饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.28

作者:日-小野不由美 当前章节:15588 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 言うと、やっと裕介は笑う。ありがとう、と小声で言った。それを微笑んで見守ってから、加藤は、

「メモを残して、財布は机の上に置いてきたんですけど。でも、そう始終いなくて大丈夫なんでしょうか」

「そうですねえ。まあ、平和な村なんで、もともと高見さんも暇だ暇だとは言ってましたけど。けども最近はどうもねえ。いつ行っても駐在がいないんじゃ、なんだか心配ですね」

 ええ、と加藤は頷く。

「……兼正の桐敷さんといい、最近越してこられる人は、引っ込み思案な方が多いようですね」

「まったくねえ。来たって噂ばかりで姿を見かけない、そんなのばっかりですねえ。妙な感じだな、どうも」

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 静信は読経を終えて、背後を振り返った。大川家の人々に頭を下げる。

「どうも、ありがとうございました」

 大川富雄が言って、かず子がお茶を運んでくる。山入で死んだ大川義五郎の四十九日だった。もうそんなに経ったのか、と静信は思う。

「これで肩の荷が下りましたよ。あんな爺さんでも、位牌を預かってると気になってね」

 静信は特にコメントをしなかった。黙って出された湯飲みを手に取る。家族だけのひっそりとした忌明けだった。義五郎にも子供がいて、葬儀の時には夫婦連れ、子供連れでやってきていたが、法事にまでは来られないということなのだろう。それぞれが遠方に転出していることを考えると当たり前なのだが、やはり寂しい気がしてならなかった。

 外場は結束が堅い。それは強固な身内意識と、同じく強固な排他主義の上に成り立っていた。そのせいなのか、村にいる間は一分の隙もなく村社会に収まっている者が、いったん村を出ると憑き物が落ちたように村を忌避する、そういう傾向があった。転出して村の外に出ると、本人も周囲も余所者になった気がしてしまうのだろうと思う。

「なんにせよ、これで一段落ですよ。今日は清水さんとこも法事だったそうで。若御院もお疲れでしょうな」

「いえ。大将も大変でしたね」

 まったくです、と大川は頭を振った。

「ついこの間もね、うちの松んちの娘が死にましてね。まだ若いのに」

 ああ、と静信は頷いた。上外場の松村康代のことを言っているのだと分かった。

「本人はすっかり腰が抜けちまって、女房は女房で、泣きわめいたあげくに寝付いちまうし。結局、おれが葬式を出したようなもんですわ。二度あることは三度ってえ言いますが、これだけは三度目は勘弁してもらいたいもんだ」

「そうですね」

「それきり松は仕事に来たり休んだりだしね。それでなくても人手が足りねえっていうのに。おまけに配送の人間の顔ぶれがやたらに変わってね。段取りが悪いったらありゃしねえ。なんだかもう、そういう按配で天手古舞いですよ。まったく」

 それは大変ですね、と静信は取りあえず返した。大川の脇で、妻のかず子が釈然としない顔つきをしている。

「それにしてもお葬式が多いですよねえ。なんだか、この村はどうなっちゃったのかしら、と思ったりするんですよ、最近」

 これに対しては、静信は答えるべき言葉を持たなかった。疑惑が浮上している。それも次第に強くなっている。そのうちに、堰を切ったように溢れ出すだろう。その時に何が起こるのか――。

 かず子は静信の内心など知らず、ただ首をひねっている。

「何かこう……嫌な感じがするんですよ。何が嫌って、はっきり言えないんですけどね。ついこの間も、郵便局が閉まったでしょう」

 ああ、と静信は頷いた。光男がそんな話をしていたか。確か引越したのだと聞いた。

「あれもねえ、妙な話なんですよ」

 かず子が言うと、大川は嫌そうな顔をした。

「またその話か」

「だって妙だったんだもの。そりゃ、お父さんは見ていなかったから。でも、あたしはこの目で見たんですからね。考えれば考えるほど、あれは死に顔だったと思うのよ」

 静信は瞬いた。

「あの……それは?」

 ああ、と大川は渋面を作る。

「郵便局のね、大沢さんが死んでたっていうんですよ、こいつは。見舞いに行ったら顔が見えて、それが死に顔だったって。そんなわけがあるわきゃないだろうが」

 言葉の最後は、かず子に向けたものだ。かず子は恨めしげに大川を見た。

「だって、本当にそうとしか思えなかったのよ。なのに、その日の夜のうちに引越でしょう。それも夜中に。変だと思うのよ」

「失礼ですが……夜中だったんですか?」

「そうなんですよ」と、かず子は頷く。「具合が悪いっていうから、あたしはお見舞いに行ったんですよ。そりゃ、顔色がうんと悪かっただけで亡くなってたわけじゃないのかもしれませんけど。でも、病人がいるのに家移りなんてします? それも夜中のことですよ。しかもあたしが見舞いに行ったときは、引越すなんて一言も。第一、家の中だっていつもの通りで、荷物ひとつ作っちゃいなかったんですから」

 もうよせ、と大川は妻を|窘《たしな》める。かず子は不満そうに大川を見上げた。

「だって気味が悪いじゃない。本当に、この村はどうなってるんだが……」

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 両親を送り出して、清水寛子は気抜けしたような、安堵したような気分に陥った。実家の両親が法事のためやってきて逗留していった。わざわざ三日ものあいだ滞在していたのは、気落ちしている寛子を気遣ってのことだとは分かっている。ただ、娘を亡くして以来、寛子は自分の気力が萎えているのを自覚していた。両親に気を配るのが疎ましく、同時に気を配られるのも疎ましい。

 重い荷を下ろした気分で玄関を閉め、家の中に向かうと家の中はがらんとして見えた。電灯の明かりが白々しい。夜の村にはしんとした沈黙、弱々しい虫の音が秋の名残を鳴いている。

 恵が欠落して、家の中には恵の分だけの空洞ができた。両親がいる間は二人の気配がそれを糊塗してくれていたが、二人がいなくなると、あまりにも露わだった。義父の徳次郎も夫も恵の死以来、生気が抜けたようだった。家の中では人の気配が絶え、テレビの音だけが虚しく響いていることが多い。その空虚さが自分の気分には似つかわしいように思え、むしろ両親の気配が場違いなものに思えてならなかったが、二人がいなくなってみると家の中はいかにも寂しかった。

 寛子は息を吐き、居間に向かう。義父と夫が二人、無言でテレビの画面を見守っていた。そこに自分が参加して三人になっても、人が集まっている、という感触が生じることはないだろう。

 寛子は無言でダイニングテーブルに向かって坐り込んだ。誰も寛子には声をかけなかったし、寛子もまた声をかけなかった。テーブルの上に開いた帳面に、法事のためにかかった費用をつけていく。何もしたくはなかったが、何かをしないと時間が経たない。忍従の時間にも似て、とにかく時間を消化することだけを考えていたが、この忍従には終わりがなかった。

 無言で徳郎が立ち上がり、居間を出ていく。寛子も清水もそれを見送ったが、どこへ、とも何か、とも聞かなかった。徳郎が抜けたぶん、いや増した沈黙に耐えかね、寛子は口を開いた。

「……若御院と何を話していたの?」

「うん?」

「法事の後、何か話し込んでいたでしょう」

 ああ、と清水は呟いた。恵が行方不明になる前、何か変わった様子はなかったか、七月半ばから八月にかけて、どこかに出かけたりはしなかったか。山入に行くことはあっただろうか、後藤田某という男と面識がなかっただろうか、そういうことを訊かれたように思う。

 清水が低くそう答えると、寛子が沈黙し、会話はそこでぷつりと途切れる。清水もその沈黙に身の置き所のない思いをしながら、自分が答えたこと、答えなかったことについて考えた。

 恵は山入に行ったりしないと思う。後藤田秀司などという男とは面識がなかったと思う。けれども確証はない。後藤田なる男がどういう男なのか、清水も知らないし問いもしなかったが、ひょっとしたら、と思わないでもない。――死んだ恵の部屋には薄く香水の匂いが残っていた。

 今も微量に残るその匂いは、清水を苦しめた。芳香剤ではない、あれは香水の匂いだ。寛子には日常、そんなものをつける習慣はない。ちょうど盆休み、清水は家にいて恵の元を訪れた見舞客を把握していたが、恵を訪ねてきたのは尾崎医院の敏夫と、近所の田中かおりだけだった。かおりも香水をつけたりはしないと思う。だとしたら、それは恵のものとしか考えられない。

 恵が帰ってこない、と寛子が騒ぎ、近所の者に真っ先に言われた言葉がある。「色気づく年頃だから」と。恵はまだまだ子供だ。そのとき清水はそう思ったが、部屋に残っていた香りが、少なくとも誰かのために香水をつけて装うような歳になっていたのだ、と囁く。山の中に倒れていた恵、恵に何が起こったのか、近所の心ない者の中には、答えはひとつしかない、と言外に匂わせる者がいる。清水自身、疑っている。敏夫から心配ないと言われたものの、単なる貧血だと言ってのける医者の保証が本当に信じられるものだろうか?

 恵に何があったのだろう。恵は誰のために香水などつけていたのだろう。いつから、娘は「女」に変貌していたのだろう。清水は娘を亡くし、同時に娘を見失おうとしていた。

「……妙なことを訊くのね」

 ぽつりと寛子が言った言葉が、何に対するものなのか――誰に対する言葉なのか、清水は一瞬、分からなかった。ぽかんとして振り返ると、寛子は清水のほうを見ている。

「……ああ……そうだな」

「その後藤田という人は誰?」

「さあ」

「その人が、恵と何かあったのかしら」

「何かって?」

「……嫌な感じね」

 寛子は清水の問いには答えず、そう言った。

「何が」

「何だか、嫌なことが続くわ」

「そうかな……」

「大塚製材でも息子さんが死んだじゃない。ついこの間、中埜さんのところでもお葬式があったみたいよ」

「そう」

「山入でも人が死んで。……今年はそんなことばっかり。どうかしてるわ」

「気のせいだろう」

 清水は言ったが、これは必要以上に素っ気ない言い方になった。実を言えば、清水もそう思う。今年は妙だ。やたらと葬式を見かける。村では今何かよくないことが起こっている気がしてならない。だが、清水がそう言うと、職場の同僚は考えすぎだという。同じく下外場に住む前田などには、娘を亡くして過敏になっているのだ、とさも心配そうに諭された。そうなのかもしれない、とは清水自身も思う。

「安森のお婆ちゃんが越したらしいの。息子さんと同居するんですって。……少しずつ人が減っていくみたい」

 そうか、と清水は答えた。置き去りにされていく、という気がした。

「そう言えば、JAの奈良さんも退職したな」

「奈良さんが? だって、あの人はまだ」

「具合が悪いんだそうだ。早々に隠居を決め込むつもりらしい」

「そう……それも悪くないわね」

「突然、言われてもな。残されたこっちは、かなわない。出てこない事務員もいるし」

「事務員? だれ?」

 清水は村外から通ってきていた女事務員の名を挙げた。在職して長いし、寛子とも面識がある。

「彼女が? 出てこないの?」

 うん、と清水は顔を顰めた。

「ここだけの話だが、彼女、どうも駆け落ちしたらしいんだ」

 まあ、と寛子は声を上げた。

「旦那さんと子供さんは?」

 清水は溜息混じりに首を横に振った。寛子は驚き、そして自分が幾許かの羨望を感じているのを自覚した。羨望と言うほど強い感情ではないが、それに似た何か。

 ――現在を捨てて、未来へと逃げ出してしまえれば、どんなにいいだろう。

 沈黙で押しつぶされそうな家、穴の空いた家庭。娘を失った自分自身。そして。

(……呪われたこの村)

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 敏夫が水口に住む大川茂の訃報を受け取ったのは、例によって早朝のことだった。九月十九日、月曜日。電話を受けて駆けつけると、すでに茂は死亡していた。大川茂は敏夫より一級上の三十三歳、三十四を目前にしての急逝だった。

 茂は三日ほど前から寝付き、未明の頃に看取る者もないまま、ひっひりと息を引き取った。家族は朝に起きてみて、やっと茂が死んだことに気づいた。

「こんなことになるなんて」

 母親は茂の遺体に縋って泣き伏す。それを敏夫は苛立たしい気分で見守った。なぜ具合が悪くなったときに病院に来させなかったのか、連れてこなかったのか。

 ――もちろん、分かっている。間に土日が挟まったからだ。茂の両親が息子のことを心配しなかったわけではない。健康に無頓着だったわけでも。両親の心配以上に激烈に茂は悪くなったのだ。それは当初、休日の医者を呼び出すほどのことではないと思えた。けれども息子のことが心配だから、週が明けたら一番に医者に診せようと考えていた。そして、間に合わなかった。月曜を待つほどの暇を、病は茂に与えなかった。

 休日にも病院を開ければいいのだと敏夫には分かっている。村の者は敏夫と密接な親交がある。だからこそ、敏夫から休日を搾取できない。それをしては申し訳ない、という配慮をするのだ。それは善意で――まったくの善意に他ならないのだが、この病に冒された患者にとって、土日二日は、たかだか二日のこととはいえ致命的な遅滞になる。

 患者のことばかりではない。敏夫自身、これでは困る。呼ばれるたびに遺体に対面するのでは――しかも病理解剖さえできないのでは、経過も観察できないし、病因の特定もできない。とにかく死亡診断書を出すのに必要だと言って、茂の病歴、両親の病歴、古今の動向を聞くので精一杯だが、近頃、誰にあったか、どこに行ったか、そこで感染するようなことが何かなかったか、そこまでは本人でなければ分からない。せめて本人にそれを尋ねることができれば。意識が清明なうちに。

 このところ、訃報がやんでいた。ごく短い小休止だ。そしてそこに飛び込んできた茂の訃報。おそらくはこれが皮切りになる。小休止が終わって次のピークがやってきたのだ。今度の波は前回の波より高いだろう。

 土日にも病院を開けばいいのだ、それは分かっている。しかしながら、病院を開けるということになれば、スタッフの手が要る。それでなくても忙しいスタッフに、これ以上働けとは言えなかったし、新規にスタッフを募集したところで右から左に埋まるはずもない。

 敏夫は泣き伏す大川夫妻を、暗澹たる気分で見つめていた。

 静信が大川茂の訃報を受け取ったのも、例によって朝の勤行が済んで間もない頃のことだった。事務所に戻って一服していた静信らは、電話の音に一瞬、互いに目を見交わし合った。朝の電話はろくなものではないと、彼らの誰もがこの夏で身に滲みていた。

 電話を取ったのは光男で、「また」と小声で呟いたのは鶴見だった。誰もそれ以上のことはいわなかった。

 枕経のために水口の大川家を訪ねると、そこではお定まりの愁嘆場が繰り広げられていた。

「こんなことになると知ってたら、土曜に病院に引きずっていったのに」母親の規恵は泣き崩れる。「本人が、大丈夫だって言うものだから」

 ふきの――後藤田秀司の死で、繰り返されたことがここでも繰り返された。父親の長太郎も規恵も、一まわりも小さくなったように見える。茂はまだ結婚していない。嫁や孫がいないことを、幸い、と言うべきなのか、不幸にして、と言うべきなのか、静信には分からない。

 大川長太郎や規恵にとって、息子の茂の死は、我が身の死に匹敵するほどの重大事だった。夢にも思わなかった突然の死。その衝撃も意味も、彼らにとっては量り知れないほどのものだろうに、静信にとって、これはこの夏、吐き気がするほど繰り返されたお定まりの一場面に過ぎないのだった。

 だから、それとなく大川茂の、最近の動向について問うのも、どこか辟易としたままだった。どうせ何の接点も見えない、と心のどこかが端から徒労感を感じている。――そして実際、これまでの死者と茂の間には何の接点も見いだせなかった。

(これが続くのか……いつまで?)

 自問自答して暗澹たる気分になったまま、静信はふと、茂が死の直前、会社を退職していなかったかを訊いた。

 規恵は、なぜそんなことを訊かれたのか分からない、という顔をした。

「とんでもない」

 そうですよね、と静信は内心で苦笑する。そう、意味は存在するのではない、観察者によって付与されるのだ。自嘲じみた沈黙を規恵は不審の表れと受け取ったのか、言葉を重ねた。

「そんなはずはないです。今朝、溝辺町の職場に、茂のことを知らせたときにも、そんな話は出ませんでしたから」

「いや、済みません。少し気になっただけなので。お気に障ったら申し訳ないです」

 静信はそう詫びて、通夜にまたと言い置いて大川家を辞去した。再び大川家を訪ねたのは、通夜の始まる少し前、座敷の脇に控えながら、静信は例によって弔問客の死者を悼む声と、雑然と通り過ぎる会話を聞いていた。

 じっとそうして控えていると、弔問客の中に大川富雄の顔が見えた。そういえば大川酒店の亭主は、大川茂とは血は濃くないものの、縁続きになるのだと思い出した。

「ああ、これは若御院。お疲れさまですな。昨日の今日でまたお会いすることになろうとはねえ」

「大将もお疲れですね」

「縁続きで二軒目ですよ。まったくねえ」

 大川は溜息をつき、頭を下げて親戚のところに戻っていった。喪主であるほうの大川夫妻は、大して悄然と座ったまま、来訪者の弔問を受けていた。

「どうも、このたびは突然のことで」

 そう大川夫妻に呼び掛け、手をついたのはダークスーツの壮年の男、その背後には同じく略喪服の数人が控えていた。

「知らせをいただいて、びっくりして。さぞお気落としのことでしょう。明日のご葬儀、わたしどもに手伝えることがありましたら、どうぞおっしゃってください」

 長太郎も規恵も、これに深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。……近所の人たちが全部やってくれますので、お気持ちだけ」

 そうですか、と男は嘆息した。

「それにしても、本当に急のことで。茂くんは、どこかお悪かったんですか」

 いえ、と規恵はハンカチを目許に押し当て、首を振る。

「そうなんですか? ……いや、皆とも」と、男は背後の数人を振り返った。「茂くんが突然、辞めたのは療養のためだったんだなあ、なんて言っていたんですよ」

 規恵は顔を上げ、泣きはらした目で瞬いた。長太郎もぎょっとしたように腰を浮かせる。静信もまた、思わずその男の顔を正面から見つめた。

「あの……何のお話しでしょう」

 規恵はハンカチを手の中でもみくちゃにする。今度は男のほうが困惑したように瞬いた。

「いえ、あの。先週の金曜に、茂くんが退職なさって、その時には理由を一身上の都合です、というふうに言っておいでだったんですけど、きっと具合が悪くて療養に専念するために辞めるってことだったんだなあ、と」

 男は言って、長太郎と規恵のぽかんとした顔を見つめた。

「あの……お聞きではなかったんですか? 辞めたんです、茂くん。それも突然に。どうしても事情があるからということで、本来なら引き継ぎやなんやかやが終わってから辞めてもらうところを、その日限りということで」

 男は援護を求めるように背後の数人――同僚たちだろう――を見た。

「茂くんにしては強引なやり方だったので、よほどの事情があるんだろう、と言っていたのですが、訃報をいただいて、それでだったのかと……ええと、あの……」

「そんな――はずは」

 規恵は絶句し、そして座敷の隣室に控えていた静信のほうを見た。

「あの子は、そんなことは何も――」

 彼らは困惑したように顔を見合わせる。会話を小耳に挟んだのか、周囲にいた人々もまた目配せをし合っていた。

 へたり、と腰を浮かせていた長太郎が坐り込んだ。

「わたしはもう……何がなんだか。――どうして、こんな」

 それきり絶句して、嗚咽を漏らし始めた。

 静信は座ったまま、自分がまるで不条理劇の中に放り込まれたように感じていた。

 清水隆司、広沢高俊、そして大川茂。いずれもまだ若い男で、近隣へと勤めに出ていた。それが突然に死んだ。死んだことは奇異なことではない、もはやこの村では。――だが。

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六章

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 外場に住む加藤義秀が妻の澄江に支えられて来院したのは、九月も二十日になってからのことだった。急患です、と十和田が声をかけてきた。診察中の敏夫は目線をやすよに向ける。意を受けて、やすよが待合室に出てみると、老人は妻と武藤に両脇を支えられ、やっと椅子に坐り込もうという有様だった。

「大丈夫ですか」

 やすよは膝をつき、老人の顔を覗き込む。かろうじてやすよを見て頷いたが、朦朧としているようで顔色も悪く、肩で息をしている。呼吸は浅く弱い。手を取るとひんやりして冷や汗をかいているのが分かる。脈も速い。

 やすよは駆けつけてきた律子と聡子を振り返る。

「ストレッチャー。先生に知らせてくるから処置室のほうに運んで。脈と血圧、測っといてね。動脈カテーテルの用意をしといたほうがいいかも」

 はい、と返事をして、てきぱきと動き出した二人を残し、やすよは診察室に取って返す。敏夫が、どうだ、というように顔を上げた。

「処置室に運びました」

 敏夫の目を見て言う。それで意図は通じたらしい。敏夫は患者に断って立ち上がり、処置室に向かう。

「どんな具合だ?」

「頻脈、頻呼吸です。ちょっとチアノーゼが出てるようで、縮瞳してます」

 敏夫は頷き、処置室に入る。

「どうしました」

 敏夫が声をかけると、澄江は筋張った両手を握り合わせた。

「二、三日前から、風邪をひいて寝込んでたんです。寝てれば治ると本人も言ってたんですけど、今日になってもこの有様で――若先生、まさか肺炎ですかねえ」

「まだなんとも言えないな」

 聡子がメモを差し出した。脈拍が多く、血圧は極端に低い。

「動脈カテーテル」

 はい、と律子はカテーテルを差し出す。すでに加藤の手首は固定されている。敏夫は頷き、澄江に声をかけながら動脈血を採取した。

「熱はどうでした」

「八度前後です」

「咳や頭痛は」

「咳はありません。頭痛も別に……。本当に風邪だと思ったんです。本人もそう言ってましたし。それで煎じ薬を飲ませたんですよ。姑が風邪の時に使ってた薬で、どんなに酷くても一晩で治るんです。なのに、少しも良くならなくて……」

「ガス分析」言いながらスピッツを聡子に渡し、敏夫は澄江を振り返った。「……何を考えてるんだ、あんたは」

 澄江はきょとんと目を見開く。

「チアノーゼが起こってる。ここまで引っ張ってくる間に、どうして救急車を呼ばないんだ。おまけに風邪だろうと思った、だって? あんたはいつ医者になったんだ。何だって素人が勝手に診断をして、勝手に投薬をするんだ!」

 先生、と律子が小声で言う。敏夫はとっさに律子を睨み、

すぐに自分が我を失ったことを悟った。

「……いや、申し訳ない」

 澄江は目に見えて狼狽している。

「済みません。とにかく、救急車を呼びます。それまで最低限の処置をしますから」

「あの、お爺さんはそんなに悪いんですか」

「検査してみないとなんとも言えないが、呼吸不全が起こっているのは確かですね」

 敏夫は胸の中でARDSだろう、と付け加えた。例のやつだ。それも、病状の後半段階――もうMOFに移行しようとしている。律子に酸素ボンベの準備をさせ、胸部XPの指示を出す。とりあえず澄江に最低限の問診をした。

 全ての結果が出揃うまでもなく救急車が到着し、国立病院へと義秀を運んでいった。

「先生」と、やすよは救急車を見送りながら低く言う。「例のやつですかね」

「……だろうな」

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 彼岸に入る前に、と静信は二十日の夜、外場の村迫宗秀を訪ねた。村迫宗秀は外場集落の弔組世話役を務めている。外場で立て続けに出た二人の死者の葬儀に際しても世話役代表をしたはずだった。

 商店街の一郭にある村迫米穀店の灯は消され、シャッターもすでに降ろされていたが、事前に連絡をしていたからだろう、一枚だけが半分ほど開けたままになっている。身を屈め、そこからガラス戸を開けて店内に入ると、静信は土間から声をかけた。

 すぐに答えがあって、顔を出したのは長男の宗貴だった。宗貴は闊達な笑顔を見せる。

「よう。久しぶりだな。どうしてる」

 相変わらずです、と答えた静信に、宗貴は奥を示す。

「親父に用だって? 奥で待ってる。上がってくれ」

 促されて、静信は店のほうから住居へと上がり込んだ。宗貴は静信の三級上になる。学校では一緒になったことがなかったが、今は遠方に出ている次男の英輝が一級上だった。高校までは村迫米穀店にもよく遊びに来たし、その時に宗貴にも世話になっている。ずいぶんたくさんの本を借りたし、勉強も見てもらった。合ったのも店を訪ねてきたのも久しぶりのことで、懐かしかった。

 奥の座敷へと行く途中、茶の間の脇を通った。ぺこりと頭を下げたのは宗貴の妻、智寿子だ。智寿子の左右には小さな男の子と女の子が座っている。

「博巳くんも智香ちゃんも大きくなりましたね」

 だろう、と先に立って廊下を歩きながら、宗貴は笑った。

「お前が会ったのって、智香が幼稚園に入る前だもんな。もう二年生だ。小学校の低学年の子供ってのはすごいよ。目に見えて大きくなるし、人格ができてくる」

 でしょうね、と答えたところで、ちょうど二階から降りてきた少年と出会った。三男の正雄だ。宗貴とは十幾つも歳の離れた弟で、静信が出入りしていた頃には、まだ本当に小さな子供だった。

 正雄は静信を見て目を逸らす。会釈しているのか首を竦めているのか、どちらともつかない様子で通り過ぎた。

「正雄、挨拶しないか」

 宗貴が呼びかけたが、ちらりと振り返っただけで返事もない。ちょうど家族に対しては寡黙になる年頃だ。

「大きくなりましたね。もう高校生?」

「二年だよ」と宗貴は苦笑した。「図体ばかり大きくなって、ちっともしっかりしない。親父とお袋が甘やかしたもんだから、扱い難くて」

 もっとも、と宗貴は照れたように笑う。

「自分が親父になってみると分かるもんだが、いちばん下の子供ってのは、可愛いもんなんだよな。別に上の子が可愛くないわけじゃないんだが、どうしても哀願しがちになるというか。ちょうど俺たちが可愛気をなくした頃にできた末の子だからさ、親父たちにしてみりゃ、そりゃあ可愛かっただろうと、今になって思うよ」

「そんなものなんでしょうね」

「うん」と頷きながら、宗貴は突き当たりの襖に手をかける。「――親父、若御院だよ」

「ああ、こいつはどうも」と、宗秀が腰を上げた。どうやら一人で晩酌の最中らしかった。酒器で赤らめた顔をくしゃくしゃにして、まずはビールでも、と勧めるのを、車だから、と断る。それでもなお勧めようとして、宗貴に咎められ、しゅんとしたのがおかしかった。宗秀はもう還暦の前後だったか。人間はあるていど歳を取ると、どこか子供じみてくる。

 宗貴に案内の礼を言い、茶菓子を振る舞ってくれた智寿子に礼を言う。宗秀と二人きりになってから、静信はそっと切り出した。

「……佐伯明さんがなくなったと聞いたんですが」

 宗秀は上気した顔で頷いた。

「そうそう。亡くなったんだよ。若御院は知り合いでしたか」

「知り合いというほどではないんですけど」と、静信は少し後ろめたい思いで目を逸らした。訃報は石田から聞いた。佐伯明というその男を、静信はまったく知らなかった。「人づてに聞いて驚いてしまって」

「うん。急なことでね。いや、わたしもあまりよくは知らないんだけどね。弔組は上外場になるんで、葬式の世話をしたわけじゃないから」

「もうずっとお悪かったのですか」

「いや。突然のことだったらしいよ。夜中に突然、胃が痛いって言いだして――実は心臓が悪かったしらいんだよ。心臓の痛いのは胃痛と勘違いすることがあるんだってね。家族はそれ知らないもんだから、胃薬飲ませて様子を見てたんだけど、どうもおかしい。それで病院に連れて行ったら心臓に来てて、翌日には亡くなったんだ」

 言って、宗秀はちょっと考え込むようにした。

「家族は驚いていたが……ひょっとしたら本人には、ずっと前から自覚症状があったのかもしれないなあ。急に仕事を辞めちゃってね」

 静信は、ぎくりとした。

「辞職していたんですか?」

「うん。倒れる三日前かな。家に帰ってきて、会社辞めたから、って突然、言い出したらしいんだな。親や女房は普通、驚くよ。相談もなしに何で、と問いつめたけど、本人が辞表出して来ちゃったもん、あとの祭りさ。しばらくのんびりしたい、休みたいと言ってたらしいんだけどね。だから、身体が辛かったのかもなあ」

 静信は困惑した。静信が宗秀を訪ねたのは、佐伯の最近の動向について知りたかったからだ。交友関係はどうか、生活圏はどこか、他の患者と共通するような何かがないか。そしてこれまで、それらの質問は徒労に終わっている。家族や親族の場合を除き、患者同士はほとんど接点を持たない。これという共通項も見つからなかった。にもかかわらず、すでに清水隆司、広沢高俊、大川茂と、佐伯の他にも三人が死の直前、唐突に辞職している。何の共通項も持たない彼らに、唯一共通するのがこれだというのは、どういうことなのだろう。

「あの、他にも最近、亡くなってますよね、外場で」

「ああ」と、宗秀は頷いた。「高島さんな。そう言えば、あれも急だったなあ。突然寝込んでそのまんま」

「その方はまさか、……辞職されてませんよね」

 宗秀は瞬き、何か奇妙なものでも口に含んでしまったような、何とも複雑な表情をした。

「そう……高島さんとこも、辞めたって言ってたよ。こっちはもともと仕事の続かない人でね。奥さんとこの実家が苦労して仕事を見つけて、頼み込んで入れてもらったのに、やっぱり嫌だから辞めることにする、って。そんで辞めちゃったらしいんだけどね。――そう、あれも死ぬすぐ前だよ。ほんの数日前だってふうに、弔いの時に言ってたからね」

 静信は動揺した。死亡者の共通項――辞職。例外は秀司、幹康、大塚康幸、外場で自営業に携わっていた者たち。

(……村外通勤者)

 これはどういうことだろう。犠牲者には村外に通勤している者と、そうでない者の二グループがあって、通勤者のグループのほとんどが死の直前に辞職している。――いや、と静信は思った。唯一の例外は太田健治だが、太田も辞表は出していたのだ。慰留されていたというだけのことで。

「何なんですかね、これは」宗秀は狐につままれたような顔をしていた。「いま気が付いたが、妙な話ですな」

 静信は曖昧に頷いた。宗秀はひとりごちる。

「どうも最近、妙な感じがする。葬式が多いし……」

 言って、宗秀は静信を見た。

「駐在の高見さんも亡くなった。えらく多いような気がするんだ。若御院はそう思いませんか」

「そう……でしょうか」

「多いですよ。そりゃあ、今年は暑かったけど、にしてもこんなに死ぬもんかね。外場地区だけじゃない、つい最近にも、どこかで葬式があったって聞いたな、客に。――まさか」

 宗秀は険しい表情で静信の顔を覗き込むようにする。

「疫病なんてことは」

「まさか」と、静信は苦しく微笑った。「どなたも伝染病で亡くなられたわけじゃないんでしょう?」

「そりゃあ、そうだが」

「伝染病なら病院がそのように言うでしょう。家族に言わないはずがないし、場合によっては家族も隔離されることがあります。よしんば家族が伏せていても、診断書にそうあったら役場は土葬の許可を出せないです」

「ああ」と、宗秀は釈然としないふうながらも頷いた。「まあ、そうですな」

「死人が多いのは事実ですが……」

「妙な感じだ。伝染病が流行ってるわけでもないのに、人がばたばたと死ぬ。その死人が二人、どっちも死ぬ前に職を辞めていたり。えらく暑かったり雨がなかったり。今年は妙だ……というより、村が、と言ったほうがいいのかな。この村は、このごろちょっと妙ですよ。やたらに引越があったり」

 言って宗秀は、複雑そうに笑った。

「この近辺だけでも、もう二軒、引越しましてね。なんだか、見捨てられていくみたいですな」

 そういえば、静信も最近、門前のどこかの家が越したという噂を聞いた。郵便局の大沢も引越したようだし、駐在所の高見の家族も、転出してもういない。大塚製材所を訪ねたときにもそんな話が――。

 静信は首を傾げる。何か釈然としないものが胸に立ち込めて、喉が詰まるような感じがした。それちょうど、恵や後藤田ふきが死んで、漠然と異常を察知したときの気分に似ていた。

 とりあえず宗秀に訊けるだけのことを聞いて、静信は村迫家を辞去する。少し迷い、寺の前で車を停めた。静信は車を降りて田茂の奥座敷を覗き込んだ。およそ戸締まりをしていた覚えのない裏門を入り、蔵に沿って庭を横切ったそこが、田茂定市の私室だ。奥庭に面した静かな書院で、定市は隠居を決め込んでいる。

「定市さん」

 声をかけると、一人本を開いて碁盤に向かっていた定市が顔を上げた。

「おや、若御院」

 田茂家はお定まりの兼業農家だった。定市は小学校の校長を勤め上げて定年退職し、息子は外場の中学校で教師をしている。農地は家族の食い扶持ぶんを、ほとんど道楽のようにして定市と妻のキヨで作っているが、本来、田茂は外場でも一、二を争う豪農だった。余剰の山や田圃を人に貸し出しているばかりでなく、外場の商店街にもかなりの数の貸し店舗や貸家を持っており、溝辺町にも幾つかアパートやビルを持っている。本来ならその賃貸料だけで悠々自適のはずなのだが、本人にも家族にもそんな暮らしをするつもりはなさそうだった。

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