光男は頷いた。じゃあ、と池辺は血相を変えた。
「まさか、今度も――伝染病」
鶴見はこれには返答せず、腕を組んで光男を見た。
「このところ、若御院が尾崎の若先生と何やら顔を突き合わせているだろう。小説のほうの仕事もそっちのけで出歩いて、あちこち調べまわっている様子だ。……そういうことじゃないのかい」
「じゃあ、お父さん、お願いします」
病床の父親に一礼して、静信は信明の部屋を出る。朝食を退げにきた母親が、扉を閉めるなり息を吐いた。
「どうしたことかしらねえ。今年はお葬式ばかりで頭が痛いわ」
ええ、と静信は曖昧に言葉を濁す。
「当たり年ってやつなのかしら。あなたも注意してね。あまり無理をしないのよ」
「分かってます」
静信は言って、母屋の台所へと向かう美和子と別れた。廊下を事務所に戻ろうとすると、途中で光男が不安げな表情をして待っていた。
「ああ――光男さん、実は」
聞きました、と光男の表情は硬い。
「太田さんの息子さんでしょう」
「ええ。太田さんはうちの墓地に埋葬ですから、よろしくお願いします。お葬式も寺でということなので」
光男は頷いて、静信の腕を軽く掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]む。
「若御院、どうなっているんですか」
「どう――?」
「鶴見さんが、こんなことはアジア風邪以来のことだって」
静信は返答に詰まった。光男たちがいつまでも異常に気づかないはずがない。当然、いつかは妙だと言い出すだろうとは思っていたが、こんなにも早く核心を突かれるとは思っていなかった。
「そう……アジア風邪……」
「何か悪い病気なんですか。最近、尾崎の若先生と頻繁に話をしているのは」
静信は光男を遮る。
「光男さん、その件はしばらく伏せておいてもらえませんか」
「でも」
「実を言うと、敏夫にも良く分からないんです。伝染しているように見えますが、敏夫に言わせると伝染病とは症状が合わないんだそうです。もちろん、だからといって伝染病でないとは言い切れませんが、それについてはいま調べていますから」
「じゃあ――やっぱり」
「伝染病なのかどうか調べよう、ということで、まだ何ひとつ確定ではないんです。とにかく役所の石田さんと、石田さんを通じて保健所や兼正とも相談をして対処を考えていますから、しばらくその件は檀家さんには」
「それは……若御院がそうおっしゃるのなら、黙っていますが」
「お願いします。もしも本当に伝染病で、いたずらにみんなが騒ぐと、かえって病気を広めてしまいます。わたしのほうからいいと言うまでは、決して広まらないように」
光男は不承不承というように頷き、そして吹っ切ったように顔を上げた。
「承知しました。鶴見さんにも池辺くんにもそのように言っておきます。その点は安心なすってください」
静信は頭を下げた。光男の信任がありがたかった。立ち去っていく光男を見送りながら、しかし、と静信はどこか後ろめたい気分を感じていた。
光男も鶴見らも、死者の実数を知るわけではない。檀家でない死者の訃報は耳に入らないのだから。光男らにとっては、太田は九人目の死者だ。しかしながら、その実数は十二。しかもそのうちのほとんど全てが、突発的な急死を遂げている。数日前には健康そうに見えたものが突然、死亡する。それが十二件、続いている。それを知っても光男はああして笑ってくれただろうか。
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いずれにしても彼は弟を屠った罪よって放逐され、荒野を|彷徨《さまよ》うことになった。二度と戻れない光輝、荒れ果てた土地を彷徨ってなお、罪は荒野に彼を追ってきた。罪は屍鬼となって弟の姿で彼を追い、永劫の間、彼を苦しめようとした。
いや、弟の意図が那辺にあったのか、彼は知らない。彼は幾重にも苦しんだ。なぜなら、彼は弟を彼なりに愛しており、一時の衝動を憎んでいたからだ。弟は秩序に寵愛された。慈愛深く、哀れみを知り、余人に対して光輝の具現であるかのようだった弟。人々は弟を愛し、慕った。彼もまた、そうならざるを得なかった。人々はその慈愛深い魂を殺傷せしめた彼を憎んだが、彼もまた同様にして己を憎んだ。
弟の彼を憐れむ目は、彼の増悪と悔恨を際限なく膨らませた。彼は弟の喪失を悲しみ、その死を嘆き、殺した者を憎み、己の罪を憎む故に、己を憎まずにはおれなかった。悲しみと増悪は、凍てついた風よりもなお鋭く、無限に彼を切り裂いた。
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静信は息をついて、読んでいた原稿用紙を放り出した。少しも気持ちがついてこない。筆は上滑りを繰り返し、意識はメモに舞い戻ろうとして空転する。
諦めて原稿用紙を束ね、抽斗の中にしまった。裏返しにして端を揃え、文鎮を載せ、かわりに別の抽斗からノートを引っ張り出す。後藤田秀司、大川義五郎、村迫秀正、……十人。そして新たに加わった安森奈緒と太田健司。こうしている間にも、それは外場のどこかで進行している。じりじりと断崖に向かって動いているのだが、静信たちにはその動きが察知できない。
(こんなことをしていていいのだろうか)
静信には事態を調査する資格がない。事態について言及することもできなかったから、人に話を聞こうにもできることには限りがあった。やはり一刻も早く、しかるべき筋に事態を預けたほうがいいのではないか、という気がする。敏夫とて医師ではあっても疫学の専門家ではない。門外漢の医師とまったくの素人が右往左往するより、専門家の手にゆだねた方が迅速に確実に対処できることは明らかなように思える。
だが、とその一方で思う。
専門家が事態を|詳《つばひ》らかにして調査にあたれば話は早いだろうが、事態が悪化する可能性は、確かに高かった。疫病だと知れば村人は不安になる。時分は、時分の家族は大丈夫なのか。不安になった村人は、間違いなく尾崎医院に向かう。敏夫に安心を与えてもらおうとして。そうやって人の動きが錯綜すればするほど、事態は拡大する。無用の不安を与えるだけでなく、無用の危険すら呼び込むことになりかねない。
(いや……)
そもそも、まだ疫病と決まったわけですらないのだ。何が起こっているのか、確実に把握できているわけではない。疫病だという感触、まさかという思い、もしもという予想と不安、そしてそれらが何ひとつ確定ではないことに対する苛立ち。
ノートを見つめてじっと考え込んでいると、電話が鳴った。静信は椅子ごと背後を振り返り、事務机の上の電話を引き寄せた。電話の相手は書店の田代だった。
「ああ、マサさん」
お久しぶりです、と言おうとした静信の言葉を、田代は遮った。
「静信、聞いたか? 駐在の高見さんが亡くなったんだって」
え、と静信は目を見開いた。
「――高見さん? まさか」
「それが、本当なんだよ。夕方に救急車が来てさ。なんだろうと思って店の前に出たら、駐在所から高見さんを運び出すところだったんだ」
高見の妻、秀子も救急車に乗り込んでいた。高見のところには子供が二人いるが、子供たちに訊くと、高見が突然、倒れたという。昨日から風邪をひいて寝込んでいたのが、手洗いに行って昏倒したらしい。ともかくも子供だけを放置しておくこともできず、田代留美が駐在所に残って面倒を見ていたが、つい先ほど高見秀子が戻ってきた。様子を訪ねると高見は死んだ、と答えた。
「とにかく奥さんも呆然としてる様子でね、――取り乱してるというか。詳しい様子を訊けるような状態じゃないんだ。なんで、詳しいことは分からないんだけど、静信たちは高見さんとも付き合いが深いから、耳に入れておいたほうがいいと思って」
静信は苦いものを呑み下した。
「風邪をひいて、寝込んでいた?」
「うん。らしいな」と田代の声には何の緊張感も伺えなかった。だが、静信はじわりと汗が浮かぶのを感じる。――嫌な予感。
「あの人はほら、駐在所に住んでいても外場の人じゃないだろう。弔組にも入ってないし、どうするのかと思ってね」
「そう……ですね」
「何なら手伝おうと言ったんですけど、とにかく実家に連絡して、実家になんとかしてもらうって言うんで。たぶん、溝辺町の葬儀会社に頼んで、|荼毘《だび》にして、という話になるんじゃないかな。とにかく、肝心の奥さんが一人にしてくれって言うんで、留美もおれも戻ってきたんだけど」
「ありがとうございます。とにかく、奥さんに連絡をしてみます」
そうしてやってくれ、と田代は言って電話を切った。
静信はすぐさま、駐在所に電話をかけた。だが、呼び出し音を十五まで数えたが、応える者はいない。病院にでも出かけているのだろうか。受話器を置き、改めて敏夫に電話をする。病院のほうに――夜間や休日には自宅のほうに切り替えられる――電話してみたが、敏夫は出ない。一瞬、躊躇して自宅に電話すると、孝江が出て木で鼻を括るように、出かけた、と答えた。
「どこに出かけたか、御存じありませんか」
「さあ。病院のほうに電話があって、それで出かけましたからね、往診じゃないですか」
ひょっとしたら、高見の訃報を伝える電話だったのかもしれない。それで駐在所に出かけたのかも。自分も行ってみようか、躊躇しているうちに当の敏夫から連絡があった。
背後からは人のざわめきと、微かにディキシーが聞こえている。クレオールからの電話のようだった。
やはり敏夫は駐在所に駆けつけたのだった。そして、駐在所には誰もいない、と言う。
「近所の者が、奥さんが子供を連れて車に乗り込むのを見てる。遺体を迎えに行ったか、子供を実家に預けに行ったか、そういうことなのかもしれない」
そう、と静信は答えたが、どこか釈然としなかった。
「とにかく、詳しいことが何も分からない。奥さんが戻ってこないことには」
そうだな、と答え、静信は声を低めた。
「――あれだと思うか」
敏夫の声は、いっそう低かった。
「たぶんな」
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カレンダーの上では九月に入ったが、残暑はいっかな衰えたとは思えなった。
律子が病院を出ると、真昼の陽射しに灼かれた駐車場には熱気が立ち込めている。久々にお湿りでもあるのかもしれない、|茹《う》だるように蒸した。
「うわー、暑い」
雪は言って、おもちゃのようなフォルムの車に駆け寄った。車の窓は開け放したままだ。どうせ外場では車を盗んでいく者などいない。
「律子さん、暑いけどいい?」
「いいよ」と、律子は答える。商店街で買い物をして帰るという律子に、雪はだったら途中まで乗せていってあげる、と言ってくれた。駐車場で炙られていた車の中は路面よりも暑いくらいだが、この陽射しに焦がされながら歩くよりは、はるかにましだ。
ありがたく車に乗り込み、商店街の外れで降ろしてもらう。とりあえず昼食を摂ろうと、クレオールの扉を開けた。
しずかなピアノの音と、クーラーの冷気にほっと息をつく。たかだか病院からここまで、車で十分もかからない。そのおかけでクーラーの利く間もなくて、それだけの間にもうブラウスの背中が濡れている。
「こんにちは」
「ああ、律ちゃん」
長谷川は、まるで律子を待ち受けていたかのように勢い込んで顔を上げた。カウンターには、書店の田代が坐っている。長谷川はその隣に律子を手招いた。
「いいところに来た。律ちゃん、先生から高見さんのとこがどうなってるのか聞いてないかい」
「高見さん――駐在の? いいえ」
高見が亡くなった、という話は聞いた。看護婦たちはそれでいっそう、不安を感じている。けれどもそれきり、高見がどうした、という話を聞いた覚えがなかった。
「そうか。若先生、防犯委員だからなあ。何か聞いてるんじゃないかと思ったんだけどな。コーヒー?」
「アイスで。それとランチ。――高見さん、どうかしたんですか?」
それが、と長谷川と田代は目を見交わす。口を開いたのは田代のほうだった。
「引越しちゃったんだよ、高見さん」
律子は首を傾げた。
「だからさ、高見さんのところ、あれきり奥さんの姿が見えなくて。高見さんが亡くなったって、病院から戻ってきてそう言ってて。そのまま夜に子供を乗せてどこかに行ったきり、家に戻ってなかったんだよ。こっちはさ、葬式をするなら手伝いぐらいしようと思ってるし、人手が必要ないにしても線香ぐらい挙げにいかなきゃ、と思ってるじゃないか。ところが、それきり戻ってきた様子がない」
「まあ……」
「そしたら、ゆうべ、いきなり家に明かりが点いてさ。――いや、おれは家に帰ってたから、近所の連中に訊いたんだけど。やっと戻ってきたのかと思ったら、派出所の前に高砂松をつけたトラックが横着けになってて、奥さんも子供の姿も見えなくて、顔を見たこともない若いのがいたってんだよ」
「運送屋ですか? まさか引越たの? ゆうべ?」
「そうなんだよ。それも遅い時間だよ。薬局の森さんが見たのって、十二時近くの話だったって言うからさ」
「そんな夜中に、ですか?」
「うん。その若いのが――佐々木とかいうんだけど、どうやら後任らしいんだな。高見さん、けっきょく実家のほうで葬式を出したらしいんだよ。で、後任が決まったから引き払うって。その佐々木ってのが奥さんに頼まれて家移りをしたらしいんだけどね。とはいえ、着るものとか私物を運び出した程度でさ、家具なんかは置いたままなんだよ。佐々木さんが、自分が使うのに譲り受けたとか言ってたらしいんだけどね」
「急な話ですねえ」
「だろう? 周りに挨拶もないんだから、驚くよ。こっちは高見さんには世話になってるから、それなりに見送ろうと思って待ってたのにさ」
しかもね、と長谷川が田代の後を継ぐ。
「後任の佐々木ってのが、妙な感じらしくてさ。なんていうか――目が据わってて、あんまり人相が良くなかったらしいんだよ。それで森さん、一瞬、後任っていうのは出任せなんじゃないかと思ったらしいんだけどね。どうやら独り者みたいだったって」
そうですか、と律子は呟く。
「こんなにすぐ、後任って決まるものなんですね」
そうだねえ、という長谷川の声を聞きながら律子は内心で首を傾げた。何がどう、というわけじゃない。けれどもどこか、とても奇妙だ。突然の転居、それも深夜の。しかも高見の家族はいなくて、他人だけが立ち会って。家具を残して運び出される荷物、積み込まれるトラック――。
漠然と様子を思い浮かべて、律子はひとりごちた。
「高砂松……」
家紋にもあるあの高砂松だろう。――高砂運送。その名前には聞き覚えがある。
「うん?」
田代に促され、律子は口を開いた。
「高砂松って、それ、高砂運送ですよね」
「知ってるのかい? そんなに有名な引越屋だったかな」
「そうじゃなくて……。うちの近所でも最近、引越があったんですよ。一日だから、つい最近」
上外場の篠田母子が引越した。
「それが似たような話なんです。夜中にトラックが横着けになってて、突然、引越しちゃったんですよ。近所に挨拶も何もないまま。あんまり唐突だったんで、夜逃げかしら、なんて言っている人もいるぐらい」
「へえ。本当に似たような話だな」
「それが、やっぱり高砂運送だったんですって。名前はすごくおめでたいのに、夜逃げに使われるなんてね、なんて言ってたから」
「高砂運送?」
ええ、と律子は頷く。
「妙な符号ですよね、それ。ひょっとして、夜にだけやってる運送屋さんなのかしら」言って、律子は自分の言葉に失笑した。「……そんなの、あるわけないか」
長谷川も田代も、顔では笑いながら困惑したように視線を交わらせた。どうもね、と長谷川はサラダを盛りながら言う。
「このところ、どっか妙だよ、この村は。妙な引越といい、妙な余所者といい」
言って、長谷川は自分も余所者であることを思い出したかのように苦笑した。
「そういえば、兼正も夜中に越してきたんですよね。流行ってるのかしら」
「まさか。……おまけに、死人が続くし。清水さんとこの恵ちゃんと高見さん、立て続けだろう? 広沢さんも、弔組の用が続くって言ってたしさ」
律子は思わず、長谷川の顔を見返してしまった。一瞬、長谷川が冗談を言っているかのように感じてしまったのだった。見返した長谷川の顔は大まじめだった。本当に不安を感じているよう。――だが。
律子の顔を見て思い出したのか、長谷川はああ、と手を叩いた。
「そうそう、山入だよ。山入でも年寄りが死んだんだよねえ」
律子は息を呑む。死人はそれだけではない。長谷川は知らないのだ。無理もない、付き合いがなければ訃報など入ってこないだろう。だから後藤田秀司も、その母親ふきの死も知らなくて当然、安森義一や安森奈緒の死も知らなくて当然といえば当然のことなのかもしれない。小耳にぐらいは挟んでいるのかもしれないが、意識に引っかかっていないのだろう。
(それだけじゃない)
律子は思わず、口にしそうになった。後藤田秀司、ふき、安森義一、奈緒、山入の三人と恵、高見で総計九人。この数は異常だ。
――だが、そんな律子でさえ、正確な実数を知っているわけではなかった。
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敏夫は電話で眠りから叩き起こされた。目覚め、ベッドに起き上がるまでに、覚悟はできていた。早朝の電話は訃報だ。それがこの夏に敏夫が学んだことだった。
「――はい」
答えたとき、敏夫の脳裏にあったのは、何が起こったのだろう、ということではなく、誰が死んだのだろう、ということだった。
二十九日には静信から太田健治の死が伝えられた。翌、三十日には高見の訃報が入った。その後にもつい一昨日の五日、四日に外場の佐伯明が死んだと石田から連絡があったばかりだ。
「安森です、工務店の」
電話の相手は工務店の節子だった。では、奈緒から移った誰かだ、と敏夫は思った。どうしました、と訊いたものの、これは相槌以上の意味を持たなかった。
「進の――孫の様子がおかしいんです。ぐったりして、揺すっても叩いても目を開けなくて。真っ青で……」
「すぐに行きます。とにかく、救急車を呼んで」
はい、と涙混じりの声を出す節子の通話を断ち切り、敏夫は服を着る。家を飛び出し、工務店に車で駆けつけたときには、進はまだ息をしていた。
呼吸は浅く、早い。頻呼吸というより、明らかに過呼吸だった。処置をしているうちにその呼吸が途絶えた。過呼吸から来るアシドーシスだろう。敏夫が心停止を確認したところで、ようやく救急車が到着した。
「心停止。たった今だ、急げ」
救急隊員に伝える。それが聞こえたのか、節子は悲鳴に似た声を上げた。
「進は――死んだんですか」
安森徳次郎が震える手で縋りついてくる。
「まだ蘇生の望みがないわけじゃない」
答えながら、敏夫は眉を顰めた。孫の以上に逆上した徳次郎と節子。肝心の父親である幹康はそれを妙にどんよりとした目で見つめている。|狼狽《うろた》えている様子がなかった。
「幹康、大丈夫か?」
進を救急隊員に任せ、敏夫は幹康の側による。妻と子を一夏の間に失った――失おうとしている男。だが、幹康の表情には変化が見られなかった。放心したように虚ろな視線を息子へと注いでいる。
「幹康、――おい」
何を伝えようというのか、幹康は頷いた。
「おまえ、気分はどうだ?」
幹康は機械的に頷き、それからふと思い出したように、呟いた。
「進、死んだの、敏夫さん」
イエスと言ったものか、ノーと言ったものか迷いながら、敏夫は幹康の顔を覗き込んだ。目に妙な光があるのは、白目が異常に青みを帯びているせいだ。間近で見ると、呼吸が浅い。脈を取ると明らかな頻脈がある。
「幹康」
「敏夫さん、ゆうべさあ……」幹康は虚ろな目をしたまま、わずかに口許を歪めた。「進が寝言を言ったんだよ。ママ、って」
淡々と、抑揚のない声で呟いた。
「それで目が覚めたんだ。あれが……おれが最後に聞いた進の言葉になったなあ……」
敏夫は幹康の手を握った。指先が冷たい。膝の上に投げ出された腕のあちこちには奈緒の時に見たようなセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]が見える。
「待ってくれ」敏夫は振り返って、進を運び出そうとする救急隊員を呼び止めた。「こいつもだ。国立に運んでくれ」
徳次郎と節子が進の後を追おうとした止め振り返った。
「若先生――」
「詳しいことは分からないが、再生不良性貧血か急性白血病の疑いがあると、向こうさんに伝えてくれ」
救急隊員は驚いたように目を見開き、担架を取りにいった。その間に、敏夫は注射器を出す。
「幹康、ちょっと手を」
採決しようとして駆血帯を巻いた左腕の、ちょうど静脈の上にセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]がふたつ並んでいた。それを避けて針を刺し、駆血帯を解いて末梢血を吸い上げる。
「若先生、幹康は――」
敏夫は徳次郎の狼狽しきった顔を見返した。
「べつに確定じゃない。最悪の場合、そういうこともあり得る、ということだから」
「しかし……」
「用心のためです。――さあ、進くんと幹康についていってやりなさい」
敏夫は末梢血を持ち帰り、その半分を田島予研に検査に出すよう、付箋を付けて保存庫にしまった。半分を入れたスピッツを持って検査室に向かう。ヘマトクリット値減少、ヘモグロビン濃度も減少、明らかな貧血、しかも塗沫標本を見てみると、網赤血球が増えている。
「……あれだ」
「――進くん? 工務店の坊や?」
ナース服に着替えながら、やすよが目を見開いた。律子は頷いた。
「今朝だそうです。幹康さんも具合が悪くて、溝辺町の国立病院に運んだとか」
そう、とやすよは低く、声とも溜息ともつかないものを漏らした。永田清美はナースキャップを髪に留め付けながら、深い息を吐く。
「……可哀想に。けど、これはいよいよ本物だわね」
「そうねえ」やすよは頷いた。「嫁さんと息子と旦那と続いちゃあね。伝染病だわ」
清美も頷く。
「こないだから気になって本をひっくり返してるんだけど、何なのかが分からないのよね。どれ見ても怪しいような気もするし、どれ見ても違うような気がするし」
「あたしらは医者じゃないんだから。……でも、あんまり見かけない症状よねえ」
答えたやすよも、やはり調べるだけは調べてみた、という顔だった。
「大丈夫なんでしょうか」
律子の問いに、やすよはあっけらかんと笑う。
「あたしたちが心配したって始まらないわよ。若先生が心得てるわ。あたしらは若先生の言う通りに動いてればいいのよ。それが仕事なんだから。……でもまあ、酷いことにならなきゃいいんだけどね」
「これで収まればいいんだけど」清美はもう一度、溜息をついた。「下手すると忙しくなるかもね、……これから」
「ありがたくはないけど、仕事なんだからしょうがない。病人がいれば、医者の指示に従って動く、それが務めってもんだからね。医者が何とかする気になってるのに、得体が知れないってだけで逃げ出すわけにはいかないでしょ」
そうね、と清美は笑う。律子も何となく微笑んだ。年長の看護婦たちのたくましさが心強い。自分のやるべきことを心得ている、という自身と自負のようなもの。
「済みません。ちょっと、狼狽しちゃって」
やすよは屈託なく笑う。
「そりゃそうよね。まあ、せいぜい食べるもの食べて、体力をつけないとね。下手をすると、体力勝負になるかもよ」
「瘠せるかしらね」
清美の茶々に、やすよは豪快に笑う。
「そうなりゃ儲けだわ。――もっとも、あたしらがスマートになってる頃には、律ちゃんなんか線みたいになってるかもしれないけどね」
律子は微笑む。
「きっとその頃は、先生、影だけを残してなくなってますよ」
「違いない」
笑いながら、律子は更衣室を出て、休憩室へと向かう。それをパートのミキが呼び止めた。ミキの背後には藤代が不安そうに控えている。
「あのねえ、律ちゃん、工務店の坊やが死んだって聞いたんだけど」
「そうみたいですね」
「大丈夫なのかねえ。……ほら、なんだか死んだのなんのって話が続くでしょう」
藤代がおろおろと口を添える。
「悪い病気でも流行ってるんじゃないかしらねえ。うちには小さい孫がいるもんで……」
律子は微笑んだ。
「先生が心得てらっしゃると思いますよ。どうしても心配なら、一度、先生に相談してみたらどうかしら」
「ああ、……そうねえ」
ミキは呟いて、藤代のほうを振り返った。藤代も頷いたが、釈然としたふうではなかった。
「なんだったらわたしから、ミキさんたちが心配してました、ってそれとなく伝えときます」
「そうしてもらえると」
ミキも藤代も頭を下げる。
「先生はまだ何もおっしゃってないけど、念のためということがあるから、医療ゴミは気を付けて取り扱ってくださいね」
二人は言葉を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みしめるようにして頷いた。
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静信はランプの中に火を入れた。暗い明かりに廃墟と化した教会の内部が浮かび上がった。
古風な石油ランプは、そもそもここに残されていたものだった。ランプに限らず、教会の内部にはかつてここに住んでいた隠遁者の私物が残されたままだった。埃とネズミの糞にまみれた着替え、黴びてぼろぼろになった書籍、彼が自分の周囲において日用の足しにし、心を慰撫してきた全てのものが。
静信がそもそも、ここに通うようになったのは、最初それらのものから、ここで聖堂を営み個人的な信仰のために己を捧げていた人物の、静信の断片を読み取ることが楽しかったからだった。それらはおよそ統一性を欠き、ひとつの人格を垣間見せるにはあまりにも脈絡を失っているのだが、ひとつひとつの品物に意味を探し、他のものが暗示する意味と結び合わせてみるのは興味深い作業だった。
魔術や呪いに関する書籍、あるいは歴史に関する書物、怪しげな宗教の小冊子。それらの間には物理学や生物学の本が混じり、子供向けの他愛ない教訓的な小説が混じっていたりもした。
彼が何を思ってこれらの本を収集したのかは分からない。ただ――と、静信は思う。彼が殉教者に憧れていたのは間違いがない。彼は何かに殉ずることを望んでいたけれども、実をいうと何に殉ずればいいのか、彼自身にも分からなかったのかもしれなかった。ずっとここで、帰依すべき摂理を探していた。そうでなけば、彼は直感として掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]んでいた彼自身の神を、表現する言葉を探していたのかもしれなかった。
彼はここから引き出され、連れ戻されて、そこでそれを見つけることができたのだろうか、と思う。ここを発見したばかりの頃、兼正に住人の消息を訪ねたことがあるけれども、彼は戦後の混乱の中で行方不明になったまま、今日に至るもその後の消息は分からない。もしも彼が仕えるべき摂理を見つけたのだとしたら、それを知りたい、と思う。
そんなことを考えながら染みだらけの本を開いていると、かたん、と小さな音がした。ランプの明かりの中、物音のした出入り口のほうに視線を向けると、沙子が顔を覗かせていた。
「――室井さん?」
静信は驚いて本を閉じる。沙子は軽い足取りで、ベンチの間の通路を歩み寄ってきた。
「明かりが見えたから、そうじゃないかと思ったの。家の窓から見えたのよ」
「ああ、……そう」
「約束を覚えてる? 本を持ってきたの。サインをしてもらえるかしら」
静信は頷き、沙子の差し出した本を手に取った。静信が二冊目に出した本だ。まだ美本に近かったが、この著作はもう流通していないはずだ。丁寧に扱われていたのだろう。表紙を開き、遊び紙に署名をした。一時は物珍しさもあってか、檀家の人間によくサインを求められたが、近頃ではそういうこともない。何となく面映ゆかった。
「ありがとう。大切にするわ」
嬉しそうに笑った少女の顔を、ランプの光が照らしている。
前回に会ったあと、SLEについて調べてみた。全身性エリテマトーデス。日本では膠原病の一種とされているが、正確には結合組織病の一種らしい。とはいえ、静信にはその結合組織というものが具体的にどういうものなのか、イメージできなかった。若い女性に多く、発病者のほとんどを女性患者が占める。家族的に発病する傾向があるらしいが、遺伝との関係は分かっていないらしい。特徴的な紅斑に代表される皮膚症状と関節痛を主とする疾病のようだが、全身症状を伴う。特に問題になるのは腎機能の低下と心肺機能の低下だった。全身の衰弱、易感染のおそれ、脳?神経系にも病変を起こすことがある。紫外線に対して過敏で、紫外線刺激によって発病、重症化することがあり、腎機能の低下や心肺機能の低下から尿毒症、弁膜症、心膜炎を起こせば一命に関わる。免疫異常が原因だと推定されるものの、発病の原因は明らかでなく、治療方法も確定していない。生涯にわたって闘病生活を余儀なくされ、社会や職場に復帰することが困難なことから、難病に指定されている。
その知識のせいか、ランプの不安定な光源のせいなのか、少女の顔には陰鬱な陰影がついていた。
「顔色が悪いように見えるよ」
「そう? ――そうかもね。しばらくちょっと寝込んでいたから」
「大丈夫かい?」
「もう慣れっこだもの」
少女は淡々と肩を竦めた。白い肌は病的なようにも見えたが、特徴的と言われる紅斑は見られない。SLEの治療はステロイド剤の内服が基本らしく、長期にわたる服用がまた重大な副作用をもたらすのだが、とりあえず沙子には副作用として著名な満月様顔貌やバッファロー頸などの外見的な特徴も見えなかった。顔色が悪いことを除けば、ごく健康そうに見える。それが素人目にはそう見えるだけのことにしろ。
だが、と静信は思う。沙子の生命は危うい均衡の上に成り立っている。そう、命は脆いのだ、人間がそうと信じている以上に。安森進は死亡した。おそらくは幹康も生きて戻ってはこないだろう。
(幹康……)
四つ下で、近所に住んでいた。寺と安森家は関係も深い。小さい頃にはよく一緒に遊んだ。幼なじみだと言ってもいい。
この夏、多くの村人が死んだ。知っている者もいたし、知らない者もいた。けれども幹康のように人生のあるいっときを、共有した者が倒れたのは初めてだった。例のあれなら、幹康は助からない。最後にあったのは奈緒の葬儀の時だったか。おそらくもう、生きた幹康に会うことはないだろう。今度会うときは、幹康は抜け殻になっていて、そして自分は幹康の抜け殻に引導を渡すのだ。
「また、誰か死んだの?」
沙子に問われて、静信は我に返った。
「……なぜ?」
「前もそうだったから。誰か女の子が死んだって。室井さんは、あの時と同じように落ち込んでいるように見えるわ」
そうか、と静信は苦笑した。
「檀家の人?」
「そう」静信は頷き、「まだ死んだわけじゃない。けれども……危篤なんだ」
そう言ってもいいだろう。しかも回復の望みは全くない。
「檀家なんだけれども、どちらかというと、幼なじみというべきかな」
「へえ?」
静信は小さく軽く息を吐く。
「小さい頃はよく一緒に遊んだんだよ。というより、遊んでと言ってついてきた、というほうが正解かな。四つも下だったから」
「子分みたいなものね」
沙子は控えめに笑った。
「そうかもしれないな。ぼくは子供の頃から引っ込み思案なほうでね、人見知りも激しくて、敏夫より他にあまり親しい子供がいなかったんだ」
「敏夫さん?」
「尾崎医院の院長だよ。敏夫とは仲が良かったんだけど、敏夫は負けん気が強くて。年長の子供の手下に収まる気性じゃないから、いきおい、ぼくと敏夫と二人で遊ぶ羽目になるんだ。敏夫は年長の子供とは折り合いが悪かったんだけれども、年下の子とは折り合いがよかった。結構、理不尽なことも言うし、その時の気分で邪険にしたりもしたんだけど、それでも慕われた、というか」
「典型的な餓鬼大将だったのね」と、沙子は笑う。「でも、餓鬼大将と一緒に遊んでいる室井さんってなんだか想像がつかないわ。なんだか、子供の頃から一人で本を読んでばかりいたような印象があるもの」
「そうでもなかったよ。よく悪戯もしたし」と、静信は微笑む。「だいたい、言い出すのは敏夫なんだけどね。とんでもない悪戯を考案したり、無謀な遊びを発見するのが得意だったんだ。タブーに挑戦するのが好きでね。ぼくはたいがい反対するんだけど、敏夫は絶対に言うことをきかない。それでいつも一緒についていく羽目になるんだ。敏夫が無茶しすぎないようにブレーキをかけるのが自分の役目だと思っていたのかな」
「……なんだか、らしいわ」
静信はランプの明かりに目を移した。
「村に虫送りという祭りがあってね。その行列の後を蹤けていったことがあるな……」
静信は何となく、今年の虫送りの夜のことを思い出していた。遠いようで、すぐこの間のことのような気もする。
「本当は、そういうことはしちゃいけないんだ。それは神事で、村人がついていってはいけない宗教上の理由がちゃんとある。真夜中のことだし、子供が後を蹤けるなんてとんでもない。けれども毎年、必ず後を蹤けていく子供が出るんだね。子供というのは、そういう生き物なんだろう」