「でも伝染病ではない? 伝染しているわけではないんですか」
「伝染病と、伝染する疾病を一緒くたには語れない。だが、伝染してるという確証もないな」
「確証が――ない?」
敏夫は頬杖をついた。長谷川がそっと出したコーヒーを見つめて新しい煙草に火を点ける。
「おれにはなんとも言えないんだ。伝染病じゃないのは確かだし、断線している確証もない。うかつなことを言って村を騒がせたくないし、言えるのはここまでだ」
「でも、敏夫」
田代が口を挟むと、敏夫は黙り込む。しばらく何かを迷うように考え込んでから、口を開いた。
「おれには何も言えないが――そうだな、もしもおれの家族が死んだら、おれは火葬にするよ」
結城は少しの間、敏夫の横顔を見つめ、そして長谷川や田代と目線で頷きあった。――やはり。
「……了解しました」結城は息を吐く。重い溜息になった。「じゃあ、伝染病ではないってことなんですね」
「伝染病ではない。それに関しては信用してもらって構わない」
「これは単なる世間話として聞くんですが、どうも死人が多いでしょう。それも突然死が多い。なので――そう、健康ってものが気になるんですよ。何か気をつけることはありますかね」
敏夫は結城を見なかった。
「そうだな。貧血には気をつけるね、おれない。顔色が悪い、怠そうに見える、食欲がない、息切れがしているようだ――そういう様子があったら医者に診せたほうがいい」
「自覚症状としては?」
「ない」敏夫は投げ出すように言った。「本人が具合が悪いと周囲に訴えるようなら、突然死んだりはしないんじゃないかい。本人が無自覚ということがあるんだよ。最近、患者の中にも多いよ。本人は少しも不具合を意識してない、むしろ周囲が心配して連れてくるって例がね。そういう患者は大変なんだよ。話しかけても上の空でね。こっちの言うことを聞いてるんだかどうなのか、質問をしても答えが鈍かったりね。コミュニケーションが取りにくくなるんだ。人形か何かを相手にしてるみたいでね。まるで他人事のような顔をしてる」
「……予防する方法はありますか」
「さあ。月並みだが、きちんと寝て食うことかな。地下水は飲まないほうがいい。死体や汚物に触れるときは手袋をしたほうがいいだろうな。あとは害虫の駆除だね。特にダニ」
そうですか、と結城は呟く。感染経路が分かっていないのだろう。ダニなどが媒介している可能性もあるということか。
「それで……早めに診せれば治りますか」
敏夫はちらりと結城を見て、煙をあらぬほうに吐いた。
「――いや。単なる貧血なら治るが、そうでなければ難しいな、正直言って」
結城は息を呑んだ。敏夫はようやく、結城らに向き直る。
「おれはこの店に来る客は信用してる。さほどに馬鹿ではないだろう、とね。軽はずみな行動も取らないし、簡単に逆上して見境をなくすこともないと思ってるんだ」
結城は頷いた。
「そして、無責任な噂話もしない。そう信用してください」
うん、と敏夫は頷いた。
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6
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夏野は奇妙な威圧感と戦いながら、黙々とノートを埋めていた。単語を暗記することも、数学の例題に取り組むことも、とうに諦めている。窓の外に存在する妙なプレッシャーとでも言うべきものが気になって、作業に集中できなかった。それで窓の外に意識を向けたまま、ひたすら歴史上の語句や人名を書き写している。
手が文字を覚えてくれればそれでいい。そう思いながら手を動かして、ふと気づくとノートの端や余白に、「徹」という文字や「清水」という文字が現れている。そのたびに消すが、現れる頻度は圧倒的に「清水」のほうが多かった。それも時間を追うごとに、明らかに増えている。
自分はこの――現在の、奇妙な監視下にある、という緊張感に覚えがある。それが何に由来するものなのかも知っている、と思う。だが、恵は死んだはずだ。棺の中に納められ、夏野自身は見届けていないが、徹のように担ぎ上げられ、土の中に埋められたはずだ。
だが、窓の外に誰かがいる。暗闇の中から部屋の窓を――夏野を見ている。カーテンに映る夏野の影、それをじっと見ている。
夏野は何度目かに「清水」という文字を消して、それで諦めて書類立てから葉書を抜き出した。夏野には理解できない感性の賜物。文字も文面も、なにもかもが、自己アピールに見えないように意図されたあからさまな自己アピールという矛盾に満ちている。距離を保持しているように見えるよう意図された、あからさまな接近。残暑を見舞う言葉以外、何も書かれていない。けれどもそこには、あえて書かないのだという差出人の意図があまりにも明らかで、明らかであるというその事実が真情を露呈している。――それは恵そのものだ、という気がした。
今もそうだ。明らかな監視。けれども監視者は気配を殺し、姿を隠そうとしていることが明らかだった。それがあまりに明らかだから、逆に監視されているのだという確信を与える。
(……清水)
けれども、そんなわけはない。
夏野は立ち上がった。カーテンを開け、窓を開ける。室内の明かりが外へ向かって流れ出たが、木の幹や茂みの作る闇はかえって濃くなった。そして明らかな視線。誰かが闇の中にいて――それもほどちかいところから、自分を見ている、という確信。
夏野は闇を見渡す。誰も見えない。いないのではない、見えないだけだ。相手からは夏野が見えている。間違いなく見ている。
闇に向かって、|誰何《すいか》するようなことはしなかつたし、する気もなかった。黙って夏野は片手に持った葉書をかざした。光が当たるよう、ゆっくりと指の先で何度か廻す。誰かが近くで息を呑む音が聞こえたような気がした。そして、身動きする微かな音。
視線が強い。そんな気がする。そう思いながら右手に摘んだ葉書に左手を添える。ゆっくりと、監視者の目に見えるよう角度を保ってそれを裂いた。また、微かな音がした。
両手で葉書を二度三度と裂く。細かな紙片になったそれを、窓の外に向かって投げ捨てた。白い紙片は文字通りの紙吹雪となって舞い、闇の中に零れて落ちた。
闇を――物陰を見渡し、夏野は窓を閉める。カーテンを閉めて机に戻り、じっと耳を澄ました。微かな物音がした。今度はあまりに明らかだった。下生えの揺れる音、誰かの足音。それが窓のすぐ近くにまでやってくる。
――いる。
窓の外に誰かがいて、その誰かは小声を漏らした。意味をなさない短い声は、ごく微かな悲鳴のようでもあり、押し殺した嗚咽の最初の一声のようでもあった。
微かな物音は続いている。まるで地面を小さな生き物が這い回るような音。今ここで立ち上がり、カーテンを引き開ければ、それの姿が見えるような気がする。姿を消すには間に合わないだろう、という思い。そうしてみたい衝動を、夏野は懸命にこらえた。なぜだかは分からない。見てはいけない、という気がした。窓の外を覗いてはいけない。
それは窓の外に禁断の何かが存在すると思っているせいなのかもしれなかったし、あるいは、単にそれを見ることが恐ろしかったのかもしれない。見れば取り返しがつかない、という気がしたし、同時に見たら落胆することになる、という気がした。そうしてその奥底で、夏野が最も恐れていることは、何も見ないことなのだった。
隠れる間もないほど迅速にカーテンを開けて、そしてそこに何もいなかったら? それが即座に何かを意味するとは思わない。怖いのは、目に見えない何かがいる、という認識と、単に隠れたのかもしれないという認識の間に宙づりになることだった。
じっと耳を澄まして耐えた。窓の外の気配は付近を這い回って、やがて絶えた。夏野はノートを埋める作業に戻ったが、やはり手は頻繁に「清水」という文字を、いつの間にか綴っていた。
翌朝、ほとんど眠らないまま、夏野は裏庭に出た。薄青い光の中、雑草のまばらに生えた地面は黒い色をしている。そこに二、三の白いものが散っていた。拾い上げてみると、葉書の一部だった。
探し出した紙片はわずかに三枚。それ以外の破片は、まったくどこにも見えなかった。
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7
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七日の朝一番に、村迫家から連絡があった。朝、起きてみると三男の正雄が死んでいた、という。敏夫は暗澹たる気分になった。村迫家は博巳が死んだばかりだ。その通夜、葬儀と家中がバタバタしている間に、少年はひっそりと病み、誰にも看取られることなく死んでいったのだった。
受付が開くと、工務店の安森節子が入ってきた。顔を見れば分かる。例のあれだ。着々と惨禍は工務店を蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」の偏と同型。Unicodeに該当なし]んでいる。午後には外場に住む清水|祐《ゆう》という若者が運び込まれてきた。これもやはり発症。節子よりも容態は悪いが、救急車を呼ぶほどでもない。もはや受け入れ先の病院の不審を恐れる必要もないのだし、とりあえず、本人が望むなら、とアドバイスするに留めた。国立なりに行ったところで結果は変えられない。溝辺町の病院に行って検査入院なりすることになれば、そこで死んで二度と家には戻らない、ということだった。それを本人に言うわけにもいかず、だからいっそう、転院を勧めるのは|躊躇《ためら》われた。
控え室に戻り、グラフに書き込みをしているところに、静信から連絡があった。静信の声は固い。
「石田さんがいない」
敏夫はグラフに目をやったまま、それが、と答えた。
「失踪したんだ、昨夜。家族の話を聞くと、そうだとしか思えない」
敏夫はペンを落としそうになった。
「馬鹿な」
「奥さんは、夜、自分が寝るときには確かに起きて居間にいたと言っている。それが、朝起きると家のどこにもいなかった。車は車庫に残されたままだ。遠くに行っているはずはないと、朝から探しているけれども、未だに見つからない」
(失踪――転居)
敏夫は立ち上がる。
「石田さんのところに行ってみる」
「ぼくも行く」
石田の家で落ち合う約束をし、取るものもとりあえず駆けつけた。石田の妻の千枝は、顔色を失っていた。
「何が起こったんでしょう。――あの人がいなくなるなんて、そんな」
「落ち着いて。昨夜、石田さんの様子に変わったところはありませんでしたか? とえば顔色が悪かったとか、口数が少なかったとか」
「いえ……別に。いつも通りでした」
「夕飯は?」
「普通にいただきました。一昨日は忙しかったみたいで、家に仕事を持ち帰ってたんですよ。昨日も午前中は役場を休んでやっていたんです。でも、それも終わったみたいで、午後からは役場に行って、帰ってきてからはのんびり晩酌をして。むしろ、いつもより明るかったぐらいです」
では、と敏夫は静信に目配せをする。石田は発症したわけではない。しかし、ではなぜ、石田が急にいなくなるのだろう。それも妻が寝た後に家を出て行く理由がどこにある?
あの、と静信が千枝に声をかけた。
「済みませんが、石田さんから書類を受け取ることになっていたのですが、御存じありませんか」
「書類……ですか?」
「ええ。一昨日、家に持ち帰っていた仕事というのがそれだと思います」
ああ、と千枝は頷いた。
「それなら主人の部屋だわ。昨日、封筒に収めて机の抽斗に入れているのを見ましたから。――そう、若御院にお渡しする書類だったんですね。昨日、役場に持って出なかったんで、変だと思ったんです」
千枝は先に立って、二階の部屋に案内する。階段を上がってすぐの部屋は、もともとは石田の子供が使っていたものなのだろう。ワープロの載せられた古い学習机と、今は使われていないふうの家具が置かれ、不要品が入っているらしい段ボール箱が二、三、積み上げてあった。
「息子の部屋で――今は納戸と兼用なんです」知恵は言って恥じるように微笑み、学習机の引き出しを開けた。「ここに――あら?」
千枝は抽斗の中を探る。
「変ね。ここに入れているのを見たと思ったんだけど」
千枝は呟きながら、他の引き出しも開ける。
「おかしいわ。やっぱり役場に持っていったのかしら」
「済みません」敏夫が千枝を押しのける。「ちょっと見せてもらっていいですか。重要な書類なんです」
「ええ……どうぞ」
敏夫は抽斗を探る。そこにあるほとんどは文具やメモを書き留めた紙の類で、きちんとまとめられた体裁の書類はどこにもない。報告書ばかりでなく、資料として使ったはずのメモやコピーまで見当たらなかった。
「資料がないはずは……」
敏夫の声に、静信はワープロを引き寄せた。石田はこれを使ったはずだ。見るが、ディスクが入ってる様子はない。試しにイジェクト?ボタンを押してみたが、やはりディスクは挿入されていなかった。蓋を開け、スイッチを入れて起動してみる。
「敏夫、どこかにディスクがないか?」
「ある。三枚だけ。二枚はラベルがついてる。一枚は年賀状、一枚は住所録」
静信は敏夫からディスクを受け取る。ラベルのない三枚目を挿入したが、目指す文書は見つけられない。ワープロ本体にもセーブされていない。念のために他の二枚も挿入してみたが、タイトル通り、年賀状と住所録の文書が入っているだけで、報告書はどこにも存在しなかった。
「ない……どこにも」
敏夫は千枝に向き直った。
「どこか、他の場所に書類を移したということはありませんか。ディスクを入れているということは?」
「いいえ。主人は几帳面な性格で、あちこちに物を置き散らすような人じゃありませんから。そこになければ、家にはないんだと思います。
「馬鹿な」
千枝は困惑したように首を振る。
「机になければありません。……ええ、確かに昨日は、手ぶらでした。役所に行くのに、手には何も持ってませんでした。たいがいいつも手ぶらなんです、あの人」
「確かですか? 玄関先まで持って出たということはないですか?」
「ありません。お昼はおにぎりにしてくれって言ったんです。朝、そう言われて、それで、お茶とおにぎりを持ってここに来て、そしたら主人が書類を封筒に入れているところでした。封筒に入れて、ディスクを抜いて片づけて、全部、抽斗の中にしまっていたんです。もう終わったから、下で食べるって」
知恵は言って、敏夫と静信を見比べる。
「それ……そんなに大切な書類だったんですか」
まあ、と敏夫は言葉を濁した。
「主人と一緒に下に降りたんです。わたしがわざわざ持ってきたのに、って言ったものだから、主人が自分で持って降りるから、って。それで一緒に降りて、お昼を食べて、それから役場に行くって。寝室で――寝室は一階です。そこで着替えて、出かけました。出かけるまで世話をしたんだから間違いはないです。確かに手ぶらでした。二階にも戻っていませんし」
「いいんです」静信は口を挟んだ。「驚いただけなので。大丈夫です。控えがありますから」
そうですか、と千枝は半ば安堵したふう、半ば依然として困惑したふうだった。
「あの……探してはみますけど」
「お願いします。もしも石田さんから連絡があったら、至急、寺か病院まで連絡をくださるようにと」
はい、と頷いた千枝は、それで再び夫の行方を案じ始めたようだった。
「でも……どこへ。こんな、馬鹿な」
千枝を慰め、敏夫と静信は石田の家を出た。敏夫は、病院に寄っていくか、と静信に声をかけたが、静信は腕時計に目をやって首を横に振る。
「いや……もう戻らないと。今日は通夜があるから」
敏夫はその言葉に胸を衝かれた。
「そうか……」
「石田さんは――」
「どう考えても変だ。あの人が突然、いなくなるはずがない。奥さんの話からする限り、発症してたわけでもなさそうだ。なのに、夜中に行方をくらましている。しかも、たぶん書類と資料の一切合切を持って」
データは敏夫の手許にもある。静信の手許にもあるのだから、書類自体はもう一度、作り直すことができる。だが、なぜ石田が書類を持って姿を消さなければならないのだろう。
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村は死によって包囲されている。
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これはそう――包囲されている感触だ。転居者、辞表、自分たちが何者かによって意図的に孤立させられているという感触。敏夫たちは包囲され、切り離され――妨害されている。
(馬鹿な……)
それこそ、馬鹿な話だ。誰が何のためにそんなことをするというのだろう? 自分は、ばかばかしい陰謀説でもぶち上げるつもりなのだろうか。
「何かが変だ……」
車のドアに手をかけたまま考え込んでいた敏夫の背後で静信が呟いた。
敏夫も頷く。
「……ひょっとしたら、これは単なる疫病なんかじゃない」
静信も頷き、そして自分の車のほうに戻っていった。
(通夜……村迫家の)
発症者が二名、失踪者――一。
敏夫は病院に戻りながら、それを頭の中で繰り返していた。死者一、発症者二、失踪者一。呪文のように唱えながら病院に戻ると、カーテンを閉めた玄関のドアの前で、高校生ぐらいの少年が中を窺っているのが見えた。車に気づいたのか振り返り、敏夫が車を駐車場に入れる間に小走りに寄ってくる。
「どうした? 急患かい」
敏夫は車を降りながら声をかけた。どこかで見た顔だ。何度か診察したことがある。
「急患じゃないんですけど……。尾崎先生ですよね」
少年は言う。その口調で、敏夫は思い出した。ずっと以前、脛骨結節を腫らして通院していた患者だ。
「君は確か、結城さんのところの息子さんじゃなかったかな?」
「そうです」と少年は頷く。下の名前は夏野と言ったはずだ。「ちょっと先生に訊きたいことがあるんですけど、いいですか」
「どうぞ。ときに、君を結城くんと呼べばいいんだったかな。それとも小出君と?」
夏野は肩を竦めた。
「どっちでもいいです。戸籍の名字は小出ですけど、普通は結城」
「じゃあ、結城くん、だ。――結城くん、聞きたいってのは何だい?」
「清水さんのことなんです。清水、恵さん。先生が診察したんですよね」
「診察もしたし、死亡診断書を出したのもおれだよ」
「彼女、なんで死んだんですか」
「悪性の貧血だな」
夏野は少し言い淀み、敏夫を上目遣いに見る。
「確かに死んでました? ――ほら、脳死とか、いろいろあるでしょ」
敏夫は軽く笑う。内心では得体の知れないものがもやもやとゆたっているのを感じていた。
「脳死している患者を死んでいないと言う医者はいても、心臓死している患者を死んでいないと言う医者はいないだろうな」言って敏夫は笑う。意味もなく手の中で車のキーを持ち換えた。「呼吸、心拍は停止、血圧はゼロ、瞳孔反射も消えてた。彼女は死んでたよ。疑問の余地はない」
「でも、仮死状態、ってよく言いますよね」
敏夫は苦笑する。
「あまり仮死という状態にはお目にかかったことはないが、極めて死体に似ていて実は死んでない患者というのはある。あまりに心拍が弱くなって素人では脈を探れない、呼吸が浅くなって、息をしていないように見えるってことはあるだろうさ。だが、彼女の心臓は完全に停止してた。あれだけの時間、心拍が止まれば、生きている者だって死ぬだろうな。――まあ、仮死状態で、死斑や死後硬直が起こるとも思えないが」
「早すぎた埋葬って、知ってます?」
敏夫はさらに笑う。
「おれは、ほんのちょつとでも生きている可能性があれば、死亡診断書なんか書かんよ。断固として治療をする。家族が止めたってな。そして、おれが死亡診断書を書かなきゃ、埋葬はできないんだ」
「じゃあ、清水さんが生き返ることは、絶対にないんですね」
敏夫は爆笑した。
「あの状態で生き返ったら、ゾンビか吸血鬼だよ」大いに笑い、敏夫はふと笑いが強張るのを感じた。(今、おれは何て言った?)夏野を振り返り、とりあえず笑む。「紫斑や死後硬直が現れるということは、もはや彼女が単なる死体になったことを意味する。命のないモノとして腐敗し始めているってことさ。どんな名医でも、腐敗を始めた人間を生かすことはできんと思うぜ」
「そうですか」夏野は考え込むようにして呟く。すぐに顔を上げて頭を下げた。「分かりました。済みません、変なことを訊いて」
「ところで君は――」敏夫が言いかけたにもかかわらず、夏野は身を翻す。逃げるように駐車場を横切り始めた。「なんだってまた、そんなことを訊きにきたんだ?」
敏夫の問いに、夏野は答えない。ちらりと振り返って軽く会釈をし、小走りに敷地を出て行った。
――ゾンビか吸血鬼だよ。
敏夫は、自分の言葉を反芻する。
患者の様子、死因。考えて首を振った。(馬鹿な)自分自身に苦笑したが、やはり笑いは中途で強張り、消えていった。(ありえない。そんなモノは、存在しない)
――悪い子のところには、鬼が来るぞ。
墓場から起きて、やってくる。子供を捕まえ、墓穴の中に連れて行って食べてしまう。
ほんの子供の頃、古老に言われて、墓穴の中に人間二人は入れない、と言い返した覚えがある。墓から甦る鬼などない(死者一、発症二、失踪一)。
(セツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]……虫さされのような傷)敏夫は裏口に廻り、通用口から控え室へと戻った。(傷、貧血――死)
死者一、発症二、失踪一。
控え室のドアを開けかけて閉め、敏夫は休憩室に顔を出す。
「永田さん」声をかけると、看護婦たちがガーゼを折っていた手を止めて振り返った。清美が軽く腰を浮かした。「悪いんだが、勤務表を作り直してくれるか」
「勤務の予定表、ですか」
敏夫は頷いた。
「人手が足りないのは分かってるんだが、どうもまずい気がする。――安森の奥さんに入院してもらおう」
夏野は小走りに歩く。西の山に向かって釣瓶落としに陽は傾き、夏野の影は足許に長く伸びていた。
(ゾンビか吸血鬼)影は前兆に見えた。(生ける屍――甦った死者)
それでいけないはずがない。
この村では、未だに死者を土葬にするのだから。
[#改丁]
底本:「屍鬼(上)」新潮社 小野不由美著
一九九八年九月三〇日 初版第一刷発行
本文中、室井静信作として挿入される作中作の小説は底本では太字書体で表記されています。青空文庫形式テキストでは書体の差異表現はできないため、該当作中作部分、およびその他の太字表記部分は四文字の字下げとしてあります。
【底本中の誤字等】
九九九三行目:「紫斑」→「死斑」? 単なる紫斑は「アザ」のことだよね?
テキスト化 二〇〇四年十月
屍鬼(上)
小野不由美
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)言給《いひたま》ひけるは
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)エホバ|言給《いひたま》ひけるは
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、Unicodeによる文字コード番号)
(例)掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]
本文中、室井静信作として挿入される作中作の小説は底本では太字書体で表記されています。青空文庫形式テキストでは書体の差異表現はできないため、該当作中作部分、およびその他の太字表記部分は四文字の字下げとしてあります。
(例)[#ここから4字下げ]村は死によって包囲されている。[#ここで字下げ終わり]
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[#ここから3字下げ]
屍鬼(上)
[#ここで字下げ終わり]
――To 'Salem's Lot
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
エホバ|言給《いひたま》ひけるは|汝《なんぢ》何をなしたるや
汝の弟の地の|聲《こえ》地より我に叫べり
されば汝は|詛《のろ》はれて|此地《このち》を離るべし
此地|其口《そのくち》を|啓《ひら》きて汝の弟の血を
汝の手より受けたればなり
汝地を地を|耕《たがへ》すとも地は|再《ふたた》び其力を汝に|效《いた》さじ
汝は地に|吟行《さまよ》ふ|流離子《さすらひびと》となるべしと
[#ここで字下げ終わり]