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[#地付き]――創世記 第四章.23

作者:日-小野不由美 当前章节:15435 字 更新时间:2026-6-15 17:40

「ひょっとして、お痩せになったんじゃないですか」

 妙は陽射しに灼かれた庭先を横切りながら振り返る。

「夏痩せってやつでしょうかね。最近、どうも食事がまずくって」

「ふきさんのことで、気落ちしてらっしゃるんじゃないですか」

 妙は胸を衝かれたように瞬き、悄然と息を吐いた。

「……そんなことはないんでけど。なにしろわたしだって、いつお迎えが来てもおかしくない歳ですもんねえ。ふきちゃんも同い年ですしね。学校の同級生だったんですよ」

「そうですか」

「こういうことは決まったことですからね。そう思いはするんですけど。けども、わたし、ふきちゃんが亡くなったその日に会ってたんですよ。具合が悪くて、何度も若先生に来てもらおうかと思ったけど、ふきちゃんが、いいって言うものだから。でも、あのときに若先生を呼ぶなり救急車を呼ぶなりしてたら、あの人ももう少し長生きしたんじゃないかと思うとねえ……」

「そんなふうに考えては」

 妙は首を振った。

「どうしてもね、忘れられないんですよ。どうして電話しなかったんだろう、と思って。やることやって、どうにもならなかったんならともかく、そうじゃないでしょう。いまさら取り返しのつくことじゃないんですけど、気が付くと、あのときこうしてればって、そればっかり考えてるんです」

 寂しげに言って、妙は店のドアを開いた。店内に客の姿はない。静信たちが近づいてくるのが見えていたのだろう、カウンターの中の加奈美が頭を下げた。

「いらっしゃい。――やっぱり若御院の車だったんですねえ」

「あたしの様子を見に来てくだすったのよ」

 妙が言うと、加奈美は微笑んだ。

「ありがとうございます。……お母さんたら、すっかりしょげちゃって」

「おいおい慣れるわよ」

「そうしてね。友達だからって、ふきさんに引かれてっちゃ嫌よ。急がなくても、ふきさんは待っててくれるわよ、きっと」

 はいはい、と笑う妙と加奈美を、静信は微笑ましく見た。

「妙さんのところはいいですね、こうして加奈美さんが一緒におられて」

「そうですかねえ」と言いながら、妙は嬉しそうだった。「戻ってきたのは嬉しいんですけど、出戻ってきたんじゃ心配で」

「そんな憎まれ口を叩けるんじゃ、心配ないわね」

 加奈美は笑って、アイスコーヒーのグラスをカウンターに載せて勧めた。

「……山入の村迫さんや、大川さんは寂しいものです。べつだん子供さんと疎遠だったわけではないんでしょうが」

 妙は同情するように頷いた。

「あそこは全員、村を出ちゃってますからねえ」

「なにしろ突然のことで、何が起こったのか良く分からないでしょう。それで御遺族に生前の御様子を伺ってみようと思ったんですけど、誰もご存じなくて」

「あらまあ」

「ふきさんも大同小異なんでしょうね。たった一人、手許に残っておられた秀司さんが亡くなってますから。もっとも、ふきさんはお友達がおられたので、まだしもですが」

 加奈美は眉を寄せた。

「なんだか、今年は死に事が続きますね。よくお店でも言ってるんですよ、酷い按配だって。とにかく、ふきさんのところがね。お兄さんと息子さん、あげくに本人でしょう。悪い病気でも流行っているのかしら、と思うこともあるんですよ」

 静信は密かに息を詰めた。まじまじと見返した加奈美は、しかし、自分でもその言葉を信じているわけではないらしい。微苦笑を浮かべている。

「夏風邪も馬鹿にできませんもんね。義五郎さんの様子が変だと思ったんですよ」

「――大川の?」

「ええ。あれはいつだったかしら。義五郎さんがね、バスから降りてくるのを見かけたんです。それが具合でも悪いふうで、妙にふらふらしてたんですよ。声をかけたんですけど、気づかないふうで。そしたら、あの知らせでしょう。やっぱりあのとき、どうにかしてたんだなと思って」

「それはいつ頃ですか?」

「七月の終わりじゃなかったかしら」加奈美は記憶を探るように宙を見る。「――そうです、七月の終わり。あの後、義五郎さんと秀正さんの具合が悪いらしいって話を聞いたんですよ。なんでも買い物に下りてきた三重子お婆ちゃんがそう言ってたそうで。あんな山奥で具合が悪くなって、大事になったら怖いな、と思ったらその通りになったでしょう。それで気味が悪くって」

「何日ごろだか覚えてませんか」

 加奈美は首を傾げた。

「何日だったかしら。二人の具合が悪いらしいって話を聞いたんですよね。その時、そういえば、と思ったんですよ。その何日か前に、義五郎さんを見たなあ、と思って……」

「義五郎さんが出ていった翌日よね」妙が口を挟んだ。「朝っぱらからバスに乗ってどこかに出かけていって。その翌日に帰ってきたっていうから、一泊で出かけるなんて、どこに行ったのかしらと思ったんですよ」

「そう言ってたわよね」加奈美は頷いて微笑む。「お母さんは朝が早くて。たまたま義五郎さんがバス停にいるのを見てるんですよ。溝辺町に向かうバス停にいたって。その翌日に戻ってきて、その――何日後だったかしら。具合が悪いらしいって話を聞いたんですよ。店でそういう話をしてて……」

 加奈美は不意に眉を顰めた。

「そうだわ、それを聞いて、秀司さんが見舞いに行くって言い出したんだわ」

 静信は何かが琴線に触れるのを感じた。

「秀司さんが?」

「ええ。ちょうどその日の夜、飲みに来てて。ずいぶん飲んでたんで、やめときなさいって言ったんですけど、大丈夫だって。ここから家に電話して、見舞いに行くから遅くなるって。それがもうずいぶん遅い時間で、こんな時間から見舞いに行ったんじゃ、かえって病人は迷惑なんじゃないかしらと思ったんですけど」

 加奈美は言って、ひとり頷く。

「そう――そうだったわ。それから六日後ですよ、秀司さんが死んだって聞いたのは。秀司さん、それきり店に来なかったんです。あの人が三日以上こないことって珍しかったんで、どうしたのかしらと思っていたら死んだって」

 静信はカウンターの木目を見つめる。秀司が死んだのは八月六日。その六日前なら三十一日の話だ。三十一日に秀司は山入に行った。だが、三十一日――一日早朝と言えば、死亡推定日だ。警察の見解を信じるなら、秀司が山入に行ったとき、義五郎もすでに死亡していた可能性がある。おそらくは秀正も三重子ももう発病していて――。

 静信は違和感を感じた。秀司は結局、秀正と三重子に会わなかったのだろうか。家の中に入れば、伯父がただならぬ容態であることを知ったはずだ。ならば当然、誰かに連絡をしただろう。連絡をしなかった以上、秀司は秀正に会わないまま帰ったのだろうが、――だが、三重子もまた誰にも連絡をしていない。側で夫が死んだというのに、連絡さえすることがないまま本人も死亡した。

(何だろう、この相似形は……)

 静信が考え込んでいると、加奈美は、そうか、と声を上げた。

「思い出したわ。義五郎さんが出かけた前日、その日に元子の子供が事故に遭ったのよ」

 静信は顔を上げた。

「ほら、若御院と病院であったじゃないですか。茂樹くんのお母さん」

「ああ……」

 静信は元子の神経症ぎみに取り乱した姿を思い出した。

「あたしの同級生なんです。夕方の仕込みを手伝ってもらってて。元子の子供が車に引っかけられたのが七月の二十七日のことだったでしょう。その翌日、二十八日に義五郎さんが出かけて、帰ってきたのが二十九日です。具合が悪いって話を聞いて、秀司さんが見舞いに行って、それが亡くなる六日前」

 七月三十一日だ、と静信は頷く。

「その前に義五郎さんを見たのは?」

「その前は――いつだったかしら、戻ってきたのを見たとき、久しぶりだなと思ったぐらいですから、たぶんずいぶん姿を見てなかったんだと思います」

「義五郎さんは、そうやって頻繁に旅行に出たりしてたんでしょうか」

 これには妙が首を振った。

「義五郎さんはないわね。あの人は滅多に村の外に出なかったから。なにしろ、スクーターより他に運転できなかったんですもの。車は秀正さんが持ってましたけど、運転できるのは秀正さんだけだし、だから義五郎さんは外に出るのが億劫だったんじゃないかしら」

「秀正さんは?」

「あの人も腰の重い人だったわねえ。旅行なんてのは、滅多になかったと思いますよ。いつだったか、ふきさんとこで三重子さんに会って、三重子さんがたまには温泉にでも行きたいって言ってましたから。最後に旅行に行ったのは何年前だ、なんてね」

「七月に旅行する気になったとか」

「ないでしょう。田圃や畑があるもの。あの人たちは年金で生活してるようなもんだから、田圃や畑に生ってるのが自分たちの食い扶持ですからね。農閑期ならともかく、この時期に旅行はしないんじゃないかしら。おまけに今年はほら、雨がないから。ポンプで水上げて、撒水しないといけないって、どこの人も畑を離れられないみたいですもんねえ」

 そうか、と静信は思った。今年の猛暑と渇水。一昨日にはまとまった雨があったが、川の水位にはほとんど影響がなかった。村ではさほど深刻ではないが、下流では水が不足して、外場でも取水を絞り込んでいる。村の農家は沢や井戸から水を上げて畑まで運んでいる。確かにそれで、旅行になど行けるはずがない。

 では、と静信は思った。三人はやはり山入で感染したのだ。あるいは――?

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 敏夫の不安は的中した。翌日、午前の診察時間の最中に安森幹康から電話があった。奈緒が息をしてない、と泣きながら言う。すぐに来てくれと言われ、工務店に駆けつけたときには、奈緒は死亡していた。すでに瞳孔は散大しており、口の中には泡状の喀血が見られた。心不全から来た肺水腫が原因の窒息死。八月十七日、午前十一時二十分のことだった。

 静信がその訃報を受け取ったのは、田茂定市からだった。昼下がり、寺務所には静信だけが残って原稿に向かい、上滑りする思考を弄んでいた。

「工務店の奈緒さんが亡くなったんですわ」

 受話器から流れてくる定市の声に、静信はやはり、という言葉を呑み込んだ。その沈黙を誤解したのか、定市は続ける。

「幹康くんの奥さんですよ。二十六か、そのくらいじゃなかったですかね。なんとも急なことで。肺を悪くしたらしいんだけどね、そういうわけで、わたしが助番を務めさせてもらいますんで」

「ああ、……はい」

 工務店の安森徳次郎は門前の弔組世話役だった。その世話役の家で不幸があった場合には、助番が世話役を代行する。特に助番という役職があるわけではないが、各集落にはそれなりに序列というものがあり、助番となるべき人物は暗黙の了解として決まっていた。

「まだ暑さもきついんで、ちっとせっついて申し訳ないんですが、今夜のうちに通夜をやってしまおうと思いましてね。徳次郎さんとこは、親類縁者、この近辺だから、特に遠方から駆けつけにゃならん人もいないんで」

「ええ」

「そういうわけなんで、枕経だけ、早い目にお願いできますかね」

「分かりました。伺います」

 同じ門前の集落にある安森工業は、寺からいくらも離れていない場所にあった。安森工業の社長である安森徳次郎は、そもそもは丸安製材の次男坊だった。徳次郎が独立して安森工務店を興し、建設業から始まって不動産業、土木業まで手を広げてかなりの規模になっていた。現在では、工務店を次男の幹康に譲り、不動産業のほうは市街地に住む徳次郎の弟が、土木業は同じく市街地の外れに事務所を構えて徳次郎の娘婿が采配している。

 しょせんは田舎のこと、立志伝中の人物になり得るほど破格に急成長したわけではないが、徳次郎自身は七十を目前にして、なお血気盛んな精力的な人物だった。にもかかわらず、静信が訪ねたとき、その徳次郎は打ちのめされた様子で嫁の枕許に坐っていた。

「徳次郎さん、このたびは……」

 静信が声をかけると、言葉もなく頭を下げる。まるで実の娘を失ったかのような悲嘆ぶりだった。喪主の席に座った幹康は幼い子供を抱いて深く俯いている。忍びやかな慟哭が聞こえた。その方を、目を真っ赤に泣きはらした節子が、辛抱強く撫でている。

 奈緒は嫁であって徳次郎の娘ではない。節子は後妻で、幹康と節子の間には血のつながりがなかった。にもかかわらず、徳次郎一家は誰が見ても羨むほど仲が良かった。幹康と奈緒と、まるでどちらも血を分けた子供のようだ、と言われていたことを静信は知っている。

「節子さん、幹康くんも」静信は言いかけ、きょとんとしたふうの子供と視線が合って先の言葉を失った。奈緒の産んだ長男は進。たしかまだ三歳にしかならないはずだ。

「――本当にご愁傷様です」

 母親の死の意味を理解することができず、自分の周囲で何が起こっているのだろう、と小首を傾げている進の、無邪気な様子を見れば、通り一遍の言葉しか出てこない。この幼い子供は母親を喪失してしまったのだ。

 徳次郎も、そして幹康も節子も、嗚咽に塞がれて声が出ないようだった。揃って無言で頭だけを深々と下げた。

 静信もまた、それ以上は言葉が出てこなかった。静信は嗚咽を漏らしている幹康に目をやる。しっかりと子供を抱き寄せた腕は、子供を庇護しているようでもあり、子供に縋って懸命に自分を支えようとしているようでもあった。同じような腕を見たことがある。清水の家でもそうだった。それが痛ましく、同時にどこか危うげに見えた。この人々は、自分たちの家の中に危険なものが入り込んだことに気づいてない。

 ――泣く子のところには鬼が来るぞ。

 村に流布する「起き上がり」――鬼の伝承は間違いなく疫病の暗喩だ。鬼は安森家に入り込んだ。鬼の触れたものは死に感染し、死はそこから広がっていく。

 気をつけて、と言いたい気がした。気持ちは分かる、死者を悼む心は。だが、死体に取り縋ってはならない。早く、棺の中に納めて蓋をしてしまわなければ。何もかも告白して、充分に気をつけろ、と言いたい気が。

 だが、と理性が囁く。もしもこれが疫病なら、それを告げても遅いのだ。奈緒は死んだ。この死が連続するものなら、たぶんもう、鬼は次の|贄《いけにえ》を捕まえている。

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 安森家で通夜を終えたその夜、静信は敏夫を訪ねた。敏夫はその時、ちょうど私室で奈緒の検査結果を見ていた。

「よう」

 例によって裏庭から現れた静信に、敏夫は中を示す。

「奈緒さんは――やっぱり?」

 静信の問いに、敏夫は頷いた。

「おそらくな。奈緒さんが病院に来たのが二十四日、死亡が今朝で二十七日。二十三日から具合が悪かったようだし、死亡までは四日だ。ほとんど自覚症状はないふうだったが、疲れやすい、頭が重い、ぼうっとしていると言っていた。とりあえず問診した限りでは、貧血だと思われたし、検査の結果でも貧血と出ている。貧血以外に格別の不具合はない」

「それは恵ちゃんと」

「そう、同様にな」敏夫は頷く。「本当にぼうっとしているふうで、何を訊いても打てば響くように答えが返ってくるとはいかなかった。口を利くのも億劫、あるいは注意力が散漫になっていて思考を纏められない、という印象を受けた。これも恵ちゃんと似ている」

「そう……」

「二十四日の血液検査の結果では貧血以外の異常はなかった。正球性色素性貧血で、全般的に血球が減少していて、網赤血球が見られる。腎機能、肝機能の結果は正常値の範囲内、内出血を探したが、これも見つけられなかった。ところが」

 敏夫はカルテに貼った検査結果表を示す。

「次に来院した二十六日の結果だ。今日戻ってきた。これを見ると、どこもかしこも悪い。腎機能も肝機能も正常値の範囲を大きく外れている。貧血は若干、改善されているが、反対にそれ以外の部分のどこもかしこも悪い、という風情だ。そして今朝には死亡。死体を見ると、軽微な黄疸、水腫、腹水、失血傾向など、腎不全や肝不全の兆候が見られる。窒息した様子を呈しており、実際、気道内容物を吸飲してみると、泡状の喀血が気道を塞いでいた。心不全から来た肺水腫による呼吸不全だ。だが、こちらも事前に心電図は取ってある。少なくとも最初に来院した時点では、心不全に至るような兆候はまったく見られなかった。貧血以外のいかなる不調もなかったんだ、ほんの三日前までは。そこから彼女は、転がるように全身を蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」の偏と同型。Unicodeに該当なし]まれていった。死因は心不全から来る窒息死だが、これはたまたま心臓がトリガーになったというだけだろう。経過を見ると、腎臓や肝臓、どこがトリガーになってもおかしくなかった。心不全というよりやはりMOF――多臓器不全だ」

「……伝染病の可能性は?」

「ない。少なくとも、検査に出した限りでは陰性だ」

「例のやつか……」

「おそらくな。最初の不具合の状態は、夏バテや夏風邪だと思われても仕方のない状態だ。そこから急激に増悪して死に至るが、経過は不透明。死に至るまでの期間といい、最初に貧血が観察されたことといい、恵ちゃんの例と非常に似ている」

「最初は貧血で始まる?」

「その可能性は高いと思う。石田さんに言って、貧血が多いので注意するよう、チラシを書き換えてもらったほうがいいかもしれない。貧血の自覚?他覚症状を列記して、それが見られたらすぐに病院に来るよう」

 静信は頷いた。

「かろうじて本人から聞いた話と、あとで幹康から聞いた話を総合すると、実家の家族にはこれという持病がないようだ。奈緒さんの実の父母は失踪していて、奈緒さんを立てたのは伯父夫婦だが、とりあえず幹康が聞いている限りでは、遺伝的に問題があったとは思えない。特に問題になりそうな生活習慣も思考もない。酒は付き合う程度、煙草は吸わない。生活範囲はほぼ村の中に限られており、山入に行くこともなければ、山の中に入ることもない。溝辺町に買い物に出るのが精々というところだ」

 静信はノートの、「安森奈緒」のページに敏夫の言をメモしていった。医者が当人とその家族に訊いたものだから、さすがに遺漏がない。

「工務店には井戸がない。まるきり上水道に頼っているが、事務所のクーラーだけは地下水を使っている。これは丸安製材も同様だ」

 静信はメモを取りながら頷いた。山入には上水道が通っていない。義五郎も、

村迫夫妻も井戸水を使っていた。後藤田家は、飲料水は上水道だが、風呂や洗濯には井戸も使っている。恵の住む下外場は、ほとんどの家が上水道のみに頼っているが、農作業には地下水を使うし、恵は死の直前、西山に登るのを目撃されている。そうやって頻繁に山に入る習慣があったとしたら、山の中で沢の水を飲んだこともあったかもしれない。これらを考え合わせると、あるいは水が原因かとも思われたのだが。

「……水のせいじゃない?」

「工務店と丸安のことを考えると、可能性は低いだろうな。何らかの形で水が汚染されていて、中毒を起こした、あるいは感染したという可能性は、ほぼ消えたと言えると思う。そもそもの始まりが水である可能性は依然として残っているが、水が直接の汚染源じゃない」

「たとえば、山入の水が汚染されていて、そこから山入の三人が感染、あとは直接伝播」

 敏夫は頷く。

「水に原因があるとすれば、そういうことになるだろうが、ネックになるのは恵ちゃんと義一さんだ。当たり前に考えると、恵ちゃんが山入の三人や秀司さんと接触があったとは思えない。ただ、これは確実なこととは言えないわけだが」

 静信は頷いた。恵は住まいこそ下外場だが、失踪した日の例でも分かるように、行動半径は上集落にまで及んでいる。どこかで山入の三人や秀司とたまたま出会わなかったとも限らない。

「さらに問題になるのは義一さんだ。奈緒さんがもしも例のあれなら、汚染源は義一さんとしか思えない。感染したのは八月半ばで、これはちょうど義一さんが死亡した時期に重なる。幹康によれば、奈緒さんはしょっちゅう丸安製材に出入りしていた。義一さんを見舞うために病床を訪ねたことも再三あるし、盆には一族が丸安に集まっている。まさに八月半ばだ。義一さんから移ったとしても全然不思議じゃない。ところが、義一さんがどこからこれを拾ったのかが分からない。義一さんの行動半径はゼロに等しい。まったくの寝たきりだったんだからな。考えられるのは、山入の三人、秀司さんのほうから義一さんに会いに来た可能性だが――」

「それはないようだ」と静信は首を振ってメモに目を落とした。「丸安の厚子さんに訊いてみたけど、秀司さんは義一さんとまったく付き合いがなかった。丸安にも足を踏み入れることはなかったようだ。山入の三人は、丸安と付き合いがなかったわけじゃない。義一さんとも面識があったが、特に親しかったわけでもない。わざわざ義一さんを訪ねてきたことはないそうだよ。丸安に用があって、ついでに義一さんを見舞っていく、ということはあったかもしれないが、義一さんは患って長い。以前には、丸安に来たついでに義一さんを見舞っていく客もあったが、最近ではそれも絶えていた、というのが実情らしい」

「だろうな。あの人が寝付いて、もう六年かそこらになるだろう。おれが戻ってきたときには、もう寝たきりだったからな」

 静信は頷く。

「だから、義一さんにあったのも、ほとんどが身内だけだ。特に工務店の人たち。あとは、田茂の本家の人々。特に定市さんは、義一さんと親しいから。後は仲のいい内輪の人人、ということになる」

「接点がないな……。やはり直接伝播はありえないか」敏夫はうんざりしたように溜息をついた。「――他の連中は?」

 促されたので、静信はノートを開いて挟んであったメモを差し出す。

「山入の三人、後藤田家については、家族が離散していて詳しいことが分からないんだ。……ただ」

 静信は「ちぐさ」で聞いた話を繰り返した。秀司が倒れる前日、山入に向かっていること、義五郎が外場を出て、戻ってきたときには様子がおかしかったこと。

「秀司さんが山入に行ったのが二日か……」敏夫は渋面を作った。「それは確かに気になるな。二日なら、秀正さんは死んでいたはずだ。秀司さんが死体を見てなかったはずはないし、見たなら連絡しなかったはずがない。それをしてないってことは、訪ねたが会えなかった、ということなんだろうが」

「そうだな」

「しかし三重子婆さんがいたんだよな。本人も具合が悪くて、横では亭主が死んでる。肝不全から来る意識障害があったとして、それでも人が訪ねてきたのを無視するかな。単に眠っていて、秀司さんが訪ねてきたのに気づかなかったのかもしれないが……」

「それと義五郎さんだ。――なあ、義五郎さんが、外場の外から何かを持ち込んだってことは考えられないだろうか。そしてそれを、秀司さんは山入で拾った」

「どうだろう」敏夫は首を捻った。「もちろん、ものよっては潜伏期間が数日内、ということもある。インフルエンザなら平均して二日だし、コレラなら一両日中に発症することもあるわけだが。だが、そう考えると、ふきさんがどこで感染したのか分からなくなる」

「そうか。ふきさんは、秀司さんから移ったのか……」

「確実に、とは言えないが。日本脳炎のような例もあるからな」

 静信が首を傾げると、

「日本脳炎は、蚊が媒介する。人から人へは伝染しないんだ。ひょっとしたら、そういう可能性もあるかもしれない」

 実際、と敏夫はカルテを指先で叩く。

「最終的に、多臓器的に不具合が現れていることから考えると、病原体は血液の流れに乗って全身を蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」の偏と同型。Unicodeに該当なし]んでいるように見える。消化器系、呼吸器系を侵入門戸に、そこから血液中に病原体が侵入することがないわけじゃないが、だとしたら、最初に消化器系や呼吸器系で異物に対する防衛反応が現れそうなもんだ。だが、嘔吐や下痢、咳なんかの症状は見られない。これを考えると、単刀直入に血液を汚染しているとも解釈できる」

「傷口などから?」

「そう。実際、恵ちゃんの身体には山で転んだときについたんだろう、小さな擦り傷なんかがいくらでもあった。奈緒さんには特に怪我はなかったが、虫刺されの痕がいくつもあった。日本脳炎のように動物が媒介している可能性はあると思う。人から人へは移らず、カやノミ、ダニの類が媒介する。そうすれば、山入組と恵ちゃん、義一さんの間に何の接触もなかったことの説明にもなるんだが」

 言って、敏夫は静信を指す。

「その可能性も否定できない。お前も気をつけろよ」

「なぜ?」

 なぜって、と敏夫は呆れたように目を見開いた。

「山入、だろう。恵ちゃんが発見されたのは丸安の裏手の山の中だ。奈緒さんの家は少し離れているが、丸安製材に頻繁に出入りしてる。丸安製材はお前んちの麓だ」

「そう……だけど」

「北山周辺だよ。媒介動物が山入から北山を抜けて広がっている可能性がある。山入は北山の裏側だし、恵ちゃんが見つかったのは、ちょうど北山と西山がぶつかる辺りだ」

 静信は頷いた。たしかあの辺りの谷川に沿って山入に向かう抜け道があったはずだ。静信が小さい頃には、山入から直接、丸安製材に材木を下げて降ろすためのワイヤーが杣道の脇に設置されていた。林業が廃れて、もはや利用する者もいないだろうし、すでに道は下草に埋もれているだろうが、谷川に沿ったあの道を使って動物が移動することは充分、可能だ。――たとえば野犬などの。

 静信は山入の惨状を思い出した。

「野犬?」

「考えられるな。死人には生前の咬み傷がなかったから、野犬そのものから移ったということはないだろうが、野犬についたノミやダニのせい、ということはあり得る。ちょっと前に、大川酒店の息子が野犬に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれてやってきたことがあるんだ。その前にも猪田の元三朗さんだったか、やっぱり野犬に襲われてる。周辺の山で野犬が増えてるのは事実だ。山に入る連中は、それで戦々恐々としているらしい。診察に来た連中の噂話を総合すると、山入から増えてだんだん南下してきている、という感じだな。つい最近も神社の上で三頭ほどの野犬を見た、という患者がいたし」

「野犬狩りの必要はないだろうか」

 敏夫は考え込んだ。

「野犬が保菌生物である可能性はあるな。調べてみる必要があるが……」言って、敏夫は大きく息を吐き出した。「しかし、いったい何を調べりゃいいんだ? 野犬を捕まえて病原体を保育してないか調べるったって、肝心の病原体が何か分からないんじゃあな」

「そうだな」

「まあ、野犬狩りはしておくに越したことはないんだろうが、なんて理由をつけるかが問題だ。下手をすると、藪をつつくことになりかねないが、野犬が原因とは限らない。かなりリスキーだな」

 静信は頷いた。大川篤や猪田元三朗の事例を理由として引っ張り出すには、時機を逸した感が否めない。理由づけとしては取って付けたように見えるだろう。

「それこそ、次に誰かが襲われるかどうかして、チャンスがあれば、というところじゃないか」

「しかし……」

「疫病の存在がバレるってだけじゃない。お前は簡単に野犬狩りと言うが、それを実際にやる連中の安全をどうやって確保するんだ。野犬を捕まえにいく連中は、牙に対する用心はしても、ノミやダニには用心しないだろう。それをさせるには、最初から疫病の存在を言い含めておかないといけない」

「毒餌は?」

「それもリスキーなことには代わりがない。もしも媒介しているのがノミだとする。だが、ノミってのは犬が死ぬと、死体を離れてしまうんだぞ。同時に大がかりな駆除をしながらやるんでなきゃ、かえってノミをばらまくことになりかねない」

 そうか、と静信は唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]む。

「まあ……保菌生物は野犬なのかもしれないが、野犬だけではない可能性もあるからな。ネズミやウサギ、あるいは野鳥。それについているノミやダニ」

 だとしたら、と敏夫の声は暗い。

「これは手こずる」

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三章

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 八月二十九日早朝、呪われた八月もあと三日で終わろうという頃になって、静信の元に訃報が届いた。外場に住む太田健二が亡くなったという。太田は五十三歳、高校教師だった。それが学校で倒れ、そのまま共済病院で息を引き取ったという。

「なんでも、このところ調子が良くなかったらしくて」と、外場の世話役である村迫|宗秀《むねひで》は電話で言う。「本人も身体が辛いんで退職するって言ってたらしいんだわ。でも、学年途中だろう。それで慰留されてる間に、ぽっくり逝っちゃったらしいんだ。肝臓がいけなかったらしいねえ」

 そうですか、と答えつつ、静信は思いをめぐらせる。これは果たして例のものだろうか。とりあえず宗秀と葬儀の打ち合わせをし、静信は敏夫に連絡を入れた。

「石田さんから診断書の写しが届くと思うけど、外場の太田健二さんが亡くなった」

 そうか、と敏夫の返答は短い。一昨日になくなった奈緒に続いて十二人目の死者になる。静信は受話器を置いて、離れに父親を訪ねた。

 事務所を出て行く静信を見送り、池辺は黒板を見上げる。

「ねえ、鶴見さん」池辺の声に、机に向かって帳面を開いていた鶴見が顔を上げた。「この太田さんというのは、どういう人なんですか?」

「どういうって? 確か、高校の先生だったと思うかな。教頭かなんかだと聞いた気がするが」

「ということは、まだ定年前ですよね」

「そりゃそうだろう」

 老人ではないのだ、と池辺は思った。いつ何が起こってもおかしくないような老人ではない。つい昨日、安森奈緒の葬儀が終わったばかり、池辺は今月に入って、いったい何軒の葬式に立ち会ったのか、自分でも思い出すことができなかった。

「なんだか変じゃないですか」

 うん、と鶴見は生返事をする。

「こんなに人が死ぬものなんでしょうか」

 鶴見は屈強な肩を、わずかに揺らした。そういうこともあるんだ、と低く言ったが、声には不審なものが滲んでいる。それきり沈黙するので、池辺もまた話の接ぎ穂を見失って黙り込んだ。寺務所の中に妙な沈黙が立ち込めたところに、朝仕事を終えた光男が麦茶のポットを提げて入ってきた。

「――? なんだい、取り込み中かい?」

 いえ、と池辺は答える。

「ついさっき連絡があって、外場でまたお弔いだそうです。太田さん」

 光男は瞬いた。

「太田――剛造さんかい?」

「いえ、健司さんというらしいですよ」

「じゃあ、息子さんのほうだな。……なんてこった」

 光男は頭を振ってポットを据える。

「今年は多いですね」

 池辺が言うと、光男は大きく息を吐いた。

「まったくだ。つい昨日、安森の嫁さんの葬式が終わったばかりだっていうのに、今日はまた通夜で明日は葬式か。そうこうしているうちに、四十九日で彼岸か。この暑さだ、考えただけで目眩がするねえ」

「いつまで続くんでしょうか」

「さてなあ。来月も半ばになりゃあ涼しくなって、ちょっとは楽になるんだろうがね」

「いえ、そういう意味じゃ……」

 言いかけた池辺の脇から、鶴見が低い声を上げた。

「死人がいつまで続くんだと言いたいんだ、池辺くんは。――だろう?」

 光男が二人を振り返ると、池辺は鶴見を不安げに見てから頷いた。

「八月に入ってから、何か変じゃないかい、光男さん。たしかに池辺くんの言う通りだよ。こんなことがいつまで続くんだろうな」

 ああ、と光男は気まずい思いで口を濁した。

「八月の初っ端に後藤田の息子が死んで、それから山入のあの事件だよ。老人とはいえ、三人もいっぺんに。それから清水さんちの嬢ちゃんに丸安の義一さん、後藤田の婆さんに工務店の嫁さん。このうえまだ――」

「確かに多いとは思うけどね。なにしろ八月に入ってから葬式が七軒だ。死人が九人。尋常のことじゃない気もするね」

「気もする? 光男さん、こりゃあ、尋常のことじゃないよ。そうだろう。たったひと月に九人だよ。そりゃあ今年は暑かったさ。だが、暑かった夏、寒かった冬、これまでにだってなかったわけじゃない。けれどもひと月に九人なんてこと、これまでにあった覚えがあるかい」

 それは、と光男は言葉に詰まった。実を言えば、光男自身、どこかおかしいという気がしている。死者というのは不思議に続くことがあるが、こうまで続くということは記憶になかった。

「確かに、これだけ続くなんてことは、今までなかったことだけどね」

「だろう? だが、この間から考えててね、これによく似たことがあったのを思い出したよ」

 え、と光男は鶴見を振り返る。

「光男さんも覚えてるんじゃないのかい。おれもあんたも親父が役僧で、餓鬼の頃から寺に出入りしてるんだからさ。立て続けに葬式があって、寺が天手古舞いしてたことが大昔にあったよ」

 光男は軽く息を詰まらせた。そう、確かに言った。光男がまだ小学校を卒業するかしないかの時分だ。父親が始終お|斎《とき》の折り詰めを持ち帰って、最初は嬉しかったのが、次第に辟易した覚えがある。

「だが、あのときだってこんなに多くはなかった。――いや、思い出すと、ちょうどこのくらい続いたような気がするから、実際にはもっとずっと少なかったんだろう」

「ああ……そうだね。そうだった」

 これを聞いていた池辺は、ほっとしたように口許をほころばせた。

「なんだ。珍しいこととはいえ、こういうこともあるんですね」

 安堵したように言う池辺に、鶴見は陰鬱な表情で頷いた。

「そう、……アジア風邪のときだよ」

 池辺が途端に顔を強張らせる。

「アジア風邪って……インフルエンザの大流行のことですか?」

「ああ。あんときは酷かったんだ。ばたばた人が倒れてさ。そりゃあ、死んだ人間こそ数えるほどだが、あのときの寺が、ちょうどこんな按配だった気がするんだよ、おれは」

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