照らしているにすぎなかった。頼りない光はアスファルトの表面を這い、路側帯を示す白い線を朧に浮かび上がらせている。
闇の中に吸い込まれていくように見えるその白いラインの、先にも暗い光があった。道の先、橋の袂には小さな祠が建っている。そこに納められた石の地蔵の周囲に無数の蝋燭が立って、あるかないかの風に炎を揺らめかせているのだった。その翳った明かりが、半眼に目を開いた石地蔵の無表情と、その脇に立つ異常なものを照らしている。
それは子供の背丈ほどもある卒塔婆だった。
卒塔婆の表面には、白い紙を切って作った人形がびっしりと貼り付けられている。蝋燭の光が紙人形に陰影をつけ、明かりが揺らめいては、まるで人形が|蠢《うごめ》いているかのように影を踊らせた。――遠く鉦の音がする。
卒塔婆は待っている。灯明に照らされ、虫の音、蛙の声に洗われながら、その合間に細く混じる鉦の音を待ちわびて、そこにひっそりと立っていた。
夜の中を、鉦の音が近づいてきた。早くリズミカルな音の合間に、息継ぎのように張りつめた太鼓の音が入る。何かを叩き合わせる乾いた音と大勢の足音。
風が吹いて灯明が揺れる。陰影が踊って地蔵が表情を変える。やがて祠の間近に|松明《たいまつ》の明かりが現れた。
畦からアスファルトの路面へと、黒い影が躍り上がってきた。いくつもの炎が闇に円を描き、打ち合わされ、そのたびに音を立てて赤く火の粉が散る。散った明かりが異形の者たちを照らし出した。
鬼面に丈の短い白装束。墨染めの衣。古風にも手拭いで頬被りした鬼たちは、多くが大きな板卒塔婆を背負っている。鬼が跳ねると子供の背丈ほどもある卒塔婆にびっしりと貼り付けられた紙人形も揺れた。
怖じ気づいたように虫の音が絶えた。鉦の音、太鼓の音、松明を打ち合わせる音に渓流の水音が混じる。虫の音よりも涼やかに、河鹿の鳴く声がする。
鬼たちは松明を振り、あるいは|苞《つと》を振る。卒塔婆の重みに前屈みになりながら大股に足を運び、あるいは小さく跳ね、行きつ戻りつを繰り返しながら鉦太鼓を鳴らして夜道を闊歩する。行列の先頭を行く鬼が担いだのは、子供の背丈ほどもある藁人形、それが短い竿の先に刺さって、高々と|磔《はりつけ》にされていた。
先頭を行く赤鬼が、藁人形を毛槍のように振りながら|祠《ほこら》の前で足を止めた。後に続いて祠の周囲にやってきた鬼たちは二十ていど、それが松明を打ち鳴らし、跳ねるようにして祠の前を通り過ぎる。てんでに地蔵の前の供物を攫って、祠の脇にある石段から谷川のほうへと下りていった。藁人形を掲げた赤鬼も祠の脇から板卒塔婆を抱え上げ、その後に続く。水量が減って広く現れた渓流の河原では、火を焚いて待ちかまえた三人ほどの人影があった。
キリをつけるように鉦と太鼓が打ち鳴らされて沈黙し、そしてくぐもった完成が安堵の息のように流れた。
「ご苦労さんでした」
待ちかまえた老人が、ひときわはっきりと声を上げた。男の一人が鬼面を外し、大きく息をつく。
「やれやれ」