饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.7

作者:日-小野不由美 当前章节:15533 字 更新时间:2026-6-15 17:40

「ただ、子供らの間でね、妙な話があるらしいんですよ。兼正の近くで見慣れない人間を見たとか、妙な声を聞いたとか」

 ああ、と留美は声を上げる。

「そうなの。うちの子も言ってますよ、それ。兼正の坂を夜に登っていく人影を見たとか、誰もいないはずなのに人がいるのが窓越しに見えたとか」

 そう、と高見も頷く。

「子供の噂話を真に受けるのもどうかとは思うんですけどね。ただ、大人でもいるんですよ、こう――雨戸の間から光が漏れてるのを見たとか、塀の中で物音がしたのを聞いたとか言う人がねえ」

「気のせいか、勘違いではないんですか」

 静信が問うと、高見は首を傾げる。

「どうでしょうねえ」

「何しろ建って長いのに無人のままだし、それにああいう変わった風情の建物ですから、怪談話の種になってしまったんじゃないかな。本当に誰かが出入りしているなら、そんな曖昧な話じゃなく、もっとはっきりした話として広まるでしょう」

 高見は首を傾げて考え込む。静信は言葉を重ねた。

「ひょっとしたら、外観こそは完成している風ですけど、内装で何かやり残した工事があって、人が出入りしているのかもしれません。もしも住人だったら、そんなにこそこそ出入りはしないでしょう」

「それは、ああやって子供を引っかけたから、こそこそせざるを得ないのかもしれないじゃないですか」

「だったら、ほとぼりが冷めるまで近寄らないんじゃないかな。単なる怪談話だと思いますけど」

「そうですねえ」

 高見は言ったが、やはり釈然としたふうではなかった。

 留美は息を吐く。

「なんにせよ、さっさと越してくるなりしてくれれば、すっきりするんですけどね」

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「ふきさん、こんばんは」

 矢野|妙《たえ》は煌々と明かりの点いた茶の間の人影に向かって、軽く鉢を掲げてみせた。茶の間にいた後藤田ふきが、驚いたように振り返る。

「あらあ、妙ちゃん」

 いいながら、ふきは立って縁側へと出てくる。少し足を引きずるのは、ふきが関節炎を患っているからだ。網戸を開け、軽く眉を顰めるようにして膝をついた。

「おかずを余計にしちゃったから。ふきさん、いらないかと思って」

「悪いわねえ、いつも」

「娘は店で夕飯を食べるから、あたし一人でしょ。でも、一人分だけ作るのって難しいのよねえ。だからって、店に行って油っ濃いものを食べる気にもならないし」

「歳を取ると、洋食はねえ」

 ふきは言って、手渡された鉢を軽く拝むようにする。膝に手を当て、叩き伸ばすようにしながら立ち上がった。

「まあ、お坐んなさいよ」

 言って奥へ足を引きずっていくふきを見送り、妙は縁側に腰を下ろす。茶の間は、しんと静まり返っていた。珍しくテレビが点いてない。ふきの息子の秀司も姿が見えなかった。

 どこかに出かけているのだろうか、珍しいことだ。秀司は三十八、いや三十九になったのだったか。ふきの末子だ。一人だけ結婚しそびれて、今も家に残っている。よく夜遅くに娘がやっているドライブインに来るようだが、誘い合って飲みに来るような友人はない。加奈美はカウンターが暗くなると言って、秀司の来店をあまり歓迎していないふうだった。

 妙は縁側に座って、秀司の行方について考えた。さほど強く興味があったわけではない。ただ、茶の間を外から覗き込んだとき、白々と明かりの点いた茶の間にふき一人だった。その姿を見たときの気分が喉元に引っかかっているだけだ。老人がぽつんと座っているのは見ているだけで寂しい。きっと娘が店に行って独りで食事をする自分も、ああいうふふうに見えるのだろうと思うから、一層うら寂しいものがある。

「ちょうど切らしてて、何にもないんだけど」

 盆を持ったふきが戻ってきた。

「お構いなく」言って、妙は言葉を継いだ。「ところでねえ、ふきさん、兼正の家に人が越してきたかどうか知らない?」

 湯飲みを差し出して、ふきは首を傾げる。

「何も聞いてないけど。越してきたの?」

「そのはずなのよ。今朝お手水に起きたときに、明かりが点いているのを見たんだもの」

「見間違えじゃないの?」

「違うわよ。前にも明かりを見たの。その時には見間違いかしらと思ったんで、よくよく気をつけて見たんだから。あの位置に見えるのは絶対に兼正よ。兼正でなきゃ、街灯もないようなところだし、夜に行き来する人だっているわけもないんだし」

「そうかしらねえ」

「なんだかあの家、気味が悪いのよねえ。本当に間違いなく明かりが点いてたの。でも、誰もいるはずがないのに明かりが点いてるなんて、どういうことだと思う?」

 縁側に座り込んだ妙に、さあ、とふきは返す。我ながら素っ気ない声だ。話に気が乗らないのを察してくれればいいが、と思う。そして気を悪くしないでくれればいいのだが。

「こんなところに縁もないのに越してくること自体、何か曰くありげじゃない。変な人じゃなけりゃいいんだけど」

「そうねえ……」

 この声はいよいよ素っ気なかった。妙はようやくそれに気づいたように、わずかに困惑した顔をした。

「なんだか邪魔しちゃったみたいね」

 そういうわけじゃ、とふきは言い淀む。

「ちょっと今、秀司が寝付いてて」

「あら、夏風邪?」

「そうじゃないかと思うんだけど、ほら、病気ひとつしない子が寝付くと、どうもねえ」

「そうなの。御免なさいね、取り込んでる時に座り込んじゃって」

「あら、そんなことじゃないのよ」

「いいのよ、気にしないでちょうだい。夏風邪ひとつでも、気を抜くと怖いから、お大事にねえ」

 ふきが頷くと、妙は立ち上がる。また、といって黄昏の落ちた道を歩いていった。

 悪いことをした、とふきは思う。滝はドライブインをやっている娘の加奈美と二人暮らし、その加奈美が夜は遅くまで店に出てしまうから、妙は一人の家が寂しいのだ。何かれとなく理由を見つけては、はるばる村を横切って訪ねてくる。

「……御免ね、妙ちゃん」

 呟いて詫びて、ふきは兼正の家の方向を見た。そこに家のあるはずの斜面はただ暗い。一別で興味をなくし、ふきは茶の間の奥、開け放した襖から廊下へ出た。

「ねえ、秀司。妙ちゃんが煮物をくれたんだけど、食べない?」

 ふきは声をかけながら、廊下を奥へと歩く。息子の部屋を覗き込んだ。襖は開けたまま、部屋の中に明かりはない。ふきが燃した蚊取り線香の匂いが薄く淀んでいた。

「秀司?」

 ふきの息子は、布団に仰臥したまま天井を見つめていた。ぽっかりと開いた目は、この世ではない別の世界を覗き込んでいるように見えた。

 ふきは溜息をつく。一人だけ歳の離れた末っ子は、結局ふきの手元に残った。じきに四十になろうかというのに、妻もなく子もない。妙が娘と二人きりなら、ふきは息子と二人きりだ。その息子の様子が村の北にある山入の集落から戻って以来、おかしい。

「大丈夫なの? お前、今日は何も食べてないのよ」

 ふきは息子の額に手を当てたが、手の下の肌はむしろひんやりして思えるくらいだ。そうやっても息子の反応はない。思い出したように瞬きしながら、天井を見つめている。

 村の北、ちょうど北山の裏側にあたる位置に、山入の集落は孤立している。もともとは山に入る拠点となった集落だが林業が廃れるに連れ住人も減って、現在、残っているのは老人ばかり三人に過ぎない。その老人の一人が、ふきの実兄だった。秀司が伯父――秀正を訪ねて山入に向かったのは五日前、仕事を終えていつものように飲みに出た息子は、寝ようかという頃に電話してきて山入に行ってくる、と言った。

 酒が入っているからと、ふきは最初とめたのだが、秀司は「ちぐさ」で秀正の具合が悪いと聞いた、という。買い物のため村に下りてきた兄嫁の三重子かが、そう言っていたらしい。気になるから見舞いに行くというものを、ふき自信、強くとめる気にはなれなくて、気をつけるように言って電話を切った。戻ってきたのはその夜更け、以来ずっとこの調子だ。翌日にはただ気怠そうに見えたが、次の日には寝込んだ。熱があるわけでも咳をするわけでもない。まるで魂をどこかに置いてきたように青ざめた顔で横たわってまま、今日は一日、声をかけてもふきの顔さえ見ようとしない。

「秀司、ねえ」

 やはり返答はなかった。視線は天井に注がれたまま、どんよりと濁っている。

 医者を呼ぼうかとも思う。尾崎医院の跡取りは、先代と違って往診を嫌がらない。だが、本当に呼んでもいいのだろうか。

 ふきが眠っているうちに山入から戻ってきて、以来、様子のおかしい息子。翌日、起こしに来たふきは、秀司の夏布団が汚れているのを見つけた。それは血に見えた。驚いて布団をめくると、眠った秀司は服のまま、しかもその手も服も乾いた血で褐色に染まって異臭を放っていた。慌てて眠る息子の体を検めたが、別に怪我をしている様子もない。

 いったい何があったのか、と聞いても息子は返答をしなかった。兄が何か知ってはいないかと電話してみたが、応答がない。ひどく嫌な感じがした。なぜか電話に出ない兄夫婦、秀司の様子。ふきが車なりバイクなりの運転ができるなら、是が非でも兄夫婦の様子を見に行くのだが――そう思いながら、ふきはそれが言い訳に過ぎないことを分かっていた。言ってみるのが、なぜだか怖い。

「ねえ、秀司、……なにがあったの」

 ふきが問いかけると、ごろごろと声がした。秀司が喉の奥で唸った声だった。何かを答えたのは確かだが、なんと言ったのかは聞き取れなかった。

「――秀司?」

 だが、それきり返答はない。秀司は億劫そうに目を閉じ、そしてやがて浅い寝息が聞こえてきた。ふきは途方に暮れた思いで立ち上がる。もしも明日もこの調子なら、明日こそは若先生に来てもらおう、と考えた。そう、血のことは少し黙っていてもいいだろう。きっと診察には関係ないはずだ。

 息子に何があったのだろう、と廊下を茶の間に戻ると、ひたひたと足音が「何かがあったのだ」とつきまとう。何か――秀司が血で汚れるようなこと、そして兄夫婦が電話に出られないようなこと。

(まさか。何を考えてるの)

 自分自身を叱ってはみたものの、やはり不安は立ち去らなかった。内向的な息子。この息子が意外に激高しやすい性格であることをふきは熟知している。さらに息子と秀正が仕事のことで大喧嘩したのは、つい先日のことだ。穏和しい息子だが、酒が入ってカッとくるといけない。特に身内に対しては。

(何を考えてるの。こんなことを思い出す必要なんか、ないじゃない)

 ふきは頭を振り、再び人気のない茶の間に戻ると、そこで長く考え込んでいた。

 ――その翌朝、ふきは布団の中で息子が死んでいるのを見つけた。

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三章

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 静信がその知らせを受け取ったのは八月六日、土曜の早朝のことだった。朝の勤行を終え、池辺と鶴見を本堂に残して一足先に庫裡へ戻ると、ちょうど事務所から光男が出てきたところだった。

「ああ、若御院」声を上げ、小走りに廊下をやってくる光男の様子は、いかにも火急の用がある、というふうだった。「いま、電話があって。後藤田の秀司さんが亡くなったそうです」

 静信は瞬いた。

「秀司さんって、まさか」

 狭い村とは家、住人の全てと知り合いなわけではないが、静信は少なくとも、秀司が健康な男であることも急死するような年齢でないことも了解していた。

「事故ですか」

「夏風邪をこじらせたとか、おっ母さんは言ってましたが。小池の昌治さんが世話役代表で、手が空き次第、打ち合わせに来るそうです」

「分かりました。ありがとうございます」

 光男は頷いて庫裡の廊下を本堂のほうへと歩いていく。入れ替わりに静信は事務所に入った。黒板を見ると、光男のおおらかな文字で「後藤田、打ち合わせ、小池」と書いてある。

 村には|弔組《とむらいぐみ》と呼ばれる制度があった。村には葬儀社がない。これに代わるものが弔組だった。いったん集落のどこかで不幸があると、近所の者は総出で行ってこれを助ける。弔問客の供応のための女ではもちろん、死者を埋葬するために、男手は不可欠だった。村では未だに死者を土葬にする。墓所は家ごとに村を取り巻く山の中に設けられていて、そこに墓穴を掘るのも、そこまで棺を担ぎ上げて埋め戻すのも、男手なしには成り立たない重労働だ。その弔組の代表である世話役は、葬儀に際しては世話役代表を務め、葬儀社に代わって一切を采配する。棺の手配から必要なものの斡旋まで、およそ葬儀に関わることの全てを代行した。小池老人はもう長いこと中外場の弔組世話役を務めている。

(夏風邪……)

 秀司は確か、静信よりも六つか七つ上ではなかっただろうか。法事で出入りするから顔はよく知っているが、取り立てて親しいというほどでもない。確か母親と二人暮らしだ。さぞかし母親の後藤田ふきは落胆しているだろう。

(なんて、あっけない)

 鬱々と考えながら、奥に向かう。茶の間を覗いたが、母親の姿は見えなかった。そのまま離れ――といっても実際には母屋から少し突き出しているだけで、離れているわけではない――に行くと、父親の枕許で食事の介助をしていた。「おはようございます」と、これは今朝初めて会う父親に向ける。

 この離れと呼ばれる棟が、寺で唯一、洋間のある建物だった。父親の信明は痩せた体をベッドに横たえ、電動のそれの枕辺を上げて半身を起こしている。昨年の初めに脳卒中で倒れ、以来、四肢に麻痺が残っている。歳のせいもあって、寝付いて以来、徐々に容態は悪化しつつある。かろうじてフォークやスプーンを持つことはできたが、立つことも歩くこともできなかった。

「お父さん、後藤田の秀司さんが亡くなったそうです。戒名はどうしましょう」

 父親も母親も驚いたように静信を見る。

「そんな、まだお若いのに」

 絶句する美和子の横で、信明は投げ出すような動作でスプーンを置いた。

「秀司……ふきさんの、末の、息子さんだったか」

 信明は病を得て以来、言葉を句切るようにして喋る。うまく呂律が回らないのを、意志の力で賢明に御している印象があった。

 美和子は眉根を寄せて、信明に頷く。

「指物の卸をやってる秀司さんよねえ? 何でなくなったんですって?」

「なんでも夏風邪をこじらせたとか。じきに小池の昌治さんがいらっしゃいますが」

「うん。戒名は、考えて、おこう」

 静信は軽く頭を下げる。未だ、寺のことは万事、信明に諮ることにしている。寺の住職はあくまでも信明であって、静信は副住職、信明の代理でしかない。旦那寺の住持であることは、能力には関係がない。それは檀家との信頼関係に置いて築かれる地位だ。

「敏夫くんに、連絡」

「はい。行って様子を訊いておきます」

「それから、墓地の、整理を」

 信明が短く言って、静信は頷く。人ひとりを埋葬するには相当の大きさの土地が必要になる。ひとり死ねば、墓地を整理してひとり分の広さを確保しなくてはならなかった。かつての塚の上に育った樅を切り、根を掘り上げる。あらかじめ墓所の整理をしてあるといいのだが。

「世話役にお願いしておきます」

 静信が行ったところで、光男が離れに顔を出した。

「小池さんがおいでです」

 小池老は高齢にもかかわらず、痩身[#「身」の字は「身」+「はこがまえ」+「品」 Unicode:U+8EC0]ながら頑健な体つきで、血色も良く、歳よりかなり若く見える。文字通り|矍鑠《かくしゃく》とした老人だった。

「とんだことになってねえ」

「お疲れさまです」

 小池は勝手知ったる、の伝で事務所の椅子に座り込んでいた。ふきさんが気落ちして、慰める言葉もなくてなあ。逆縁の不孝とは、よく言ったもんだよ」

 扇子で顔を扇ぎながら、光男の出した麦茶を飲み干す。

 幾度も父親が――そして何度か静信がそうしたように、簡単に葬儀の手順を打ち合わせる。通夜は本日、密葬は明日、土葬にするので夏場は葬儀を急ぐ。

「とにかく急いで枕経を頼みますな。戒名は相応でいいということだから」言って小池は襟足を扇いだ。「急なことだし、大変だ」

「父が墓所の整理を気にしていましたが」

 ああ、と小池は頷く。

「ふきさんが、ちょっと前に自分用に整理しておいたらしいな。夏場のことだし、葬式を遅らすわけにはいかんし、整理してなかったら、工務店に頼んで大急ぎで整理をせんといかんところだった。助かった、と言いたいところだが、ふきさんの気持ちを考えるとなあ。なにしろ自分が収まるつもりの墓に、息子が入るんだからねえ」

 そうですね、と静信は呟く。ときに、と小池老は声の調子を変えた。

「若御院はこのところ、山入の秀正さんにあったかね」

「山入の――村迫秀正さんですか? いえ、彼岸にお会いしたきりですが」

「まさかその時に、旅行に行くとか、出かけるとかいう話は出なかっただろうなあ――いや、出ても仕方ないか。彼岸の話じゃあ」

「いらっしゃらないんですか?」

「うん。連絡が取れんのだわ。ほら、秀正さんはふきさんの兄貴だから。朝から電話しとるんだが、家に誰もおらんようで。そんなこととは夢にも思わず、山に入っとるんだろう」言って小池は立ち上がる。「とにかく、よろしくお願いしますな」

「できるだけ急ぎますので」

「済みませんな。――どれ、失礼する前に、御院を見舞っていこう」

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 静信は、留守居をよろしく、と草むしりをしている光男に声をかけて境内を横切る。墓地から山に入り、林の中の小道を突っ切って山を下りた。製材所の地所を抜け、溝を渡って土手に出る。土手の上の踏み分け道のような小径を辿ると、殺風景なコンクリート造りの建物の脇に出た。生け垣の間にしつらえた枝折り戸を抜けた向こうが尾崎医院の裏庭だった。小さい頃から幾度となく通った順路だ。田舎には道路以外にも道が無数にある。

 勝手に裏庭を通って、目指すドアを開ける。職員が出入りする通用口は裏階段のある小さなホールにあり、ホールは間仕切りのガラス戸で表からは区切られている。勝手に上がり込み、草履を揃えたところで、ちょうど間仕切りの向こうを看護婦の律子が通りがかった。

 あら、という顔をした律子は、すぐに廊下をやってきてドアを開ける。

「おはようございます。先生ですか?」

「ええ。診療時間中に悪いんですが」

「大丈夫ですよ。どうぞ」

 律子は診察室のほうを示したが、静信はそれを断る。

「いや、衣ですから、ここでいいです」

「そうですか? じゃあ、ちょっとお待ちになっててくださいね」

 律子は廊下を診察室へと小走りに向かい、すぐに戻ってきて背後を示した。

「院長室――じゃない、控え室にどうぞ、だそうです」律子はくすくす笑う。先生、助かったって顔をしてましたよ」

 なんとなく想像がついて、静信は微笑んだ。秀司が死んだ噂はすでにあちこちに届いているだろう。患者たちは診察を受けている時間よりも、無駄話をしている時間のほうが長い――。

 軽く頭を下げて控え室に向かう。かつての院長室は改修の際に潰されてもうない。代わりに診察室の隣に小部屋を設けて、敏夫は自分の控え室にしていた。かつての院長室とは違い、特にこれといった装飾もない機能一本槍の殺風景な部屋だ。応接用ソファは先代からのものだが、そこには仮眠用の毛布や枕がつねに出ているし、壁にはカタログや資料が所狭しと貼られている。形ばかりノックをして勝手に部屋に入ると、ちょうど診察室のほうから敏夫が入ってきたところだった。

「文字通り、地獄に仏だな」

「悪いな」

「今は後光が差して見えるぜ。なにしろ朝から苦行を重ねてきたからな」言って敏夫は毛布を押しのけてソファに坐り、テーブルに足を投げ出した。「いつもは勝手に薬局に入って薬を[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで帰りかねない連中が、今日に限って問診を受けたがる。結局、何を話すかと言えば後藤田の話だ」

 静信は苦笑した。患者のほとんどは老人で、さらに大部分が一進一退の病であることが多い。関節炎や腰痛、皮膚病、高血圧、患うと言うほど酷くはないが、健康とは言いかねる、そんな患者が大多数を占めていた。長く通っている患者の中には、看護婦に声だけかけて勝手に物療室に入っていく者もいるし、電話であの薬を出してくれと要求して家族に受け取りに来させる者もいる。三年前、病院を継いだ敏夫はこういった無秩序を廃絶しようとやっきになっていたようだが、じきに降伏して両手を上げた。老人が圧倒的に多い村では、患者の自発的な協力なしには病院が動かないことを悟ったらしい。

 敏夫はソファに体を投げ出して静信を見上げた。

「それで? どうせお前も秀司さんのことできたんだろう。おれはまた同じ話を繰り返すってわけだ。――これから枕経か?」

「うん。その前に様子を訊いておこうと思って」

 敏夫は頷く。父親から受け継いだ静信の流儀を敏夫は承知している。何のために何を訊きたいのだ、とは言わなかった。

「おれが婆さんに呼ばれて駆けつけた時には、秀司さんはこれ以上ないくらい死んでた。もう死斑も現れてたし、硬直も起こってた。おそらく、夜のうちに死んだんだろう。俺が行ったのは午前七時前だったかな。少なくとも明け方に死んだわけじゃない。たぶん深夜の話だ」

「何が原因だったんだ?」

 敏夫はさも驚くべきことを訊かれたかのように目を丸くする。

「おれが看取ったわけじゃないぞ。それ以前、寝込んだ時点で診察だってしてないんだから、死因が分かるはずがないだろう。おれが最後に診察した秀司さんは、きわめて健康そうに見えた。――荷物を落として足の親指の生爪を剥いでいたのを除けば。それだってもう半年やそこら前の話だ」

 静信が苦笑したところにノックの音がした。看護婦の律子がトレイを持って入ってくる。

「ひょっとして愚痴ってるんですか」苦笑ぎみに笑って、律子は敏夫をねめつける。「先生、お行儀」

「このテーブルは、今日から足台になったんだ」

「じゃあ、その足台から足を除けて、お茶を置かせてください」

 律子は言って、敏夫の足を軽く叩き、ローテーブルの上からどかせて湯飲みを置く。

 やれやれ、と口にして敏夫は足を下ろした。

「先生ったら、ご機嫌斜めなんですよ、患者さんが放してくれないもんだから」

「斜めにもなろうってもんだ。みたってどうしようもない年寄りばかりがやってくる。それも、朝早くから玄関の前に並んでやがる。それでこっちは天手古舞いだ。本当に診る必要のある患者に限って、手の施しようがなくなるまで、来ようとしない」

 だいたいだな、と敏夫は湯飲みを静信に突きつけた。

「滅多に寝込まない人間ってのは、滅多に病気をしないんじゃなくて、多少具合が悪くても踏ん張りが利くんだ。自己管理能力が高いから、風邪ていどなら働きながら治す。苦痛に対して辛抱強い。そういう人間が寝込むなんてのは、よほどのことなんだ。それを周囲は滅多に寝込まない人間なんだから、そのうちに治るだろうと舐めてかかって、常にあそこが痛いだの、ここが悪いだの言ってる甘ちゃんばかりを看病する」

 極端を言う、と静信は苦笑した。

「後藤田の秀司さんにしてもそうだ。本人は三日も前から寝付いてるっていうのに、母親は医者を呼びもしなけりゃ、病院に行かせもしない。あげくの果てに、起きてみたら死んでただと。さほど熱もなかったし、軽い夏風邪か暑気あたりだろうと思ったとさ」

「そうか……」

「話を聞いただけじゃ、一帯どこが悪くて寝込んでいたのかさっぱり分からん。咳はない、あったというほどの熱もない、特に痛い所があるというふうでもない。とにかく顔色が悪かった、ひどく疲れている感じだった、食事が喉を通らないふうだったという」

 それで医者に診せる踏ん切りがつかなかったというわけだ、と静信は目を伏せた。誰も家族が大病をすることなど考えたくない。だから目を逸らし「まさか」という言葉で括って、そんな可能性など存在しないふりをする。そうしているうちに、もはや念頭にも浮かばなくなってしまうのだ。

 敏夫は、げんなりしたように息を吐いた。

「いわゆる突然死ってやつだ。解剖でもしてみない限り原因が分かるはずもないし、解剖したって、いわゆるポックリ病なら理由は出てこんだろう。しかも当の後藤田の婆さんが、解剖は嫌だという」

「勧めたのか、そんなことを」

「必要な手続きってやつさ。だが、遺族が嫌がるものを、無理に持って行くわけにもいかん。行政解剖や司法解剖ってわけでもないんだからな。こうなったらもう仕方がない。伝家の宝刀、急性心不全と書いて死亡診断書を出したさ」

 結局のところ、敏夫はそれが不服なのだろう、と静信は推測した。村人が病院に求めていることは、突き詰めれば大きな病院にかかるべきかどうか判断してくれることでしかない。家で養生していればいいのか、それともきちんと医者にかかるべきなのか、それをふるいわけてくれる人間が欲しいのだ。そうでない患者は害にならない薬を出してもらえ、愚痴を聞いてもらえればそれでいい。敏夫はずっとそういう立場に抵抗しようとしていたが、抵抗し通せるものでもないだろうと思う。

「残された婆さんのほうが、病人みたいな有様だ。まあ、せいぜい泣き言を聞いてやるんだな」

 静信は頷き、腕時計に目をやる。もう行かなくてはならない。とにかく遺族にとっては突然の――おそらくは理不尽な死であろうことは分かった。悲嘆に暮れる遺族の前で詳しい事情は訊きにくい。けれどもその死の状況を理解していなければ、どんな不調法な言葉をかけてしまうとも限らない。だから、前もって尾崎医院に訊けることは訊いておく。どうせ村には病院はひとつしかない。ほとんどの死者は敏夫の手を経なければ、埋葬されることができないのだ。

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 村は死によって包囲されている。

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 ――包囲されているのは、僧侶である静信であり、医師である敏夫なのかもしれなかった。

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 後藤田の家は上外場にある。上外場は川端の村道に沿って長く北に延び、寺の南一帯に広がる門前の集落と複雑に入り混じっていた。後藤田の家はその上外場の集落の中でも、もっとも北のほうにあり、寺のある北山に接する。東側の斜面を削り取ったようにして立っていた。

「なんだか、怠そうにしててねえ」言って、ふきは目頭を押さえた。「最初は暑気中りかしらね、と言ってたんですよ。まずそうにご飯を食べるわね、と思っていたら寝込むでしょう。もともと病気をしない子なんで、こっちも油断しているし、本人も寝ていれば治るって言うし、……それが」

 ふきは弔問客の膝先に泣き崩れ、静信は座敷の一隅に控えてそれをやるせない気分で見ていた。親を亡くした子供も哀れだが、子供を亡くした親は、何かが一本、折れたように見えて、いっそう哀れに思う。

「お医者に診せたらよかった」ふきは声を上げて泣く。

「秀司が嫌だっていっても、若先生に来てもらったらよかった」

 ふきのせを小池老が撫でる。手伝いのために集まった者のうち、ふきの近くに集まった老女たちは、もらい泣きしているようだった。座敷の、別の一郭では、不憫そうな目をふきに向ける者たちがいる。

「しかし秀司くんも元気そうだったのになあ」

「元気な人ほど逝くときは呆気ないって言うしねえ」

「周りも本人も、どうしても甘く考えるからな」

 そして、別の一群の声が聞こえて、静信はわずかに眉を顰めた。

「……驚いたわよ、立派な屋根の乗った門のある塀なんだもの」

「それを建てるって? 誰が」

「ほら、前原のお婆ちゃん」

「だってあの人は係累がなかったろうに」

「そうよ。年金で生活してるっていうのに、そんな大金、どうしたのかしら」

「あら、あの人は山持ちでしょう」

「山ったって、山入の林道のほうじゃない。二束三文にしたって買い手なんか、いやしないわよ」

 静信は軽く息を吐く。村は狭い。親戚関係、寄り合い、青年団、様々な組織で網の目のように人間関係が入り組んでいる。だからといって、必ずしも付き合いが深いとは限らなかった。葬儀に駆けつけるほどの縁はあっても、死者を惜しんで泣くほどの付き合いはない、そういう関係が村には無数にある。

「済みませんねえ」

 小声で言われて、静信は振り返る。手伝いに来ていた老婆が静信の前に置かれた湯飲みを換えた。

「もう少し待っててくださいねえ、お客さんが途切れなくて」

 頷いて、静信は軽く息を吐く。自分がこの場で、渋い顔をしてはいけない――。

 村に死は珍しいことではない。老人の多い村ではむしろ死が多い。村人にとって、老人の死は悲劇ではない。それは避けられない人の営み、老人は生という巡礼を終えて山へ帰る。村で生まれた者は、村で人としての営みを全うし、やがて山へと還っていくのだ。

 だが、秀司はまだ営みを終えてない。村では時折、こういう惨いことが起こった。逝った者にとっても残された者にとっても、それは悲劇でしかないが、死は時折、人の帰還を待ちきれずに、樅の中から現れ村人を攫っていく。秀司は鬼に引かれたのだ。

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 ――屍鬼だ。

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 黙って考えを巡らせていると、世話役の小池老にどうぞ、と声をかけられた。静信は読経のために秀司の枕辺に寄った。

 静信が読経を終えると、秀司の体は納棺される。ふきの側からとりあえず人が途切れたのを見て、静信は側に寄った。

「これで一旦、失礼します。どうぞ、お気落としなく。さぞお寂しいかと思いますが」

 ふきは頷いた。隠居した先の住職も穏やかな男だったが、息子のほうは一層穏やかに語る。一瞬、何もかも吐き出してしまいたいという衝動に駆られた。

(油断してたわけじゃないんですよ)

 寝付いた息子が心配でなかったわけじゃない。医者に診せようと思った、何度も思った。医者を呼ぶことは呼ばないことよりも悪い結果になりはしないかと、怖かっただけだ。息子のことが心配だったから。

(布団の血……)

 ふきは静信を見上げ、首ひとつ振って膝の上の数珠に目を戻した。

(もう終わったことだ)

 秀司に今さら、何があったのかと問うわけにもいかない。

「どうも、ありがとうございました。……また、今夜もよろしくお願いしますねえ」

 ふきはそれだけを言った。静信は頷く。

「大変なときですが、ご無理はなさらないでください。秀司さんを亡くされておつらいでしょうが、ふきさんが倒れれば同じように辛い人がたくさんいるんですから」

 ふきは頷く。

(でも、あの子の布団には血がついていたんです……)

 集まった人々に挨拶をして小池老の姿を探し、静信は茶の間で電話をかけているのを見つけた。

「小池さん、わたしは失礼します」

 静信が声をかけると、無言で受話器を耳に当てていた小池老は、ああ、と声を上げて頷いた。

「お疲れさまでした。また通夜にはよろしくお願いしますな」静信に言って、受話器を置き、渋面を作って独りごちた。「……どこに行っとるのかな」

「村迫の秀正さんですか?」

 静信が訊くと、小池老は困り果てたように頷く。

「田圃に出るか山に入ってるかしてるんだと思うんだが。――そうだ、若御院は秀正さんとこの山がどのへんだか分かるかね」

「分かると思います。墓所のある辺りですから。なんでしたら、ぼくが行ってきましょうか? どうせ今日はしばらく特に用がありませんから」

 小池老は安堵したように中途半端な笑みを浮かべた。

「お願いしても構わんかね。なんとも申し訳ない話だが。何しろ秀正さんとこの山を知ってる者がいなくてね。探せば誰かが知ってるはずなんだけども、わしらはこれから墓掘りに行かなきゃならんし」

「ぼくが行ってきます。山に入ってみて見あたらないようなら、家にメモを残しておきますから」

 静信は後藤田家を辞去し、いったん寺に戻ってから事情を光男に伝えた。山に入ることができるよう衣を洋服に着替え、寺を出る。

 鐘楼脇から私道を抜け、山門前の石段下に出る。石段下からの短いが急峻な坂道は、昔ながらの石畳で、それがほとんの二百メートルほど続いて、つづまやかながらも門前町らしき光景を作っていた。蝋燭や線香を扱う千代の雑貨屋、小さな石屋に花屋、こまごまとした仏具などとともに、村内で使う卒塔婆や棺を取り扱う三宝堂。このごく短い門前町の出口に神社の御旅所があるのは、そもそも神社が寺と一体だった頃の名残だ。

 徐行しながら車を進めると、店番をしていた人々がわざわざ表へと出てくる。車を見送るようにして頭を下げるのがバックミラー越しに見えた。

 御旅所の角を曲がってアスファルト道に出ると、後藤田の家に向かうのだろう、常より人通りが多かった。ほとんどが道を川端の村道へと向かって歩いていく。それらの人人を追い越していくと、その多くが接近する車に気づいて振り返り、ハンドルを握った静信に目を留めて頭を下げた。

 ――これが、静信の背負ったものだった。

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「ああ、若御院だ」

 武藤は追い越していった白のセダンを見送った。

「衣は脱いでたな。もう枕経は終わったんだ」

 呟く武藤を、結城は困惑した気分で見守った。

 弔いがあるから、と武藤が声をかけてきたのは今朝のことだ。村の者は葬儀に際して助け合う。相互扶助のために近隣所で作る組織が弔組というものらしかった。そういう組織があるらしいことは知っていたが、結城はこれまでその弔組に組み込まれていなかった。行かないか、と誘われたのはこれが初めてのことで、ようやく自分も村の地縁社会の中に入りつつあるのだ、という感慨を持って出かけてきたのだ。

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