饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.3

作者:日-小野不由美 当前章节:15386 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 好きで選んだ仕事だし、やりがいも感じている。職場が辛いわけでもない。なのに、休み明けの朝に特有の、また一週間、という物憂さ。

 律子はバッグをロッカーの中に放り込み、紙袋の中から選択したばかりの白衣を引っ張り出した。白いユニフォームに着替え、髪をまとめて白いナース?キャップを着ける。たったそれだけの装備で背筋が伸びてくる気がするから不思議だ。

 個人としての自分から、看護婦としての自分へ。そこには奇妙な段差がある。休み明けが物憂いのは、休日の分増したその段差を越えるのが単に億劫なだけなのかもしれない。

 鏡で姿をチェックして、よし、と自分に声をかける。ブラインドを上げて窓を開けると、涼しい風と蝉の声が吹き込んできた。そして、溌剌とした子供の声。

 病院の裏手には、狭い田圃を挟んで丸安製材の材木置き場が広がっている。この近辺ではラジオ体操は丸安製材でやると決まっていた。そこに集まった子供たちの歓声が材木置き場のすぐ間近まで迫った山に響いて、蝉の声よりも力強く部屋の中に流れ込んできた。

 間近の山は毅然とした緑だった。右手の山の高いところに寺の本堂が見える。強い朝日がまともに当たって、大屋根が鈍銀に輝いている。境内から製材所まで続く斜面の一郭は、歯が抜けたように樹木がまばらだ。あれは寺の墓地。特に墓石を立てない外場の墓地は、そうと知って見なければ分からない。

 そこから山は馬蹄形に窪んで、材木置き場と|幾許《いくばく》かの棚田を大きく抱え込む。植樹された樅の梢が朝日を浴びて綺麗な小波を描いていた。左手の斜面も樅の緑。その上に黒い屋根の尖った先端がのぞいている。

 律子は、なんとなくその家――その屋根――を見上げた。

 つい先頃まで兼正の屋敷がそこにはあった。古い石垣と幾棟ぶんもの瓦屋根、庭木は鬱蒼として屋敷はいかにも物物しかった。しかも肝心の住人はずっと以前に――律子が物心つく以前に――転居して、屋敷は無人のことが多く、かろうじて手入れはされていたものの、それも万全とは言えなかったので、子供たちの間では「兼正のお化け屋敷」で通っていた。

 律子自身も小学生の頃、肝試しと称して庭に忍び込んだことがある。無人のつもりで入り込んだら、管理人と思しき年寄りがいて、見つかって叱られた覚えがあった。

 そのお化け屋敷が取り壊されたのは昨年のことだ。後には変わった家が建った。「変わった」と言っても、建物自体には変わったところなどどこにもない。そう、ここが外場ではなく、別荘地か何かなら、あるいは外国の小さな村なら、本当に何の違和感もないはずだ。小さいけれど、映画にでも出てきそうな――洋館。

 その建物は、村の風景の中にあって、明らかに異質だった。さらに異様に思えるのは、その佇まいだつた。その家はまるで、百年もそこにあったような顔をしている。古い石壁、風雨にさらされた色の煙突や窓。古い建物を移築したらしい。

 どうしてそんなことを、と村の者は戸惑っている。新旧入り混じる民家の並ぶ、どこにでもありそうな小さな村、それを見下ろす洋館は、村の光景に馴染まないにもかかわらず、村の民家のどれよりも歴史と年代を感じさせた。古色蒼然としているだけに、割り切れない違和感があった。

(本当に、変わった家……)

 心の中で呟いたとき、更衣室のドアが開いた。

「あら、律ちゃん」

 看護婦の永田清美だった。

「おはようございます」

「早いわね」清美は笑って、ロッカーを開ける。「どうしたの。物思い?」

 律子は首を振った。

「いい天気だな、と思って。暑くなりそう」

 まったくだわ、と清美は溜息交じりに笑って、さばさばと服を脱いでいく。律子は慌ててブラインドを下ろそうと手を伸ばした。

「いいわよ。上げといた方が風が通るから。律ちゃんみたいな娘さんならともかく、どうせこんな小母さんの下着姿なんて、覗く人もいやしないんだから」

「熟女、って言うんでしょう? 女四十は」

 清美は白衣を着ながら声を上げて笑う。

「古いわねえ。――その四十も越えちゃったわよ。若い女がいるとかいって、喜んで来るのは、お寺の仏さんくらいだわね」

 律子は斜面の墓地に目をやって笑った。

「なァに、歳の話?」

 更衣室に入ってくるなり、声を上げたのは橋口やすよだった。

「おはようございます」

「おはよう。――あらま。窓もブラインドも開けっぱなしで」

 だから、と清美は笑う。

「もう覗かれても惜しくない歳になった、って話」

「なに言ってんの。あんた、あたしより十も若いんじゃないの」

「十キロ少なかったら隠すんだけど」

「お恥ずかしいもんだから隠すのが、慎みってもんよ。律ちゃんくらい若けりゃ、見せびらかすけどさ」

「慎み、ねえ」

「女はそれがなくなっちゃァ、おしまいだわよ。――あたしやあんただって、まだトドの群に入りゃ、捨てたもんじゃないんだから」

 敏夫は|啣《くわ》え煙草のまま洗面所を出て、ダイニングの食卓に着いた。南に向かって大きく窓を取ったダイニングには明るい朝の光が満ちている。食卓の上には二人分の朝食が並べられ、敏夫の席には新聞がおいてある。それを見ながら、そうか恭子は溝辺に戻ったのか、と思った。

 尾崎敏夫は三十二で、外場に唯一の病院である尾崎医院の院長だった。とはいえ、医師は敏夫一人しかいない。三年前、父親が膵臓癌で倒れ、大学病院を辞めて村に戻ってきた。妻の恭子は三十、子供はいない。恭子は山村での生活を嫌って溝辺町の市街部にアンティーク?ショップを持ち、店の近くのマンションで暮らしている。外場に戻ってくるのは、月に二、三度のことだ。

 敏夫にはそれを、その程度しか戻ってこない、と言うべきなのか、それともその程度には戻ってくる、と言うべきなのか、良く分からなかった。ここでの生活を嫌って出ていったことを思えば冷めた夫婦なのかもしれなかったが、にもかかわらず、自発的に戻ってくるのだからそれなりに良好な関係なのかもしれない。

「おはよう」

 窓の外を眺めていると、母親の孝江が味噌汁を運んできた。それに生返事をする。新聞の天気予報を見ると、今日も快晴、雨の降る確率は〇パーセント。日中の最高気温は例年より高く、三十六度を越えるだろう。今年は春からずっとこの調子だ。雨が少なく、異常に暑い。東海地方では酷暑による被害や、大規模な渇水が起こっている。

 孝江はテーブルの向かいに座りながら、Tシャツとジーンズ姿の敏夫を責めるような目で見た。艶やかな樫の天板のテーブル、凝った細工の椅子は六脚、飾り棚を背にした上座の席は空いている。かつては父親が座っていた席で、孝江に言わせると、それは家長の席であり、敏夫にはそこに座るだけの威厳がまだ欠如しているらしい。敏夫は別に、座る場所には頓着しない。一番下座でも構わないのだが、母親はそれを理解していない。家長の席を敏夫に与えないのは、懲罰のつもりらしかった。やれやれ、と息を吐いて、敏夫は窓の外に目をやる。広い裏庭に面したリビングの窓からは、西の山が一望できる。夏らしく艶やかな緑の山肌、その一郭には黒いスレートの屋根が見えた。

 高く破風を突き上げる構造。小さな子供が絵に描いたような尖った屋根の三角形が物珍しい。およそ外場には似つかわしくない家だったが、周囲が樅の林なだけに、そこだけを取り出してみると、それなりに様になっている。冬になって雪でも降れば景色としては面白いのかもしれなかった。

(妙な家だ……)

 心の中で呟いたとき、敏夫の視線に気づいたのか、孝江が低い声を漏らした。

「ゆっくりしてていいの?」

 これにも生返事を返すと、孝江は窓の外に一瞬だけ目をやる。

「越してこないわね。住む気があるのかしら」

「別荘ということはないだろう。あれだけの家をわざわざ運んでおいて」

「仰々しいこと」

 孝江の言葉には明らかに棘があって、敏夫は微かに苦笑した。もともと孝江は兼正と折り合いが良くない。兼正に見下ろされるのが気に入らなかったのだ。兼正が転出してやっと尾崎を見下ろすのは寺だけになったというのに、見ず知らずの他人がやってきて孝江を見下ろす。敏夫にとっては、どうしてそれが不満なのか理解できない種類のことだったが、それを理解できない限り、家長の席には座らせてもらえないのだろう。

「いろいろ事情があるんだろう。――ごちそうさん」

 武藤が病院の敷地に入ると、すでに表玄関は開いていて、ガラスのドア越し、待合室に幾人かの患者が入っているのが確認できた。玄関前をパートの関口ミキが掃いている。それに声をかけ、武藤は慌てて通用口のほうへと向かった。

 通用口を入ると|三和土《たたき》の脇の水場では、同じくパートの高野藤代がモップを洗っていた。藤代と挨拶を交わし、更衣室に入ってロッカーから白衣を引っ張り出す。足を引きずりながら間仕切りのドアを抜け、受付に急ぐと、十和田がカウンターの拭き掃除をしていた。

「おはようさん」

「おはようございます」十和田は若々しく笑って手を動かす。「もう終わりますから、藤代さんは先に一服しててください。ぼくがやってしまいますから」

「済まないね」

 いえ、と笑う十和田を軽く拝み、ついでに待合室の患者に会釈をする。ほとんどが長く物療に通っている患者で、顔見知りが多かった。

 十和田の言葉に甘えて休憩室に向かおうとしたとき、待合室の向こう、自宅のほうから院長が入ってきた。Tシャツにジーンズ姿のままだ。

「よう、おはよう」敏夫は誰にともなく言って、白衣の袖に手を通しながら待合室を見渡す。「おいおい。もうこんなにいるのか。年寄りは朝が早くてかなわんな」

 敏夫の言葉に、老女の一人が軽口を返す。

「若先生が遅いんでしょう。遅刻ですよ」

「そんなことがあるもんか。あんたたちに合わせるから、どんどん開業時間が前倒しになるんだ。ちゃんと朝飯を食ってきてるんだろうな」

「しっかりとね」

「そいつは結構。老い先短いんだから、悔いが残らないように精々、旨いものを食っとかないと」

 待合室にまばらに笑いが起こる。武藤は十和田と顔を見合わせ苦笑を交わした。院長である尾崎敏夫は、一事が万事、この調子だ。

「またそういう不用意な憎まれ口を……」

 休憩室に向かう敏夫を追いかけながら、武藤は小さく溜息をつく。

「ほんの事実さ。――どうした。足を引きずってるな」

「単なる筋肉痛ですよ。虫送りだったんで」

「そうか。武藤さんはユゲ衆か」

「そうですけどね」武藤は敏夫を軽くねめつける。「口に気をつけないから、尾崎医院の若先生は不良医師だとか言われるんですよ」

「不良医師には違いないだろう。おれが真面目な医者だったらこんな田舎に帰ってくるもんか。あっちに残って、今頃は白い巨塔だ」

 やれやれ、と武藤は苦笑した。先代は非常に気位の高い人物で、病院に来る老人の中には先代の威厳を慕って、倅は不謹慎だ、と言う者もいるが、武藤自身は先代より息子のほうに好感が持てた。憎まれ口をきいては好んで周囲の誤解を買う、不謹慎な軽口を叩く。Tシャツにジーンズの上から白衣を引っかけていたりして、医者としての威厳もなにもあったものではないが、時間外の診察も厭わないし、求められれば時間を問わず自分で鞄を提げて気軽に往診にも行く。昨年には大枚の借金をして病院の一部を増築改装しCTを入れた。そのために取りつぶされたのが、代々の院長が愛用してきた、広々としていかにも立派だった院長室、それに付属する応接室と二つの部屋に面していた贅沢な庭だというあたり、敏夫の気性を見事に物語っている。

 敏夫は休憩室のドアを開ける。中には、十和田を覗くスタッフの全員がすでに揃っていた。

 看護婦が四人。最年長の橋口やすよを筆頭に、永田清美、国広律子と村内者が続き、これに村外から通勤してくる|汐見《しおみ》雪が加わる。もうひとり、同じく村外から通ってくる井崎聡子がいるのだが、今日は姿が見えなかった。この時間に来ていないということは、今日は休みなのだろう。レントゲン技師の下山、事務の武藤と十和田、これに清掃や雑務を担当するパートのミキと藤代の二人がスタッフの全てで、これだけの人間で外場内外の患者を一手に引き受けている。

「おはようございます」

 敏夫と武藤の姿を見て、清美が真っ先に立ち上がった。敏夫はそれにコーヒー、と告げ、広いテーブルを囲んだ椅子のひとつに腰を下ろす。隣の椅子に向かおうとした武藤の足に、部屋を出ようとした清美が目を留めた。

「武藤さん、どうしたんです。その足」

「筋肉痛だと、たった今、先生にも言ったところです」

「ああ。武藤さん、ユゲ衆だから。それは、運動不足だわねえ」

「多少の運動じゃ、追いつきませんよ」

 敏夫がくつくつと笑う。

「もともと、山を天狗のように飛びまわっていた連中が始めた祭だからな」

「まったくだ」

 顔を顰めてそろそろと椅子に座る。昨日一日、湿布だらけにしていたのにまだ痛む。しばらくは立ち坐りのたびに呻く羽目になりそうだった。

 窓際に近いテーブルの一郭で、看護婦たちはせっせとガーゼを折っている。下山は付箋だらけのマニュアルを開いていた。開業の前には休憩室に集まってミーティングが持たれることになっているが、ようは診察開始までのいっとき、全員で集まって一服しながら、連絡事項があれば伝えておこうという、それだけのことだった。

 開け放した窓からは朝の陽射しと、ひんやりとした風が吹き込んできている。今はまだクーラーなしでもしのぎやすいが、今年の夏は暑い。陽が昇るにつれ、例によって鰻登りに気温も上がっていくのだろう。

「うんざりするくらい、上天気だな」

 敏夫は窓の外に目をやり、煙草に火を点けた。敏夫はかなりのヘビー?スモーカーの部類に入る。医者の不養生の典型だ。

「ホントにねェ」やすよも手を休めて窓の外を見た。すでに丸い鼻の頭に、うっすらと汗をかいている。「毎日毎日、こんなに暑いんじゃたまりませんよ。太ると暑さが堪えちゃって」

「夏は暑いものに決まってる。とはいえ、今年は暑いな。暑気あたりで年寄りがバタバタ片づくぞ」

 武藤は敏夫をねめつけた。

「頼みますから、そういう不謹慎なことを人前で言わないでくださいよ」

「――おれの得意先が減って、静信だけが大儲けだ」

 処置なし、と武藤は息を吐いた。山寺の跡取りである室井静信と敏夫は同級生だった。

「……そう言えば、田島予研の人が、こないだ先生がお坊さんと話をしているのを見たって不思議そうにしてましたっけ」

 やすよが言うと、敏夫は低く笑う。

「陰謀の匂いがするだろう。おれと静信がつるんで、何かたくらんでいるのかもしれないぞ」

「やめてくださいよ。先生が言うと、冗談に聞こえないんだから」

 樅に覆われた山の斜面を隔ててとはいえ、家も一応、地図の上では丸安製材の材木置き場を隔てて隣にあたり、医師と僧侶は小さい頃から仲が良い。村の者には周知の事実だが、知らない者には奇異に思えるものらしかった。

「そうそう、虫送りなんですけどね」武藤は足をさすりながら口にした。「妙なことがあったんですよ」

「妙なこと?」

「ええ。ベットを焚いていたら、引っ越しのトラックが入ってきたんですよ」

「おいおい。そりゃ、真夜中の話じゃないのか」

「そう、真夜中に。トラックと乗用車らしい車が二台」

 ふうん、と敏夫は煙を吐いて窓のほうを見た。

「どうもよほどの変人らしいな。兼正の住人は」

「と、思うでしょう? 引っ越しのトラックと来たら、普通は兼正がとうとう越してきたと思うじゃないですか。なにしろ六月に家が建って以来、肝心の住人は越してこないままなんですから。ところが、そのトラック、途中まで入ってきておいて、引き返しちゃったんですよ」

「へえ?」

 口を挟んだのは、やすよだった。

「おっちょこちょいの運転手が、道を間違えただけなんじゃないの」

 まさか、と言ったのは雪だ。雪は近隣の集落から車で通ってきている。

「間違えるような道じゃないですよ。道幅が違いますもん。――この辺り、外場に入る道より他に枝道らしい枝道もないし」

「だからさ、道を間違えたから方向転換に」

「だったら交差点の角にドライブインがあるじゃないですか。わざわざ村道に入ってきてバックして方向を変えなくても、あの駐車場なら、ゆっくりトラックを切り回せるし」

「そう?」

「そもそも普通、夜中に引っ越しなんてしませんよね」

「遠方からの引っ越しでさ、夜中に着く案配になったんじゃない」やすよは言って武藤を見る。「それ、どこのナンバーだったの」

「さあ。ナンバーが見えるような距離じゃなかったですからね」

「そういう場合、昼間に着くように出発しません? 変ですよ、それ」

 雪が妙に力説するのに、やすよは呆れた目を向ける。

「単に渋滞か何かのせいで、遅れただけかもしれないでしょ」

「それじゃ、つまんないじゃないですかぁ」

 駄々をこねるような雪の言いぐさに、武藤たちは笑った。

「やれやれ。すぐこれだよ、この子は」

「刺激がほしいんです、まだ若いから」言って雪は律子のほうに体を傾け、顔を上目遣いに覗き込む。「日曜日に溝辺町の本局の、三軒先のイタリアン?レストランでお昼を食べるような相手もいないし」

 え、と律子は目を見開いて、それからぱっと赤くなった。

「雪ちゃん」

 やすよが声を上げて笑う。

「えらく具体的な話だわねェ」

「乙女の夢難ですもの。彼は緑のポロシャツで、あたしはミント?グリーンのワンピースでコーディネイトするの」

「もう、雪ちゃんてば」

 軽く雪を小突く律子に、敏夫は笑う。

「雪ちゃんは別に誰とも言ってないぞ」

「そうそう」

 やだ、とむくれたように雪をねめつける律子の顔が赤かった。そういえば律子も二十八だか、それくらいにはなるはずだ、と武藤は思い出す。いつ結婚してもおかしくはない歳だし、今でも外場の常識では遅いくらいだろう。だが、正看の律子がやめるのは痛い。それでなくても看護婦不足の折りに、こんな田舎の医院では簡単に代わりが見つかるとも思えなかった。

「結婚するなら、看護婦も続けさせてくれる相手にしろよ。でないと祝儀は出さないからな」

 敏夫の揶揄に、律子は赤くなったままそっぽを向く。

「そんなんじゃありません」

 尾崎医院は看板によれば内科が専門だが、求められれば何でも診る。一応医院なので入院施設はあるものの、ベッド数は個室も含めて十九床、それも敏夫が戻ってきて以来、基本的に空いたままになっている。設備はあっても、入院患者を受け止められるほどの人手がない。

「律ちゃんの妹には期待してたんだがな。保母になるとは誤算だった」

 敏夫が憎まれ口を叩くのに、律子は澄まして笑ってみせた。

「それは、わたしが苦労してるのを見てるからじゃないですか」

「となると、武藤さんとこのお嬢さんに期待するしかないか」

 ご冗談を、と武藤は返す。今時の子供が、父親と同じ職場に通いたがるはずがないし、十八になる娘は近隣の高校の商業科に通っている。

「つれない話だな。後は――」敏夫が言ったところで、隣室の厨房からトレイを持った清美が戻ってきた。「ああ、永田さんちのお嬢ちゃんがいる」

 武藤と律子が笑ったので、清美は困惑したように武藤らを見渡した。

「なんです。さてはわたしの悪口ですね」

 いや、と敏夫は笑う。

「いま、満場一致で、永田さんのところのお嬢ちゃんに看護婦になって貰うことに決まったんだ」

 清美は呆れたように息を吐く。

「うちの子はまだ六年生ですよ。――はい、お熱いのをどうぞ」

 清美がカップを敏夫と武藤の前に置いたときだった。

「先生、済みません」十和田がドアを開けて、顔を出した。

「江畑のお爺ちゃんが、自転車で転んだって」

「おいでなすった」

 敏夫は立ち上がる。雪と律子がてきぱきとガーゼ類を始末にかかった。

「来てるのか」

「家の人が運んできてます。頭を切ったらしくて、顔中、血だらけで」

 敏夫とやすよが小走りに出ていった後には、運ばれてきたばかりのコーヒーが残された。受付時間までには、まだ十分ほどある。

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 昼食を終えて、二人の子供は外に飛び出していく。前田元子はそれを見送って、二人が流しまで運んでいった茶碗を洗った。夏休みが始まったばかりの頃、茶碗を運んで洗い、拭いて片づけるという誓いを立てた子供たちは、学校のない休暇に慣れて奔放な時間の使い方を思い出すにつれ、ひとつずつ仕事を省略するようになった。きっと盆が過ぎる頃には茶碗もテーブルの上に置いたまま、遊びに出るようになるのだろう。

 ――子供ってそういうものだわ。

 元子は笑みを含んで片づけをする。

 元子自身、休みのたびに小学校で家の手伝いをしましょう、と教師に約束させられたものだが、結局なしくずしになって新学期を迎えるのが常だった。

 学校は休みでも、大人の社会は休みにはならない。夫はJAに勤めに出ているし、義父母は山に入っている。テーブルの上に、戻ってきた義父母が一服できるよう、茶器と菓子箱を揃えておく。布巾を被せてから、家を出た。

 元子の家は村の南端にある。村の南は田圃ばかりだ。北から細長く末広がりに拓ける村は、南の山に突き当たって閉じる。その南の尾根の突端が、遮る物もなく水田を隔てて間近に見えていた。一面に広がる水田の明るく柔らかな緑。おちこちでは水が不足して深刻な被害を与えているようだが、とりあえず村には影響がないようだった。伸びた稲のせいで、水田の間を縦横に走る畦道は今、溝のようだった。山を覆う樅の緑はさらに濃く、力強く陽射しを照り返す緑の濃淡が、いかにも夏の色だ。

 南の尾根の突端に接するようにして変電所が建っている。そこから延びた電線は、南の尾根から山へと向かい、尾根伝いに建った鉄塔をリレーしながら、南の尾根から西の尾根へと折れ曲がって延びていく。雲一つ無い夏空を背景に屹立した鉄塔の銀が眩しい。

 元子は目を細め、家の前の路を横切る。アスファルトの細い路の周囲には人家が途切れ途切れに点在するばかり、ろくに日陰を作るものもなく、路面は熱した金属のように灼けて|陽炎《かげろう》が立ち昇っていた。その熱気から逃れて畦道に下り、稲の葉先に足下をくすぐられながら田圃の間を歩いて国道に出た。村の南から北上してきた国道は、南と東、二つの尾根の間で大きく迂曲する。そのカーブに沿って歩くと、すぐに前方に短い橋が現れる。橋の欄干には「外場橋」と刻印されているが、そんな名前を記憶しているものも少ないだろう。村の外部の人間には意味のない名前だし、村の人間には「国道の橋」で通じる。――この「国道の橋」の周辺は、事故の多いところだった。

 二つの尾根に挟まれた平地はそれなりの広さがあって、カーブは見通しがよく利く。それがかえって運転手の油断を招くのだろう、スピードの出し過ぎによる事故が後を絶たなかった。特に南――溝辺町方面から北上してきた車は、見晴らしが良いせいでカーブのアールを誤認するらしい。見かけよりずっとアールがきついのだ。それを誤解したままスピードを上げた車が、曲がりきれずに突っこむ。それが必ず国道の橋の辺りだった。突っこんだ車が欄干にぶつかり、その痕が補修されることが毎年のように繰り返されている。

 そればかりでなく、同様にして人身事故も多い場所だ。

 橋の手前で国道は村に入る村道と交わる。夜間には点滅信号になるとはいえ、まがりなりにも信号が立っており、歩行者信号も横断歩道も設置されていたが、子供や老人が道を渡ろうとして車に撥ねられることが後を絶たない。

 村の者のが運転する車は良いのだ。村の者はその信号か、あるいは近辺の農道を曲がるのだし、カーブの性質も分かっている。余所の者は外場の信号を見落としやすく、しかも村の者は得てして――元子がたった今、そうしたように――畦道から国道に上がってそこから道を渡ろうとする。運転手は思いもよらない場所から人間が現れて驚き、慌ててブレーキを踏むが、そもそもスピードの出し過ぎによる事故の多い場所だから間に合わないことが多いし、事故になれば重大事故になる可能性が高い。

 橋を見るたびに、そういうことが気に掛かって仕様がないのは、元子自身、やんちゃ盛りの子供を持っているせいだ。元子はもちろん村の母親たちは、子供たちに向かって国道の向こうへ行ってはいけない、と強く言い聞かせるのだが、思い出したように事故は起こった。加害者はほぼ間近いなく村を通過する余所の者だから、元子のイメージの中でそれは、「余所者が子供を轢き殺していくむという救いようのない図式として定着している。

 ある日突然、見ず知らずの余所者が元子の子供を殺傷し、奪い去ってしまう。――元子はどうしてもその不安を忘れることができなかったし、特にこうして橋を見ると、そのたびにそれは念頭に浮かび上がってきて、元子をいたたまれない気分にさせた。幼なじみの加奈美はそんな元子を、神経症じみている、と言って心配する。

(どうしても忘れられないんだもの……)

 元子は不安な気分で橋に目をやり、スピードを上げて国道を通り過ぎていく車を見送った。ひとつ息を吐いて国道を歩き、信号の手前にあるドライブインに向かう。「ちぐさ」の広い駐車場には車の影がなかった。

 容赦のない陽射しに、駐車場のアスファルトはとろりとした光沢をしていた。今にも溶けてしまいそうで、心ない靴底が粘るような気がする。頭や|項《うなじ》がちりちりするのはもちろん、アスファルトからの照り返しでスカートの下の素足までが焦がされる。

「こんにちは」

 声をかけてドアを開けると、カウンターの中から矢野加奈美が手を挙げた。クーラーの冷気に、元子は息をつく。近所の主婦と子供が三人カウンターに座っていて、元子を振り返り、笑顔を見せた。

「二分の遅刻」

 加奈美は微笑んだ。ごめんなさい、と元子は言いながら、カウンターの中に入って持参したエプロンを広げる。加奈美は元子の頭を軽く小突いた。

「国道にぼーっと立ってたわよ。二分間の遅刻ぶん」

 ああ、と元子は窓の外を見た。店は敷地の角にL字型に建っており、カウンターからは窓越しに溝辺町へ向かう国道が見渡せた。

「あんまり深く考えないのよ。元子んちは、志保梨ちゃんも茂樹くんも聞き分けがいい物。国道の向こうには行かないわよ。大丈夫だから」

 うん、と元子は頷く。自分で言い聞かせても不安な気分がするばかりだが、加奈美にそういって貰うと一旦のこととはいえ、不思議に安心できた。

 元子の幼なじみは都会に縁付いていたが、五年前に離婚して村に戻ってきた。国道を往き来するトラックを目当てに田圃をつぶし、ドライブインを開いたのだが、始めて二年で自動車道が開通した。店を開いた当初は長距離トラックを当て込んで早朝に開け、モーニングを出したりもしていたが、これは二年も前にやめた。以来、村の住人を相手に細々と営業を続けている。夜に飲みに来る男たちのおかけで、かろうじて商売が成り立っていた。

 元子はカウンターの隅のホワイトボードに目をやった。今日の定食のメニューが出ている。加奈美は開業前の午前中に、ランチのぶんだけを用意する。夜の定食の下拵えをするのは、元子の仕事だ。これで小遣い程度の賃金を貰っている。元子にしてみれば収入を得ることより、幼なじみと会うことの方が主だから、賃金はなくてもいいのだが、加奈美は頑としてパートとして扱おうとした。

「ところで、――聞いた?」

 いきなり言われて、元子は瞬く。

「聞いたって、何を?」

「虫送りの日にね、引っ越しのトラックが入ってきたんだって。ゆうべ、誰かがそんなことを言ってたわよ」

 ゆうべ、ということは、夜に食事にきた者たちか、さもなければその後、酒を飲みに来た者たちだろう。

「兼正のお屋敷? 越してきたの?」

「さあ。小耳に挟んだだけだから」

 加奈美が言うと、カウンターで雑誌を読んでいた清水寛子が顔を上げた。

「わたしも聞いたわ、それ。ベットを焚いているところにトラックが入ってきたんですって。でも、引き返したっていう話よ。道を間違えたんじゃない」

 なんだ、と元子は呟く。

「引き返したんなら、兼正じゃないわよね。――越してこないわね、あそこ」

 そうね、と寛子は雑誌を閉じる。

「別荘のつもりなのかしらね、そもそも、ここに住むわけじゃないのかも」

「あんな立派なお家を別荘にするの? それもわざわざ移築して?」

「そういう人もいるかもしれないでしょ」

 まさか、と言ったのは田中佐知子だった。

「別荘にそこまでするわけないでしょ。第一、別荘ならもっとそれらしい場所に立てるわよ。夏に涼しいとか、冬に暖かいとか、リゾート地だとか」

 ひょっとして、と寛子は身を乗り出した。

「ペンションかなんかだったりて」

「ありえないわね」

「でも、そういう話もあったじゃない。ほら、去年の今ぐらい――もっと前だったかしら、リゾート施設がどうとか言って、調査の人が来てたとかいう」

 ああ、と元子も端で会話を聞きながら頷いた。そういうこともあった。夏に入る前だったのではないだろうか。バイパスが通り、溝辺町との間にインターチェンジができた、そのせいだろうと思う。自動車道に乗れば、近郊の大都市まで三時間だ。

 佐知子の隣でおとなしくソーダを飲んでいた田中かおりが母親を見た。もう中学の三年生だったか。そのわりにすれたところのないぼうっとした少女だ。

「リゾートなんてできるの?」

「できるわけないでしょ」佐知子は顔を顰める。「こんな田舎に。どうせ話だけに決まってるわよ。なに、あんた、できて欲しかったの?」

「ううん。……単に本当なのかなって思っただけ」

「かおりちゃんだって年頃の女の子だもの、もうちょっと村が拓けたらいいと思うわよねえ」

 寛子が口を挟むと、かおりはちいさく首を横に振った。

「……あんまり。できてみないと分からないけど、なんか、知らない人がいっぱい来て、うるさそうだし」

「そうお? そうなれば、わざわざ買い物に行くのにバスに乗って出かける必要もないのよ? バスの本数だって増えるだろうから、こんなに待たされることもないし」寛子は溜息をつく。「でも、どう考えても無茶な話よねえ。第一、年寄りがうんと言わないだろうし」

 元子はこれにも、ひとり頷いた。そもそもは外場の下にインターチェンジを持ってこようという話もあったらしい。無茶を絵に描いたような提案だと思われるのだが、兼正の先代は外場のためだと言ってかなり強い運動を行っていた。それにノーと言ったのは、他ならぬ外場だ。元子の舅などは烈火のように怒っていた。そんなものは必要ない、あればかえって害悪が流れ込んでくるだけだ、と年寄りを集めて何度も兼正に話し合いに行った。それが功を奏したのかどうかはともかくも、結局インターチェンジは、もっと妥当な溝辺町市街部の外れにでき、以来、溝辺町は急速に開発されている。

「便利になったらなったで、変な連中も入ってくるのよ。そういう余所者に頭を下げて、落として貰うお金で食べるのなんて願い下げだわ」

 佐知子の言葉に、そうねえ、と寛子は頬杖を着く。

「するとペンションはないかしら。でも、別荘にするには、もったいない建物だし、やっぱり住む気なのかしらね。洋館っていうのかしら。あんな建物を間近で見たの、初めてだわ」

 同意を求めるように、寛子は元子を見た。元子は困惑ぎみに頷く。

「本当に。先祖代々住んでいた家なんでしょうね。越してくるのは老夫婦かしら。住み慣れた家を離れたくないんだと思うわ」

 寛子はちゃかすように笑った。

「だったら、引っ越すことなんてないじゃない」

「だから、お年を召したから、空気のいい田舎に住みたいんじゃないかしら。わざわざ移築するなんて、とても家に愛着があったんだと思うわ」

「単に、家を見せびらかしたかっただけかもよ?」寛子は茶目っ気を含ませて笑う。「自分たちは田舎者とはちょっと違うんだってことを強調したかったのかも」

 佐知子は脇から軽く笑った。

「見せびらかすほどの家じゃないでしょ。単に古い洋風の家ってだけで、年代からいったら、うちといい勝負だわ。同じお金をかけるなら、立て直せばいいのに」

「まあ、あたしたち庶民とは、違う次元で生きているってことは確実だわ」寛子は息を吐く。なにしろこっちは、台所ひとつ改築できないでいるんだから。不便で嫌になっちゃう」

「寛子の家はまだマシよ。結婚したときに造作したんじゃない。うちの台所なんてお祖母ちゃんの代からそのまんまなんだから」

 佐知子と寛子の会話を聞きながら、元子は定食用の野菜を洗う。胸のどこかが重い気がするのは、余所者が村に入ってくる、というイメージがどうしても浮かんでくるからだ。

(余所者が……来る)

 元子の中で「余所者」というイメージは、「自分の子供を奪っていく者」というイメージと縺れ合って解けない。

 あら、と佐知子が声を上げた。元子は顔を上げ、国道の向こうにその「余所者」を見る。とたんに喉元が締め付けられた気がした。

 元子の心中を知らず、佐知子の声は無遠慮なほど大きい。

「なんとか工房の息子じゃない、あれ」

「おい、|夏野《なつの》」

 武藤徹は、軽くクラクションを鳴らした。車の窓を開け、国道の端を歩いている制服姿に声をかける。振り返った夏野は徹に気づいて足を止め、大仰に顔を顰めた。

「制服着て、どこに行ってたんだ?」

「高校生には登校日ってもんがあるの。――名前で呼ぶなって言ってんだろ」

 徹は声を上げて笑って、乗っていけ、と助手席を示した。夏野はシャツの袖で顔を拭って、助手席に乗り込んでくる。

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