「……そうですか」
いったい、どうしてこんな他家の事情を延々と聞く羽目になったのだろう、と静信が内心で困惑したとき、由起子は言った。
「そんな按配だったのに、日向ちゃんに呼ばれたって」
「――え?」
由起子は、だから、と説いて聞かせるように言う。
「日向ちゃんから連絡があって、一緒に住むことにしたって、そう言うんですよ。でも、妙な話でしょう? 日向ちゃんが戻ってくるなら分かるんですよ。でも、一緒に住むって、何も三安が引越すことはないわけじゃないですか。弘ちゃんは勤めだってあるわけだし。それが弘ちゃんも勤め辞めて、山も田圃も放り出して、嫁の所に行くなんてこと、あると思います?」
静信は首を振った。
あり得ない。話半分にしても、それだけの確執があって出て行った――それも境松のように息子だというのならともかく、嫁に呼ばれて、一家が土地を捨てて出て行くことなど、あるとは思えない。
「まさか、って言ってやったんですよ。そんなこと、信じられるはずがないでしょ、って。でもね、米子さん、とにかくそういうことにしたんだ、の一点張りで。こう……目が据わっちゃっててね。取り憑かれたみたい、って言うんですか。どこに行くとも、どうするとも言わないんです。結局、転居先も言わないまま、出て行っちゃって。それも家財道具なんて残したもままですよ。あたし、トラックの荷台を見たんですから。本当に最低限って言うんですか。申し訳ていどに荷物を積んで、夜のうちに出て行って。あたしはもう、呆れるやら気味が悪いやらで」
それは異常だ、と静信は思った。その転居はどう考えもおかしい。日向子と同居するために、という米子の言い分は嘘だとしか思えなかった。しかしながら、なぜそんな嘘をついて村を出て行く必要があったのだろう。土地があり家がある。仕事があり生活があったのだ。それだけのものをかなぐり捨てて、そっと逃げ出すならともかく、見え透いた嘘までついてまで、どうして一家は村を引き払わねばならなかったのだろう。
由起子は溜息をついた。
「またねえ、うちの息子が怖いことを言うもんだから、なんだか気味が悪くって」
「恐いこと?」
ええ、と由起子は声を低める。
「まさか、日向ちゃんが家の裏にでも埋まってるんじゃないだろうな、って」
まさか、と言いかけ、静信はそれもあながち否定できないことに気づいた。――いや、違う。可能性の有無の問題ではない。三安の転居には、不吉な想像を否定できないほどの不可解さがつきまとっているのだ。
静信は帰り道、考え込まざるを得なかった。問題は疫病だったはずだ。夏以来、続いている不可解な死。それについて、静信は調べているはずだった。確かに夏以来の死者の数は尋常ではない。しかしながら、境松や三安のことを考えると、真に異常なのは人が死んでいることではない、というふうに思えた。
何かが村で進行している。疫病はその一部でしかないのではないか、という印象。だが、何が進行しているというのだろう。不審な転居と死者と、その間にどんな意味があるというのだろう――。
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5
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この日、敏夫は夕方になって行田悦子の死亡を伝える電話を受けた。敏夫が駆けつけたとき、悦子は間違いなく死亡していて、それも死後数時間が経っていた。夫の文吾が山に入っている間に死亡したものらしかった。死に顔は穏やかで、着衣の乱れもなかった。昏睡してそのまま息を引き取ったのだろう。敏夫は機械的に急性腎不全と死亡診断書に書き込んだ。
診断書を手渡し、敏夫は行田に悦子の採血をさせて欲しいと申し出たが、案の定、行田はこれを拒んだ。血液検査ができない以上、推測するしかないが、悦子は年齢のわりに良く保った。早めに来院させ、処置をすれば、とりあえず増悪を軽減することはできるのだ。だが――と、病院に戻り、患者に忙殺されながら敏夫は思う。問題は村の連中が、なんでもない症状なら病院に駆けつけてくるくせに、本当に具合が悪くなると病院を忌避することだ。本人も体調が優れないから出かけることを嫌がる、そうしているうちに身動きができなくなる。
どうすれば、連中を即座に来院させることができるのだろう、思い悩みながら診療時間を終えた。静信がやってきたのは、自室に退ってカルテを睨んでいるときだった。
「――どうだ?」
開口いちばん、静信は言った。敏夫は投げ遣りに、絶望的だ、と答えた。
「やはり、前駆症状になるのは貧血だな。発熱もあるが、あまり高くはない。それから三日ていどで劇的に増悪する。多臓器的な機能低下、それに伴う軽い浮腫や軽微な黄疸、あるいは免疫機序の低下によるセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]や炎症。抗生物質は効かないから、細菌性のものじゃない」
「耐性菌は?」
「バンコマイシンでも効果がない。おそらく原因になっているのは細菌じゃないんだろう。とりあえず、貧血が出ている段階で全血の輸血をすると、多少の延命効果がありそうな感じだな。貧血以外に特徴的だと言えるのはセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]だ。表出血管に近い部位に、必ず虫さされの膿んだような痕跡が見つかる。媒介生物がいることは確実だと思うが、具体的に何なのかは特定できない。患者同士の共通項はその程度だ。本人の身体的特徴、生活習慣、環境、いっさい関係がない。水や土壌、食物の汚染は考えられない。中毒じゃない、感染症だ。そこまではとりあえず、確実だと言っていいだろう。――それで、そっちは?」
静信はノートを開いた。挟んだコピーを敏夫に寄越す。
「共通項は相変わらず、見つからない。御覧の通りだ。あと、――これが関係あることなのかどうか、分からないんだが……」
静信は口ごもって。敏夫は頬杖をついて、先を促す。
「山入の義五郎さんは、村外に出かけて戻ってきたときには具合が悪かった」
「前にも言ったろう、それは」
言いかけた敏夫を静信は制す。
「太田健治、広沢高俊、佐伯昭、高嶋靖夫、清水園芸の隆司さん、そして大川の茂さん、この六人は村外に通勤しているんだ。そして――死亡の直前、突然、退職している」
敏夫は首を傾げた。
「なんだって?」
「だから、死ぬ前に家族にも無断で辞職してるんだ。それも、ものすごく唐突に、理由もなく辞めている。広沢の高俊さんに至っては、出勤しているふりをして溝辺町のパチンコ屋で時間を潰していて、そこで倒れてる」
「妙な話だな……」
「死んだ人間のうち、村外に通勤していたのは六人。その全員が死の前に辞職しているんだ。……これはどういうことだと思う?」
分かるもんか、と敏夫は答えた。
「ただ、少なくとも疫病とは無関係だろう。そいつは症状じゃない」
笑ってみせたが、敏夫自身、釈然としなかった。偶然の一致なのだろうが、にしても六人が六人、全員とは。
「あと、これも関係ないとは分かっているんだが……。人が減っているんだ。気付いていたか?」
「減ってるのは分かってる」
「そうじゃなく。死亡だけじゃない。転出が多いんだ。引越したのか、いなくなったのか分からない者も多い。それも唐突に村を出ている。近所に何の挨拶もなく、夜中に逃げるように村を出ているんだ」
言って、静信はメモのコピーを差し出した。静信のものではない、枯れた文字で二十二の名前が記され、その末尾に、これは静信の字で「安森(三安)?中外場」と書き添えてある。
「引越の様子も変なんだ」
言って、静信は境松や三安の事例について語る。敏夫は眉を顰めた。確かにその状況は奇妙だった。だが、疫病に気付いて逃げ出したのでない限り、転居は無関係だ。
「石田さんにも住民票をあたってもらった。ところが、八月からこちら、転出の届けはないと言うんだ」
「一軒も?」
「一軒も。高見さんのところでさえ、届け出されていない」
「変な話だな、それも」
敏夫はメモを眺めたが、さほどの感興を誘われたわけではなかった。疫病とは無関係であることは明らかだ。どれだけの転居者がいようと、それは敏夫の領分ではない。
「図書館の柚木さんが辞職したとか、小学校の校長が辞職したという話も聞いている。……何かおかしくはないか?」
「そりゃあ」と、敏夫はメモを放り出した。「妙と言えば妙だが、だが、それはこの際、関係ないだろう」
敏夫は生真面目な様子で頷く。
「とは思うんだ。けれども釈然としないんだよ。村で何かが起こっている気がして。なんだか、疫病もその一環だという気がする」
「気のせいだ」
敏夫は断言した。微かな苛立ちのようなものに襲われた。
「そうかもしれないとは思う。けれども、これは定市さんの指摘なんだが、その転居リストを見てくれ。山入に出入りしていた人間が綺麗さっぱりいなくなっているんだ。山入に住んでいた三人が死んで、山入以外の場所から周辺の山に出入りしていた人々もいなくなった。本当に山入に関係する人間は、いなくなった勘定になる。山入、というところが気にならないか?」
敏夫は溜息をついた。
「何でも結びつけりゃいいってもんじゃないだろう」
「しかし」
「確かにあれも山入、これも山入だ。転居者が多いのも確かだし、その様子が妙なのも認める。――だが、それと疫病とどう関係があるっていうんだ?」
それは、と静信は俯く。
「これだけのことを調べるとは、いかにも御苦労な話だな。だが、これはおれたちには関係ない。いま考えないといけないのは、例の疫病のことなんだ。勢いがついているんだ、分かっているか?」
「それは……」
「お前は完全に、調査の目的を履き違えてる。おれたちは何とか、一連の死が伝染病によるものであることを証明しないといけないんだ。どういう病気なのかを特定して、治療方法を探さないといけない。にもかかわらず、こいつは前駆症状が読みにくく、周囲が不調に気づいたときにはどうにもならないところに至っている」
敏夫は吐き捨てた。言っているうちに、自分が自分の言葉に触発されたように苛立っていくのが分かった。
「症例が必要なんだ。にもかかわらず、村の連中は悪化するまで医者にかかろうとしない。素人判断で民間療法に頼る。いよいよの事態になってから連れてこられたって、助ける方法もなけりゃ、経過を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]むこともできやしない。――感染症なのは間違いない。たぶん媒介生物がいる。分かるのはそれだけだ。肝心の病気の辻褄さえ合わない。おれは確かに疫学の専門家じゃない。研究者でもない。単なる一介の町医者だ。おれに分かることには限りがある、それは否定しない。だが、これでも最善は尽くしてる。だが、調べても調べても、こんな症状が起こるはずはない、という気がするばかりだ。造血段階の異常じゃない。骨髄細胞の異常でもない。内出血も見られない。残るのは溶血だけのに、溶血反応は出てこない。起こるはずのない貧血が起こってる。それも激烈に悪くなる。ぜんぜん症例が足りないんだ。だから死に至る機序でさえ矛盾だらけで整合しない」
敏夫はカルテの山を叩いた。
「肝心の患者はいよいよの段になるまで病院にやってこようとしない。そのくせ意味もなく不調を訴える患者が増えてる。最近、一日にどれだけの患者が来ていると思う。スタッフだって緊張している。疲れているんだ」
「好きで出て行った連中のことなんか知るもんか。お前は時間を浪費したんだ。そのうえ、定市さんに訊いただって? 定市さんはお前がそうして、あちこちを嗅ぎまわっているのをどう思ったと思う。それでなくても村の連中だって馬鹿じゃない。何かがおかしいと気づき始めてるんだ。そこに寺の若御院があちこちで聞き込みをしてるなんてことが広まってみろ、不安を焚きつけるようなものじゃないか!」
鬱屈した者が噴出した形になった。静信は何かを言いかけたが、結局、口を噤んだ。その顔には敏夫に対する同情の色が見えた。静信はたぶん、敏夫が焦り、疲労から苛立っていると思ったろう。そしてそれは事実なのだが、いまはその|憐愍《れんびん》めいた視線が神経を逆撫でした。
「そんなことをする暇があったら、寺に来る連中の顔色に気をつけてくれ。具合の悪い人間はいないか、家族が風邪気味だという話はないか、耳をそばだててくれたほうが何倍も有益だ」
静信は不服を言わなかった。分かった、とだけ短く答え、何に対してか、軽く頭を下げた。
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6
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ランプに火を入れながら、静信は自分が落ち込んでいると聖堂に来るのだ、と改めて確認していた。
すでに午前零時を過ぎている。朝の早い寺は寝静まっているし、事務所にいようと私室にいようと、顔を出す他人のことなど考える必要はない。単に一人になりたいだけなら、寺のどこででも好きなだけ一人でいられた。なのにわざわざ、ここまで足を運ぶ以上、自分はこの荒れ果てた聖堂に何か慰めを見いだしているのだろう、と思う。
単なる廃屋なら、これほど頻繁に足を運んだかどうか怪しい。たぶんここが祠であることに何か意味があるのだろう。同様に、ここが真実、教会なら、やはり足を運んだかどうかおぼつかない。静信は祭壇を見上げ、もしもそこに確固とした信仰の対象が掲げられていたら、自分はこれほどこの場所に執着しないだろう、という気がした。明らかに聖堂でありながら祭壇に祀られる神はいない。それが気に入っているのかもしれなかった。
そう――かつてはきっと、そうだったのだろう。今は、そればかりではない自分を自覚していた。その証拠に、ランプに明かりを入れてからずっと、静信は無意識のうちに耳を澄ませている。
いつの間にか、虫の声が絶えている。聖堂を覆っているのは、風の音だけだった。そこに蝶番の軋む音が微かに響く。
「こんばんは」
静信は、傾きかけたドアの間から滑り込んできた少女に軽く手を挙げた。
「涼しくなったね」
「ええ」と、沙子は頷く。「夜の匂いがすっかり変わったわ。秋が来るのね」
「そのようだね」
「少しは進展があった?」
近くのベンチに腰を下ろす沙子に、静信は首を横に振って見せた。
「そう……大変ね。それで室井さんは、落ち込んでるの?」
「どうだろうね」
「分からないの?」
うん、と静信は正直に頷いた。
「何とかしなければ、とは思うんだよ。なのに何もできない自分が悔しいのは事実だ。こうしている間にも、たくさんの人が死んでいこうとしている。なのに自分にできることはいくらもない」
「……虚しい?」
「そうなのかな。――ただ、ぼくより敏夫がね。敏夫は医者で、患者を救う義務を背負ってる。なのに救えない。患者がどんどん死んでいく。焦るのも分かるし、無力感も分かる。どうにもできない自分に苛立っているし、怒っているんだ。とても荒れてる」
「可哀想ね」
「うん、そうなんだよ」
静信は息を吐いた。――そう、自分は充分に敏夫の心情を分かっているつもりだ。敏夫の置かれた立場に同情もしている。友人だから助けてやりたい。なのにそれができないでいる。
「ぼくとしては、何とか敏夫を手助けしてやりたいと思っているのだけどね。けれども実際には何もできないんだ。敏夫はそんなぼくに苛立つ」
「室井さんが役に立たないから? それ、八つ当たりって言うんじゃないから」
「うん、そうなんだよ。あれはぼくに腹を立ててるんじゃなくて、自分に腹を立ててるんだと思う。そして本来、敏夫はそう言う振る舞いを自分に許す奴じゃない。だから見ていて、切なくなるんだよ」
沙子は首を傾ける。静信はそれ以上言わずに、ただ微笑った。
静信は敏夫を助けてやりたい。敏夫の気性は分かっているから、彼がいま、どれだけ自分に腹を立てているかも分かっているつもりだ。だから静信なりに最善を尽くしているつもりなのだけれども、敏夫にはそれが最善とは映らなかったらしい。時間を浪費した、と責める。
責められたこと自体は、格別、気落ちするようなことでもない。悲しいのは、敏夫の苛立ちを静信が理解していることが敏夫に通じていないことだ。敏夫の焦りは分かっている、だからそれを少しでも軽減してやりたいと思っている、その末の行動であることを、敏夫に理解されていないのが悲しい。――いや、敏夫もそれは分かっているのだろう。けれども自分に苛立って、いまは静信に当たらないでいられない。静信を責めたのじゃない、自分を責めたのだ。それすらも分かるから、不当だと怒ることもできないし、後から振り返ればいっそう自己嫌悪にかられるような、そんな行動を取ってしまうと敏夫が不憫だ。
「上手く言葉にできないけど、室井さんの気持ちはなんとなく分かる気がするわ」
「そうかい?」
沙子は頷く。
「気持ちがすれ違ってしまってるのね。ううん、尾崎の若先生は、状況に焦って気持ちが閉じているんだわ。だから室井さんが通信を送っているのに、それを受け取ることができないの。室井さんはそれが切ないのね? 自分の気持ちが通じないというより、相手が心を開いてくれないと、通信を送っても受け取ってもらえないのが切ないんだわ。人間はそんなふうに、孤立してるの。それが堪らない――違う?」
静信は苦笑した。
「君は凄いね」
「あら、わたしは室井さんのファンなんだもの」沙子は笑った。「べつにいま室井さんの気持ちを推測したわけじゃないわ。前に室井さんの本を読んで、そんなふうに思ったことがあるだけよ」
「へえ?」
「人間は孤立してるのね。真の意味で他者と理解し合うことはできないの。分かったようなつもりにはなれても、お互いに言葉で分かってるねって確認し合っても、本当に理解できているのか、真実は分からない。理解や共感を求めて他と接触するくせに、そんなものは全部、幻想でしかないの。それってとても切ないことだわ。……室井さんの本を読んで、そう思ったことがある」
「ふうん?」
「きっと作者も切ないと思ってるんだ、って感じたの。それを思いだしただけ」
そうか、と静信は苦笑した。
「ねえ、聞いてもいい? 室井さんがいま書いているのは、どういう話?」
「……荒野をさまよう男の話」
沙子は首を傾げた。
「弟を殺してしまった兄が、街を放逐されて荒野をさまようんだ。その後を死んだ弟が追ってくる。――そういう話」
「死んだ弟が幽霊になって?」
「少し違う。屍鬼なんだ」
「しき?」
「屍の鬼。起き上がりなんだ。死体が起き上がって、墓穴を抜け出してきてるんだよ。村ではそれを鬼というんだけどね」
「……ああ」と、沙子は少し考え込むようにした。「幽霊とは違うのね? 起き上がりだから、ちゃんと身体があるんだわ。けれどもそれは死体としての身体なの。甦ったわけじゃない」
「うん、そう」
「けれどもゾンビのような単なる死体でもないのね? ちゃんと静信が宿っていて、人間と等価の存在なんだわ。けれども、生者ではない。ぜんぜん異質な存在」
言って沙子は、屍鬼、と口の中で繰り返した。いたくその単語が気に入ったようだった。得心したように笑う。
「いいと思うわ。とてもいい。――弟が屍鬼になって兄を追いかけてくるのね? それ、創世記でしょ? カインとアベル」
「うん……まあ、そう」
沙子は何度も頷いた。
「面白い。室井さんはお坊さんなのに、仏教でない宗教色の強い話が多いのね。今度は聖書でしょ? その前はギリシャ神話だったし、その前はネイティブ?アメリカン」
「ああ、そう言われてみるとそうかな」
「でもって、またカインなのね」
静信は瞬いた。
「また?」
「そう。異端者の話よね。カインって異端者でしょ? なんていうのかしら――理不尽に区別された者」
「聖書のカインには、それなりの含蓄があるんだよ」
「知ってるわ。聖書の話じゃなくて、室井さんの作風の話よ。神様に見放された者の話。カインって、そうじゃない? カインにしたらどうして自分が神様に拒絶されるのか分からなかったと思うわ。自分は理不尽に否定されて、疎外されてると感じたと思うの。だからアベルをねたんで殺したんでしょ?」
「そう読むのが普通だろうね」
「必ずそういう話なのね。神様に見放された誰かの話」
「そうかな」
沙子は頷いて立ち上がる。両手を背中で組んで、半壊した空洞の祭壇を見上げた。
「……角が生えた男の話。突然、角が生えてきて、男は常人と違ってしまった自分に怯えるの。謂われのない差別を受けそうで、懸命に隠してる。でも、男は神として崇められてしまうのね。そして奇蹟を要求される。奇蹟を施す力はないのに、角だけがある」
静信は歩き回る沙子を見守りながら、困惑した気分で頷いた。
「男は差別されないことに安堵したけど、奇蹟を施す力はない。それが他人に知られると、角は神の証ではなく、単なる異端の証明に過ぎないことに気づかれるんじゃないかと怯える。けれども誰も、いっかな奇跡が起こらないことで彼を責めない。――男はやっぱり異端者なの。それを神と呼んで聖別することで排除しているのよ。角は異端者の証だわ。カインにつけられた印のようなもの。それによって理不尽に否定されてしまって社会の中から排除されてしまう。主観的には謂われのない区別よ。でも、そこから逃れることができない。カインと同じ、でしょ?」
静信は頷いた。
「そのようだね」
「自覚してなかったの、室井さん」
「うん。いま、気づいた。確かにそうだ」
異端者という同形反復。
「面白いのね。わたしは室井さんの作品のそこが好きなんだけど。神様に見放された痛み、みたいなもの? ミノタウロスは自分が神でないことを見透かされ、排除されるんじゃないかと怯えて、自ら奇跡を起こすのね。罪人を殺すことで祟りを起こす。村人は彼を畏れ敬って、壁をひとつ築くの。つまり、彼をより遠ざけるのね。そして殺した数だけ壁ができて、彼の周囲には巨大な迷宮が作られていく。迷宮の奥深くに隠されてしまう。そして彼の怒りを静めるために|生贄《いけにえ》を差し出す。彼が望んだのは、神として振る舞うことで社会の中に入れてもらうことだったのだけど、社会は彼を拒み通す――」
沙子は言って足を止め、静信を振り返った。
「でも、不思議だわ。どうしてなの?」
「室井さんのお話は、全部そんなふうじゃない。でも、室井さんは神様に見放されているようには見えないわ。村の中の重要人物でしょ? 村の人はお寺の若御院が好きみたいだわ。みんな褒めるって、辰巳が言ってたもの。敬愛されて、村の中の重要な位置にちゃんと組み込まれてる」
「組み込まれてるのは確かだね」
「でしょ? でもって室井さんも村のことが好きみたい。とても大事にしてる感じを受けるわ。いつかのエッセイもそう。いまだって余暇を割いて、疫病対策のために走り回ってるんでしょ?」
「そうだね。……そう、ぼくは確かに村が好きだよ。大事だと思ってる」
「でも、作品はそんなふうなのね」言って沙子は悪戯っぽく笑い、背を向ける。「そして、傷がある」
静信は無意識のうちに時計を握っていた自分に気づいた。
「……なぜ?」
沙子が振り返って、静信は首を横に振った。
「分からない」
実際、静信は村を愛している。静信は疎外されていない。確かに信仰の要として組み込まれているし、村人は静信に対して敬愛を惜しまないだからこそ、静信もそれに報いたいと思うのだ。それで今も奔走している。
だが、同時に静信が何かから逃げ出そうとしたことも事実なのだった。沙子に指摘されるまで自分でも気づいていなかったが、静信の書くものは「神様に見放された」痛みによって貫かれている。ひょっしたらそれこそが、正体不明の衝動の由来なのかもしれなかった。
自分は心のどこかで「神様に見放された」と感じており、その痛みからかつて自分を殺傷しようとしたのかも。それは確かに、神に拒まれたカインの姿に重なる。だから自分は今回もまた、無意識のうちにカインを主人公に選んだのだろうか。
問題は、静信には「神様に見放された」という自覚がないことだった。なぜ自分がそんなふうに感じるのか理解できない。どう考えても自分はそんなことを思っていそうにないし、思う必要があるとも思えなかった。
「面白いわ。室井さんがあそこまで拘るからには、室井さんにとってそれは重要なことなんでしょう? なのに自覚もなければ、自分でもなぜなのか分からないのね」
「うん。そうなんだ」
「無意識が漏出してるんだわ。作家って不思議ね」
「……まったくだ」
静信は沙子と別れ、山道を辿りながら、一歩ごとに考えた。
静信の書いたミノタウロスは異端者だった。かれは角を得て異端者になるのだが、おそらくはその本質において、そもそも異端者だったのだ。角はそれを顕現してみせたにすぎない。カインが弟の殺傷という罪において、――そして静信が自己の殺傷という罪においてそれを現したように。
(けれども、なぜ?)
確かに静信は村に組み込まれている。それも信仰の要になる重要な位置に。静信の周囲にいる人々はそれを望んでいたし、もっと肝要なことに、静信自身もそれを望んでいた。沙子の指摘通り、静信は村を大切だと思っている。それなりの愚かさ、それなりの至らなさがあることは承知していたが、それを含め、良しとしてきた。
そしてまた、静信自身はカインのように不当な区別を受けたことがない。少なくとも、静信はない、と認識していた。区別はあるがそれを不当だと思ったことはなかった。尊崇や敬愛に対しては、ただひたすら感謝する。檀家の人人が静信に対し、ときに腫れ物に触るようにして接するのは、明らかに静信自身が招いたことだった。村の中にはそれをもって陰口を言う者がいることすらも知っていたが、それらを不当だとは思わない。確かに静信は、村の常識において、「あいつは」と指さされるだけのことをしたのだ。
不当な区別はない。理不尽に否定され、疎外されたと感じたことはなかった。ならばなぜ、今回もカインでなければならなかったのだろう?
静信は事務所に戻り、原稿用紙を広げた。
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緑野は果てしないほどに広がり、やがて緑の合間に白い石と赤い土が混じり始める。柔らかな緑を蘚のように貼りつめた、起伏の多い丘陵地の果てには長大な城壁があった。堅牢なその城壁は、さながらその外部を住人の目から覆い隠そうとするかのように広がり、そして、その東の一郭には、小さな門が閉じている。
彼はその門から荒野に追い出されるまで、荒野を見たことがなかった。漠然と、不毛の地が広がっていることを知識として了解していただけだった。彼はおよそ、外界に興味を抱いたことがなかったし、そこに自分が在る風景など思い描いたこともなかった。彼にとって世界とは丘を示し、丘以外の場所は存在しないも同然だったからだ。
確かに、彼はある意味において、その丘で充足していたのだった。
野辺の一郭につましい住居を持ち、野に出てささやかな糧を得た。その頃には、まだ暖かな血の通った身体を持つ弟がいた。弟は緑野で羊を飼い、彼は住居の周囲に穀物を植え、二人の生活に事足りるだけの収穫を得ていた。隣人たちは温厚で心優しく、差し伸べられる手はいつでも温かかった。
振り返ってみれば、彼はそこで満たされていたように思う。そうでなければ何故、これほどまでに丘が恋しく、狂おしいほど慕わしく思えるだろう。
彼は実際、働くことが好きだった。家の周囲のなだらかな土地をそっと耕し、滋味を含んで黒い艶やかな色を見ることが好きだったし、土の匂いを好ましく思っていた。そこに種播き、やがて明るい黄緑の点が小さく芽吹くのを微笑ましく思っていたし、それが伸びてゆくのを見守るのは幸福なことだった。
大地と語らうようにして屈み込み、時に身を起こせば、周囲は一面の緑だった。なだらかな起伏の向こう、森の緑は頼もしく、その彼方に街の建物の突端だけが覗いている。ひときわ高い塔には真昼にも清々しい光輝が点り、それを見るたびに大いなるものに見守られている自分を確信できた。
緑野には野草が群れてささやかな花をつけ、そこに転々と白く綿毛のように羊が散って安穏と草を食んでいる。弟は時に、群を放れた羊を諭すように話しかけながら追い、時には綿羊の間に立って彼と同じように緑の森やその向こうの街の突端を眺めていた。手を休めた彼の視線に気がつけば、振り返って笑い、手を挙げる。
のどかな夕暮れ、厳かな晩鐘、人々はつつがない一日を光輝に感謝する。暖かな火影、満ち足りた夕餉、暖かな寝床と豊かな眠り、黄金の夜明け、鳥の声、風の肌触り、雨の匂い、羊小屋の寝藁の温み。
彼はそこで、本当に満たされていた。にもかかわらず、彼の中には硬い種子のように、ひとつの哀しみが生まれていたのだった。
世界はこれほどにも美しいのに、それは彼のものではない。
なぜなら、彼は異端者だったからだ。
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七章
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九月が終わり十月に入った。敏夫は九月のカレンダーを破り取る。
朝には石田から電話があった。昨日、門前の竹村美智夫が死亡したという。昼前には中外場に住む広沢豊子がやってきた。顔色が悪く、口が重い。敏夫はその顔を見て例のやつだ、と気づいた。
患者に丁寧な問診をする。そこで豊子は息子が最近、死んだこと、息子は高俊ということを告げた。
(息子から移ったのか――にしては、えらく間隔が開いている……)
敏夫は豊子の顔を覗き込みながら、ちょっと気になることがあるので、詳しく検査をすること、検査結果を聞くために明日も必ず来て欲しいことを告げた。
「はあ」
豊子は、例によって他人事のような顔で曖昧に頷いた。
「少し、経過を観察したほうがいいと思うんだ。予約を入れて時間を空けておくんで、そんなに手間は取らせない。必ず明日、来てもらえないかな」
「でも……疲れているだけだと思うんですけど。息子が死んで、気が抜けて……」
「だから心配なんだ。あんたの都合に合わせるよ。午前中が都合悪いなら、昼間でも夕方でも夜でもいい。なんだったら往診ということでも構わないから、必ず来てくれないか」
豊子は、ようやく頷いた。
敏夫も頷き、側に控えていた清美に目配せをして指示を出す。バイタルサインの計測、採血と採尿、骨髄穿刺と心電図、腹部と胸部のXP。清美は心得たふうに頷いて、豊子をどうぞ、と促した。
昼休みに入る間際になって、もう一人、水口に住む老人が例の症状でやってきた。患者は多く、午前中の患者がはけていないうちに、往診の依頼が入ってくる。敏夫はもちろん、看護婦たちも休憩を取る暇さえない。
律子がようやく食事にありついたのは、午後三時を廻ってからだった。夕方の診療も延びていて、帰宅時間がじりじりと遅れるようになっている。
「大変なことになってきたわねえ」
例によって、笑いながら、やすよが言った。
本当にねえ、と清美は笑い、弁当の残りを掻き込んで湯飲みに口をつける。もう麦茶よりも熱いお茶のほうが喜ばれる季節になった。
「あたしたちは、これで一休みできるけどね。先生は午後も明日も休みなしだから大変だ」
「あの」律子は湯飲みを見つめながら口にした。「これ、変なふうに取らないで欲しいんですけど……」
不審そうな目を向ける清美とやすよに、律子は弱く笑ってみせた。
「わたし――先生にお願いして、土曜の午後と日曜も出勤できるようにしてもらおうかと思うんです。あの……先生ひとりじゃ、あまりに大変だと思うんで」
清美とやすよは、顔を見合わせた。律子は慌てて言い添える。
「永田さんと、やすよさんが家庭があるのは分かってるんです。土日がないと大変ですよね。でも、わたしは別に世話をしないといけない人間もいないし、それに家も近いし。たがら、せめてわたしだけでもいれば、先生ももう少し休めるんじゃないかと思うんですよ。だから、言ってみようかな、って……」
清美は軽く噴き出した。
「やあね。似たようなことを考えてるわ。――ねえ?」
清美はやすよを見る。
「ホントにねえ。律ちゃん、染まってきたんじゃなァい」
「え?」
「だからね、清美さんと言っていたのよ。日曜にも病院を開けといたほうがいいんじゃないかって。若先生はきっと、あたしらに気を遣って何も言わないんだろうからさ、ここらであたしらのほうから音を売っとくのも悪くないわよね、って」
「……まあ」
清美は微笑む。
「先生はああいう人だから、よほどの状態にならないと、済まないけどやってくれ、なんて言わないでしょ。でもってその頃には、肝心の先生がぼろぼろになってるわよ。本当にこのところ休みなしで、夜中や明け方にまで駆り出されてるんだから」
「ええ……そうですね」
「だから、ここらであたしらも天使の一種だってことを思い出してもらおうかと思ってね。やすよさんと、そう言ってたの。でも、そうなると律ちゃんが気を遣うでしょ。雪ちゃんや聡ちゃんは、遠方だから出てこれないのは当然として、律ちゃんはそうじゃないし。でも、若い娘さんのデートのチャンスを邪魔するのもねえ」
「あの……」
雪が聡子と顔を見合わせる。
「あたしらも言ってたんです。実は」
「あらま」
律子らは、若い二人の看護婦を見た。
「だって、本当に先生、大変そうなんですもん。最近、疲れてるみたいでピリピリしてるでしょ? 患者さんだってこんなに多いし、土日に病院が閉まってるから、先生に遠慮して医者にかかれない人もいるし」
「そう、だから。あたしたち、先生に掛け合ってみようか、って言ってたんです。土日も来ましょうかって。そのかわり、村のどこかに寮を用意してくださいって。十和田さんだって先生にアパートを借りてもらってるんだから、できないことじゃないでしょ? なんだったらとりあえず病室でもいいし。そしたら近くなるし、あたしたちも楽だし……」