訳もない苛立ち、何に対してか自分でも分からない焦燥感。国道は冷えて横たわり、無言で南に延びる。彼はその行く末を思う。山野を貫き、町を集落を置き去りにし、都市へと向かうその道。この小さな山村の、彼の足下に横たわるアスファルトが、賑やかな町に通じているのだと、知識としては了解していたものの、それは周囲の大人が語る彼の「未来」のようにひどく現実感を欠いている。
今日がひとつ過ぎて、明日が降り積もる。明日の堆積がおよそ大人たちの言う「未来」とは何の関係もなく思えるように、この道は無限に向かって吸い込まれていくように思えた。本当に、この道を歩いていけば都市に出るのだろうか。想像してみても、朝露に呑み込まれて消えていく自分の後ろ姿だけが見える。
時折、静寂を震わせてトラックが駆け抜け、彼を置いて南へと去るのを、どこか自重するような気分で見送る。いたたまれない朝。じりじりと身の置き所のない気分で、それでもその場を立ち去り難くて、東の山の端から陽が昇るのを無為に待った。やがて他にすることもなくて|蜩《ひぐらし》の物憂い声に踏ん切りをつけ、いつものように後ろ髪を引かれる思いで踵を返すと、背後に連なる西の山には強い朝日が鮮やかな陰影をつけている。
眩しくて俯き、家へと引き返す。ほんの少し、打ちのめされたような気分がして、同時に安堵もする、自分の不可思議。
今朝もまた、心中の割り切れないものを見つめながら、田圃の中の道を引き返した。彼が国道にいるわずかの間に、村は目覚めようとしている。日曜であっても村の朝が早いことには変わりがなかった。狭い道路脇に並ぶ家々の窓は開き、そこここで人の気配がしていた。朝露は霧散し、東の山の影はかき消え、北を目指して歩く横顔には強い朝日が当たる。――今日も暑くなるのだろう。
眩しくて目を細め、掌をかざした彼の足下に、茶色の毛玉が飛び込んできた。同時に歯切れの良い声がする。
「たろ!」
声の下方向を振り返ると、引き綱を握った女が駆けつけてくるところだった。彼の足にじゃれかかる柴犬には首輪がついてない。それもそのはず、彼女が握った引き綱の元にそれは輪を作ったままぶら下がっていた。
「ごめんなさい。――太郎、おいで」
律子は慌てて駆けつけ、ちぎれるようにしっぽを振ってじゃれかかる犬を捕まえた。ようやく子犬とは呼べないほどの大きさになった柴犬は、興奮しているのか、元気が有り余っているのか、取り押さえて改めて首輪をしようとしても、少しも腕の中に収まっていない。じゃれかかられた当の相手が手を貸してくれて、それでようやく首輪に繋ぐことができた。
「首輪を大きいのに変えたばかりなんで、緩いのかしら。すぐに抜けちゃうの。ごめんね、ありがとう。――夏野くん、だっけ?」
律子が言うと、彼は眉を顰める。ふいと顔を逸らして無言で小さく会釈する様子がいかにも不快そうだった。自分を覚えていないのだろうか、と律子は思う。病院で何度か会ったことがある。とはいえ、相手にとって自分は看護婦の一人にしか過ぎず、一人一人の識別などついていないのかもしれない。
「ジョギング? 足はもういいの?」
そう重ねて訊いたのは、相手がTシャツにジャージ姿だったせい、このまま会釈して別れるのが何となくきまりが悪かったせいだ。
確かずいぶん前に脛骨結節を腫らして来ていた患者だったと思う。成長期の少年にはよくある病気だ。伸び盛りの時期を過ぎれば自然に治まるし、実際、彼の場合も何度か痛み止めを処方されただけでその後は来なくなったから、痛まなくなったのだろう。
「……足はもういいです。なんか、膝の下に出っ張りができたけど」
「軟骨が固まったんだ。じゃあ、もう痛まないね」
律子が言うと、夏野は仏頂面で頷く。とりつく島がないように思われて、じゃあ、と声をかけようとしたときに、当の夏野のほうから話しかけてきた。
「あの、看護婦さん」
「うん?」
「出っ張りの骨ができたら、もう背ぇ伸びないって聞いたんですけど、本当ですか」
重大なことのように訊くのが微笑ましかった。先を急ぎたがる太郎に引きずられて二、三歩歩くと、答えを待つようにして夏野もついてくる。
「そうねえ……そう決まったものでもないけど」
犬の太郎に引かれるまま歩けば、特に行く宛もないのか夏野も脇に並ぶ。
「そうね。軟骨が骨化したってことで、成長期は過ぎた、っていう証拠ではあるんだけど。でも、もう中学生の頃みたいにずんずん伸びる時期は過ぎたってことだけで、完全に伸びるのが止まったってことじゃないから」
そうか、複雑そうに言うのがおかしい。同時に少し安堵した。
病院であったのは二、三度のことだったが、律子はそれ以外にも早朝の散歩道で何度か夏野を見かけたことがあった。夏野は国道を見つめていた。自動車道のほうを望んで佇む少年の姿は、まるで南にあこがれているようで、いまにも村を歩み去ってしまいそうに見えた。声をかけて引き留めなければという思いに駆られたが、同時に声をかければ、それが彼の背中を南に向けて押し出してしまいそうで、できなかった。――そんなイメージが強かったから、彼がごく普通の少年のように身長が伸びるか伸びないか、そういう些末なことを気にしているのだと分かると、なぜだかほっとする。
「夏野くんは今年、高校に入ったんだっけ」
「はい。……それ、やめてください」
少年の声はぶっきらぼうで不快な調子が露わだ。
「ん?」
「下の名前で呼ぶの」
ああ、と律子は頷いた。姓は結城と言ったか、小出と言ったか。父親の姓は結城で母親の姓は小出だ。夫婦は入籍していなくて、彼は母親の籍に入っている。だから保険証の姓は小出になっていたと思う。病院では夏野、と下の名前で通っていた。姓が二つあってどちらで呼べばいいのか誰もが困った姓もあるだろうし、父親の結城と親交のある事務の武藤が、そう呼んでいたからかもしれない。
「嫌いなんだ? 名前」
夏野は仏頂面で頷く。
「いい名前だと思うけどな。清々しくて。お母さんがつけたんでしょ」
「親父。なんか、貴族の名前らしいけど」
「そうか。お父さん、ロマンチストなんだ」
夏野は顔を顰めた。
「でなきゃ、越してこないよ、こんなとこ」
「なんにもない単なる田舎だもんねえ」
律子が笑うと、夏野は恥じ入ったように俯く。
「べつに……そういう意味じゃないけど」
「そういう意味でも構わないじゃない。本当のことだもの」
――典型的な田舎、って感じだよな。
そう、言われた。その通りだ。
――余命いくばくもない、って感じ。若い者がいるところじゃないだろ。
(その通りだわ)
律子は村を見渡した。V字型に開いた尾根は刃を開いた巨大な鋏のように見えることがある。いつかじりじりと閉じて、家も人も押しつぶしてしまいそうだ。
「そうね……本当に単なる田舎町。ずっと都会で暮らしていたお父さんたちにしたら、物珍しくて良く思えるのかもしれないけど……」
「看護婦さんって、足りないんでしょ、今」
「うん? まあね」
「だったら、どこでも就職には困らないじゃないですか。ここ出て都会に行こうとか、思わないの」
「そうねえ……」
早起きの老人たちが律子らを認めて声をかけてきた。庭に水を撒く者、道路を掃除する者、すれ違う子供たちは明るい声を上げながら道を急いでいる。日曜はラジオ体操も休みだから、これから遊びに行くのだろう。
「ここで生まれちゃったからなあ」
おはよう、と背後から自転車で追い抜いていったのは、外場に住む広沢麻由美だった。彼女は律子たち手を振り、子供たちの後を追うようにして北へと走っていく。これから仕事なのに違いない。
広沢麻由美は下外場の大川家から広沢家――通称、小広――に嫁いだ。以前は溝辺町の信用金庫に勤めていてたが、結婚してからは、商店街の一番上にあるスーパー「たも」でレジ係をしている。三世代の同居、子供はまだいない。――律子はそんなふうに、村のいろんなことを熟知していた。
季節季節に恒例の行事、その行事で誰が何をするのか、どこの家は誰のものか、その姻戚関係はどうなっているのか。特に興味を持ってはいなくても、自然に耳に入るし、覚えるともなく覚えた。最近では仕事がそれに拍車をかける。村で唯一の病院で看護婦をしていれば、本当に細かいことまで分かってしまうし、気安さも増す。道を歩いていれば、ひっきりなしに声をかけられた。
「やっぱり、縁ってものがあるし……」
律子は穏和しく脇をついてくる夏野を振り返る。
「知り合いとか、親しい人とか、そういう人間関係みたいなものがあるから、田舎だとか都会だとかで住む場所を決める気になれないんじゃないかな」
「彼氏がいたり?」
茶目っ気を含ませた夏野の問いに、律子は軽く相手をねめつける。
「そういうことじゃないの」
「不便なとこなのになあ」
「ここより便利なところを知らないから、不便だと思わないのよ」
笑いながら、彼は村を出たいのかもしれない、と律子は思う。夏野が外場に越してきたのは中学のとき、都会で育った彼が住み慣れた場所に戻りたいと願うのは、むしろ当然のことかもしれなかった。
「わかんないな。住めば都ってやつ? 取り柄っていうと、自慢にもならないようなもんだけなのに。樅とか、外場とか」
そうね、と律子は頷いた。
――何か、縁起悪いよな。薄気味悪いだろ。
外場の村と言えば、それは実際、不吉な響きを持って聞こえるのだろう。外の学校に通う子供は、誰もがそれで一度は|揶揄《からか》われたものだ。だが、その木工所も減った。一時は外場だけでは立ちゆかずに棺なども作っていたが、今では老人が手作業で卒塔婆を作っているだけだ。その数ももう多くない。木工が寂れたあとはお定まりの農業と林業、それも専業の家は徐々に数が減って、大半が兼業だ。
律子の家もそんな典型的な外場の家庭で、寡婦の母親が狭い田を耕し、律子と妹が働いて家計を助けている。――いや、正確に言うなら、今や家計は律子が支えていた。母親の作る田畑からの収穫は、一家の食い|扶持《ぶち》ぶんだけ、足りないぶんは妹が収入を入れて補ってくれる。
律子は訳もなく息を落とし、目を西の山に向けた。樅に覆われた斜面、麓に小さく開かれた棚田。樅林の間にきらりと光ったのは、兼正の屋敷の雨樋か何かだ。
「……あの家、けっきょく越してこなかったわね」
律子が呟くと、夏野が怪訝そうに振り返った。
「あの家?」|鸚鵡《おうむ》返しに呟いて律子の視線を追い、ああ、と声を上げる。「――兼正の家」
その建物に何らかの触発を受けたのか、母親が最近、家を建て直したいとしきりに言う。律子の家は古い農家だ。無駄な部屋も多いし、設備も古くて不便でならない。建て直すのは歓迎するところだが、実際に改築するとしたら、それは律子がすることになってしまう。
(分かってるはずなのに)
早くに父親を亡くし、手に余る山林は放置したまま、もともと広くもなかった田畑でさえ耕作が追いつかない。蓄えと呼べるほどの蓄えも、一家にはない。母親がそれを分かっていないはずはなかった。――母親は律子に家をねだっているのだ。
――あんな辛気くさい村、出たら清々するだろ。
だから結婚しよう、と言われた。嫌いな相手ではないし、結婚したくないわけではない。自分でもこのチャンスを逃せば、もう結婚なんてできないのじゃないかと思う。
(でも……)
踏ん切りがつかないのはなぜだろう。母親は律子が村に残り、家を建て替えて先々まで面倒を見てくれることを望んでいる。ひょっとしたら自分もそれを望んでいるのかもしれなかった。ただ、母親のあからさまな期待は心に重い。それを思うと逃げ出したくなるが、自分が逃げ出せば今度は妹が縛り付けられる。それを思うと同じく心に重かった。あんな村、と悪し様に言う相手と逃げ出すことになるのならば、なおのこと。
「そう言えば、親父が引越のトラックを見たとか言ってたな。虫送りの日に」
「そっか。結城くんのお父さんも、ユゲ衆をやったんだよね」
うん、と夏野は頷く。
「虫送りの夜に、ベットを焚いてて、引っ越し屋のトラックを見たって言ってたけど。でも、引き返したんでしょ。道を間違えたんじゃないのかな」
うん、と律子は頷いた。太郎に引かれるまま、いつの間にか川端の道を国道へと出ている。ひょっとしたら夏野はこの国道から戻ってきたのじゃなかったかと思ったけれども、それには触れてはいけないような気がして、律子はあえて問わなかった。西から延びてきた国道はここで川端の道と交わり、大きくカーブを描いてさらに南へ延びていく。村の南限へと向かって。
「結城くん、喉、乾かない?」
「おれ、財布持ってこなかった」
「奢ってあげるわよ。妹と散歩に来ても、いつも奢らされちゃうの」
律子は笑って、ちょうど曲がり角にある「ちぐさ」の駐車場にある自販機に歩み寄る。「ちぐさ」とありがちな名前がついたドライブインは、矢野加奈美が女手一つで切り盛りしている。加奈美がいくつで、どういう人物か――そういうことまで律子は把握していた。加奈美とは十も歳が違い、加奈美自身はほとんど病院の厄介にならないにもかかわらず。
ドライブインの駐車場、道路に面した自販機に硬貨を落とし込み、律子は冷えた缶を取り出した。夏野のために硬貨を放り込んで、缶を開けながら村をかすめ去っていく国道を見渡した。国道の向こう側、ほど近いところにバス停が見える。誰もいないバス停は、置き去りにされているように見えた。
進歩が、崩壊が――変化が、村の外ではひっきりなしに続いている。村だけが外界から取り残され、外の世界との距離が増していく。律子にはそんなふうに思えた。遠く離れた外界、置き去りにされた村。その村も、確固としてそこにあり続けるわけではない。若者は出ていく。老人は死んでいく。徐々に小さく頼りない存在になりながら、寂しく置き去りにされている。
「村迫のお婆ちゃん……なくなったわね」
「村迫――山入の? 昨日、山入の三人の死体が見つかったって聞いたけど」
夏野がリングプルを引きながら訊く。
「うん。でも、ついこの間、病院であったの。大川のお爺ちゃんの薬を取りに来て。とても元気そうで、なのにもう、みんないないなんて不思議ね」
昔――まだ村を挙げて|卒塔婆《そとば》を作っていた頃、村人は山入から樅を切り出し、川沿いの道を馬に引かせて門前に下ろした。門前で材木の形に加工された樅は、卒塔婆でさらに加工されて卒塔婆になる。律子が子供の頃には、村のあちこちに木工所がたくさんあった。その木工所がひとつずつ姿を消し、山入に入るものも減った。わずかに残った三人の老人が死んで、山入という集落は消滅した。そんなふうに、外場もやがて消えていくのだろうか、と思う。人が減り、バス停も取り除かれ、数人の住人だけが暮らすようになって、ある日、誰かが訪れてみると、全員が死んでいる。――外場の終わり。そんな日が来るのだろうか。
看護婦さん、と夏野が声を上げた。
「山入の三人、殺されたって本当?」
律子は物思いから冷めて瞬いた。
「やだ。殺されたって話になってるの?」
「おれはそう聞いたけど」
「先生は病死だって言っていたわ。検屍っていうの? 死体の検案に立ち会ってきたの。病気か何かで、別に事件じゃないって」
「なんだ」夏野は苦笑した。「だろうと思ったんだ」
「だろうと思った?」
夏野は肩を竦める。
「変質者が入り込んだ、なんて言ってる奴もいるらしいけど。でも、そんなはずないと思ったんだ。だって、こんな田舎のさらに奥に人が住んでるなんて思わないよな、普通」
律子は瞬いた。
「そうかしら」
「林道の先にまだ人が住んでるところがあるって聞いたとき、嘘だろって思ったもんな。信じらんないよ。この村でさえ、電車もないところによく住むよな、とか思ってたけど、山入ってバスですら通ってないんだもん」
「そっか……そうねえ。わたしたちは山入のこと知ってるけど、外の人はそう思うかもなあ」
「村に関係のない奴がさ、むしゃくしゃして村に入り込んでくること自体、妙だし、入ってきたって村道を上まで走っていったら、この道は行き止まりかなと思うんじゃないかな。まさか人家が途切れたさらに先に、人が住んでるなんて思わないだろうし」
「それは……そうかも」
「だとしたら、犯人って村の人間だとしか思えないじゃない。でも、そういう危ない奴がいりゃ、みんな知ってるだろ。こういう所なんだしさ」
「そうねえ」
「お互いに監視し合って、ひとつに纏まってるようなところだもんな」
ひとりごちるような夏野の声に、軽く苦笑して律子は視線を落とす。
そう――そう見えるのかもしれない。外部の人間にしたら。
(辛気くさい村)
出たら清々するだろ、だから結婚しよう。
(……けれども)
よく知った人々、幼い頃からあまりにも馴染んだ小さな村。この村を出て、誰一人知らない町に移る。その寂しさを理解してくれない人を頼りにして。――律子には、とてもできそうもない。
目を上げると、夏野は缶を握ったまま南を見ている。おそらくは、律子もそうなる。外場を懐かしんで夜明け前の国道に立つ、そういう人生を選びたくはなかった。
「最近、外場を作る家が減ったなあ。……あの匂い、好きなのに」
夏野は振り返って瞬いた。
「匂い、って、樅の?」
律子は頷く。
「樅の匂いって好きなのよ。どういうわけか厳粛な気分にならない?」
「卒塔婆を作ってる匂いだと思うからじゃないの」
「たぶんね。……そう、死んだ人のことを懐かしく思い出してる気分の匂い」言って律子は、どこか晴れ晴れとした気分で空を仰いだ。「――よし、新しい家は樅材を使おう」
「新しい家?」
夏野は困惑したように律子を見上げてきたし、太郎もきょとんと顔を上げた。
「うん。改築するの。今の家って、もう古いから」
律子は笑って太郎を振り返る。
「太郎、帰ろう。――あたんも新しい小屋が欲しい?」
「すげえ」
茶の間で小声を上げた息子を、田中佐知子は台所から振り返った。
台所は四畳半の茶の間に面して一段下がっている。かろうじて床は板張りになっていたが、かつての土間の名残だ。勝手口の|三和土《たたき》は広く、隅には洗濯機が据えられている。以前はそこに風呂の焚き口があった。洗濯機の隣に見えるのは風呂場に通じるドアで、これらは全て古い造作の名残だった。佐知子の家は古い農家の作りを、そのまま残している。改築したいとずっと思っているが、夫の両親がともに長患いをしたせいで、それほどの余裕がなかった。
「ねえ、山入、載ってるよ」
息子は茶の間から佐知子のほうに身を乗り出し、新聞を示している。へえ、と佐知子は洗い物をする手を止めて、茶の間に段差に腰を下ろした。
「昨日のパトカーはこれだったんだ」
「へえ……」
佐知子は小さな――ほとんど埋め草レベルの――記事に目を通し、昨日の騒動の原因を知る。山入で人が死んだらしい、という噂は昨日のうちに耳に届いてはいたが、さすがに詳細は分からなかった。
「あら、別に事件ってわけじゃないのね」
「まだ分かんないよ」
息子の昭は、何かを期待する口調で言う。そうね、と答えた佐知子の口調にも同様の色調が滲んだ。
「どうしたの」
茶の間に姿を現した娘が首を傾げた。昭は嬉しそうに新聞を示す。
「かおり、山入が載ってるぞ」
「お姉ちゃん、でしょ」佐知子は言って、新聞を畳んだ。「かおり、出かけるの?」
「うん。ラブを水浴びに連れて行こうと思って」
「それより、山入に行こうぜ」昭が腰を浮かせた。「おれ、長いこと山入に行ってないんだよな」
「よしなさい」
佐知子は息子をねめつける。中学に入ったばかりの昭は、まだ少しも落ち着いたふうがない。子供じみたことばかり言う。
「人が三人も死んだばっかりなのに、縁起でもない。鬼に引かれるわよ」
「馬鹿みてえ。――な、かおり、行こうぜ」
佐知子は昭を軽く小突く。
「そんな暇があったら、宿題しなさい。あんた、まだ手つかずでしょ。――かおり、足許に気をつけなさいよ。水が減って河原が滑るから」
「うん」
「犬に水浴びをさせるのはいいけど、その辺を転げまわらせないでね。水を浴びると前より汚れて帰ってくるんだから」
静信は炙るような陽射しを受けながら、上外場の集落に向かう。後藤田秀司の葬儀は予定通りに行われる。喪主のふきは山入で死んだ村迫秀正の妹だが、後藤田家に嫁いで家を出ている。村迫の不祝儀はあくまでも村迫家のもの、後藤田家とは別物だし、何しろ夏場なので秀司も埋葬を急ぐ。村迫夫妻の遺体は解剖に持っていかれ、戻ってくるのもいつになるか分からない。それでとりあえず予定通りの埋葬になったのだが、弔問客の興味は秀司ではなく、山入のほうに集中していた。
「いくら歳とはいえ、三人、いっぺんになんてねえ」
「溝辺町の辺りから頭のおかしい若いのでも入り込んできたんじゃないの。物騒な世の中になったもんだわ」
「本当にねえ。あたしなんて、生まれてから一度も戸締まりなんてしたこと、なかったけど。もうそんな時代じゃないってことなのかしらねえ」
「ほら、ちょっと前にも余所者が子供を轢いていったっていう話じゃない」
静信は別室に控えていたが、夏場のことなので襖も障子も取り払ってある。集まった人々の会話は筒抜けだった。
なにしろ状況が状況だったので、憶測が乱れ飛んでいる。村人のほとんどは、それを事件だと思っているようだった。物盗り、あるいは異常者の犯行。ならばきっと村の者ではなく、外部からやってきた何者かが犯人に違いない。――それが村の「常識」というものだった。
山犬に襲われたのではないか、というやや穏当な説は、今も山に入って林業に携わっている老人の間で盛んだった。
「このところ、本当に増えたからな。溝辺町の端に新しく住宅地ができたろう。あそこの連中が山に犬を捨てるんだよ」
「家に戻ってこないよう、わざわざこの辺りまで車に乗せて捨てに来るんだからなあ。それも、子犬や年寄り犬ってわけじゃないんだ。要は飼うのに飽きたとか言って、持て余して捨てに来るんだよ」
「猪田の|元三郎《もとさぶろう》さんだったか、春先に酷い目にあったんだろう。山入でさ」
「そうそう。あの人の山は山入の東の方だからね。そこで山犬に襲われて、酷い案配だったんだよ。襲った犬ってのがさ、なんとかいう立派な洋犬だったって言うからね。店で飼ってくるような毛の長い大きなやつだよ。犬にも流行り廃りがあってさ、都会から越してきた連中は流行らなくなると捨てるんだ」
静信は喧噪の中に漏れ聞こえる人々の声に、じっと耳を傾けていた。野犬のせいだといいながら、その野犬を作った原因は、やはり村の中ではなく外にあるのだった。中年の女たちは心中じゃないのか、と囁き合っている。山奥の寂しい暮らし、頼るべき縁者はいない。山の中に取り残され、病と老いに蝕まれ、それで耐えかねて自殺した、あるいは村迫三重子が進退窮まって無理心中をしかけたのではないか、という説もあった。そしてこれだって行政の不備、福祉の不備が原因であり、あるいは村を出てしまった子供たちの酷い仕打ちのせいであって、村の内部に原因があるわけではないのだった。
村は外界から隔絶されている。村自身が外界を拒絶している、と言っても良かった。そうやって様々な角度から「外界から侵入してきた死」というものをあげつらい、不思議なことに、方々で静信や敏夫が言明しているにもかかわらず、事件でも事故でもない、自然死だという意見は最初から存在しないかのようにおくびにも上がらない。
そう――「それ」は常に村の外からやってくるのだ。実際にやっくるのは、溝辺町からでも近隣の集落からでも、もっと遠い――バイパスの彼方にある都市からでもない。それは村の外部、村を取り巻く樅の中からやってくるのだった。樅の林は村の外部であって内部ではない。「それ」は樅の中、村の外からやってきて村人を捕らえていく。村は境界線の外にある混沌とした生死の境の向こうへと、村人を引いていくのだ。
(……屍鬼だ)
大川富雄は酒屋の片隅にあるカウンターで酒を飲んでいる連中に憤然と語った。
「突然、電話があって伯父貴が死んだって言うだろう。あわてて駆けつけたら、見られた状態じゃねえ。確かに伯父貴かと訊かれたけどよ、訊かれたって分かるはずがねえだろう。何しろ腐った上にバラバラになってるんでだから」
カウンターの酒灼けした老人たちは、いっせいに顔を顰めた。
「暑くて腐ってただけじゃねえ。|蛆《うじ》がびっしり集っててさ、ぱっと爺さんの顔を見たら、骨になってるのかと思ったぐらいだ。そのわりにゃあ、なんだか動いてるなと思ったら、それが顔中に集った蛆さ」
大いに誇張してまくしたて、その場にいた者たちに悪夢の種を植え付けた。
「おまけに、あちこちの廃屋やら伯父貴の家から、兎や犬のずたずたになったのが見つかったらしくてよ。あっちもこっちも血の海さ。ありゃあ、きっとどっかから気の違った奴でも紛れ込んできたんだぜ。義五郎のおやっさんと村迫の夫婦を殺して、ずらかったに違いない。警察の連中は野犬だろうなんて言ってたが、あてになるもんか」
大川篤は、階段を伝い昇ってくる父親のダミ声を聞きながら、複雑な気分を抱えていた。畳の上に据えたベッドに体を投げ出し、天井を睨みつける。
(誰かが山入を)死人と引き裂かれた動物、血染めの家。(……襲った)
篤は天井に、なんとかその惨状を思い描いてみようとした。血、臓腑、死体。背筋がちりちりし、同時に何か血が沸くものがある。殺人者、凶器、暴力。死体と血。腹の底に何かが溜まり、むずむずと揺れている気がした。なぜかしら、居ても立ってもいられない感じ。
「くそ……なんか、ぱーっとしたことがねえかな……」
無人になった山入を滅茶苦茶に破壊してやったら、この得体の知れない気分も吹き飛ぶかもしれない。けれども、と篤は思う。同じことを思って兼正に忍び込んでいながら、いざという段になって篤は怖じ気づき、逃げ出してきた。それを思い出すと腹の底から苦いものが迫り上がってくる。また、あんな無様な真似をする羽目になったら。
父親のダミ声が一瞬途切れ、続いて怒鳴り声が二階へと飛んできた。
「おい、篤、配達だ」
村の至るところで人が移動していた。人々は耳から情報を注ぎ込まれると、それが零れ出ないように小走りに歩き、辿り着いた先で内圧でもって弾けるようにして口から吐き出した。にもかかわらず、駐在の高見が足を止めて何かを訪ねようとすると、ぴたりと口を閉ざしてしまう。積極的に口を開いたのは、加藤裕介がただひとりだった。
「山入でいっぱい人が死んだんでしょ。誰がやったか知ってるよ」
子供の声に高見が身を乗り出すと、裕介はきっぱりと西の山を示した。
「あの家だよ。あそこに鬼がいっぱいいて、そいつらがやったんだよ」
祖母のゆきえは、あわてて孫の口を押さえた。
「そういうことを言うんじゃないの。――済みませんね。物珍しい家が建ったものだから、すつかりお化け屋敷だと思いこんでるんですよ」
違うよ、と裕介は身を捩ったが、祖母は手を放してくれなかった。どうして信じてくれないのだろう、裕介にはこんなに明らかなことなのに。
「本当だよ……」
裕介は小声で言い添えたが、大人たちは聞いてなどいないようだった。本当、ともう一度小さく繰り返して、裕介は口を閉じた。
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「あら、若先生」
駐車場の傍らから声をかけられて敏夫が振り返ると、三人ほどの女が立ち話をしていた。陽射しを避けるように、門の脇の木陰に入ってハンカチで顔を扇ぎながら噂話に花を咲かせていたらしい。ご苦労なことだ、と思いながら、敏夫はそそくさと車に歩み寄った。どうせ連中の話題など決まっている。
山からは鐘の音がしていた。埋葬式で鳴らす鐘の音だった。立ち話をする女たちを避けて車の中に逃げ込んだものの、シートが灼けていて敏夫を心から辟易させた。
山入の騒動は、村の連中をすっかり舞い上がらせている。あちこちで寄り集まっては、推測を逞しくしているようだった。敏夫が検屍に立ち会ったことをどこからか聞きつけたようで、おかげで今日は休診日だというのに、急患がやたらに多かった。当たり前の顔をして診察を求める患者が引きも切らず、おまけに往診の求めも多い。そこで何を聞くかと言えば、本人の容態の話ではなく、山入の事件に関する論評なのだった。無駄話をしたがる患者の言葉を、断ち切るように塞いでこなしてていっても、患者の切れ間がない。正直言ってうんざりしている。
その記憶と、車の中に籠もった熱気に辟易しながら、敏夫は水口へと向かった。村道を下った南のほうでは、渓流の対岸に細長く集落が延びている。橋を渡ったそこが水口だった。
水口のいちばん下、狭い田圃と林とも呼べないほどの竹の茂みを隔ててぽつんと一軒建っている|荒ら家《あばらや》、伊藤郁美の家だった。荒ら家という言い方は決して不当ではないはずだ。古い建物は歳月に洗われ、一見して廃屋かと思うほど荒んでいる。瓦の割れた屋根は歪んで傾いているし、雨の漏る箇所に載せたトタン板は錆びて穴が開いている。果たしてきちんと開くのか、昔ながらの木枠の窓に入ったガラスは、ガラスとしての用をなさないほどに汚れていた。玄関のガラス戸は傾いて開いたまま、その上方に下がった古風な電灯は笠が割れ、電球が黒ずんだままになっている。
「こんにちは」
敏夫はガラス戸の中に踏み込み、声をかけた。中は薄暗い土間で、熱気が籠もった中にむせかえるほど強く安い線香の匂いが漂っている。玄関の正面には、えぐれた土間が真っ直ぐに裏まで続いていて、その奥から顔を出したのは、郁美の娘、|玉恵《たまえ》だった。歳は敏夫よりも三つほど上のはずだが、疲れ果てたような顔は、すでに一まわりも年上であるかのように老け込んでいる。
わざわざどうも、と往診の礼を言った玉恵の目は、どこかしら虚ろだった。でっぷりと太り、無気力を絵に描いたような玉恵の様子は、敏夫の記憶にある限り昔からのものだ。玉恵が頭を上げると同時に、奥の方から声が響いた。
「若先生ですか? どうぞ」
敏夫は玉恵に会釈をして、土間を奥に向かう。台所の手前にある部屋の、土間に面したガラス戸が開いており、穴蔵のような六畳の隅に薄い布団が敷いてあった。その上には女が坐っている。これが玉恵の母親、郁美だった。
「どうぞ、上がってくださいな」
伊藤郁美は、娘とは逆に瘠せた顔に満面の笑みを浮かべた。敏夫は内心の溜息を隠して六畳に上がる。身を縮めてかろうじて空いた畳の上に坐った。畳の上のスペースが異様に狭いのは、ぎっしりと家財道具が置かれているからだ。部屋の半分を占めるのではないかと思われるような、仏壇とも神棚ともつかないもの、その前に据えられた台の上には、火鉢と見まがうようなサイズの香炉が置かれており、そこで焚かれた線香が部屋を燻していた油煙で黒ずんだような、妙な光沢のある棚が二つ置かれていて、そこには意味不明の小物が埃にまみれて並んでいる。
敏夫はそれらのものから目を逸らし、事務的に診察鞄を引き寄せた。
「どうしました」
「昨日から、どうも熱っぽくて」
郁美は言ったが、顔には生気が|漲《みなぎ》っていた。少なくとも今日会った誰よりも健康そうに見える。
「体温は」
敏夫は訊きながら、体温計を渡した。この家には体温計がない、それは重々承知している。郁美は頻繁に往診を依頼するが、座布団を出されたこともなければ、茶の一杯が出たこともない。客用の座布団などというものは、そもそもこの家には存在しないのだと思う。客用の湯飲みがあるかどうかも怪しかった。
郁美はいそいそと体温計を手に取り、脇に挟む。敏夫が脈を取り、血圧を測る間、山入の騒動について語り始めた。パトカーがタケムラの前を通って驚いたこと、山入でとんでもない事件が起こったと聞いて驚いたこと、村迫夫妻の、義五郎老人の人物評、そんなものについてまくし立てた。郁美を無口で暗い女だとする向きもあるが、少なくとも敏夫に対しては洪水のように言葉を吐き出すのが常だった。機械的に聴診器を当てる。
郁美は有名な吝嗇家だ。いまどき、山から薪を切ってきて|竈《かまど》を使い、風呂は近所の湯をもらい湯する。一円の出費でさえ惜しむくせに、頻繁に敏夫を往診に呼ぶ。これには、医者を――あるいは「尾崎」を家に呼びつけるのが、郁美なりの奇妙なこだわりなのだろうという説と、病院に診察を受けに来ると、いらぬ検査をされて検査料がかかると信じているからだろうという説があった。いずれにしても、往診に来て、実際に郁美の具合が悪かったことはない。郁美は村で何事かがあったときに、敏夫を呼びつけるのだし、ごくたまに、本当に具合が悪いときにも治療や投薬は拒んだ。もちろん、保険には入っていない。親子で細々と田圃と畑を作り、あとは他人の善意をあてにして食っている。
敏夫は通り一遍の診察をして、特に異常はない、とだけ答えた。
「そう? 変ねえ、とても怠いんだけど」
郁美は言って、ところで、と身を乗り出す。
「後藤田さんの秀司さんが亡くなったそうじゃない。あれって山入と関係ないのかしら」
「関係?」
「だって、変じゃないですか、立て続けに死人が出るなんて。しかも、秀司さんは、村迫の秀忠さんの甥でしょう? 何かあるんじゃないかしらね。村迫の家も、残っているのは秀正さんだけでしょう。秀正さんと、ふきさんと、二人しか残らなかったけど、もともとは五人兄弟なのよ、あそこは。けども、三人は若いうちに亡くなったの。おまけに三重子さんは、最後の子供を死産してるしねえ」