饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.21

作者:日-小野不由美 当前章节:15403 字 更新时间:2026-6-15 17:40

「承知しました」

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 敏夫が石田と会ったその翌日も、異常に蒸した。病院にやってきた患者の誰もが露骨にげんなりとしている。どうやら一雨来そうな気配だった。そんな中、門前の安藤奈緒がやってきた。奈緒が診察室に入ってきた瞬間に、敏夫は一種の予感のようなものを感じた。

 どうしました、と敏夫は訊いたが、奈緒の顔色は明らかに悪かったし、いかにも気怠げな様子だった。同じく怠そうにしていても、暑さと湿気に辟易している患者とは確実に何かが違っていた。奈緒は返答するように僅かに唇を動かしたものの、それさえも億劫そうにやめてしまう。

「どうした? 怠そうだな」

 再び促しながら、敏夫は奈緒の手を取った。力なく、しかもひんやりして感じられる。脈はやや速いが、頻脈というほどではない。間近から顔を覗き込むと、その眼にはどこか憑かれたような印象がある。結膜が異様に青みを帯びているせいだ。

「とにかく怠くて……義母がどうしても病院に行けと言うので」

「そう。熱はないみたいだな。ということは、風邪ってわけでもなさそうだが。いつぐらいからそんなふうなんだい?」

「昨日……いえ、今朝です」

「どっちだい?」

「今朝、起きるとすごく怠かったんです。ゆうべは暑くて寝苦しかったし……。でも、義母は昨日から何度も大丈夫かって訊いてきました」

 敏夫は首を傾けた。妙な言い方だ。

「奈緒さん自身は、昨日の時点じゃ、別に怠いとは思ってなかったのかい?」

「……分かりません。言われてみると怠いような気もしたと思いますけど。……なんだか、頭が重くて。ぼうっとしてるんです」

「そのようだな」敏夫は頷く。「息切れや動悸は?」

 訊きながら脈を取る。少し脈が弱いのか、あまりはっきりと触知できない。

「いえ、はい、……よく分かりません」

「食欲は?」

 ありません、という声は消え入るようだった。眼瞼を持ち上げて粘膜を見ると、色が薄い。爪の色も白く、念のために口を開けさせて口腔粘膜を確認すると、これも健康な赤味を失っていた。似ている――恵と。

「立ち眩みは」

「ええ、少し」

「生理は順調かな。今、生理中?」

 はい、と奈緒は頷いた。

「そりゃ結構。ちょっと貧血が出てるようだな」敏夫は言い、そして言い添える。「念のために詳しく診ておこう。どこか他に辛いところは?」

「いえ……べつに」

 そう、と呟きながら、敏夫は奈緒に隣の診察室に行って着ているものを脱ぐように言う。看護婦の清美に身長と体重、脈拍と血圧、体温を測るよう指示した。

 別の患者を診ている間に、清美が測定を終えていた。血圧はやや低く、脈拍はやや多い。わずかに微熱があるが、とりあえず異常なし。一見して、肌は健康な色味を失っているが、黄疸や特筆するような紫斑は見られない。爪や舌も正常、毛髪にも異常なし。

「ちょっと両膝を立てて。――特にトイレが近いとか、尿が出にくいとかあるかい」

「いえ……」

 頷きながら、肝下縁に触れる。肝臓には異常が感じられない。

「色には異常はない? 茶色がかっているとか、赤味があるとか」

「……ないと思います」

 奈緒の返答は、いかにも億劫そうだった。既往歴や生活歴、家族歴を訊きながら触診を行う。特に脾臓が腫れている様子はない、頸部、脇下のリンパ節が若干、腫脹している。聴診器を当ててみても、心雑音や静脈雑音はない。――やはり単なる貧血に見えた。

「貧血だと思うんだけどね」敏夫は奈緒に服を着るよう言い、「ただ、身体の中で内出血が起こっていて貧血が出ることもあるんで、レントゲンを撮っておきたいんだが、いいかな?」

 奈緒が頷いたので、清美に指示を出す。

「胸部と腹部のXP。あと、尿を採って血液検査。うちのぶんと検査に出すぶん。それと骨髄穿刺」

「骨髄穿刺ですか。胸骨で?」

 清美は瞬く。

「うん。それから、末梢血と穿刺益の塗抹標本を採るから」釈然としない顔つきの清美を目線で抑え、敏夫は奈緒に笑いかける。「ちょっと骨髄液を採らせてもらうよ。少し痛むかもしれないけど、別に怖い検査じゃないから。とりあえず今日のところは検査してビタミン剤だけ出しておくんで、三日後にもう一度来て」

 ただし、と敏夫は強く言い添えた。

「明日の朝になって、今日よりも身体がだるいとか、熱があるとか、具合が悪くなっているようだったら、明日も来るんだ。いいね?」

 奈緒は頷いたが、その顔は淡々としていた。まるで他人事のような顔をしている。不安を感じていないふうなのが、むしろ気にかかった。清美に促されて処置室のほうへ向かう奈緒を見送り、やすよが小声をかけてくる。

「先生――何か難しいことでも?」

 いや、と敏夫は肩を竦めた。

「難しいことなら、国立病院あたりを紹介するさ。ただ、念のためにな」

「でも」

 やすよが言いかけたのを、手を振ってやめさせる。

「単なる風邪でも、単なる腎炎でもここまで警戒はしないさ。奈緒さんは貧血を起こしているように見える。それも『単なる貧血』だ。本当なら神経質になるようなことじゃない。――だが、恵ちゃんもそうだったんだ」

 やすよは心得た顔で頷く。

「後悔はしたくないからな」

「そうですね」

「田中さん、済まないが頼まれてくれないかね」

 田中良和は保険係の石田に拝まれて、瞬いた。石田は突然、七月に入ってからの死亡者が知りたい、と言う。人口動態調査の時期ではないし、今月の人口推計はとっくに終わっている。理由を訊いても言葉を濁すので釈然としないが、とりあえず田中は頷いた。

「死亡者の名簿を出して、死亡届のコピーを取ればいいんだね。内密で?」

「別に怪しげなことじゃない。気になることがあって調べてみたいだけなんで。大騒ぎするようなことじゃないから、こっそりやりたいだけなんだよ」

 田中は頷き、昼休み、出張所の人々が出払った頃を見計らって死亡届の控えの綴りを引っ張り出した。

 乾いた音を立てて、水滴が役所の窓を叩いた。午前中に蓄積した湿気が、ついに飽和量を超えて水滴となって落ちてきた――田中はそういう印象を受けた。大粒の雨が撒き散らされ、すぐに水桶の底を抜いたような驟雨に変わった。久々のまとまった雨になりそうだった。人の気配が絶えた役所の中は急速に翳っていく。

 田中は綴りを抱えて自分の席に戻った。いちばん上に綴り込まれていたのは、清水隆司のものだった。田中はこの男を知らない。四十一歳、死亡診断書を出したのは、溝辺町の総合病院になっている。その前は後藤田ふきという老女のもの。その前は大塚康幸。

 田中は思わず顔を顰めた。大塚製材の息子だ。弔組は別だが、すぐ近所の住人なので田中自身も葬儀に行った。

(そう言えば、今年は葬式が続く……)

 大塚康幸の前にも、清水恵が死んでいる。大塚康幸の下、門前の老人の次に診断書が綴り込まれていたのが、恵のものだった。娘の幼なじみで、ひとつ上、まだ高校一年生だった。清水一家の落胆ぶりも哀れだったが、友人を失った娘の嘆きようも酷かった。

 その前には山入で人が死んだ、と大騒ぎしていた。老人が三人死んで――。

 田中は綴りを捲る手を止めた。石田が調べたいことと言うのは、これだ、と思った。そう、明らかに死人が多すぎる。

 清水恵の前には中外場の青年、そして山入の老人三人。その前にも上外場の誰かが死んでいる。これも八月に入ってからのことだ。

(……こんなに?)

 田中は戸籍や住民票の担当をしているが、実際のところ、手の空いたものが窓口に出て届けを受け取るし、その後の処理もする。外場出張所は小さい。総勢六人の組織だ。担当業務が決まっていても、実情はそんなもの、だから意識していなかった。だが、八月に入ってからの、この数は異常だ。

 田中はどこか血の気の引くような気分で綴りを繰った。上外場の死人の前は、外場の老人、これは七月の三日。溝辺町の国立病院で食道癌のために死亡しており、その前になるともう五月の死者になる。

 異常なことが起こっている。それも八月に入ってからだ。

 田中は資料を取りまとめ、ロッカールームで昼食を摂っていた職員の中から石田を呼んだ。田中の血相に気づいたのか、石田は表情を強張らせて出てくる。

「石田さん、これ」

 石田は礼を言ってコピーの束を受け取った。田中は引きつった表情で石田を見る。

「石田さん、何が起こってるんですか」田中は小声で言った。地響きを立てるような雨音の中、遠雷が鳴った。「八月に入ってから、この村はどうかしてる。石田さんが調べたいことというのは、これですか」

「何人いました」

「十です」

 石田は田中の硬い表情をまじまじと見返した。想像よりも遙かに多い。

「田中さん、あんたの気持ちは分かります。けれども今の段階では、なんとも言えない。とにかく、しかるべく手を打ってますから」

「しかし……」

 石田は怯えた色を浮かべた田中の目を覗き込んだ。

「これはあんたの胸に畳んで置いてください。分かるでしょう? これが外に漏れたら、えらいことになる。そのかわり進展を知らせますから。頼まれついでに、今後、死亡届が出たら、その都度コピーを取ってわたしに廻してもらえませんか」

 田中は息を呑み下すようにして頷いた。

「あれ、降ってきたのかい」

 長谷川は店に入ってきた若い男の姿を見てそう声を上げた。

 結城は窓を振り返る。とはいえ、クレオールの窓はひとつしかなく、そこにはステンドグラスが入っている。窓の外の景色が見える道理もないが、窓の外が暗い。叩きつけるような雨音がBGMの合間に聞こえていた。

「本格的な雨になりそうですよ」と、若い男は笑って、カウンターの脇に抱えてきたケースを置く。「これ、伝票です。他に何かありますか」

 ちょっと待って、と長谷川は厨房に行ってメモ用紙を持ってくる。

「これを頼むよ。数は書いてあるから。今日は、|三上《みかみ》くんは?」

「三上さん、辞めちゃったんですよ。急に引越すことになったとかで」

「へえ? 先週、来たときは何も言ってなかったのになあ」

 若者は頷いた。

「そうなんです。本当に急で。突然辞められてみんな困ってるんですよ、実は」

「だろうねえ」長谷川は言って、ガムの包みを投げた。「こんなものでも。帰り、運転に気をつけて」

 どうも、と若者は白い歯を見せて店を出ていく。ドアを開け閉めする際、さらに強くなった雨音が流れ込んできた。

「えらく降ってますね」

 結城が言うと、長谷川はケースに手をかけながら窓に目をやる。

「蒸しましたからねえ。これで少しは涼しくなるかな。やれやれだ」

「本当にそうなるといいんですけどね」広沢が苦笑した。「これまで雨のたびに肩すかしでしたからねえ」

 広沢はカウンターで教科書とノートを開いている。八月も二十四日になった。新学期の準備をしているのだろう。その隣では、例によって書店の田代が遅い昼食を摂っている。

「本当に」と、長谷川は大仰に溜息をついた。「今年の夏はどうなってるんでしょうねえ。雨は少ない、暑さはきつい。熱中症っていうんですか? 溝辺町でも死人が出たそうで。JAの倉庫で働いてた人が亡くなったって、新聞に書いてありましたよ」

 結城は思わず顔を顰めた。死人、という言葉が妙に身に迫って聞こえた。つい一昨日、弔組で後藤田ふきの葬式に出たばかりだ。思えば、クレオールに最初に来たのも葬式の帰りだった。ふきの息子と葬儀――初めて参加した弔組。あのとき喪主席で身を竦めるようにして坐っていた老婆は半月を経て息子の近くに埋葬された。

 結城は軽く溜息をついた。

「何だか……死人が多いんですね」結城が言うと、長谷川も広沢も、そして田代も結城を見た。「こんなもんなんですか」

 結城が以前住んでいた街では、これだけの短期間に死亡が続くなどということはなかった。わずか半月の間に、後藤田秀司、ふき、清水恵と三軒の葬式に結城は参加している。しかも山入の事件がある。亡くなったのは山入に住む老人で、結城とも結城の所属する弔組とも関係はなかったが、後藤田ふきの実兄が死んだと聞いている。半月に四件、六人の死者は多すぎはしないだろうか。ましてや人口を考えると、これは尋常のことではないように思われた。

「こんなもの、ということはありませんが」広沢は苦笑した。「ただ、続くこと、というのはありますね、基本的に老人が多いですから。気候の変わり目にバタバタと死人が続くというのは、よくあることです」

 おまけに、と長谷川が笑った。

「ここは人口が少なくて、住人の関係が密なぶん、どこかの誰それが死んだって話もあっという間に伝わりますからね。弔組もありますし、隣で葬式が出ているけど誰が死んだんだろうか、なんてことはない。都会じゃ、そういうもんでしたけど」

「ああ、確かに」

「だからまあ、死人が多いような気がするんですけどね。実際、人口に対する割合から言ったら多いんじゃないですか。年寄りばっかりですからね」

 広沢も頷いた。

「不思議に、死に事というのは続きますね。一度、弔組ででかけると、しばらく弔組の用で出てばかりいる、ということがありますから。それがやむと、しばらく何もなくて、いずれまた続く。なにかこう――波のようなものがあって」

 確かに、と長谷川も田代も同意した。

「偏りがあるんだよね」田代は盛んに頷いている。「ある時期に、弔組の用が続いて、こっちは走り回ってるのに、よその組じゃまったくの平穏無事ってことがあるからね」

「へえ?」

 長谷川は笑う。

「現にほら、わたしはこのところ弔組にはご無沙汰です。そもそも、わたしが弔組に参加したのって、まだ一度だけですからね。外場に越してきて以来」

「そうなんですか」

「越してきたばかりのころ、一度あっただけです。越してくる前に女房の親父が死んで、それを含めても二度ですよ。これは別に弔組に参加したわけじゃないですしね。弔組に関しちゃ、結城さんのほうが経験豊富になっちゃいましたね」

 そんなものか、と結城は思う。広沢がやんわりと微笑んだ。

「わたしも、弔組は久々です。秀司くんの件で出かけたのが、五年ぶりになりますね。その前は自分の母親の葬儀でしたから。あのときも続いてね。さすがに半月というのは珍しいですけど、ひと月ほどの間に二軒ぐらい続いたんじゃなかったかな。続くな、と思っていたらその次が自分の母親の番でね。これは引かれたな、と思ったもんです」

「引かれた?」

 広沢は頷く。

「母親の前に死んだのが、母親と仲の良かった人だったので。これは寂しがって母親を呼んだんだな、というふうに思いました。あの世へ引っ張っていった……」

「ああ、それで『引く』ですか」

「迷信なんですけどね。ただ、本当に不祝儀というのは不思議に続くものですから。馬鹿馬鹿しいようで、それなりに説得力を感じますね。理屈ではない、皮膚感覚として」

 長谷川はどこか感じ入ったふうに言う。

「秀司さんが残された母親を憐れんで、引いていったのかねえ」

 広沢は苦笑する。

「そんなはずはない、と頭では分かっているんですけどね。村迫の秀正さんが、可愛い甥を引いていって、引かれた秀司さんが残された母親を引く。――そういうふうに表現すると、なんとなく説明がついたような気分になりますね。釈然とする、というか」

 実際にそうだったので、結城は無言で頷いた。同時に、不可解なものだ、と思う。

 死は普遍的な現象だ。生まれた以上、死なない人間はいない。人の死は当然のことなのに、周辺の人間の死に対して、起こるべきことが起こった、と感じることはほとんどない。むしろ逆だ。起こるべきでないことが起こったという感触を抱く。それが続く。起こるべきでないことがまた起こったという、まるで災厄にでも遭遇したかのような感覚。常には意識することのない何者かが、理不尽な現実を捏造し自分に対して突きつけてきたような、不快感とも恐怖とも不安ともつかない不可解な情動。こんなとが起こりうるのか、という感慨と、また続いたらどうしようという不安、それがじじつになったときの、やはりという原初的な畏怖。そうとはっきり分かるほど明瞭な感情ではないのだけれども、振り返って言葉にすると、そう表現することになるのだろう。

 偶然の仕業だと分かっていても、何かの選択が働いているとしか思えない。自分の外部に歴然として存在する「死」というもの。支配することも関与することもかなわない無情の摂理。それに対する曖昧模糊とした不安は、「引く」という言葉に出会って解消される。――不思議にも。

「人間というのは、妙な生き物ですね」

 結城は呟いた。怪訝そうに首を傾げる広沢らに、結城は微笑む。

「人間にとっての死というものは、と言ってもいいのですが。死というものに対して人間は奇妙な振る舞いをするものだな、という気がして」

 そうですね、と広沢は穏和な笑みを見せた。

 夕刻になっても雨はやまない。それどころか次第に強まり、豪雨の様相を呈してきた。厚い雲と雨の幕で五時前だというのに、すでに暗い。高見は腰を上げて電灯を点けた。

 戸口から外を窺っても、道の向かい側の家並みでさえ霞んでいた。道の表面を水流が洗っていく。さすがに人通りも絶えて、駐在所は雨の中に孤立しているようだった。

 地を揺るがすような雨音が響いている。どこか不安を煽るような音だった。切れかけた蛍光灯が、それに拍車をかけるように短く瞬く。不吉な予兆のように電話が鳴った。

 高見は古色蒼然とした黒い受話器を取る。電話してきたのは、安森徳次郎だった。

「ああ――高見さん。ひどい降りだね」

「まったくです。どうしました」

「いや、さっき川を見てきたんだが、かなり増水してるんだよ。水の色も泥の色でなあ。そうとう土が洗い流されてるらしい。それでなくても連日の日照りで草の根も干上がってるんで、あちこち斜面が脆くなってる。このまま雨が続くと万が一ってこともあるから、消防団に招集をかけようかと思うんだが」

 高見は頷いた。

「それがいいでしょうね。わたしが詰め所を開けときますから」

 消防団の詰め所は駐在所のすぐ隣にある。こういう時のために、高見が合い鍵を預かっていた。

「渓流の土手は滅多なことで切れるようなことはないと思うんだけどね。ただ、下の川や排水路が溢れるってこともあるからな」

「ええ。あとは山際ですな。土砂崩れなんてことがなきゃいいんだが」

「まったくだ。ちょっと区長会から気をつけるように連絡を廻すよう頼んでおこう」

 徳次郎は二、三の申し伝えをして、電話を切った。高見は詰め所の合い鍵を持ち、合羽を着込んで表に出る。傘は持つ気にもなれなかった。こりゃあ酷い、とひとりごちながら、高見は詰め所の錠を外す。明かりを点けておいた。おっつけ、手の空いたものから順に団員が集まってくるだろう。駐在所に戻り、妻に炊き出しの手伝いをするように言わねば、と思いながら、高見は詰め所を出る。戻りかけてふと足を止めた。水は長靴の甲を洗おうかという案配だ。徳次郎の心配は杞憂とは言えない。下手をすれば本当に斜面が崩れる恐れがある。

 高見は西山のほうを仰いだ。雨の幕に覆われて、もちろん山は見えない。

「……まずいかもなあ」

 高見はひとりごちる。兼正の家のことを思った。そもそも高台の家、しかも昨年、建物を普請して土台を|弄《いじ》っている。鬱蒼とした庭木も整理された。つまりは根が掘り上げられ、地面が|均《なら》されたということだ。徳次郎は注意を廻すと言っていたが、あの家に連絡を廻す者がいるだろうか。

 高見は少し迷った。本来なら転居者があれば戸別訪問をしなければならない。家族構成や電話番号を聞いて台帳に控えておかねばならないのだが、高見はそれを今日まで怠っていた。家の佇まいが部外者を拒絶しているふうで気後れがしたせいもある。二度ほど尋ねたのに、インターフォンに応答がなかったせいもある。そもそもこの夏、家に転居者がいるかどうかを確かめたくて忍び込んだ、それが後ろめたかったのもあった。機会を逃してそのままずるずると今日に至っている。だが、高見でさえその有様なら、電話で連絡しようにも電話番号を知る者はいないかもしれない。それでなくても増水や土砂崩れが心配されるときに、兼正のことを思い出す者がいるだろうか。この雨の中、わざわざ知らせに行く者がいるだろうか。

「行かにゃならんな、こりゃ」

 高見は気を奮い立たせて足を西のほうへ向けた。激しい雨足に肩を背中を叩かれながら、浅瀬と化した道を急ぐ。誰かが連絡をしたほうがいい。たとえ二重になっても、悪いということはないだろう。

 高見ができかけた後、詰め所は無人で残された。周囲は墨色に滲んでいる。そこにぽっかりと詰め所の戸口が開いて、黄味を帯びた明かりが漏れていた。

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 その夜、敏夫は石田から、早急に会いたいと切羽詰まった声で連絡を受けた。病院の外は文字通りの土砂降り、診察室に入ってきた古老達は、一様に増水や土砂崩れを心配していた。

 診察を終えて夕飯を掻き込んでいると、溝辺町へと法事に出ていた静信が敏夫を迎えに来た。ワイパーを無用の長物にするほどの雨の中を寺に戻ると、石田はすでに到着して応接用の座敷で静信と敏夫を待っていた。

「十です」

「――十? 待ってくれ。そんなに?」

 敏夫は愕然とし、書類を引ったくるようにして手に取った。

「秀司さん、義五郎さん、秀正さん、三重子さん。それから八月十一日、広沢高俊、急性心不全――誰だ、これは?」

 静信は首を傾げた。少なくとも静信には聞き覚えのない名前だった。葬儀を依頼された覚えもないから檀家ではない。住所は中外場、年齢は二十八歳。石田も知らないのか、首を横に振っていた。

「狭いようで広いな、この村も。八月十五日、清水恵。それから丸安製材の義一さん」

 敏夫はひとり頷く。

「八月十八日、大塚康幸――これは大塚製材の息子じゃないのか?」

「そうです。あそこの長男で」

「そうか、あそこは確か、どこかの新興宗教に入ったんだよな」

 静信は頷く。大塚製材は、もともと檀家だったが、いまでは縁が切れていると記憶していた。

「三十五歳か。消化管出血による失血死、とあるな。これは国立が看取ってる。急性肝不全から来る消化管出血だ。そして二十一日、後藤田ふき、昨日にも死人が出てるな。清水隆司――これは?」

「まさか、清水園芸の?」

 静信が問うと、石田は頷いた。

「そうです。外場の上のほうにある清水園芸、あそこの長男ですよ」

「檀家か?」

 敏夫の問いに、静信は首を振った。

「いや、檀家じゃないのだけど、清水園芸は何度か庭木の手入れに入ってもらったことがあるから。大将が雅司さんといって、もう還暦を過ぎてるんじゃないかな。うちに来るのは大将のほうで、息子さんは確か勤め人だけれども、何度か親父さんの手伝いで来たことがあったと思う。その隆司さんだろう」

「四十一歳か。溝辺町の病院で死んでるな。急性心不全だ。心不全で倒れて病院に運び込まれて――蘇生術で一旦、持ちこたえているが、その後に期外収縮で再び心停止、蘇生術を試みるも蘇生しなかった。昨日の早朝、午前四時に死亡」

 そう、と静信は呟く。知人が自分の知らない間に死んでいたという、言葉では表すことのできない|寂寞《じゃくまく》感。

「その前は七月三日。これはたぶん関係ないな。始まったのは秀司さん――いや、山入の三人からか」

 石田は敏夫に縋るような目を向けた。

「やはり伝染病でしょうか」

 さあな、と言って、敏夫はメモ書きをしていく。

 大川義五郎――(八月一日?)

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七十七歳/山入

死因不明

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 村迫 秀正――(八月一日?)

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七十五歳/山入

死因不明

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 村迫美重子――八月五日

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六十八歳/山入

急性肝不全?

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 後藤田秀司――八月六日

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三十九歳/上外場

急性心不全

死因不明

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 広沢 高俊――八月十一日

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二十八歳/中外場

急性心不全

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 清水 恵 ――八月十五日

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十五歳/下外場

死因不明

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 安森 義一――八月十七日

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七十四歳/門前

肺炎

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 大塚 康幸――八月十八日

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三十五歳/下外場

急性肝不全

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 後藤田ふき――八月二十一日

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六十七歳/上外場

急性腎不全?

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 清水 隆司――八月二十三日

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四十一歳/外場

急性心不全

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 静信はメモを覗き込んだ。

「義一さんを除いては、原因不明かまたは急性不全、ということにならないか?」

「そう言ってもいいだろうな。誰もが突発的な臓器不全にみまわれて急死していると表現できる。唯一、義一さんだけは例外のように見えるが、ただ……」と、敏夫は眉根を寄せてメモに見入った。「臓器不全というのは、要は臓器の機能が著しく損なわれて本来の使命を全うできなくなった、という状態を指す言葉だ。そとつの臓器だけに単発することは滅多にない。得てしてひとつの臓器の機能低下が他の臓器にも影響を与えて、多臓器的に発展する。全身的な症状として表れてくるのがほとんどだ。死亡原因はひとつでも、実際の症状は多臓器的であった可能性が高い。実際、三重子婆さんがそうだった」

 ああ、と静信は頷く。解剖された三重子はあちこちに不具合が発見されている。肝不全ということになっているが、これは肝臓の壊死が顕著だったからだ。

「易感染もそのひとつだ。生体の防衛機能が下がって感染症に罹りやすくなる。義一さんの肺炎は、その一環として見ることもできなくもないから、単純に死因だけでこれは別物だと切り分けるわけにはいかないな。疑問符つきとはいえ、一連の死に含めて勘定したほうがいいだろう」

 静信は頷いた。

「症状として共通するのは――急性の発症、臓器不全、全身の不具合?」

「経過を観察したわけじゃないからなんとも言えないが、これを見る限り、最終的に多臓器不全に至る、という言い方はできると思う。肝臓を壊しているのでも心臓を壊しているのでもない、何らかの原因があって、それが最終的に多臓器不全を引き起こしている、という印象だな」

 石田が首を傾げると、敏夫は息を吐く。

「つまり、こういうことだ。これが感染症かあるいは中毒か、もっと別のものかは分からない。いずれにしても、犯人がいて、十人の人間を殺害した、と考えられる。三重子さんは肝不全で死んでいる。だがこれは、この連続殺人犯が肝臓を攻撃したせいだとは言い切れない。殺人犯はもっと別の部位を攻撃したのかもしれないんだ。

 実際のところ、三重子婆さんの解剖結果を見ると、肝臓はもちろん、肺、心臓、腎臓の重要臓器の全てに不具合が見られる。殺人犯が最初に攻撃したのは肺だったのかもしれない。他の臓器は機能低下を起こした肺に引きずられる形で悪くなって、最終的に、肝臓がまず陥落した、という解釈もできるんだ」

「ああ、なるほど」

「何かが十人の人間を攻撃した。それが引き金となって全身の機能が損なわれ、多臓器的に機能不全を起こしたと考えたほうがいいだろうな。問題は、何が多臓器不全を引き起こしたのか、ということになるわけだが――」

「大変なことですよ、これは」石田は頭を抱える。「とんでもないことだ」

「死亡例が十で、そのどれもが本質的には同一のものである可能性がある。まず、必要なのは共通項を探すことだな」

「共通項?」

「そうだ。死んだ十人には何か共通するものがあるはずだ。同じ場所に足を踏み入れたことがある、どこかで接触している、同じものを口にしている、――何かが」

 静信はメモ書きを見た。年齢はバラバラ、最初の三件だけは山入に集中しているものの、場所もバラバラだし、特にこれという偏りはないように見える。そう言うと、敏夫もこれに頷いた。

「男が七で女が三、これも偏りと言うにはまだ弱いな。年寄りもいるが高校生もいる。地域的にも外場の全域に及んでいると言っていい。最初の三人の行動範囲は、かなりのところ山入に限定されていただろうが、恵ちゃんが山入に足を踏み入れていたとは思えない。ましてや義一さんは寝たきりだ。むしろ、他の九人が門前に足を踏み入れていたと考えた方が順当だが、門前に何か原因になるものがあるのだとしたら、門前での死亡が一例だけというのは解せない。もっと門前の死亡が多くてしかるべきだ」

 石田は唸った。

「これは一軒一軒、当たってみるしかありませんね。わたしが――」

「それはまずい」敏夫は石田を留めた。「石田さんが出ていって根掘り葉掘り訊けば、家族は何事かと思うだろう。もっと穏便にそれとなく調べる方法はないかな」

「とりあえず」と、静信はメモを敏夫から受け取った。「ぼくが訊ける限りのことを聞いてみるよ。どうせほとんどの家には法事で出入りすることになるわけだし。清水園芸と大塚製材も縁がないわけじゃないから、話を聞くぐらいのことはできるだろう。この、広沢高俊という人も、檀家のつてで何とかなるかもしれない」

 敏夫は息を吐いた。

「いかにも怪しげだが、それがいちばん穏当だな。じゃあ、そのへんは静信に任す」

 静信は頷いた。

「とりあえず、最悪の事態を想定して伝染病を疑う。とすると、ふきさんは秀司さんが汚染源だと思って間違いがない。問題は秀司さんだが、秀正さんから、というのがいちばん疑わしい。おそらくは山入の三人の誰かが最初の一人、指針症例なんだ」

 静信は頷き、メモを取る。

「恵ちゃんが倒れたのが八月十一日、死亡したのは十五日だ。十日の様子は分からないが、とりあえず発症が十一日だと考えると死亡までに四日。く」

「ふきさんは、秀司さんの様子が二、三日前からおしかったと言っていた」

「発症日は明らかじゃないが、やはり恵ちゃんと似たり寄ったりだな。村迫の三重子さんは、七月の末――」敏夫は手帳に目を落とす。「七月三十日の土曜、義五郎さんの薬を取りに病院にやってきた。そのときに義五郎さんが夏風邪をひいて、それが秀正さんにも移ったようだ、と言っていた。警察の検屍では義五郎さんと秀正さんの死亡推定日は八月一日前後だ。秀正さんが発症したのが不調が伝えられた三十日の前日、二十九日だと考えると、死亡までに三日」

 清水 恵 ――発症?八月十一日(?)

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死亡?八月十五日

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 後藤田秀司――発症?八月三日(?)

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死亡?八月六日

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 大川義五郎――発症?七月二十八日(?)

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死亡?八月一日(?)

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 村迫 秀正――発症?七月二十九日(?)

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死亡?八月一日(?)

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「いずれも、発症から死亡まで数日以内。仮に幅を取って五日以内とすると、ふきさんの死体が発見されたのが二十一日――死亡はたぶん前日の二十日だから、発症したのは十五日以降だ」

 静信は頷く。

 後藤田ふき――発症?八月十五日(?)

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死亡?八月二十日

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「ふきさんはおそらく、秀司さんから移ったのだと思う。秀司さんの死亡が六日で発症は推定で三日だ。秀司さんが発症してから、ふきさんが発症するまでの間隔は十二日。秀司さんが死亡した時点から起算すると、九日ということになる。幅をとっても一週間から二週間、これが潜伏期間だということになるわけだ。恵ちゃんの発症が十一日、すると恵ちゃんは八月四日から七月二十九日頃に感染している。これはちょうど山入の三人の発症?死亡時期に重なる。直接感染なら恵ちゃんはこの時期に山入の三人に接触したはずなんだが――ないだろうな、普通」

 静信も石田も頷いた。下外場に住む高校生が、山入に住む老人と接触した可能性は、どう考えても低いだろう。

「いかにもなさそうなだけに、どこかで接触したことがはっきりすれば、直接感染することが確実になるとも言えるわけだが。三重子婆さんの死亡が八月四日。三十日に病院に来たとき、自分の不調については何も言ってなかったところからしても、発症はそれ以降、三十一日か八月一日あたりで間違いないだろう」

 村迫美重子――発症?七月三十一日(?)

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死亡?八月五日

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「すると、感染は七月十七日から二十四日頃で、秀正さんから感染したと考えるには時期的にやや無理がある。むしろ、義五郎さん、秀正さんと相前後して感染したと考えるのが妥当だろう」

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