「夜分、遅くに済みません。ようやく涼しくなりましたね」
静信が言うと、定市は本当に、と笑う。
「まあ、お上がんなさい。どうしました」
ちょっとお尋ねしたいことがあって、と静信が言うと、それ以上は問わずに、奥座敷に付属の小さな台所に立つ。そこで手ずから煎茶を淹れて戻ってきた。
「爺の淹れた茶じゃ、お口に合わないかもしれませんが、母屋から婆さんを呼ぶのも何なんでね。どうせ婆ァの淹れた茶じゃ大差ないでしょうから勘弁してくださいよ」
お気遣いなく、と静信は笑う。
この気安げに笑っている老人が、現在の外場の重鎮だった。外場は現在では行政区分上、外場校区と呼ばれるが、これは六地区――かつては山入地区があったが現在では門前に合併されていた――に分割され、各地区から一名、区長が選ばれて町長の承認を受ける。そうして揃った六区長が区長会を作り、そこで会長が選出されるが、この区長会会長がこの田茂定市だった。寺にあっては檀家総代会の会長を務め、外場JAの理事を務める。同時に神社の氏子総代を務めて宮司を兼ねる。定市はそういう老人だった。
「何だか近頃、ばたばたしちゃってね。若御院と差し向かいで話をすんのも久しぶりかね。どうです、寺のほうは」
「……おかけさまで」言って、静信はときに、と切り出す。「うちの光男さんが、門前のどこかで引越があったと言っていたんですが、定市さん、どこの家だか御存じじゃないですか」
「ああ、松尾ね」定市は即答した。村の重鎮とはいえ、村の端々にまで目が届くわけではない。それでも門前のことなら、およそ定市の耳に入らないことはない。「ほら、|境松《さかいまつ》ですよ」
ああ、と静信は呟いた。境松が松尾の屋号だった。地所がちょうど門前と上外場の境に位置しており、境の松尾、と呼ばれる。
「引越したんですか? 境松が?」
「そうなんですよ。あそこの息子が高志ってんですが、若御院は御存じですか。確か、若御院よりちょい上だと思うんですが」
「ああ――はい。分かります」
「あの高志くんが、単身赴任でどこだったかに飛ばされたって出ていったんですけど、これが嘘っぱちでね」
「……は?」
「だから、本人は単身赴任になったって、そう言って嫁さん子供を置いて出てったんですけど、それきり音沙汰が絶えちゃってね。それで境松の康志さんが心配して、会社に問い合わせたら、単身赴任どころか辞めたって話で」
静信は、思わずどきりとした。
「家族に何も言わずに、辞めちまってたんですよ。こりゃあ失踪だってんで、康志さん、血相を変えてね。うちにも相談に来たんだけど、事が事だけに内緒にしてくれっていうんで、わたしも黙ってたんですけど」
「それは、いつ頃の話です?」
「九月の頭ですよ。――そしたら、高志くんから連絡があったらしいんですわ。何がどうしてそういう話になったんだか知らないが、ともかくも息子のとこに行くって言って家を引き払っちまったんです。それがついこの間、十八日ですわ」
「……妙な話ですね」
「でしょう?」と、定市は急須に湯を足した。「それがもう、ある日、家の前にトラックが停まってて、それで隣の|守広《もりひろ》さんのかみさんが訊いたら、そう答えたって話でね。かみさんが訊かなきゃ挨拶もなしに引越すつもりだったんじゃないですかね。康志さんは律儀な人なんだが、よっぽどの事情があったんでしょう」
定市は湯飲みに茶を注ぎ足して渋面を作る。
「それも夜の話ですよ。それでね、まあ、近所のもんと、こりゃあ夜逃げかもな、って話をしてたんですけど。おおかた高志くんが恐い所から借金でもして、それで逃げ出したんじゃないかって」
そうですか、と言って、静信は定市の好々爺とした顔を見る。
「定市さん、最近、他にも引越した家はないですか」
定市はきょとんとして、はて、と呟いた。
「そういや、八月の末に|上安《かみやす》の婆さんが引越しましたっけね。なんでも息子と同居することになったとかで。上外場でも似たようなことがあったって聞いたな。定次んとこの婿がね、そういう話をしてましたよ、確か」
定市の弟、定次は上外場でスーパーをやっている。
「……こうしてみると、多いですね、最近」
定市は、狐につままれたような顔をする。
「みたいですね。外場でも何軒か、越したという話を聞きました。それも最近になってです。それで定市さん、申し訳ないんですが、何かの寄り合いの折りで結構ですから、近頃になって越した家がどれだけあるか、それとなく訊いてもらえませんか」
「そりゃァ――構いませんが。どうしたんです、それが何か?」
「単に気になるだけなんですけど。何かあるのじゃないかと思って」
「何かって」
いや、と静信は言葉を濁し、とっさに話を捏造する。
「あの――去年の夏でしたか、リサーチ会社の人が外場に頻繁に来ていたでしょう」
ああ、と定市は頷いた。
「そう言えば、そういうことがありましたね。リゾート施設だかなんだかを作るといって。ゴルフ場だのキャンプ場だのと、やくたいもないことを言ってたらしいですが、あの話は立ち消えになったんじゃないんですか」
「――そう、聞いていたんですが」
ふむ、と定市は腕を組む。
「確かにねえ。妙に出ていく者が多いですからねえ。まさかとは思うが、確かに気になるな。分かりました、それとなく聞いておきますよ」
「済みません、お願いします」
頷いて、定市は息を吐いた。
「どうなってるんだかね。……若御院、近頃、妙だとは思いませんか」
静信はひそかに狼狽した。
「転居……ですか?」
「それもですけどね。なんだか、葬式が多いような気がしてねえ。義一のとっつぁんに次いで、工務店の嫁さんでしょう。坊やもなくなって、幹康くんも亡くなって、親子三世代、仲良くやってたってのに、工務店じゃ、もう徳次郎さんと節子さんの二人きりですよ」
「ええ……そうですね」
「駐在の高見さんも亡くなったし――そう言えば、郵便局の大沢さんも引越したんですよねえ。ああ、図書館の柚木さんも辞めたんですよ。御存じでしたか」
静信は瞬いた。
「いえ。お辞めになったんですか?」
「そうなんですよ。これも急な話でね。もうずいぶん前になりますよ。八月の終わりか、九月の頭だったかな。今は保育園の事務をやってる|寿美江《すみえ》さんが、見よう見まねで図書館の世話もしてますけどね」
定市は軽く首を振って、あらぬほうを見る。
「つい先日――二日ほど前だったかな、小学校の校長もね、辞めたんだそうで。もともと腎臓壊してて、透析するのしないのって按配だったらしくてね、それがいよいよ良くないらしくて、とうとう学年半ばで辞職ですわ。なんかこう……年寄りの歯が抜けるみたいにぽろぽろと人が欠けてる気がしてね」
静信は頷きながら、わずかに胸騒ぎを感じた。村は比較的、村の内部で完結しているが、柚木や小学校長のように、村外から働きに来る者がないわけではない。村外に働きに行く者はもっと多かった。
(……通勤)
太田健治、広沢高俊、清水隆司、大川茂、佐伯、高嶋。いずれも村外に通勤しており、死の前に辞職している。柚木、小学校長、やはり辞職した彼らは村外から通勤していた。
(義五郎さん)
大川義五郎は、村の外に出かけ、戻ってきたときには具合が悪かった。
何を考えているんだ、と静信は軽く額を押さえる。どうかしている。まるで――村の外を何かが取り巻いているようだ。
村の内部で疫病が流行っている。そのはずだ。なのに、どうしてだろう、これではまるで村の外部にこそ何かがあるかのようだ。
――鬼。
(……馬鹿なことを)
だが、それは映像のように明瞭だった。銛の穂先の三角形。村を取り巻いた樅の林。村から外を包囲し、林のあちこちから内部を窺っている無数の鬼たち。
[#ここから4字下げ]
村は死によって包囲されている。
[#ここで字下げ終わり]
静信はどこか酩酊したような気分で定市の許を辞去し、寺に戻って役場の石田に電話をかけた。
「石田さん、済みませんが、転出者の名簿が欲しいんです」
は、と石田は困惑したように声を上げた。
「住民基本台帳か何か、当たってみてもらえませんか。――お願いします」
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
金曜日、敏夫は溝辺町の国立病院から連絡を受け運び込まれた加藤義秀が結局、昨夜遅くに死亡したことを聞いた。
昼休み前には、上外場に住む|行田《ぎょうだ》悦子が来院した。これも明らかな貧血。鉄剤とビタミン剤の投与、抗生物質の投与、念のために全血の輸血。文字通りの暗中模索だ。
「何だか先生、すっかりピリピリしちゃってますよね」
昼休み、そう言ったのは汐見雪だ。
「分からないでもないけどねえ」言ったのはやすよだ。「忙しいでしょ、最近。そのわりに報われないからね」
そうね、と清美も頷く。仕出し弁当の蓋を開けながら、息をついた。
「何しろ、肝心の患者が悪くなるまで来ないんだから」
「でも、先生が患者さんを怒鳴ったの、驚いちゃいました」井崎聡子も溜息をつく。「あ、すごくナーバスになってるんだな、とは思ったんですけど」
「加藤義秀さん? ……そうねえ」やすよは頷く。「風邪だから煎じ薬を飲んだって言われちゃあねえ。そりゃあ、こう――がくっとくるわよ」
「そんなもんなんですか?」
訊いたのは十和田だった。やすよは肩を竦める。
「本当のところは、風邪なんて病気はないわけだからね。風邪様症候群とか言うんでしょ、最近は。要は上気道炎よね。気道の上のほうで炎症が起きてるの。冷たい空気の刺激とかアレルギーで炎症が起こることもあるけど、ほとんどがウイルス性の炎症でしょ。だったら、薬なんて何飲んだって効くわきゃないんだから」
「へえ」
「風邪の場合は、とにかく養生するしかないのよね。食べて寝て体力つけるしかないわけ。風邪薬なんてのは、それを助けるもんでしょ。別に風邪をやっつける薬ってわけじゃないんだから、飲ませとけば安心ってもんでもないしね。でも、年寄りなんて特に、薬飲めば治るもんだと思ってるわけじゃない。これを飲めば一発だ、なんてよく言うでしょ。いくら薬飲んだって、養生しなきゃ治るはずもないのにさ」
「そうだなあ」十和田は苦笑する。どこの家にもあるんですよね。我が家秘伝の風邪薬っていうのが」
「そうそう」やすよは声を上げて笑った。「卵酒とかニンニクの焼いたのとか、そういうのはまあ、身体温めて体力つける役には立つんだから理にかなってるけど、中にはとんでもないのもあるからね。我が家秘伝の風邪薬ってのは、得てして万能薬だったりするじゃない。風邪も腹痛も、何もかもそれで治るって思ってたりするのよね。それで蓋を開けてみたら、婦人病の薬だったりするのよ」
看護婦たちは笑い崩れる。
「まあ、無害なものなら気休めも薬の内だからさ、いいようなもんだけど。けど、それもちゃんと養生しての話でしょ。薬飲ませて寝かせておけばいいってもんじゃない、どんな様子か、昨日より悪くなってないか、ちゃんと食べてるか見守ってさ、それで初めて意味があるんだし、そうやって気をつけてりゃ、チアノーゼ起こす前におかしいと気がつくでしょう。結局、薬を飲ませたから大丈夫なはずだってんで油断して、あの始末なんだろうからねえ」
「なるほどなあ」
「だからって患者や家族を怒鳴っても仕方ないんだけどね。でも、気持ちとしちゃ、分からないでもないわ。とにかく近頃、忙しいでしょ。そのうえ、こうも次々に死なれると、虚しくなるじゃない。せめて患者が協力的で、頑張ったのに駄目だったってんなら諦めもつくけどさ」
「本当に最近、増えましたね。死人だけじゃなく、患者さんも」
十和田は武藤を見る。武藤は渋面を作って頷いた。
「結局、みんな不安なんだよ。最近の死人の数は尋常じゃないからな。悪い病気でも流行ってるんじゃないかって、噂にもなってるみたいだし、だから普通なら寝て済ますところを、先生に診てもらわないと安心できない、ってことなんだろう」
「その一方で、煎じ薬を飲ませて目を離しちゃう人もいるわけですね」
「難しいのよね、この病気は」やすよは湯飲みに口をつける。「なにしろ本人がぼうっとしちゃってて大騒ぎしないみたいだから。あそこが痛いの、ここがどうだのと本人が訴えれば、周囲だってそんなもんかと思って心配するわけじゃない。ところが、肝心の本人が自分の具合の悪いことに気づいてないんでしょ。感情が鈍磨しちゃうみたいなのよね。おかけで最近、顔を見ると分かるようになっちゃったわ」
そうね、と清美も頷く。
「他人事みたいな顔をしてるもんね」
「そうそう。だから家族が頼りなんだけどねえ。意外に見てるようで見てないもんなのよね、家族の顔なんて」
「そうねえ」
「行田悦子さんもあれでしょうか」
律子の問いに、やすよは頷く。
「だろうね。そういう顔だったわ」
しんと休憩室の中が静まり返った。彼らにとって「あれ」とは、目下のところ罹ったら助からない絶望的な病を意味している。
「なんか……恐いですね」
雪がぽつりと言って、それでさらに深い沈黙が降りた。揃って溜息をついたところに電話が鳴った。間近にいた律子が受話器を取った。
「あのう、高野ですけど」と、電話の相手の声がする。パートの高野藤代だった。朝いちばんに今日は休むと連絡が来ていた。「先生はおいでですかねえ」
「いま、来客中ですけど。お呼びしましょうか?」
「ああ……じゃあ、いいです」言って、藤代は口ごもった。「あのう……先生に伝えてもらえませんかね。……あたし、今日限りでそちらを辞めさせてもらおうかと」
「藤代さん」
「ごめんなさい、忙しいのに済みませんねえ。でも、あたし、とてもじゃないけど恐くて恐くて」
律子は言葉に詰まった。藤代はずっと不安を訴えていたのだ。そして、事態は拡大こそすれ、いっこうに収束する気配を見せない。
「こんなに次々と死人が出て。次は自分じゃないかと思うと……」
律子はかける言葉を持たなかった。藤代を責めるわけにはいかない。最前線にいるのだ、と言う恐怖感は忘れようと思っても忘れられるものではない。律子ら看護婦ですらそうなのだから、掃除や雑用のために来ている藤代なら、なおさらだろう。
「先生は大丈夫だって言うけど、本当に大丈夫なのか分からないでしょう。ゴミを捨てる時なんか、針がどっかから出てないかと思って心臓がどきどきするんですよ。だから」
「……分かりました」
「済みませんねえ」
「先生にはお伝えしておきますから」
お願いします、と藤代は言って、電話を切った。律子が受話器を置くと、全員が怪訝そうな表情で律子を見守っていた。
「藤代さん。……辞めるそうです。恐いからって」
清美が大きく息を吐いた。
「仕方ないわよねえ。何言ってんの、大丈夫よ――なんて安請け合いはできないし」
誰もが無言で頷いた。――頷くしかなかった。
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
土曜日、敏夫は車を上外場に向かって走らせる。うろ覚えの行田の家を探し、地所に車を乗り入れた。納屋の前で大根を干していた老人が驚いたように腰を浮かせた。悦子の夫、|文吾《ぶんご》だろう。
「若先生」
「悦子さんの具合はどうです」
敏夫は車を降りるなり訊く。行田は腰を屈めて頷いた。
「はあ……」行田は困惑したように答えた。「お陰さんで、今日はいいようで……」
「いい?」敏夫は行田の顔を見る。「今は寝てるのかい」
「さあ……ついさっきまで、昼飯の片づけをしてしましたけど」
「片づけができる程度ではあるわけだ」
言うと、行田はのんびりと頷く。
「今日の朝いちばんに来るよう言っておいたはずなんだが」
行田は言葉の意味を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]みかねたように瞬いた。
「……あの、ですけど、今日は祭日で」
「そう。全国的に土曜で祭日だ。それでも来るようにと言ってあったんだ。悦子さんから聞いてない?」
「はあ……」
ただひたすら困惑しているふうの行田を残し、敏夫は勝手に玄関に向かう。奥に向かって声をかけると、少ししてから億劫そうに悦子が出てきた。
「あら、若先生……」
「あら、じゃない。予約を入れてあったのに、どうして来ないんです」
「でも」悦子は上がり|框《かまち》に坐って瞬く。「今日は気分がいいんです」
「そういうことでなく。しばらく経過を見ましょうと言ったでしょう。ちゃんと来てもらわなくては困る」
「はい。あの……済みません」
敏夫は苛立つ。行田も悦子も少しも危機感を抱いてないふうなのに神経が尖るのを感じた。いっそのこと、ぶちまけてやりたいほどだ。悦子のそれは例の疫病だ。悦子は間違いなく発症している。そしてこれまで、発症して治癒した例はない。数日以内に全員が死亡しているのだ。
それを吐き出す代わりに、敏夫は大きく息を吐いた。
「――で、気分はいいんですね?」
悦子はどこか間延びした動作で頷く。まだぼうっとしてはいるようだった。敏夫は上がり框に勝手に坐り込み、悦子に手を出させる。脈を取ると確かに昨日よりは減っている。顔色も昨日よりは良かった。
鉄剤、ビタミン剤、抗生物質はこれまでにも投与してきたが効果がなかった。だとすると、全血の輸血が良かったのか。
「確かに、少しいいようだ。採血するよ」
「はあ……」
悦子はいかにも、不承不承、というように腕を出した。有無を言わせず末梢血を採取する。それをしまって、敏夫は悦子に念を押した。
「あんたのそれは油断しないほうがいいんだ。多少、気分が良くなったからと言って、勝手に治ったと思わないように。明日も来るんだ、いいね?」
「でも……明日は」
「いいから。明日の午前中。それが億劫だったら午後でもいい。とにかく、必ず来るように。来なかったら、また押しかけるからな」
はあ、と悦子は頷いた。玄関先に立った行田は、呆気にとられたようにそれを見ていた。
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
「若御院」
言って、田茂定市が寺にやってきたとき、ちょうど静信は、奥の私室で調べものをしていたところだった。寺と付き合いの長い定市は、別段、声をかけることもなく庫裡の奥までやってくる。庭をまわって直接、茶の間に顔を出すことも再三だった。
「ああ、こんにちは。――いえ、こんばんは、ですか」
「いま、よろしいですかな。彼岸でお忙しいでしょうし、早くお休みになりたいのは分かってるんですが、先日の件で」
静信は頷き、座布団を引っ張り出して定市に勧めた。定市は渋面を作って腰を据える。
「いかがでした」
「いかがも何もないです。どうなっとるんですか、この村は。あちこちで聞いてみたら驚くじゃありませんか。たぶんこの夏以来、越した家は二十軒じゃ利かない。びっくりするような勢いで人が減っているんです」
やはり、と静信は内心で呟く。定市はメモを出した。
「とりあえず、わたしが聞いただけのものは控えてきましたが、実際のところは、まだまだあると思いますよ」
静信はメモを受け取り、列記された名前に目を落とした。総計で二十二軒の家が引越している。中には静信に見覚えのない名前もあったが、多くは檀家だ。普通、この村では檀家の人間が転居する際には、寺に一言あるものだ。にもかかわらず、その誰についても、引越すという話を聞いたことがなかった。
「こんなに……」
「いったい、どうなっとるんでしょう。どの家も唐突に引越しているんです。その支倉の婆さんは、若御院も御存じでしょう」
「ええ」
支倉糸子は上外場に住む独居老人で、朝の勤行にもしばしばやってくる。思い返してみると、しばらく顔を見ていなかった。
「なんでも、息子と同居することになった、と言って越したらしいんですがね。しかしあの婆さんは、息子の嫁さんと昔、大喧嘩してますからね。もともと同居してたのが、嫁さんが逃げ出す形で息子共々、出ていったわけでしょう。まあ、嫁さんと仲直りしたのかもしれない、あるいは息子のほうが嫁さんと駄目になったのかもしれないが、だったら帰ってきそうなもんです。それを、同居するって、唐突に」
静信は頷く。支倉糸子と嫁の確執は、あまりにも有名だった。なにしろ問題の大喧嘩の際、逆上した嫁が包丁を持ち出している。とはいえ、別に糸子を襲ったわけではなく、包丁を握って表に駆け出し、死んでやると叫んだ、という話なのだが、それでも村では語りぐさになるような事件ではあった。それきり息子は妻を連れて家を出、それを怒った糸子とは、ほとんど絶縁状態にあると聞いていた。
「本人がそう言うのなら、そうなのでしょうが……でも、変ですね」
「でしょう? 境松の件といい、妙な話ですよ。わたしも聞いて驚いちまってね。そんなことがあるもんなんですかね」
「そうですね……」
そもそも村に残っている独居老人は、本人の意向にせよ事情があるにしろ、子供とは同居できない理由があるからこそ村に一人で残っている。もちろん事情が変わって同居が可能になった、ということもあるわけだが、それがこの数、短期間に続くというのは、少し信じがたいことだった。
「そう言えば、三安の嫁さんも逃げ出したって話、聞きましたか」
「三安――中外場の安森誠一郎さんのところですか」
ええ、と定市は頷く。
「嫁さんが|日向子《ひなこ》ってんですけどね、これが朝起きたら、いなかったって話なんですよ。あの家もね、支倉の婆さんのところと一緒で米子婆さんと嫁さんと折り合いが悪くてね、いつか支倉のようなことになるんじゃないかと中外場の連中は思ってたらしいんですが、嫁さんのほうが亭主を捨てて逃げ出したみたいで」
「事故か何かの可能性はないんですか」
「ないようですよ。とにかく、寝る時までは一緒だったってんですから。隣に寝てたはずなのに、朝起きると布団は|蛻《もぬけ》の殻、家のどこにも嫁さんがいない。夜のうちに荷物まとめて、出ていったらしいんですわ。これも、驚いた話で」
「そうですね……」
夜のうちに、と静信は内心で反芻する。ひどく胸に引っかかる。
「支倉さんは、夜に引越したんですか」
「さあ。息子と同居することになった、と言って荷物を纏めているのを見た者がいるらしいんですが、実際に家移りをしたのがいつなのか、よく分からないらしいんですよ。あの婆さん、ちっとばかり偏屈で、あまり親しい人間もいませんでしたからね。家も上外場の集落から、ちょっと離れているんで。たぶんその翌日か、翌々日だろうという話なんですが」
そうですか、と静信は呟く。なんだろう、この釈然としない妙な気分は。
「まあ、一人暮らしの年寄りが多いですね。上外場の篠田みたいに、親子で転居した家もあるみたいですけど。それよりも、ほら」
定市は身を屈めてメモを示す。
「下の安森の婆さんに、前原のセツさん、でもって猪田の爺さん。中外場の三村」
静信が意図を量りかねて定市の顔を見ると、定市は何に対してか頷いた。
「これで、山入は本当にないも同然ですわ」
「――え?」
「ほら、中外場の三村と言ったら、山入の下の山を持ってるでしょう。北山のちょうど裏あたりですわ。爺さんが頑張って、未だに山に入ってた。それが息子が転職するってんで、一家五人、越したんですよ。安森のみすずさんは、山入一帯の山持ちですよ。もう山は諦めてたみたいですけどね。爺さんが死んだ時に、かなり物納もしちゃったんで。前原のセツさんは、林道辺り一帯の山持ちでしょう。セツさんも山はもう諦めてたみたいですけど、丸安がぽつぽつ木を伐り出してましたからね。その林道の先は猪田爺さんの持ち山です。あの爺さんはまだ山で食ってたんですよ」
静信は眉を顰める。
「これで山入に入る連中は、ほとんどいない勘定になるんで。残ったのはもうずっと放置されてる山か、物納された山か。山入の三人も死んだし、出入りする連中もいなくなったしで、まったく山入って場所はないも同然になっちまった。――まあ、猪田の爺さんなんて、自分が死ぬまでは、なんて言ってましたけど、ああいうことがあったら気味が悪くて山入に行く気になれんでしょう。最近、山の中にゃ野犬も多い。前にも野犬に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれて大怪我したことがありますしね。とうとう見切りをつけたってことなんでしょうが」
定市は言って、深い溜息をついた。
「これもご時世ってもんなんですかね。これまで村じゃ、あまり人が減ってるふうじゃなかったでしょう。過疎だ過疎だと言われるわりに、外場じゃよく人が残ってた。大したもんだと思ってたんですが、時流には逆らえないってことなんですかね。とはいえ、こうもバタバタと人が減ると、何というか複雑な感じがしますねえ」
そうですね、と答えながら、静信は途方に暮れた気分がしていた。うまく言えない。なにか理解不能なものが目の前にあって、|目眩《めまい》を誘うような感じ。増え続ける死者、疫病のおそれ、それと転居者との間には何の関係もないはずだ。にもかかわらず、歩みを合わせるようにして人が村を出ている。死者と転居者と、それは別物でありながら、住人の減少、という事実であることには変わりがない。何か意味がありそうな気がする、けれどもどんな意味が――どんな関連性があるというのだろう? 疫病に気づいて逃げ出したわけではないだろう、にしては行動が早すぎる。
考えながら田茂を送り出し、静信はふと思いついて車を出した。
なにもかもが釈然としない。そもそもの最初に立ち返って考え直してみるのも悪くないだろう。全ては山入から始まった。確かなのはそれだけだ。山入に行ってみれば、何かが見つかるかもしれない、と漠然と思った。
我ながら雲を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]むような気分で車を山入に向け、静信は改めて愕然とせざるを得なかった。
――道が、ない。
山入に向かう切り通しの途中で土砂崩れが起こり、かなりの範囲に渡って道が途絶していた。たかだか二月にも満たない前、静信が辿った道は消えていた。いつぞやの雨だろう。瞬間的な雨量こそは凄かったが、近辺の貯水量にはさしたる恵みをもたらさなかった雨だ。どこかでも、干上がって割れた斜面が、突然の大雨で崩れた、と言っていた。
これほど山入は孤立していたのか、と粛然とする思いだった。土砂の山の向こうに、小さな明かりが何度か明滅した。反射板のような光は小動物の目だろう。あるいは野犬のものかもしれなかった。
静信はハンドルを抱き、顎を乗せて土砂の山を見つめる。道が消えていることはもちろん、それがこのときまで誰にも知られなかったことに衝撃を受けていた。誰ももう必要がなかった、というのもある、野犬が出没して危険だというのもあっただろう。――それにしても。
本当に山入はあの日を境に死んだのだ。住人を失い、野犬や小動物を除いては、訪ねる者さえ失った。人々の意識のうえから消え、思い出の中にしか存在しなくなった。本当に、消失してしまったに等しい。
(連絡をしないと……)
道が塞がれていることを、役場なりに連絡しておかないと、と思いながら、果たしてそうすることに意味があるのかだろうか、と思った。辿るものを失った道も、また死亡してしまったに等しい。
村は死の中に孤立している。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
七章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
1
[#ここで字下げ終わり]
敏夫は控え室に居座って、いらいらと時計を睨んでいた。三時を過ぎて、我慢ならずに受話器を取った。行田の家に電話をする。
あれほど言ったのに行田悦子が来ない。今日は日曜だ。病院は本来、開いてない。悦子も行田もそれを気にしているのだろうが、そんなことを気にしている場合ではないのだ。
呼び出し音は十六を数えた。行ってみようかと電話を切ろうとしたところで、ようやく相手が出た。出たのは行田文吾だった。
「ああ……若先生」
行田は狼狽したような声を上げた。
「悦子さんが来ないんだがね。どうかしたのかい」
「いえ」と行田は口ごもり、それからおずおずとした声を出した。「あの、いくらなんでも日曜じゃ申し訳ないんで。本人も気が咎めるって言うし、月曜に行かせようかと……」
敏夫は溜息をつく。
「行田さん、脅すわけじゃないが、悦子さんのその病気は、目を離さないほうがいいんだ。まだ確かなことは言えないが、ガツンと悪くなる可能性がある。そうなったら、悦子さんも歳だし、最悪の事態になることも考えられる。だからこそ、日曜でもいいから来てくれと言っているんだ」
「はあ……」
「あんたが悦子さんの生き死にに興味がないというのならいい。悦子さんも、それでいいなら勝手にするさ。だが、女房のことが心配だったら、余計な気を廻す暇に連れてきてくれないか」
「しかし……」
「おれは来てくれ、と言ったんだ。朝から病院のほうに詰めて待ってる。あんたはおれに気を遣ってくれたつもりかもしれないし、それには感謝するが、同じ気を遣ってくれるなら、朝いちばんにさっさと来て、早めにおれを解放してくれたほうが、助かるんだがね」
済みません、と行田は言って、これから悦子を連れてくる、と言う。敏夫は息を吐きながら電話を切り、そうして軽い自己嫌悪を感じた。
医者には患者に来いと命令する権利などない。それは患者の自由意思に任されている。敏夫は村人の生命と健康を預かっているが、それを監督する責任を負っているわけでもないし、監督する権限があるわけでもなかった。それを無視して頭ごなしに来いと命じた自分が苛立たしい。それをさせる行田にも腹が立った。なによりも腹立たしいのがそうやって命じた振る舞いが、ひどく父親に似ているように思われたことだった。
村人の生命と健康を預かっているのだと、そう口先では言い、村人のそれが損なわれることを、自分に対する侮辱であるかのように振る舞っていた父親。怪我をした患者には、不注意を責め、病気をした患者には不養生と家族の不注意を責めた。
敏夫は舌打ちをする。自分の振る舞いは、父親のそれとまったく似ている。それが我慢ならないほど不愉快だった。
(冷静になるんだ……)
村人が危機感を抱いてないのは仕方がない。そもそも敏夫自身が、無用な危機意識を抱かせたくなくて事態を伏せているのだ。実情をぶちまければ、行田も危機感を抱くだろう。それをあえて伏せておいて、行田を責めるのでは理に合わない。
自分にそれを言い聞かせているうちに、済みません、と声がした。敏夫は軽く苛立ちながら立ち上がる。インターフォンがあるのに目に入らないのか、とそんなことに苛立っている自分の理不尽に、いっそう苛立った。
出てみると、やはり行田で、そして悦子の具合は悪化していた。明らかに一昨日よりも状態が良くない。それを電話で呼びつけたことに、敏夫の自責の念はいっそう膨らんだ。悦子は足許が怪しい。この状態で出歩くくらいなら、敏夫のほうが行くべきだった。それがまた敏夫を不快にする。やはり悪化しているじゃないか、だったらどうしてそう言わない、と行田に対する怒りに形を変え、神経を尖らせるから手に負えない。――実際、敏夫は自分の勘定の手綱を、自分でも御しきれていない、という自覚があった。
悦子の状態が悪化ししていることに対しては、何とか何も言わずに通した。とにかく採血をし、採尿する。尿は色が濃く、濁っている上に量が少ない。呼吸には微かに喘鳴が交じっている。もう一度、全血を輸血した。他に有効だと思われる治療方法が思い浮かばなかった。
くれぐれも容態が急変ししたら、自分を呼ぶなり救急車を呼ぶなりするように言い渡して返した。だが、そう言った敏夫自身、悦子を救えるなどという甘い想像はしていなかった。
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
かおりが目を覚ますと、もう昼が近かった。カーテンを開け、窓を開くと、どこか秋めいた風が通った。気温こそはまだ涼しいというのにはほど遠かったが、空が少し高くなった。風の肌触りはどこか硬い感じがする。
九月二十五日。九月も終わりに近づいた。そして恵の三十五日の法要から七日。|六七日《ろくしちにち》で四十二日だ。
かおりは着替え、佐知子に小言を言われながら遅い朝食に形ばかり箸をつけた。
「日曜ぐらい家事を手伝おうっていう気はないの?」
佐知子はかおりをねめつける。
「いつまでも、うじうじして。恵ちゃんが死んだのを言い訳にして、だらだらしてるだけじゃないの。いい加減にしなさい」
そういうわけじゃない、と思ったが、かおりは口に出しては言わなかった。結局のところ、佐知子にとって恵の死は、少しも重大なことじゃないのだ。だから早く片づけてしまえと急かし、かおりがいつまでも片づけられないことを責める。
小言を続ける佐知子に生返事をして部屋に戻った。
「……でも、あたしは忘れないよ」
かおりは窓に坐ってひとりごちる。
恵は幼なじみだった。いちばんの親友だった。かおりは恵が好きだったし、だから周囲の大人がなんと言おうと、恵のことを片づけたりはしない。ずっと覚えているし、ずっと悲しい。恵の死を嘆いている。
そう思っているのに、かおりは近頃、そう意識しないと恵の死を忘れそうになる自分に気づいていた。恵が死んだ直後には、何を見ても恵を思い出したし、何かにつけ恵がいれば、と思った。恵のことを思い出しただけで涙が溢れて止まらなくなったのに、今は一生懸命、恵との思い出を辿らないと涙が出てこないのだった。