饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.8

作者:日-小野不由美 当前章节:15482 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 しかしながら、誘いに来た武藤に連れられて家を出ると、近所のどこにも葬式らしい様子はなく、武藤もまた中外場の集落を出て|上《かみ》へと向かう。てっきり寺で葬儀があるのだと思って黙ってついて行くと、寺のほうへは行かずに上外場の集落へと向かった。要は隣組のような制度ではないのだろうか。なのにどうして、はるばる上外場に出かけなければならないのか、結城には釈然としない。

「武藤さん」結城は足を止めた武藤に呼びかける。「なんだって上外場に来るんです。お寺に行くわけじゃないんですか」

「後藤田の家に行くんだよ。弔組だから」

「だから――」

 その弔組というのはどうなっているんだ、と聞こうとして、結城はすぐ脇の畦道から上がってきた男に目を留めた。

「広沢さん」

「ああ、どうも」広沢は例によって温厚な笑みを浮かべる。「そうか、武藤さんも結城さんも弔組ですか」

「というと、広沢さんもですか?」

 結城は瞬いた。これまた一層、釈然としない。結城も武藤も中外場三班の人間だし、広沢が何班かは知らないが、少なくとも三班でないことは確実だった。それがどうして上外場の葬儀で出会うのだろう。

 不思議そうにしている結城に気づいたのだろう、広沢は肩を並べながら微笑む。

「わたしも同じ弔組なんです。中外場三組」

「でも」

「住まいは六班なんですけどね。弔組と班は別物なので」

 はあ、とと結城は曖昧に頷いた。

「結城さんは中外場三班ですよね。私は六班。これは行政上の区分けなんです。外場は行政上、外場校区というんですが、この外場校区は六地区でできている。各集落が地区です。これがさらに班に細分されていて、これは純粋に家の所在による区分けなんです」

「弔組はそうじゃないんですか?」

「ええ。村には本家?分家というものがありますから。弔組は基本的に班を母体にしてるんですが、分家は本家のある場所の弔組の所属するんです。祝儀?不祝儀は結局のところ、そういう血縁を抜きにはあり得ないわけですから」

「ああ、そうか。祝儀にしろ不祝儀にしろ、結局、血縁は集まるわけですからね」

「そういうことですね。昔は――わたしの父親の頃までは、|祝組《いわいぐみ》と言って、祝儀で集まることもあったようですが、いまどき本家の座敷で結婚式をする者もいないですから」

「祝組と弔組は同じものですか?」

「微妙に違いますね。弔組は寺の領分ですが、祝組は神社の領分なんです。弔組のほうは世話方といって寺の檀家組織との関係が深いし、祝組では村方という氏子組織との関係が深い。ですから、同じ家でも弔組と祝組では若干、顔ぶれが違ったりします」

「なるほど」と口を挟んだのは武藤だった。「それが釈然としなくて、あんた、さっきから首をひねってたんだな」

 結城は苦笑した。

「そう。なんだって上外場に行くんだろうと思って。そうか、血縁か」

「そういうことです。私は六班に住んでますが、本家は三班にあるので、弔組は中外場三組の所属になるんです。後藤田も同じです。家は上外場にあるんですが、弔組は中外場の三組」

「なるほど。広沢というと、うちの隣かな。あそこが広沢さんのところの本家になるんですね」

 広沢は笑んだ。

「結城さんの家の隣じゃなくて、三班のいちばん下の家です。あそこも広沢で、あちらが本家です。お隣の広沢さんも、遠く遡れば縁続きなのかもしれないですけど、今はいちおう、関係がありません」

「ああ、あそこもそういえば広沢か――。考えてみると、広沢という家は多いですね」

 ええ、広沢は頷く。

「村には四家というのがあるんです。竹村、|田茂《たも》、安森、村迫の四家。これがどうも、村を拓いた家らしいんですけど。これに広沢を入れて五家と数えることもあります。それくらい多いんです。近頃は、田茂も村迫もずいぶん減りましたから、数の上では広沢のほうが多いくらいじゃないかな」

 結城は目を見開いた。

「村が拓かれたのは――」

「江戸の初期ぐらいの頃の話だそうですね」

「その頃からあるんですか? 四家も? それが今まで続いているんですか」

 これは都会生まれ、都会育ちの結城にしてみると、ちょっと驚くべきことだった。結城自身は都会で生まれたが、父親は東北の出身で、母親は東海地方の出身だった。それも土地に根付いた家、というわけでなく、祖父母の親の代にもなると、もうどこの者なのか分からない。

「そのようですね。寺ができたのが、それから百年ぐらい後のことなんだそうですが、寺ができた頃には、四家も広沢もすでにあったようですね。もっとも、その頃には名字はなかったわけですけど」

「すごいですね」結城は半ば感嘆して息を吐いた。「それが、土地に根付く、ということなんだなあ」

 広沢は微笑んだ。それは結城からすると、根付く土地を持ち、確固としたものに所属する者の余裕から来る笑みのように思われた。

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 静信は川端の村道を北上する。ついさっき出てきたばかりの上外場の集落を過ぎ、山入へと向かう切り通しへと車を進める。上外場を過ぎると、村道からは路側帯が消え、その分道幅が狭くなる。寺のある北山の麓に沿って迂回するように北へと回り込む。ゆるやかな上り道になっていた。

 道の片側は鬱蒼とした樅の林、それが斜面を削り取った段差の間際まで迫っている。土止めのための擁壁は川原石を積んだ古いもので、苔と|羊歯《しだ》に覆われていた。それとは反対の片側も樅の並木で、その向こうには渓流が流れている。とはいえ、この辺りではかなりの高さの渓谷になっているから水面は見えない。その渓流は徐々に細くなり、やがて道を離れていった。そうなるともう、かろうじて車が離合できる幅の道路は、両側を樅に挟まれて見るべきものもなかった。ガードレールのようなものもなく、路側帯もセンターラインもない。

 樅に視野を閉ざされ、単調に幹が続く中を走り抜ける。カーブを曲がると同時に林が途切れて小さな谷間――谷間というより山間の窪地に拓けた集落が現れた。北山を迂回して山の北側に出たのだ。これが、山入だった。

 道は林道と交わり、さらに細くなって集落へと上がっていく。細い坂道の両側にはもうわけ程度の棚田と家が点在していた。かつては山に入る拠点となった集落だが、林業が寂れるに連れて人口も減り、今では二世帯、三人だけが生活をしていた。

 山入は眠っているように静かだった。開けた車の窓から蝉の声だけが微かな風音とともに吹き込んでくる。常に静かなところだが、まるで無人の廃屋に迷い込んだような気が静信にはした。やがて本当に無人になる日も遠くないだろう。村迫秀正、三重子の夫婦も大川義五郎もすでに高齢で、もういつ何が起こってもおかしくはない。

 おとどれくらい山入に来ることがあるだろう、と静信は集落を見渡した。坂道は斜面と斜面の間を縫うようにして細く曲がりながら続いている。十数戸あまりの家が見えるが、そのほとんどが廃屋で、人の暮らしている建物は二軒しかない。ずいぶんと前に廃屋になった家の中には、屋根が歪んで軒が落ちているものもある。家は住人を亡くすと急速に荒廃する。下の六集落なら、そういった家を買い取って越してくる物好きもいるが、山入ではそれもないだろう。――集落は樅の中に呑まれようとしている。

 そう考えたところだったので、一軒の廃屋に目が留まった。閉め切った雨戸に真新しい板が打ち付けられている。一瞬だけ怪訝に思いながら、静信はそれを通り過ぎ、少し上手にある家に車を向ける。電話に出ないのなら山に入っているのだろうが、念のためにと村迫家の地所に入った。

 山入の家はどれも道よりかなり高い。山肌を削り、石垣を積んで家を建ててある。必ず坂の上の方に出入り口があって道と接する構造になっていた。そのスロープに車を止め、とりあえず玄関に向かう。どんなふうに訃報を伝えたものか考えながら、声をかけつつ玄関を開けた。前庭に面した雨戸が半分引かれていたこと、この夏の暑い盛りに玄関の戸が閉まっていたことに不審を覚えたのは、玄関の内部に異臭を嗅いでからだった。それは何かが腐った種類の匂いだ。ふと嫌な予感がした。

「村迫さん」

 静信はもう一度声をかけたが、返答はない。困惑して表に出、家の周囲を見渡した。

「村迫さん、いらっしゃいませんか」

 静信は幾分、縋る気持ちで家に向かって声を上げた。少しずつ嫌な気分が募ったせいだが、これに対する応答はどこからもなかった。裏から誰かが顔を覗かせることも、納屋から人が出てくることもない。庭に面した窓は全て閉ざされ、ぴったりとカーテンが引かれている。村では山に入ったり田圃に出るのに戸締まりなどはしない。夏のことならなおさらだった。熱気が家に籠もらないよう、風邪を通すためにあちこち開け放っていく。

 大川義五郎なら何か知っているだろうか、そう思いながら静信は念のために裏手に回った。台所脇の戸口を見つけて開けてみる。

「村迫さ――」

 言いかけて、静信はとっさに後退った。戸を開けたとたん流れ出てきた異臭が顔を打つようだった。

 コンクリートを布いた土間には履物が散乱し、所々に赤黒い染みが広がっている。染みの上に蠅が|集《たか》り、風邪に驚いたように舞い上がっては螺旋を描いて染みに戻る。

(……血?)

 それは血痕に見えた。静信は軽く息を詰めて、おそるおそる中を覗き込んだ。

 戸口の中にはかなり大きな踏込があって、一段上がって台所になっている。小さなテーブルが置かれ、一応ダイニングキッチンの体裁になっているが、椅子のひとつは倒れ、テーブルも誰かが押しやったように斜めになっていた。ビニール製のテーブルクロスは半ば落ちかけ、卓上の小物は倒れて転がっている。床は投げ出された物と至るところについた汚れで、ひどく散らかっている印象を受けた。子供が遊んだ後のようだ、と静信は思ったが、散乱しているのは玩具などではなかった。

 それは、犬か何かの毛皮に見えた。片づいた床の至るところにはそれらが投げ出され、随所に赤黒い染みができていた。そして、猛烈な腐臭。

「これは」

 言いさして、静信は鼻から口を思わず袖で覆う。腐臭が喉の奥に流れ込んできて、咳き込みそうになった。腐臭と相まって吐き気がする。比較的大きな毛皮は、犬か何かの胴体に見え、あるいは足に見えた。小さく茶色の兎のものらしい足が、戸口の側に転がっている。どれもこれも虫が湧き、びっしりと蠅が集っていた。

「村迫さん、あの!」

 大声を上げたが、蠅が一斉に飛び立っただけだった。静信は後退る。血の気が引いているのが自分でも分かった。

 何かがあったのだ。そうでなければ、あんなものを放置しておかないだろう。幾頭ぶんのものなのか、一瞥しただけでは分からなかった。原形をとどめているものがなかったからだ。たぶん数頭の、ひょっとしたらそれ以上の動物が五体をバラバラにされて放置され、腐敗している。

 思いついたのは、野犬だった。外場周辺に熊が出たなどという話は老人の眉唾物の昔話でしか聞かない。山に迷い込んで集団を作っている野犬がいる、という噂なら信憑性をもって語られたし、それが集団と呼べるほどのものであるかどうかはともかく、山の中で犬を見た者は多く、声を聞いた者はさらに多い。

 静信は通り過ぎた廃屋を思い出した。それで雨戸に板が打ち付けてあったのだろう。野犬が廃屋を巣にしているのではないだろうか。そしてその野犬たちは、人の住んでいる家にまで侵入して――。

(侵入して、それから?)足下から震えが立ち上がってきた。(犬は家の中を若者で荒らしている。……それを止める者がいないから)

「――まさか」

 自分に言って、静信は辺りを見渡す。戸口の側に庭箒が倒れていたのを見つけて拾った。それを携えて裏庭に向かう。飛び出してくる獣がいないか、十分に注意をして、何度も箒を手の中で持ち替えた。

 村迫さん、と幾度も声を上げながら、不要品の積まれた裏庭に出た。すぐ家の背後に迫った崖と建物に挟まれた細い庭には、ほとんど陽が差していない。その庭に面した縁側の掃き出し窓が、細く開いているのを認めた。

 静信は半分開いた窓から中を覗き込んだ。縁側の内側にある障子は、静信が覗き込んだ場所からほんの少し右手で半分ほど開いている。中を見通せる位置まで窓を開け、静信はこちらを見上げてくる一対の目を真っ向から覗き込んだ。

 部屋に横たわった者は、障子の間から外を覗くようにして虚ろな目を見開いている。その目が白濁しているのを、静信は認めた。瞬きもなく、青黒く変色した顔の筋肉には、ほんの微かな動きもない。そして――腐臭。

 村迫さん、と声を上げながら、静信は障子の間から顔を覗かせているのが三重子であることを悟った。横たわった三重子の背後、奥には仏壇が見え、その手前には二組、布団が敷かれていた。そのうちの一方は空で、夏布団が足許に丸まっている。もう一方には人が横たわっているのが見えたが、その枕辺には蚊柱のように蠅が集まって渦を巻いていた。

 人が横たわった方の布団からは茶色い粘りけのありそうな液体が漏れて、畳の上に流れ出ている。誰かが横たわっていることは分かったが、それが誰なのかは分からなかった。夏布団がいびつな形に盛り上がり、おぞましい色に変色したそれと融け合っているように見えた。畳のあちこちには擦りつけたような染みが点在し、その染みの上にも無数の蠅が止まっては飛び立っている。

 呆然と見つめている目の前で、開かれたままの三重子の眼球に蠅が止まった。

 静信は飛び退る。悲鳴はおろか、声も出ない。とうてい中に踏み込む気にはなれず、静信は腑抜けたように頼りない足を励まして表に飛び出した。

 家の表側には何かの皮肉のように、眩しい陽射しが降り注いでいた。

 陽射しは強く、スロープに敷かれたコンクリートは、ひび割れを黒々と残して白く陽光を反射する。地所の土もコンクリートも目を射るほどに白い。

(なんてことだ)

 静信は地所を足早に出て、さらに少し上にある、大川義五郎の家に向かった。車に乗り込み、キーを差して動かす、そういった一切のことがあまりにももどかしく感じられて、車を使う気にはなれなかった。

 集落には何の物音も気配もない。押し迫るような蝉の声が虚ろに響いていた。細い道の先々を揺らめく逃げ水、アスファルトも石垣も陽光に晒され、錯綜する照り返しで空気自体が発光して見えた。

 乾いた地所に駆け込み、そう叫んで縁側に走り寄り、静信はそこでも強い腐臭を嗅いだ。義五郎の家は、村迫の家とは違って雨戸も開け放してあったし、障子も取り払われ、真通しに見える無人の茶の間を、冷ややかな風が通っていた。にもかかわらず、家の中には外の物音が微かな残響となって残るように、酷い腐臭が溜まっている。

「大川さん、義五郎さん」

 静信は声を張り上げたが、返答はなかった。緊張に上擦ってはいても、僧侶の声はよく通る。にもかかわらず、何度声をかけても返答もちろん、人の動く気配すらない。わずか、逡巡して、静信は茶の間に上がり込む。上がってすぐの所に電話台があった。

(二人、ひょっとしたら三人)

 そして、山入には人間は三人しかいない。――そう、もしも義五郎が無事なら、人が姿を現さなくなった村迫の家を覗いたはずだ。そうすればあの惨状を見なかったはずがなく、だとしたら誰かのところに連絡がなかったはずがない。

 静信は受話器を握った。自分の手はそれと分かるほど激しく震えていた。

 呼吸を整えるために上げた視線は、戸外の風景を薙いだ。陽光に灼かれる集落。ほとんどが廃屋だが、じきに全てが廃屋になるだろう。石垣も庭も道もここにある全てのものが意味を失う。死にかけた集落は本当に死に絶えた。――山入は樅に呑まれたのだ。

 山では蝉の声が|喧《かまびす》しい。鳥の声が混じった。軒の外では夏の陽光が降り注ぎ、樅は緑、山の上に横たわった空の色は冴える。

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「ただいま」

 声を聞きつけて、律子は雑誌から顔を上げた。休憩室のドアを開けてみると、ちょうど裏口から敏夫が診察鞄を提げて戻ってきたところだった。土曜の午後、すでに残っているのは留守番を買って出た律子だけだった。

「お帰りなさい」律子は言って、敏夫の前に立って控え室に入った。「翔くん、どうでした?」

「日射病の軽いやつだ」

「あら」

 敏夫は往診を嫌がらない。呼ばれれば鞄を提げて気軽に出ていく。別に呼ばれたというわけでなくても、今日のように子供の様子が変なのだが、病院に連れて行ったほうがいいだろうか、と相談を受ければ、ちょっと用を足すような調子で出かけていく。遠方なら車を出すが、近所なら歩いて、あるいは看護婦の自転車を拝借していくから、なまじ近いと夏場は辛い。今も汗だくになっている。

「ひどい暑さですもんねえ、今年は」律子はエアコンの送風を強くした。「何か、冷たいものでも飲みます?」

「ビール」

 げんなりしたように言いながら敏夫は鞄を放り出す。

「はいはい。色が濃くて、泡のないやつですね」

「ビールと言ったら、ビールだ」

 言い張る敏夫を笑って、律子は控え室を出ていった。給湯室に行って冷えた麦茶をグラスに注ぐ。ついでに冷凍庫からシャーベットの小さなカップを取り出してスプーンを添えた。それを持って控え室に戻ると、敏夫はクーラーの通風口の前に立って襟の中に風を入れている。

「おつまみ付です」

「そりゃ、サービスだな」

 律子はグラスとカップをテーブルの上に乗せ、敏夫が腰を下ろすのを見ながらトレイを胸に抱いた。

「さっき、前原のお婆ちゃんが来たんですよ。前原セツさん。薬がなくなったから、くれって言うんです」

 敏夫はシャーベットの蓋を剥いでスプーンを突き立てた。

「前原のセツさん――橋本病でチラジンをだしてるんだっけか」

「ええ。それが、調子が良くないらしいんです。効かないからって勝手に増やして薬を飲んだらしいんですよ」

「馬鹿な。セツさんは狭心症の傾向があるんだ。とんでもない話だぞ、それは」

「そう説明したんですけど、とにかく薬が切れたから、くれって」

「年寄りはすぐそれだ。薬なんてのは量を増やせば効果が上がるもんだと思ってる」

「先生の指示がないと薬は出せないから、帰ってくるのを待ってくださいって言ったんですけど、聞いてくれなくって。仕方ないんで、前回の処方箋通りにきっちり二日分だけ渡しました。それ以上の薬は出せないから、月曜に必ず来るように行っておきましたけど」

「あの婆さんは、注射が嫌なもんだから、おれのいないときを狙ってくるんだ。診察を受けると血液検査をされるのが分かってるもんだから」

「ちゃんと守ってくれるといいんですけど。それでもダメだったら、どうしましょう」

「メルカゾールでも混ぜてやれ」

「先生」

 律子は溜息をついた。

「なんでだ? 抗ホルモン剤とホルモン剤で、帳尻は合うじゃないか」

「そういう問題じゃありません」

 律子は、処置なし、と天井を見上げた。電話が鳴ったのはその時だ。律子が取ろうとすると、敏夫はスプーンを啣えたまま手を挙げる。

「ああ、いい。おれが出るから。帰っていいぞ」

 言って受話器を取るのを見て、律子は軽く頭を下げて退出の意を伝える。敏夫はそれに頷いて答える様子を見せ、そして突然、なに、と声を上げた。律子は思わず足を止め、険しくなった敏夫の表情を見守る。

「全員? 本当に? ――警察は」

 警察という言葉にぎょっとして、律子はトレイを抱いたまま敏夫の顔をまじまじと見る。無意識のうちに耳を澄ましたが、相手の声が聞こえるはずもない。

「通報するんだ。いや、いい、こちらから連絡しておく。――ああ、駄目だ、絶対に動かすんじゃない。何も触るな、表で待ってろ、いいな?」

 誰かが倒れでもしたのだろうか。律子は軽く緊張する。

「で、義五郎爺さんの死体は確認してないんだな?」

 律子は眉を顰めた。義五郎――山入の大川義五郎のことだろうか。

「確認しろ。坊主が死体に怖じ気づいてどうする。もしも息があるなら医者がいる。村迫さんのほうは確実なんだな? ――いや、いい。とにかく行くから、そこで待ってろ。とりあえず義五郎爺さんの様子を見て、息があるなら救急車を呼べ。すぐに出る」

 口早に言った敏夫は受話器を置いて、立ちすくんだ律子を見る。短く言った。

「山入、壊滅」

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「良かったわねえ、茂樹くん。何でもなくて」

 矢野加奈美の声に、前田元子は窓際のテーブルへと向かいながら笑みを浮かべた。

「知らせが来たときには肝が冷えたけど。とうとう熱を出すことも、夜にうなされることもなかったし、本当になんでもなかったみたい。恥ずかしいわ、取り乱して」

 加奈美はカウンターから笑う。

「子供のことになると、母親ってのはそんなもんよ」

 そういう加奈美は、離婚に際して子供を相手方に残してきた。多くを言わないが、元子は相手方の家に取り上げられたのじゃないかと思っている。

「若御院にも申し訳なくて。お詫びに行ったほうがいいかしら」

「大丈夫じゃない。お礼に行くのは止めないけど、そんなに難しい人じゃないから。気だての優しい人だからね、若御院は。あんたが喰ってかかったのだって、別に気を悪くしてるようじゃなかったもの」

 よかった、と呟き、テーブルの上の食器を片づけにかかったときパトカーのサイレンを聞いた。元子はハッと顔を上げ、広い窓越し、国道に目をやった。

 加奈美もカウンターの中で耳をそばだてる。加奈美のドライブインは村への入口に面し、カウンターからは溝辺町方面へ向かう国道が見える。遠目に、自動車道の高架下をくぐって接近してくるパトカーの姿が見えた。窓際で元子が身を固くするのが分かった。

「大丈夫よ、元子」

 きっと外場とは関係ない、そう意図を含ませて元子に微笑む。元子もぎこちなく笑みを返し、食器を集めたトレイをカウンターまで下げてきたところで、窓の外を疾走していったそれが、村道へと川端を曲がっていって驚いた。

(何かあった? ――でも、何が?)

 元子が小さく悲鳴を上げた。加奈美はその手を叩く。

「茂樹くんじゃないわよ。心配することないわ。――でも、何があったのかしらね」

(事故かしら)

 万が一にも元子の子供などということがなければよいのだけれども。友達の腕をことさらのように軽く叩きながら、加奈美はそう思った。どこか不安な気分で三台のパトカーと護送車のような灰色のバンを見送った。

 ちょうどその頃、ドライブインの少し北に位置するタケムラ文具店の店先には老人たちがたむろしていた。例よって店先に出た床几に集まって無駄話をしていた老人たちは、突然のサイレント疾走してくるパトカーの姿に、いっせいに腰を浮かせた。

「なんだい、事故か?」

 笈太郎は立ち上がり、通り過ぎたパトカーを見送る。行く先を見守って、それがまっすぐに川端の村道を北上していったのを確認した。

「上に行くぞ。上外場か、それとも門前で何かあっのかな」

「事故だわね、きっと」

 そう言った弥栄子の声に、武子は鼻を鳴らした。

「たぶん大川の倅だわ」大川酒店の息子は鼻つまみ者だ。昔から気の荒い乱暴者で、配達のバイクを運転するのまで荒い。「おおかたどっかに突っこんだんでしょうよ。いつかそうなると思ってたわ」

 竹村タツは、特に言葉を挟まなかった。たかだか事故であんなにパトカーがやってきたりするものか、とは思ったが、教えてやるほどのことでもない。じきに誰かが、何が起こったのか知らせにくるだろう。

 後藤田ふきは、矢野妙に支えられるようにして家を出、警察の車に乗り込んだ。電話があった。それを受けたのは世話役だった。受話器を置いた世話役は真っ青になってふきに実兄の死亡を伝えた。

 それをきいたときからふきの腕には鳥肌が立ったまま、それは真夏日の気温を持ってしても治まらなかった。傍らの者たちが励ますようにふきの手を叩いてくれたが、一向に温もらなかった。兄がどうして死んだのか、世話役は言ってくれなかったので分からない。ふきにはそれを世話役が隠しているように思えてならなかった。パトカーが走っていくのが聞こえた。警察が呼ばれるくらいだから、きっと尋常な死ではないのに違いない。それがふきの背筋を粟立たせる。

 矢野妙が車に縋るようにする。

「ふきさん、誰かに任せた方がいいわよ。年寄りには酷よ」

 はや涙ぐんでいる長年の友人の顔を見上げ、ふきはシートに座ったまま硬く手で膝を[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。隣に乗り込んだ世話役が、その手を握ってくれたけれども、その感触は現実感を欠いていた。

「大丈夫……、兄さんの、ことだから」

 声に出すと、自分がふるえているのが良く分かった。ふきの視線は妙を見ていたが、全身の神経が前と脇に乗った警官の方を向いているのが自分でも分かった。

(落ち着かないと)

 固く手に力を込めれば込めるほど、手首を軸にしたように震えは酷くなった。

(こんなことじゃ、変に思われる……)

 「でも、ふきさん」

 「……大丈夫」

 警察官は無言で座っている。聞き耳を立てているように思えてならない。ふきは耐えられずに、深く頭を下げた。同時に、ドアが閉まって車が動き出す。ふきには顔を上げることができなかった。

「ご不幸があったとか。息子さんですか」

 前から声をかけられたときには、シートの上で飛び上がりそうだった。こわごわ顔を上げると、助手席に座った中年の警官が振り返っていて、その目がじっとふきに注がれていた。

「ええ、……はい。末の息子で」

(血が……)

「そりゃあご愁傷様です。残念でしたねえ。――お幾つだったんです?」

「ではねお嫁さんとお孫さんが」

「いえ、まだ、独り者で」

(血が……服に……)

 ふきは頭を振った。警官は、そうですか、と言った切り口を噤んだ。それから永劫の時間が流れた。ふきには全ての物音が、気配が恐ろしかった。警官が息を吐くたび、いよいよ訊かれる、という気がした。

(息子さんは最近、山入に行きませんでしたか)

(戻ってきた息子さんの様子に、変なところはありませんでしか)

(衣服に血がついていたようなことは――)

 だが、警官はそれきり何も言わなかったし、車は特にふきを尋問するためにどこかへ連れて行くようなこともなく、山入の実家についた。警官が車を降り、世話役に支えられたふきが同じく車を降りて途方に暮れていると、目つきの鋭い男が二人やってきた。今度こそ訊かれるのだ、とふきは覚悟を決めた。なのに、兄の家族について訊かれて、かえって驚いてしまった。

「あの、家族ですか……?」

「秀正さんと三重子さんにお子さんは? 連絡先は分かりますか」

「ええ……二人おります。どちらも遠方に出てますけど。連絡先なら家に帰れば……」

 刑事らしいその男たちが頷いてメモを取る。他にも様々なことを質問されたが、別段、血糊の話は出なかった。安堵のあまりしゃがみ込みそうだった。茶の間と座敷に連れて行かれ、なくなっているものはないかと訊かれたが、やはり血糊の話は出なかった。三重子と対面したが、誰も秀正を訪ねて山入から戻ってきた秀司の服に血がついていたことは持ち出さなかった。

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 静信は樅の木陰から陽射しに炙られる集落を見上げた。

 蝉の声が響いて山の斜面に谺していた。村迫家の家の付近の路上にはツートーン?カラーの車があちこちに止まっている。まるでテレビか映画だ、と静信は思った。それらのものや捜査員の姿は、恐ろしく現実感を欠いていた。

 真っ先に駆けつけてきたのは駐在の高見で、高見に事情を説明し、あちこちの惨状を示している間に県警が到着した。静信は彼らを相手に再度、前後の事情を説明し、自分が辿った順路を実際に示しながら経過を説明させられたが、それが終わるともうすることがなかった。見慣れない――異質な人々で溢れかえった場所が気詰まりで、特に宛があったわけでもないが、山入の道を歩いた。ひょっとしたら、これでもう本当に最後なのだと、そういう気があったのかもしれない。

 村迫家付近の廃屋にも、軒下や家の中を覗き込む捜査員の姿があった。それで山入の入口までとぼとぼと道を下り、三叉路の脇に坐って集落の死に様を見ていた。山入は死んだのだ、という認識と、いま目の前にある喧噪の落差が、今日の朝、目の当たりにしたばかりの秀司の弔いに酷似していた。――まさしく、これはひとつの集落の、弔いの風景だった。

 村から上がってきた村道は、ちょうど今、静信が腰を下ろしている場所から左に折れて山入の集落に入る。その右手にはかなりの広さの空き地があって、空き地の奥から右に向けてさらに北へと林道が延びていた。ぎりぎりトラックの車幅ぶんの山道だったが、左右に二筋、土の色に|轍《わだち》跡が続いて林道がまだかろうじて生きていることを示している。

 くっきりと残った轍跡の、炎天に白茶けた土と夏草の対比が、いかにも夏の色だった。空き地の隅には湧き水があるのだろう、小さな祠の前、縦横に残された轍跡がぬかるんでいて、そこに色鮮やかな蝶が水を求めて集まっていた。かろうじて囲いと屋根があるだけの祠には石柱と地蔵尊が納められていたが、それらは倒れ、折れた地蔵の首がぬかるみの側に転がっていた。赤い前垂れは昨年の(そしておそらくは三重子の手による)ものなのだろう。寂しげな色に退色している。傷口をさらした地蔵の首に、ガラスのような羽をきらめかせて、|蜻蛉《とんぼ》が留まった。

 死に絶えた集落と、生者の喧噪、蝉の声と鳥の声、鮮やかな夏の色とその生気、そこに入り混じった荒廃と死。山入はいま、どこもかしこもそんな断裂に埋めつくされているように思われた。

 何となく見るに堪えなくて、息を吐いて腰を上げる。陽射しと照り返しに炙られながら坂を登り、所在なく今度は義五郎の家に向かって道を歩いた。――我ながら、度を失っている、と思う。

 大川家の地所の下にある石段に腰を下ろすと、村迫の家が真向かいで、村迫家の下に止まったパトカーと、その側に立ったふきが二人ほどの捜査員と話をしているのが目に入った。

「――よう」

 背後から声をかけられ、振り返ると敏夫が地所から石段を下りてくるところだった。村迫家のほうを見やって眩しげに目を細め、石段に枝を差しかけている|無花果《いちじく》の影に入って煙草に火を点ける。

「とんだ災難だったな」

 敏夫に言われて、静信は思わず口元を押さえる。義五郎の家から、真っ先に敏夫に連絡をした。その指示に従って義五郎を捜したものの、老人の有様は思わず敏夫を恨みたくなるような状態だった。

「ふきさんの姿が見えた。……大丈夫なのか」

「何が」

「遺体の……確認だろう?」

 言いさして、喉の奥が鳴る。あいにく、もう吐くものは残っていない。

 敏夫は肩を竦めた。

「それは、おれがやっておいた。村迫の婆さんはともかく、二人の爺さんはとてもじゃないがご老体には見せられよ。ありゃあ歯形でも照合しないと身元の判別つかんだろう」

 静信は頷いた。

「この陽気だからな」敏夫は言って、眩しく晴れ上がった空を見上げる。「死んで何日なのか知らないが、この猛暑の中を放置されてたんだ。まあ、大した見物だったさ。おかげでまだ鼻が利かん」

 静信はこれにも頷いた。部屋の戸口から覗き込んだだけでも、同様の有様だ。検屍に立ち会った敏夫は静信の比ではないだろう。

「どうして……あんな」

「死因を訊くなよ。連中が持って行って解剖するだろ」言って敏夫は煙草を|啣《くわ》えたまま苦笑する。「もっとも、あれだけ欠損があったんじゃ、本当に分かるかな」

「欠損」

 静信が訊くと、敏夫は素っ気なく言う。

「部品を数えてみたんだが、数が足りん」

 脳裏に甦ったのは、部屋に散乱した義五郎の残骸だった。寝室は村迫家の台所のような有様で、一瞬、静信は、それもまた動物の死骸だと思った。

「それは……」

「野犬狩りをしてとっ捕まえた犬を解剖したところで、とっくに消火されてるだろうな」

「じゃあ、義五郎さんをあんなふうにしたのは」

「野犬だろう。少なくとも刃物で切断したわけじゃない。村迫の婆さんには、外傷がなかった。おそらく自然死だろうって話だ」

 よかった、と静信は思わず呟いた。敏夫が静信を振り返る。

「よかった? 事件じゃなくて?」

「ああ、まあ。……不謹慎だったな。悪い」

「おれにそれを言うかね。少しも良かあないさ」

「自然死なんだろう? 少なくとも三重子さんは」

 だからさ、と言って敏夫は煙草を投げ捨てる。

「爺さん二人のほうは、死後何日かが経ってる。少なくとも昨日今日死んだって話じゃない。三重子婆さんのほうは、おそらく昨日かそのあたりだ」

 それが、と言いかけて静信は口を噤んだ。

「昨日……?」

「そう」と敏夫は皮肉げに笑う。「面白いだろう。三重子婆さんは、ここ何日か、死人と暮らしてたことになるんだ」

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四章

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 彼は朝露の流れるアスファルトを見つめていた。

 しんと冷えた国道は、西から村に接近し、大きく迂曲して村に入る。渓流を跨いだ橋を越えて南へと向かい、自動車道の高架下をくぐって村を出て行く。

 彼は夜、唐突に焦ることがあった。何かに急き立てられるような気がする夜、眠れないままラジオの音に耳を澄ませば、いっそう電波に追い立てられるような気がする。寝床の中で反転して過ごし、明け方たまりかねて家を出る。そういったときには、散歩気分で歩いていることなどとてもできなくて、自然、歩調は小走りになり、引かれるようにして国道へと出た。

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