「……最初はそんなふうで、本当に喧嘩ばかりだったんですけどね。跡取りが死んだことだし、もういっそ製材所を畳んで引越そう、なんて話もしてたんですが。そうしたら都会に行っている次男が、自分が次ぐからと言ってくれましてね。ああ、|自棄《やけ》を起こしたらいかんと」
「本当に、そうです」
答えながら、静信は、温厚な父親が何度か見せた不機嫌な顔を思い出していた。滅多に不快な表情を見せない父が、大塚製材のことに話が及ぶと、明らかに不快そうな顔をした。別に非難するわけではないが、周囲の人間にすれば、信明がこればかりは腹に据えかねているのが一目瞭然だった。静信はそのたびに、父親がなぜ怒るのか理解できず、そういう父親に微かな落胆のようなものを感じざるを得なかった。落胆と言うほど深くはないが、あんな顔をしなければいいのに、と思ったことを覚えている。今になってみれば、信明があからさまに不快そうにするからこそ、檀家も住職の意を迎えて、隆之らを非難したのだろう。それを思うと、申し訳ない心地がする。
「最近は落ち着きました。康幸のことは残念だけれども、一家でなんとかこれを乗り切ろうという感じですかね。……寂しいのも確かですが」
「そうでしょうね」
なんだかね、と隆之は窓の外を見る。
「歳のせいなのか、近ごろ寂しくてね。心細い感じがするというか。季節のせいなのかもしれないですけど」
静信は、なんとなく頷いた。
「親父もいい歳だし、いつまでも生きてないな、なんてことを思ったり。盆の頃に近所で若い女の子が亡くなりましてね」
「清水――恵ちゃんですか」
「ああ、そうです。清水さんとこの娘さん。あんなに若いお嬢さんがねえ。自分とこでも葬式を出したせいか、近ごろ村を歩いてると、やたら葬式が目につくような気がしてね。考えてみると、村の人間なんて大半が年寄りですよ。今年は暑さも厳しかったし、がっくりきちゃった年寄りが多かったんでしょうな。製材所の若いのが、突然、家出して勤めを辞めたりね。近所の年寄りがいつの間にかいなくなったり」
隆之の述懐に、静信は眉を顰めた。
「そういえば」と、浩子が口を挟む。「鈴木さんね、いたでしょう。康幸と同級だった。あの家もねえ、越したんですって。最近、そういう話も多いわねえ」
静信は瞬く。浩子は寂しげに微笑んだ。
「みんな外場が嫌になっちゃったのかしら」
そうかもしれない、と静信は思う。
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――されば汝は呪われ、此の地を離れ、永遠の|流離子《さすらいびと》となるべし。
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村は丘のように、異物を排除する。
(……嫌になっても不思議はない)
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5
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静信は事務所で原稿を広げる。改稿を繰り返した文章をざっと目で追っていった。夜の静寂に、神をめくる音がかそけく響いた。
兄は弟を殺した罪業によって丘を放逐され、荒野をさすらう。弟は屍鬼となってそれを追う。兄にはなぜ、そんなものになってまで自分を追ってくるのかが分からない。生前の弟を振り返ってみても、やはり弟の意図を推測することはできなかった。それどころか彼はもう屍鬼でない弟を明確に思い出すことができなかった。自分が弟を殺した瞬間も、その時の自分の心情も。
そして、と静信は刃物の切っ先のように尖った鉛筆の先を紙の上に下ろす。彼は
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弟の真情を忖度することを今日も諦めねばならなかった。弟の意図を量ろうとすると必ず辿り着く自身の混沌には阻まれ、なす術もなくそれを眺めるうち、悔恨が胸に迫り上がってきて、それ以上の思考を拒むのだった。
彼は俯き、自分の足許に延びる罪の色をした影を見つめ、そして振り返り、やはりいっかな遠くなった気のしない丘のほうを見やった。彼と丘の間には薄暮が満ち、悪霊どもの他に人影はない。実際、弟が背後から彼を追ってきたことはなかった。弟は必ず前方で彼を待ち受けている。
丘の上で雲は切れ、黄金の残照が降り注いでいた。その中に白く冴え冴えと光輝がある。街の頂上に鎮座し、彼に向かって容赦ない光を投げかけていた。
彼はずっと、少なくとも丘にあるときには、その園の東には荒野が広がるのだと教えられていたが、実際に荒野に立って丘を振り返ると、丘は四方を荒野に取り巻かれている。この地を東と呼ぶのは、ただ東にのみ、城門があるからなのかもしれなかった。
神の御手から零れ落ちた不毛の地が、ここ流離の地のはずだったが、実際のところ、不毛の地の直中に忽然と存在する緑野こそが丘で、美しく整えられた丘そのものが荒野に落ちた神の奇蹟のように思われた。
今になって彼は不思議に思う。丘の周囲に荒野が存在するのだろうか、それとも荒野に丘が存在するのだろうか。丘の裾野に巡らされた高い城壁は、神の秩序の終端を示すのか、それとも、神の奇蹟の限界を示すのか。
いずれにしても、丘は美しかった。
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静信は少し手を止め、首を傾げる。彼は丘を追われた。荒野から振り返って見る丘は、やはり美しく見えるものだろうか。ましてや彼は弟に対する殺意がなく、自分の衝動の由来を知らない。
それは彼にとっても、驚愕すべき悲劇だったはずだ。それを裁かれ、呪いを受けて彼は追われた。自分を追った秩序を、閉め出した丘を、彼は虚心に賛美することができるのだろうか。
(もちろん、いいんだ……)
彼は放逐された丘を今も慕っている。もとより、最初からそのつもりだった。
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いずれにしても、丘は美しかった。目を閉じれば、彼は今もそれを目の当たりに思い出すことができる。
緩やかな起伏を描く緑の野辺、そこには白く羊たちが群れ、緑の森にさしかかるまでの広大な緑地で安穏と草を食んでいた。点在する家々は、赤い石の小道で綴り合わされ、やがてそれは賢者の住まう街へと上がり、|聚斂《しゅうれん》していく。街の中心に屹立した尖塔、その頂上に神の座はあった。賢者と選ばれたものにしか登ることを許されず、たとえ登ってもそこにはただ光輝が降り注ぐだけ、いかなる姿もなかったが、そこには明らかな意志が存在した。
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(そして彼は、その意志を崇拝していた)
――彼を放逐したのに?
(彼にとって丘は、愛おしむべき場所だったんだ……)
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その光輝を点した尖塔を中心に、同心円を描きつつ、外周へと向かうほど低くなだらかに広がりながら、ひとつの丘が形作られていたのだった。
尖塔を取り巻くのは賢者の住まう神殿、神殿を取り巻くのは石畳の街だった。円弧を描く街の外周の外には森が広がる。美しい枝を連ねた穏やかな森を、さらに碧く抱え込んだのは緑野だった。
緑野は果てしないほどに広がり、やがて緑の合間に白い石と赤い土が混じり始める。柔らかな緑を蘚のように貼りつめた、起伏の多い丘陵地の果てには長大な城壁があった。
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(長大な壁……頑なな
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堅牢そうなその城壁は、さながらその外部を住人の目から覆い隠そうとするかのように
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さながら荒野に放逐された罪人を永劫の間、拒もうとするように
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広がり、そして、その東の一郭には、小さな門が閉じている。
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二度と入れないために……)
静信は大きく息を吐いて鉛筆を放り出した。駄目だ、と思う。思考が滑る。大塚隆之と浩子の顔が、脳裏のどこかにちらついて離れなかった。
外場は結束が堅い。そしてこれは、頑なな排他性と表裏をなしている。寺の檀家でないものは、村にとって異物だ。ましてや、もともと檀家だった者が寺に離反すれば、異物というより敵と見なされても無理はない。村人を束ねる信仰に疑問を投げかけて、もっと別の信仰を選ぶといって立ち去ったのだ。人の集団というものの性質から考えても、そうやって外れていった者が排斥されることは避けられない。
だが、と静信は思う。なぜ人の群はそういう振る舞いしかできないのだろう。信仰は心の拠り所となるもの、人の心に安寧をもたらすものではないのか。それが人を隔て、人を排斥する大義名分になることに――それを誰も疑問に思いも恥もしないことに、静信はいたたまれない思いがする。
内側に向けては穏やかに笑い、慈愛すら示しながら、外側に向けては冷淡で残酷な振る舞いをする。その二面性に寒々しいものを感じる。それとも、こういうところで躓くのは、自分だけなのだろうか。
やるせなく息を吐いて、静信は原稿を重ねた。原稿を進めたいのに筆がついてこない。まさしく躓いているのだと自覚して、諦めて原稿を抽斗に戻す。かわりに聞き込みのメモを取り出したが、それは開く気にもなれなかった。それすらも諦めて、静信は立ち上がる。事務所を出、玄関の棚に置いた懐中電灯を手に取って表に出た。
樅の間を吹き下ろしてくる風は、秋の気配を忍ばせている。虫の音は、真夏のそれとは音色を変え、どこか寂しげに聞こえた。寝静まった村を一瞥し、境内を横切る。山の中に分け入ると、林や下生えのあちこちに、秋が潜んでそろそろと忍び出てこようとしているのがよく分かった。黙黙と歩き、まっすぐに廃墟へと向かう。村に居場所をなくし、ここで隠栖しようとし、やはり寺を核とする秩序に敵視されて聖堂から引き出された――彼。
隠遁者の苦渋を示すように、聖堂は傾き、荒廃している。中にはいると、|蟋蟀《こおろぎ》の声がただ一匹ぶん、頼りなげに響いていた。物寂しく鳴っては消え、消えては思い出したように鳴く。
静信は自分がいつランプに灯を入れたのか、覚えていなかった。何もせずにぼんやりしているだけなら、灯火は必要ではない。にもかかわらず灯を点けたのは、いつぞや「明かりが見えたから」と言って沙子が現れたことを、自分の無意識が覚えていたからかもしれない、と聖堂の扉が開く音を聞いてから思い至った。
振り返ると沙子が、短い|身廊《しんろう》を歩いてくるところだった。片側に並んだベンチの背もたれを軽く撫でるようにして、軽い足取りでやってくる。
「こんばんは」
やあ、とだけ静信は返した。
「言っておくけれど、ここに来たのはこないだ以来、初めてよ。家で穏和なしくしていたの。だから大目に見てね?」
静信は微かに笑って頷いた。
「いちおう、虫除けのスプレーもしてきたし、ごらんの通り襟の詰まった長袖を着てきたわ。ストッキングは二枚重ねよ。室井さんの忠告を無にする気はないんだって分かってもらえるかしら」
「……分かるよ」
よかった、と呟いて、沙子は静信のすぐ前のベンチに腰を下ろす。幼い子供のようにベンチの上に坐り込んで背もたれに両肘を乗せた。
「江渕とお母さんが、とても感謝していたわ。もちろん、絶対に外に漏らすようなことはしない。――もっとも、漏らしようもないんだけど」
「そう……」
「相変わらずなの? 浮かない顔」
静信は苦笑した。
「そう……相変わらずかな。事態は少しずつ悪くなっているようだね。なのに何の解決策も見えない」
沙子が先を促すように首を傾けたので、静信は手短に、自分が被害者の共通点を探していること、にもかかわらず、何の手がかりも見つからないことを述べた。
「お寺の御用事もあって、小説のお仕事もあるのに、大変ね。なのに成果がないんじゃ、室井さんがそんな顔をするのは当たり前ね」
「そんなに浮かない顔をしてるかい?」
「そうね。この間と同じよ。落ち込んでいるみたい」
言って、沙子は小さく笑った。
「ここで会うと、室井さんは必ず落ち込んでいるのね。ひょっとして、落ち込むと逃げ込んでくるの?」
静信は瞬いた。
「ああ……確かに。そうかもしれない」
「自覚がなかったの?」
「なかったな。そうだな――確かにそういうことのほうが多いね、圧倒的に」
「あまり落胆しないほうがいいわ。室井さんは疫学の専門家じゃないんだもの」
静信は軽く笑って首を振った。
「別に、成果がないからそれで落ち込んでいるわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして? また、誰かが亡くなったの?」
「いや――。被害者の足跡を辿っているとね、あまり楽しくないことも知ってしまうことがある、ということかな」
「楽しくないこと?」
うん、と静信は半壊した聖堂の内部を見渡した。
「外場はいいところだよ。住人は気持ちの良い人が多いし、それが和やかな円環を作っている。けれどもそれだけ、異物を撥ね除ける力も強いんだね」
沙子は首を傾け、そして何かを悟ったように頷いた。
「なんとなく分かるわ。身内に暖かいということは、部外者に対して冷たいということなのよね。――そういうこと?」
そう、と静信は頷いた。沙子は背もたれの上に乗せた両手で頬杖をつく。
「……それで、室井さんは村の人が嫌いになっちゃったの?」
「いや。そういうことじゃない」
「村が嫌いになったとか。だから村のために苦労するのに辟易したとか」
「そんなことはないよ。きっと寄り集まる力が同時に異物を排斥する力になるのは、避けられない摂理の一種なんだと思うから。きっと人間はそういう生き物なんだろう。だからそれを責めようとは思わない。けれども、少し残念な気がするだけだよ」
「だったら元気を出さなくちゃ。でもって、ちゃんと調べて、早く事態を解決しなくちゃいけないわ。このまま疫病が蔓延して、村の人が気づいてしまうと、室井さんにとって、もっと辛いことが起こると思うの」
静信は胸を衝かれた。沙子の顔をまじまじと見つめ、それが真理であることを悟る。
確かにそうだ。このまま事態が悪化していけば、早晩、村人は疫病の存在に気づく。そうすれば何が起こるのか。異物を排斥してまで守ってきた結束が切れていくのだ。同じ檀家で、血縁に結ばれ、地縁に結ばれていても、汚染を恐れて排斥が始まる。そうならざるを得ない。
「……その通りだ」
「でしょう? 人は追いつめられると脆いもの。とても弱い生き物だから」
静信は頷いた。――そう、落ち込んでいる場合ではないのだ。そんなことに躓いている余裕はない。
そして、と静信は内心で自分を恥じた。原稿に逃避している場合でもないだろう。一刻も早く、この惨禍を止める方法を見つけなくては。村が内部から瓦解する前に。
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五章
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1
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「大将、お久しぶりです」
静信が声をかけると、家の裏手に広がる農園の中で作業をしていた清水|雅司《まさじ》が振り返った。
「ああ――若御院」
「御精が出ますね」
老人は立ち上がり、帽子を取って胡麻塩の頭を下げる。雅司の足許には畝に沿って、何のものだろう、緑の苗が並んでいた。
清水園芸は造園も行うし、苗木の卸も行う。村の者が請えば、直接売買もしてくれた。静信の母親の美和子も、時折、庭に植える植物の苗を買ってきたりする。
「まだまだお暑いですね。今日はどうなさいました」
「実は、先日、遅まきながら隆司さんが亡くなったと聞いて」
ああ、と雅司は表情を曇らせた。
「そりゃあ、ありがとうございます」雅司は移植鏝を傍らのバケツに放り込んで家を示した。「とにかく、どうぞお上がりになってください」
静信は軽く頭を下げ、先に立つ雅司の後に続いた。
「驚きました。最後にお見かけしたときにはお元気そうだったんで」
まったくですわ、と雅司は縁側に登りながら息を吐く。勧められるまま静信も座敷に上がり、仏壇の前に進む。仏壇には真新しい写真と位牌が飾られていた。息子の隆司は書類によれば四十一、確か溝辺町の会計事務所に勤めていた。線香を上げて手を合わせていると、雅司が麦茶を運んできた。
「こんなもんでも、どうぞ。済みませんね、今日は嫁が出かけてるもんで。どっかに茶菓子があったはずなんだが」
「お構いなく。――大将もお気落としでしょう。もう落ち着かれましたか」
雅司は苦笑する。
「まだピンと来ませんや。本当に元気なもんでしたからね。いつも通りに出ていって、そしたら事務所で倒れたって話でしょう。慌てて病院に駆けつけたら、もう意識がなくてね。そのまま目を覚まさないままでしたから」
「心臓がお悪かったと聞きましたが」
雅司は、とんでもない、と首を振った。
「春の健康診断じゃ、ぴんぴんしてたんですよ。それがいきなり、心不全だってんですからね。――いや、具合は悪そうではあったんですよ、今から思うとね。ただ、その時は何かぼうっとしてるな、って程度でね。夜更かしでもしたのか、二日酔いか、と思ってたらあれでしょう。まったく……」
雅司は言葉尻を濁した。
「それも今だから思うことでね。後から振り返って、そう言えば、って話ですよ。当日はそんなこととは思わねえ、いつも通り、ろくに顔も見ねえで畑に出ちまって」
「じゃあ、特に寝込んでいたとか、そういうことではなかったんですか」
「寝込んではいなかったなあ。……いやね、この年になると、息子の様子なんかしみじみと窺ったりしませんからね。具合が悪かったのかもしれないが、嫁も気がつかなかったぐらいだから、さほどでもないように見えたんでしょう」
そうですか、と静信は呟く。清水隆司が例のあれだったのか、はっきりとしなかった。家族が気づいてから数日以内に死亡するのが通例だが、隆司はそれよりも若干、早い。例外的に早く事態が進行したのかもしれなかったし、例の病気とは無関係なのかもしれない。静信では見極めがつかなかった。
「けれど……それは本当に急のことで、お辛かったでしょう」
「おれより、嫁がね。こう言っちゃあなんだが、こういうこともありますよ。ただ、嫁と孫が不憫でね。特に嫁が。なにしろ、おれも連れあいを亡くして、嫁と孫がいなかったら一人ですからね。その孫も来春には高校を卒業して大学に行くなり就職するなりするわけだし、そうなって家を出ちまったら、血の繋がらねえ年寄りと二人きりですよ。実家に戻ってもいいぞ、とは言ってあるんですけどね。隆司もいねえのに、おれの死に水を取らせるんじゃ哀れだ」
雅司は言って、木訥とした顔に苦笑を浮かべた。
「昔なら、一旦、嫁に来たんだから、って話になるんだろうが、今はそういう時代でもねえし」
そうか、と静信は思う。村では、親子の同居はまだ当たり前のことだ。だが、家族の概念は確実に変化しつつある。中途半端な変容。その、軋み。
「……まあ、おれだけを残すわけにはいかねえとは言ってくれるんですが、やっぱり悩んでいるようですわ。亭主に先立たれただけでも災難なのに、そのうえ後には頭の痛い問題が残ってるんだから不憫な話だ。退職金が出たのが、せめてもってとこで」
静信は首を傾げる。雅司はさらに苦笑した。
「息子が倒れた日ね、あの日、隆司のやつ、何を思ったか、いきなり退職届を出したらしいんですわ。おれも嫁も知らねえ、自分の胸ひとつでやったことでね。事務所は引き留めたんだが、隆司のやつは今日限りで辞める、退職金も給料もいらねえと啖呵を切ったらしいんですけどね。会計士の先生と喧嘩して、それでばったり倒れたらしいんですよ。病院でそれ聞いて、嫁は真っ青になってました。まだまだ孫にも金がかかるしね」
「それは……」
「まあ、先生が恩情で、なかったことにしてくれてね。在職中に死亡して退職って扱いにしてくれたんで、助かりました。本当に――我が息子ながら何を考えていたんだか」
老人は仏壇の遺影を見上げた。
「あのくらいの歳になると、もう他人も同然ですわ。同居はしてても、そりゃあここが田舎だからで、都会なら家を出て一家を構えてる歳なんですからね。手前のことは手前で決める。いつまでも親父にお伺いを立てたりはせんでしょう。だから、当然といえば当然なんだが」
そうですね、と静信は呟いた。
「隆司さんは、もう大将の手伝いはしておられなかったんですか。以前、何度かうちに一緒に見えられたことがあったでしょう」
「いやあ、最近はないね。以前も、よっぽど手の足りないときだけでね。うちも造園ったって、それ専門にやってるわけでもないから、そうそう人手のいることもないしねえ」
「じゃあ、大将の跡を継ぐつもりだったとか、そういうことではないんでしょうか」
「そういうことじゃないでしょう。そんな気はなかったと思いますよ。おれもそんなつもりはなかったからね」
それでは、雅司について村のあちこちに出入りするということはなかったわけだ。思いながら、雅司の仕事の按配について尋ねた。どの家に出入りしているのか、山入に行くことはあるのか、丸安製材はどうか、隆司がそれに同行することはなかったか。それとなく聞いてみたが、雅司自身は山入に行くことも丸安に出入りすることもないようだし、ましてや隆司は何の縁も持っていなかった。山に立ち入ることもない。雅司の家はそもそも山林を持っていなかった。雅司も隆司も、家は外場にあるものの、生活の場はもっぱら溝辺町にあって、近所付き合いの他は、さほどの縁を持たないようだった。
「親戚が門前にあるんだけどね」と、雅司は苦笑いした。「昔だったら、それこそ、何事かあるたびに出入りしたんだろうけど、従兄弟が死んでから、縁が切れちゃってね。死んだ親父の従兄弟だってだけで、親戚面して出入りする時代でもないでしょう」
そうですね、と静信は答えるにとどめた。
雅司の家を辞去し、静信は中外場に向かう。弔組世話役の小池老の家を訪ねた。八月十一日に死亡した広沢高俊は中外場の住人だった。この広沢家とは、静信は何の縁も持たなかったので、とりあえず中外場の顔役とも言える小池老を訪ねてみたのだが、小池老もあまり付き合いはなかったようだった。
網の目のように入り組んだ人間関係、という気が、静信はしていた。村の者は地縁でしっかりと村の中に組み込まれている、という感触。だが、その地縁はいつの間にか、至るところで寸断されている。当人たちもさして自覚のないまま、村は時代の趨勢に従って、徐々に解体されていこうとしていた。
こんなものか、と静信は思った。静信自身は檀家の中心にいる。入り組んだ人間関係の要に位置するから、こういう変化を実感していなかった。だが、端々から村は変容している。――そう思ったのは、静信だけではなかったようだ。小池老も溜息混じりに首を振った。
「昔なら、どこの誰それ、と言われると、どういう人間で、どういう暮らしをしてるのか、自分の親戚か家族のように分かったもんだったけどねえ」
「これが時代ってものなのでしょうね」
「まあ、わしも弔組の世話をして、初めてそういう若いのがいたのか、ってぐらいのことだからね。本人自身、どっちかというと内向的で、親にもよく分からないところがあったそうだが」
「そうなんですか」
「親にしちゃ、分かってたつもりだったんだろうがね。親父さんは嘆いていたよ。なにしろ、突然に溝辺町で倒れてさ。それがパチンコ屋で倒れたって話さ。てっきり仕事に行ってると思ってたら、仕事を辞めてたんだと」
え、と静信は問い返した。
「仕事を、辞めていた?」
「らしいんだよ。親にも何も言わないままさ。二、三日前から具合を悪くしててね、ふらふらしながら、それでも背広着て出ていったから、てっきりいつも通り会社に行ったんだろうと思ってたら、会社は三日前だかに辞めてたんだとさ。それでパチンコ屋で時間を潰していたんだろうな。そこで倒れてそのまんまだよ」
静信は瞬いた。なんだろう、これは。清水隆司とどこか似ている――。
静信の困惑に気づかなかったのか、小池老は苦笑した。
「寂しい話だが、仕方ないんだろうなあ。老いさき短い者には心細い話だよ」言って、小池は首を傾げる。「しかし、何だってこんなに死人が続くのかねえ」
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2
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九月十八日、日曜日は恵の三十五日の法事だった。
「これで忌明けにするみたいね」と、恵の家に向かう道のり、母親の佐知子が言った。九月も半分以上が過ぎて、茹だるような熱波は遠のいている。
「忌明け?」
かおりが問い返すと、佐知子は頷く。
「四十九日って言うでしょ。四十九日を過ぎると死んだ人の魂が家を離れるのよ。もう忌中じゃなくなるから忌明け。本当は四十九日の法要で忌明けにするんだけど、十月になっちゃうでしょ。忌中が三月にまたがるのはよくなって言うのよ。だから切り上げて三十五日で忌明けにするみたいね」
かおりは俯いた。そんなのは変だ、と思う。恵の魂が家にいようといまいと、恵が死んだという事実は変わらない。なのに四十九日が経ったら、悲しいのも可哀想なのも片づけてしまうというわけだ。
しかも恵の場合は四十九日ない。まだ三十五日で、恵の魂は家に留まっているのに、早々に追い出してしまうのだ、と思った。
(恵……可哀想……)
死んでしまう、ということは可哀想なことだ。こうやってどんどん片づけられてしまう。きっとそのうち「もう済んだこと」になってしまうのだ。確かに恵の生は、あの夏の日に「済んで」しまったのだけど、恵の死は始まったばかり、まだ三十五日しか経っていない。このまま永遠に「済んで」しまうことなんてないというのに。
どこか、さばさばしたふうの佐知子の後に従い、かおりは俯いたまま歩いた。清水家につくと、佐知子と同じようにどこか気が済んだふうのお客が集まっている。恵の両親と祖父だけが、
すこしも肩の荷が下りたようではなかった。ちょうど葬式の時と同じように、とても悲しそうで打ちひしがれて見えた。かおりはほんの少し、それに慰められる気がした。
法事が始まるまでには、まだ時間があった。佐知子はお勝手を手伝いに行く。かおりもそれに従おうとしたのだけれども、弔組の女衆から、休んでいなさい、と言われた。確かに台所はもう近所の女衆でいっぱいだったので、かおりは促されまま二階に向かった。恵の部屋はかつてのまま、ドアには今も名札が下がっている。当然だ――少なくとも今日はまだ、恵はこの家にいるのだろうから。それとももう、いないのだろうか。恵はいつ、家を離れるのだろう。法事が始まると追い出されてしまうのだろうか。
(まるで、お祓いみたい)
お経を上げるのは同じだから、実はそういうことなのかもしれない。お経が上がって、苦しくて、恵の霊は家にいられなくなる。仕方なく家を離れて、それでみんなは、やれやれと言って、恵の死を片づけてしまうのだ。
(この部屋も……)と、かつてのまま、少しも変わってない部屋を見渡し、かおりは思う。(片づけられてしまうのかしら)
かおりは自分の思考に、どきりとした。とっさに家具や持ち物の一切合切が整理され、がらんとした空洞になった部屋を想像してしまったせいだ。
「そんなの……ない」
恵が住んでいた部屋。ここが恵の居場所だった。恵の机、恵のベッド。確かにもう持ち主はいないのだけれども、それは恵のものであって、他の誰のものでもない。恵が大切にしていた物たち。カーテンもベッドカバーも恵が選んだのだ。お小遣いで買った、雑貨やアクセサリー、どれも恵が心を砕いて集めたものだ。かおりがプレゼントしたぬいぐるみ、旅行の記念、みんな恵が大切にしていたもので、それを恵以外の誰に処分する権利があるというのだろう。なのにいずれ、この世から消えてしまう。そうやって恵の生きていた痕跡が拭い去られていく。
こんなのは嫌だ。恵の死が、こんなに簡単に忘れ去られていいはずがない。人が死ぬということは、もっと重大な悲劇のはずだ。一生、忘れられない、心の傷になるような。たった三十五日でキリがついてしまうような、そんな軽々しいことではないはず。
かおりは狼狽して周囲を見まわした。もう今すぐにでも弔組の女衆が上がってきて、部屋を片づけてしまいそうな、そんな気がした。忌明けだから、今日を限りに恵は家を離れるのだから。だから恵の部屋は必要ない、と言って。
頼んでみようか、恵の両親に。恵に断りもなく、勝手に部屋を整理してしまうようなことはしないでください、と。そんなふうに恵を片づけてしまわないで。
――そう頼んで、それで聞き入れてもらえるだろうか。
佐知子の顔が目に浮かんだ。恵の死を片づけなさい、と言う母親。佐知子ならきっと、恵の母親にもそういうのだろう。片づけなさい、そのためにも恵の部屋は整理してしまったほうがいいと。浩子もそれに同意するのかもしれない。
忌中ではなくなったのだから片づけよう、そして恵の分まで人生を楽しむのだと。部屋の中の一切合切を整理し、処分する。――するかもしれない。ここにあるものは、どれも恵にとって大切なものだけれど、大人は子供の「大切なもの」に敬意を払ってくれることなど、ほとんどない。
「だめだよ、そんなの」
せめて何か、とかおりの目は部屋をさまよう。処分されてしまう前に、ここから運び出してかおりが大切に保管しておかなければ。そう――そうすればいい。恵の形見に、何か。かおりは忘れない。片づけたりしない。大切に「恵」を保存しておく。
ぬいぐるみは大きすぎる。とてもこつそり持ち出せない。あまり目立つものも駄目だ。恵の家族が、なくなったことに気づくかもしれない。盗んだなんて思われたくない。小物や雑貨ならポーチに忍ばせて持ち出せるだろうけれど、それらのどれを見ても、「恵」と呼ぶには不足がある気がした。
机のまわりに目をやる。デスクマットの下のカレンダーは八月のまま。恵のカレンダーはそこで止まってしまった。これをここに入れたときには、これが最後の月になるなんて、思ってもみなかっただろう。三分の一しか開かれていない教科書、買ったまま封を開けてない文房具。
(……恵はもういない)
かおりは棚や抽斗の中を検め、「恵」そのものである何かを探した。見つかるのは恵の断片ばかりで、それでいっそう、恵はもういないのだ、という気がした。恵はいない。その存在が消えてしまった。ここに残されているのは、「恵」にはぜんぜん足りない欠片ばかりだ。
泣きそうな気分で辺りを探っていて、かおりは手を止めた。デスクマットの下、カレンダーの下から葉書を見つけた。
恵の文字だ。彼のために書いた残暑見舞い。書いてそれきり、投函できずに恵は死んでしまった。こんなに丁寧に書いたのに。
(恵……これ、出したかっただろうね)
それを思うと、涙が零れた。かおりは泣きながら、それをポーチに忍び込ませた。どれも「恵」には足りない。これだって「恵」じゃない。でも、恵はこれを家族には見られたくないだろう。もしも部屋を整理することになったら見つかってしまうし、そうして出しそびれた残暑見舞いなんて、真っ先に捨てられてしまうだろう。それだけはさせたくなかった。
「大丈夫だよ、恵……」
捨てたりさせない。かおりはポーチを抱き締めた。
「……いっしょに帰ろ」
家に連れて帰ろう。ここには今日限り、いられないから。四十九日まで、かおりの部屋にいればいい。自然に遠い場所へ行ける日までは。
「大丈夫、あたしは片づけたりしないから」
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3
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店のドアが開いて、長谷川は顔を上げた。
「おや、お珍しい」
電気店の加藤だった。加藤が店に来るのは珍しくもないことだが、今日は息子の裕介を連れている。カウンターに座った二人に、長谷川はグラスを出した。
「お揃いで。今日は――ああ、日曜か」
曜日をすぐに失念する。クレオールは休みを決めてない。最初は道楽のつもりで開いた店だったから、面倒だったら休めばいい、というぐらいのつもりでいたが、意外に長谷川も店を開けるのが楽しくて、結局、ほとんど年中無休の有様だった。そもそも商店街は日曜定休が当たり前だったらしいが、最近では日曜も開ける店のほうが多く、以前には五時六時で閉店していたものだが、これもじりじりと延びる傾向にある。それが時代の趨勢というものなのかもしれなかった。
「裕介くん、何にする?」
訊くと、裕介は|含羞《はにか》んだように俯いた。昔から人見知りをする子供だった。特に長谷川に懐きはしないのだが、長谷川は息子を亡くしているから、男の子は無条件に可愛く思ってしまう。常に息子と引き比べ、そのたびに様々のことが思い出される、それでなのかもしれない。亡くした当初は何を思いだしても悲しかったが、四年が経つと、懐かしいばかりで胸の内が暖かい。
「うん?」と、促すと、道々決めていたのだろう、アイスクリーム、と小声で答えた。加藤が微笑む。
「裕介が財布を拾ってきましてね」
「おや」
「女性のものらしい、年期の入ったやつなんですけど。それを交番に届けるというので、褒美にアイスを奢ってやろう、と言っていたんです」
「なるほど。そりゃあ、裕介くん、偉いなあ」
「でも、いなかったよ、駐在さん」
裕介が言って、困ったように父親を見上げた。
「そうだな」と、息子に頷いて、加藤は長谷川を見る。「長谷川さんは、後任の駐在さんにお会いになりましたか」
ああ、と長谷川は呟いた。高見が死んで、その後を佐々木という警官が埋めた。
「それがねえ、わたしも見てないんですよ。いつ見ても空ですね、駐在所が」
「ですね。……変だな」
「田代さんは何度か見かけたようですけどね。交番は書店のすぐ斜め向かいだから。なんでも愛想のない人みたいですよ。声をかけてもろくに返事もしたがらない、って田代さん顔を顰めてましたから」
「へえ……」
長谷川は、特別に大盛りにしたアイスクリームの器を裕介の前に差し出した。
「せっかく行ったのに残念だったね」