饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.2

作者:日-小野不由美 当前章节:15535 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 それを潮に、二十ほどの全てが面を外し、背中の荷を下ろした。藁人形が、あるいは卒塔婆が細い焚き火を覆うように積み上げられて小山を作った。そこに用を果たした灯明が投げ込まれる。炎は絡み合い、人形を包み込み、やがてひとつの火の手となって、渓流沿いの河原と炎を取り囲んだ人々の顔を明々と照らした。

 面を外して男たちは笑う。声高に談笑しながら、衣に付け首に下げた包みを炎の中に放り込んだ。鉦も太鼓も放り出して、河原のあちこちに腰を下ろし、足を投げ出す。

 彼らの姿を見て、結城もまた、ようやく鬼面を外した。どうやら苦行が終わったらしい安堵に大きく息を吐いて、手近の石に腰を下ろす。頬被りした手拭いを解いて汗を拭い、首を振って夜風で顔を洗った。

「いやあ、お疲れさん」

 弾んだ声とともに、顔の脇に缶ビールが差し出され、結城はそれを受け取りながら振り返った。黒の衣に頬被りという、奇妙な出で立ちの男が破顔していて、その扮装の特異さに、いまさらながら笑いがこみ上げた。

 結城の笑いを察したのか、武藤は「ああ」と呟いて照れたように手拭いを取る。自分も缶ビールを片手に汗を拭いながら、結城の脇に腰を下ろした。武藤の顔は赤い。常には謹厳実直を絵に描いたような男が、珍しく上機嫌で、すっかりできあがっているのが分かる。村を練り歩く間に振舞酒を相当に飲んだのだろう。渡された缶は火照った手に冷たく濡れていた。渓流に沈めておいたものらしかった。

「どう、疲れたろう」

 武藤が言うのに、結城は頷いた。

「足が棒のよう、とはこのことだね。虫送りがこんなに大変なことだとは思わなかった」

「ユゲ衆は重労働だからねえ。わたしも最初にユゲ衆になったときには、途中で何度も家に逃げ帰ろうかと思ったよ」言って、武藤は笑う。「でもまあ、これも男衆の定めだから。祭りに参加しないうちは、お客さんだからね」

 結城は頷いた。

 結城はこの村――外場に、一年ほど前に越してきた。別に縁故があったわけではない。単に田舎に引っ込みたいと考えていたところに、たまたま外場の家を斡旋してくれた知り合いがいたというだけのことだった。だが、そういう移住者は外場では少ない。少なくとも結城の知る限りでは、この武藤が唯一だった。武藤は村にたった一つある病院で医療事務をやっている。いちばん上の子供が小学校に入る際、近隣から外場に家を求めて移り住んできたらしい。他にも近隣から越してくるものがいないではないようだが、それらの人々はほとんどが外場に血縁を持っている。その意味で武藤と結城は異分子だった。

「そうか、結城さんは今年が初めてですか」

 柔らかな声がした。すぐ間近の石に座った男が結城のほうを見ていた。

「そりゃあ、お疲れになったでしょう」

 たしか、広沢という中学教師だったか、と結城は思い出しながら軽く笑んでみせた。

「けれども、なん゛かこれで、やっとわたしも村の一員になったような気がします」

 結城が言うと、広沢もまたビールを片手に、側へとやってきた。

「もう一年ほどになりますかね、結城さんが越していらして。たしか、創作工房をやっておられるとか」

「そう呼んでもらうほど、たいしたものじゃないんです。|梓《あずさ》――いや、女房と木を削って家具を作ったり、糸を染めて布を織ったり――まあ、そういうことをやってます」

 広沢は微笑んだが、武藤は渋面を作って缶を結城に突きつけた。

「それだよ。あんたが夫婦別姓などというややこしいことをするから、神事に入るのに一年もかかる。村の連中にはそういう進歩的なことは分からないんだ」

 結城は苦笑した。家がたまたま近いこともあり、武藤は越してきた当時から世話になっているが、酒が入ると必ずその話になった。

 同居人の梓とは入籍していない。梓が改姓を拒んだからだ。梓の心情は理解できたし、結城自身、結婚という制度に疑問を感じていたので、あえて入籍はしなかった。妻とは呼ばない。同居人と呼ぶ。息子が一人いるが、息子は梓の戸籍に入っており、結城が認知している、という形になっている。外場の人々にはこれが全く理解できなかったらしい。越してきたばかりの頃は、さまざまな憶測が乱れ飛んだようだった。

「まあ、村の者も慣れたようだし、よろしいじゃないですか」広沢は温厚に笑う。「たしか、息子さんがおいででしたよね。ずいぶん大きくらして――今年、高校に入られたんじゃなかったですか」

「ええ。大学の間にできた子なんで。中学で息子がお世話になりましたか」

「いいえ、わたしは御縁がありませんでした。しかし、もう十六か。だったらご両親を理解できる年頃ですね」

 そうですね、と結城は笑った。小さい頃は誤解もあって、いじめもあったようだし、ちゃんと結婚して欲しいと訴えたりもしたが、中学に入った頃からそういうことも言わなくなった。ようやく父母の意図するところを理解できるようになったようだ、と結城は受け止めている。

「そういうライフスタイルをお持ちだと、田舎の暮らしは釈然としないことが多いんじゃないですか。たとえば、神事には女性が参加できないこととか」

 広沢の問いに、結城は軽く首を振った。

「そうでもないです。梓もわたしも別に、古いものなら何でも刃向かってやろうなんて、思ってるわけじゃないですし。むしろ二人とも都会生まれの都会育ちで、祭りなんかには縁がなくて来ましたから、神事だ、しきたりだと言われると、かえって感動してしまいますね」

「感動ですか」

「ええ、そう――粛然とする、というんですか。こういうものがちゃんと受け継がれて残っていたんだ、と思って感激するんですよ。それを求めて越してきたようなものですから。まあ、梓は不満たらたらでしたがね。せっかくの祭りなのに、ユゲ衆でないと最後まで見届けられないのはずるいと言って」

 結城が答えると、広沢は静かに声を上げて笑った。

「なるほど」

「どうして女はユゲ衆になれないんだとぶつぶつ言っていましたが、しかし、こればっかりは男でないと無理でしょう。何よりこりゃあ、体力がいる」

 そうですね、と広沢は微笑んだ。

「暑い盛りにこの衣装ですからね。おまけに面をつけて村の端から端まで踊り歩くわけですから」

「まったくです。――このお坊さんみたいな衣装には意味があるんですか」

「ユゲ衆というのは、遊行上人から来ているんでしょう。それで墨染めの衣なんでしょうね」

「遊行上人?」

「あの大きな藁人形」と、広沢は大きく火の手を上げている焚き火に目をやった。「あれをベットと言うんですよ。別当が詰まったものらしいです。――わたしもあまり詳しくない、若御院の受け売りですが」

 若御院、と結城は焚き火に照らされた河原から、山のほうを振り返った。三つの尾根に三角形に囲まれたこの外場の、奥の斜面にある旦那寺、そこの跡取り息子は副業で小説も書く。結城はまだ著書を手に取ったことがなかったが、村人の評判は苦笑混じりだった。大きな声では言えないけれども、なんだか小難しくて、と誰もが言う。それでも口調が暖かいのは、村に作家がいることが誇らしく思えるせいでもあり、旦那寺の若さんへの敬愛のせいでもあるのだろう。

「もともと農村には、害虫や疫病は悪霊のせいだという信仰があるんです。保元?平治の乱の頃に、斎藤実盛という武将がいまして」

「平安時代の、保元?平治ですか」

「ええ。この斎藤実盛を、長井斎藤別当とも言うんですね。もともとは源氏方の武将だったのが、後に平家方に移ったんだそうです。この実盛が木曾義仲討伐のために北陸に下って、加賀篠原で討たれたんですが、それが稲の株につまずいて倒れたせいだというんですよ。その恨みから害虫になって稲を食い荒らすという伝承が割合に日本には広くあって、虫送りの時に実盛の霊を供養するという風習があるらしいです」

「へえ。斎藤別当――それでベットですか」

「その実盛の霊が加賀篠原に現れて、時宗の遊行上人が十念を授けて弔ったという記事が古い文書にあるそうですね。謡曲に『実盛』という曲があるんですが、これもそれを題材にしたものらしいです。当時そういう伝説が流布していたんでしょう。それで別当に従っていく男衆を遊行衆――ユゲ衆と言うんじゃないか、と若御院はそう言うんですけど」

「けれども、なぜ、鬼の面なんです?」

 ああ、それは、と広沢は笑んだ。

「外場では『起き上がり』のことを鬼と呼ぶんです」

「起き上がり?」

「ええ。ここは土葬でしょう。そのせいか、死人が墓から起き上がり、村へ降りてきて祟りをなすという言い伝えがあるんです。それを鬼というんですよ。別当を弔う遊行衆が鬼では理屈に合いませんが、もともとは僧形の遊行衆とは別に、鬼の面を被った男衆がいたようですね。ベットを担いだ遊行衆が別当の霊を弔いながら村を練り歩くと、村の|穢《けが》れや鬼がその後をついてくる。それをここまで連れてきて祀り捨てる。それが虫送りなんです」

「祀り捨て――」結城は焚き火に目をやった。「それで焼いてしまうんですね」

 ユゲ衆はベットを担ぐ。ベット自体は大きく、藁で作ったものとはいえ、かなり重い。それは村の耕地や山林の端々で振り回された。そうやって辺りを撫で、穢れを移すのだと聞いた。他の者は外場を担いでウッポする。ウッポとはユゲ衆の足捌きのことで、そうやって踊るようにして村の隅から隅まで練り歩くことによって踏み清めていくのだという。子供の背丈ほどもある板卒塔婆を背負って祠から祠へとウッポしていくのは、実際のところかなりの重労働だった。

「卒塔婆を使うのは、ここが外場だからですか」

 外場という村名は、卒塔婆から来ているのだと聞いた。結城がそう問うと、広沢は静かに頷く。

「樅を育てて、卒塔婆を作って生きてきた村ですから」

 その大きな卒塔婆は、ここ一週間ほど村のあちこちにある祠の内外に立てられる。人々は神社から貰ってきた紙人形に名前を書いて神棚に祀り、罪穢れを移してから卒塔婆に貼って酒や食物を供え、塚を供養する。遊行衆はその供物や卒塔婆を拾い集めて村を一周した。紙人形がびっしりと貼り付けられた卒塔婆は、正直言ってあまり気持ちの良いものではなかった。少なくとも結城は初めてそれを見たとき、見てはならないものを見たように思った。

「慣れない方には、気味が悪いでしょう」

 内心を読んだように広沢が言って、結城は苦笑した。

「最初は驚きましたが。おまけに衣を着た鬼が松明を点して練り歩く――まるで祭りというより、何かの|呪《のろ》いのようですね」

「呪いとまじないは、結局のところ同じものですから。神事はそういうものですよ。虫送りも正式には御霊会と言うんです。悪霊が祟らないよう、祀って遠ざける。人と神の仲というのは、意外に冷たいものです」

「土着の祭礼というのは、そういうものかもしれないですね」

 広沢は頷いた。いつの間にか武藤は、缶ビールを握ったまま、うとうとしている。

「祀って捨てたものだから、帰りには面を被ってはいけないんです。鬼は村の外に追い出したんですから。昔は川で沐浴して衣を換えて戻ったそうですけどね。さえがに酒も入っていて危ないので、絶えましたが」

「なるほど。――そういう変化はあるんですね」

 残念そうに聞こえたのかもしれない、広沢は詫びるような顔をした。

「もともと虫送りというと土用だったんだですが、今ではそのあたりの土曜日の夜、と決まっています。そうでないと勤め人が参加できませんから。そういう種類の変化はね、これはもう起こらないわけにはいかないので」

「いや、現状に合わせながら、受け継がれているんだな、と言いたかったんですよ。古いものを古いまま保存してるだけじゃ、生きた祭りとは言えないでしょう」

 結城があわてて補うと、広沢は笑む。

「それはどうだかは分かりませんが。――まあ、これでも近隣の集落に比べたらよく残っているほうでしょう。外場は少し特異です。ここはこの辺りの集落の中でも、異物ですから」

「そうなんですか?」

「外、場、というくらいで、もともと余所から入ってきた木地屋の拓いた村ですからね。実をいえば合併されてもう村なんかじゃないんですが、外場の人間も村と言うし、外の人間も村と言う。一緒くたにはなれないことをお互いに分かっているんでしょう。滅多に人も入ってこないし、出て行かない。そういうところです、ここは」

「では、わたしは異物の中の異物ですね」

 結城が言うと、広沢は笑う。

「なに、ユゲ衆を経験したら、もう村の者ですよ。これから大変ですよ、村にはいろいろとね、割り当てられた役割というものがあって、男衆と若衆は力仕事を一手に引き受けないといけないから」

「ユゲ衆は変わらないんですか」

「今年参加なさったから、たぶん来年も誘いがあるでしょう。絶対にやらないといけないというものでもありませんが、わりに誰がやるか決まってしまいますね。鉦太鼓にもウッポにも、|形《かた》ってものがありますから」

「なるほど」

 結城は苦笑する。四十も近い年齢になって踊りの稽古というのは、我ながら照れくさいものがあった。

「|上中門前《かみなかもんぜん》、|下外水口《したそとみずぐち》と言いまして」

「なんですか、それは」

「外場村というのは、合計六集落でできているんです。上外場、中外場、門前、下外場、外場、水口。そこに本当はもうひとつ、山の中に少し離れて|山入《やまいり》という集落があって」

「もうほとんど人がいないと効きましたが」

「ええ。残ったのは二軒だけです。まあ、その山入を含む上集落と、下集落があって、神事には割り当てがあるんですよ。氏子が作る組織を|宮座《みやざ》というんですが、村を挙げての行事でも、宮座の采配でなければ上下のどちらかが分担することになります。旧、新とも言いますけれども。最近じゃ国道のほうに家が増えて下のほうが大きくなりましたが、昔はあそこは田圃ばかりでね。――旧正月にやる祈年祭と、虫送りの直前にやる神幸祭は下の担当です。あれも結構な重労働なんですが、我々は正月の歳神祭と虫送りを担当するんで、見るだけです」

「へえ」

「こんな小さな村でも、意外に広いですからね。神事に限らず、村を挙げての行事はだいたい上下で分担があるんです。もっと小さい行事は各集落ごとにやる。祝儀とか不祝儀なんかはさらに小さい班ごとですね。そうやって細分化していくから、役割はだいたい決まってくるんですよ、どうしても。あの行事の時に鉦を持つのはあのひと、この行事の時に御輿のお先棒を持つのはあのひと、というふうに」

「なるほど。じゃあ、来年の虫送りに備えて、少し体力をつけることを考えておかないといけないな」

 結城が笑うと、広沢も静かな声で笑った。

「広沢さんは、お住まいはどちらです」

「結城さんと同じです。中外場」

「そうだったんですか。――これを機会に、ひとつよろしく」

 こちらこそ、と広沢が笑んだところに武藤が顔を上げた。うたた寝から目覚めたらしい。

「……車だ」

 結城も広沢も、言った武藤の顔を一瞬見て、そうして河原の土手を見上げた。

 村の入口のほう、つまりは南にヘッドライトの明かりが見えた。

「こんな時間に」

 広沢が呟いたのも道理、腕時計を見ると、もう午前三時が近い。

 ヘッドライトは三台分、それが南から近づいてきて停まった。

「ははあ、道を間違えたな」

 武藤が呂律の怪しい声で言う。そうなのかもしれなかった。車はしばらくそこで困惑したように留まり、やがて小刻みに動き出して道を引き返し始めた。

 武藤が怪訝そうに目を|眇《すが》め、広沢もまた眉を|顰《ひそ》めた。おそらくは結城自身も同じような表情をしていたことだろう。――それはトラックに見えた。アルミのコンテナは、かなり大きい。その背後に続いた車は、トラックの陰になっていてよく見えない。

 焚き火を囲んだユゲ衆は、誰しも驚いたようにバックしていくそれを見送った。

「引っ越しかい……? この時間に」

 武藤の声は呆れた調子が半分、訝しむ調子が半分だった。結城はとりあえず頷き、何となく背後を振り返った。左右に迫った山の稜線は真砂を撒いたような星空を背景に、ただ黒い。それは村を左右から挟み込み、渓流の上流で閉じ合わされる。合流した稜線をずっしりと押さえ込むように、最奥にはひときわ大きな山塊が聳えていた。その北山のすぐ左、村の北西、西の山と北山が合するあたり。結城はこの村の誰とも同様に、そこに一軒の家があって、住人を待っていることを知っていた。

 トラックは引き返していったのだから、あの家とは無関係だろう。――けれど。

 同じことを思ったのか、気づいてみれば、武藤や広沢はもちろん、焚き火の周囲に佇むユゲ衆の多くが同じようにして北西の山を見上げていた。

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 空気は徐々に藍の色を薄め、黒いばかりの山肌からは樅の緑が浮かび上がってくる。朝露にくるまれた沈黙の底では山鳩が鳴き始めた。

 静信が箒を抱えて庫裡を出ると、境内は蒼いような白いような光で満たされていた。朝露にけぶって空は見えない。薄墨を流したように石畳が延び、その先に聳える山門の黒々とした色も滲んでいる。

 山鳩のくぐもった、そのくせ妙に歯切れのよい声に耳を澄ましながら、静謐そのものの境内を横切り、静信は山門へと向かった。箒を立てかけた山門の支柱も濡れている。ずっしりと湿り気を含んだ閂を抜き、山門を内側から左右に開いたところで、ちょうど山門脇の潜り戸が開いた。潜り戸から身を屈めて入ってきて、おや、とさも愉快なことに出会ったように目を細めたのは、光男だった。

「おはようございます」

 光男がすっかり禿げ上がった頭を下げるのと同時に静信も挨拶をした。声が重なる。それがまたおかしかったのか、光男は声を上げて笑った。

 田所光男は寺で雑務をしている。僧侶ではないから読経はしないが、様々な雑用を一手に引き受けていた。毎日、寺の麓にある家から朝一番にやってきて、細々とした雑用をこなして一日を過ごす。庫裡を手伝いにやってくる母親の克江ともども、すでに寺の一員のようなもので、静信の記憶にある限り、光男の姿を見ない日がなかった。

「今日も暑くなりそうですね」

 光男はそういいながら、門の片扉を鉤にかけた。そうして首を傾げ、静信の顔を覗き込む。

「若御院、目が赤いですよ。さては、また夜更かしでしょう」

 光男に指摘され、静信は恥じ入って頷いた。昨年、脳卒中で倒れた父親に代わって静信が今では寺を取り仕切っているのだが、副業のせいでどうしても夜更かしが多かった。寺の朝は五時には始まるから、寝そびれたまま徹夜ということも多い。

「大丈夫なんですか。今日は法事が多いでしょう」

 土曜から日曜未明にかけての虫送り、それに先立つ神幸祭で、村には夏の神事が集中していた。この間は誰もが法事を避けるし、そうこうしているうちに盆が来る。虫送りと|盂蘭盆《うらぼん》に挟まれた半月ほどの間には、法事の予定がどうしても立て込む。この日もかなりの予定が入っていた。寺には役僧が二人いるし、立て込むときには近隣の寺からも役僧が来るから交代できるとはいえ、仮にも副住職がおおっぴらに昼寝しているわけにもいかない。

「何だったら、勤行は鶴見さんに頼んで、少し寝てきたらどうです」

 鶴見とは村内から通ってくる役僧だった。静信は慌てて首を振る。

「いえ、平気ですから」

「これから忙しい時期だし、体は大事にして貰わないと。休んでくださいよ。わたしが鶴見さんにそういっておきますから」

「本当に大丈夫です」

 そうですか、と呟きながら、光男が竹箒を手に取ったとき、正面の石段を登ってくる人影が朝露に霞んで見えた。石段下の雑貨屋の千代だ。老女は箒を杖代わりに、一段一段を踏み清めるようにして石段を登りきり、静信と光男に向かって無言で丁寧に頭を下げた。

「おはようございます」

「いつもお早いですね」

 静信と光男が声をかけると、千代は無言で再び会釈をした。

 もう幾つになったのだろうか、寡黙で表情に乏しい老女だった。静信が子供の時分から毎朝のように千代を見るが、会話をしたことは数えるほどしかなった。いだったか、これはお礼奉公だから、と|含羞《はにか》んだように言ったのが今も印象に深かった。戦争に行った夫を無事に帰してくれたら、掃除をすると仏様に約束したのだという。その夫はとうに他界したが、千代のほうは今も元気で毎朝、山門前から石段下までを掃除して朝の勤行に参加してから帰って行く。

 村では信仰が生きている。近辺の老人の中には、毎朝欠かさず勤行に来て、そのついでに寺の雑用を片づけてくれる者が多かった。村の住人の大多数を檀家に持つ寺は、静かな佇まいのその実、比較的大きな部類にはいる。役僧三人に光男とその母親の克江、静信と母親の美和子、それでも人手は足りてない。何かといっては集まってくれる檀家の人々の手がなければ、寺は到底、立ちゆかなかった。

 無言で箒を使い始めた千代に軽く会釈して、静信もまた箒を取った。

 寺は村の北端、樅に覆われた北山の山腹にあって南面している。山門からは朝露の中に沈んだ村が一望できた。

 外場は、複雑に入り組んだ尾根によって三角形に囲い込まれている。

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 渓流に沿って拓けた村を、銛の穂先の三角形に封じ込めているのは樅の林だ。

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 静信は外場の地形をそう喩えたことがあった。銛の穂先は地図に描かれた矢印のように北を示す。その頂点に位置するのが北山であり、寺はその斜面から村を見下ろしていた。北山から延びた尾根は村の西側を堰き止め、鉤の手に曲がって南を蓋する。矢印の軸にあたるのは東の尾根、その麓に沿っては谷川が流れている。寺を頂点とする三角形、対峙する南の尾根の向こうには国道が通り、そのさらに南を自動車道が貫く。これが村の南限だった。

 静信のいる山門からは、それらの様子が一望できる。寺を起点に左右の尾根は末広がりに稜線を開き、その間を田畑や家が埋めていた。人家は時に点在し、時に密集して集落を作り、それらは次第に低くなりながら、村の南に横たわる尾根をめがけて拓けていく。見渡せば、手のひらの上に載せられるような、たったこれだけの土地。

 静信が目を細めていると、悲鳴のような音を立ててスクーターが登ってくるのが聞こえた。麓から続く私道を登って、鐘楼脇から境内に入ってきたのは役僧の鶴見だ。鶴見は衣姿、ヘルメットのまま静信に頭を下げ、境内を横切る。それに会釈を返して静信は目を石畳に落とした。竹箒を握り、掃除に専念する。

 朝の勤行が終わる頃には、予定が立て込んでいるときにだけ近隣の寺から来てくれる|角《すみ》が到着し、光男の母親である克江が庫裡を手伝うためにやってきた。昼前には、時季はずれの夏休みを取っていた役僧の池辺が寺に戻ってきた。

 あわただしい一日が過ぎ、静信は庫裡の一郭にある道場に向かう。ちょうど道場の入口で、厨房から湯飲みと茶菓子を揃えた盆を運んできた母親と行き会った。美和子の背後からは、光男が大きな薬缶を提げてやってくる。襖を開け放した道場の中では、十五人ばかりの檀家衆が休んでいた。

「今日はどうもありがとうございました」

 静信が道場に入り、軽く頭を下げると、美和子も膝をついて礼を言う。

「本当にお疲れ様でした。みなさん、どうぞ一服なさってください」

 美和子は言って、座卓を囲んだ人々に頭を下げた。歓談を途切らせて、どうも、と破顔した人々は未だにタオルを首に引っかけ、あるいはエプロンがけのままだった。

 法事の多くは自宅で営まれるものだが、檀家の中には遠方に転出した者もおり、あるいは事情によっては寺を使う。そうなると、ろくな仕出屋もない村では、お|斎《とき》の用意も寺でしなければならない。広大な境内や建物も維持せねばならず、人手は慢性的に足りなかった。行事のあるときには世話方が取りまとめて、前もって手伝いを采配してくれるが、一般の法事ではそうもいかない。平素には無言の心配りで寺は支えられている。

「若御院もお疲れになったでしょう。虫送りの後は大変ですねえ」笑ったのは安藤節子だった。「奥さんもお疲れさまです」

 いえ、と美和子は首を振った。

「こうしてみなさんが手伝ってくださるので、本当に助かります」

「お邪魔になってるんでなきゃ、いいけどねえ」

 節子は明るい声をあげて笑った。節子は檀家総代の一人である安藤徳次郎の後添いだった。まだ信仰に傾倒するほどの歳ではないが、檀家の女衆をまとめて、こまめに寺の面倒を見てくれる。今日も一日、女手を集め、庫裡を采配してお斎の準備から配膳、片づけに至るまでをやってくれた。

「これからお盆までは、ずっとこの調子ですもんねえ。明日も法事が立て込んでるんじゃないですか」

 そうなんです、と答える美和子に節子は微笑む。

「それじゃあ、明日も集まらせてもらおうかしらねえ」

 節子の言葉に九人ほどの女衆が頷いた。

 老人たちは老人たちで、麦茶を湯飲みに注いで回る光男に声をかけている。

「光男さん、明日は何かすることがあるかねえ」

「墓場の参道がだいぶ草に埋もれてたけど、刈っておこうか」

 光男も嬉しげに笑みを浮かべた。

「そうですねえ。お盆も近いし、そろそろ墓場の草を刈っとかないと、と思ってるんですよ。参道の周囲だけでもきれいにしとかないとねえ」

 村では死者を土葬にし、特に墓は建てないが、檀家の中には死者を埋葬する墓所を持たない者もいるし、その他にも事情があって納骨して墓を建てる者もいる。それらの人々のため寺の西斜面に墓地があったが、これの整備は公共の部分だけを考えても、光男一人の手には余った。

「そんじゃあ、明日は草刈りでもするかな」

「まあ、ぼちぼちやれば、盆には間に合うだろ」

 軽い笑い声が起こる。美和子はそれらの人々に頭を下げた。

 美和子自身は近隣の寺から見合いで嫁いできた。そもそも寺族だから、庫裡を預かる苦労を知らなかったわけではない。それでも檀家数二百ていどで、かろうじて専業で食べていた実家とは訳が違う。田舎の寺だが大きいと聞いて覚悟はしていたものの、実際に中に入ってみると、その内実は想像を超えていた。歳の離れた夫自身が晩婚で、美和子は子供を一人しか持てなかった。わずかに三人きりの家族だ。寺の人手の要になるのは寺族だが、その寺族自体がそもそも少ない。檀家数は多くても田舎のこと、お布施の相場はたかがしれているから、人を雇って集めるにしても限界があった。笑って手を貸してくれる檀家衆の好意がなければ、寺は本当に立ちゆかない。理屈抜きにありがたかった。

 そういえば、と誰にともなく声をあげたのは、竹村吾平という老人だった。

「昨日――いや、今日か。トラックが来たという話を聞いたかい」

 トラック、と何人かが復唱する。

「引っ越し屋のトラックさ。さっき、松尾の親父さんが、ちらっと草を|毟《むし》りに来て言ってたんだがね」

「あら、|兼正《かねまさ》の家?」

 節子が驚いたように言った。寺のある北山と西山の合するあたりに、兼正と屋号で呼び慣わされる竹村家の屋敷があった。それが取り壊され、あとには奇妙な家が建った。梅雨の頃に建ったきり、未だに住人は越してきていない。

「いや、それが。ユゲ衆がトラックを見たんだと。虫送りのベットを焚いているところにトラックが入ってきて、引き返していったんだとさ」

「ああ、あそこの長男はユゲ衆だから。――でも、ベットを焚くって、真夜中の話じゃないんですか」

「そうなんだよ」

 静信はわずかに眉を顰めた。夜明け前、窓から村に入ってくる車の明かりを見た。あれは時刻からいって、その頃合いではなかったろうか。

「普通は夜中に引っ越しなんてしないわよねえ」

「道を間違えたんじゃないですか」

 光男が口を挟んだが、節子は釈然としないふうだった。

「間違えるものかしら」

 静信も軽く首を傾げた。渓流に沿った村道は国道に突き当たり三叉路を作っているが、国道と村道では確かに道の間違えようもない。

 吾平老人も頷いた。

「まあ、引き返したってんだから、間違えたとしか思えんが。しかし、それが後ろに二台、車を従えててな、なんか妙な案配だったって話さ」

 節子が言って、光男も頷いた。

「越してきませんな、そう言えば。もう建ってずいぶん経つのに。――なんていう人でしたっけ」

「それが誰も知らないのよ。表札も出てないし。ほら、家の普請をしたのも、外の大きな会社で、ぜんぜん外場とは関係がなかったじゃない。それで、誰も詳しいことが分からないのよ。どうも東京とか、その辺りの人らしいって話なんだけど」

 節子の家は工務店と通称され、建築?土木業を営んでいる。村での普請はたいがい安森工業が請け負うが、そういえば、あの家は安森工業とは関係なかったのだと静信は思い出した。

 節子は静信のほうを見て、複雑な表情で笑った。

「あんまり妙な人でないといいんですけどね。まあ――なんて言いましたっけ、あの余所から来た、なんとか工房の一家、あそこだって慣れてみれば、そんなに妙な人でもなかったようだし」

「結城、と言ったんじゃなかったですか」

「そういう名字だったかしら」言って、節子は大仰に顔を顰めて笑ってみせる。「姓が二つあるんで、ややこしくて」

 静信が苦笑混じりに微笑むと、吾平老人が口を挟んだ。

「工房の旦那なら、今年、ユゲ衆に入ったらしいな」

 へえ、と節子は呟く。

「あの一家も、最初は妙な噂もあったものねえ。夫婦は名字が違うし、えらく大きな息子がいるしで」

 集まった人々が軽く笑った。静信も思わず笑む。乱れ飛んだ憶測なら、小耳に挟んだから知らないでもない。結局のところ村は狭い。だから、少しでも常とは違うことがあれば、あっという間に広まってしまう。ろくな娯楽もないから、誰もが噂話に熱心で、そのせいか尾ひれだって盛大につく。――この場がその良い例だ。

 自覚があるのか、節子もどこか照れた風に笑っていた。

「まあ、せっかく越してくるんだから、良い人だといいですねえ」

 同意するように笑った人々を見渡し、静信は道場の窓に目を向けた。夏の陽射しは傾いていこうとしている。南西を望む窓からは、寺の西斜面に広がる墓地と、その麓に広がる製材所の材木置き場を見下ろすことができた。材木置き場の脇に立つコンクリート製の建物が村に唯一の病院である尾崎医院、その向こうの斜面に兼正の屋敷はある。ここからは斜面を覆った樅の林がじゃまして建物を見て取ることはできない。かろうじて梢の上に黒いスレート葺きの屋根と破風の一部がのぞいていた。

 兼正と通称される竹村家は、かつては代々村長を務め、その地所にある旧家然とした屋敷から村を見下ろしていた。外場が近隣の溝辺町に合併されたのを機に溝辺町市街部へと移り住み、町政へと乗り出していったが、べつだん外場と縁が切れたわけではない。親子二代にわたって町長を経験し、議会にもそれなりの勢力を持っていたが、それも外場という結束の固い地盤があればこそで、兼正は未だに外場の利害の代弁者であり、村の重鎮であり続けている。その兼正の先代が急死したのが昨年の七月、八月に入って兼正の屋敷は取り壊された。先代が死亡する前に地所を手放していたらしい。あとには奇妙な家が建った。

 住人がどんな人物なのか、知るものは誰もいない。兼正は未だに寺の檀家総代で、静信とも付き合いが深いが、跡取りは相続するまで地所が売られていたことすら知らなかった、と言っていた。先代が全くの独断で、密かに売却したらしい。なぜそんなことをしたのか、その理由は誰にも分からなかった。屋敷を手放すことは、外場との地縁の切断を意味する。地盤の要を外場に置いている兼正にとって、それは愚行以外の何者でもなかったし、実際、跡取りも頭を抱えていた。

 なぜ住人はこんな田舎に越してくる気になったのか、どういう人物がどんな事情で地所を購入したのか、兼正の先代は何を思って地所を売却したのか、その家の周囲には、家そのものを含めて、釈然としないものが立ち込めている。

 深夜に現れた引っ越しのトラック。それはある意味で、あの家にふさわしい。だが、引き返したのなら、兼正の住人ではないはずだ。静信は暮れなずむ山を見やった。

 たぶん――おそらく。

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 熱気を逃がす夜は短く、陽は早々に昇って強い光で山の稜線を炙り始める。国広律子は急な坂を足早に登る。北山に突き当たる村の北の方は坂ばかりだ。背後から来た子供たちが数人、傾斜を苦にした様子もなく抜きつ抜かれつを繰り返しながら律子を追い越していった。

「おねえさん、おはよう」

 声をかけてくれた子供に、律子もおはよう、と声を返す。子供たちはそのまま縺れ合うようにして坂を越え、製材所のほうへと折れてさらに坂を登っていった。これからラジオ体操に行くのだろう。

 軽く微笑んで曲がり角を通り過ぎ、律子は白い建物の前に出た。尾崎医院と看板の上がったそこが律子の職場だった。

 間近に迫った山からの風が翳りを残した林の中から、樅の匂いと一緒に|蜩《ひぐらし》の声を運んできていた。この声のせいで夏の早朝はどこか物憂い。東の山に目を移せば、昇ったばかりの陽射しが強くて、今日も一日暑くなるだろうと想像がついた。

 素っ気ないアスファルトの駐車場を横切り、律子は病院の裏手に回る。通用口から建物の中に入り、まっすぐ更衣室に向かった。

「おはようございます」

 声をかけながらドアを開いたが、更衣室は無人だった。看護婦はまだ誰も来ていないのだろう、窓もブラインドも閉じたまま、部屋の中に淀んだままの空気も、週末の倦怠をそのまま残している。

 尾崎医院は「医院」と看板を上げていても、基本的に入院患者は受け付けていない。検査や経過観察のために一晩、二晩、特別に入院の措置を取ることはあっても、あるていど以上の入院が必要な患者は、全て溝辺町の病院に回すことになっていた。おかげで夜勤もなければ日曜の勤務もなかったし、看護婦同士で調整して、週に二日、きっちり休める。村に唯一の病院だから日曜といえども急患はあるが、代替わりした院長は理解があって、三週間に一度、自宅待機があるだけで、特に出勤しなければならないわけでもなかったし、待機しているだけでも少々とはいえ手当がついた。――総じて恵まれた職場だと思う。

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